夏真っ盛りですね。私は先月半ば過ぎからほぼひと月、夏のバカンスを頂いていましたが、いよいよバカンスも終わり。来週頭から小さな演奏会がいくつも入っていて、そろそろいつもの日々が始まります。
江の島
この一か月間はとにかく色んな人と会い、語り、あちこちと出かけ、演奏会や美術展など観に行き、普段は時間が無く出来ないことを沢山やらせてもらいました。このブログにもその時々で色々と書きましたが、数日前には来月上演の戯曲「良寛」の練習も始まり、気分も乗ってきました。
家に居る間はレパートリーの見直しや細かな編曲などをしていて、細かな歌い回しやフレーズを、今の自分に合うように全て書き直しています。つまり私の曲はどんどんシーズンごとに進化しているのです。同時に多くのことを考え、想いを巡らせ、心・技・体のバランスと精度を高めることに心がけていて、この一月は充実の一月となりました。
そのバカンスの最後には、声楽のサロンコンサートに行ってまいりました。場所は地元の名曲喫茶「ミニヨン」。今回は知人がプロデュースする演奏会で、バリトンの渡邉弘樹さんを中心にした声楽家5人によるものでした。
渡邉さんはイタリア、特にフィレンツェで活躍している方で、その豊かな声量と響きは実に魅力的で、第一部はイタリアのオペラアリアをバリトン・テノール・メゾソプラノ・ソプラノの4人でたっぷりと、第二部ではゲストに、ポピュラー分野で活躍してきた藤島新さんも加わり、今度はエンタテイメント性たっぷりの気軽なコンサートとなり、楽しませて頂きました。
写真がなくて申し訳ないのですが、皆さんレベルが高く、声楽オタクとしては、しっかり堪能させて頂きました。
ただ同時に思ったのは、今回出演の5人は日本の音楽を知っているだろうか・・・・?。そんなことも頭をよぎりました。雅楽・平曲・長唄・義太夫・薩摩筑前の琵琶唄etc.・・・・・・。もし日本歌曲のような和風洋楽しか知らず、日本の古典音楽を知らないとしたら、世界で活躍するプロフェッショナルとして悲しいですね・・・・。
歌はとても直接的に感情から何から表現するもの。彼らのその表現する感性は、豊かな日本の土壌に育まれてきたはず。先祖両親から繋がる日本という国全ての歴史が、日本人一人一人に続いているのです。世界で活躍するプロであればある程、世界一長い歴史と文化を誇る国家として今に続く日本の文化や音楽には、誰よりも精通していて当然だと私は思います。
自分の肉体に受け継がれた感性に誇りを持たなくては、聴く人の心を揺さぶる音楽は響かないでしょう。また誇りの無い音楽に愛を語り届けることは到底できない、と私は思うのです。
どんなものをやるにせよ、自分ならではの表現、自分だからこそ歌い上げることが出来る音楽を創りあげてこそ、世界で活躍する意味も出て来るのではないでしょうか・・・・。歌こそ誇りを持って歌ってもらいたいものです。
早速ラストソングがUPされていたので張り付けてみました。問題があるようでしたら削除します
今回のサロンコンサートはチャリティーということもあり、皆さん出演者のお知り合いに声を掛けたようで、お客様はご年配の方々のみでしたので、最後はこんな感じで、皆で懐かしい歌を歌ってお開きとなりました。歌声喫茶みたいでしたね。こういうのも楽しいですね。
こんな近くでこれだけのレベルの声楽はなかなか聞けないと思います。それにしても声にはやはり力がありますね。若い才能に今後を期待したいと思います。
音楽は演奏するだけで充実感があるだけに、上手に演奏したり歌ったりすることで満足してしまいがちです。頑張っている自分にも満足してしまいます。でもそれでは素敵な音楽は創れない。
今回は皆とてもレベルが高く、素晴らしい技量は堪能しましたが、世界で勉強し活躍している人がこれだけ揃っているのなら、少々欲を言えば「楽しい」のその先も感じたかった・・・・・・・・・。
あらためて素敵な音楽を創って行きたいな、と思いました。
先日、台湾の琵琶奏者 劉芛華さんと、二胡奏者の林正欣さんが遊びに来てくれました。
彼女たちは今年の5月にジョイントリサイタルを開いて、私の「塔里木旋回舞曲」「Sirocco」を演奏してくれたのです。劉さんは数年前のリサイタルでも「Sirocco」を演奏してくれたのですが、今回は第一部、第二部で1曲づつ取り上げてくれました。感謝!!
