心残り

先週は3本の舞台があり、それぞれに良い雰囲気で務めることができました。今週末からは九州、関西を回ってきます。いつも写真が無いのですが、SNSなどで紹介してくれた人も居るようですので、どこかで見かけましたらご覧になってみてください。

先ずは定例の琵琶樂人倶楽部。今回は源氏物語と琵琶ということでお話をさせてもらいましたが、まだちょっと自分の中で整理不足で、とりとめのない話になってしまいました。もっと時系列をはっきりとして、物語に込められた意味も明確に説明しないと駄目ですね。反省しきりではありますが、なかなか面白い視点が見えてきましたので、もっと自分なりに掘り下げていこうと思います。今迄自分でも埋まらなかった所が見えきたので、今後のレクチャーはもっと充実して行くと思います。

一番最初にヴィオロンでやった時の様子 
次ぎは日本橋富沢町樂琵会。伊藤哲哉さんを迎えての「方丈記」の上演でしたが、こちらはとても良い雰囲気で演奏することが出来ました。この写真は一番最初にヴィオロンでやった時のものですが、今回は伊藤さんが僧形、私が色紋付という出で立ちで演奏しました。

昨年の兵庫芸術文化センターホールでの公演
こちらは昨年の公演。昨年はベースを入れたり、映像と組んだりして色んな形でやりましたが、やっぱり二人だけでシンプルにやるのが一番しっくり行きます。部分的にはまだ練り上げられていない部分もあるのですが、あまりかっちり作り込み過ぎるより、このくらいの自由さがあった方が良い感じがしています。このコンビでは今後も「方丈記」をやっていこうと思っています。

3つ目は成美教育文化会館にて行われた、ヴァイオリンの糸井マキさんと私とのジョイントコンサート。第一部が私、第二部が糸井さんという構成でやりました。直接共演は無かったですが、とても良い機会でした。壇ノ浦の弾き語りも、いつもとちょっと声を変えてやってみたら気持ちよく響いて、歌い終わった後の空気感はなかなかの緊迫感が漂いました。しかしこの演奏会にはどうしても一つの心残りと、大いなる反省がありました。

問題は2曲目の「風の宴」。この私の代表曲には、鶴田先生の作品「春の宴」を参考にした長いトレモロが前半にあり、そこが一つの聞かせどころなのですが、その大事な部分で右手が乱れ、トレモロが切れてしまった。こんな事は今迄に無かったことですし、あり得ないミスタッチ。自分でも愕然としてしまいました。技術が落ちたのか、練習不足か・・・・。第二部での糸井さんの完璧なまでのテクニックを聞きながら、何とも自分の力不足が悔しかったです。
この年になってもまだまだ未熟。とにもかくにも私の力の無さとしか言いようの無い考えられないミスでした。「風の宴」全体の演奏も大雑把な感じになってしまって、次の朝起きてもどうにも心がすっきりしない。技術そして精神の両面から今一度向き合わないといけません。今後の演奏にもこの経験を生かして行きたいと思います。

厳島神社奉納演奏にて

私のスタイルは何とか流の演奏ではないので、基準とするものが無い代わりに、一般の方が聴いて、とにかく音楽そのものが、他には無い魅力に溢れていてこそ聴いてもらえる価値があるのです。そういう音楽を常に作り出すのが私の仕事です。そのためにも予定調和なものでなく、リスナーの想像を超えるようなものを常に提供すべきだと思っています。しかしその音楽を表現する以前に、技術が追いつかないようではどうにもならない。

やればやるほどに高いクオリティーを求められるのが私に与えられた現実。またそれが実現できてこそ仕事にしてゆけるというもの・・・・。今回は全体としては上手く行ったとしても、本当に深く反省すべき演奏でした。

来週末は鹿児島そして大阪・京都とサロンコンサートが続きます。納得行かないものは後に残るのです。心残りのないクオリティーの高い演奏を目指します!!!。

行く川の流れは絶えずして

この時期は鴨長明の命日(6月10日)ということで、昨年に続き方丈記の公演をします。勿論語り手はいつもの伊藤哲哉さん。今年は二人だけでシンプルにやろうということで、日本橋富沢町樂琵会での上演です。

