日はつれなくも秋の風

昼間はまだまだ暑いですが、もうすっかり秋の風を感じるようになりましたね。この時期になると芭蕉の「あかあかと 日はつれなくも 秋の風」という句を想い出します。そしていつも思うのは、やっぱり琵琶は夏が似合わないという事。薩摩琵琶だったら秋から冬、樂琵琶だったら春もいける。しかし夏だけはどうも琵琶の音は響いてこないですね。まあ私のイメージでしかないのですが・・・

琵琶樂人倶楽部にて photo新藤義久

琵琶の音が響き出すのは、秋の風を感じ始めてから、と毎年思います。今年は夏が結構忙しかったのですが、例年ですと8月は月に3・4回程度の演奏会しかなく、毎年夏はゴロゴロ夏休み状態です。9月に入ると気合も元気も上がってくるのか、演奏会もぐっと増えてきて、秋の演奏会シーズンに向かって、調子が戻ってくるのが常です。
先日は琵琶樂人倶楽部にて朗読家の櫛部妙有さんと演奏してきたのですが、樂琵琶の音と、しっとりとした櫛部さんの語り口がいい感じでマッチして、静かな良い会となりました。ここら辺りが秋のスタートですかね。今月も半ば過ぎから、結構忙しくなります。ありがたいことです。
そして今回のこの櫛部妙有さんとのプログラムは、ほぼ同じ形で10月18日埼玉県の入間市にある、武蔵藤沢の武蔵ホール(https://musashihall.art/)にて再演することとなりました。詳細は近々HPのスケジュール欄にUPしますので、是非チェックしてみてください。
マイルス210代の頃はマイルスやコルトレーンを聴いて、「NYに行くぞ」なんて毎日ほざいていました。
音楽を聴いていて、音楽の内容は勿論の事、それ以外に、風景や風、光等、何かが+アルファで想起されると、グンと沁み入って来ますね。得てして優れた音楽と演奏は、演者側はそんなつもりがないのに、リスナーが色んなイメージを掻き立てて聴いている、聴くことが出来る何かを持っているものです。そうすると音楽は確実に記憶に残って行きますし、人の心を捉えるのではないでしょうか。私にとっては10代の頃から狂ったように聴いていた、マイルス、コルトレーン、そしてアルボ・ぺルト、高橋竹山・・ect.こういうものは今聴いても、一瞬でその世界に飛んで行ってしまいます。想像力を掻き立てられると、音楽の染み渡り具合が全然違うんです。逆に「こういうもんだ」と押し付けるような音楽・演奏は、押しつけがましく作為的過ぎて、どうにも想像力が動き出しません。

作曲する方から言うと、私はいつも風や月、空など、自然の風景をイメージし、テーマにしています。私が春になると梅だの桜だのと毎年ブログに書いているのも、そのイメージを追いかけて、自分の中で膨らませているからです。まあ遊んで回っているようにしか見えないと思いますが・・・。特に私の曲は歌詞が無い分、作曲の動機としてのイメージはとても重要なのです。特定の風景や、ストーリーを盛り込む事も多いのですが、そのものを表現するのではなく、イメージを根底にして、ある種抽象化して行くように自由に音楽を創り演奏します。だから共演者の方によって捉え方が様々で、表面の形はどんどんを変化してきます。でもどんな方がやっても、そこはかとなく根底にあるイメージが浮かび上がる。そんなのを目標にしています。リハーサルでも、音を出しているより曲について話をして、共演者のイメージを膨らませてもらうようにしています。皆さん素敵な感性を持っているので、その人なりのイメージで音楽に命を与えてくれるのが嬉しいですね。


10年前の高野山常喜院演奏会入口看板 共演の笛奏者 阿部慶子さんと。常喜院脇の紅葉

秋の風が吹いてくると詩情も掻き立てられ、曲も浮かんできます。上の写真は10年前の高野山での演奏会のものです。あの頃は毎年10月になると高野山金剛峰寺の前にある常喜院さんで演奏会を開いていたので、高野山のパワーと霊気を体に浴びていたんでしょうね。様々なイメージが浮かび上がり、今とはまた違う勢いがありました。それにしても10年前は若いな~~。
活動の仕方もあの頃と今ではかなり変わっています。意識的に変えたのではなく、自然と今の形に導かれたという感じですね。30代には30代なりの、40代には40代なりのスタイルというものがあり、それは肉体や精神と共に緩やかに変化して行くものです。今50代になって、より自分らしく無理がなくなってきたのは良い事だと思っています。来るべき60代に向けて、もう少し変えて行く必要も感じていますので、来年辺りからまた次の段階へと進んで行くことと思います。

