来たるべきもの

このところ公演が続きまたまたご無沙汰をしてしまいました。先ずはこのところの活動報告を。

Photo 薄井崇友

月頭のアート川崎2016では、映像のヒグマ春夫さん、サックスのSoon・kimさん、ダンスの牧瀬茜さんとのカルテットでパフォーマンスをやってきました。このチームはもうそろそろ定番となってゆく感じですね。チームの名前も考えてよい時期に来ています。近々動画もアップできると思いますので乞うご期待!!

月さびよ2次は劇団アドックの「月さびよ」。私は今回役者としても少し出演し、細川幽斎(藤考)というガラシャの義父の役をやらせていただきました。まあ二言三言なのですが、それでも慣れないことをやるのは緊張します。加えて二日目の公演には細川護煕さんがお見えになっていて、開演前に楽屋で色々とお話もしてくれたので、ご先祖様としてはとちる訳にもいかず、久々に良い汗をかきました。

終わってすぐには、古澤月心さんがやっている「平家を語る」というサロンコンサートで演奏しました。月心さんが風邪で声が出ないとのことでしたので、私が代打で出たのですが、皆さん常連さんたちで、いつも月心さんの琵琶を聞いているので、私のモダンスタイルの演奏が珍しかったらしく、けっこう楽しんでくれたようです。とても雰囲気がよく良い感じで勤め上げる事が出来よかったです。

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すぐあとには107回目の琵琶樂人倶楽部。今回は「敦煌琵琶譜を巡って」というタイトルで、敦煌琵琶譜から「急胡相問」、天平琵琶譜から「番假崇」などやらせていただきました。お客様も沢山いらしてくれて、10数年ぶりに会う方や最近琵琶に興味を持って通ってきてくれる方など、色んな方がみえてくれてにぎやかな会となりました。本当に毎回有り難い時間となっています。もう10年、毎月毎月やっていますが、やはり続けるという事は大事ですね。

こうして多くの演奏の機会を頂き、本当に嬉しい限り。今琵琶を生業として生きて行けるという事はまあ奇跡でもあるし、とにかく様々なご縁に包まれているという事です。

私は決して真面目な人間でもないし、毎日練習なんてこともしません。むしろ楽器の練習は昔からほとんどしない。優等生の真逆を行く人間です。何も無頼を気取っている訳ではないのですが、自分で意識していなくても邦楽界の常識やルールは自然と飛び越してしまいます。琵琶界の常識などは私には最初からないので、周りの先輩方々はきっとやりにくいやつだと思ったことでしょう。自分の持ち物は、楽器だろうと服やバックだろうと何でもカスタム化しないと気がすまないし、やる事なす事すべてが「俺流」で生きてきた人間ですので、どうにも流派や協会などの暗黙のルールや理不尽な常識のあるようなところには、とてもはまりきれません。そういう人間が、ただただ御縁に包まれて生かされてきただけです。この御縁あってこその今ですから、これを忘れるようでは、琵琶奏者としてはやっていけません。

ヒグマ春夫「海辺の知覚」にて、ダンサー杉山佳乃子さんと

そんな私が最近何か一つ壁を越えたような気がしています。まだ漠然とはしているのですが、ひとつは声に関して。もう一つは独奏曲について「何かを越したという実感」がこの頃しているのです。
ここ数年また即興演奏にも取り組んでいる事もありますが、自分の中で解決できなかったものに、どうにかこうにか道筋が見えてきたのです。特にSoon・Kimさんや灰野敬二さんなど、自分が元々やっていたジャンルの人たちとまた関わる事で、本来の自分を取り戻しつつあるといってもよいかもしれません。
これまで琵琶を手に自分の音楽をやってきたのですが、いつしか求めるあまりに無理を強いてしまう事もあったのでしょう。今、邦楽という枠を離れて琵琶を弾いているのが、とても自分らしく自由に出来ていると思えるのです。自分の行くべき道や居場所がはっきりしてきたという事でしょうか。

12月5日キッドアイラックアートホールにて灰野・田中・塩高によるライブ

何かまた新たなものが迫りくる感じですね。来月には上記フライヤーの灰野、田中、私によるトリオでの即興演奏もありますし、先日このトリオでレコーディングしたCDもそろそろ出来上がってくる頃です。来年には薩摩琵琶のアルバムもまた創りたいです。またまた面白くなってきました!

