午睡の戯言

毎日凄い暑さですね。私は暑さだけはどうにも苦手なので、家に籠っている事が多いです。普段から買いためている本を片っ端から攻めているんですが、こういう時間は自分の土台の部分を豊かにしてくれるので、人生にこういう引き籠りの時期も必要かもしれません。自分の中の想いでしかなかったものに、言葉を与えられたようで、しっかりとした輪郭を持って見えて来ますし、またその先へと思考も深くなります。

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最近のお気に入り


あとはとにかく作曲ですね。私は常に何か曲を考えていて、思いついたらすぐ譜面に書き留めています。実はこれまで一度舞台にかけたけど結局やらなくなった曲は山のようにあり、CDにしたものでも今はやらないものもあります。中には別の曲に作り替えたらいい感じになって、よくやるようになった曲もあります。一応出来上がると笛の大浦さんや尺八の晄聖君なんかに見せて、音出ししてもらいながら推敲を繰り返して、日々作曲をしているのです。こんな訳で我が家には創りかけの曲や、没になって部分だけを保存してるような譜面が山のようにあります。これはもうギターを弾いていた時代からずっとそうなので、私にとって音楽活動とは、舞台を飛び回る事よりも常に創り続ける事ですね。

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能楽師の津村禮次郎先生と ルーテルむさしの教会にて


まあ実験や挑戦も含め色々な仕事をやって来ましたが、最近は演奏活動も一段落ついて、自分がやりたいと思う創作と活動に集中して行けるようになりつつあります。舞台も勿論大好きなのですが、大体私はエンターティナーの真逆を行く性格と姿なので、イベントの賑やかしなどもとてもやれません。まあやっと自分らしい形が見えて来て、枝葉に寄り道する事も少なくなり、自分らしくなってきたという事です。
そしてやはり曲を創るには膨大な時間が必要という事を改めて思いますね。心に大きな余裕がないと語るべき世界が明確に見えて来ないのです。中にはツアーの休憩時間に書き上げてしまった「Voices 」(10thアルバム AYU NO KAZEに収録)みたいな曲もありますが、創るには時間が必要なのです。効率を求めて動く現代の世の中にあっては、無駄のように思われるかもしれませんが、創造とはハンナ・アーレントも言うように人間の一番人間らしい行為です。現代社会は目の前で消費される労働に終始して、創造という事を忘れている。現代社会がどんどんと風土から離れ、社会に歪みを増して行くのは、効率や合理性を重視して人がものを創り出すリズムをないがしろにして世の中が動いているからだと、私は思いますね。
人間の営みには無駄は無いのです。昼間からビール飲んでひっくり返っているような時間もあってこそ、何かが生まれ、世界が動き出すのです。という訳でビール飲むのも仕事の内という事で納得している次第であります。今3曲程同時進行で進めていますが、どうなる事やら。

お陰様で琵琶樂人倶楽部の方は毎月順調にやっています。もう18年も毎月琵琶に関する様々な企画を立ててやっていますが、毎回違うので飽きが来ません。毎月違うゲストと共にリハーサルをしたり、企画の為の編曲をしたりして、とても充実しています。今週7月9日(水)第209回は、Msの保多由子先生と笛の玉置ひかりさんに来ていただいて、新たな琵琶唄を聴いて頂きます。是非お越しください。

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玉置ひかりさん、保多由子先生と

演目は、「朝の雨」(平家物語 千手より)  「経正竹生島詣」(平家物語 竹生島詣より)  四季を寿ぐ歌「春」・「夏」他

割と伝統的なスタイルから、前衛的な曲、雅楽的なアレンジの曲等々演奏いたします。

今回は琵琶と歌の組み合わせでも色んなバリエーションが創り出せる、という所を是非聴いて頂きたいです。琵琶樂はとにかく型にはまり過ぎ。私は琵琶を手にした最初からずっとそう思っています。私が弾き語りをほとんどやらないのは、琵琶唄の造りがどれも同じで、その歌い方も張り上げるばかりで、表現に乏しいと思えてならないからです。他のジャンルの歌は実に多種多様な表現があり、曲があり、一つのジャンルでも静かなバラードあり、アップテンポのノリの良いものあり、精神の奥深さを感じさせるものありと多様な魅力に溢れているというのに、琵琶唄は実に幅が狭い。明治大正の父権的パワー主義で貫かれているような曲も未だに多くあり、残念でなりません。だから私はこの世界にもまれな妙なる琵琶の音をもっと聴いてもらおうと思って、自分で創るのです。軍国時代を琵琶の伝統にはしたくないのです。日本の育んだ長く深い歴史と感性をもって、新たな琵琶樂を創って行きたいのです。

