ただ風を思え2017

関西より戻ってきました。
今回は大阪ブリコラージュ、京都ラ・ネージュという本当に素敵な個性溢れるサロンでの演奏会でしたが、久しぶりの再開あり、多くの方とのふれあいあり、と本当に豊かな時間を頂きました。ブリコラージュでの演奏は10数年ぶりでしたが、皆さんの元気な姿に逢えて嬉しかった!。ラ・ネージュは昨年に続いての演奏でしたが、今回はオーナーさんともじっくりと話が出来、自分の向かっている方向についても再確認出来ました。

ブリコラージュにて

実は今回、ブリコラージュの公演前に、ちょっと喉に不調を感じていたら、本番前には、会話もままならないほどに、ほとんど声が出ないところまで行ってしまいました。
私は子供の頃から、10年に一度位の割合で全く声が出なくなることがあります。少し声が出る様になっても、しわがれた、ほとんど高音の出ない、全く別人のような声になってしまい、周りの人が驚くのですが、今回は久しぶりにそんな時期にあたったようです。体調にはほとんど変化が無く、食欲もばっちりだけに、どうにも原因がわかりません。なんか取り憑いているのか?降りてくるのか・・・・・・・?。

ラ・ネージュにて
薩摩琵琶の奏者は一般に弾き語りで演奏するので、声が全く使えない、MCすら出来ないというのは致命傷なのですが、私は器楽としての琵琶楽が一つの矜持ですので、今回はかえって器楽の面に特化した演奏会をやる、よい契機となりました。
また今回は薩摩琵琶分解型のデビューでもあり、樂琵琶と薩摩琵琶という私にとっては鉄壁の布陣だったということも幸いして、いろんなタイプの独奏曲を弾かせてもらいました。急だったので、ちょっと技術的に細かい所が弾ききれていない所もありましたが、それでも今回は心残りではなく、大きな可能性を今後に感じました。これから独奏曲のヴァリエーションも更に増やして行こうと思っています。

ラネージュ2階より舞台を眺める

私はここ数週間の鹿児島・関西のツアーから「風」を感じています。それは本当に自分が歩む道への示唆ともいえます。私はかなり多岐に渡って琵琶の活動をしている方だと思いますが、とにかく云えることは、自分にとって自分らしい表現活動をするには、自分のやり方でやる、ということです。音楽そのものは勿論のこと、マネージメントも何も自分のスタイルで貫く。その上で色んなものに対応してゆく。あらためてそこが大事なんだと、風が教えてくれました。
周りから見れば、「あいつはやりたい放題好き勝手にやっている」というのが私への評価だと思いますが、私はもっともっと更に自分らしくありたいと思います。

鹿児島での地元の方々とのセッションでは、純粋な音楽への取り組みという事ついて考えさせられました。関西のツアーでは声を使えない事で、かえって自分の行くべき道がはっきりとしました。両方から多くの風を受け、一つのステップを上がったように感じています。そしてまた今後への課題も見えてきました。

まだまだ私がやる音楽がある。ここまで来たからこそ、見え始めた世界がある。
これからが楽しみなのです!!


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琵琶奏者という仕事Ⅱ

梅雨の時期は弦楽器にとって最悪の時期なのですが、とにかくこの時期は本当に忙しく飛び回っています。
鹿児島に続き今日から大阪・京都の演奏会に行くのですが、皆様の協力もあり、薩摩琵琶と樂琵琶の両方を聞かせることが出来るのが嬉しい進化です。分解型のデビューなのです!!

