うたうということ

森田童子さんが亡くなりましたね。私は熱狂的なファンというわけでもなかったのですが、あの歌声と独自の世界はしっかりと耳に焼き付いています。久しぶりに聴いてみたら、直球で若き日のあの頃に飛んでしまいました。

 
琵琶をやっている人にとっては、何だこれはと思うでしょう。普段から声を張り上げ、名文句でコブシを回しにまわして、お見事!なんて声がかかるような琵琶唄とは真逆な「うた」です。まだ尾崎豊のほうが歌手としては随分上手いので判ってくれるかもしれませんが、森田童子の「うた」は、琵琶人には耐え難いようなものかもしれません。
しかし私にはこの歌声が、そのまま響いてくるのです。歌詞もしっかり入ってきて、その世界がそのまま感じ取れる。もっと言えば言葉が聞き取れなくても、もうその世界に連れ去られるように自分の心が持っていかれるので、言葉を超えた世界が、そのまま聴いている自分の心の中に満ちてくるのです。
演奏会9

琵琶唄と比べること自体がナンセンスという方も多いでしょう。でも私は森田童子も尾崎豊も、BB・キングもロバート・プラントもジョン・レノンもボブ・ディランも、多感な少年時代から今迄ずっと聴いて生きてきたのです。30歳の頃には波多野睦美さんの声に触れて声楽が好きになり、今はオペラのLive veiwingもよく観に行って、つたない観劇記も書いています。それぞれ違うジャンルというのは簡単ですが、声を使ってうたっている以上、自分の中で琵琶唄とこれらを区別するわけにはいかないのです。

何時もこうした「うた」に触れると凄い勢いで心が震えてきます。そして同時に「琵琶唄は何も伝わらない、伝えられない」という想いも溢れ出てきます。現在の琵琶唄の内容はあまりに男尊女卑的だったり軍国主義的だったりして、今を生きる自分の感性がその内容を拒否してしまうのです。今時、忠義の心といわれてもね・・・。。
大体恋の歌が無いジャンルは、世界中探してもありえないと思えませんか?。それだけ明治から大正~昭和初期に成立した琵琶唄は軍国のイデオロギーに歪められ、日本人の心から生まれた「うた」になっていないのだと、私は思っています。
このブログではオペラの事をよく書きますが、オペラは観ていてとても楽しい。ただ森田童子の「うた」と違って、声という楽器の器楽演奏を聴いているといった方が近いですね。あの声に感激しているのであって、チェロやヴァイオリンの演奏を聴いているように聴いています。だから歌詞の内容にいちいち共感するというよりも、ざっくりと「うた」に描かれる人生の悲しみや喜びという普遍的な感性を、素晴らしい魅力的な声で身に迫ってうたってくれる、そんなところに感激するのです。

もうオペラを引退したナタリー・デセイと、私が大好きだった故ディミトリー・ホロフトフスキー
この二人の舞台は本当にわくわくして観たものです

その点、森田童子や尾崎豊は、声もさることながら歌詞がそのまま自分の体験とリンクして来ます。二人共に魅力のある声をしているのですが、いつしか声すらも忘れてその世界に浸ってしまう。オペラもこちらも魅力的なのですが、この違いはとても大きいですね。尾崎などたまに聞くと、そのまま自分の中学高校時代の景色や空気まで思い出します。自分があの頃抱えていた想いを、この人はそのまま歌ってくれていると感じるのです。
これは一つの、時代の共同幻想とも言えるかもしれませんが、ただそこに留まっていたら何てことない懐メロです。後の時代の人には全然伝わらない。軍国の琵琶唄と同じです。しかし語り継がれて行く「うた」は時代が変わっても共感を持って受け入れられるのです。
尾崎の「卒業」に歌われているように、未だに学校を卒業する時、窓ガラスを割って行くやつがいるというのですから、現代でも共感を持って聴かれているといううことでしょう。そこが時代の流行歌とは明らかに違うところ。森田童子も尾崎もジョンレノンもボブディランも皆、詩人であり、時代を超えて現代の人に明確な世界を今でも届けている。ジョンレノンの「Love&Peace」は世界の人が共感し語り継がれているのは皆様ご存知の通り。
これこそがジャンル関係なく「うた」というものの大きなポイントだと思っています。結局「うた」というものは、自分にとって共感できる内容のものかどうかということがとても重要な要素なのだと思います。その声質も大きいですし、うたわれる中身に対する共感があってこそ、時代も国も越えてゆくのです。共感があれば、歌の技術などあまり関係ないと思うのは私だけではないでしょう。
上手くても眼差しの先が「お上手」にある人と、自分が「うたうべき世界」に向いている人では天と地の差が出てしまう。音楽全般そうですが、特に「うた」は人の内面を隠せない。心の中がしっかりと出てきてしまう。肩書きを基準に物事を判断している人はそういう「うた」になる。お上手な歌手が得意になって歌い上げる「イマジン」や「ヘイジュード」など、もうどうあっても聴いていられないと思いませんか?。私には耐え難いものがあります。つまり見ている世界が違い過ぎるという事です。

