溶け合う音

我が街阿佐ヶ谷は今、七夕祭りで大賑わいです。世の中は常に不安が付きまとうような時代になって来ましたが、たまにはこうしたイベントで憂さ晴らしもしないとやっていられませんね。

5年前の「100分e名著」カット
最近何となく感じるのですが、ここ5年程、つまりコロナ禍少し前辺りから、何とも言えない変化を感じています。5年と言えば肉体的にも随分と変化しますので、肉体的なものからくる感覚かもしれませんが、特に時間の過ぎ行くスピードがあまりに早く感じます。まあこの5年で社会の在り方やセンスも大きく変わって来て、世の中が急激に変わったという事なのでしょう。時代のポイントを通過した、そんな気がしています。

そんな中、自分の活動も作品もかなり変化してきました。2018年にリリースした「沙羅双樹Ⅲ」でかなり自分の世界が形として出来上がって、自分の思う世界が以前よりずっと具体化して来たのが一つのきっかけだと思っていますが、その辺りから自分の中で原点回帰が始まってきたように思います。

私は音楽の好みがプログレッシブロックやフリージャズ、現代音楽辺りにあって、とにかく伝統的なものより前衛的なものが好きなんです。民族芸能なんかにも興味があるのですが、私にとって音楽はあくまで自分の表現として、作曲し演奏するものであって、リスナーを躍らせたり笑わせたりするエンタテイメントとは考えていません。それは最初から変わっていませんね。受けるかどうかなんて事は全く考えず、自分が納得するかどうかが100%です。だからショウビジネス分野でやっている人は、同じ琵琶を弾いている方でも、全く別の分野の方としか思えません。ギターでもジャズを弾いている人とフォークソングの弾き語りをやっている人の違いみたいな感じでしょうか。その距離感はかなりのものです。

かつて演奏していたジャズは今でも好きで良く聴いているのですが、演奏している頃はフラストレーションをいつも感じていました。それはリズム・メロディー・ハーモニーにどこまでも囚われている所ですね。ジャズは聴いていると演奏家が自由に何でも出来そうなんですが、実際はドレミからもビートからも解放されないという所がストレスでした。一方現代音楽の方は随分様々な手法を駆使していると思いますが、どこまで行っても譜面から解放されず、演奏家の音楽ではなく作曲家の音楽という所を強く感じてしまいます。その点、邦楽の持っている自由自在な「間」やハーモニーに囚われない音の並び、微妙にそして大胆に変化して行く音色、そしてどこまでも音楽が、演奏家のものであるというところが私を惹きつける部分です。洋楽はどうも私には束縛が多過ぎるのです。

2002年1stアルバム「Orientaleyes」   2018年8thアルバム「沙羅双樹Ⅲ」


1stアルバムでやっていた世界観は簡単に言うと、「まろばし」等に代表されるように、洋楽の五線譜では表せない日本特有の「間」や、ハーモニーやリズムに囚われない即興性などを土台として、琵琶の音色と技術を用い、そこに少しばかりの洋楽の知識を盛り込んで創り上げた作品が中心でした。まだ粗削りで未消化な部分も多々ありますが、勢いだけは120%でしたね。多分にプログレやフリージャズに近い作品だったと思います。未だにこの1stアルバムを支持してくれる人が結構居ます。

1stアルバム「Oriental eyes」より

琵琶を手にした最初の時点で、自分の好みや方向性がその時点ではっきりと認識できていたというのは大きかったと思います。琵琶という相棒を得たことで、技も手法も音色も自分のやりたい事が実現出来るようになり、リズム・メロディー・ハーモニーから解放され、日本の感性を土台に音楽を創り、演奏者主体の即興性も加味され、とにかく洋楽の束縛から解放され、自由に音楽と関わることが出来るようになりました。その上で、洋楽の知識を利用する事で、やっと自分の音楽が形として現れるようになったという訳です。

一時期、自分でも弾き語りが出来なければいけないんだという囚われもあったのですが、ちょうどその頃、全く違う世界を持つ樂琵琶にも取り組み、こちらでは器楽曲を沢山作曲し、多くの作品をリリースして来ました。それもあって、弾き語りの呪縛に苦しむこともなく、樂琵琶によって自分の作品の幅が広がり、作品ががどんどんと出来上がってきたこともあり、だんだん薩摩琵琶での弾き語りはやらなくなりました。特に2018年の「沙羅双樹Ⅲ」の壇ノ浦をきっかけにもう弾き語りというものから吹っ切れて、今では、弾き語りをやる機会は年に数回という位になりました。やっぱり元々琵琶唄には全く興味がありませんでしたし好きでもなかったので、そういうやりたくない事は自分の音楽が確立して来れば自然とやらなくなるものですね。
樂琵琶は雅楽の楽器ですので、雅楽を基本にしていましたが、雅楽をやらなければというストレスは最初から全く感じる事無く、雅楽は自由に学び、またやりたいように雅楽の知識や技を自分の音楽に取り入れることが出来ました。樂琵琶ではシルクロードをイメージして作曲した作品が多いですが、前衛的な作品もいくつか出来上がって、次のアルバムではVnとのデュで「凍れる月~第二章」同じく樂琵琶独奏の「凍れる月~第四章」を収録予定です。