Live !!

先々週の阿佐ヶ谷ジャズストリートに続き、29,30の土日は高円寺フェスというイベントがありました。杉並区はとにかくお祭り好きで、秋は毎週どこかで大きなイベントをやっています。

高円寺フェス2016

その土曜日には、昼間国立劇場で高野山の声明を聴きに行ってから、夕方ふらりと高円寺の賑わいの中に繰り出したら、歩き出したとたんにブルースギタリストのホセ有海さんとばったり。今日はライブだから聴きに来ないかというお誘いに乗って、ペンギンハウスに行ってきました。ここは私が20歳くらいの時に演奏した事があるお店でもあり、ホセさんが参加している「仲田修子バンド」はご機嫌なサウンドで知れているバンドなので、二つ返事で行ってきました。

ペンギン2016ホセさんライブ中
会場に行くと、何とびっくり筑前琵琶の田原順子先生が居るではありませんか。田原先生は琵琶の世界で唯一話の出来る先輩であり、私が今やっている事を20年30年先駆けて実践してきたパイオニア。こういう人が居たからこそ今の私があるといっても良いほどの方なのです。その田原先生が来ているなんて感激でしたね。となりに坐らせていただいて、じっくりと話をする事が出来ました。田原先生はホセさん、仲田修子さんとも長いお付き合いだそうです。さすが!!こういう先輩は他には居ませんよ。

そして今回はゲストの対バンがあると聞いていたのですが、そのバンドが想像をはるか超えるご機嫌なバンドだったのです。いや~~ドンピシャという感じで久しぶりにはじけました。また是非聴きに行きたいバンドです。田原先生もノリノリ!!
モンスターロシモフ http://monros1234.boy.jp/top/

この熱狂、そしてパフォーマンスが琵琶には無いのですよ。残念で仕方がないですね。お稽古した曲を上手に弾くというところで止まってしまっている。舞台全体を視野に入れてやらなくちゃ!!。
ロシモフにプッシュされたかのように、その後の修子さんバンドもいつになく気合が入って、ホセさんのギターも炸裂!!、いつも本当に良い音を出してますな。私も琵琶でこういう音を出したい!!

2016高円寺フェス
尼理愛子・金澤白文

毎年この時期は演奏会シーズンの真っ只中なのですが、10月半ば過ぎの土日は強制的に仕事を入れないという内なる心が働いているのか、ここ数年は奇跡的に時間が空いているのです。次の日も高円寺フェスに繰り出して、我らが愛子姐さんはじめ、高円寺ではおなじみの「Go Go Marchans」など彼らのサウンドを我が身にたっぷり染み込ませてきました。こんなに体が踊りだすのも久しぶりでしたね。愛子姐さんは何とも哀愁を誘うような「和」っぽい雰囲気に磨きがかかりましたね。
やっぱり中央線は面白い。もう30年に渡りこの辺りに住んでいるのですが、年々街が盛り上がってきている感じで、益々好きになりますね。

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先日の阿佐ヶ谷ジャズストリートにて、フルート吉田一夫君、ベース川原淳君と

やっぱりライブバンドは凄いパフォーマンスを持ってますね。私はどうも仏頂面なせいか、逆立ちしてもこういうパフォーマンスが出来ないので、自分が出来ない分、ライブバンドには昔から憧れがあります。しかしながら自分にはやっぱり琵琶が一番似合っていると思うし、エンタテイメントよりも、静かなギタートリオみたいなものが合っています。年をとればとるほどに音楽を通して自分が見えて来ますね。

13ヒグマ春夫映像パラダイムシフトVol.77 尺八の田中黎山君、ダンスの小松睦さんと
音楽には熱狂というものが一つの大きな要素だと思います。ノリノリのロックンロールという事でなく、私の琵琶を聞いて静かなる熱狂を感じてくれる人がいたら本望ですね。尺八と琵琶の「まろばし」や、独奏の「風の宴」をやっている時にはそんな手ごたえを感じますが、琵琶のインストものの分野はなんとしても今生で確立したいです。