芸術家、といより人間は常に創り出すのがその精神の根本。どんな感性を土台に持って、魅力ある音楽を創って行くのかという所を問われるのです。外国かぶれの物真似や、旧来の型をなぞっただけの生半可なものは、いただけません。
歌に関しては、弾き語りではなく、歌い手と琵琶演奏を切り離して、これからも色々とチャレンジして行きたいと思っています。先日聴いた深草アキさんの演奏も大いに参考にしたいと思っています。

今はもう少し自分の感性の土台を見つめ、考えを明
確にしたいと思っています。色々と本を読むのも、他のジャンルの方と語りあうのも、とても貴重な事ですし、最近は少しづつ色んなライブや公演にも足を運んでいます。中にはただ遊んでいるとしか思えないようなものもあり、がっかりする事もありますが、やはり目の前で観て感じるのは良い刺激ですね。

以前の記事にも載せたパット・メセニーのインタビューで、尊敬するウエス・モンゴメリーに対し「彼は彼を見つけ、彼のサウンドを見つけ、彼らしくある方法を見つけたのです。それは私にとって大きな教訓でした」という言葉は本当に響いてきます。私も自分の音色・音楽・スタイルを実践して行きたいのです。

さて、今日もゆっくり本を読み、譜面に向かいますよ。

平家琵琶を聴こう2025

直前のお知らせとなってしまいましたが、11日(水)の第208回琵琶樂人倶楽部は、毎年恒例になっている平家琵琶を聴く回です。今年も津田惠月さんをお招きして演奏してもらいます。また今年は海外在住の筑前琵琶奏者 平野多美恵さんがちょうど帰国しているとのことですので、筑前でも平家を演奏してもらい、聴き比べも楽しんで頂きます。今年のテーマは「平家物語の女性達」。それぞれ「重衡被斬」、「舞扇鶴岡(静御前)」を演奏してもらいます。私は昨年東洋大学文学部の特別講座で使ったレジュメを使いながら、平家物語の女性達について解説して行きます。

津田惠月

津田惠月(平曲)

平家琵琶は、日本音楽の第一号と言われています。歌詞も曲も形式も全てがオリジナルで、それまであった大陸から輸入された雅楽とは違い、独自の形を持って誕生した音楽です。平家物語誕生については色んな研究があるのですが、平安時代が終わり中世に入って、後に能や茶道、華道等日本の独自の文化が出来上がって行く、その先駆けとなったのが平家琵琶です。そしてとても重要な点が、平家物語は最初から弾き歌いして聴かせるものとして誕生したという事です。文学と音楽が同時に備わっているというのは、それまでの雅楽にはありませんでした。一般的に平家物語を本で読むようになったのは近世江戸時代からです。
この平家琵琶の在り方は実に興味深いものがあります。平安時代までは器楽中心なのに対し、鎌倉時代に入ったとたんに音楽と文学が接近して声を伴い出しました。これは具体的な内容を語りたいという想いが強かったという事でしょう。平安時代までは音楽が儀式であり、余興という域を超えていなかったかもしれません。もっと言えば平安時代までは、音楽というものがそんなに人生に密接に関わっていなかったのかもしれません。それが源平合戦という国中で起きた大きな出来事が、人々の心を揺さぶり、語りたい具体的な内容を浮かび上がらせたのだと思います。そして平家琵琶以降日本音楽は必ずと言ってよい程声を伴うようになります。