今年の暮れから年明けに向けて薩摩琵琶のCDを作ろうと思っています。タイトルは「沙羅双樹Ⅲ」にする予定です。器楽としての薩摩琵琶と、弾き語りという従来からの形とモダンスタイルという両面を出していこうと思っていますが、弾き語りに関しては、まだ従来の節を乗り越えるところまでは至ってないので、現時点での私のスタイルを入れたいと思います。

私もいい年になってきたので、そろそろ一つ目標を決めて、自分のスタイルを示したいと思っています。作品・技術・活動など一番良い所に持っていけるように、目標となる地点を定めて、そこに向かって行くつもりです。その為にも、自分に合うものを選び、合わないものはなるべく避けて、自分の納得するものをやっていきたいです。
色んなお話を頂いたり、お仕事も様々させてもらっているのですが、そこに甘えることなく、地道に我が道を進んでいかないと、目標から逸れてしまいます。ポジティブに関われる仕事にどんどん特化して目標を目指して行きたいですね。

実は先日、ここ数年関わっていた会から抜けました。この会でやっていた内容は、私には大変興味のあるものであり、意義のある仕事でしたので、それなりにがんばっていましたが、なかなかか判ってもらえない部分があり、今後ストレスになることは判りきっていたので、自分のこれからを考えると離れるしかないと判断しました。内容が興味深いものだっただけに残念でしたね。

まあ何事も順調という訳には行きませんので、自分の目標に向かってネガティブな要素のあるものは、なるべく避けてやって行くしかありません。今思えば、こういう難しい状況があったからこそ、かえって見えてきたものもあり、自分の行くべき道が更にはっきりしたとも思えます。やはりプロとして生きている人間は、アマチュアと組んではいけないということです。まだまだ修行が足りません。良い勉強をさせて頂きました。
とにかく日々喧騒波騒の中に在っても、自分の道をしっかりと歩んで行く。これに尽きます。今後も淡々とやってまいります。

三倍音ライブ 田中黎山氏・灰野敬二氏と

琵琶は三味線やお筝のように組織も無いし、マーケットも無いので、仕事は自分で開拓して行くしかありません。昔から言っていますが、琵琶を生業にするということはベンチャービジネスを立ち上げるのと同じですね。作品制作、運営、経営、広報etc.何から何まで自分でやっていくしかありません。
また個人芸ですので、一人で舞台を張れない人は生業にはして行けませんね。つまりはソリストとして生きてということです。サイドメンとして生きてゆくのは琵琶の場合、楽器の特性などを考えるとほとんど可能性が無いのです。まあ演歌歌手のバックバンドで弾く程度でしょうか(私には死んでも出来ない仕事ですが)。
つまり自分独自の主張を持って、それに評価を頂いてゆくのは、なかなか道が狭く難しいというのが琵琶奏者としての現実です。私は活動の最初から、全ての仕事で私が作曲したものをやらせてもらっているので、本当に幸せな事だと思っていますが、それでも上記の会の様にろくに評価してもらえないという現実もあります。

邦楽の若手の中にも良い演奏をする人が出てきたように思いますが、生業としてゆけるかどうか、そればかりはその人の音楽力と人間力にかかっています。楽器や歌が上手かどうかという事ではありません。琵琶は珍しい楽器であるというのもある意味幸いしていますが、「珍しい」や「渋い」などというものに寄りかかっていたら、次がありません。それは音楽を聴いてもらっているわけではないからです。初めて聴く人に圧倒的な印象を与え、虜にする位でないと・・・。それが琵琶奏者という仕事なのです。

さて愚痴をつぶやいている間もなく今日はもうこれから関西へと向かいます。前回もお知らせした。大阪ブリコラージュ、京都ラ・ネージュでのサロンコンサートです。
是非是非お越し下さいませ!!

KAGOSHIMA CALLING

先日鹿児島ツアーをやってきました。

今回は着いた時から帰る時まで、ずっと雨。すごい湿気でしたが、かえって温泉が気持ちよかったです。
あまり自分では写真を撮らなかったので、送られてきたら改めてUPしますが、今回は石田一志先生も駆けつけてくれて、素晴らしい時間を頂きました。
今回のツアーは、私が以前教えていた生徒 肥後和明君が鹿児島在住ということで、そこから話が繋がりました。肥後君の同級生で、地元にてサウンドエンジニア&ラジオパーソナリティーをやっている山之内隆弘さんという方がいて、そこからの御紹介&ブッキングでやらせていただいた次第です。縁は異なものですね。音楽は勿論のこと、石田先生や肥後君と温泉に浸かり、地元の音楽家達ともゆっくりじっくり話をすることが出来、大変有意義なツアーとなりました。