昨年の公演 兵庫県立芸術文化センターホールにて

6月が命日といっても旧暦なので本当は7月なのですが、昨年は没後800年という事もあり、大体この時期というくくりで、昨年は6月10日に相模原南市民ホール、30日に兵庫の県立芸術文化センターホール(上記写真)という公演を張りました。
今年は随分地味なのですが、その分照明や映像の縛りもないし、シンプルに何の演出も無くやるので、自由に弾いて語って、のびのびとリハーサルをしました。伊藤さんとは長い事あれこれやってきているので、即興的にやっても問題がないどころか、面白いものが出てくるのです。

元々随分前に私の方から伊藤さんに「方丈記」を一緒にやってみませんか、というお誘いをしたのが始まりです。最初は定例の琵琶樂人倶楽部でやり、それがわりといい感じだったので、そこからどんどんと発展していきました。

明日16日は日本橋富沢町樂琵会へ是非お越し下さい。

鴨長明

私は鴨長明の感性が結構好きなんです。長明はかなり器用な方だったらしく、自分で琵琶や筝を作ったそうで、それも分解型だったようです。「方丈記」の中に「折筝・継琵琶」という記述が見えます。その自作の琵琶がなかなかの出来だったらしく、天皇に所望され(長明からすれば取り上げられ)、うじうじと愚痴をこぼしたり、他にもちょっとネガティブともいえるようなものの見方をしたりしていますが、そこが何とも素直な等身大の長明を見るようで好感が持てるのです。
私は一方で、道元のような厳格なまでの求道者にも憧れるのですが、鴨長明のような等身大の姿を素直に晒している人物に出会うと、何とも親近感を覚えます。

また「行く川の流れは絶えずして~」という考え方は、私が度々書いているヘラクレイトスの「パンタレイ」や「諸行無常」と共通した考え方でもあります。
人間は目の前のものに囚われ、せっせせっせと財を築き、名誉を求め、成長しようと努力しますが、その築いたものを守ろうとし不安になったり、戦ったりして、際限なく「業火」の中をさまよい歩くのが常。もういにしえの昔より何も変わらないですね。それを俗世というのでしょうが、そんな人間社会の中にあって、長明は人間の俗欲をしっかり認識しながらも、自由無碍な世界に遊んだ人という印象を私は持っています。
道元や良寛のようには、なかなか生きられませんが、俗の中にありながらも、俗に流されない長明のような生き方、世の中との接し方は、一つの私の指針でもあります。

私は自分が振り回されないようにするためにも、欲望が溜まっている所にはなるべく離れているようにしているのですが、それはまた自分の中に多くの欲望が渦巻いているということでもあるでしょう。
人間はいつになっても己の欲からは逃れられず、物欲や食欲は勿論の事、いい年になっても色欲からも逃れられません。最近も「ちょいワル親父のナンパ術」などという記事が話題になっていましたが、情けないと思うと共に、それが実際のオヤジ世代の姿なのでしょう。それを素直に認めた上で、それに振り回されない。いつもそんな風に心がけていても、なかなか・・・。
ごくごく普通に生きている人も、何かのきっかけでその内に秘めた俗欲が噴出してくるものです。特に芸事やっている人は、ふとしたきっかけで○○大学の講師だの、○○賞だのと、肩書きをひけらかすようになる例も多いですね。ライブハウスでがんばっていた人が突然、○○流のお名前で、ホールを借りてリサイタルなんてやりだして、びっくりしたこともあります。
いくら格好つけて一匹狼を気取っていても、その心の中ではそういうものを激しく求めているということでしょう。言い方を変えれば、そういうアピールこそが表現活動ともいえるのかもしれませんが、私はそんなものに流されたくないですね・・・。

「方丈記」を読むと自分の姿が見えてくるようなのです。

時々ブログに登場する故H氏は、そんな私の弱い部分を見抜いてアドヴァイスをしてくれました。まわりの色んなものと無意識に戦っている私の閉じた心とこわばった肉体を見て、「もう戦う必要はない」と言ってくれたのです。その一言が自分を少しづつ解放してくれました。

自分の姿は自分では見えないものです。私にとって「方丈記」は見えない自分の姿を振り返り、自分らしい道を再確認する為には最適の作品なのです。

是非伊藤哲哉さんの語る「方丈記」聴いて観てください。

プロの条件Ⅴ

今月来月は本当に多くの演奏の機会をいただいています。このご時勢に有り難いとしか言いようがありません。月並みでありますが、やっぱり縁に生かされているという事でしょう。心から感謝しかありません。年を取るごとにこういう想いは深くなってゆきますね。とにもかくにも琵琶を生業として生きてきて本当に良かったとつくづく思います。

