The Summer Knows

もう夏の日差しになりましたね。私は暑いのは苦手なので、夏は毎年家の中でのらりくらりしているのですが、次なる発想にはこういう時間は欠かせない、という言い訳をしながら、のんびりさせてもらってます。
こんな具合ですので、私には「一夏の想い出」なんてロマンチックな事は、ついぞありませんでしたが、夏になると気分だけ盛り上がるのか、この曲が頭に浮かんで来ます。

私は中学生の頃、ブラスバンドでコルネットを3年間吹いていた事もあって、基本的にラッパが好きなんです。これは中でも大好きなアート・ファーマーという方の演奏。アート・ファーマーはトランペットよりもフリューゲルホーンという管の長いものをよく吹いていて、音色がとてもソフトな所が気に入っています。生演奏も聴きに行きました。
私の10代から20代の頃の記憶はjazz一色でしたので、当時を思い出す時は、必ずjazzとワンセットになって想い出します。多感な時期に熱中したものは忘れないのでしょうね。しかし最近ちょっと感じるのは、思い出すという事は、いわゆる懐かしむとは違って、何か突然昔の事が湧き出てくるという事。これは単に私自身が年齢を重ねたからなのか、それとも物事を客観的に見ることが出来るようになったのか・・?。不思議な感じをよく覚えます。
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安田登先生、名和紀子さんと「夢十夜」演奏中 ヴィオロンにて photo 新藤義久
「思い出」とは「思い出す」のではなく「思い出る」のだと言われていますが、「思い出」とは自分の意志で~過去のデータを探すが如く~思い出すのではなく、ふとした何かのきっかけで、過去の時間が現在時間に入り込んで来るように思えるのです。普段の何気ない日常でもそうですが、昔の事を思い出しているつもりでも、その途中でふと当時の何かのエピソードや事件が浮んでくる。「そういえばこんな事が」なんて具合に当時の事が「出てくる」のです。それは能におけるシテとワキの出逢いのようなものでしょうか。
実は我々は、現実の社会的には前へ前へと進む物理的時間の中に生きていながら、脳内では時間軸を乗り越えて、現在と過去を自由自在に行き来しているのではないか。私にはそんな風に思えてしょうがないのです。一番わかりやすい例が「夢」ですね。私のように毎晩映画を観るようにリアルな夢を見る人間には、前にしか進まない物理的時間は、人生の時間のほんの一面でしかない、という事がとても良く実感できます。
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荻窪ベルベットサンにて Vnの田澤明子先生と
その自由な時間の行き来を可能にするのが、音楽だと思っています。音楽には確かに時を超える力が備わっている。自分で演奏していても、この曲を弾くと時間を超えてしまう曲というのがいくつかありますが、そもそも音楽には時間軸を超えるだけでなく、聴いている人の感情を揺さぶったり、強い影響を与える事の出来るある種「呪力」のようなものが漲っているのだと思います。孔子は「国を変えるのなら樂を変えよ」と言ったそうですが、元々音楽は呪術性の強いものだったのだと思います。だから音楽によって、過去と現在が同時に自分の中に立ち現れ、常識的な時間の概念を何の苦も無く当たり前のように超えて、融解した時間軸の無い世界に心が行ってしまうのも当然かもしれません。
私のような人間は、普段は現実社会の常識やシステムの中で生きていても、多分に心の部分では常識や現実の枠外に生息しているので、世の縛りをあまり感じずに、のんびりとしていられるのでしょう。極若い頃には、活躍している仲間を見て羨ましいと思ったこともありましたが、もうこの年になると、他と比べるも何も、これまで生きて来た軌跡がそのまま今の姿ですので、もう世の規範軸や常識などに自分を照らし合わしてもしょうがない。
エンタテイメントの音楽をやっている人は、売れることが第一ですし、知名度もお金も大きなバロメーターなので、大いに気になると思いますが、私はそういう所はほとんど気になりません。それよりも、やりたいことをやって、こうして生きていられることの事自体が嬉しいのです。これからやりたい事もあるし、創りたい曲もあります。しかしそれが売れるかどうか、有名になるかどうかという方向に全く向きません。まあ自分の人生を楽しんでいる。そんな感じです。
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琵琶樂人倶楽部にて photo 新藤義久

昔の事を思い出すのは日常茶飯事ですが、私は20年前の出来事が「この間は面白かったな」的な感覚で蘇ってくる事はしょっちゅうあります。そこからの物理的時間そっちのけで、まるでつい先週のような感覚で何の違和感もなく、その延長に感じることが多いです。感覚が物理的な世界を判断できず、20年前を「過去」という意識で捉えていない。今日と同じくくりの中にあり、過去という区分が無い。そんな感覚なのです。それは18歳で東京に出てきた頃とあまり人生が変わっていない、という事も大きいかもしれません。
まあ鏡を見ると随分顔は老けていて、確かに物理的時間が経過しているのは一目瞭然なのですが、どうも感覚のどこかが、時計の針の様には進まない。私の中の何かが壊れているのか、それとも人間はそもそも、時間時空を飛び越える能力が備わっていて、私はその部分の感覚が強いのか?。
京都ギャラリー
京都伏見桃山のサロン ラ・ネージュにて
少なくとも能をはじめとして映画でも演劇でも、ほとんどすべての芸術は時空を超えている、と私は思っています。目の前を楽しませ、喜怒哀楽を刺激するエンタテイメントとの違いはそこにあるとも感じています。
私がシルクロードに妙に想いがあるのも、琵琶を弾きながら、自分の中の記憶とリンクしていて、心はかの地に飛んで行っているのかもしれません。宮沢賢治の「雁の童子」なんかを読むと、あの時空の超え方と、カシュガルという場所に一気に想いが飛んで行ってしまいます。特に樂琵琶にはどこか遠い空に体が舞い上がるイメージを持っています。薩摩琵琶の方は、時間よりも精神の奥深くに入って行くものとして捉えているのですが、薩摩琵琶と樂琵琶の両方を弾く事は、己の存在の奥底へと眼を向けるミクロの視点と、古の空へと心が飛翔する時間を超えたマクロの視点、この二つの時空が同居しているようなものなのだと、今では思っています。
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京都 清流亭にて2010年
人はずっと時間を超えて行く事を求めているからこそ、そんな呪力を持つ音楽や芸術を有史以来求めてきたのかもしれません。仏教などではこの世は「虚仮」などといいますが、この先テクノロジーが進んだ先には時間の概念も大きく変わり、誰でもが自由に時間旅行が出来るようになるのかもしれません。宮本武蔵も「観の目強く」と言っています。
視覚情報に頼り過ぎ、見えないものを見たり感じる力を失ってしまった現代人には、人間の本来持っている時間の半分しか感じ取れていないのかもしれませんね。

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