寺原さん
初日はホールでの公演だったのですが、次ぎの日の山田村文化センター芋蔓座でのライブが面白かった!!。元々農協があった建物を改造したスペースで、現在は、寺原仁太さんという方が管理し、ここを拠点に活動していて、地元の文化を発信し、アーティストが集う場所となっています。寺原さんは奄美とも縁が深いそうで、奄美のお話も色々と聞かせていただきました。ライブには彼を慕う個性的なミュージシャンが集ってくれて、久しぶりに体中でライブを楽しませていただきました。

先ずは、仁太さんの口上とゴッタン弾き語りに、ライブをブッキングしてくれた山之内さんの太鼓が加わった「南部式」の演奏を皮切りに、尺八独奏のTOMOさん、肥後君のアフリカ音楽と続きました。皆さんかなりレベルが高く、独自の世界をしっかりと持っていて感激しきり!!。私はトリだったのですが、最後の曲では肥後君とTOMOさんに入ってもらって「塔里木旋回舞曲」を賑々しく演奏することが出来、本当に楽しんで音楽をやらせてもらいました。気持ちよかった~~~!!



普段はどうしてもかしこまった演奏が多いので、こうして純粋に音楽をやる方々と盛り上がるのは、本当に刺激になります。このライブから得たものは大きいですね。

今回は、ちょっと空き時間もありましたので、市内を観光。世界一郷水車という大きな水車を見て、藺牟田池~熊襲洞穴を回ってきました。

熊襲洞穴内部 右は写真を撮る石田先生


現在、洞穴内には現代アート作品が描かれていますが、この原色の色彩感が、かえって熊襲の実在した時代のエネルギーを思わせます。ここに
「物で栄えて、心で滅ぶ」という言葉が書かれていました。これはこの洞穴を管理している方が熊襲の紹介を書いたものでしたが、その内容は現代人に是非読んでいただきたい様な大変気骨ある文章でした。一緒に行った石田先生も感心していました。

東京に居ると「しのぎを削る」という状態になりやすい。純粋に音楽に向き合っているつもりでも、あまりにその周りにまとわり付くものが多く、知らないうちに自分の中で意味の無いプライドなどが出てきて、音楽以外のところで戦ってしまうのです。まあそれら波騒をクリアしてこそプロというものですが、今回知り合ったミュージシャンの方々は皆、純粋に音楽に向き合っていました。レベルも高く夫々に独自の世界観があり、音楽と人生が一致していたのが印象深かったです。

若き日

「物で栄えて、心で滅ぶ」という言葉を前にして、いつもの自分の音楽との関わりが照らされるような気がしました。自分は音楽に純粋に向き合っているだろうか?。自分がやるべきものを素直
にやるだけでいいのに、余計なものを抱え込んで、
忙しく活動して回っている自分に酔ってはいないか?。音楽以外の面で納得したような気持ちになっていないだろうか?。本来栄えるべきは心であって、それ以外の周りの物やお金や名誉・肩書きではないはず。俗にまみれ、本来の音楽を愛する心を失ってはいないだろうか。愛を語り届ける気持ちを見失ってはいないだろうか・・・・・。

さて今週末は、朗読の馬場精子さんと二人で土曜日に大阪ブリコラージュ、日曜日は京都のラ・ネージュでのサロンコンサートです。
ブリコラージュはもう10年以上前に演奏したサロンで、とても想い出深い場所。実に楽しみです。分解型の新相棒のお披露目もしてきます。そして昨年に続き演奏するラネージュさんも、明るい日差しを感じる素敵な空間です。関西方面の方、是非お越し下さいませ。詳細はHPをご覧ください。
塩高和之オフィシャルサイト http://biwa-shiotaka.com/

今回は純粋に音楽に立ち向かう若者を見ながら、大いに考え、そして刺激をもらった旅となりました。

 

心残り

先週は3本の舞台があり、それぞれに良い雰囲気で務めることができました。今週末からは九州、関西を回ってきます。いつも写真が無いのですが、SNSなどで紹介してくれた人も居るようですので、どこかで見かけましたらご覧になってみてください。