そんな中、江戸時代には筝曲などで「みだれ」等の器楽の名曲も出来上がって来ます。これも日本音楽にとって画期的な出来事だと私は考えています。これは音楽が洗練を経て発展していった証拠ではないでしょうか。具体から抽象への変化は感性の深化とも言えますので、筝曲で器楽が生まれてきたという事は、江戸時代に筝曲が大いに発展し日本の社会の中に大きな存在感を示していたという事だと私は考えています。
器楽としての琵琶樂を標榜している私にとっては、平安時代の終焉時に平家琵琶が誕生してから、中世を経て近世邦楽の誕生へと続く日本音楽の流れは、大変興味深いものがあります。

hokusai私も随分前ですが平曲を演奏しました。以前非常勤講師をやっていた頃、学部長の茂手木潔子先生からのお話で、北斎漫画の世界を舞台で再現するという企画があり、琵琶法師役として祇園精舎を弾き語りしました。大変貴重な機会を頂き、大いに勉強になりましたが、やってみてやはり弾き語りは自分の仕事ではないとつくづく思いました。琵琶の音色を届けるのが私のやりたい仕事であり、与えられたものだと思います。

日本音楽は楽器を奏でるというよりも、歌を歌う事が主で、琵琶に於いても楽器としての演奏ではなく、琵琶歌の上手い人が名人と呼ばれてきました。これは近現代の薩摩琵琶・筑前琵琶でも同様です。私の目指している琵琶樂はこういう琵琶樂の伝統よりも近代に生まれた筝曲の発展の方に近いですね。

近代筝曲が誕生したように、器楽としての琵琶樂が誕生して行くと良いですね。

余談ですが、以前このブログでも紹介した作家の福田玲子さんが、平家物語誕生秘話を小説として、書いているそうで、実に楽しみです。

現代に平曲を聴くというのは、色んな意味があると思います。その想いは皆さん其々で良いと思います。何ごとも同じですが、過去に対するしっかりとした知識と認識を持つ事は、そのまま次世代への眼差しとなって行くと思います。現代日本人は、もうろくに歴史も文化も知らないという人ばかりになってしまいましたが、それこそが日本の国力の衰退を象徴しているのではないでしょうか。過去を知り、学び、更に次世代への眼差しを持って創造して行く姿勢が、今琵琶樂・邦楽だけでなく日本全体に改めて必要な時期に来ていると思いますが如何でしょうか。

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会場は阿佐ヶ谷の名曲ビオロン喫茶をお借りして毎月やってます。25席でいっぱいの所ですので、お越しいただける方がおりましたら下記にご一報くださいませ。

琵琶樂人倶楽部  biwasou@ymail.ne.jp

6月11日(水)第208回琵琶樂人倶楽部「平家琵琶を聴こう」
場所:阿佐ヶ谷ヴィオロン
開演:19時00分
料金:1000円(コーヒー付き)
出演:塩高和之(レクチャー) ゲスト 津田惠月(平家琵琶) 平野多美恵(筑前琵琶)
演目:重衡被斬(平曲) 舞扇鶴岡(筑前) 平家物語の女性達(レクチャー)
 

個性というもの

私は日々色んな所に出掛けているので、芸術家以外にも様々な方々に会います。何故か魅力的で面白い方ばかりに会うのですが、たまに無理をしているなと感じる人にも会います。私のような洛外の者は世の中を外側から見る事も多いので世の主流の意見とは違うと思いますが、どうも現代人は個性というものに囚われ、また同時に誤解もしているように思う事が多々あるように思えて仕方がないのです。

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戯曲「良寛」能楽師の津村禮次郎先生と座・高円寺にて
8月に新潟の佐渡相川春日神社能舞台で再演します。

人間は誰一人として同じではありません。姿かたちも声も人生も皆それぞれです。だから本来はただ自分で在りさえすれば、自ずと個性が満ちていて保たれているのですが、現代社会に於いては、自分で自分を演出するのが個性と思っている人が多いのではないでしょうか。身に着けるものや出入りする場所等で「自分はこういう人間」という暗示をかけ,キャラを作って、またそれをアピールする。そしてそれが自分の個性であり、人生だと思い込んでいる。