今回はその報告を兼ねての来日。日本のあちこちを見て周って帰るそうです。リサイタルの模様を収録したDVD・CDなど色々と持って来てくれて、話も盛り上がって、楽しい時間となりました。
早速今回のDVDを見させてもらいましたが、「塔里木旋回舞曲」のイントロが流れ出してから、もう鳥肌が立ってきましたよ。私のあの作品が、台北のコンサートホールで上演されているんですから嬉しいじゃないですか。それも随分と好評だったようです。
今迄、一貫して流派や協会という小さな枠に囚われず、邦楽という枠も飛び越えて、視線を外に外に向けて作品を創り演奏してきて、本当に良かったと思っています。
これからは日本でなければ通用しないというものでは、今の世の中では珍しい音楽以上のものにならないと思います。極東の民俗音楽でよければそれでもよいですが、世界を舞台に音楽を発信して行こうとしたら、感性や視野を変えない限り世界には伝わらない。クリック一つで世界と繋がれる現代だからこそ、世界の人に聴いてもらいたいのです。まあまだまだ小さい範囲ではありますが、ネット配信でもすでに色々な国の方が聴いてくれているようですし、今後に繋がる成果だと思いました。本当に嬉しい報告でした。
この日は皆で地元の蕎麦屋さん「道心」に行って、たっぷり呑みました。こういう酒は良いですね。二人ともこの笑顔。筆談も交え、これからの音楽活動のことや、色々な芸術・哲学、中国の歴史やホータンの玉の話まで、尽きる事無く楽しい話題が続きました。劉さんは今、台湾における音楽の歴史的変遷について論文発表を控えていて、博士号を取るべく猛勉強中だそうです。二人ともいい顔をしていますね。けれん無く、純粋に音楽に向かう姿が素晴しい!。
今、これまでやってきた事が色々な形で具体化してきているという実感があります。また自分の中でも、小さなことがどんどんと深化してきていて、今後更に洗練と熟成そして挑戦ということが起こって行くのひしひしを感じるのです。考え方や体の使い方、活動のやり方、自分のスタイルについてなど、自分を取り巻くことが、少しづつですが確実に変わってきているのです。
先ずはこの所書いているように声や歌という部分。従来の大きな声で張り上げる琵琶唄ではなく、もっと語りに近く、節に振り回されない新たなスタイルを創っていきたいと思います。これは薩摩琵琶だけでなく、以前もちょっとやった樂琵琶を弾きながら語るということも含め模索中です。スタイルそしてテキストなどなど色々考えて少しづつですが、形になりつつあります。
そして器楽としての琵琶も変わって来ています。テクニックを超えたテクニックがやはり必要だと思いますし、音楽を取り巻くもの全てを見渡し、順応し、コントロールして行く才能がなければ、せっかくの作品も響かない。
現在全レパートリーの見直しをしている所です。
見ている所を変えれば、おのずと世界が変わる。小さな所しか見ていなければ、小さな所にしか伝わらない。大きな世界を見据えた時に、新たな発想が生まれ、新たな感性が育まれる。大きければ良いというものではないですが、現代の世の中に見合う視野と視線を持てるかどうか。そこが器というもの。私がどこまでやれるかどうかは判りません。しかしやろうとするところがある以上やるつもりです。
また面白くなってきました。
梅雨が明けましたね。夏の耀くような日差しは見ているのは好きなのですが、暑さにはとにかく弱いので、昼間は部屋の中から眺めています。

梅雨明けの江の島
先日は久しぶりに、福原百七さんが同人として頑張っている「長唄五韻会」に行ってきました。皆さんその道の玄人さんなので、さすがのレベルでした。
私はこの会や他の会でも出演させてもらっているのですが、やる度に家元のもとで修行してきた邦楽の演奏家と自分とは、雰囲気が随分違うなと思っていました。こうして少し離れた所からじっくり聞いてみると、と改めてその違いを実感しました。
郡司敦作品個展にて
御存じのように薩摩・筑前の琵琶は歴史が浅く、組織が出来上がってまだ100年程。特に私の弾いている錦琵琶は昭和になってから楽器が出来上がり、流派として創流され、その錦琵琶の中でも私が少しばかり習った鶴田流は、「流」と言われ出したのが80年代以降ですから、何百年と組織を維持してやってきた長唄とは、もう歩く姿から何から何まで違って当たり前なのです。
それにしても五韻会の皆さんは所作が良いですね。若き家元のHさんも落ち着いた、「らしい」風情になっていました。そして面白いことに、彼らの風情は能や雅楽の人ともまた違うのです。実に興味深いですね。
私は小学生の頃からギターを弾いているので、作曲したり演奏したりする時にギターの知識と経験がとても役にたっていますが、そういう所も一つの私の風情となっているんでしょうね。先日の神戸の方丈記公演の時なども、美術評論家のMさんが「塩高さんはロックですね~~~」と言ってくれましたが、それが私という人間なのだと思います。最近はそういう自分の風情をすんなりと受け入れることが出来るようになりました。また本来の自分のありのままに生きることは年齢を重ねれば重ねる程に、大事なことのような気もしています。
