桜が満開ですね。ここ数日、地元の仲間が集いお花見三昧です。
絢爛たる満開の桜の姿を見ながら、私はいつも良寛の「散る桜 残る桜も 散る桜」という句を思い出します。一瞬の美をもって散り行く姿には、確かに詩情を書き立て、美しさゆえの儚さを大いに感じさせますが、私は儚さと同時に、自分の人生を自分で貫くという清さをも感じます。まあこの良寛の句は特攻隊の方の辞世の句としても知られているので、ある種の色が付いてしまっている感もありますが、散る桜には何にも寄りかからず、自分の散り行くべき時に自ら淡々と散ってゆく、そんな清い姿を見てしまいます。そしてそれが無上に美しく感じるのです。
新宿御苑
私自身を振り返り、常に自分の人生を素直に清く生きているかといえば、なかなかそうはいきません。訳も判らず迷ってしまう時や、不安が募る時も多々あります。こんな時はいずれも他人を軸にしてしまっていることが多いですね。他人の姿を見て、それを価値基準の軸として、そこから己を判断してしまうと、ふと「これでいいのだろうか」「○○のようにした方がいいんじゃないか」という風に自分がブレて、自分自身を素直に見ることが出来なくなってしまいます。
阿佐ヶ谷ジャズストリートにて
若い時分、ジャズをやっていた頃は、よくそんな風に有名なプレイヤーの姿を基準にして、自分を何かの枠や殻に閉じ込め、迷いに迷っていました。音楽や芸術というものは、世の中のルールやセンス・因習を飛び越え、時間さえも飛びえてゆけるのが真骨頂であり、一つの使命でもあるのに、そういう本質を全く見失っていました。何かの軸に囚われているようでは、いつまで経っても自分の音楽は出来ないのです。
琵琶に転向してからは、幸いな事に対象となる物も人も、琵琶の中に無いのでそんな事も感じなくなりましたが、そういう自分の心の弱さを自分で認識しながらも、常に自分の軸で生きたい、と年を追うごとに思います。素直に自分の人生を生きていれば、何かの軸や基準に囚われる事もないし、相手の素晴らしさも素直に認めてあげることが出来る。下手も上手もないのです。だから流派や業界のヒエラルキーの中に居るなんてことは私には考えられないですね。音楽家はどこまでも自由で居なければ・・ね。
かつて魯山人は「芸術家は位階勲等とは無縁であるべきだ」といって、人間国宝の要請を三度断ったそうですが、自由な精神で生きている人間にとっては、何かにカテゴライズされるのはまっぴらごめんというところでしょうか。人間国宝も素晴らしいし、何とか賞も素晴らしいけれど、固定化されたセンスで芸術・音楽を判断するのはナンセンス以外の何ものでもないのです。
ジャズギタリストにパット・マルティーノという方がいます。私は高校生の頃から、それこそレコードが擦り切れるほどに聞きまくっているギタリストですが、彼は30代前半にしてオリジナルなスタイルを作り上げ、世界的に高い評価を得たものの、脳動脈瘤に倒れ、父親の名前以外の全ての記憶(ギターの弾き方さえも)を無くしたそうです。身体には麻痺や痺れが残り、誰もがもう彼の復活はないだろうと思っていましたが、電気ショックなどの大変な苦痛を伴うリハビリを長く続け、自分の過去の演奏を聴き直し、一から勉強を始めました。その間に伴侶は去り、両親の面倒もみなくてはならないという、心身ともに壮絶な時を過ごしたようですが、演奏の技術だけでなく、独自の音楽理論をも創り上げ、見事にカムバックしました。復活後も重い病気にかかり更なる辛苦が待っていたそうです。しかし初来日の時に出逢った日本人女性と結婚し、その女性の献身的な介護(食事療法と指圧だったそうです)により再度のカムバックを果たし、今またギターのリヴィングレジェンドと言われるほどに、ジャズギターの頂点として旺盛な活躍をしています。
そのパットさんはインタビューで
自分が自分である事を幸せに思う。。。それに勝る成功はない。つまり、自分の人生そのものをもっと楽しもうと私は言いたいね。
と言っています。他を軸にしていたら彼の復活はありえなかったでしょう。徹頭徹尾自らの人生を生き抜いたからこその言葉だと思います。肩書きをひけらかし、小さな世界の中でうろついている輩に聞かせたいですね。
新宿御苑
細川ガラシャの辞世の句に「散りぬべき 時知りてこそ 世の中の 花も花なれ 人も人なれ」という句がありますが、音楽家なら存分に自分のオリジナルの音楽を奏で、唯一の自分の人生を生き貫いてこそ音楽家ではないでしょうか。他人の作った軸の中で、右往左往していてもはじまらない。たとえ評価されなくとも、誰の真似でもない自分の音楽を奏でたいと思いませんか。