photo新藤義久

これ迄は樂琵琶と薩摩琵琶はそれぞれ二つの世界という感じでしたが、ここ5年程で薩摩琵琶も樂琵琶も、ただ塩高の音楽という所に集約されて、自分の本来持っていた世界が手法技法を超えて、溶けあうようにして表に出て来たように思っています。それが私の場合、多分に前衛的な作品という形なのです。一見ある意味相反するものが、私という器を通して一つに溶け合って行くようで、二つの琵琶の間に差異はほとんど感じなくなってきたのです。

2stアルバム「MAROBASHI」より


上記に張り付けた「太陽と戦慄第二章」、「in a silent way」、そして定番の「まろばし」等の作風は、2018年リリースの8thアルバム「二つの月~Vnと琵琶の為の」で新たな展開をしました。そして次のアルバムで収録を予定している「Voices ~Ms・Vn・琵琶の為の」へと繋がりましたし、今、また薩摩琵琶と笛による新たな作品も姿を現しつつあります。どんどん先へと進んでいるようで、実はどんどんと自分の奥底へと回帰しているようにも感じます。

私は琵琶を弾けば弾く程に色んなものから解放されてゆく感じがしています。時間はゆっくりですが、この30年程は肉体はそれなりになって来ても、精神は毎年ベールを脱ぐように軽くなり、楽になり、だんだん本来の自分に戻って来ている気がしています。まあ性格的に伝統やら流派やらというものに留まるようなことは最初からなかったですが、それでもどこかに囚われていた部分も様々あったと思います。それが少しづつ解放されて自分の音に成って行ったという事です。ここ5年間ほどでそんな気分が加速してきたので、これ迄とは違う時間が流れているように感じたのかもしれません。きっとどこかで社会の変化と連動しているのでしょうね。

今後も更に音楽は自分らしくなって行くでしょう。とにかく言える事は音楽以外の欲を持って取り組まない事ですね。余計な欲を持っていると躓きが多くなるし、脇道に逸れやすい。またその欲に振り回されて自分のやりたい事が霞んでしまう。音楽家はとかく周りにまとわりつく欲に振り回されやすいので、自分の行くべき道が霞まないようにマイペースで進みたいです。

納得の行く作品を創り演奏をして行きたい。それだけですね。

長い旅路

猛暑というより酷暑ですね。毎年夏はあまり演奏会もなく家でのんびりしていますが、これだけ暑いとビールの消費が増えて困りますな。

この秋~年末にリリースを予定しているアルバムの曲は大体出揃っているのですが、まだ音合わせが出来ていない曲があり、先日やっと通してリハーサルをやることが出来ました。少しづつレコーディング向けてに動き出しています。譜面の書き方の甘さから上手く合わなかった部分も見えてきたので、早速書き直したりしてブラッシュアップ中です。時間はかかりそうですが、年内には録音まで完了すると思います。今回のアルバムでオリジナル作品のアルバムは10枚目となりますので、良いものを遺したいと思っています。

西川箕乃三郎ML玉置ひかりM

舞踊:西川箕乃三郎  横笛:玉置ひかり


また9月に復活する人形町楽琵会の方もプログラムが決まり、動き出してきました。今後定期的にやって行けるかどうかわかりませんが、ともかく復活したのは嬉しいですね。今回は笛が玉置ひかりさん、舞踊が西川箕乃三郎さんという、今を時めく若手と組んでやりますので、今迄にない新鮮な気分で演奏出来そうです。御期待ください。詳細はまた改めてお知らせします。

2人形町楽琵会にて 能楽師の津村禮次郎先生と
こうして新作を創り出して活動して行けるのも、今になって思うと、自分なりのペースとスタイルをこれ迄淡々とやってきたからだと思っています。私は特に自分のスタイルを作ろうとは特に思っておらず、ただ好きな事を好きなように勝手やってきただけなのですが、その軌跡がそのまま自分らしい形を作って来たんでしょうね。そしてこの「自分らしい」という事が、長く続けられてきた秘訣であり、また活動を続けてゆく上でのキーワードだと思っています。

