プロの条件Ⅴ

今月来月は本当に多くの演奏の機会をいただいています。このご時勢に有り難いとしか言いようがありません。月並みでありますが、やっぱり縁に生かされているという事でしょう。心から感謝しかありません。年を取るごとにこういう想いは深くなってゆきますね。とにもかくにも琵琶を生業として生きてきて本当に良かったとつくづく思います。

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仕事は毎年、秋のシーズンとこの梅雨時期に集中することが多いのですが、「こなしている」という形になるのが一番良くないのです。活動が展開して行くと、忙しく演奏してまわっていることで満足し、果てはそんな自分に酔っていってしまうものです。忙しくなればなるほど自分自身を見つめ自制して、やるべきことを追及していかないと流されてしまいます。
聴きに来てくれる人は皆、せっかく来た演奏会が期待はずれだったら二度と来てくれません。特に琵琶のような珍しい楽器は気の抜けた演奏をしたらとたんに「琵琶なんて大したことないね」と、その一回で評価を下されてしまうのです。今日は調子が悪いんだね、なんてやさしく思ってくれる人は誰もいません。そしてそういう声は常に無言なのです。「素晴らしい」などとおだててくれる言葉は耳に聞こえますが、「つまらない」という言葉は聞こえてきません。身内が目の前でおだてる言葉に満足したらお終いですね。

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若き日、グンナル・リンデル(尺八)、カーティス・パターソン(筝)藤舎花帆(鼓)佐藤紀久子(三絃)のメンバーで作ったCDのジャケット

私は若い頃から随分と失敗を重ねてきました。技術的な失敗から、勘違いや心の持ち方の失敗まで本当に多くの失敗を重ねて来ました。私が若手といわれた頃、プロとして活動している琵琶奏者は居なかったので、アドヴァイスをくれる先輩も周りにおらず、何でも自分で経験して行くしかなかったのです。今思えばそれらの経験が皆現在の自分の肥やしとなっているのですが、とにかく今は演奏会の大小を問わず充実した仕事をする様に心がけています。

最近、よく若い方から「どうしたら活動をしていけますか」と聞かれます。人それぞれやり方があると思うので何とも言えないのですが、こと演奏に関しては、いつも以下の4つのことを大事にしています。

1:納得いく内容の仕事をする
2:常にスケジュールに余裕を持つ
3:どんな仕事でもギャラを取って演奏する
4:どんな場合でも伴奏ではなく共演をする

この4つはいつも心がけています。

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私はほぼ全ての曲を自分で創って、それを演奏していますので、納得のいかない曲を弾かされるというのはあまり無いのですが、時に曲も演奏状況も思う様にできない仕事もあります。勿論やるからにはしっかりやります。しかし自分がやるべきものでないと感じたら、次回からは丁重にお断りをしています。
またスケジュールに関しては、いつも気をつけています。なるべく3日以上は連続しない事と、移動に余裕を持つことは体調管理、サワリの調整、絃の管理などの楽器にも関しても大事ですし、結果として良い仕事に繋がります。実は先日もスケジュールで難しい場面に当たってしまいまして反省しているのですが、ここはクオリティーの高い舞台実現の為、常に肝に銘じておかなくてはいけない部分です。

また私は一切ボランティアでの演奏はしません。私はコンサートホールであろうと、小学校公演であろうと、しっかり見合うだけの額を頂きます。今私がボランティアで演奏していたら、後輩達はいつまで経っても琵琶でお金を取る事が出来ず、プロとして生きてゆくことが出来ない。私の先輩達は琵琶普及のためにという名目で、盛んに無償での演奏を繰り返しました。皆さんプロではなく流派のお名取さんという方々でしたが、そんな先輩の無償による演奏が琵琶普及に繋がったとは思えませんし、私の活動をサポートする事も全くありませんでした。逆に「御招待が当たり前だろ」なんて言ってくる人もいましたね。
私は自分の為にも次世代の為にも、仕事に見合ったギャラを取る様にしています。その分責任も大きくなるし、失敗は許されなくなりますので大変ですが、キャリアを重ねるというのはそういうことだと思っています。

演奏会9高野山常喜院演奏会にて
毎年やっていた高野山での演奏会でも、しっかり有料のコンサートをやりましたが、高野山内での音楽会を有料でやったのは私だけでしょうね。それも結構高目の料金でしたが、お客様は毎年沢山来てくれました。あんな遠くまで本当に有り難い事だと思っています。高野山では、お寺によって寺の格を看板にして、当然のように招待チケットを要求する所もありましたが、そういう権威に怯まないのが私のスタイルです。