かのパット・メセニーもウエス・モンゴメリーを大変尊敬しているそうですが、尊敬しているがゆえに絶対に真似はしない、と言っています。私も同感ですね。どんなに憧れても相手の人生を生きることは出来ないのです。出来ないのに表面の形だけをなぞり、そっくりに弾くというのは、尊敬の念もそんな程度でしかないという事です。尊敬する相手がどんな想いでこのスタイルを創り上げたのか、それを思えば、自分も自分らしいスタイルを創ってこそ、勉強させてもらった事への恩返しではないでしょうか。真に尊敬しているのであれば、到底物真似のような事は私は出来ないですね・・・。
散る桜の心を持って、清く素直に生きたいものですね。
春爛漫ですね。我が家の近くには都内でも有数のお花見スポットがあるので、よく出かけるのですが、やっぱりこの季節は華やかですね。私はワイワイとしたお花見宴会の風情の無さが嫌なので、早朝か夜遅く、後は平日の昼間にちょっと仲間と行く位なのですが、桜の花を見ていると、華やかさと共に外に向かう沸き上がるエネルギーを感じます。
外は華やかな春ですが、何かと体調も変化する時期でもありますので、春は家に居ることが多いです。その分、一日中音楽を聴き、楽器をいじったり、譜面を書いたりしています。
このところ色々な音楽を片っ端から聴いているのですが、世界の民族の音楽(特にシルクロード関係)は興味が尽きないですね。郷愁を感じるようなメロディーが各国ごと有り、はやりどこかに日本音楽と通じるものを感じます。中東から中央アジア、東アジア、インド、東南アジアなど、書き出すと尽きませんが、本当に人間は豊かな文化を持っていると思えてなりません。
そしてどんな民族音楽でも、最先端にいるものに一番心惹かれます。それは正にLiveであり、生々しい今の音楽として訴えてくるからでしょう。私の好みは洗練されたものの方ですが、土着性の強いものも良いですね。生活の匂いを感じます。ただし土着性の仮面をかぶったものや、邦楽器ポップスのようにショウビジネスに寄りかかったようなものだけはご勘弁を・・。
善福寺川緑地
常々考えているのですが、音楽の世界は円のように繋がっている、と思えてならないのです。日本人は何かと区別したがりますが、地域ごとの独自性は勿論あるものの、それぞれが色々なものとぶつかり溶け合って出来あがっているので、どの民族音楽にも様々な要素が含まれて、何かしら共通したものが受け継がれていると私は思っています。
社会が常に時代と共にぶつかり合い、融合し、変化し続けているのですから、音楽も当然そうなります。今の日本の状況を見てももうクラシックやロック・ジャズを経ていない人など居ません。普通に生きる日本人がこの通りなのですから、邦楽も当然50年前とは違ってきます。三味線などは楽器の音色が50年前と今とでは全く違うと言う方もいます。これが歴史というもの。そういう時代の変遷の中で何を残し、何を継承してゆくか、そこが問われているのです。
生々しい今の日本音楽を創り、演奏して行きたいですね。
2010年京都清流亭にて
世界に視野を向けたい。最近特にそういう想いが強くなりました。売れるかどうかということより、東京に固執して日本の中だけを見るのではなく、東京だろうが中東だろうが同じような感覚で世界中で演奏したい。そんな風に思うのです。今は世界中どこに住んでいても飛んで来れるのですから、もっといろんな国を旅してみたいのです。小さな枠の中で上手だの偉いだの言いあっているような世界とはずっと距離をとってきましたが、それでもまだまだ自分の視野は小さい。もっと色んな国の文化の中で私の演奏を聴いてもらいたいのです。そんな機会をどんどん作ってゆきたいですね。
昨年は映像やダンス、語りの方、音楽家でも全然違うジャンルの方と随分一緒にやってきましたが、こういう活動を世界を舞台にやってみたいのです。日本がだめというのではなく、毎月の琵琶樂人倶楽部のような小さな目の前の活動も、大きな舞台での活動も、同じように自分の活動としてやっていきたいのです。その活動の範囲を広げたい。世界に広げたい。勿論いつものように曲は全てオリジナル。私の音楽でもって多くの舞台、感性、そして世界と触れ合って行きたい・・・。まあそう思っていれば自らからそうなってゆくでしょうね。