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仕事は毎年、秋のシーズンとこの梅雨時期に集中することが多いのですが、「こなしている」という形になるのが一番良くないのです。活動が展開して行くと、忙しく演奏してまわっていることで満足し、果てはそんな自分に酔っていってしまうものです。忙しくなればなるほど自分自身を見つめ自制して、やるべきことを追及していかないと流されてしまいます。
聴きに来てくれる人は皆、せっかく来た演奏会が期待はずれだったら二度と来てくれません。特に琵琶のような珍しい楽器は気の抜けた演奏をしたらとたんに「琵琶なんて大したことないね」と、その一回で評価を下されてしまうのです。今日は調子が悪いんだね、なんてやさしく思ってくれる人は誰もいません。そしてそういう声は常に無言なのです。「素晴らしい」などとおだててくれる言葉は耳に聞こえますが、「つまらない」という言葉は聞こえてきません。身内が目の前でおだてる言葉に満足したらお終いですね。

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若き日、グンナル・リンデル(尺八)、カーティス・パターソン(筝)藤舎花帆(鼓)佐藤紀久子(三絃)のメンバーで作ったCDのジャケット

私は若い頃から随分と失敗を重ねてきました。技術的な失敗から、勘違いや心の持ち方の失敗まで本当に多くの失敗を重ねて来ました。私が若手といわれた頃、プロとして活動している琵琶奏者は居なかったので、アドヴァイスをくれる先輩も周りにおらず、何でも自分で経験して行くしかなかったのです。今思えばそれらの経験が皆現在の自分の肥やしとなっているのですが、とにかく今は演奏会の大小を問わず充実した仕事をする様に心がけています。

最近、よく若い方から「どうしたら活動をしていけますか」と聞かれます。人それぞれやり方があると思うので何とも言えないのですが、こと演奏に関しては、いつも以下の4つのことを大事にしています。

1:納得いく内容の仕事をする
2:常にスケジュールに余裕を持つ
3:どんな仕事でもギャラを取って演奏する
4:どんな場合でも伴奏ではなく共演をする

この4つはいつも心がけています。

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私はほぼ全ての曲を自分で創って、それを演奏していますので、納得のいかない曲を弾かされるというのはあまり無いのですが、時に曲も演奏状況も思う様にできない仕事もあります。勿論やるからにはしっかりやります。しかし自分がやるべきものでないと感じたら、次回からは丁重にお断りをしています。
またスケジュールに関しては、いつも気をつけています。なるべく3日以上は連続しない事と、移動に余裕を持つことは体調管理、サワリの調整、絃の管理などの楽器にも関しても大事ですし、結果として良い仕事に繋がります。実は先日もスケジュールで難しい場面に当たってしまいまして反省しているのですが、ここはクオリティーの高い舞台実現の為、常に肝に銘じておかなくてはいけない部分です。

また私は一切ボランティアでの演奏はしません。私はコンサートホールであろうと、小学校公演であろうと、しっかり見合うだけの額を頂きます。今私がボランティアで演奏していたら、後輩達はいつまで経っても琵琶でお金を取る事が出来ず、プロとして生きてゆくことが出来ない。私の先輩達は琵琶普及のためにという名目で、盛んに無償での演奏を繰り返しました。皆さんプロではなく流派のお名取さんという方々でしたが、そんな先輩の無償による演奏が琵琶普及に繋がったとは思えませんし、私の活動をサポートする事も全くありませんでした。逆に「御招待が当たり前だろ」なんて言ってくる人もいましたね。
私は自分の為にも次世代の為にも、仕事に見合ったギャラを取る様にしています。その分責任も大きくなるし、失敗は許されなくなりますので大変ですが、キャリアを重ねるというのはそういうことだと思っています。

演奏会9高野山常喜院演奏会にて
毎年やっていた高野山での演奏会でも、しっかり有料のコンサートをやりましたが、高野山内での音楽会を有料でやったのは私だけでしょうね。それも結構高目の料金でしたが、お客様は毎年沢山来てくれました。あんな遠くまで本当に有り難い事だと思っています。高野山では、お寺によって寺の格を看板にして、当然のように招待チケットを要求する所もありましたが、そういう権威に怯まないのが私のスタイルです。