ウズベキスタンのイルホム劇場にて、「まろばし」演奏中。指揮アルチョム・キム
私はあくまで琵琶のあの音色に感激して演奏家になったので、はじめから琵琶楽に於いて唄にはほとんど興味がありませんでした。残念ながら琵琶唄にはその張り上げてコブシを回すうたい方も歌詞の内容も、どこにも共感が感じられなかったのです。今でも永田錦心や鶴田錦史の「うた」や演奏を聴いても、私は別に感激はしません。ただ二人の活動からは「新らしい時代へ向かって走れ」という力強いメッセージだけが私に響いてきます。もし私が二人の「うた」に共感したのなら、私はうたっていたでしょう。
私はもう随分前から切った張ったの曲はやらないようにしています。そんなものを自分がやりたくないのです。一応琵琶樂のスタンダードとしてCDでは「壇ノ浦」等や「敦盛」等収録していますが、歌詞は随分と変えて、従来の琵琶歌とは違う形に曲自体を創り直しています。それにそれらの曲ももう、ほとんど演奏会でやらなくなっています。長い弾き語り自体、人前でやるのは年に数回あれば良い方です。歌詞の内容に大いに共感が出来、普遍の哲学を感じられる曲ならうたえますが、「鉢の木」や「乃木将軍」などは、たとえお仕事であっても、とてもうたえないですね。心が拒否してしまいます。何故ああいうものを舞台で出来るのか、私には音楽家として理解が及びません。
この動画の「僕たちの失敗」をきいて、私はつくづくうたう人ではないなと思いました。人それぞれ役割があるのです。やはり私は琵琶の音色の魅力をもっともっと聴いてもらいたいので、琵琶の音色が一番生きるような曲を、これからもどんどん創ってゆきます。ジェフ・ベックが「Blow by Blow」や「Wired」でうたを入れずギターの音色だけで音楽を確立し、それがのちのギターミュージックのスタンダードになったように、また武満さんの「エクリプス」や「ノヴェンバー・ステップス」が琵琶の器楽曲としてスタンダードになって行ったように、私もこの深い魅力に溢れた琵琶の音色で音楽を創りたい。声やうたを拒否している訳ではないですが、限られた人生「うた」にまで時間を使えるかどうか・・?。私の奏でる琵琶曲や琵琶の音色が「うた」のように次世代に語り継がれていったら嬉しいですね。でもきっとこれからは心の中から湧きあがる「うた」を創る琵琶人が出てくることでしょう。期待していますよ!!。

むしろこれから薩摩筑前の琵琶唄は出来上がって行くのではないでしょうか。逆に今を生きる日本人、そして次世代の人々に共感される「うた」を琵琶楽が創って行くことが出来なければ、琵琶楽は「うた」のジャンルとしては滅ぶしかないだろうとも思っています。
新たに出来上がった琵琶唄が何十年も経って、今私が森田童子や尾崎豊に涙するように、後の時代の人がそのうたわれている世界の事を、熱く語って共感してくれたら素敵ですね。今を生きる人の心の中から出てきた歌詞を、世界を、琵琶を弾きながらうたう人が出てきて欲しいです。
くしくも尾崎豊が4月25日、森田童子が4月24日に旅立っていきました。
語りつがれる「うた」は素晴らしい。

平野多美恵(旭鶴)さん
「森の中の琵琶の会~薫風」は和やかな雰囲気で演奏してきました。いつも琵琶樂人倶楽部などでお世話になっている平野多美恵さん初主催による会でしたが、彼女のフランクな人柄を慕う仲間達が集い、とても良い雰囲気でした。私も応援団長としての役割を果たすことが出来、嬉しく思っています。
終演後は会場にて打ち上げ。出演者、スタッフ、お客さんと隔てなく話していて、「芸」について話が盛り上がりました。