演奏家、特に邦楽の演奏家は本当に権威に弱い。日々ヒエラルキーの中で洗脳されるように、「○○賞を取っているから凄い」「○○門下・流派だとちゃんとしている」「○○大学の講師をやっている」等々、若い人がどんどんと肩書や上下関係の権威主義に洗脳されて頭を硬くしている姿を見かけます。こうして育つと骨の髄まで権威の上下関係で動く様になるのです。そんな邦楽人には音楽の自由な創造の精神は微塵も感じられず、また若い才能が小さな視野に囚われてゆがんで行く姿を見るにつけ、大変残念な想いだけが残ります。少なくともそんな感性ではプロの音楽家としては生きて行けないです。だから私は自由に自分の創造力を掻き立てる事が出来るよう、どこにも所属せず、自由な身でいるよう心掛けているのです。

最後にとても大事なことなのですが、自分がどういうタイプの音楽家なのか、自分で自分を把握することが、とてもとても大事なのです。日本では、「トップクラスの演奏家は、伴奏をやらせても上手い」などと無責任に知ったかぶりをして説教するようなとんでもない輩が沢山いますが、これは全くの間違いです。俳優でもそうですが、脇役の人が主役に成れないのと同様、主役を張る人はワキには回れない。存在感のあり方が基本的に違うのです。
ソリストに憧れて、自己顕示欲だけ膨らませていても、そういう質を持っていない人はフロントは張れません。主役の人も存在感が大きすぎて、ワキに居たら目立ってしまって舞台にならない。人には持って生まれた「分」というものがあるのです。
シテ(ソリスト)でもワキでも、どちらも夫々ノウハウがあり、技術があり、一流を極めるのは並大抵の事ではありません。自分の憧れや願望に囚われて自分の姿が見えない人は、いくらがんばっても成功しないのです。

生徒を教えている人は、生徒の質を見極め、その生徒に見合う道筋をつけてやれば良いのですが、先生本人がこういう部分を判ってない例も大変多いですね。琵琶に於いては、プロとして活躍している先生が居ない事も大きな問題だと思います。生徒の質を見極めて導いている琵琶の先生は、田原順子先生くらいしか思いつきません。
私はどうしてもワキにまわるタイプでないので、組む相手とは常に対等であり、「共演」という形の演奏をします。伴奏は一切しません。曲もそういう風に作曲しますし、演出もそうします。でないとお互いにお互いの良さを発揮出来ないからです。

集合写真
ウズベキスタン タシュケントのブルーモスクの前にて、コンサートツアーのメンバーと

音楽を楽しんでいる人はとても素晴らしい人生を送っていると思います。自分の人生の中に音楽というものが響いている人は、日々も豊かに過ごしている事でしょう。私もギターを弾いている時には、何も考えず仲間とワイワイ楽しんでます。リズムが狂ってもアドリブが上手く弾けなくても落ち込むこともありません。終わった後のビールが本当に旨いです!!

しかしもし若者がプロの演奏家を志すのであれば全く別の話です。上手かどうかという事ではないのです。お教室に通って、お名取さんになろうが、賞を取ろうが、評価するのは常に観客なのです。流派や協会の中で褒められても、受賞歴なんかで凄いと言われても、自分の舞台そして作品を評価され、生業として行けないのではアマチュアでしかない。大先生だろうがなんだろうが、舞台で生きて行けない人は残念ながらアマチュアなのです。流派や協会の中でのんびり「先生、先輩」と呼ばれて楽しんでいるほうが幸せでしょう。今の邦楽人にプロはほとんどいない、と私は思っています。

特に琵琶の場合独奏が基本ですから、伴奏の仕事というのはほとんどありません。自ら主役となって舞台を張れる事が宿命です。そしてその舞台が評価されて、初めてお仕事の依頼が来ます。つまりそれなりの資質と条件が整っていなければ活動を展開する事は難しいのです。音楽そのものの勉強や、古典や歴史の勉強も必須です。「五線譜は要らない」「源氏物語や古今和歌集には興味がない」などという人もいますが、こうして自分を狭めているようではプロとしてはやって行くのは難しいですね。自分の興味がある部分だけをやるのは、ただのオタク。そういう意識ではプロとして通用しません。
先生家業でレッスンプロとして生きるのもまた一つの道ですが、今の世の中その収入では食べてはいけないし、それはもっと後でいいんじゃないでしょうか。先ずは舞台人としてやって行けるようでなくては!。

