心体

日の「銀河鉄道の夜」公演は無事終了しました。以下からライブのアーカイブがご覧になれます。

オリンピックも終わり、これから日本の社会はどうなって行くのでしょうか。正直ちょっと怖い気がしています。海外のニュースを見ていると、既にヨーロッパの主要都市やNY、アジアの都市でもワクチンパスポートが施行され始めたようですね。根拠よりも、表面の形で判断するような分断や差別は既にマスク装着でもありましたが、特に日本人は、理由無く「みんながしているから、それが正しい」「普通が一番」という風調にとても流されやすい。こういう日本人の付和雷同的な気質が、今後の社会にどう影響してくるのか、本当に心配です。
秋からは大阪、静岡、新潟、京都、熊本、島根と地方公演も入っていて、年明けには札幌でも予定されていますので、期待を持って、今後も舞台活動をしていこうと思っています。

樂琵琶プロフ3

photo  新藤義久


長い事コロナで家に籠っていたせいか、また私自身、ここ数年で年齢というものを改めて感じているせいか、色々な事が少しづつ変わって見えて来ます。見た目もそうですが、舞台での自分をはじめ、武道の稽古をしている時も日々の生活でも、一見外側からは判らないですが、身体反応が変わった事に気づく事が多くなりました。

私の年齢的な面は別として、現代では情報量があまりに多く溢れているために、身体性というものが失われつつあるように思えてなりません。テレワークが当たり前になってきた現在、屋外に出ることがどんどんと減り、会話もPCに向ってするのが常態となってくると、心と肉体が益々離れて行くようになるのでしょうね。片方が欠けて行く事による歪は、様々な形となって今後社会に現れてくると思います。人間には肉体を通してでないと判り得ないものが、とても沢山あるのです。
shio02s

若き日 宮島の厳島神社演奏会にて

私は舞台活動をずっとやっていて、得も言われぬ瞬間を何度も体験しました。言葉では言い表せない世界なのでどうにも表現が難しいのですが、以前はその感覚の部分ばかりが記憶として残っていたのですが、ここへ来て、その身体というものがその時の記憶の中に出て来ます。身体感覚として蘇ってくるのです。
もう30年も前、とある歌手の演奏会で、その歌手の声が場に満ちるように響き、私はその声を皮膚で聴いたと感じた事があります。耳ではなく皮膚が確かに反応し、震えたのを記憶しています。リュートと歌だけの静かな音楽でしたが、聴力の感覚器官だけで聴いたのではなく、確かに身体が聴いたのです。私には、思い返してみるとこうした記憶がいくつもあり、最近その記憶の肉体的な部分が増幅され、記憶には身体が大きく関わっているのだという認識が深まりました。この身体が語り出してきたのです。

古木鳴鴫図宮本武蔵作 「枯木鳴鵙図 」
武道の稽古をしているとよく判るのですが、20代の方と組んで稽古をしていると、相手のバネのようなしなやかさと反応の速さに、本当に驚きます。40代50代になってただがむしゃらにやっても、そんなしなやかな肉体を持っている若者には技も効かないし、最初から勝負になりません。逆に年齢を重ねている人は自分の体を把握した上で、これ迄の経験を自分の身体に落とし込む事が出来るようになるととても揺るぎない強さが出て来ます。こうなると筋力やしなやかさだけしかない若者は到底かなわない。
己のその時々での身体をしっかりと把握し、その体に刻み込まれた記憶を動きに昇華出来る人は、腕力・筋力を超えて達人のようになって行きますね。筋力(肉体)に寄りかかっているだけでは、大したことは出来ません。

いつも書いている武蔵の「観の目強く、見の目弱く」という言葉は長らく私が考えている事です。この言葉も、若い頃は只管感覚を研ぎ澄ます方向で考えていましたが、ただ感覚だけを研ぎ澄ませれば良いという訳ではないという事をこのところ感じています。
その時点での自分の身体をどれだけ認識しているか。そこが大きなポイントだと思います。スポーツとは違い、武道に於いて負けるとは死ぬという事です。そう思えば、まだ武士が居た時代は、感覚も身体も頭も全てを総動員しなければ生き抜くことが出来なかったのでしょう。