演奏家は皆、舞台に立って活動を始めると、けっして「上手」が通用しないということが判ってきます。流派の会に出ている程度だったら、上手や下手などと言い合ってお仲間と楽しんでいれば良いですが、世の中に向けて活動を始めると、上手なんてところに留まってはいられないのです。今回の出演者もそんなところに差し掛かっているようで、色んな話を聞くことが出来ました。
舞台人は、舞台をやればやるほど、その人独自の「世界」を表現出来ない限り、お客様は聴きに来てくれないということを肌身で感じるのです。これがプロとアマの大きな分岐点といえるでしょうね。

小さなライブハウスでの演奏がジャズギター屈指の名盤となったCD
JESSE VAN RULLER「 Live at Murphy’s Law」、JIM HALL「Live」

プロの演奏家はいろんな現場で演奏しなくてはいけません。なかなか自分の思うように出来ることは少ないものです。しかし自分にとっての負のことを色々と経験するからこそ、自分にとって最適なものも見えて、どんな環境にあっても自分の世界を表現出来るのです。つまり磨きがかかるということです。自分の好きなものだけ聴いて、それだけをやっている温室育ちでは、結局レベルが上がらないのです。

いつの時代も音楽は社会と共にあります。国が違えばもちろんの事、日本人でも世代が違えばセンスも違います。多くの価値観の中で、様々な音楽が存在しているということを判る人だけが、舞台で生きて行ける。私はそう思いますね。
私は自分のやる曲には必然がなくては演奏できません。やりようが無いのです。今自分がこの社会の中で発信するということを、とても大切にしたいのです。好きだ嫌いだという自分の小さな世界の中だけで完結して、世の中に対する眼差しがなかったら、それはただのオタクのわめきでしかない。あらゆるものが溢れかえり、音楽だけでもこれだけ溢れている、この現代の世の中に向けて自分の音楽を発信する、その意味を考えざるを得ませんね。
箱根岡田美術館にて
自分が修練し、得た技の先にどんな世界が見え、それをどのように表現して行くか。ここに音楽家の魅力と価値が在ると私は思います。そしてその見えている世界の大きさがそのままその人の器といえます。自分の好きなものしか追いかけないような人は当然小さいでしょう。逆に自分の好みというところを越えて、様々な音楽に目を向けることの出来る人は、どんどん新しいものに触れ、磨かれ、深まり、当然多くの人にアピールできる器が育って行くでしょう。

音楽家は技を売っている訳ではなく、独自の世界やセンスを聴いてもらって報酬を得ているわけですから、そのセンスに魅力が無い限り、聴いてはもらえません。バッハだろうがなんだろうが、自分はこう解釈していますという意思表示がない限りは、ただの技の切り売りでしかありません。そんな程度でよいのであれば、それはそのうちAIがやるようになるでしょう。

クリエイターやアーティスト達は、皆表現したいものがあるから活動をしているのです。邦楽人はどうでしょうか?。何故自分はこの曲をやっているのか、そこにどんな意味があって、何を表現したいのか・・・・?。お稽古して得意だからやっている・・・本当に自分のやりたい音楽をやっている・・・?。
どのレベルを目指したいかは人それぞれだと思いますが、琵琶の演奏家を目指すのだったら、及ばずとも永田錦心や鶴田錦史のように、古典の世界を土台に持ちながら時代の最先端を走るような、その志だけは持っていて欲しいですね。上手な技を聴いてもらうのではなく、自分だけの独自の音楽を聴いてもらえるようになって欲しいものです。一人一人顔も身体も声も性格も違うように、音楽もその人なりになるのが当たり前のこと。そしてその人なりの音楽に魅力が宿っている。それが日本でいう所の「芸」というものではないでしょうか。

戯曲公演「良寛」にて。津村禮次郎先生と

きっとやればやるほどに尽きない世界があるのでしょう。「芸」「芸術」・・考えればきりが無いですが、音楽が深まれば深まるほどに自分らしく生きられる。そういう音楽家で在りたいですね。

水無月の演奏会色々

蒸し暑い日が続きますね。この時期は絹糸の絃にとっては本当に宜しくないのですが、どういう訳か毎年毎年この時期に演奏会が集中します。GWが終わってから梅雨が明けるくらいまでが、秋の演奏会シーズンと共に年間のピークです。逆にこの時期が暇だとなんとも気が抜けてしまいます。

今年も先日の国立劇場の演奏会をはじめ魅力あるプログラムが目白押しですので、気合を入れて御紹介!!