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郡司敦作品演奏会リハーサル Vi 中島ゆみ子 尺八 田中黎山

これからプロの琵琶奏者を目指そうという人には、音楽を生業として生きるという事の意味をしっかりと考えて欲しいですね。いつまでも守られている人生では音楽家に成れません。親に、流派に、組織に守られ、肩書きを看板にして、それらの保護の中にいるうちは収入にもならないし、自分の表現は何も出来ないのです。守られる人生よりも、自分が後輩や周りを守ってあげる人生にならないと、せいぜい自主制作でCD作りました、なんていって喜んでいる程度しか出来ません
自分で曲を創り、自分で演奏会を開き、自分でプログラムを考え、自分の身銭を払ってゲストを呼び、自分の力でお客さんを集め、CDも制作する。そういう活動を年がら年中何十回と続けて初めて、音楽家の端くれになるのです。年に一度演奏会を開き、知り合いや関係者を集めて満席にして喜んでいるのは流派のお浚い会と全く同じ。お上手を褒められているだけだという事を判って欲しい。永田錦心も、水藤錦穰も、鶴田錦史も、皆自分なりに考えて行動し、時代をリードしていったではありませんか。その志を継がずして、ちょっと上手に先生の曲を弾けるようになった位で「琵琶の演奏家です」とは、私はとても言えません。

流派の曲を上手にやるのはアマチュア。プロは自分の表現をして、自分の作品を演奏し、且つそれを認められて初めてプロとして成り立つのです。またたとえオリジナルをやっても、それが評価されなければ収入にはなりません。高円寺辺りのライブハウスでは何百何千という若い連中が毎晩、オリジナル曲でしのぎを削っていますが、そういうところから見たら、琵琶でちょっとオリジナルをやってますなんていうのは、ただ珍しいだけだということを判って欲しい。それは音楽を聴いているんじゃなくて、琵琶という珍しい楽器を見に来ているに過ぎません。全ての音楽家と同じ土俵に立って勝負できないようでは、音楽家には成れないのです。

次代を担う琵琶人、出て来ないかな・・・。

新相棒来る!Ⅱ

先日UPした継琵琶には色々と反応がありました。是非分解した写真を見てみたいという声もありましたので、いくつか紹介します。

分解全体ネック細工

こんな感じになります。ネックとボディーは凹凸の細工がありまして、その細工をカバーするのがこちら

細工カバー

ボディーの受け側にもこんな感じのカバーが付きます。もう本当に石田さんの技が冴え渡り、分解・組み立てを繰り返しても、サワリがおかしくなる事はありません。私の琵琶は1本調子という一番低い調子にチューニングされていて、絃も極太のものを張っているので、一の糸のサワリはちょっと気を使いますが、他の絃及び各駒のさわりは全く問題ないです。

これがケースに入るとこんな感じ。実際は駒カバーや覆手カバーをつけて収納します。

ケース内部

そして上蓋の方にソフトケースを入れて運びます。旅先では一度組み立てたら、組み立てたまま運ぶ方が音が安定しますので、ソフトケースも持っていかないと、行った先でいくつかの演奏があるツアーは出来ません。一回だけの演奏の時はもっと小さなケースに入れて運びます。

嘉辰小谷デュオ150918-s_塩高氏

左:音霊杓子の小谷さんと朗詠「嘉辰」演奏中 右:箱根岡田美術館にて

もうここ数年は薩摩琵琶と樂琵琶の両方を使う演奏会が主になってきていて、いつも誰かに手伝ってもらっていたのですが、これでやっと自分ひとりで、そういう演奏会にもある程度対応が効く様になりました。
演奏会では、琵琶の歴史や変遷の話をしながら演奏をするのですが、それは何よりも琵琶楽の長い歴史が育んだ豊かな世界をぜひとも味わっていただきたいからです。だから近現代の薩摩琵琶と共に、最古典の樂琵琶も演奏します。そうなるとやはり常に二つ抱えてゆくしかない、という訳なんです。