春の華やかさが、大きな希望を運んでくれるようです。
ここ数年関わってきた、二次元の音色を奏でるポリゴノーラという打楽器を使ったCDが完成しました。
ポリゴノーラは広島大学の櫻井直樹教授が研究開発し、一昨年近江楽堂にて演奏とレクチャーをやったのですが、昨年の6月にサウンドシティースタジオにてレコーディングをしたものが、やっとCDとなって届きました。
このポリゴノーラは、櫻井教授が果物の熟成度合いを測る研究をしていて、それがきっかけとなり生み出されたもの。偶然の発見から全く分野の違う「楽器」に発展するという、実に面白い経緯を持っているのです。(詳しくは以下のHPを参照して下さい)。
3年ほど前に、櫻井教授の妹でパフォーマーの櫻井真樹子さんから「面白い楽器が出来上がった」と声をかけられ、私と灰野敬二さんと櫻井さんの3人で会って話をしたところ、だんだんと事が展開し、櫻井教授を中心に演奏会に向けて「コア・メンバーズ」が結成されました。何度もミーティングを重ねて、あれやこれやと議論と改良を重ねながら楽器としての熟成がなされ、演奏会そしてCD化へと至ったのです。
ポリゴノーラHP http://www.oto-circle.jp/
(CD購入希望の方はこのHPからお問い合わせ下さい)
コア・メンバー一覧
櫻井直樹 ポリゴノーラ開発者 物理学者
高橋悠治 音楽家
小沼純一 音楽評論家
薦田治子 音楽学者
一ノ瀬トニカ 作曲家
神田佳子 打楽器奏者
稲野珠緒 打楽器奏者
塩高和之 琵琶奏者
灰野敬二 音楽家
田中黎山 尺八奏者
櫻井真樹子 音楽家
こちらは、昨年近江楽堂での演奏の模様。今回のCDにもこのトリオ「三倍音」によるインプロビゼーションが収録されました。昨年の12月には「三倍音」のライブがキッドアイラックアートホールにて行われ、かなりアジアンな雰囲気を持つ前衛音楽が響いたのが面白かったです。こういうサウンドは他には無いので是非またやりたいですね。
新たな音楽を創り出してゆくのは面白い。とにかくワクワクするのです。私は琵琶を文化として、世の中の多くの関わりの中で捉えているので、演奏・作曲というだけでなく、常に色んな方向から声がかかります。レクチャーが多いのもそのためでしょうね。私自身がいつも琵琶の可能性をもっと広げたいと願い、また新たな音楽を創って行くことに喜びを感じているので、こんな試みはこれからもずっと続いてゆく事と思います。どんどんと挑戦したいですね。
音楽は音楽だけで成り立ってはいません。常に社会、そして人間があってこそ生まれ出るものというところを忘れたら、すでに音楽ではないと思っています。だから何か一つの形やスタイルに閉じ込め、予定調和の形を取ることは私には考えられません。流派というものがあるのならなおさら時代と共に変化してこそ流派だと思っています。これは企業なども同じですね。創業者の志を受け継ぎ、時代と共に変化してゆくからこそ続いてゆくという事です。芸術活動をしていれば、興味のアンテナは無限に広がって行って行くものだ思うのですがね。まあ人それぞれということでしょうね・・?。
レコーディングの様子 於:サウンドシティースタジオ
ポリゴノーラは「倍音」の楽器ですので、同じく独自の倍音が持っている琵琶との共演は面白くないはずがないのです。加えて現代のリスナーはとても倍音についての関心が高い方が多い。こうした活動を通して、琵琶にも新しい視線が向けられると良いですね。全く新しいアプローチで琵琶を操る人が出てきたら面白いと思います。
私のところには琵琶の音色が持っている、豊かで独自の響きの「世界」を聞きたいという声がいつも聞こえてきます。リスナーが聞きたいのはけっして「うた」では無いのです。音色なのです。琵琶をお稽古した人は皆さん「うた」をメインにして「うた」を聞かせようとして、琵琶を伴奏でしか弾こうとしませんが、それは完全に世の中の需要とずれていると思えてしょうがない。この事実は琵琶人がはっきりと認識すべき事ではないでしょうか。
歴史を見れば「うた」は琵琶楽にとって重要な事は明らかです。しかし現代日本の社会は過去の文化から断絶してしまっている。そういう状況の中で「琵琶とはこういうものだ」「これでなくては琵琶ではない」というような押し付けをやっても、「興味の無い奴は聞かなくていい」と排他主義のごとく言い放っているようにしか、私には聞こえません。次世代に琵琶の音を響かせる為にも、リスナーの声にもっと耳を傾けなくては!!