私のこういう風情は、やればやる程、どんどんと邦楽の型や枠から外れて行きます。普通にやっているつもりでも、人から見るといつも俺流という風に見えるようです。こんな感じで常にno borderであるのが私の姿です。このスタイルですから。お付き合いする人も皆、枠に収まるような人は居ないですね。外国人のお客様が多いのもまあ私らしいですね。


阿佐ヶ谷ジャズストリートにて 最近は相棒がepiphoneに変わりました
最近ギターを弾くのも良いなとよく思います。毎年出ている阿佐ヶ谷ジャズストリートには今年も出ますが、とにかく思うことは、何をやろうが自分の中で繋がっているのだから、外側の目を気にすることはないということです。どこまでも自分らしく生きることに尽きると思います。今自分が感じることは何かのきっかけと必要があってこそなのだから、素直に身を委ねれば良いのです。だからこそ自分の音楽が具現化されるのです。
最近はよくブログにも書いていますが、歌に関して本当に色々と感じることが多く、弾き語りに於いては自分の歌を歌いたいという想いがとても強くなりました。「経正」「敦盛」は自分の歌として作詞の森田亨先生と創り上げましたので確かに申し分ないのですが、これだけでは足りない。歌や声をメインにしていこうとは思っていませんが、声や歌を一つの表現の形として行くのは、自分の音楽に必要だと感じていますので、もっとレパートリーに歌が欲しいのです。歌に限定しなくても語りでも、別の形でも良いのです。
岡田美術館にて
単に得意な曲ではなく、自分が人生賭けて歌いたい歌。そんなものを歌いたい。自分の中からそのまま出てきた歌を歌いたいのです。一人一人顔も声も違うように、自分だけの歌を歌いたいのです。借り物の歌では何も届かない。どんな名曲も、自分の懐に入って来て、尚且つもう一度私の中から歌が湧き上がって来ない限りは演奏は出来ませんね。
やっぱり私は創るしかないですね。まだ薩摩琵琶には古典というものが無いのですから、創るしかないでしょう。
果てしないですね、音楽は。
夏の日の徒然に・・・・・・、。
ちょっとご無沙汰してしまいました。先日のフラメンコギタリスト日野道生さんとのライブを最後に一連の連日演奏会が一段落ついて、のんびりさせてもらってます。こういう時期は良くしたもので色々なお客様が来たり、会いに行ったりして毎日楽しく過ごしています。演奏会が続いていると気持ちも張って、目付きも鋭くなってゆく感じなのですが、今は随分と気分も落ち着いてきたので、この夏は涼しい所で、ゆっくりお散歩でもしながらお茶(?)飲んで、おしゃべり三昧で英気を養いたいですね~~。
先月はバークレーで作曲を勉強中のジポーリン・ジョシュ君が、ICJCのジョセフ・アマトさんの紹介で何度も訪ねて来てくれて、演奏会のお手伝いまでしてもらい、これからの作曲作品について熱く語って行きました。日本に居る間、琵琶を貸してあげたのですが、随分と発想を得たようなので、何が出て来るかとても楽しみです。
ちょうど同じ頃、尺八のグンナル・リンデルさんがスウェーデンからやってきたので、久しぶりにゆっくりと話が出来ました。今後は一緒にヨーロッパでの演奏の機会もありそうです。彼とは琵琶での活動の最初からコンビを組んで頑張ってきた相棒なので、本当に話が尽きないのです。
そのすぐ後には、ハワイ大学のクリス・モリナ先生が焼酎を持って我が家に遊びに来てくれまして、日本の古典芸能の話や古武術の身体性、オペラ、バレエ、クラシック、現代音楽、そして現代社会の行方までたっぷりと話を交わし合って、久しぶりに芸術家と充実した時間を持つことが出来ました。
皆さん本当に情熱が溢れるようで、話していてこんなに気持ちの良い人達は他にないですね。日本の音楽・芸術家は自分を売り込むことに熱心な方ばかりで、あまり芸術を語る人がとても少ないので、こうしてゆっくりじっくり芸術に付いて話が出来るというのは本当に幸せを感じます。
来月頭には、台湾の琵琶
奏者 劉芛華さんがリサイタルの報告をしに来てくれることになっています。今年5月の彼女のリサイタルでは、二胡の林正欣さんと拙作の「塔里木旋回舞曲」「Sirocco」を取り上げてくれました。嬉しいですね。劉さんとはもう結構長いお付き合いで、リサイタルで私の作品を演奏してくれたのもこれで2回目です。彼女が最初に我が家に遊びに来た頃は、まだ勉強中という感じでしたが、ここ5,6年の演奏活動の充実ぶりには目を見張るものがあります。特に最近は活動がかなり展開しているようで、彼女が年々音楽家として充実して行く姿は、見ていて頼もしいの一言!。応援せずにはいられませんね!!