私は自他ともに認める天邪鬼なんですが、人脈も経済力も全く持っておらず、憧れと思い込みだけで東京に出て来ました。当時の自分は何をどうしたら良いかもろくに判っていませんでしたし、自分が向かって行く道筋すらも漠然としたまま、そんな勢いだけが自分を突き動かしている状態でした。

それでも東京に出てきてすぐにギターの師匠 故 潮先郁男先生からハコの仕事(ナイトクラブの専属バンドマン)を紹介してもらって、スタンダードナンバーをギターで弾く仕事をしていたので、ある程度音楽業界の事は知っていましたが、そんな知識は琵琶の活動には何の役にも立ちませんでした。ただ洋楽の音楽理論を若い頃に結構根詰めて勉強したことは、作曲に於いては大変役にたちましたね。

また私が琵琶でやって行こうと思い立った頃、周りを見渡しても琵琶を生業としてやっている人はほとんどいませんでした。お教室が多少にぎわっている先生が数人居る位で、演奏家としてプロで活動していたのは上原まりさんだけでした。つまり活動に於いて、指針や参考になる人が誰も居なかったのです。そんな中で何故琵琶を生業にしようと思ったのか、自分でも不思議ですが、ギター小僧時代の勢いそのままで走りだしたんでしょうね。幸いな事に活動を開始してすぐに色々な方から声を掛けてもらって、小さなライブやサロンコンサートみたいな所から活動を始めました。

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若き日 岡山県 山荘やなはらにて 笛の阿部慶子さんと

私は天才でもなければ、コツコツとやるまじめなタイプでもなく、不器用というか俺流というか、何をやらせても、好きなようにしかやらないので人より何倍も時間がかかり、失敗を繰り返してやっと何かが出来るようになるという誠に効率の悪い人間です。しかしまあそのお陰で、寄り道、枝葉にはかなり通じ、色んなジャンルの様々な人と知り合いになるという副産物を得る事は誰にも負けません。あの頃はジャズ時代とまた違う面白い日常でしたね。
最初は御縁があって関西方面で多くの演奏の機会を頂きましたので、私は調子に乗って曲をどんどん創って、笛の阿部慶子さんに吹いてもらって毎月のようにツアーに出かけていました。琵琶奏者に成って何が楽しいと言えば、日本中を旅してまわるのが何より楽しいのですが、それがあの頃から始まったという訳です。当時は勢いだけの駆け出しの私に、よくぞ多くの機会を与えてくれたと思います。本当にお世話になった皆様にはお礼を申し上げたい気持ちでいっぱいです。
それにCDのリリース、ネット配信とかなり早い段階からやることが出来たのも人との出会いのお陰です。だからいくら鈍感な私でも、あの頃から「御縁は大切にしよう」とずっとそれだけは思っています。今でも縁を繋ぐ事が音楽活動だと肝に銘じています。

2003年には尺八のグンナル・リンデルさんと作曲の師 石井紘美先生の計らいで、初のヨーロッパへのツアーもさせてもらって、ロンドンやストックホルム、マルメなどで演奏しました。特にロンドンシティー大学で初演した石井先生の作品が現代音楽のトップレーベルWergoからCDで発売されるという、私にはもう快挙と呼べるような出来事もありました。例えて言うなら演歌歌手がキングレコードでデビューするような感じでしょうか。もうこれらが20年前だとは。時の流れはあまりにも早いですね。その後はシルクロードの各国へもコンサートツアーに行かせてもらいましたが、琵琶を手にして約30年程、この30年はもう自分で選んだというよりは、導かれたとしか言いようがないと思っています。本当に感謝の言葉以外出て来ないですね。

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photo 新藤義久

こんな風にして私は琵琶奏者としてスタートを切り、やりたいようにやりながら自然と自分のスタイルが出来上がりました。活動の最初から弾き語りではなく、器楽を基本に曲を書いていたのが自分に合っていましたし、そのお陰でジャンルを超えて多くの音楽家や舞踊家と共演し舞台を務める事が出来、活動が広がって行ったと思っています。今私の所にはこれから琵琶で活動して行こうという若者が何人か来ていますが、自分なりの活動のペースやスタイルという事について色々話をしています。なかなか自分が何者であり、自分が行くべき道がどれなのかを見定める事は難しいですが、少なくとも先生の真似をしても、先生とは個性も身体も時代のセンス等、持っている質そのものが違うので、表面の形をなぞったところで何も身になりません。かえって足かせにしかならない。ジミヘンのフィードバックのやり方を勉強したところでどうにもならないのと同じです。