現代社会ではそうした生き死にがかかっているような切羽つまった状況が常にある訳ではないので、身体がどんどんと置き去りにされ、あげくにまるで新興宗教のように健康=見た目を若くする事に目が行っているのかもしれません。刻々と変化する我が身体抜きにして、活動することは出来ないのです。
これは邦楽でも同じことが言えます。例えば喉は筋肉で出来ていますので、若い頃の方が高音が出たり、指が自在に回ったりするのですが、そういう若い体でないと実現できないものがあるものの、それだけでは、音楽は深まりません。確かに物事を成就するには身体が必要ですが、身体と心が伴ってはじめて舞台が成立します。

ちらmし

さて、明日は毎年夏の恒例SPレコードコンサートをやります。琵琶樂人倶楽部も、お陰様で165回目となりました。今年は前半は永田錦心の「本能寺」、そして水藤錦穰の「屋島の誉」をフルコーラスで聴いて頂きます。いつもは沢山の演奏家を紹介するという趣旨で、半分くらいしかかけなかったのですが、明日はたっぷり聴けますよ。第二部はヴィオロンマスターが選んだ往年の歌手たちの音源です。今回のタイトルは「受け継がれる魂」。我々に託されたこれからの時代について想いを馳せてみてください。

ヴァーチャルな時代だからこそ、心と身体のバランスを考えて行きたいですね。

2021年08月07日(土)ジャパンフェスタ in ADACHI 2021 能による音楽朗読劇「銀河鉄道の夜」

<終了しました>

場所:ギャラクシティーマルチ体験ドーム(足立区西新井)
時間:開場:17時45分 開演:18:00分
定員:80名 車いす席有り 小学生以上(小中学生は保護者同伴)
料金:無料
出演:能楽師:安田 登 
   琵琶:塩高 和之
笙:カニササレ アヤコ
歌:辻 康介
   チェロ:新井みつこ
   シンギングボウル:五味 佐和子
音楽:ヲノ サトル 

  ジョバンニ(人形):名和 紀子
ジョバンニ(声):玉井 夕海
   カンパネルラ(人形):金沢 霞
   カンパネルラ(声):佐藤 蕗子 
 灯台守:鈴木 香夜子
  鳥を捕る男:大島 淑夫 

 美術・人形制作:山下 昇平

配信動画: https://youtu.be/8zd3IRPffQA

問い合わせ:足立区こども科学館
      電話(03-5242-8161)/1階図書受付カウンター
      受付時間 9:00~20:00(休館日をのぞく)
      ※1回のお申込で1家族まで受け付けることができます(お友達のお申込はできません)。
      ※参加者が中学生以下の場合は保護者の方がお申し込みください。
      ※定員に達し次第受付を終了します。

The Summer Knows

もう夏の日差しになりましたね。私は暑いのは苦手なので、夏は毎年家の中でのらりくらりしているのですが、次なる発想にはこういう時間は欠かせない、という言い訳をしながら、のんびりさせてもらってます。
こんな具合ですので、私には「一夏の想い出」なんてロマンチックな事は、ついぞありませんでしたが、夏になると気分だけ盛り上がるのか、この曲が頭に浮かんで来ます。