音楽はどんな音楽であれリスナーに聴いてもらってこそナンボ。クラシックでも雅楽でも形は変われども、こういう音楽の本質は変わらないでしょう。今邦楽はどうでしょう???。世間とは関係なく、小さな業界内に向けて自分の存在を必死に誇示しているように思えてなりません。リスナーを忘れていないだろうか。

どんなやり方でも良いと思いますが、かつての永田錦心や鶴田錦史のように聴いている人を巻き込んでしまうような熱狂が是非欲しいですね。優等生芸では、誰も振り向いてはくれないのです。

高野山声明からロック&ブルースまでたっぷりと酔いしれ、久しぶりに血沸き肉踊る感覚を味わった二日間でした。

学ぶという事

ちょっとこのところ更新が間延びしていてすいません。この秋もお蔭様で、色んな仕事を頂いて忙しくさせてもらってます。毎年順調に(奇跡的に?)お仕事の量も質も上がり有り難い限りです。とにかく常に心して音楽に立ち向かうのみですね。

先週は定例の日本橋富沢町樂琵会、そしてこれも毎年恒例の阿佐ヶ谷ジャズストリートで演奏してきました。

             日本橋富沢町樂琵会にて、笛の大浦典子さんと

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私が活動をしてゆく上でいつも心がけている事は、囚われないという事です。同時に、あらゆるものに関心を持つという事です。人間がんばっていると、得てして頑張りが拘りになり、頑なになって、自分の価値観以外のものを受け入れようとしなくなるものです。世の中にはあらゆる考え方があり、それぞれに価値があります。自分の考え方が絶対という人は、次第に自分に頷いてくれる人としか交流しなってしまいます。まあ他のものが入ってきて自分のこだわりが崩壊してしまうのだとしたら、元々その程度のものでしかないということですね。
世界情勢や自然環境を見ても同じですが、様々なものを受け入れてこそ、個というものの存在が成り立っていることを思えば、日々の生活も音楽も世の摂理も同じですね。

3小劇場プロットにて
私はともすると小さなもに囚われてしまうので、常に我が身を振り返るようにしています。幸いよきアドバイスをくれる友人知人先輩も周りに沢山いて、日頃からよく話をするので、自分で見えないところも多々気づかせてもらってます。
のんびりと日々お散歩していても、自然の移り変わりを見て下手な短歌を作ってみたり、美術音楽文学問わずいろんな芸術家や作品に接して、その魅力をどんどんとこの身の上で体験して、感じるよう心がけています。

日々は常に驚きと刺激の連続。色んな人に知り合うことも多いし、美味しいものにも多々出会う。いろんな場所に行って、いつもと違う風景に接していると、自分を取り巻く世界が小さくならずに、どんどん豊かに広がって行くのを感じます。

2016川瀬写真1 (2)
鎌倉其中窯サロンにて 撮影 川瀬美香

こうして何とか活動をしていているのですが、やればやるほど学ぶ、創る、表現する、といったことが一つに繋がって行きます。形を限定するのが好きな日本人は、「~~でなければだめだ」と声高に言いますが、時代は刻一刻と変化し続けているのです。それに伴い表現の仕方は勿論の事、学び方も色々変わって良いのではないでしょうか。

現代人は和服を既に来ていませんが、日本人としての意識はちゃんと皆持っている。けっして形の問題ではないですね。形に拘るとかえって現代の社会とのギャップが生まれてしまいます。学び方も教え方もどんどんと変化すべきと私は思います。

世阿弥世阿弥
邦楽では「守・破・離」ということとがよく言われます。学び方の基本としては素晴らしいものだと思っていますが、それに囚われてもいけないと思っています。薩摩琵琶では、未だに生徒を自分の色に染めようとする先生もけっこう居ますが、私はそういう教え方には大反対です。プロとして生業にしている能や歌舞伎などの伝統芸能の先生ならまだしも、薩摩琵琶にはプロとして生業にしている人はほとんど居ません。正直なところ、「プロでもない人がいったい何を教えているのだろう??」と思います。私だったら、その道で食べてもいけないような状態では、とても人には教えられませんし、習うのならその道のプロに習いたい。