服や身に着けるもので「自分らしく」あろうと、色んなものを選択するのは各人の好みですから結構な事だと思います。しかしその選んでいる服はメディアが宣伝しているものの中から選ばされ、ライフスタイルも皆、提供されたものの中で自分が選んでいる。つまり誘導されているにも拘らず自ら築いたと思い込まされて生きているのが現状ではないでしょうか。ワイルド系癒し系等々色んなタイプに自分をカテゴライズして、それに合う服を選ばされ、体系も髪型もそういうステレオタイプの何かに自然と近づくように誘導されている。ファッション雑誌ではタレントの誰々風のファッションや髪形が紹介され、美容室にタレントの写真を持ち込んでカットしてもらうなんてのが普通になっている。私にはそれが違和感なのです。

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パフォーマーの坂本美蘭さん、ダンサーの牧瀬茜さんと
尺八:藤田晄聖 Asax :SOON Kim

立派な人間、格好良い人間、まともな人間という定形は幻想でしかないのです。時代が変われば、そんな定型もどんどん変わります。もう少し型にはまらず自由で良いと思うのですが。如何でしょう。
現代社会は経済や産業が基本になって、資本主義を是として、右肩上がりで成長して行くのが善であり正義でありという「ビジネス」が生活全般、根底に蔓延り、皆が年収や肩書を追いかけます。右肩上がりで成長するには、どこかから搾取しない限りは成長は無いし、石油も電力も求めれば求める程に自然を破壊して行く。しかし個人はそういう負の現実に疑問を抱かず目を向けようともしない。自分を取り巻く小さな世界だけを見て勝ち組だの成功者だのと自分と他人を比べ、その勝ち組に羨望の眼差しを向け、気づかない内に俗世間の物差しで自分の人生を測っている。挙句の果てに自分が何者であるか判らなくなって「自分探し」などと言って、またビジネスの餌になって行く。何だか残念な感じがしませんか。
現代人の目には、この豊饒な大地は見えているでしょうか。そこに人間の姿はあるでしょうか。そこに溌溂とした生命や個性はあるのでしょうか。

5私にも色んな好みがあります。こだわりもあります。でも常に他と比較して生きていたら、人生は苦しみが増すばかりだと思っていますので、人は人、自分は自分と常に思っています。なるべく争いもしません。私にはスポーツは戦争と同じようにしか見えないので一切見ません。人間が感情むき出して争っている姿はどう見ても戦争のように思えてならないのです。ゲームも一切見たくないですね。トランプなんかもほとんどやったことがありません。まだアクション映画の方が如何にも作り物っぽいので見ていられます。
私は元々音楽活動を始めるにあたって何も持っていなかったので、捨てるものもありませんし、人と争う種が私にはありません。だから自己顕示欲がギラギラしている方とは組めませんね。音楽は分かち合うものであって争うものではないので、自分のやりたい事を自分のペースでゆっくりやっているだけです。

音楽家も本当に自分の想う音楽をやって欲しいです。ジミヘンを真似れば真似る程、何だか哀れに思うのは私だけではないはずです。勉強や稽古の為に真似るのは大いに結構。しかし上手に表面を物真似出来た所で本当に心の底から楽しんでいるのでしょうか。素晴らしい音楽を創り出した先人達は皆自分のスタイルを見出し、自分独自の音色を創り、自分のやり方を見出したのです。我々も自分の音色を創り上げ、自分だけのやり方を見つけませんか。それこそが先人へのリスペクトだと私は思います。
物事の根源に向かい本質を求め創り出して行くのがアーティストの姿だとしたら、現代という時代も判った上で、世間の常識や習慣ルールという幻想を乗り越えて、そのもっと奥にある生命や実体に向かって行って良いのではないでしょうか。人間が生きる事と創造する事はイコールです。過去なぞり、出来合いの小さな世界に憧れ、寄りかかり固執しているようでは何も創り出せないと私は思います。皆さんは如何ですか。

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左 平野多美恵、久保順、右:灰野啓二 田中黎山 各氏と


個性は、何もしなくても元から備わっているもので、自分の存在そのものです。表面をお着替えすれば気分は変わるでしょうが、個性が変わるという事はありえません。自分の生き方をして初めてその個性が魅力として滲み出て来る。私はそんな風に思います。