私は中学生の頃、ブラスバンドでコルネットを3年間吹いていた事もあって、基本的にラッパが好きなんです。これは中でも大好きなアート・ファーマーという方の演奏。アート・ファーマーはトランペットよりもフリューゲルホーンという管の長いものをよく吹いていて、音色がとてもソフトな所が気に入っています。生演奏も聴きに行きました。
私の10代から20代の頃の記憶はjazz一色でしたので、当時を思い出す時は、必ずjazzとワンセットになって想い出します。多感な時期に熱中したものは忘れないのでしょうね。しかし最近ちょっと感じるのは、思い出すという事は、いわゆる懐かしむとは違って、何か突然昔の事が湧き出てくるという事。これは単に私自身が年齢を重ねたからなのか、それとも物事を客観的に見ることが出来るようになったのか・・?。不思議な感じをよく覚えます。
17
安田登先生、名和紀子さんと「夢十夜」演奏中 ヴィオロンにて photo 新藤義久
「思い出」とは「思い出す」のではなく「思い出る」のだと言われていますが、「思い出」とは自分の意志で~過去のデータを探すが如く~思い出すのではなく、ふとした何かのきっかけで、過去の時間が現在時間に入り込んで来るように思えるのです。普段の何気ない日常でもそうですが、昔の事を思い出しているつもりでも、その途中でふと当時の何かのエピソードや事件が浮んでくる。「そういえばこんな事が」なんて具合に当時の事が「出てくる」のです。それは能におけるシテとワキの出逢いのようなものでしょうか。
実は我々は、現実の社会的には前へ前へと進む物理的時間の中に生きていながら、脳内では時間軸を乗り越えて、現在と過去を自由自在に行き来しているのではないか。私にはそんな風に思えてしょうがないのです。一番わかりやすい例が「夢」ですね。私のように毎晩映画を観るようにリアルな夢を見る人間には、前にしか進まない物理的時間は、人生の時間のほんの一面でしかない、という事がとても良く実感できます。
7
荻窪ベルベットサンにて Vnの田澤明子先生と
その自由な時間の行き来を可能にするのが、音楽だと思っています。音楽には確かに時を超える力が備わっている。自分で演奏していても、この曲を弾くと時間を超えてしまう曲というのがいくつかありますが、そもそも音楽には時間軸を超えるだけでなく、聴いている人の感情を揺さぶったり、強い影響を与える事の出来るある種「呪力」のようなものが漲っているのだと思います。孔子は「国を変えるのなら樂を変えよ」と言ったそうですが、元々音楽は呪術性の強いものだったのだと思います。だから音楽によって、過去と現在が同時に自分の中に立ち現れ、常識的な時間の概念を何の苦も無く当たり前のように超えて、融解した時間軸の無い世界に心が行ってしまうのも当然かもしれません。
私のような人間は、普段は現実社会の常識やシステムの中で生きていても、多分に心の部分では常識や現実の枠外に生息しているので、世の縛りをあまり感じずに、のんびりとしていられるのでしょう。極若い頃には、活躍している仲間を見て羨ましいと思ったこともありましたが、もうこの年になると、他と比べるも何も、これまで生きて来た軌跡がそのまま今の姿ですので、もう世の規範軸や常識などに自分を照らし合わしてもしょうがない。
エンタテイメントの音楽をやっている人は、売れることが第一ですし、知名度もお金も大きなバロメーターなので、大いに気になると思いますが、私はそういう所はほとんど気になりません。それよりも、やりたいことをやって、こうして生きていられることの事自体が嬉しいのです。これからやりたい事もあるし、創りたい曲もあります。しかしそれが売れるかどうか、有名になるかどうかという方向に全く向きません。まあ自分の人生を楽しんでいる。そんな感じです。
5
琵琶樂人倶楽部にて photo 新藤義久

昔の事を思い出すのは日常茶飯事ですが、私は20年前の出来事が「この間は面白かったな」的な感覚で蘇ってくる事はしょっちゅうあります。そこからの物理的時間そっちのけで、まるでつい先週のような感覚で何の違和感もなく、その延長に感じることが多いです。感覚が物理的な世界を判断できず、20年前を「過去」という意識で捉えていない。今日と同じくくりの中にあり、過去という区分が無い。そんな感覚なのです。それは18歳で東京に出てきた頃とあまり人生が変わっていない、という事も大きいかもしれません。
まあ鏡を見ると随分顔は老けていて、確かに物理的時間が経過しているのは一目瞭然なのですが、どうも感覚のどこかが、時計の針の様には進まない。私の中の何かが壊れているのか、それとも人間はそもそも、時間時空を飛び越える能力が備わっていて、私はその部分の感覚が強いのか?。
京都ギャラリー
京都伏見桃山のサロン ラ・ネージュにて
少なくとも能をはじめとして映画でも演劇でも、ほとんどすべての芸術は時空を超えている、と私は思っています。目の前を楽しませ、喜怒哀楽を刺激するエンタテイメントとの違いはそこにあるとも感じています。
私がシルクロードに妙に想いがあるのも、琵琶を弾きながら、自分の中の記憶とリンクしていて、心はかの地に飛んで行っているのかもしれません。宮沢賢治の「雁の童子」なんかを読むと、あの時空の超え方と、カシュガルという場所に一気に想いが飛んで行ってしまいます。特に樂琵琶にはどこか遠い空に体が舞い上がるイメージを持っています。薩摩琵琶の方は、時間よりも精神の奥深くに入って行くものとして捉えているのですが、薩摩琵琶と樂琵琶の両方を弾く事は、己の存在の奥底へと眼を向けるミクロの視点と、古の空へと心が飛翔する時間を超えたマクロの視点、この二つの時空が同居しているようなものなのだと、今では思っています。
15
京都 清流亭にて2010年
人はずっと時間を超えて行く事を求めているからこそ、そんな呪力を持つ音楽や芸術を有史以来求めてきたのかもしれません。仏教などではこの世は「虚仮」などといいますが、この先テクノロジーが進んだ先には時間の概念も大きく変わり、誰でもが自由に時間旅行が出来るようになるのかもしれません。宮本武蔵も「観の目強く」と言っています。
視覚情報に頼り過ぎ、見えないものを見たり感じる力を失ってしまった現代人には、人間の本来持っている時間の半分しか感じ取れていないのかもしれませんね。