今はやはり作品創りですね。もう少し私独自の世界を形作る為にも、今年来年位で、様々な作品創りが重要課題だと思っています。今一番に考えているのはバラードです。それも薩摩琵琶を使ったバラード。薩摩琵琶では、バラードというスタイルが無かったですので、是非創りたいのです。途中盛り上げて、ストーリーで構成するのではなく、あるイメージや気分、匂い、想い・・そういうものを次は創ってみたいですね。さてどんなものが出来上がるのやら。
ゆううんLive

今月は27日にちょっと素敵なサロンコンサートがあります。

赤坂見附のドイツワインの専門店「ゆううん」にてライブ&生配信による演奏会です。第一部が尺八の藤田晄聖君を迎えてデュオ&ソロによる演奏、第二部はメゾソプラノの保多由子先生を迎えて、メゾソプラノと薩摩琵琶による演奏という、新たな形の琵琶歌によるライブとなっております。これは私が考えて来た琵琶の次世代の姿でもあり、今回が初の試みです。それぞれHPのスケジュール欄に乗せてありますので、ご覧になってみてください。

劇場などのイベントに対して、規制が緩和されてきましたが、是非演奏会はこれからも良い形で続けていきたいですね。配信など、映像はこれからどんどんと進化発展して行くでしょうし、今後の活動でもかなりの比率を締めて行くと思いますが、生琵琶の響きもぜひ体感して頂きたい。次世代の演奏会の形を、これから模索していきたいと思っています。

成就する想い2020

世はまだ混沌としていますね。過剰な消毒やマスク強制等、もう止めようにも止められない所まで来ているようにも思いますが、ここをいつ乗り越えられるか、そこに今後がかかっているように思います。

鎌倉旧村上邸

6月に演奏した、鎌倉旧村上邸能舞台にて 能楽師の安田登先生、Spacの女優 榊原有美さんと

私は、お陰様で色々と演奏会の機会を頂いております。本当にありがたいことです。月末はサロンコンサートが二つありますし、順調に行けば、来月は先月に続き神戸、そして金沢と地方公演も出来そうですし、市民講座などのレクチャーの仕事も始まります。
続けていれば、失敗とまでいかなくても上手く行かないことも多々ありますが、それでも先へ先へと続けていられるのは、何かの導きを感じますね。
こうして演奏出来るだけでも、本当にありがたいのですが、やればやる程、充実した演奏をやりたいと思う気持ちが高まります。私は成功したいとか、派手な活躍をしたいという願望はほとんどなくて、それよりも自分で納得のいく演奏会を続けていきたいという方が常に優先しますね。
先日の座・高円寺では、津村禮次郎先生と私の樂琵琶による静謐極まるラストシーンが素晴らしかったのですが、あの時は会場と観客と私と津村先生と、そこにあるあらゆるものが一つの調和をしていました。あの時あの場でしか成就しない得難い約8分間でした。あんな演奏会がをこれからも開けて、それを人生として生きて行きたいですね。

ただ決して私はこじんまりコツコツと、というタイプではないので、どんどんとその活動を全国に、そして世界に広げて行きたいとも思っています。ショウビジネスとして飛び回りたい訳ではありません。そこを理解してくれない人が多いのですが、売れる・有名になるという気持ちが先に来ると、音楽がそちらにどうしても傾いて行きます。それでは私の想いは成就しないのです。あくまで自分の想う音楽を想うようにやりたいですね。

想いを成就させるには、様々な形でのパートナーシップが必要です。音楽だけでなく、生活でも仕事でも何でもパートナーシップは大事です。若い頃は一匹狼を気取っていたかもしれませんが、それでもやっぱり仲間が居たからこそやって来れたのであって、一人では何も出来なかったでしょう。年を追うごとにその大切さを想いますね。

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左:京都清流亭にて、中:箱根岡田美術館にて、右:広尾東江寺にて 笛の大浦さんと