演奏家、特に邦楽の演奏家は本当に権威に弱い。日々ヒエラルキーの中で洗脳されるように、「○○賞を取っているから凄い」「○○門下・流派だとちゃんとしている」「○○大学の講師をやっている」等々、若い人がどんどんと肩書や上下関係の権威主義に洗脳されて頭を硬くしている姿を見かけます。こうして育つと骨の髄まで権威の上下関係で動く様になるのです。そんな邦楽人には音楽の自由な創造の精神は微塵も感じられず、また若い才能が小さな視野に囚われてゆがんで行く姿を見るにつけ、大変残念な想いだけが残ります。少なくともそんな感性ではプロの音楽家としては生きて行けないです。だから私は自由に自分の創造力を掻き立てる事が出来るよう、どこにも所属せず、自由な身でいるよう心掛けているのです。

最後にとても大事なことなのですが、自分がどういうタイプの音楽家なのか、自分で自分を把握することが、とてもとても大事なのです。日本では、「トップクラスの演奏家は、伴奏をやらせても上手い」などと無責任に知ったかぶりをして説教するようなとんでもない輩が沢山いますが、これは全くの間違いです。俳優でもそうですが、脇役の人が主役に成れないのと同様、主役を張る人はワキには回れない。存在感のあり方が基本的に違うのです。
ソリストに憧れて、自己顕示欲だけ膨らませていても、そういう質を持っていない人はフロントは張れません。主役の人も存在感が大きすぎて、ワキに居たら目立ってしまって舞台にならない。人には持って生まれた「分」というものがあるのです。
シテ(ソリスト)でもワキでも、どちらも夫々ノウハウがあり、技術があり、一流を極めるのは並大抵の事ではありません。自分の憧れや願望に囚われて自分の姿が見えない人は、いくらがんばっても成功しないのです。

生徒を教えている人は、生徒の質を見極め、その生徒に見合う道筋をつけてやれば良いのですが、先生本人がこういう部分を判ってない例も大変多いですね。琵琶に於いては、プロとして活躍している先生が居ない事も大きな問題だと思います。生徒の質を見極めて導いている琵琶の先生は、田原順子先生くらいしか思いつきません。
私はどうしてもワキにまわるタイプでないので、組む相手とは常に対等であり、「共演」という形の演奏をします。伴奏は一切しません。曲もそういう風に作曲しますし、演出もそうします。でないとお互いにお互いの良さを発揮出来ないからです。

集合写真
ウズベキスタン タシュケントのブルーモスクの前にて、コンサートツアーのメンバーと

音楽を楽しんでいる人はとても素晴らしい人生を送っていると思います。自分の人生の中に音楽というものが響いている人は、日々も豊かに過ごしている事でしょう。私もギターを弾いている時には、何も考えず仲間とワイワイ楽しんでます。リズムが狂ってもアドリブが上手く弾けなくても落ち込むこともありません。終わった後のビールが本当に旨いです!!

しかしもし若者がプロの演奏家を志すのであれば全く別の話です。上手かどうかという事ではないのです。お教室に通って、お名取さんになろうが、賞を取ろうが、評価するのは常に観客なのです。流派や協会の中で褒められても、受賞歴なんかで凄いと言われても、自分の舞台そして作品を評価され、生業として行けないのではアマチュアでしかない。大先生だろうがなんだろうが、舞台で生きて行けない人は残念ながらアマチュアなのです。流派や協会の中でのんびり「先生、先輩」と呼ばれて楽しんでいるほうが幸せでしょう。今の邦楽人にプロはほとんどいない、と私は思っています。

特に琵琶の場合独奏が基本ですから、伴奏の仕事というのはほとんどありません。自ら主役となって舞台を張れる事が宿命です。そしてその舞台が評価されて、初めてお仕事の依頼が来ます。つまりそれなりの資質と条件が整っていなければ活動を展開する事は難しいのです。音楽そのものの勉強や、古典や歴史の勉強も必須です。「五線譜は要らない」「源氏物語や古今和歌集には興味がない」などという人もいますが、こうして自分を狭めているようではプロとしてはやって行くのは難しいですね。自分の興味がある部分だけをやるのは、ただのオタク。そういう意識ではプロとして通用しません。
先生家業でレッスンプロとして生きるのもまた一つの道ですが、今の世の中その収入では食べてはいけないし、それはもっと後でいいんじゃないでしょうか。先ずは舞台人としてやって行けるようでなくては!。