昨年の季楽堂での演奏会 photo Mayu
先ずは今週末9日(土)には、琵琶樂人倶楽部や日本橋富沢町樂琵会でもおなじみの筑前琵琶奏者 平野多美恵さん主催による「森の中の琵琶の会~薫風」於:練馬季楽堂
14時開演 平野旭鶴(多美恵)HP http://biwa-crane.com/
筑前琵琶の仲間3人との演奏会に、一曲お邪魔させていただきます。平野さんは今が一番充実しているようで、これからはどんどんと活動を展開して行くそうです。この会がその第一弾ということで、応援に馳せ参じることになりました。筑前琵琶をしっかり聴きたいという方には絶好のチャンスです。場所も古民家を改装した素晴らしい場所ですので、ゆっくり気持ちよく聴いていただけると思います。

次は定例の琵琶樂人倶楽部。やるたびに良い感じになってきました。shiotaka4今月は13日の水曜日の開催です。右の絵は琵琶樂人倶楽部の看板絵。鈴田郷さんというおばあちゃまが、大阪での公演の時に聴きに来てくれて、その時の私の姿を書いてくれた作品です。

そして「謡曲を語る 狂言を語る」シリーズも16日に広尾の東江寺で上演します。今月は能「松風」を取り上げて、能ではない松風を観ていただきます。

更に日本橋富沢町樂琵会ではいよいよ日本唯一の琵琶の作り手 石田克佳さんを迎え、作り手から見た琵琶のお話をしていただきます。加えて石田さんによる正派薩摩琵琶と私の錦琵琶との聞き比べもご堪能頂きます。琵琶に興味のある方、他では滅多に聞けない貴重な機会をお見逃しなく!!

極めつけは東洋大学井上円了ホールで開催される。津村先生の公開講座。ここでは文学部の原田香織教授の監修による「方丈記」を上演するのですが、実は今年の3月にこの公演はフランスのストラスブール大学で既に行われました。全編に渡り私の1stアルバム「Oriental eyes」から最新の8thCD「沙羅双樹Ⅲ」迄の楽曲音源を使って頂き、好評を博したとのこと(選曲は原田先生)。今回はそれを生演奏で再現しようという訳です。
また今回はフルート奏者の久保順さんが全面協力してくれて、チェロや尺八のパートをアレンジ。更に順さんの龍笛と私の樂琵琶による演奏も盛り込まれます。これは注目ですよ!!。
演奏会の後でいただいた絵
この不景気で不安定な世の中にもかかわらず、年を追うごとに多くのお仕事に恵まれ、琵琶を生業として生きていることに、本当に感謝の念が毎年強くなります。
どんな仕事でも、自分の思う仕事を続けられるというのは有難いこと。私の主催する琵琶樂人倶楽部も11年目126回を数える所まで来ましたが、自分のペースで淡々とやってきた事が、本当に良かったと思います。これからも無理をせず、自分なりに続けてゆきたいと思っています。

音楽家を志し東京に出てきて、もう30年以上が経ちました。一緒にがんばっている仲間もいれば、夢を諦め故郷に帰った仲間達も沢山居ます。ライブを続けているだけでは、なかなか音楽が人生となるまでには至りません。皆経済的、家庭的な問題を夫々に抱えているでしょう。それに何はなくても健康でなくては続けられません。先日も同い年の仲間が一人亡くなりました。震災の年にも、お世話になったカンツォーネ歌手の佐藤重雄さんが亡くなりましたが、早、私もそのときの佐藤さんと同じ年齢になりました。尺八の香川一朝さんや民族音楽プロデューサーの星川京児さん、私に色々なことを教えてくれたH氏も現世を旅立ってしまいました。人間が肉体を持つ限り、この世では時間には限りがあるのです。
私もこれから気持ちがあっても、体がついてこないなんて事が、どんどん出てくるのかもしれません。そういうことを経験してこそ音楽は深まるのかもしれませんが、今この時を充実して生きて行きたいですね。演奏し、作曲し、これからも旺盛な活動をして行きたいと思っています。

是非演奏会に起こし下さいませ。

時代

終演後、素晴らしいメンバー達と
お陰様で国立劇場の企画公演「日本音楽の流れⅡ 琵琶」は無事に終了しました。いつもはどんな演奏会でも自分の作品を演奏しているのですが、今回は久しぶりに作曲家の新作を初演するというお仕事。しかも自分の琵琶ではなく、正倉院の復元琵琶で演奏するという企画でした。演奏にはかなり苦戦しましたが、とりあえず何とか初演まで漕ぎ着けることが出来ました。今回はメンバーがとてもフランクで且つ実力ある面々が揃い、終始良い雰囲気でリハーサルから本番まで務めることが出来嬉しかったです。