琵琶を始めた当初は笛の大浦典子さんと組んで、かなりの数の曲を作曲し、全国色々な所へ行って演奏していました。不思議なことに長年コンビを組んでいても、プライベートでは全く付き合いが無いのですが、それが良かったんでしょうね。分野限定でしっかり組んで行く方が、上手く行くというのも、こうしたコンビネーションから学びました。今でも大浦さんとは事あるごとに組んでいて、来月の品川区の講座でも一緒なのですが、最近は邦楽器よりも、洋楽器と組むことも多くなりました。特に一昨年「沙羅双樹Ⅲ」のレコーディングでVnの田澤明子先生に共演をお願いしてから、徐々に洋楽器とのデュオが増えてきました。

日本橋富沢町楽琵会にて、Vnの田澤明子先生と photo新藤義久
この所、これまで樂琵琶でしかやって来なかったシルクロード系の曲を、視点を変えてみたら薩摩琵琶でも出来そうな感じがしてきて、いろいろいじり倒していたのですが、田澤先生や、ここ数年お世話になっているフルート奏者の神谷和泉さんに、この自粛期間中に創った曲の譜面をいくつか送ったところ、素晴らしい形で曲が仕上がって来たのです。これからがまた楽しみなのですよ。私は誰かパートナーが居ると、自然と発想が浮んでくるタイプの様です。
実際作曲する時には、演奏する人の姿を思い浮かべて、その人と舞台に立っている情景まで見据えながら作曲しています。もっと言うと、どんな演奏会で、プログラムの何番目に演奏するという具体的な所もシミュレートしています。舞台全体をプロデュースするようなつもりで作曲しているので、誰と組むかは、とても重要なのです。
出来上がった曲は独り歩きしますので、後には他の人とも演奏する機会も出てくるのですが、初演は思い描いた人でないとだめですね。パートナーの存在がとても大きい。たぶん自分で気が付かないうちに、ああだこうだと色んな事を要求しているのかもしれませんね。すいません。でもパートナーが居てこそ様々な発想が出て、そして曲として姿を見せてくれるのです。

今年の1月、愛知県大府市のおおぶこもれびホールにて、安田登先生、浪曲師の玉川奈々福さんと

そして最近特に私が感じているのは、歌に関してです。私はもうほとんど歌うという発想が無くなって来まし
た。お仕事もありますので、多少の訓練はしておきますが、語り物をやるのであれば、やはり声の専門家を立てた方が良いですね。器楽としての琵琶樂が、琵琶を手にした最初から一貫した私のモットーですので、この想いも、ここへきて段々と成就しつつあるという訳です。弾き語りもやらない訳ではありませんが、やっぱり自分は歌う人ではないですね。20年以上かけてやっとその想いに至り、そして解放されました。

さて今日はこれから第153回琵琶樂人倶楽部です。朗読家の櫛部妙有さんを迎えて、国木田独歩の「たき火」を樂琵琶で合わせます。その樂琵琶の独奏やお話なども交えてやって行きます。是非お越しくださいませ。

私の想いは少しづつ成就して行く。音楽も生活も素敵な仲間に囲まれて、ゆっくりだけど一つ一つ成就して行く。その過程が一番の喜びであり、糧でもあり、そして人生でもあるのでしょうね。

弾力

先週、神戸凱風館での演奏をやって来ました。安田登先生と、俳優の榊原有美さんと私とでやったのですが、このトリオも回を重ね、なかなかこなれて来て、今回も大変内容の高い充実したパフォーマンスとなりました。
凱風館1m
ネットに上げてくれた写真を頂きました

凱風館は合気道の道場なのですが、響きや会場の気の流れのようなものがとても心地良く、また神戸という土地もどこか自分と呼応するものがあるのか、舞台に立つ充実感のようなものを感じました。改めて自分は琵琶を背負って、色んな土地を回るのが仕事なんだなと感じましたね。

それにしても、この混乱の時期にこうして毎週舞台の機会を頂けるというのは、ありがたい事。来週も定例となりつつある狛江のプルワリにて、Vnの田澤明子先生とデュオによるライブがあります。今回はデュオの他、Vnの独奏もたっぷりと聴いて頂きます。是非お越しください。