キッドアイラックホールにて「ヒグマ春夫のパラダイムシフトVol.80」
これからは世の中自体が新らしい哲学を必要としている時代。誰もが世界とつながり、自由に連絡が取れ、仕事の対象範囲も世界に広がっている。人間とテクノロジーとの共存が既に普通になって、ジェンダーフリーもどんどんと進み、人間のあり方そのものが大きく変化している。「男はこうあるべき「女はこうあるべき」なんていう価値観ももう全く変わってきているのです。そういう中で次の社会の感性をリードするのは芸術家ではないでしょうか。新しい世界を創造し示す事は、古い歴史を持つ琵琶こそ、その役目があるように思えてなりません。
人間は時代と共に生きざるを得ないし、音楽もまたしかり。時代に背を向けたものは必ず滅びるのです。


明治という新しい時代に、永田錦心は新しい感性とスタイルを打ちたて、多くの人に支持され、現代琵琶楽の祖となりました。鶴田錦史は昭和の激動の時代に、世界へと活動を広げ、琵琶の可能性を大きく飛躍させました。次は我々が新たな時代の新たな琵琶楽を創る時です。
先人の形をなぞる事に固執して、先人の志を見失ってはいけない。幸い永田錦心は多くの言葉を残しています。是非琵琶人はその言葉を噛みしめて欲しい。目の前の因習を乗り越えて新しい琵琶楽を打ち立てた永田錦心の志は今こそ、必要なのです。
次の時代の音色をぜひとも高らかに響かせて欲しいものです。
すっかり春の陽気ですね。外に出るとカンヒザクラや陽光などはもう満開。その他にもハクモクレンやボケ、ハナカイドウなども咲いているし、今週末辺りにはもうソメイヨシノも咲いて、既に気持ちはお花見気分。花の饗宴ですね。
春は色々なことが始まる季節でもありますし、身体も動き始めます。毎年花粉症が少々つらいところですが、今年は3,11の福島安洞院での法要・奉納演奏会をはじめ、4月には大久保のルーテル教会での演奏会など、春も何かと演奏会が続いています。
大久保ルーテル教会では久しぶりに拙作「春の宴」を、筝の内藤眞代さん、笛の大浦典子さんと私でやります。今回はギターの小二田茂幸さんも入って一層華やかになりそうです。
毎年この時期は作曲する事が主で、演奏はほとんどやっていなかったのですが、やっぱり私は舞台に立っているほうが調子が良いです。週に一度はどこかで演奏しないと、どうも鈍ってくるんです。出来たら週に2回か3回は舞台に上に立っていたいですね。
2016年琵琶樂人倶楽部100回記念演奏会にて
独奏曲はまたまた手直しをして、やっと何とかいい感じになってきました。あとデュオを2曲、トリオを1曲、そして唄ものの曲を夏頃までに創ろうというのが今年の目標。というのもそろそろ年末辺りを目標に次のCDを計画しているのです。弾き語りを数曲と、現代ものをソロデュオで数曲づつ録音しようと思っています。
どんな形のCDにするかまだ未定で、現代ものはネット配信のみにしようかとも考えていますが、いずれにしろ久しぶりの作品集となる予定です。
アーティストにとって作品が世に出て行くということは、とても大事な事。そしてそれが評価されて始めてアーティストになって行くのです。SPの時代だったら、出すだけでもう評価されたと同じ事だったでしょう。選ばれし者だけに与えられたレコードデビューも、今や誰でもCDを作ることが出来る時代になって、出す事よりも中身を問われるようになりました。
それも世界に発信できるのですから、良い時代になったといえますが、世界に通用するものでなければ評価は得られません。日本の物差しで考えているようでは相手にされないのです。ましてや邦楽村・琵琶村の器では、全く通用しません。自分の音楽や存在はあくまで世界という大きな器の中にあるということを認識しない限り、世界に向けて出す意味は無いですね。
今日本の古典音楽を世界の音楽シーンに向けてやる意味は何か。ただの珍しい民族音楽として紹介しているだけなのか?。それとも日本の古典音楽を根底に持ちながら、世界の芸術音楽と同様の土俵に乗って作品を発表して行きたいのか・・・・。
日本人はアートとエンタテイメントの区別をほとんどつけませんが、海外でやってゆくつもりなら、はっきりさせた方が良いですね。売れたいという自己顕示欲に駆られて、学歴や受賞歴、大学講師云々の看板を掲げてアカデミックな箔をつけて看板にしながら、やっているのはエンタテイメントのライブ、というのはとんだ勘違いです。肩書きを喜んでくれるのは日本だけ。肩書きで自分の存在を誇示しようとするその心が、もはや村意識以外の何者でもないのです。