歌舞伎や能などの伝統芸のは文化そのものを教え、更に技も知識も教えるからこそ機能しているのです。だから所作一つにしてもちゃんと意味が判るようになるし、古典の知識も歴史も自然と身につく。決して技だけを教えている訳ではないのです。
残念な事ですが、薩摩琵琶では所作が出来ているなと思える人がほとんど居ません。「所作など大したことではない」と言い張る先生もいます。とんでもないことです。結局日本文化を何も判っていないとしか思えません。琵琶を弾く前にこういうところが出来て居なかったら、日本の音楽にはならない。歌舞伎は何が凄いかといえば、舞台に関わる全員が江戸の風情を身に付けているということですよ。文化そのものを教育しない限り、小手先の業だけを教えても何も伝承されないことは明らかでしょう。

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能などの古典として洗練を経て成立し残っているようなものは、一度現代という視点をはずして、先ずは真似るというところから入るのは大事なことでしょう。しかし薩摩琵琶のように、流派というものが出来てまだ100年程で、現行の曲が大正や昭和に出来た曲という新しい芸能でしたら、今はどんどんと時代とともに変化していかなくてはいけない時期です。創っては壊すということを繰り返して、更に100年200年とやり尽くしてから初めて洗練が始まるのです。そこからは古典音楽としての深みと魅力が出てくるでしょうから、また学び方も変わる事でしょう。今はあらゆる曲が次々に作られ、色んな演奏家が出てきて、色んな学び方が乱立する百花繚乱状態であるくらいが好ましい。

伝統ものを学ぶ人には、何でもきちんと言われたようにやるのが良いと、優等生的に固くなる人がやたら多いですが、ロックもジャズも皆そんな風にお勉強していたら生まれ出て来なかったでしょう。ティーチャーズペットほど見苦しいものはないです。
一人づつ顔も姿も違うように、学び方も創り方も自分なりで何でも良いのです。60代70代の先生と20代の若者では良いと思うものや音色が違うのは当たり前なのです。

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兵庫県立芸術文化センターホール 方丈記公演にて

今、新ためて学ぶ、創る、演奏するということが私の中で展開し始めました。まあ年を重ねれば重ねるほどに、囚われからも離れ、自分らしくなってゆくのは良いことですが、私がこれまで何か引っかかっていた事がすんなりとほぐれてきたという気がしているのです。
このところ取り組んでいる琵琶唄の問題も一皮向けてきました。琵琶では「語り」と言い張る人が多いですが、往年の琵琶名人の演奏を聴くと、私には皆「うた」に聞こえます。唯一例外的に鶴田錦史の声は「語り」に聞こえますが、永田錦心や水藤錦嬢は「うた」だと感じます。今も琵琶で「語り」系の人は聴いた事がないですね。鶴田錦史が薩摩琵琶100年の歴史の中では異質なのかもしれません。音楽が良ければどんな形でも結構だと思いますが、私は「うた」を歌う人ではないし、さりとて「語る」人でもないので、やはり声を使うのなら、今までとは違う自分独自の声の使い方を創って行くしかないだろうと思ってます。

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琵琶樂人倶楽部100回記念演奏会 尺八の田中黎山君と

そして「琵琶の音が聞きたい」という声を今年も沢山聞きました。私はこれが現代日本人の素直な意見ではないかと感じています。琵琶の演奏会に来たのだから琵琶の音色を聞きたいというのは当たり前。ろくに琵琶を弾かずに調子っぱずれのうなり声ばかり聞かされては、琵琶ファンが増えようがありません。また「琵琶って弾き語りでやるの?」という意見もしょっちゅう言われます。それだけ弾き語りでやるものという認識すらも現代日本人にはないのです。私自身もそうでした。単に琵琶という楽器を弾きたかったのです。
琵琶のお稽古をしている人だけが「薩摩琵琶はかくあるべき」と思っているのかもしれません。