プルワリ2020-9-5m

私の様に枠外のような立場で世間を渡っていますと、世の中の様々な話題を耳にするのですが、その中でも現代日本の「弾力」の無さという事を、この所実感しています。これは私が東京に出て来た頃から少しづつ感じてはいたのですが、このところ特に、世の中、効率の良いものや、役に立つものばかりを追いかけ過ぎるているな、と思う事が多くなりました。
ものごとを無駄と有効に分けてしまう狭い近視眼的な視野は、人間としても国家としても危ない気がしますね。都市というものは、多様性の塊であって、その多様性から異種混交が始まり、多種な芸術や文化、風俗が生まれてくる、正にメルティングポットとなる場所なのです。だからこそ皆都会を目指して上京するのです。常識・非常識、聖・俗、善・悪の境界を越えるからこそ、そこに次の時代が見え始め、アートが生まれてくるのであって、視野が限定されてしまってしまうと、一つの価値観以外の者は皆「落ちこぼれ」となり、いつしか身動きの取れない石の舟と化してしまう。メルティングポットたる都市で、多様な生き方や考え方が出来なくなってくるという事は、国家が良い方向に行っていないと感じても致し方ないですね。きっと戦前の日本などそうだったのではないでしょうか。
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六本木ストライプハウスにて パフォーマンス:坂本美蘭、尺八:藤田晄聖 各氏と
「弾力」は言い換えれば多数のレイヤーです。凶悪犯罪を起こすようなものでない限り、どういう生き方をしても良いし、様々な考え方があっても良い。年齢性別関係なく、多種多様な生き方が可能であるという事。まだわずかな隙間があるから、琵琶を背負って諸国を回るようなやつも、その中で自由に生きて行けるという事です。
専制国家でもあるまいし、ステレオタイプで、皆と同じような価値観と暮らし方をしなくても、良いではないですか。「should」の多い環境では、誰しも窮屈になってしまう。孔子様も言っていますが、「should」ではなく、どんなものも楽しむ位でちょうど良い。のんびりと世のあわいに暮らして行く人が居ても良いでしょう。芭蕉などは身分制度の枠外に身を置いていたからこそ、多くのものを自由に見て、感じることが出来たのではないでしょうか。
今、現代日本はどうでしょう?。メディアに洗脳され続け、国民全員が同じような、目に見える豪華さや、キャリアを追いかけるように先導され、それが無いと不安になってしまうメンタリティーに陥っているのではないでしょうか。「普通」という言葉で、空気を読み忖度をし、皆が同じ感覚を持ち合わせることを強要する。しない奴が居ると目障りで、且つ不安になる。

学歴や肩書、相応のキャリアが無いと、負け組だと判断してしまうような小さな狭い心が世に蔓延していて、逆に枠外に身を置いて自由に生き、感じ、ものを発信して行く人が、今どんどんと減っています。皆同じ方向を向き、単一のレイヤーの中で「落ちこぼれ」ないように常に気を遣って生きなくてはならないような世の中では、社会のストレスは大きくなるばかりでしょう。そこに豊饒な文化が生まれる訳はないのです。

コロナ禍で現代日本の、そんな脆弱な社会と精神が浮き彫りになりましたね。私がSNSをやらないのは、フィルターバブルによって強迫観念にも似た同調意識に支配されたくないからです。

4「良寛」公演の練習時、 緑泉会稽古場にて津村禮次郎先生、中村明日香さんと
琵琶法師は勿論、世阿弥も芭蕉も出雲のお国も、皆、世のあわいに自らを置き、身分制度の枠の外に居たからこそ、新しいものを創造しえたのです。与えられた既存の形を求め、自分の承認欲求に囚われているような者は、見えるものもフィルター越しに見て、五感もしっかり去勢され、ものの本来の姿は見ようと思っても、見えようがない。そんな囚われの状態の者に、どうしてものが創れましょうか。目の前に振り回され、踊らされ、創造する心を失ったものは、どんなものでも滅ぶ運命なのです。
この地球の豊かさは、その多様性こそが象徴であり特徴です。豊饒なまでに様々な生命が溢れ、実る惑星だからこそ、そこから多種多様な文化が生まれ、暮らしが生まれ、それぞれの国が生まれる。色んな物がひしめき合って、連鎖が生まれ、文化が、エネルギーが生まれるのです。全ては響き合っているのです。中には悪もあるでしょう。しかし悪であろうと、負であろうと、すべてが響き合う事で地球は成り立っているのです。自分に都合よいものだけでは成り立たないのです。
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昨年12月の日本橋富沢町楽琵会にて、能舞:津村禮次郎先生、Vn田澤明子先生と
視点を変えると、自分の生まれ育ったこの地から生まれたものは、皆必然があって生まれてくるという事も改めて感じずにはいられません。世の中には清濁あらゆるものがあるけれど、そのあらゆるものは皆根を持っていて、その根から必然に生まれ、縁で繋がり、今に受け継がれている。日本の湿潤な気候、山海に囲まれている土地、そして世界一長い歴史。それらはずっと途切れることなく続いてきたからこそ、今我々はここに居る訳で、その継承から様々な音楽や芸能も生まれてきたのです。それはどの国でも同じことでしょう。文化も暮らしも、それぞれの土地から多くのものが生まれ、派生し、影響し合って、またそこから新たな繋がりを見せ多くのものと響き合って、今に至るのです。