世界のルールが判ることは先ず必須。尚且つそこにただ乗っかって、その一員になって喜んでいるのではなく、日本独自のセンスを世界の中で表現して、新たな分野を世界の音楽シーンに確立して行く。理想はここまでやりたいものですね。欧米とは違う日本のやり方やセンスを、文化の違うところにも響かせるには、先ず相手の懐に入らないと!。こちらのやり方を押し付けても受け入れてくれません。
ドイツ楽派全盛の時に、全く違うフランスのセンスで乗り込んでいったドビュッシーやラベル、ロシアの底力を見せ付けたストラビンスキーやラフマニノフ。常に最先端を切り開いたマイルス・デイビス、芸術音楽の分野で今までに無い新しいセンスを認知させたアストル・ピアソラ。こういう人達は今の日本からはなかなか出てきませんね。一過性の珍しいエキゾチックなものは多少ありましたが、ジャズでもクラシックでも、海外のセンスに染まり、向こうのお仲間の一員になって終わる人がほとんど。かの地に於いて日本独自の音楽とセンスを響かせたのは、武満さんと黛さん位でしょうか。あらためてお二人の偉大さに想いが行ってしまいます。
日本では古典をやっていれば、なんとなく偉い感じがして、格上の先生という感じになってゆきますが、古典をやるという事は海外に於いてはアカデミックな研究の分野なので、それだけ論理や哲学が大事であり、少なくとも論文を書き上げるくらいのことをしなければ、せいぜいエキゾチックな民族音楽で紹介される程度。
西洋東洋の音楽史や芸術史は勿論の事、比較文化論、宗教や文化・社会全般にも精通していないと相手にしてもらえません。以前コンビを組んでいた尺八のグンナル・リンデルさんは、現在ストックホルム大学で教壇に立っていますが、尺八奏者というだけでなく、正にこの分野の研究家です。私にはとても書けないような、もの凄い膨大な日本音楽の研究論文を書いて、日本の東京芸大にも納めてあります。
何故そういうスタイルが出来上がったのか、そこにはどんな意味があり、またシンボリズムがあるのか。更には自分のやる音楽を、どういう哲学を土台として、どのように表現していこうとしているのか。考えるべきことは色々とあります。
何でも感覚的に「いいんじゃないの」「よいものに理由なんか無い」なんて言って頷きあって、なんとなくなあなあとやり過ごしている日本人には、こういう論理でものを解析してゆく部分はハードルが高いですね。しかしアートの分野で世界を視野に入れて活動するのなら、考え方もやり方も変えて行かなくてはヴィジョンは成就しません。

自分の行くべき道をもっと明確にして定めてゆかないと、私の音楽は響かない。この春の陽の中で、これからの自分に想いが巡りました。
先日3,11の追悼奉納の演奏を、福島の安洞院でやってきました。
6年経つと、もう東京では震災の事も話題に上らなくなりますし、節電なんてことも誰も言いません。いまだ行方不明者も多い中、時間だけがどんどんと過ぎて、記憶の中からは消えて行ってしまいます。しかしながらこの震災は原発事故も含め、多くのことを考えさせられ、現代日本人の価値観が変わったともいえる、とても重要な出来事だったと思っています。毎年追悼の会に参加させてもらっていますが、年を追うごとに新たな課題を突きつけられているようで、今後の日本のあり方を考えずに入られませんね。
この日は慰霊塔での法要の後、全国から募集した震災への想いをつづった手紙を詩人の和合亮一さん、俳優の夏樹陽子さんが朗読しました。心に残るものが多かったですね。近いうちに安洞院さんがWeb上で公開してくれると思いますので、また改めて紹介します。その後は和合さん書下ろしの新作「詩ノ黙礼 白狼」を私と和合さんで上演、そして最後に津村禮次郎先生と私と夏樹さんとで「良寛」をやって来ました。
和合さんとのデュオ リハ
和合さんは、「どこにも属さず、己が求めるところを行き、全国を歩き回った」良寛を狼と捕らえ、「詩ノ黙礼 白狼」を書きあげました。朗読の時も裸足になって読み上げ、私 とのやり取りはまさに丁々発止の如くで、生き生きとした良寛の姿が浮かび上がりました。
良寛はけっして手まりをついて子供と遊んでいるおじいさんではないのです。その心は正に狼の如くだったろうと思います。当時の形骸化し、堕落した宗門をはっきりと批判し、どこにも属さず、真実を生きたその姿には、夏目漱石を始め、今なお多くの共感が寄せられています。残された詩や書にはその精神が生き生きと見て取れますが、同時に万葉集などの古典に自分の根をおいていた事も伺わせます。深い教養と知性、鋭い感性、ぶれない強固な志、実行力・・・、人が惹きつけられるのは当然ですね。
そして良寛の想いや心は長谷川泰という人物に受け継がれ、そこから現代の日本の医療の分野に受け継がれました。野口英世や北里柴三郎もその流れの方なんですよ!