先ずは定例の琵琶樂人倶楽部。今回は源氏物語と琵琶ということでお話をさせてもらいましたが、まだちょっと自分の中で整理不足で、とりとめのない話になってしまいました。もっと時系列をはっきりとして、物語に込められた意味も明確に説明しないと駄目ですね。反省しきりではありますが、なかなか面白い視点が見えてきましたので、もっと自分なりに掘り下げていこうと思います。今迄自分でも埋まらなかった所が見えきたので、今後のレクチャーはもっと充実して行くと思います。

一番最初にヴィオロンでやった時の様子 
次ぎは日本橋富沢町樂琵会。伊藤哲哉さんを迎えての「方丈記」の上演でしたが、こちらはとても良い雰囲気で演奏することが出来ました。この写真は一番最初にヴィオロンでやった時のものですが、今回は伊藤さんが僧形、私が色紋付という出で立ちで演奏しました。

昨年の兵庫芸術文化センターホールでの公演
こちらは昨年の公演。昨年はベースを入れたり、映像と組んだりして色んな形でやりましたが、やっぱり二人だけでシンプルにやるのが一番しっくり行きます。部分的にはまだ練り上げられていない部分もあるのですが、あまりかっちり作り込み過ぎるより、このくらいの自由さがあった方が良い感じがしています。このコンビでは今後も「方丈記」をやっていこうと思っています。

3つ目は成美教育文化会館にて行われた、ヴァイオリンの糸井マキさんと私とのジョイントコンサート。第一部が私、第二部が糸井さんという構成でやりました。直接共演は無かったですが、とても良い機会でした。壇ノ浦の弾き語りも、いつもとちょっと声を変えてやってみたら気持ちよく響いて、歌い終わった後の空気感はなかなかの緊迫感が漂いました。しかしこの演奏会にはどうしても一つの心残りと、大いなる反省がありました。

問題は2曲目の「風の宴」。この私の代表曲には、鶴田先生の作品「春の宴」を参考にした長いトレモロが前半にあり、そこが一つの聞かせどころなのですが、その大事な部分で右手が乱れ、トレモロが切れてしまった。こんな事は今迄に無かったことですし、あり得ないミスタッチ。自分でも愕然としてしまいました。技術が落ちたのか、練習不足か・・・・。第二部での糸井さんの完璧なまでのテクニックを聞きながら、何とも自分の力不足が悔しかったです。
この年になってもまだまだ未熟。とにもかくにも私の力の無さとしか言いようの無い考えられないミスでした。「風の宴」全体の演奏も大雑把な感じになってしまって、次の朝起きてもどうにも心がすっきりしない。技術そして精神の両面から今一度向き合わないといけません。今後の演奏にもこの経験を生かして行きたいと思います。

厳島神社奉納演奏にて

私のスタイルは何とか流の演奏ではないので、基準とするものが無い代わりに、一般の方が聴いて、とにかく音楽そのものが、他には無い魅力に溢れていてこそ聴いてもらえる価値があるのです。そういう音楽を常に作り出すのが私の仕事です。そのためにも予定調和なものでなく、リスナーの想像を超えるようなものを常に提供すべきだと思っています。しかしその音楽を表現する以前に、技術が追いつかないようではどうにもならない。

やればやるほどに高いクオリティーを求められるのが私に与えられた現実。またそれが実現できてこそ仕事にしてゆけるというもの・・・・。今回は全体としては上手く行ったとしても、本当に深く反省すべき演奏でした。

来週末は鹿児島そして大阪・京都とサロンコンサートが続きます。納得行かないものは後に残るのです。心残りのないクオリティーの高い演奏を目指します!!!。

行く川の流れは絶えずして

この時期は鴨長明の命日(6月10日)ということで、昨年に続き方丈記の公演をします。勿論語り手はいつもの伊藤哲哉さん。今年は二人だけでシンプルにやろうということで、日本橋富沢町樂琵会での上演です。