もっと自分に向き合って、自分のやりたい事をどんどんやって行きたいですね。

「サワリ」の話Ⅶ~音色それぞれ

暑い日々が増えて来ましたね。私は自分自身が暑さに弱いのに加え、琵琶も湿気が大敵なので、どうもこれからの季節は苦手です。

最近は色んな方の琵琶の手入れをする機会があり、色々と勉強になります。皆それぞれに好みがあり、スタイルがあり、この多様さが琵琶の魅力になっているんだなと実感します。一人一人声も顔も違うように、琵琶の音も色々あるのだと思います。もっとそれが音楽として個性的な琵琶樂が飛び出して行って欲しいですね。

分解全体

私の分解型琵琶。最近よく鳴り出してきました


教えている生徒のものは、いつもサワリ調整のやり方を見せ教えてながら調整してあげるのですが、是非自分で出来るようになって欲しいものです。生徒の中に最近分解型琵琶を手に入れた人が居て、そのサワリを診てあげたら、とても良い感じで鳴り出して気持ち良かったですね。喜んでましたよ。何だか私も嬉しくなってしまいました。彼は弾き語りスタイルを中心にして色んな場所で演奏しているので、あの分解型は、これからきっと彼の良きパートナーとなって行くんでしょうね。
ギターなんかも同じですが、新しい琵琶は手に届いてから、細部のセッティングを自分なりに調整してあげないと本来の音が出て来ません。先ず絃を自分に合うものに替え、その上でサワリの調整を細やかにしてあげて、そこからがスタートです。コツコツと自分なりの工夫をしながら育てて行ってこそ唯一無二のパートナーになって行くのです。最初の調整をおろそかにすると、いつまで経っても楽器のポテンシャルも引き出せないし、パートナーにもなってくれません。

時々知り合いの琵琶も頼まれて調整するのですが、声を使う人には長いサスティンや響き過ぎるサワリは歌にとって扱いにくくなってしまいますので、その辺も考えてやることが必要です。先日も筑前琵琶のサワリ調整をしたのですが、一の糸をいつもの調子でばっちり鳴るように調整したら、さすがに鳴り過ぎて歌いにくいという事でサワリと鳴りを押さえるような調整をしました。そうしたら全体がしっとりとした弾き歌いにちょうど良い感じでバランスが取れて響いてくれました。サワリの調整をする時には「これはどう?、もうちょっと渋くする?」なんて調子で話しをして、相手の好みを確かめながらやるのですが、人によって求めるサワリが様々で、そういう話がなかなか楽しいのです。何事も正解が一つしかなく、ゴールが決まっているようなものは面白くありません。多様な琵琶のスタイルに常に触れていられるのは幸せであり、良い勉強になりますね。

それにしてもサワリの調整一つでこれだけ変化に幅がある楽器というのも珍しい。ギターやピアノも勿論調整で大きく変わりますが、琵琶程変わる楽器は他に見た事がありません。

継琵琶糸口2特に糸口のサワリ調整は、全く別物になるので一番気を遣います。多分このブログを見ている琵琶人も同じように感じている方も居るでしょう。自分で調節できるようになると自分だけのサウンドが出せますよ。
また貝プレートの糸口になじめない方も多いかと思います。私も最初はちょっと音色がどうなるか心配だったのですが、約8年程舞台やレコーディングで使い続けた実感として、象牙の糸口も貝プレートも、その音色は象牙のものと変わらないと感じています。全く心配なく使えてます。しかも貝プレートは削り過ぎたらプレートを交換するだけでコストも手間もかかりませんし、土台の木部を削らない限り、とてもメンテナンス性が良いのです。
これからの時代を考えれば象牙の使用は世界的にも無理がありますので、早い時期に貝プレートに替えて本当に良かったと思っています。少し前に象牙の糸口のままアメリカに琵琶を持って行って没収された方が居ましたが、これからの琵琶人には是非貝プレートをお勧めします。勿論サワリの調整が自分で出来るというのが前提ですが。

材料はどんどん変わります。どんな楽器でも素材は世の変化と共に変わって行きます。素材自体が枯渇する事もあるし、時代が求める音色が変化して行く事もあります。しかし皆それぞれの時代の魅力的な音を目指して、素晴らしい音楽を創り上げているのです。ピアノの鍵盤もドラムのヘッドも弦楽器の絃も、どんどん変化しながらも素晴らしい音を奏でる為に、時代に見合う演奏テクニックを演奏家が開発し、新しい音楽を創造し、それぞれの時代の音楽を創り出しているのです。