邦楽では先生が、生徒を自分と同じレールの上に乗せ、同じ色に染めようとする例が多いですが、それでは流派の先生以上になりませんし、一昔前ならまだしも現代では看板をもらい先生になったところで生業にしては行けません。特に琵琶は能や長唄のように実際にプロとして活動して行く協会・団体は無く、どこまでも個人芸ですので、生業にして行くのは自分で自分のやり方を見出し自己プロデュースをして行かない限り、お稽古事を超えられません。是非これからの若者には、自分で生きて行くペースとやり方を築いて欲しいですね。

We are together againパット・マルティーノ氏のCD「We are together again」のジャケットトップ
かくいう私も若い頃は軸足が全く安定せず、ギタリストの山下和仁さんやピアニストの小曽根真さんらの世界での活躍を見て、羨望の眼差しと同時に何とも言えない劣等感が身の内に渦巻いていました。そんな時にギターの潮先郁男先生は「自分が好きなものより、自分らしい、自分に合ったものをやりなさい」と言ってくれました。先生はまた「人と比較してはいけない。それぞれの技法があるのだから。今の自分のスタイルを磨いて行く事を大切にしなさい」と、とある歌手の方に話していましたが、そのまま私には最上のアドヴァイスでした。
結局は自分は自分以上にも以下にも成れないのです。憧れに振り回されて自分を見失っていては、いつまで経っても自分の歩むべき道に進めない。自分自身に成りきって生きて行く事が一番幸せなのだと、年を経るごとに思います。私が尊敬するギタリストPat Martino氏も晩年にこんな言葉を遺しています。

「自分が自分である事を幸せに思う。。。それに勝る成功はない。つまり、自分の人生そのものをもっと楽しもうと私は言いたいね」

と言っています。私はPat Martino氏のレコードやCDを高校生の時からずっと聴いてきて、彼の創り出す音楽とそれに取りむく氏の姿勢をずっと追いかけて来ました。2021年にPat Martino氏が亡くなった時には、私もそれなりの年齢になっていたこともあって、この言葉を改めて心に刻み込みました。そして毎年毎年その言葉は、我身の奥に浸透して行ってます。

演奏会2

2006年 高野山常喜院独演会にて


これ迄長い旅路をのんびりとてくてく歩いて来ましたが、とにかく面白かったの一言です。そしてこの道はまだまだ先へと続いて、色んな展開をして行きそうです。現在の世界と日本の状況は決して良い状態ではないですが、こんな状況の中でも、私は琵琶奏者として生きて行くのが自分らしいと思っています。なかなか一筋縄ではいきませんが、これからを生きる若者にも、是非自分なりなりに生き抜いていって欲しいものです。

糸の話Ⅲ

今日も暑い一日でした。今年の夏も厳しくなりそうですね。

左:塩高モデル大型1号機 右:大型2号機


私の使っている塩高モデル大型2号機が、最近良い感じに鳴り出してきました。1号機が1999年、2号機が2001年の作品ですので、もう共に20年以上経って、材のポテンシャルルがいよいよ表に出て来たのでしょう。実は1号機、2号機で随分と性格が違います。同じ作者なのに面白いですね。1号機はほんの少しだけ2号機よりボディーが薄造りで重量も少しだけ軽いのですが、その分、元気の良い音とでも言えばよいでしょうか、例えて言うのならフラメンコギターのようにガンガン鳴ります。小さめの会場での演奏に向きますね。2号機の方は材がもう少し厚く全体ががっしりしていて、音が直線的に飛び出て行く感じで、いわゆる遠鳴りするように品良く響くので大きなホール等ではこちらを使います。ギターでも何でもまともな材質で丁寧に作られている弦楽器というのは、時間が経つと良い感じになりますね。

1号機はもうかなり前からバンバン鳴り出していましたが、最近は2号機の鳴りが半端なく、特に低音がどんどん豊かになってきました。それににしたがって、4・5の糸が時々埋もれ気味かな~という感じも同時にしていました。先日挙げた「平家幻想」の舞台

こちらの舞台でも後で録音などを聴くとちょっと4・5が埋もれる感じがしないでもないかな、という気がしました。まあマイクもマイクのセッティングもそこそこでしかなかったので何とも判断は出来ないですが、低音の圧倒的な存在感に比べ、少し高音が出て来てない感じがしたのです。そこで早速4・5の糸を21番に変更した所、とてもいい感じでバランスが取れました。これ迄大型は第1絃が45番、第2絃が35番、第3絃が2ノ太目、第4・5絃は20番を張っていました。ほとんど問題は無かったのですが、21番を試したところドンピシャでした。これはちょっとした発見でしたね。