想いを受け継ぐという事は今、一番日本にとって大事なことだと思います。形ではなく、あくまで想いや心こそ一番大切ということをこの震災で実感しました。その意味でもこの3,11に「良寛」を上演した事は大きなでことでした。
「良寛」の終章 魂の舞(舞:津村禮次郎 作曲・樂琵琶:塩高和之)
日本は腰をすえて次世代を見つめ生きて行かなくてはいけない時代に入ったと思うのは私だけではないでしょう。今が楽しい、便利、快適ならOKという時代ではない。この震災が一つのきっかけになったことは間違いないし、今、次世代へのビジョンを考えなくては、本当に未来が無い。政治は勿論、社会の構造的問題や人々の価値観や哲学の問題、世界との関わり等々、あらゆることがこれから大きく変化せざるを得ない時代だと思っています。
何を受け継ぎ、次世代に渡してゆくことが出来るのか。これが今を生きる我々の大きな大きな課題でしょう。

リハーサル中 夏樹陽子さん、津村禮次郎先生、和久内明先生(脚本)、和合亮一さん、横山住職
人は刹那に生き、目の前の人生に振り回されるがごとく日々を消費してゆくものです。今の邦楽や琵琶の世界を見ても、受け継ぐなんていうことを口では言いながら、意味も考えず形ばかりをなぞり、「こぶしを如何に歌い上げるか」なんていう「お上手」に執心し、ほとばしる心の表現や創造性はどこへやらというものばかり。形骸化の一番良い例です。何事もこうして中身の意味を失い、滅んで行くのです。
震災の時も思いましたが、形など簡単に壊れてしまう。例えば、地域の民俗芸能をお祭りのように再現したところで、心が戻らない限り、形ばかりの笛の音が響いても意味は無いのです。
逆にたとえ形はなくなっても、心を失うことさえなければ、笛の音に、唄に想いをはせ、新しい音楽を創ってゆく事は出来る。新しい次世代の音楽を創ってゆくことが出来る。今我々に求められているのは、形を守る事ではなく、想いや心を新しい形にして、次代へ伝えて行く事ではないでしょうか。受け継ぐ事が出来るのは形ではない。心や想いしかない。私はそう考えています。
もう今まで通りやれば何とかなる時代ではありません。世界と簡単につながり、世界のものや人が押し寄せてくる時代に入ったのです。生活はこれからも続いてゆくのです。琵琶楽のように衰退するわけには行かないのです。形骸化し、硬直した感性や哲学、形式はどんどん変えて、日本の心を受け継がなくては!
今回はいつもの大きな舞台でやっている「良寛」でなく、夏樹さんのナレーションが入った1時間バージョンでしたが、かえってすっきりとして、内容も判りやすく、洗練されたものになりました。夏樹さん津村先生とも本当に大ベテランなので、とてもスムースに展開し、私としてはとてもやり易かったです。それにしてもお二人とも絵になりますね。こういう存在感はなかなか身につくものではありませんな。
震災のこうした集いが、ただの形式的なイベントになって行かない為にも、色々な形で語り継ぐ事はぜひとも必要だと思います。今回、全国から寄せられた手紙の朗読を聴いていて、これは続けなくてはいけないな、と強い想いを持ちました。
私はエンタテイメントの人ではないので、客寄せ的なことは出来ませんが、良寛の持っていた次世代への眼差しを自分なりに持ってこれからも生きて行きたい。
大きな課題を背負っている事を感じた3.11でした。

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