薩摩琵琶の会では、「古典です」と言い切ってやっている演奏会もよく見かけますが、私はいつも能や長唄のベテランとやっていることもあって、薩摩琵琶が「古典です」とはとても言えません。薩摩琵琶は流派というものが出来てまだ100年程。曲のほとんどは大正から昭和に出来た曲ですし、鶴田流にいたっては70年代から80年代にかけて流派となったくらいですので、やはり琵琶楽の中でどれが古典で、どれが近代で、どれが現代なのか正確な情報をアナウンスするべきだと思います。その上で、古典も現代も聴かせる演奏会を開くのが、全うな琵琶人の在り方だろうと思っています。
琵琶楽の正しい歴史と変遷を判ってもらって、魅力ある色々な琵琶楽を聴かせて、是非琵琶ファンを増やしたいですね。

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巷では薩摩・筑前の近現代の琵琶しか聴けない演奏会がほとんどなので、古代から続く樂琵琶を聴いていただくと、その音色や楽曲にびっくりされる方がとても多いです。今まで刷り込まれていた琵琶=耳なし芳一、べんべんというイメージではなく、樂琵琶から流れ出る音楽はメロディアスであり、且つ大きな空やさわやかな風を感じるような大らかな世界なのです。だからその大きな世界に接っしていただくと、様々な感想を投げかけてくれます。
私は源氏物語などの話もしながらやるので、中には古典文学に描かれているエピソードと共に、想いをいにしえの都へと膨らましてゆく方も居るし、遠くシルクロードへと想いを馳せる人も少なくないです。やはり樂琵琶を抜きに琵琶楽は語れないですね。

千数百年という時間を経て、時代と共に様々に形を変え、連綿と受け継がれている「琵琶」というものをやっている以上、私は古典から現代まで聴いてみたいし、弾いてみたい。自分のオリジナリティーは何よりも大事ですが、だからといって自分の世界に閉じこもって、その深く長い魅力的な歴史に目を瞑る訳には行かないのです。私は聴きに来てくれる方にも是非とも、琵琶楽の最先端と最古典を聴いてもらいたいのです。だから今回の継琵琶は素晴らしい相棒になってくれると思っています。そのうち樂琵琶の継琵琶も作ってもらわないと・・・・?

先ずは来月頭の京都大阪の演奏会で、樂琵琶とこの新相棒を持って行って、お披露目です。

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兵庫芸術文化センターホールにて

さてこれから演奏会が目白押しです。色々ありますが、先ずは一昨年から俳優の伊藤哲哉さんとのコンビでやってきた「方丈記」を日本橋富沢町樂琵会でやります。昨年はかなりの演出も含めた形での舞台でしたが、今回はごくごくシンプルに聞いていただきます。継琵琶といえばなんといっても鴨長明ですから、ドンピシャという感じですね。6月15日富沢町の小堺化学ビル地下MPホールで開催します。

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そして次の16日には東久留米の成美教育文化会館にて、ヴァイオリンの糸井マキさんとのジョイントコンサートです。薩摩琵琶の迫力ある音色をたっぷり聞きたいという人にはこちらがお勧め。ゲストに尺八の吉岡龍之介君を迎えて「まろばし~尺八と琵琶のための」、弾き語りで「壇ノ浦」など演奏いたします。

よき相棒を得て、更に充実した演奏会をどんどんとやって行きたい。乞うご期待!!なのです。

新相棒来る!

念願の継琵琶が出来上がってきました。石田克佳さんが半年がかりで練りに練って考えて製作してくれた労作です。

裏側を観ると見事なツートンカラーになっています。接合部分も木部に負担の無いように、一部目の方向を変えた部分を挟んであります。この琵琶は、今まで塩高モデルの中型2号機として使っていたものを半分にカットして組み立ててもらったものなのですが、海外で使うことを念頭においているので、象牙は一切使わずに、糸口や月マークの所は貝を使って作ってもらいました。

現在、海外では象牙の輸出入が禁止されているのはご存知だと思いますが、最近では、象牙の装飾があるヴァイオリンの弓が空港で没収された事件などもあり、大変厳しくなっています。また木材に関しても、今まで大丈夫だったローズウッド全種がワシントン条約によって輸出入に関し規制がかかってしまいました。これまでハカランダと呼ばれるブラジリアンローズウッドは駄目でしたが、ローズウッド全種に規制がかかったことで、ギターメーカー等は大慌てになっていまして、メイプル材を焦がして黒くして、ベイクドメイプルという名前で指板に使ったりしています。かえって音の反応が良くなったという評判もありますが、なんだか大変な時代になりました。まあまだローズウッドはレベル1という事で、正式な証明書があれば輸入できるそうですが、材料の高騰は致し方ないでしょうね。