2021年07月14日(水)「第163回琵琶樂人倶楽部「琵琶歌の新しき世界」

< 終了しました>

場所:ヴィオロン(JR阿佐ヶ谷駅北口徒歩5分)
時間:18時30分開演 変更の場合があります
料金:1000円(コーヒー付)
ゲスト:保多由子(メゾソプラノ)
演目:遠い風 目覚めの歌 経正 他
問い合わせ:琵琶樂人倶楽部 orientaleyes40@ yahoo.co.jp

道程

ちょっとご無沙汰してしまいました。雨が続いていますね。被害も出始めたようなので注意が必要ですが、雨好人としては雨音に包まれていると、心が落ち着きます。

中島能舞台
今回の会場となった中島能舞台
先日は戯曲公演「良寛」を無事終えることが出来ました。今回はこの演目初の能楽堂公演という事で、津村禮次郎先生にとっても本領発揮できる素晴らしい場所でしたので、内容はとても充実していました。しかし空調の音が大きく、琵琶にとっては少々残念でしたね。小中規模の会場では避けては通れないのですが、何とか対策をしたいです。是非再演の際にはお越しください。
有難いことに秋には地方公演など色々と入っていて、結構忙しくなりそうなのです。夏迄は大きな公演はあまりありませんが、先に色々と予定があるというのは希望が持てますね。今後の活動がこれ迄と同じような形になるとは思いませんが、世の中の動きと共に充実した活動を今後ともやって行きたいと思っています。
DSC09287 (2)

琵琶樂人倶楽部にて photo 新藤義久

今はとにかく作曲が一番の課題です。昨年から薩摩琵琶でのオリエンタルイメージというテーマで、あれこれやっていたのですが、昨年作曲したデュオ曲「君の瞳」に続き、やっと独奏曲も出来上がりました。良いレパートリーになって行くと思います。他にヴァイオリンとのデュオの現代作品もずっと考えているのですが、こちらは譜面を書いては書き直し、の繰り返しで、まだその姿が見えそうで、見えて来ません。じっくりと取り組んで行こうと思います。

私は琵琶樂に於いて、今またアジア全域に視線が向いています。樂琵琶を手にした時から、もうアジア~シルクロードへの眼差しを持って作曲・演奏をしているのですが、これまでは、その視線が樂琵琶を弾く時だけだったのが、最近は薩摩琵琶を弾いても、ペルシャから中央アジア、そして東アジアという道程と歴史を強く感じるのです。
以前より、初期の作品で独奏曲の「風の宴」等は、都節音階で出来ているにもかかわらず、「オリエンタルですね」とよく声をかけられましたが、琵琶という楽器の持つ、全アジアに渡る道程が、響きの中にあるのでしょうね。
a21a15
日本橋富沢町楽琵会にて
Vnの田澤明子先生、Fl・龍笛の久保順さん、笙のジョウシュウ・ジポーリン君と
薩摩琵琶というと、武士道という刷り込みが明治以降ずっとあります。私も「まろばし」という初期の作品を作った30代の時には、大いにそのイメージを持っていました。しかしこれまでやって来て思うのは、武士道とか型など、形や言葉では表わせない、もっと奥にある、日本の風土が育てて来たもの。そんなものを琵琶の音の中に感じています。どういう言葉で言い表したらよいか考えあぐねているのですが、今は「まろばし」を演奏しても、30代の頃とは随分と心構えが変わってきました。願わくは、私の楽曲と演奏から、日本の風土が育てた感性と共に、遠く中央アジアを経てやってきた琵琶の道程も立ち現れて欲しいものです。
また自分でシルクロードの国々へ行って、現地の音楽家と交流してみて、琵琶属の楽器が今でも旺盛に奏でられている現実を、この目で見てから、特に琵琶はアジア全体を表す楽器だと確信を持っています。その琵琶が各地で独自の発展をして各国の音楽・文化を創っている歴史に目を向けない訳にはまいりません。