分解全体

それに伴って中型の方も見直しました。ここ1年程で中型2号機(分解型)が良く鳴るようになってきまして、これはもう実践でガシガシ使えると思っていたのですが、気持ち第4・5絃が少しばかり弱い(というか響きが足りない)感じがしていましたので、こちらも21番を張ってみた所いい感じなりました。更に第2絃も35番にした所、バランスが取れて来ました。中型1号機の方はいつもの調子でバランスが取れているので今まで通り、第1絃が45番、第2絃が1ノ太目、第3絃が2ノ太目、第4・5絃が20番というセットにしてあります。

絃の変遷はそのまま私の音楽と演奏スタイルに直結していて、大型を手に入れた当時、最初は第4・5絃は15番でした。すぐに17番に上げ、その後19番になり、ここ4.5年は20番で定着してました。
私の演奏スタイルは弾き語りではなく器楽ですので、一般的な弾き語りの薩摩琵琶に比べかなりダイナミックに弾きます。作品は現代音楽~プログレ・フリージャズの土台が相変わらずしっかりと固定されて変化はないですが、表現はここ30年で少しづつ変化して行ってます。最初はただガンガン鳴らしているだけでしたが、消え入るような繊細さも、メロディーを歌い上げるような息遣いも重要な表現になって来て、同時に爆発するような強靭さも更に充実を目指したい、という訳で、それらを表現出来るように全体がセッティングされています。低音のサスティンもとても長い。多分弾き語りをやっている琵琶奏者とは目指している音が随分と違うと思います。まあ私の肉体も年齢を重ね変わって来ているし、音楽性も深化しているという事ですね。

40代前半の頃


上の写真は40代前半のもので撥も今より少し薄めのものを使っていました。大型二号機を弾いているのですが、楽器もまた生きものと同じで、材質も微妙に変化するし気温や湿気でも大きく変わってきます。写真で見ても何だか琵琶がまだ若い感じがしますね。
私は手入れだけは人一倍やっていますので、毎日サワリの調整などは怠らないですが、日々絃も琵琶本体も変化して行くのを感じます。この変化を感じようとせず、昔と同じで良い。流派のやり方はこれだ、なんて思考停止して目の前の形に寄りかかっているようでは、その人独自の音は出て来ません。音色は演奏家の命ですから、常に色んなタッチや指使いなどをいつも考えていて、自分の音色を求め続けているのが演奏家というものです。どんな演奏をしたいのか、何故そうしたいのか、その根底には何があるのか。そしてそれを実現する為にはどんな音色と技術が必要なのか。こういう事を常に頭の中に抱えて生きているのが演奏家の日常なのです。

先生の音が良い音なんて言っているのは子供の発想。音楽家のセンスではありません。そういう色んな追求や思考・勉強・研究をする事が面倒くさくて、ライブで盛り上がっているだけで楽しいなんて人はプロの演奏家には向きませんね。ライブハウスで楽しんでいる方が良いと思います。
まあやり方はどうあれ、ギタリストでもヴァイオリニストでも、どれだけベテランになっても音色を追求し、音楽を創造し続ける事が出来る人だけが、現役の演奏家としてずっと舞台に立てるのです。それにそうやっていつも音色を追いかけ音楽を創って行く事が喜びであり、また新たな世界の扉が開いて、次のステージへと上がって行く事が楽しくてしょうがないのです。

左より 塩高モデル大型。中型、標準サイズ

私は、琵琶を「生きもの」として認識をしています。木は楽器に加工しても、常に呼吸し、湿気や温度に反応しますし、年月が経てばその時に応じて音色も変わってきます。特に私の琵琶は一切の塗装をしていませんので、とても敏感に反応します。絃も絹糸なので正に「生きもの」。絃は直ぐに音となって出てくるので、いつも絃に語り掛けるような感覚で扱っています。それくらいその時々の状況で変化して行くのです。琵琶も絃も命あるものとして扱ってはじめて、答えてくれますし、素晴らしい音となって響いてくれます。
絃は張ったばかりの時だけでなく、しばらく張っていたものでもなかなか音程は安定しないものです。毎回演奏前に引っ張って伸ばしてから弾きますが、その時々で音程が落ちやすい絃があったりするので、その日の絃の調子を診ておかないと、せっかくの音色も生かせません。特に第4と5絃はどちらかが落ちてしまう事が多いので、演奏前にその日の絃の状態を把握する事は必須ですね。

絃でも楽器本体でも自分の思い通りにコントロールしてやるなんて思ったら全然答えてはくれません。私は常に楽器と対話するように一体となって一緒に音楽を奏でる相棒という感覚で弾いてます。ほったらかしていたら全く答えてくれません。日々あれこれと世話を焼いて初めてあの妙なる響きが出てくるのです。絃も琵琶も時々、どうにも安定しなくて、響いてもくれなかったりする事もありますが、私はそういう時に絶対無理に鳴らすような弾き方はしません。むしろ丁寧に静かに鳴らすようにしています。