所変われば、感性も違うし、善悪という概念も違う。しかしそれら多様な感性と生活が交流し、共存し響き合ってこそ社会が生まれるのではないでしょうか。自分と合わない異質なものを排除してしまうような薄っぺらく狭い感性では、響き合いが生まれようがありません。流れの止まったものは、本来清らかな水であっても濁ってしまうのです。私達の身体が1秒も止まることなく動き続けているように、響き合って、常に流動してこそ命ではないですか。そこに必要なものは、それらを皆受け入れ、受け止める懐の大きさ、つまり「弾力」です。その土台がないと響き合う事は出来ません。

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ヴィオロンにて photo 新藤義久

これからの日本に、弾力が戻ってくるでしょうか。生き方を強要された中では、明日は無いですね。でも自分の中から感性は変えられます。一つのレイヤーに自分を置かず、別のレイヤーに移動するだけで、見える世界が変わります。これこそが「弾力」!!。きっと琵琶法師みたいな者は細々とでも生き残って行くと思いますよ。私が感じる範囲でしかありませんが、世の中の硬直化の反面、部分的には解放されてきている所も感じています。その流れが大きな懐となり、世の弾力となって行って多様なスタイルを受け入れ、新たな命につながって行く、そんな世の中になって欲しいですね。

過ぎゆく夏

猛暑も少し陰りが感じられるようになりました。風も涼しく感じる時が多くなりましたね。これで世の中が動き出して行くと良いのですが、気温が下がってくると、コロナの方も心配ですね。

一般の会社でも音楽家でも、もはや仕事のやり方や考え方が一変してしまって、もう元の様には戻す訳にはいかないという人も多いかと思います。無理に元通りにしようと思っても歪がが出てくるばかりではないでしょうか。ただ私はこの変化は割とポジティブに捉えていまして、従来の問題点が炙り出され、ある意味良かったと思っています。これからの芸術活動の展開にあたって、膿を出してくれたとも感じています。従来の何となく存在していた理不尽なパワハラにも近い習慣や形式、感性、そういうものが木っ端微塵になってくれたおかげで、次の時代が強制的に開かれたのかもしれません。ここから次の時代へと、どんどんと大きな変革がなされるべきだと思っています。そして正にこの変化に対応できるかどうか、今アーティストの器が試されますね。

さて、このところお知らせしていた戯曲公演「良寛」の舞台が、先日終わりました。

2013年からこの「良寛」に携わってきたのですが、上演の度に新たな脚本でやって来ました。今回は脚本がかなりシンプルな内容になって、上演時間も1時間ちょっとに収まりましたので、内容も伝わりやすく、私自身もやり易かったです。今回は私と津村先生以外のキャストが変わり、新たに中村明日香さんが加わり、舞台上は3人だけでの上演でした。このシンプルな構成がとても良い効果を生んだと思います。中村さんのみずみずしい感性が上品な華となって、内容もグッと充実しました。

小さなライブと違って、こうしたしっかりと構成された舞台では、アンサンブルが大変重要なキーワードになって来ます。メンバー・スタッフ全員が、ここを判っていないと、良い舞台として結実しません。今回は出演者が3人で、私もただ音楽家という立場だけでなく、役者と対等に舞台に立っているので、全体を見渡すセンスとスキルが必要です。
今、邦楽全体と見渡すと、このアンサンブルのセンスやスキルが足りてないように私は思います。特に琵琶は一人でやるのが基本ですので、無理もないのですが、プロの舞台人として活動して行くには、このセンスとスキルは必須です。是非次世代の琵琶人は勉強して行って欲しいですね。私にもすべきところは、まだまだ沢山ありますが、ジャズをやってたからこそ、アンサンブルという所に意識が行くのかなと思っています。今頃になってジャズを通り越して本当に良かったと思う事が多くなりました。