IMGP0113
津村禮次郎先生と 日本橋富沢町楽琵会にて
日本の琵琶樂が今後、次世代に受け継がれて行く為には、多様な形や感性を受け止めることが出来るかどうかだと思います。流派が出来てまだ100年という、琵琶樂全体から見たら一番若いジャンルである薩摩や筑前の琵琶では、表面の形や体裁を整えるよりも、次世代へどう受け渡して行くかの方が優先課題でしょう。
ギターでもピアノでも様々なスタイルやジャンルがあるように、琵琶でも様々なスタイルが旺盛に出てくるのが望ましいです。中央アジアの国々では、様々なスタイルの音楽が溢れていました。薩摩琵琶は弾き語りでなくてはならないなんて事はないし、流派の形以外はだめだ、亜流だなんていう村根性でいたら、今後琵琶から音楽は生まれて来ません。すぐお仲間で固まり、村を作って思考停止しまうのは日本人の一番悪しき習慣です。
21
京都 清流亭にて 龍笛の大浦典子さんと

琵琶という楽器が、各国で姿を変え、奏でる音楽も変え、国を超え、民族を超え、時代を超えて何千年とこの世に存在してきたのは凄い事ではないでしょうか。それはその時々の感性や志向に対応してきたからです。どんな国や時代に於いても、琵琶の音はその多様さを受け止め、音楽を奏でて来ました。
それが日本に入って来て、日本でまた独自の姿となって、独自の音楽を創り上げてきたその道程に、私はいつも感動するのです。

この道程を、次世代に繋げたいですね。

2021年06月26日(土)戯曲公演「良寛」中島新宿能楽堂

<終了しました>

場所:中島新宿能楽堂 http://nakashimashizuo.info/3/?page_id=10
料金:5000円(学生 3000円)
出演:津村禮次郎(能楽師)塩高和之(琵琶)中村明日香(ダンサー 朗読表現)
演目:和久内明作 「良寛」

主宰:HIAS研究所 03-3339-3422
共催:JARTS日本アーティスト懇談会
後援:現代知倶楽部
問い合わせ:HIAS研究所  琵琶樂人倶楽部 orientaleyes40@ yahoo.co.jp  

終わりと始まり

急に蒸し暑くなったと思ったら、もう早々に梅雨入りなんですね。毎年、5月半ばから6月いっぱいは一年で一番忙しくなる時期で、あらゆる所を飛び回っているのですが、今年は色々と動きはあるものの、演奏会が少なく時間を持て余しています。しかしまあこういう時にこそ、その人の中身が試される訳で、私は私のやるべきことをやろうと思います。
こういう緊急時には、色んな情報が飛び交うものですが、今はどう見ても、一つの時代が終わり、これから新たな時代が始まるのだといしか思えないですね。
2016-12江ノ島1
江の島から見た富士山

5月は両親の命日でもありますので、何かと昔の思い出なども蘇って来るのですが、その中に、とても印象深い母の言葉があります。私の母は晩年、陶芸にかなりはまっていて、施設に入る前までは毎日ろくろを引いていました。私は東京から戻って来ると、ちょうど良いサイズの器を物色しては、母の作品を持ち帰って使っていました。未だに使っているものもあります。
もう随分前、20代の頃だったでしょうか、家から持ってきた母の器が割れてしまい、何だか申し訳ない気持ちで実家に電話したのですが、その時母は「物はいつかは壊れる。気にすることはない」と言いました。私はその言葉が今でも頭に残っています。

結局形の在るもの、見えるものは、いつかは消えてしまいます。しかしそれが壊れることによって、始まるものもある。想い出というものが始まり、記憶というものが心の中に出来上がる。そして目に見えず、形の無いもの、手が届かないものだけが心に残って行く。母の言葉がそんな風に、今反復されるのです。物は勿論、音楽でも同じだなといつも思います。エリック・ドルフィーが言ったように、音楽は消えて行くもの。だからこそ心に直接響いてくるのかもしれません。それに余計なもの付け加えると、せっかくの感動も消え失せ、別のものになってしまいます。

コルトレーン&ドルフィー
J・コルトレーン&E・ドルフィー
心に残るには形が無い方が良いのかもしれません。永田錦心、鶴田錦史といった琵琶の先人、マイルス・デイビスやジョン・コルトレーンみたいな人の音楽も、今現実に響くことが無いからこそ、強く求めるのかもしれません。私がマイルス・デイビスを追いかけるのも、2度、目の前でライブを見て、マイルスの姿を目に焼き付けたことが大きいですね。2回とも20歳前後の時期という事もあり、あの時の体験が記憶となって、私の心の中に刻まれているのです。