毎日のようにサワリの調子を診て、絃の状態を診て、一番良い状態を保ってあげる事は、命あるものに相対していると思えば、私には当然の事です。まあ手のかかる子供が沢山居るのと同じです。私の琵琶部屋には、いつもこいつらが控えていますので気は抜けません。しかしながらさすがにもうこれ以上扶養家族は増やしたくありませんな。

このほかに平家琵琶や標準サイズの薩摩、稽古用のもの等がありますのでなかなかの圧迫感です。こういう暮らしをもう30年もやって来れたというのは有難い事ですが、面倒くさいと思ったことはありませんね。逆に毎日いじって、この琵琶たちが理想の音色が出るようになって行く様は、本当に楽しくてしょうがないのです。どれか一面でもサワリや絃の具合が悪いとどうにも気になってしまいます。

こうやって日々を過ごし、これ迄琵琶弾きとして生きて来れたんだから最高でしょう!!。

photo 新藤義久

絃はまず最初に手を掛けられるところなので、弾く度に様子を診て、より良い状態で弾いてあげたいですね。是非自分の琵琶を持っている方は、そいつにたっぷりの愛情をかけてあげてくださいね。

舞台で生きる

先日の琵琶樂人倶楽部は新規のお客様が結構来てくれて、更にゲストの鈴木晨平君の友達も駆けつけてくれまして大盛況でした。

photo 新藤義久


晨平君も彼独自の世界を披露してくれまして、お客様も喜んでいました。どんなジャンルでも言えますが、リスナーが求めるものと自分のやりたい事は必ずしも一致しません。まあアーティストはいつの世も悩みは尽きないものですが、是非自分の想う所を貫いて行って欲しいですね。私自身その辺はギター時代からよく感じていましたので、琵琶に転向してからは、徹底して自分で作曲した曲以外は弾かないと決めてやっています。先日の琵琶樂人倶楽部では本当に久しぶりに自作の「壇ノ浦」を演奏しましたが、出来は、薩摩琵琶の特徴は聴いてもらえたかな、という程度でした。やはり私は歌い手ではないですね。しかし久しぶりに長い弾き語りをやってみて、色々新たな発想も湧いてきました。

Msの保多由子先生と photo 新藤義久
私は普段から声の専門家と組んでやっているので、声を出すという事に関して、生半可な姿勢では舞台で声は出せない、といつも感じています。私のように常時声の鍛錬をしていないものは、上手い下手という事以前に、声が音楽に乗りません。琵琶奏者として活動している方は皆さん歌う事を前提に活動している人がほとんどですが、週に何本も仕事で歌うプロの現場に行ったら、ちょっと上手なんて程度では通用しません。リスナーは皆黙っているけれど結構厳しいものです。今日は調子が悪い、なんて思ってはくれないのです。
これはどんな職業も同じで、料理人でもドライバーでも接客業でも、常に毎日高いクオリティーを持続出来て、それも何十年と持続出来て初めてプロとして認められ、職業として成り立つという事を音楽家は忘れている人が多いように思います。

箱根岡田美術館 尾形光琳作「菊花屏風図」前にて

舞台に立って仕事をして行くのなら、他には無いオリジナルな世界を常に安定して聴かせることが出来なければ評価がもらえないし、収入にもなりません。そう考えると「壇ノ浦」のようなスタンダードな曲をやるのはとても挑戦なのです。それは常に師匠や名人達と比べられてしまうからです。老舗の料理屋さんでも先代と同じ味を出していては評価されません。先代を超えて、尚且つその店の独自のセンスも継承して初めてお客さんに納得してもらえるのです。
音楽家も「こいつがやったらこの曲もこうなるんだ」と思われる位に独自のスタイルと魅力を表現して初めて何かしらの評価が付いてくるのです。リスナーは決して師匠の演奏をコピーしたようなお上手さを求めてもいないし、そこを聴いてもいません。これが解らない人は一生お稽古事から逃れられないでしょう。ヴァイオリニストが研究と研鑽を重ねて重ねて、満を持してバッハの無伴奏に挑戦するように、琵琶奏者も守・破・離の更にその先まで突き詰めて、自分にしか出来ない世界が確立が出来たと確信するまでやって、初めて流派の曲に挑戦する位で良いのではないでしょうか。教室で習った得意曲をご披露している内は、まだアマチュア。先生の弟子の内の一人でしかないのです。