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郡司敦作品演奏会リハーサル Vi 中島ゆみ子 尺八 田中黎山

これからプロの琵琶奏者を目指そうという人には、音楽を生業として生きるという事の意味をしっかりと考えて欲しいですね。いつまでも守られている人生では音楽家に成れません。親に、流派に、組織に守られ、肩書きを看板にして、それらの保護の中にいるうちは収入にもならないし、自分の表現は何も出来ないのです。守られる人生よりも、自分が後輩や周りを守ってあげる人生にならないと、せいぜい自主制作でCD作りました、なんていって喜んでいる程度しか出来ません
自分で曲を創り、自分で演奏会を開き、自分でプログラムを考え、自分の身銭を払ってゲストを呼び、自分の力でお客さんを集め、CDも制作する。そういう活動を年がら年中何十回と続けて初めて、音楽家の端くれになるのです。年に一度演奏会を開き、知り合いや関係者を集めて満席にして喜んでいるのは流派のお浚い会と全く同じ。お上手を褒められているだけだという事を判って欲しい。永田錦心も、水藤錦穰も、鶴田錦史も、皆自分なりに考えて行動し、時代をリードしていったではありませんか。その志を継がずして、ちょっと上手に先生の曲を弾けるようになった位で「琵琶の演奏家です」とは、私はとても言えません。

流派の曲を上手にやるのはアマチュア。プロは自分の表現をして、自分の作品を演奏し、且つそれを認められて初めてプロとして成り立つのです。またたとえオリジナルをやっても、それが評価されなければ収入にはなりません。高円寺辺りのライブハウスでは何百何千という若い連中が毎晩、オリジナル曲でしのぎを削っていますが、そういうところから見たら、琵琶でちょっとオリジナルをやってますなんていうのは、ただ珍しいだけだということを判って欲しい。それは音楽を聴いているんじゃなくて、琵琶という珍しい楽器を見に来ているに過ぎません。全ての音楽家と同じ土俵に立って勝負できないようでは、音楽家には成れないのです。

次代を担う琵琶人、出て来ないかな・・・。

新相棒来る!Ⅱ

先日UPした継琵琶には色々と反応がありました。是非分解した写真を見てみたいという声もありましたので、いくつか紹介します。

分解全体ネック細工

こんな感じになります。ネックとボディーは凹凸の細工がありまして、その細工をカバーするのがこちら

細工カバー

ボディーの受け側にもこんな感じのカバーが付きます。もう本当に石田さんの技が冴え渡り、分解・組み立てを繰り返しても、サワリがおかしくなる事はありません。私の琵琶は1本調子という一番低い調子にチューニングされていて、絃も極太のものを張っているので、一の糸のサワリはちょっと気を使いますが、他の絃及び各駒のさわりは全く問題ないです。

これがケースに入るとこんな感じ。実際は駒カバーや覆手カバーをつけて収納します。

ケース内部

そして上蓋の方にソフトケースを入れて運びます。旅先では一度組み立てたら、組み立てたまま運ぶ方が音が安定しますので、ソフトケースも持っていかないと、行った先でいくつかの演奏があるツアーは出来ません。一回だけの演奏の時はもっと小さなケースに入れて運びます。

嘉辰小谷デュオ150918-s_塩高氏

左:音霊杓子の小谷さんと朗詠「嘉辰」演奏中 右:箱根岡田美術館にて

もうここ数年は薩摩琵琶と樂琵琶の両方を使う演奏会が主になってきていて、いつも誰かに手伝ってもらっていたのですが、これでやっと自分ひとりで、そういう演奏会にもある程度対応が効く様になりました。
演奏会では、琵琶の歴史や変遷の話をしながら演奏をするのですが、それは何よりも琵琶楽の長い歴史が育んだ豊かな世界をぜひとも味わっていただきたいからです。だから近現代の薩摩琵琶と共に、最古典の樂琵琶も演奏します。そうなるとやはり常に二つ抱えてゆくしかない、という訳なんです。