糸口桑の土台の上に黒檀、その上にスネークウッド、そして貝プレートという構造
先日の琵琶樂人倶楽部は琵琶職人の石田克佳さんを招いて「琵琶トーク」をしたのですが、お客様から高い倍音が聞こえるという御感想を頂きました。特に太い絃を弾くと倍音は聴こえやすいのですが、サワリの調整によってもその特定の倍音を押さえたり出したりすることが出来ます。糸口のサワリのもう少し上の部分に空間が少しあるとキンキン(ヒョンヒョンと言う方が合っているでしょうか)とした高い倍音が出て来ます。これはこれで気持ち良いので、私は割と出るままにしておく事が多いのですが、ちょっと出過ぎると思う時には貝プレートの上部のスネークウッドの部分に軽~くやすりをかけて、隙間を無くし、高い倍音を押さえるようにしています。ただこれは写真で見せてもほとんど判りません。実際に目の前で教えないとどうにも伝わらないのです。象牙の糸口だともっと判りにくいかもしれません。是非お師匠様に教えてもらってください。

それとサワリの調整をする際の残酷な現実として、老眼の方はかなり厳しいです。光にかざしながらやるのですが、細かい隙間がどうしても見えずらくなります。幸い私は普段から眼鏡も必要無く過ごせているので大丈夫なのですが、本を読
む時に老眼鏡が必要な方は、サワリの調整もかなりやりにくいと思います。先ずは柱でも糸口でもその状態が見えないとどうしようもないです。慣れてくると大体音でどういう状態になっているか判るのですが、それでも見えないとまともに調整する事は出来ません。早い方は40代から老眼になってくるようですが、サワリ調整専用のメガネなどを用意する事をお勧めします。こればかりはどうにもなりません。

2022フルセット

サワリの音色は、結局その人がどんな音楽をやりたいか、それによって随分違ってきます。材質も勿論ですが、先ずは自分で最適な調整が出来なければいくら材質を変えた所で、求める音は出て来ません。求める音色はそのままその人の音楽です。お稽古事で楽しむのなら、習っている先生と同じで良いと思いますが、時代のセンスが目まぐるしく変化している現代に合って、お稽古事と言えども琵琶樂に対する好みは変化して行くのではないでしょうか。T流などをみていると、流祖と今の門下生はまるで違った歌い方をしています。とても同じ流派とは思えません。これは良い悪いではなく、こういう変化はあらゆる分野で時代の流れと共に当然であるのではないでしょうか。
創造する事を忘れ、技術も根拠も実績も積もうとせず「象牙でなければだめだ」「〇〇ねばならない」「昔は良かった」なんていう、変化を恐れ、過去に寄りかかる薄弱なメンタルで居たら、次世代の琵琶樂は響きません。受け継ぎたいのならどんな分野でも常に「創造」をし続け、「変化」を受け入れる精神が必須です。時代の変化を受け入れないようでは、何事に於いても継続は望めません。

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photo 新藤義久

私はすべての琵琶を器楽用にセッティングしているのですが、弾き語りをたまにやる時も塩高モデルの大型琵琶でやりますので、歌う「間」や声量も随分と変えています。声を聴かせる事以上に琵琶を聴かせるのが私のスタイルなので、私の琵琶のセッティングは歌う人に取っては参考にはならないと思いますが、人それぞれの琵琶の音色がもっと世に溢れるのが理想ですね。それぞれのスタイルで魅力ある琵琶の音をどんどん響かせて欲しいですね。ちなみに私は歌に関して、歌い手と弾き手を分ける形でこれからどんどん作品を創って行こうと思ってます。

様々な琵琶の音が響き渡る世の中になって欲しいものです。

流れのままにⅡ

先日のMIMINOIMI 主催の「 Anbient  Week」は良い感じで演奏することが出来ました。会場は築50年(もっとかな)はゆうに経っているだろうと思はれる廃墟のようなビルで、そこがまたアートな感じで気に入りました。