こうして日本音楽が色々な視点で語られて、新たな展開が出て来るのは何とも頼もしく、嬉しいものです。まあアプローチしてくれるのが全て外国人というのも何なのですが・・・。
ともあれ様々な国の人が色んな視点で日本音楽を見つめ、私の曲も独自の解釈を持って取り組んでくれるなんてことは、嬉しいじゃないですか。ウズベキスタンのアルチョム・キムさんなんかも民族音楽の新たな世界をヨーロッパに於いて創造していているので、期待は膨らみますね。以前タシュケントにあるイルホム劇場で演奏した、キムさん編曲の拙作「まろばし」も是非再演してみたいものです。
アルチョム・キムさんとイルホム劇場公演後に ジョセフアマトさんとICJCにて
横浜インターナショナルスクールや併設のICJC(International center of japanese culture)でもここ何年か演奏やレクチャーを重ねていますが、ここから以前紹介したレオ君やゆーじ君など、ずば抜けた才能あふれる演奏家も出て来ていますし、これから海外の作曲家が邦楽器の為の新たな曲を作り、今迄に無い世界がきっと展開されて行く事と思います。
そして今週は、久しぶりにオランダ在住のソプラノ歌手 夏山美加恵さんにもお会いして、同じくオランダ在住の笙奏者 佐藤なおみさんともお話しが出来、美味しいランチを食べながら楽しい時間を頂きました。お二人共それぞれに独自のスタイルを持ち、確固とした意見も持って音楽に取り組んでいる。今や日本人がヨーロッパで日本の楽器を演奏し、活躍している時代なのです。時代はどんどん展開して行くのですね。彼らとは、話しているだけで新たな目が開かれ、発想も湧き、実に楽しいのです。
一番最初にグンナルさんとレコーディングしたCDのジャケット (筝はカーティス・パターソンさん。皆若い!!!!!)
今、邦楽人以外の多くの人達が日本文化の深淵な魅力を感じて動き出しています。しかし当の邦楽人はどうでしょうか・・・・?音楽の外側の部分に目を奪われて、その魅力に実は気付いていないのかもしれません。雄大にして底知れぬ魅力に溢れた日本の音楽の歴史に包まれながら、霧の中を彷徨って、目の前すら見えなくなっているのではないでしょうか???。
外側から見ていると霧に包まれた風景は幻想的でとても美しい。実に魅力的です。しかしその中に居ては何も見えず、ただ流されるままに彷徨うばかり。今、邦楽に新たな視野や感性、柔軟な姿勢が備わってきたら、きっとこの霧も晴れて、そ
の姿がまた輝きだすように思えてなりません。
もう気分は夏ですね。ここ数日は昼間で歩くのに躊躇する程の陽射し。先日の関西も30度を超えていて、歩いて廻るにはかなり厳しい陽気でした。明日からまた金沢に行くのですが、少しでも陽射しが和らぐことを願っています。
そんな慌ただしく暑苦しい日々が続く中、友人から虹の写真が送られてきて、何だか気分がゆるみ安らぎました。虹というものは何ともさわやかで、からりとしていい気分にさせてくれますね。
虹には大きなロマンがあって、希望が湧いてくるような幸せな感じがする一方、彼方という思考も湧いてきます。人生生きていれば、色々な事情で離れたり別れなければならなくなった人もいますし、現世を旅立って行った知人も多くいます。ちょうどこの7月頭は尺八の香川一朝さんが旅立ったこともあって、私にはそれら幾多の別れに、虹のイメージが重なるのです。此岸から彼岸までを繋いでいる虹の、この両端の果てしなく遠い、辿り着けない程の距離は、現世に生きる我々には乗り越えられない、いや乗り越えてはならない距離のように思えてしまうのです。