薩摩琵琶の会では、「古典です」と言い切ってやっている演奏会もよく見かけますが、私はいつも能や長唄のベテランとやっていることもあって、薩摩琵琶が「古典です」とはとても言えません。薩摩琵琶は流派というものが出来てまだ100年程。曲のほとんどは大正から昭和に出来た曲ですし、鶴田流にいたっては70年代から80年代にかけて流派となったくらいですので、やはり琵琶楽の中でどれが古典で、どれが近代で、どれが現代なのか正確な情報をアナウンスするべきだと思います。その上で、古典も現代も聴かせる演奏会を開くのが、全うな琵琶人の在り方だろうと思っています。
琵琶楽の正しい歴史と変遷を判ってもらって、魅力ある色々な琵琶楽を聴かせて、是非琵琶ファンを増やしたいですね。

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巷では薩摩・筑前の近現代の琵琶しか聴けない演奏会がほとんどなので、古代から続く樂琵琶を聴いていただくと、その音色や楽曲にびっくりされる方がとても多いです。今まで刷り込まれていた琵琶=耳なし芳一、べんべんというイメージではなく、樂琵琶から流れ出る音楽はメロディアスであり、且つ大きな空やさわやかな風を感じるような大らかな世界なのです。だからその大きな世界に接っしていただくと、様々な感想を投げかけてくれます。
私は源氏物語などの話もしながらやるので、中には古典文学に描かれているエピソードと共に、想いをいにしえの都へと膨らましてゆく方も居るし、遠くシルクロードへと想いを馳せる人も少なくないです。やはり樂琵琶を抜きに琵琶楽は語れないですね。

千数百年という時間を経て、時代と共に様々に形を変え、連綿と受け継がれている「琵琶」というものをやっている以上、私は古典から現代まで聴いてみたいし、弾いてみたい。自分のオリジナリティーは何よりも大事ですが、だからといって自分の世界に閉じこもって、その深く長い魅力的な歴史に目を瞑る訳には行かないのです。私は聴きに来てくれる方にも是非とも、琵琶楽の最先端と最古典を聴いてもらいたいのです。だから今回の継琵琶は素晴らしい相棒になってくれると思っています。そのうち樂琵琶の継琵琶も作ってもらわないと・・・・?

先ずは来月頭の京都大阪の演奏会で、樂琵琶とこの新相棒を持って行って、お披露目です。

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兵庫芸術文化センターホールにて

さてこれから演奏会が目白押しです。色々ありますが、先ずは一昨年から俳優の伊藤哲哉さんとのコンビでやってきた「方丈記」を日本橋富沢町樂琵会でやります。昨年はかなりの演出も含めた形での舞台でしたが、今回はごくごくシンプルに聞いていただきます。継琵琶といえばなんといっても鴨長明ですから、ドンピシャという感じですね。6月15日富沢町の小堺化学ビル地下MPホールで開催します。

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そして次の16日には東久留米の成美教育文化会館にて、ヴァイオリンの糸井マキさんとのジョイントコンサートです。薩摩琵琶の迫力ある音色をたっぷり聞きたいという人にはこちらがお勧め。ゲストに尺八の吉岡龍之介君を迎えて「まろばし~尺八と琵琶のための」、弾き語りで「壇ノ浦」など演奏いたします。

よき相棒を得て、更に充実した演奏会をどんどんとやって行きたい。乞うご期待!!なのです。

新相棒来る!

念願の継琵琶が出来上がってきました。石田克佳さんが半年がかりで練りに練って考えて製作してくれた労作です。

裏側を観ると見事なツートンカラーになっています。接合部分も木部に負担の無いように、一部目の方向を変えた部分を挟んであります。この琵琶は、今まで塩高モデルの中型2号機として使っていたものを半分にカットして組み立ててもらったものなのですが、海外で使うことを念頭においているので、象牙は一切使わずに、糸口や月マークの所は貝を使って作ってもらいました。