MIMINOIMI

会場では久し振りに秦琴奏者の深草アキさんと再会を果たすことが出来、来年は年明けに琵琶樂人倶楽部にも出演してもらう事になりました。深草さんとはかなり前に邦楽ジャーナルクラブ「和音」で知り合ってからずっとメールなどで繋がっていたのですが、お逢いするのは本当に久しぶりでした。ああいうフェスは色んな方と知り合えるのが嬉しいですね。

深草さんの演奏も聴かせてもらって、色々とお話もしていたら、また自分の姿というものも見えて来ました。やはり色んなジャンルの方々との交流は己を磨きますね。やはり私は演奏家というより作曲家の部分が強いのでしょう。作曲をして自分の想う世界を描き発表して行くスタイルでやって来ましたが、いわゆる演奏家とはちょっと意識が違うのだと改めて感じました。

この動画は昨年、青梅宗建寺で行われた深草さんの演奏。ここは私も以前演奏したことのあるお寺です。深草さんの音楽は他には無い独特の世界観が魅力的で、地味で静かな音楽ながら、PPによるかすかな音からリズミックな表現まで多彩な表現があります。歌(というより声)も入りますが、あくまで演奏がメインであるのが素晴らしい。だから秦琴の音をじっくりと味わうことが出来る。こういう歌の入り方は私が探していたスタイルに大変近く、多くの示唆を頂きました。今後は歌の入る作品も創って行きたいと思っているので、アイデアも湧いてきました。HPもありますので是非ご覧になってみてください。

先日のライブでは10thアルバムに収録した「凍れる月 第三章」を藤田晄聖君の尺八でやってみましたが、これがなかなかいい感じで、曲の新たな魅力も感じられました。笛とは違って雰囲気が変わり、曲の新たな一面が引き出されたように感じています。私は自分の曲を色んな演奏家と演奏するのですが、楽器を限定せず、ヴァイオリンや尺八など色んな楽器とやっています。「塔里木旋回舞曲」も笛とのデュオで創りレコーディングしまたが、ヴァイオリンとのデュオもとてもいい感じで気に入って9thアルバム「Voices from the Ancient World」に収録して、ライブでも良くやっています。「西風(ならい)」も笛でやったり尺八でやったり、時にはASax&ヴァイオリン&琵琶のトリオでやったりして、それぞれに違った魅力を感じています。「君の瞳」も元々フルートと琵琶で創りましたが、今ではもうヴァイオリンとのデュオ曲のようになっています。曲自体も色んな形で出来るように演奏者の解釈で色々出来るようにあえて書き込みを細かくせずに作曲してありますが、有能な演奏家と組む事と色々と試せる機会がある事で曲の可能性はどんどん広がり、曲の持つ世界はどんどんと深まって行くのです。作曲家としても演奏家としても本当に嬉しいですね。

イルホムまろばし10-s

ウズベキスタンの首都タシケントにあるイルホム劇場にて。「まろばし」をアルチョム・キムさんに、ミニオケのバックにネイ(ウズベキの笛)&琵琶に編曲してもらって上演

毎年、梅雨時期はパンクするんじゃないかという位忙しかったですが、さすがにコロナを経て、変わって来ました。今はじっくりと創作する時期なのだろうと思っていますが、こういう流れの変化を感じ取れるかどうかはとても大事な事。世の中全体も勿論ですが、自分を取り巻く状況がどんな流れの中にあるのか、そこを解った上で、あえて逆らって行くのか、もしくは流れの乗ってゆくのか、そこにその人の器が問われます。

最近は琵琶の楽曲をもっと創りたいという気持ちが強くなりました。以前は演奏会のプログラムを意識して作曲をしていたという感じがかなりあって、オープニングにはこんな曲。二部の頭にはこんな曲という具合に作曲していたのですが、今は、単に充実した琵琶の楽曲を創り上げたいという気持ちの方が強くなりました。自分の中での変化も面白いです。

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photo 新藤義久


作曲及び演奏に対する姿勢の変化は、自分の年齢的な事もあるだろうし、私が今後のヴィジョンをどう持つかで考え方も活動も、日々の生活も変化して行く事でしょう。自分が見据える今後の自身の姿を成就する為にも、今はこの流れに乗って行くのが最適だと感じています。今年ももう半分ほど過ぎてしまいましたが、後半が楽しみですな。何かが始まるのかな??。

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