そもそもギターの最大大手ギブソン社が、違法に伐採されたエボニー(黒檀)とローズウッドを買っていたことが露見して、FBIに立ち入り捜査をされて、全ての材を没収されるという事件が発端なのです。簡単にいうと不法に伐採した高級木材を売りさばくマーケットを取り締まろうという訳です(ギャングの資金源になっているという話も聞きます)。
象牙はもう使うこと自体が世界的にみて倫理的にも問題があるといえますが、薩摩琵琶(特に錦琵琶)の様に糸口に大きな象牙の塊が付いている楽器は、今後海外へ持って行くのは事実上無理でしょうね。今は人工象牙の研究が進んでいて、かなり質のよいものが出来つつあると聞いていますが、今後は確実に人工象牙が主流になって行くでしょう。昨年は、海外公演時に標準サイズの琵琶を持って行ったのですが、ひやひやしながら運んでいました。これでひとまず安心です。

ちょっとピンボケで申し訳ないのですが、今回は糸口の土台に黒檀。その上にスネークウッド、そしてさわりの部分に貝を使ってもらいました。覆手(テールピース)の所も、絃を留める部分が貝で、先端はスネークウッドです。ボディーの横に走っている白い線の部分はプラスティックです。
私は元々第一の駒(フレット)には象牙を使っていないので、これで完全な象牙レスの仕様になりました。今後の他の琵琶も随時このスタイルに変更してゆく予定です。

とにかく琵琶はその形態から、いつも飛行機で楽器を運ぶのが大変で困っていたんです。中にはクッション材でくるんでソフトケースのまま貨物に入れてしまう「つわもの」も居るそうですね。アマチュアの方ならどこか壊れて演奏できなくても「ごめんなさい」で済みますが、私はそうはいかない。いかなる理由であれ演奏会が出来なくなったらプロとしてお終いですので、私は飛行機に乗る場合、国内でも海外でも必ずチケットを2枚買っていました。しかしながら海外便などではカウンターで色々と説明し、更にまた機内に入ってからが大変で、CAの人に何やかんやと言われて、なかなか判ってもらえずに、それはそれは多大なストレスでした。昨年はトリニダードトバゴやコロンビアといったカリブ海地域に行ったので、言葉もろくに通じずに本当に参りました。

まあ海外便で貨物に預けるのはどこに持っていかれるかわからないというリスクもあるので怖いですが、今回はまたケースも精密機械を運ぶ時に使うprotex
COREというかなり強力な特殊ケースを用意しました。このケースでしたら国内の宅急便でしたら運んでも大丈夫。ただ送った先で組み立てても安定するまでに時間がかかるので、前の日に現地入りしていないと難しいですが、いつものソフトケースも入るサイズの大型ケースになっていて、とりあえず国内はこれで安心です。しかしかえってホテル代のほうが高くつきますかね・・・・?。

今回は表板を交換したこともあって、音はすっかり若返って、出来立てほやほやの感じになりましたが、さわりの調整も終わり、これから育てていくのが楽しみです。

画面に納まりきらない!!

これで我が家の琵琶は、標準型の樂琵琶が一面、塩高モデル樂琵琶が二面、薩摩の大型塩高モデルが二面、中型塩高モデルが二面、標準サイズが三面、そして平家琵琶というラインナップになりました。
私は色んな形での演奏が多く、洋邦問わず様々な楽器との共演はもとより、オーケストラや舞踊、演劇等々、ジャンルを問わず演奏会が立て続いていますので、中型・大型・樂琵琶の各塩高モデルは全て舞台で日々大活躍!!。どの琵琶も現役でフル回転しています!!

新しい相棒も来たし、これではまた新たな曲が生まれることでしょう。年末にはNewCDの製作も視野に入れて、これからまた作曲に演奏に精出しますよ。

乞うご期待!!!!

