水無月の演奏会色々

蒸し暑い日が続きますね。この時期は絹糸の絃にとっては本当に宜しくないのですが、どういう訳か毎年毎年この時期に演奏会が集中します。GWが終わってから梅雨が明けるくらいまでが、秋の演奏会シーズンと共に年間のピークです。逆にこの時期が暇だとなんとも気が抜けてしまいます。

今年も先日の国立劇場の演奏会をはじめ魅力あるプログラムが目白押しですので、気合を入れて御紹介!!

昨年の季楽堂での演奏会 photo Mayu
先ずは今週末9日(土)には、琵琶樂人倶楽部や日本橋富沢町樂琵会でもおなじみの筑前琵琶奏者 平野多美恵さん主催による「森の中の琵琶の会~薫風」於:練馬季楽堂
14時開演 平野旭鶴(多美恵)HP http://biwa-crane.com/
筑前琵琶の仲間3人との演奏会に、一曲お邪魔させていただきます。平野さんは今が一番充実しているようで、これからはどんどんと活動を展開して行くそうです。この会がその第一弾ということで、応援に馳せ参じることになりました。筑前琵琶をしっかり聴きたいという方には絶好のチャンスです。場所も古民家を改装した素晴らしい場所ですので、ゆっくり気持ちよく聴いていただけると思います。

次は定例の琵琶樂人倶楽部。やるたびに良い感じになってきました。shiotaka4今月は13日の水曜日の開催です。右の絵は琵琶樂人倶楽部の看板絵。鈴田郷さんというおばあちゃまが、大阪での公演の時に聴きに来てくれて、その時の私の姿を書いてくれた作品です。

そして「謡曲を語る 狂言を語る」シリーズも16日に広尾の東江寺で上演します。今月は能「松風」を取り上げて、能ではない松風を観ていただきます。

更に日本橋富沢町樂琵会ではいよいよ日本唯一の琵琶の作り手 石田克佳さんを迎え、作り手から見た琵琶のお話をしていただきます。加えて石田さんによる正派薩摩琵琶と私の錦琵琶との聞き比べもご堪能頂きます。琵琶に興味のある方、他では滅多に聞けない貴重な機会をお見逃しなく!!

極めつけは東洋大学井上円了ホールで開催される。津村先生の公開講座。ここでは文学部の原田香織教授の監修による「方丈記」を上演するのですが、実は今年の3月にこの公演はフランスのストラスブール大学で既に行われました。全編に渡り私の1stアルバム「Oriental eyes」から最新の8thCD「沙羅双樹Ⅲ」迄の楽曲音源を使って頂き、好評を博したとのこと(選曲は原田先生)。今回はそれを生演奏で再現しようという訳です。
また今回はフルート奏者の久保順さんが全面協力してくれて、チェロや尺八のパートをアレンジ。更に順さんの龍笛と私の樂琵琶による演奏も盛り込まれます。これは注目ですよ!!。
演奏会の後でいただいた絵
この不景気で不安定な世の中にもかかわらず、年を追うごとに多くのお仕事に恵まれ、琵琶を生業として生きていることに、本当に感謝の念が毎年強くなります。
どんな仕事でも、自分の思う仕事を続けられるというのは有難いこと。私の主催する琵琶樂人倶楽部も11年目126回を数える所まで来ましたが、自分のペースで淡々とやってきた事が、本当に良かったと思います。これからも無理をせず、自分なりに続けてゆきたいと思っています。

音楽家を志し東京に出てきて、もう30年以上が経ちました。一緒にがんばっている仲間もいれば、夢を諦め故郷に帰った仲間達も沢山居ます。ライブを続けているだけでは、なかなか音楽が人生となるまでには至りません。皆経済的、家庭的な問題を夫々に抱えているでしょう。それに何はなくても健康でなくては続けられません。先日も同い年の仲間が一人亡くなりました。震災の年にも、お世話になったカンツォーネ歌手の佐藤重雄さんが亡くなりましたが、早、私もそのときの佐藤さんと同じ年齢になりました。尺八の香川一朝さんや民族音楽プロデューサーの星川京児さん、私に色々なことを教えてくれたH氏も現世を旅立ってしまいました。人間が肉体を持つ限り、この世では時間には限りがあるのです。
私もこれから気持ちがあっても、体がついてこないなんて事が、どんどん出てくるのかもしれません。そういうことを経験してこそ音楽は深まるのかもしれませんが、今この時を充実して生きて行きたいですね。演奏し、作曲し、これからも旺盛な活動をして行きたいと思っています。

是非演奏会に起こし下さいませ。

時代

終演後、素晴らしいメンバー達と
お陰様で国立劇場の企画公演「日本音楽の流れⅡ 琵琶」は無事に終了しました。いつもはどんな演奏会でも自分の作品を演奏しているのですが、今回は久しぶりに作曲家の新作を初演するというお仕事。しかも自分の琵琶ではなく、正倉院の復元琵琶で演奏するという企画でした。演奏にはかなり苦戦しましたが、とりあえず何とか初演まで漕ぎ着けることが出来ました。今回はメンバーがとてもフランクで且つ実力ある面々が揃い、終始良い雰囲気でリハーサルから本番まで務めることが出来嬉しかったです。