厳しいですが、代わりはいくらでもいるし、若くて上手な人はどんどんと出て来るので、ちょっとちやほやされるのも、ほんの短い時期で終わってしまいます。そんな所で喜んでいるようなメンタルでは長く続けて行けません。他の音楽ジャンルを見れば一目瞭然でしょう。クラシックでもジャズでもロックでもポップスでも、独自の魅力を持っていなければプロデュースしようがないし、オリジナルな魅力の無いものにはリスナーは付かないのです。お稽古事をやっていると、上手さを求める事ばかりに意識が傾いて、そこが判らなくなってしまいがちです。お稽古事の罠ですね。

晨平君
晨平君はギターでライブ活動をやって来ているので、その辺の所がしっかりと解っているのが、実に頼もしい。確かに彼の音楽はまだまだかもしれませんが、きっとこれから30代、40代を迎え、年を重ねて行くと魅力のある音楽を創って行くだろうと期待しています。

私がプロ活動を始めた頃、約25年程前に、某邦楽雑誌の編集長に「琵琶で呼ばれている内はまだまだ。それはただ珍しいだけだ。代わりはいくらでもいる。塩高で呼ばれるようになれ」とアドバイスを頂きましたが、あの時に本当に貴重な言葉を頂いて、今その言葉が大切なものとして心の中に刻まれています。
舞台に立つという事は、「自分には何が出来て、何が出来ないか」という己の質と姿を己自身でしっかり把握する事なのです。お稽古事の人とプロの舞台人との違いはにはここに尽きます。

私は琵琶奏者としてのスタートが遅く、30代でやっと活動をはじめ、1stアルバムを発表してガツガツやっていました、樂琵琶での活動もやっていたので、器楽の作曲作品は薩摩・樂琵琶共に次々とリリース出来て活動は順調ではありましたが、声に関しては心が徹底していませんでした。40代の半ば過ぎ迄はまだまだ舞台で声が出なくなったりして失敗を重ねていました。それが50代に入って、声を使う事に関して、自分のスタンスが徹底し、器楽の演奏家として心が決まって来たてきたことで、色んな呪縛から解放されて、作品も更に思う形をどんどんと発表できるようになりました。自分の音楽とスタ
イルをやっとしっかりと掴むことが出来たという訳です。

羽黒山

音楽を生業にして行くというのはなかなか難しい。上手なだけではやって行けないし、面白いアイデアだけでもやって行けない。売る事を前提にすると、やりたい事はなかなか出来ない。けれども生きて行く為には収入の事も考えなくてはいけない。時に周りの事が気になったり、演奏が上手く行かず自信を無くしてしまったり、様々な事がありますが、とにかく途中でやめてしまったらそれまで。続けて行かないと音楽は生まれて来ません。生きる事と音楽を創ることがイコールになる位でないと。小さな所に囚われて、目の前の技術に寄りかかったり、人に寄りかかったりしていてはいつしか何も見えなくなってしまいます。なるべく余計なものは捨てて、身軽になって自分が素晴らしいと思える音楽の為に、自由にこれからも生きて行きたいですね。やはり「媚びない・群れない・寄りかからない」は大事ですね。

この夏はあまり演奏会は入っていないので、とにかく新曲を仕上げる事に専念出来そうです。秋の特別講座のレジュメもそろそろ描き出さないと。のんびりじっくりやらせて頂きます。

初心に戻って

今月10日(水)の琵琶樂人倶楽部は、発足当時の初心に戻って、薩摩琵琶の発祥から現在までを辿るレクチャーをやります。琵琶樂人倶楽部を始めたきっかけが正に、薩摩琵琶の歴史をしっかりと伝えようという想いで始めたので、200回目を目前にもう一度初心に立ち返ろうという訳です。

biwa-no-e2邦楽ジャーナル記事

こちらは17年前琵琶樂人倶楽部が発足した時に邦楽ジャーナルに載った記事です。私が琵琶で活動を始めた25年程前は、琵琶史観が全くめちゃくちゃで、琵琶樂の研究者もまだろくに居ませんでした。一番新しく80年代辺りに流派として認知された所が「古典です」なんて言ってはばからないような状態で、私自身も最初は薩摩琵琶の歴史をろくに知らず、そんなもんかなと思っていました。
若手が格好つけたくて大げさに言うのは可愛いものですが、「琵琶は千年以上の歴史」があるなんてキャッチコピーで、先生方までもが宣伝しているようでは、さすがによろしくない。そういうものに対して誰もがだんまり状態というのは情けないと思うと同時に、琵琶樂衰退の原因はここだなとも感じていました。ようは琵琶に対する意識レベルの低下という事です。何故胸を張って「最先端の琵琶樂です」と言えないのでしょうか。古典というと何だか権威がありそうで立派に見えるとでも思っている人が多いかと思いますが、そんな所に寄りかかっていること自体が既に音楽家でも芸術家でもないですね。大概新しい流派程「古典」と言いたがるのは何の分野でもそうなのですが、これは田中裕子先生が言っている「伝統ビジネス」と同じセンスだと思っていました。