現在、海外では象牙の輸出入が禁止されているのはご存知だと思いますが、最近では、象牙の装飾があるヴァイオリンの弓が空港で没収された事件などもあり、大変厳しくなっています。また木材に関しても、今まで大丈夫だったローズウッド全種がワシントン条約によって輸出入に関し規制がかかってしまいました。これまでハカランダと呼ばれるブラジリアンローズウッドは駄目でしたが、ローズウッド全種に規制がかかったことで、ギターメーカー等は大慌てになっていまして、メイプル材を焦がして黒くして、ベイクドメイプルという名前で指板に使ったりしています。かえって音の反応が良くなったという評判もありますが、なんだか大変な時代になりました。まあまだローズウッドはレベル1という事で、正式な証明書があれば輸入できるそうですが、材料の高騰は致し方ないでしょうね。

そもそもギターの最大大手ギブソン社が、違法に伐採されたエボニー(黒檀)とローズウッドを買っていたことが露見して、FBIに立ち入り捜査をされて、全ての材を没収されるという事件が発端なのです。簡単にいうと不法に伐採した高級木材を売りさばくマーケットを取り締まろうという訳です(ギャングの資金源になっているという話も聞きます)。
象牙はもう使うこと自体が世界的にみて倫理的にも問題があるといえますが、薩摩琵琶(特に錦琵琶)の様に糸口に大きな象牙の塊が付いている楽器は、今後海外へ持って行くのは事実上無理でしょうね。今は人工象牙の研究が進んでいて、かなり質のよいものが出来つつあると聞いていますが、今後は確実に人工象牙が主流になって行くでしょう。昨年は、海外公演時に標準サイズの琵琶を持って行ったのですが、ひやひやしながら運んでいました。これでひとまず安心です。

ちょっとピンボケで申し訳ないのですが、今回は糸口の土台に黒檀。その上にスネークウッド、そしてさわりの部分に貝を使ってもらいました。覆手(テールピース)の所も、絃を留める部分が貝で、先端はスネークウッドです。ボディーの横に走っている白い線の部分はプラスティックです。
私は元々第一の駒(フレット)には象牙を使っていないので、これで完全な象牙レスの仕様になりました。今後の他の琵琶も随時このスタイルに変更してゆく予定です。

とにかく琵琶はその形態から、いつも飛行機で楽器を運ぶのが大変で困っていたんです。中にはクッション材でくるんでソフトケースのまま貨物に入れてしまう「つわもの」も居るそうですね。アマチュアの方ならどこか壊れて演奏できなくても「ごめんなさい」で済みますが、私はそうはいかない。いかなる理由であれ演奏会が出来なくなったらプロとしてお終いですので、私は飛行機に乗る場合、国内でも海外でも必ずチケットを2枚買っていました。しかしながら海外便などではカウンターで色々と説明し、更にまた機内に入ってからが大変で、CAの人に何やかんやと言われて、なかなか判ってもらえずに、それはそれは多大なストレスでした。昨年はトリニダードトバゴやコロンビアといったカリブ海地域に行ったので、言葉もろくに通じずに本当に参りました。

まあ海外便で貨物に預けるのはどこに持っていかれるかわからないというリスクもあるので怖いですが、今回はまたケースも精密機械を運ぶ時に使うprotex
COREというかなり強力な特殊ケースを用意しました。このケースでしたら国内の宅急便でしたら運んでも大丈夫。ただ送った先で組み立てても安定するまでに時間がかかるので、前の日に現地入りしていないと難しいですが、いつものソフトケースも入るサイズの大型ケースになっていて、とりあえず国内はこれで安心です。しかしかえってホテル代のほうが高くつきますかね・・・・?。

今回は表板を交換したこともあって、音はすっかり若返って、出来立てほやほやの感じになりましたが、さわりの調整も終わり、これから育てていくのが楽しみです。

画面に納まりきらない!!

これで我が家の琵琶は、標準型の樂琵琶が一面、塩高モデル樂琵琶が二面、薩摩の大型塩高モデルが二面、中型塩高モデルが二面、標準サイズが三面、そして平家琵琶というラインナップになりました。
私は色んな形での演奏が多く、洋邦問わず様々な楽器との共演はもとより、オーケストラや舞踊、演劇等々、ジャンルを問わず演奏会が立て続いていますので、中型・大型・樂琵琶の各塩高モデルは全て舞台で日々大活躍!!。どの琵琶も現役でフル回転しています!!

新しい相棒も来たし、これではまた新たな曲が生まれることでしょう。年末にはNewCDの製作も視野に入れて、これからまた作曲に演奏に精出しますよ。

乞うご期待!!!!

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