Various facets

毎年の事ですが、これから6月~7月は猛烈に忙しくなります。何故琵琶にとって一番相性の悪いこの梅雨時期が忙しくなるのか判りませんが、毎年毎年この時期は秋と共にてんてこ舞いな感じになります。今年もそろそろその準備段階に入りました。

昨年6月 兵庫県立芸術文化センターホールにて「方丈記」公演

各演奏会で演奏する曲が夫々違いますので、それは大変で、頭がまさに「うに」になるのが毎年の恒例。来月はフラメンコの舞台での即興、語りとのデュオ、琵琶弾き語り、尺八とのデュオ、雅楽、日本書紀歌謡と続いていますが、まあ今年は作曲家の新作が無いだけ楽ですね。
私のように雅楽、邦楽、現代曲から即興までやる人も少ないと思うのですが、自分の中では皆自分の音楽であり、表現ですので、「これは苦手、これは得意」というような差がありません。

ナガッチョナガッチョさん
私は友人たちからよく、「多面性」ということを言われます。関わるジャンルや人、仕事が多岐に渡っているからでしょう。知人友人達も色んなことに興味のある人が多いです。同じ音楽でもジャズからクラシック、オペラ、古楽、現代音楽、ロック、フラメンコ、ブルース他、民族音楽等々何でも来い!という感じなので、話が弾みます。
先日も美術家でパフォーマーのナガッチョさんとリハーサルの後に呑んでいたのですが、コルトレーンやマイルスのジャズ話から、いつしか話題はナガッチョさん得意の格闘技に移り、ジェイソン・ステイサム、植芝盛平、沢村忠、伊調馨、マイク・タイソン、システマ、クラヴマガ迄、もう尽きることの無い話で盛り上がりました。私は古武術にちょっと知識があるくらいなのですが、ナガッチョさんの熱がとにかく楽しかったです。こういう呑み話が出来る人は一緒に居て楽しいですね。

私自身はあまり知識が豊富という事ではないのですが、興味が尽きないのです。邦楽をやっていて、雅楽を知らない訳にはいかないし、その前にあった大陸の音楽を聴かないわけにはいかない。各国の音楽との違いも興味深いし、その歴史も知りたくなる。
人間の営みと共に在るのが音楽ですから、現代社会の中で生きていれば、ジャズやロックを聴かない生活は考えられない。単なる一時の流行ではなく、既に世界レベルでジャンルとして確立しているものは、芸術家だったら避けては通れないですね。また現代音楽の登場の時期と薩摩琵琶の興隆が時を同じくして100年位前にあったのですから、自然な気持ちとして比較もしてみたくなります。

こんな感じで音楽だけをとってもどんどんと広がって行きます。当然美術や文学、演劇、映画等々多岐に興味が行かざるを得ないのです。逆に一つしか目に入らないというのが私には理解が出来ないですね~~。

箱根 岡田美術館にて

音楽家として活動は、音楽だけやっていても始まりません。演奏会一つやるにも、関わる多くの人とのコミュニケーションが取れなくては実現しませんし、現代の世の中に生きる人々に対し発信するのですから、世の中のことが判らないと何も出来ないのです。世の中から孤立した仙人やオタクの様な人は一時注目されるだけです。
リスナーは何を求めてコンサートに来るのでしょう?。上手さを求めているのでしょうか・・・・?。私は豊かさを求めて聴きに来るのだと思っています。音楽を聴いて、気持ちが豊かになって、高揚して、喜びに溢れる時間を体験しに来ているのだと思います。

私の音楽はいわゆるエンタテイメントではありません。難しい現代作品も多いです。耳辺りのよい、ノリのよい音楽も結構ですが、多くのものと連動し、色んなジャンルの芸術をも内包する豊かな世界の広がりを感じることこそ、喜びなのではないではないかと思っていますので、単にその場を楽しくして、笑わせて泣かせて躍らせてというものを優先してゆくのは、私の思う所とは大きく隔たりがあります。

琵琶楽のような、現代社会に於いて特殊なものを聴きに来てくれる人は、歴史や文学、他の音楽ジャンルに精通している方も多くいらっしゃるし、美術や工芸等々色んな分野の専門家も多いでしょう。琵琶楽は古典文学を題材にして、歴史の中で色んなものと繋がりを持っているのですから、少なくとも古典文学や、他の芸能に知識が無ければ、ただの「お上手」しか聞こえてこない。それではお稽古事の発表会以上にはらないのは当たり前です。活動してゆく為には、ぜひとも視野の狭い琵琶オタクにならずに、色んな引き出しを持っていることをお勧めします。目指すのは「上手」ではなく「豊かさ」なのです。