またの再演を楽しみにしています。
そして明日は、このところ何かと御一緒の、下掛宝生流ワキ方の安田登先生、Spacの女優 榊原有美さんという、良寛と同じメンバー構成による舞台が神戸凱風館にてあります。こちらは津村・中村トリオとは全く違う(逆方向ともいえる)個性とやり方ですので、これまた楽しみです。
凱風館HP:http://gaifukan.jp/

2014年の時の舞台写真

こういう時期だからこそという事もあると思いますが、例年とはまた違い、一つ一つの仕事から学ぶものはとても大きいですね。この所特に思うのですが、年を重ねる度に、だんだんと見えてくるものが増えました。それが経験から来るものなのか、単に年齢からくるものなのか判りませんが、確実に若い頃には見えなかったものが見えてきていますね。

周りの仲間も、今様々なやり方を模索し、行動に出ています。地方に移り住む人もあれば、海外に行く人も、帰ってくる人もいます。配信に活路を見出して力を入れている人も多いです。何しろこれまでと同じ感性とやり方では、もう舞台には立てないのが、はっきりしましたので、次を見据えている人は既に動き出していますね。
津村禮次郎先生 今回の舞台にて
人間はなかなか変われないものです。しかしそれに反して世の中というものは、今迄基本だと思っていたものも、気が付くと変わっていることなんてことは多々あります。しかもその変化のスピードはどんどん加速するように、時代が過ぎて行きます。
かつて薩摩琵琶はストレートな歌いっぷり弾きっぷりが大きな魅力でした。それが明治の中頃に、東京人 永田錦心により、都会的なセンスが持ち込まれ大きな変化をしました。そのスタイルは、当時の薩摩人から「軟弱」だなどとさんざん言われ、叩かれましたが、明治後半から大正時代に永田錦心の演奏がSPレコードによって世に紹介されると、瞬く間に人気となり、後に続く琵琶人達はこぞって、そのスタイルを真似、強調発展させ、裏声を使いコブシを回して、その美声を誇りました。すると今度は、琵琶歌は裏声を使い、産字を伸ばして 美声を競って歌うのがスタンダードだという人達が現れます。ほんの数十年でセンスも基本とするところも変わってしまうのです。今後マイクを使ってクルーナー唱法なんかで囁くように歌う人や、ラップの様に歌う人が出てきたら、コブシセンスの人は、また永田錦心を総叩きしたように、叩きまくるのでしょうか・・。
六本木ストライプハウスにて  photo 新藤義久
芸術に関しては、多様性や前衛たる気概などがないと、すぐに形骸化したお稽古事になってしまいます。ましてや急激な変化を求められている今、旧来の形を追いかけるような者は、容赦なく淘汰されるでしょう。薩摩琵琶でいえば、最先端であろうとする精神を持って、新しい琵琶樂を打ち立てた永田錦心に続く我々が、形を真似てコブシ回しているようなお稽古事に陥るのが一番危ない。

いつも書くように受けつぐべきは核心の部分であり「志」です。表面の手法や形の格好良さに惑わされいるようでは、何も受け継げません。形を受け継ごうとした瞬間に滅びへと突き進むのは、芸術でも武道でも政治でも、何事も同じ世の習いなのです。
今は正に器を問われているその時です。今までやってきたことが、次の段階で新たな形として成就して行くか、正に一つの勝負所。この妙なる琵琶の音が、次世代に響き渡るかどうかという瀬戸際に来ているのではないでしょうか。

夏が終わり、これからの世の中がどうなって行くか、私には判りませんが、どんな激動の時代の中でも、舞台に立ち、琵琶の音を響かせるのが私の仕事。これからも形を変え、、自分なりのペースで演奏して行きたいですね。

瑠璃色の夢

先ずはお知らせです。先月収録した「漱石と八雲」の舞台が18日より無料公開となっております。是非ご覧になってみてください。

2020あうるすぽっと

本編 
スペシャルトーク 

さて今日は青のお話です。私は昔から青い色に何故か惹かれてしまうのです。黒も赤も好きなのですが、やっぱり青い色が好きなんです。最近友人から瑠璃色という言葉を聞いて、この所また青が、今まで以上に何だか気になって来ました。何か過去に関係したものでもあるのでしょうか・・・?。

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2009年ウズベキスタン タシケントのモスク前にて ツアーメンバーと