拙作「虹の唄」もそんな彼岸へと行ってしまった人達への想いが曲となって、す~~と心の中に降りてきた時に出来上がりました。そして何年も弾いている内にまた多くの想いが曲に乗り、自分の中でどんどんと意味を持つ曲となって行きました。あまたの別れの中にある未練や、悲しさ、感謝、希望・・・・等々あらゆる心の風景が、この曲に乗って私の中を巡って行くのです。
私は作曲する時にはいつも譜面を書きながら作るのですが、この曲だけはふわっと降りて来るように勝手に指が弾き出して、修正することも無くそのまま最後まで湧き出て来たのです。こんな曲は今迄無いですね。大概は構想を元にモチーフを作ったり、色んなパーツをくっつけたり外したりして、推敲に推敲を重ねて作るのですが、この曲だけは全くそういう作業がありませんでした。未だに不思議な感じです。
ルーテルむさしの教会にて
人間色々な時がありますが、自分がやりたい事をまともにやっている時は一番幸せを感じますし、周りにも幸せをもたらすのではないでしょうか。周りを見ても、心底自分に向き合い、やりたいものをやっている人は魅力的です。
私は琵琶で活動を始めた最初から先鋭的だと評され、自分自身でも先鋭的且つ最先端でありたいと願い、従来のルールが何であろうと、誰が何と言おうと自分のやりたい事をやりたいように実現して来たつもりですが、この所御縁がある灰野敬二さんのような超前衛を突っ走ってきた先輩と一緒に居ると、自分の詰めの甘さがよく見えて来ます。知らない内に色々なものに振り回され、本来の自分の生き方が歪んでしまっている部分があるのでしょう。だからこそ事あるごとに、更に更に自分自身であろうとする気持ちが旺盛に湧き上がります。言い換えれば、まだまだ自分本来の生き方には至ってないということなのかもしれません。
そんなことをつらつら考えていると、虹の彼方へ旅立つというのは、ある意味で自分の本来の人生へと向かう、一番解放された瞬間なのかもしれない、なんてことも思うことが多くなりました。
カリブの夕暮れ
人は、何事も手が届かないからこそ求めるのです。これを業というのかもしれないし、宿命ともいえますね。私はいつも常に「もっともっと作曲しなければ」「もっと自分のスタイルを明確にしたい」と同じことばかり何十年も言い続けて今に至ります。聴いている周りの人はさぞかし迷惑だろうとも思うのですが、本当にもっともっとという想いが消えることはないのです。まあここが無くなったら音楽家としてお終いかもしれませんが・・・・。
上手かどうかなんてのは、私にとっては面白くないのです。そんな感覚はアマチュアと同じ視点でいるということです。舞台に立つ人間は圧倒的であり、それを舞台の上で具現化ですることが出来なくては舞台人とは言えないのです。出来上がっているスタイルの中で「お上手」にやっても、それはお稽古事という所から何も抜けていない。そういう感覚を捨てられない人は、せいぜい肩書き並べて、先生と言われご満悦なのでしょう。
今迄に無いものを創り出し、それを舞台の上で具現化しないと気が済まないのが、私という人間です。永田錦心、マイルス、ドビュッシー、ジミヘン、パコデルシア、魯山人、、、、私が憧れてやまないこういう人達は当時の世間の常識やセンスを飛越え、ぶち壊し、世に自分の創りだしたものを示し、それを認めさせました。だから次の時代が見えてきたのです。
私のような人間は、もっともっとと言い続けながら虹の彼方へと旅立ってしまうのかもしれませんが、こういう生き方も自分らしければ良いのではないかと思います。時に悲しいこともあるでしょうし、落ち着かない人生とも言えますが、スリルに満ちた日々は私をワクワクさせてくれます。
私が虹の彼方へと行く時がいつかは判りませんが、私は私の人生を淡々と歩んで行きたいですね。喜びも悲しみも包み込んで・・・。