作曲:平野一郎  四弦琵琶:私  五絃琵琶:久保田晶子  打物:池上英樹  笙:中村華子  芋:東野珠美  
コロス(東京混声合唱団)松崎ささら 吉川真澄 
  渡辺ゆき 小林祐美 志村一繁 平野太一朗 
  佐々木武彦 伊藤浩

      

本当に良い勉強をさせてもらい、多くの事を体験し、感じることが出来た、とても貴重な機会でした。私の演奏は作曲家にとっては至らないものだったことと思いますが、こういう場に声をかけてもらったこと、そして素敵な仲間達との出会ったことに深く感謝しています。またこのような普段とは全く違う仕事をさせてもらい、自分の視野も大きく広がり、この体験がこれからの自分の演奏会にもフィードバックされて行くと思います。

マイルス2

かつて音楽が大きな力を持った時代がありました。音楽が世の中を代表し、世界がそれについて変わって行ったとも言えるような時代が・・・。私は最近、60年代や70年代の動画を観ることが多いのですが、単なる懐古趣味というのではなく、確かにあの時代は音楽に力があったと思えてならないのです。

アートというものが現代音楽のようなアカデミックなものだけでなく、ジャズやロックにまで拡大し、もうライフスタイルから世の中の流れまでも左右するような一大ムーブメントとなって世界に発信されていきました。パンクロックにいたっては、ファッションやデザインをはじめ、あらゆる分野にその精神を広げ、大きな影響力を及ぼしました。

まだレコードしかない時代に、ものすごい浸透力だったと思いますが、今のようにあらゆるメディアに溢れていないからこそ、皆が同じレコードというメディアに殺到したんでしょうね。そう考えると今のネット配信のように、誰でも世界に発信出来る状況が良いのか悪いのか・・・?

takemitumiyagi

日本音楽の現場でも大きな運動が展開されました。特に現代邦楽の分野は、皆意義を持って取り組んで、旺盛な活動が展開されました。勢いだけのものも多かったと思いますが、それこそ国立劇場などでは、何度も様々な新作が上演され、喧々諤々のやり取りの中で、大きなエネルギーが湧きあがっていたのです。「ノヴェンバー・ステップス」のような世界的に有名になった曲も生まれ、音大でクラシックしか勉強してこなかった作曲家も、ようやく自分の足元にある豊穣な歴史と文化に満ちた日本の音楽に目を向けだして、様々な試みが展開され、演奏家もリスナーも熱い視線を投げかけた、そんな時代があったのです。

今回の国立劇場で演奏した曲「胡絃乱聲」は、作曲家の平野一郎さんによるものでしたが、彼と色々話をしていて「これからようやく西洋音楽第一の偏狭な感性から脱し、日本人による日本独自の新しい音楽が生まれて来るんだ」ということを改めて確認しました。彼は洋楽のほうから、私は邦楽のほうから、このアプローチをやってきているという訳です。同じ視線を日本音楽の中に投げかける仲間が居るということは嬉しいですね。彼のこれからに期待したいです。
実は今回、平野さんは粋なことをしてくれました。彼がまだ譜面を書く前、稽古場で顔合わせをして、その時に私が復元琵琶を試し弾きしていた様子を、彼はしっかり録音していて、私がいつもの調子でガツガツ弾き倒していたフレーズを作品の中に散りばめてくれました。やるね!。
丹後宮津出身の平野さんには印象深かったという、江ノ島から見た富士山

音楽は時代と共にある、という言葉は私のスローガンですが、芸術音楽はどの国でも、どの時代でも世の中の先取りをしていくと私
は思っています。芸術家の表現活動は、各国で革命の原動力にもなって行く位ですから、今私たちが新たな日本音楽を創造して行くことは、必ず次世代に何かしらのバトンを渡してゆけるのだと思います。

今の日本は激動の中にあります。外交問題も、国内の問題も山のように難題を抱えているし、急激なグローバル化で、日本人の意識も追いついてゆけないような状況なのでしょう。某大学のパワハラ問題などは、邦楽界はもとより日本全体にまたがる問題のように思います。私は以前から父権的パワー主義と書いていますが、もうこの感性ではこれからは世界の中で生きては行けない。嫌でも何でも、村意識から脱し、世界の中の日本という意識を持たずには、日本も邦楽も生きてゆけない時代なのです。