ウズベキスタン タシュケントのイルホム劇場にて「まろばし」演奏中 指揮アルチョム・キム氏

そして活動してゆくには何よりも人間力が必要なのです。人を惹きつける力があるかどうか・・。これが華というものです。自分の華がフロント向きなのか、ワキ向きなのか、自分で自分の姿を判っていないと上手くいきません。更に言うと、上手になる事と活動を展開する事は全く別の事。前から言っているのですが、ソリストとして音楽活動を展開するのは、ベンチャービジネスを立ち上げるようなものです。コンテンツ作りは勿論のこと、企画、広報、
営業、サービス等、経営に対する全てのことを自分でこなして行く力がないと続きません。会社よりは規模は小さいかもしれませんが、どれだけの人と繋がり、どれだけの世界と繋がって行けるか。これがポイントです。自分が持っている世界が小さい人は、知り合う人も少ないだろうし、自分が知らない世界にどれだけ飛び込んで行けない人は、活動も広まらないどころか、どんどんしぼんで行きます。知らないからこそ興味ワクワクで向かってゆかないと!。

これらのことに気がつかなければ、活動は出来無いし、音楽が生業とも成らないだろうし、深まりもしません。多くの人とどれだけ充実したコミュニケーションを取れるか。そここそが大事なのです。多くの方と知り合って行くとおのずと引き出しも増え、知識も経験も豊富になって行くものです。若い方には音楽を通して、こういうところを判って欲しいですね。

少しこれからの演奏会のご紹介を書いておきます。

6月10日「フラメンコカーニバル」
場所:高円寺エスペランサ
時間:20時開演
出演:日野道夫(ギター) 岩月香(バイレ) 市川エリ(カンテ) ナガッチョ(パフォーマンス) 塩高(琵琶)
    
6月14日「琵琶樂人倶楽部第114回 琵琶と文学シリーズ」
場所:阿佐ヶ谷ヴィオロン
時間:19時30分開演
出演:古澤月心(レクチャー) 塩高(樂琵琶)

6月15日「日本橋富沢町樂琵会第9回~方丈記を語る」
場所:日本橋富沢町11-7KCIビルB1MPホール
時間:19時開演
出演:伊藤哲哉(語り) 塩高(樂琵琶)

6月16日「琵琶とヴァイオリン、アグリカルチャーと音楽」
場所:成美教育文化会館ホール(東久留米)
時間:19時30分開演
出演:糸井マキ(Vi) 塩高(琵琶) 吉岡龍之介(尺八)

6月25日「芋蔓寄席 民族音楽祭スペシャル 」
場所:山田村文化センター芋蔓座
時間:14時30分開演
出演:塩高(樂琵琶) 塩高和之(樂琵琶) 肥後和明(ジャンベ) 南部式(ゴッタン) TOMO(尺八) 他

この後、大阪ブリコラージュ、京都ラ・ネージュと続きます。是非お越し下さいませ。

京都山科 弦楽ふるさとの会演奏会にて

私は、生活も、歴史も、政治状況も経済も皆すべてが響き合って「音楽」になると思っています。それはまた絵画になったり、文学にも映画にもなるでしょう。オタクの様に興味のある一点だけにしか視点を持たないようなものでは、現代に生きる人々に何も伝わらない。社会とともにあるのが音楽であり芸術ではないでしょうか。

これからも多くのものとのかかわりの中で音楽を創って行きたいと思います。

教えるという事Ⅱ

田原順子先日、田原順子先生の門下生の会に行ってきました。門下の会といってもそこは田原先生仕込みですから、いわゆるお稽古事の発表会ではありません。まだ技量は至らなくても、皆創作作品を演奏します。こういう琵琶の会は他には全くありませんね。
田原先生は琵琶の世界で唯一、本当に唯一まともな話が出来る先生なのです。私はもう20年程前からお世話になっていますが、今回は久しぶりにゆっくりと話が出来、とても嬉しく楽しい時間でした。また先生の考え方が私と同じ方向を向いている事もあらためて感じました。

私はこのブログで度々「器楽としての琵琶」と書いていますが、これを生徒に率先して教えているのは田原先生唯一人だけでしょう。どの教室に行っても歌をいやおうなくやらされます。「琵琶を弾きたいのに何故歌をやらされるのだろう、何で独奏曲やアンサンブル曲が無いのだろう?」と、稽古を始めた若かりし頃、私はいつもそう思っていました。私と同じような思いの方もきっと多いかと思います。私ははじめから仕事にすることを目的として琵琶に接したので、弾き語りも琵琶楽の一つの形だと思ってやりましたが、あの音色に興味があって惹かれて来たという人、またはギターなど他の楽器をやっていた人にとっては、楽器が弾きたいのであって、歌いたい訳ではないのですから、歌うことはハードルでしかないのです。