先人達の音楽は現実にもう響かないのですが、肉体と共にその音楽も消えて行くからこそ、心に何かを受け継いだ者が、また新たな音楽を生みだして行くのでしょう。心に何かを得た者は、自分でもやらずにはいられなくなるのでしょうね。先人らが独自のものを作ったように、後に遺された人もまた独自のものを創り上げて行く。それが創造という事であり、その行為が続いている内は、受け継がれているという事だと思います。だから先人の奏で創り上げた音楽の表面の形をなぞっているだけで、その創り出した心への共感が無いものは、物まね以上にならず衰退して行く。それは必然ですね。

一つの終わりがあるからこそ、次のものを「創る」のでしょう。「創造」とは、何か一つのものが終わるからこそ、生まれ出づる概念なのかもしれません。そしてその創る根本である志だったり、その時代に生まれた理由を求め、そこから今現在という中でその魂が新生して行く。

永田錦心2かつて永田錦心は、自らが作り上げた流派 錦心流が、あまりに俗に落ちてゆく様を見て、組織の解散を宣告し、また「洋楽の知識と新たな才能を持った天才が、次代の琵琶樂を創ることを熱望する」と次世代の琵琶樂を創る者に対し、大いなる期待を込めて熱く語りましたが、残念ながら、その志を継ぐ人は彼の身近には誰も居なかった。

永田錦心は、江戸が終わり明治という新しい時代に生を受けました。新たな琵琶樂は永田錦心から始まったのであり、彼はその志をずっと持ち続けて43年という短すぎる人生を全うしました。上記の言葉は、最初から彼の心の中にずっとあった想いそのものなのでしょう。しかし彼の周りに居た人達は、あまりにも偉大なカリスマである永田錦心という存在が亡くなった事を、受け入れることが出来なかったのかもしれません。尚且つ、その志や存在理由も、音楽にばかり目を向けていて、解していなかったのかもしれません。結局の永田とは距離の離れた所に居た、鶴田錦史がその志と魂を実践して行った事を思うと、私も永田や、マイルス、鶴田という先人達とは離れているからこそ、彼らから何かをくみ取ろうとするのかもしれません。

能力という部分で考えていたら、先人の志と魂を受け継ぐことはなかなか難しいでしょう。それは時代と共にセンスが変わるので、旧価値観に於いての能力や技は、かえって次の時代には足かせになることも多いからです。琵琶の上手=いい声で歌うなんていう概念自体がもう現代で通用しないのです。表面や目の前に拘るあまり、この価値観の変異が判らない人には、そのもっと奥にある想いや志は見えないでしょうね。永田錦心は、新たな時代に新たなセンスを持って旧来の概念をひっくり返し、新しい琵琶樂を創りました。そしてそれを世に認めさせてきた。更にその先に、また新しいセンスと技術を持った天才を熱望していた。一つの時代が終わり、次の時代を生きて行くという自覚がない限り、その永田の想いは判らないだろうし、その魂が心に刻まれることはないでしょう。

天才は自分の創ったものに固執せず、また次の世界に向って新たなものを創り出してゆきます。しかし私のような凡夫は、人でも物でも、とにかく執着が常にあります。さて私は、何を創って行けるのでしょう。先人たちの起こした風をこの身に受けつつ、自分の思う道を突き進むしかないですね。

1
六本木ストライプハウスにて

両親が亡くなって実家も処分してしまいましたので、静岡には私の帰る所は無いのです。今は凪の海も穏やかな気候も、遠きにありて故郷を想うばかりです。現実に帰る場所が無くなり、失われてしまった故郷は、私の中に一つの時代の終わりをもたらし、また新しい自分の世界が出来上がったと思います。そして同時に故郷の記憶や想い出を私の中に残しました。
帰る港がないというのは寂しいものですが、これは多分に今の私の個性に影響しているように思います。割と早い段階で故郷を喪失し、一つの時代が私の中で終わったからこそ、琵琶奏者としてやって来れたのかもしれません。

終わりがあるからこそ、また始まりもある。
これからの社会、そして自分自身が、また新たな時代へと向って行くことを期待します。

© 2025 Shiotaka Kazuyuki Official site – Office Orientaleyes – All Rights Reserved.