上の写真はウズベキスタンのモスク前です。中央アジアをツアーで回った時、ウズベキスタンでも演奏会をやりました。是非ともサマルカンドまで足を延ばして、リアルなサマルカンドブルーを見たかったのですが、演奏会はタシケントでしたので、サマルカンドまで行っている時間が無く、せめて旧市街のモスクには行ってみようという事で、オフの日に行ってきました。青のドームがいい感じなんですよ。実際はもう少し鮮やかな色でしたね。

何故青に心惹かれるのかは判らないのですが、先日HPの整理をしていて、私がこれまで出してきたアルバムや教則DVDのジャケットを眺めていたら、知らない内に、確かに青系統の色を選んでいるなと思いました。
sarasouju_jacket_smallsarasoju2ジャケット表

ジャケット画像JPG194琵琶ジャケットトップ

チンギス・ハーン違うものでもどんどんと懐に入れてしまう多様性や寛容さがいいですね。だからこそ世界最大の帝国となって行ったのだと思います。そしてそれを実現したチンギス・ハーンは「蒼き狼」と言われていました。そんなこともあって、チンギス・ハーンに興味が出て来たのでしょう。空や海、広大な草原等は、私にとって「蒼・青」のイメージとなって、どんどん自分の中で大きく育って行ったのだと思います。

青・蒼は大きく、広いのです。雄大で、寛容であり、そこにはあらゆるものが育ち、あらゆる自由がある。ある意味、偏狭な感覚に閉じこもっている現代日本人の一番苦手な部分と言っても良いでしょう。
自分と違うものを受け入れ、共存して行くことが出来るかどうかは、これからの世の中のキーワードでもあると私は思っているのですが、自粛警察などが跋扈する日本は、柳生石舟斎の様に、もう新たな海を渡れぬ石の舟と化しているのかもしれません。

日本人は元々八百万の神々の国ですので、しっかり多様性があるはずだったのですが、どうしたのでしょうね。近代以降の日本政府が国民をそのように教育・洗脳してきたのかもしれません。現代日本人は、横並び一列でないと怖いのでしょう。自分と違う人は、何を考えているか判らないし、何をされるかも判らない。色んな民族や人種が共存している国と違って、今迄ほぼ日本人だけで生きて来た我々は、自分を守る為にも、とにかく皆同じ考えと行動をしてくれないと、不安で不安でたまらないのでしょう。しかし今や世界と繋がる時代に、その自立性の無さ、小さな視野、多様性に欠ける感覚では、とてもとても生きずらいと思うのですが・・・。
琵琶の世界などを見ても、どんどんと縮小して行くのは、正にその部分ですね。私も以前は色んな琵琶人と話をして、これからの琵琶樂について事あるごとに語り合っていましたが、自分が正当で、他を認めようとせず、世の中に目を向けようともしない感性の方に何を言ってももう無駄だと、いつしか区切りを付けました。

ラピスラズリ原石

ラピスラズリの原石

大きな世界で自由に羽ばたく象徴が、私にとっては青・蒼=瑠璃色なのかもしれません。身の回りの小物なんかも無意識に青いものを選んでしまう事が多いです。財布なんかも、黒の立派なものを買っても、しばらくすると、いつの間にか使い慣れた青のものに変えてしまいます。青は私のラッキーカラーという事なんでしょうか。年を追うごとに常識や習慣などの囚われが一枚一枚はがれて行き、大きな青の世界に近づいているような気がしています。
「こうでなくては」「こうであるべき」という想いでいる内は、何も成就しません。それは自分でも経験してきました。そんな感情は裏を返せば、そこに自分が寄りかかっているという事。そこには、自由と多様さを象徴する青の色彩は無いのです。

私も時には思考が煮詰まってしまう事もあります。ついつい形に目を奪われ、本質が見えなくなることもあります。そんな時は空を見上げ、青の世界を感じ、夜は瑠璃色の夢を見て、素敵な音を届ける事だけに邁進するように気持ちを新たにする事にしています。

いつの日か、私も瑠璃色に輝いて、空を海を自由自在に羽ばたき、小さな意識の世界を超えて行くように成りたいものです。そしてこの琵琶の音を世界に響かせたいのです。
さて今週はいよいよ戯曲「良寛」の公演です。十分な対策をしておりますので、是非お越しくださいませ。
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21日(金)昼の部:14時30分開演  夜の部:18時30分開演  です。
お待ちしています。

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