以前ギターの先生に拙作「沙羅双樹Ⅱ」のCDを差し上げた時、「歌は誰が歌っているの?」といわれました。琵琶伴奏の歌のCDです、といえばよかったのですが、琵琶のCDですといって差し上げたので、まさか歌がついてくるとは思わなかったのでしょう。つまり琵琶は弾きながら歌うものだという認識すらないのが現代という時代なのです。琵琶人が当然と思っていることは世間では通用しないのです。
現代人は演歌や時代劇、アニメ、ゲームなどの効果音でしか琵琶に触れる機会がない事を思えば、琵琶の歌には興味がないという人がいる方が当たり前でしょう。あくまで琵琶は、あの音こそが琵琶なのです。そういう生徒が来た時に、どう対処するのか・・・。
時代と共に入り口も、やり方も変わってゆくべきですね。そして琵琶楽も時代と共にどんどん変化していくのが、まっとうな在り方だと思います。しかし教える方がそれを出来ず、旧来の慣習常識から抜け出すことが出来ず、そのやり方を生徒に押し付ける。またそれに従わない人を認めない。これでは衰退するのはやむを得ません。

琵琶樂人倶楽部打ち上げにて、田原先生、私、愛子姐さん
そんな旧来の形ややり方に固執する先生が多い中、田原先生だけは違うのです。生徒に対し自由に琵琶に関わらせて、「自分がやりたいものは何か、出来るものは何か、何故やりたいのか」と常に生徒に問いかけて、自分の道を切り開いてゆくように生徒を導いている。だから生徒は夫々に考え、創造性を磨き高めて、自分のスタイルを創って行く。
これは学校教育でも他の分野でも当たり前のことなのですが、琵琶の世界では、先生の色に生徒を染め、志向や行動までも染まる人だけを集めようとする。創作もさせないし、流派の曲しかやらせようとしない。先生に内緒でライブやっているような人も見かけますが、月謝払って習いに行きながら・・・。おかしな話です。田原先生のように自由な発想を生徒に促すような方がどんどん増えると良いですね。

キッドアイラックホールにて 灰野敬二、田中黎山両氏と

大体人にものを教えるというのは、生半可な事では出来ないのです。型や技の中に在る「根理」を教えなければいつまで経っても表面をなぞっているだけで、表現活動からは程遠く、お稽古事、お浚い会を超えることは出来ません。平家物語一つ、源氏物語一つ語るにも、膨大な知識も教養も必要なのです。教える先生に、和歌をはじめとして古典文学、雅楽、能、茶道、などの伝統文化や歴史の素養がどれだけ備わっているのでしょう・・・?。表面の技や型を教えたところで音楽にはなりません。それは唯の技芸でしかないのです。
琵琶楽が、地方の神社に残るお神楽のような地元の年中行事みたいなものでよければ、今のままでよいでしょう。しかし血沸き肉踊る日本の音楽として、日本の文化を代表する音楽として遺して行きたいのであれば、現状のあり方では難しい。

日本橋富沢町樂琵会にて 能楽師 津村禮次郎氏と

企業でも、小さなお店でも、衰退の一番の原因は形骸化です。今まで通りやっていれば間違いないと思った時点でもう衰退の始まりです。常に創り出し、攻めて行かなければ、残念ながら社会の中では続きません。世はパンタレイ、万物流転が習いなのです。それを語って歩いたのが、誰あろう琵琶法師であり、今は薩摩琵琶ではないのでしょうか。諸行無常と語りながら、形や慣習に固執することは全くナンセンス以外の何ものでもないですね。

琵琶を教える師匠には、日本文化全般に通じ、且つ世の中の流れを見据え、永田錦心が願っていたように洋楽にも理解があって欲しいですね。今やクリック一つで世界と繋がる時代。先生になる人は、他文化との比較文化論の一つも大学で講義出来るようであって欲しいものです。まともに文化として琵琶を教えることの出来る、広い視野と感性を持ったお師匠様が、これから増えてゆくことを願うばかりです。

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