昨年の公演 兵庫県立芸術文化センターホールにて

6月が命日といっても旧暦なので本当は7月なのですが、昨年は没後800年という事もあり、大体この時期というくくりで、昨年は6月10日に相模原南市民ホール、30日に兵庫の県立芸術文化センターホール(上記写真)という公演を張りました。
今年は随分地味なのですが、その分照明や映像の縛りもないし、シンプルに何の演出も無くやるので、自由に弾いて語って、のびのびとリハーサルをしました。伊藤さんとは長い事あれこれやってきているので、即興的にやっても問題がないどころか、面白いものが出てくるのです。

元々随分前に私の方から伊藤さんに「方丈記」を一緒にやってみませんか、というお誘いをしたのが始まりです。最初は定例の琵琶樂人倶楽部でやり、それがわりといい感じだったので、そこからどんどんと発展していきました。

明日16日は日本橋富沢町樂琵会へ是非お越し下さい。

鴨長明

私は鴨長明の感性が結構好きなんです。長明はかなり器用な方だったらしく、自分で琵琶や筝を作ったそうで、それも分解型だったようです。「方丈記」の中に「折筝・継琵琶」という記述が見えます。その自作の琵琶がなかなかの出来だったらしく、天皇に所望され(長明からすれば取り上げられ)、うじうじと愚痴をこぼしたり、他にもちょっとネガティブともいえるようなものの見方をしたりしていますが、そこが何とも素直な等身大の長明を見るようで好感が持てるのです。
私は一方で、道元のような厳格なまでの求道者にも憧れるのですが、鴨長明のような等身大の姿を素直に晒している人物に出会うと、何とも親近感を覚えます。

また「行く川の流れは絶えずして~」という考え方は、私が度々書いているヘラクレイトスの「パンタレイ」や「諸行無常」と共通した考え方でもあります。
人間は目の前のものに囚われ、せっせせっせと財を築き、名誉を求め、成長しようと努力しますが、その築いたものを守ろうとし不安になったり、戦ったりして、際限なく「業火」の中をさまよい歩くのが常。もういにしえの昔より何も変わらないですね。それを俗世というのでしょうが、そんな人間社会の中にあって、長明は人間の俗欲をしっかり認識しながらも、自由無碍な世界に遊んだ人という印象を私は持っています。
道元や良寛のようには、なかなか生きられませんが、俗の中にありながらも、俗に流されない長明のような生き方、世の中との接し方は、一つの私の指針でもあります。

私は自分が振り回されないようにするためにも、欲望が溜まっている所にはなるべく離れているようにしているのですが、それはまた自分の中に多くの欲望が渦巻いているということでもあるでしょう。
人間はいつになっても己の欲からは逃れられず、物欲や食欲は勿論の事、いい年になっても色欲からも逃れられません。最近も「ちょいワル親父のナンパ術」などという記事が話題になっていましたが、情けないと思うと共に、それが実際のオヤジ世代の姿なのでしょう。それを素直に認めた上で、それに振り回されない。いつもそんな風に心がけていても、なかなか・・・。
ごくごく普通に生きている人も、何かのきっかけでその内に秘めた俗欲が噴出してくるものです。特に芸事やっている人は、ふとしたきっかけで○○大学の講師だの、○○賞だのと、肩書きをひけらかすようになる例も多いですね。ライブハウスでがんばっていた人が突然、○○流のお名前で、ホールを借りてリサイタルなんてやりだして、びっくりしたこともあります。
いくら格好つけて一匹狼を気取っていても、その心の中ではそういうものを激しく求めているということでしょう。言い方を変えれば、そういうアピールこそが表現活動ともいえるのかもしれませんが、私はそんなものに流されたくないですね・・・。

「方丈記」を読むと自分の姿が見えてくるようなのです。

時々ブログに登場する故H氏は、そんな私の弱い部分を見抜いてアドヴァイスをしてくれました。まわりの色んなものと無意識に戦っている私の閉じた心とこわばった肉体を見て、「もう戦う必要はない」と言ってくれたのです。その一言が自分を少しづつ解放してくれました。

自分の姿は自分では見えないものです。私にとって「方丈記」は見えない自分の姿を振り返り、自分らしい道を再確認する為には最適の作品なのです。

是非伊藤哲哉さんの語る「方丈記」聴いて観てください。

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