ショウビジネス云々ということではなく、聞く人あっての音楽という部分は忘れてはいけませんね。神様でも人でも聴いてくれる人、聴かせる対象が居なくなったら、もう演奏する意味はなくなります。
若者には自由に学んで、新たな琵琶楽を創って行ってもらいたいものですね。

秋の風に乗って

すっかり秋の風情になりましたね。
夏の暑さが苦手な私としてはやっと自由に動き回れる季節が来て嬉しい限り。また秋は色んな演奏会が本当に沢山会って、琵琶奏者としても充実感が溢れてきます。
先日は映像のヒグマ春夫さんのインスタレーションにて演奏してきました。5日間のインスタレーションでしたが、5日間ともダンサーの杉山佳乃子さんが踊り、毎日演奏する人が変わるという面白い企画でした。最終日には久しぶりに私の1stアルバムのメンバー3人が揃って、10年以上の時が一気につながって盛り上がりました。また面白い事が始まるるような予感がしています。

        

ここ数年、特に去年よりまたアート系の場における演奏の機会が増えてきました。私は元々こういう所から活動が始めた事もありまして、色んなジャンルのアーティストが集う現場こそが自分の居場所であると思っています。「琵琶楽を芸術音楽にしたい」という永田錦心の言葉を私なりに実践して行くには、自分ひとりでやっていても何も成就しません。心ある芸術家との旺盛な交歓と連携が不可欠です。凝り固まった世界から琵琶という楽器を解放させるためにも、今後はアート系の舞台に積極的に出て行こうと思っています。

兵庫県立芸術文化センターホールにて

今迄多くのものに導かれ、その時々で自分なりに色んなことを考え、実践してきましたが、やはり自分にとって一番自分らしいことをやるのが良い結果をもたらすと実感しています。負けず嫌いで意地を張って、「負けたくない」の一心であれもこれもやっていては、たとえ一度上手くいったとしても後が続かない。逆に自分に出来ない事を自覚する方が、良い部分を伸ばせると思っています。それは何もコンプレックスを持つという事ではなく、自分を知るということなのです。

また自分の信念というものを持つ事で、逆にそれに囚われて、視野を狭くしてしまう事も十分に気をつけなければなりません。活動をしていれば自分の方向性も見えてくるし、考え方も固まってきますが、自分の嫌いなところ、興味のないところに価値を見出さず、避けて、排除しているだけでは了見の狭い偏屈な音楽しか出てきません。どんなものでもそれを支持する人がある以上、何かしらの魅力があるのです。

3良寛公演より
なかなかこうしたバランスを取るのは難しい。だから活動をすればするほどに、自分の器というものを問われているんだと感じます。上手いとか凄いなんて言われる所で留まっていては、いつまで経っても小さな村社会から抜け出せません。どれだけ魅力ある音楽であり舞台であるか、そこまで行かなくては舞台人とはは言えません。
時には凝り固まった権威や組織と戦う事も必要でしょう。永田錦心やパコ・デ・ルシアなどを見てもそう思いますが、しかし一方では音楽に対する純粋な愛、ひいては人間に対する深い想いというものが溢れていないと、音楽は成就しないのです。こういうところの器が必要なのです。

この秋は色々な仕事をさせてもらっています。この幅こそ今の私には必要。エンタテイメントの舞台には行きませんが、秋風に乗って豊かな世界が響き渡るよう、良い仕事をして行きたいと思っています。

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明日20日(木)は第5回目の日本橋富沢町樂琵会があります。今回は樂琵琶の特集。私にしか出来ない、樂琵琶の深遠な世界を聴いていただこうと思っています。是非御贔屓に。

過ぎ行く日々2016年秋

このところ演奏会続き出ご無沙汰してしまいました。こうして色々なお仕事を頂くのは本当にありがたいこと。まだまだこの秋は演奏会が続くのですが、まずは最近の報告から。

今週はまず最初に、和歌山にて玉津島神社での奉納演奏、アートキューブホールにてコンサートをやってきました。

              