DSC09921

これまで日本が築き上げてきた文化は勿論素晴らしい、でもその歴史の中で、移り行く時代との間に様々な風が湧き上がりました。それは時に爆風となり我々を吹き飛ばし、またその風に押し出されるようにして次の時代へと我々は向かっているのです。だからウケ狙いで表面をお着替えしたもの、前衛を気取ったもの、目の前の売り上げしか見ないようなショウビジネスでは、単に奇をてらっているだけで、その風を、熾烈なまでの爆風を受けることが出来ない。時代の風こそが我々を動かすのです。
風を起こすのも我々であり、また風をこの身に受けて、次の時代へと橋を渡すのもまた我々なのです。

これからの時代を、音楽が魅力的でワクワクする時代にしたいものですね。

風のように

青梅宋建寺での演奏会「琵琶の調べ~紡ぐ響き」は無事終わりました。今回はまとめ役の笛奏者 長谷川美鈴さん以外は、パーカッション、ピアノ、ベースという洋楽器の方々と一緒だったのですが、メンバー皆さんフランクでとても楽しい演奏となりました。またスタッフの皆さんも地元愛に溢れた方々が実に素晴らしいサポートをしてくれて、お客様も本当に沢山いらしてくれて、手作り感のある素敵な演奏会となりました。是非また青梅で演奏会をやりたいですね。

宋建寺

それにしても青梅は本当に良い街です。私は都会に居ると息苦しくなって、結構頻繁に青梅や奥多摩、信州などに行って英気を養っています。このブログにもそんなプチ旅行記を載せていますが、ああいう土地で演奏出来るのは嬉しいですね。勿論都会ならではの素晴らしさも重々判っているのですが、基本的に人里離れた山奥みたいな所に憧れる気持ちは10代からずっとあるので、これからは都会に基盤を持ちながら、生活は緑にあふれた所でするなんてのも良いかな~~と思ってます。

 

風を感じたライブ キッドアイラックアートホールにて
あわただしくリハーサルやら舞台が続く毎日ですが、青梅の演奏会も、地元の人々のサポートも、リハーサルを重ねている国立劇場での演奏会のメンバーも、いずれにも人が集い一つになって興す気持ちの良い風を感じるのです。
想いは具体的な言葉でなく、形式でもなく、目にも見えない風となって肌で感じる。私は何時もそんな風を感じる時、とても幸せな気分になります。言葉には虚偽が潜んでいることも多いですが、風にはそれが無い。偽りようがない。純粋なものしか風となって吹き来ることはないのです。

仏教では禅風という言葉があるそうですが、先人の教えや想いを、形ではなく、その志において受け継ぐことが大事だと常に思っています。形は目に見える分、判りやすいですが、形に囚われて惑わされて、その本質にある志をいつしか見失なってしまう。本来純粋であるはずの音楽の世界でもそういう例は数限りなくあるものです。だから形ではなく、表面の上手さでもなく、そこから風を感じることが一番の継承だと感じています。

 

私が何時も演奏している琵琶独奏曲「風の宴」も先人の琵琶人の風を我が身に受けて、また次世代へとその風を渡す、という意味合いで作曲しました。曲中には、私が尊敬を寄せている琵琶人のフレーズが随所にちりばめられています。私はあくまで自分自身でありたいと思っていますが、そこには先人達の風が吹き渡り、常に私は琵琶を弾く度に、その豊穣な風に包まれていると感じられるのです。

この風はきっとシルクロードを渡り、日本へと受け継がれ、また太古の昔より現代に絶え間なく続くものでもあると思います。組織や流派を守っても、そこに風は起こらない。偉くなっても、有名になっても、上手になってもそんな所には風は無い。風は時代も俗世も軽々と超え、心の中にこそ吹き渡るものであって、心でしか感じられないのです。

福島安洞院にて。津村禮次郎先生と

今迄風を感じたことは何度もありましたが、能の津村禮次郎先生とやっていた戯曲公演「良寛」で、樂琵琶と先生の舞のみの8分間に渡るラストシーンは、今までに経験したことの無い特別な風を感じました。早朝の湖面を渡るような、静やかで無垢な、あの静謐に満ちた風は忘れられないですね。会場全体が一つに成ったような特別な瞬間空間でした。舞台上に於いて、あれだけの風を感じるというのはなかなか無いので、良く覚えています。

次世代に風を送りたいですね。

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