y30-3s若き日
また私は活動の最初から何故か大学や市民講座等でレクチャーの仕事もしていました。私にはキャリアもアカデミズムも何も無いのですが、どういう訳か、そういう所に呼ばれて喋るという運命が、琵琶を手にした頃から与えられたのです。これも勉強だと思って毎年やれるところはやっていますが、そんなアカデミックな専門研究の場で、まだ何十年しか経っていないものを古典とはとても言えないし、相手にもされません。2003年にヨーロッパツアーに行った際にロンドンシティー大学で世界の作曲家に向けてレクチャーをやりましたが、その時にも「薩摩琵琶は日本音楽の中でも、近代に新しく成立したジャンルであり、特に私が持っている5絃タイプのものは昭和時代に開発されたモダンスタイルな楽器です」と言ってレクチャーと演奏をやりました。

私は最初から日本音楽の最先端をやってやるという想いで琵琶を弾いているので、捏造のような歴史観には違和感以外のものを感じませんでした。薩摩琵琶を古典と言っている人は未だに居ますね。何か寄りかかるものが無いと自分を保てないのでしょう。私には自己顕示欲とコンプレックスに囚われているとしか思えないですね。

寶先生 大分能楽堂公演2寶先生 大分能楽堂公演

左:大分能楽堂公演の前日、長唄笛方の寶山左衛門先生と。 
私は随分と気合の入り過ぎた硬い顔してますね。まあ無理もないですが
右:演奏会終了後の打ち上げにて大役を務めた後、一気に気が抜けて吞んでしまって、寶先生、百華さんの横で腑抜けてます

まだ私が30代の頃、長唄の寶山左衛門先生の舞台などに出させてもらいましたが、長唄という数百年の歴史のあるジャンルの中で、数十年の歴史しかないものを古典だとはとても言えませんし、40代からは能の津村禮次郎先生や日舞の花柳面先生とも何度も共演させてもらって、こちらがしっかりと正しい日本文化の歴史観を持たないと、とてもじゃないけど一流の芸能者とは一緒にはやって行けないという事も学びました。日本の音楽をやっているのなら、歴史も古典も一通り精通していて当たり前。習った事しか知らないなどと言うオタクレベルでは全く通用しないのです。
今はネット配信で即刻リリースしたものが世界に流れる時代。日私の曲も聴いて買ってくれる外国の方にアピールするのなら世界の歴史の流れや文化もある程度視野に入れておくのが常識な時代です。仲間内の小さな琵琶村感覚をいい加減脱しないと、誰も相手にしてくれません。既に永田錦心が生前同じ事を熱く語っています。琵琶樂人倶楽部発足当時は、同じ思いを持っている人が誰一人居ませんでした。そこがとても悔しかったですね。

晨平鈴木晨平 photo 新藤義久
だから琵琶樂人倶楽部を立ち上げ、まともな琵琶樂の歴史について知ってもらおうと思ったのです。今回はそんな発足当時に立ち返り、薩摩琵琶の発生から現在までの変遷をお話させてもらおうと思っています。また現在の姿という事で、今ライブ活動を頑張っている鈴木晨平君に、現在進行形の薩摩琵琶の姿も披露してもらいます。お稽古事ではなく、一から薩摩琵琶という新しいジャンルを創り上げ盛り上げて行った永田錦心、水藤錦穰、鶴田錦史の各先人のように、彼も現在進行形で自ら創って行こうと頑張っています。そんな彼の今を聴いて頂きたいと思います。
何とか流という名前があると、何だか凄いもの、偉いものに思えてしまうものですが、そんな名前やありもしない権威に寄りかからないで、どこまでも自分の軸で、先人の志をこそ受け継ぎ、微力ながらも次世代へと繋げたいですね。「媚びない、群れない、寄りかからない」は何ごとにも必須の精神だと思っています。

薩摩琵琶樂は魅力ある現在進行形の音楽です。現代、そして次世代の人にアピールできる薩摩琵琶の音楽をどんどん創りたいのです。それはそのまま永田錦心や水藤錦穰、鶴田錦史たち先人がやってきたことに他ならないのです。微力ではありますが、先輩たちの志を次世代の琵琶人に伝えていきたいですね。そして次世代の琵琶樂を創り出す人材を応援したいですのです。

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