演奏の後は海南市の蒲公英工房にて、ゆっくり自然を満喫!。こういうところに定期的に身をおいて英気を養いたいですね。

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次は第106回琵琶樂人倶楽部「次代を担う奏者達Ⅳ」をやってきました。今回は筑前琵琶の依田旭人君、平家琵琶の津田文恵さんに演奏してもらいましたが、若手ががんばっているのは頼もしいですね。ぜひ協会や流派という小さな枠の中に納まらないで、どんどん活躍して欲しいですね。琵琶樂人倶楽部では来年も既に一年間のスケジュールが決まりまして、琵琶楽のレクチャーを中心にしながら、面白い活動をしている琵琶奏者もどんどんと紹介して行きます。乞うご期待!!

常光院

そして写真がまだ届いていないのですが、久しぶりに熊谷の常光院にて十三夜観月会で演奏してきました。常光院のご住職からは今までにも何度となく声をかけてもらっていて演奏しているのですが、熊谷ですから定番という事で、第一部では「敦盛」を演奏しました。第二部ではお客様からのリクエストもあり、本当に久しぶりに「壇ノ浦」を演奏しました。この「壇ノ浦」は鶴田先生の作品に、私が手を入れたものですので、「敦盛」や「経正」など、歌詞から曲から私が作ったオリジナルではないのです。そんな事もあって、いつかオリジナルな形にしようと思いつつ、久しく演奏していませんでした。
しかしどういうめぐり合わせか、前日の夜、鶴田先生の夢を見たのです。それもかなりリアルな夢でした。また2部の演奏の前にお客様から声をかけられて、その時に「壇ノ浦」という言葉を聞いて、なんとなく「やってみよう」という気になったのです。当然練習は一切やっていないのですが、これが近年にないほどの出来で、何かにぐいぐいと押されているかのような感じだったのです。不思議なもんですね。

ヒグマ春夫映像インスタレーション「海辺の知覚」
10月15日 19時開演
明大前キッドアイラックアートギャラリー(5F)
予約1500円 当日2000円

さて今夜は、キッドアイラックギャラリーにて開催されている、ヒグマ春夫さんの映像インスタレーションで演奏します。5日間に渡り毎日ゲストを迎えてやっているのですが、昨日はフルートの吉田一夫君、今夜が私、明日はチェロの翠川敬基さんです。この3人は私の1stアルバム「Orientaleyes」のメンバーでして、実は人選も私がやらせていただきました。

これは昨夜の吉田君の舞台。ダンサーは5日間通して踊っている杉山佳乃子さん。
ヒグマさんとの仕事では、映像の世界という完全な異次元の中に放り込まれることもあって、いつも面白い事が起きるので、とても楽しみです。決まりきった形しかやろうとしないようでは、いつまで経ってもお稽古事から抜け出せない。永田錦心が目指した「琵琶を芸術音楽にして世界化するのだ」という理念を実践するには、どんどん小さな世界の慣習や常識を飛び越えて行には、こうしたアーティストとのコンビネーションは不可欠ですね。

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和歌山アートキューブホールにて

世の中、自分の思うように生きるというのは難しい事ですね。それでも私の場合は私がやりたいと思うことが仕事になってきているので、とても充実した活動をさせてもらっています。曲を自分ですべて書いているという事もありますが、本当にこうして自分の作品でお仕事をさせていただいているのは、生かされているという想いが日に日に強くなってきています。あらゆるところに感謝しかないですね。

今後は更に心のままに生きてゆこうと思います。たとえ孤独でも誇り高く、自らの心に純粋に・・・・。
まずは器楽曲の更なる充実が最優先ですが、やはりいつも書いているように唄の部分の改革も必要ですね。ただ大声を張り上げてこぶしまわして唄うスタイルの演奏では、私の世界は全く表現できないので、全く違う琵琶と声のスタイルを作りたいです。これが出来上がったら、琵琶がまた面白くなるんじゃないかと思っています。

時代と共に生きてこそ音楽。囚われこそは音楽・芸術の対極にあるものだと思うのです。

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