作曲:平野一郎  四弦琵琶:私  五絃琵琶:久保田晶子  打物:池上英樹  笙:中村華子  芋:東野珠美  
コロス(東京混声合唱団)松崎ささら 吉川真澄 
  渡辺ゆき 小林祐美 志村一繁 平野太一朗 
  佐々木武彦 伊藤浩

      

本当に良い勉強をさせてもらい、多くの事を体験し、感じることが出来た、とても貴重な機会でした。私の演奏は作曲家にとっては至らないものだったことと思いますが、こういう場に声をかけてもらったこと、そして素敵な仲間達との出会ったことに深く感謝しています。またこのような普段とは全く違う仕事をさせてもらい、自分の視野も大きく広がり、この体験がこれからの自分の演奏会にもフィードバックされて行くと思います。

マイルス2

かつて音楽が大きな力を持った時代がありました。音楽が世の中を代表し、世界がそれについて変わって行ったとも言えるような時代が・・・。私は最近、60年代や70年代の動画を観ることが多いのですが、単なる懐古趣味というのではなく、確かにあの時代は音楽に力があったと思えてならないのです。

アートというものが現代音楽のようなアカデミックなものだけでなく、ジャズやロックにまで拡大し、もうライフスタイルから世の中の流れまでも左右するような一大ムーブメントとなって世界に発信されていきました。パンクロックにいたっては、ファッションやデザインをはじめ、あらゆる分野にその精神を広げ、大きな影響力を及ぼしました。

まだレコードしかない時代に、ものすごい浸透力だったと思いますが、今のようにあらゆるメディアに溢れていないからこそ、皆が同じレコードというメディアに殺到したんでしょうね。そう考えると今のネット配信のように、誰でも世界に発信出来る状況が良いのか悪いのか・・・?

takemitumiyagi

日本音楽の現場でも大きな運動が展開されました。特に現代邦楽の分野は、皆意義を持って取り組んで、旺盛な活動が展開されました。勢いだけのものも多かったと思いますが、それこそ国立劇場などでは、何度も様々な新作が上演され、喧々諤々のやり取りの中で、大きなエネルギーが湧きあがっていたのです。「ノヴェンバー・ステップス」のような世界的に有名になった曲も生まれ、音大でクラシックしか勉強してこなかった作曲家も、ようやく自分の足元にある豊穣な歴史と文化に満ちた日本の音楽に目を向けだして、様々な試みが展開され、演奏家もリスナーも熱い視線を投げかけた、そんな時代があったのです。

今回の国立劇場で演奏した曲「胡絃乱聲」は、作曲家の平野一郎さんによるものでしたが、彼と色々話をしていて「これからようやく西洋音楽第一の偏狭な感性から脱し、日本人による日本独自の新しい音楽が生まれて来るんだ」ということを改めて確認しました。彼は洋楽のほうから、私は邦楽のほうから、このアプローチをやってきているという訳です。同じ視線を日本音楽の中に投げかける仲間が居るということは嬉しいですね。彼のこれからに期待したいです。
実は今回、平野さんは粋なことをしてくれました。彼がまだ譜面を書く前、稽古場で顔合わせをして、その時に私が復元琵琶を試し弾きしていた様子を、彼はしっかり録音していて、私がいつもの調子でガツガツ弾き倒していたフレーズを作品の中に散りばめてくれました。やるね!。
丹後宮津出身の平野さんには印象深かったという、江ノ島から見た富士山

音楽は時代と共にある、という言葉は私のスローガンですが、芸術音楽はどの国でも、どの時代でも世の中の先取りをしていくと私
は思っています。芸術家の表現活動は、各国で革命の原動力にもなって行く位ですから、今私たちが新たな日本音楽を創造して行くことは、必ず次世代に何かしらのバトンを渡してゆけるのだと思います。

今の日本は激動の中にあります。外交問題も、国内の問題も山のように難題を抱えているし、急激なグローバル化で、日本人の意識も追いついてゆけないような状況なのでしょう。某大学のパワハラ問題などは、邦楽界はもとより日本全体にまたがる問題のように思います。私は以前から父権的パワー主義と書いていますが、もうこの感性ではこれからは世界の中で生きては行けない。嫌でも何でも、村意識から脱し、世界の中の日本という意識を持たずには、日本も邦楽も生きてゆけない時代なのです。

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これまで日本が築き上げてきた文化は勿論素晴らしい、でもその歴史の中で、移り行く時代との間に様々な風が湧き上がりました。それは時に爆風となり我々を吹き飛ばし、またその風に押し出されるようにして次の時代へと我々は向かっているのです。だからウケ狙いで表面をお着替えしたもの、前衛を気取ったもの、目の前の売り上げしか見ないようなショウビジネスでは、単に奇をてらっているだけで、その風を、熾烈なまでの爆風を受けることが出来ない。時代の風こそが我々を動かすのです。
風を起こすのも我々であり、また風をこの身に受けて、次の時代へと橋を渡すのもまた我々なのです。

これからの時代を、音楽が魅力的でワクワクする時代にしたいものですね。

風のように

青梅宋建寺での演奏会「琵琶の調べ~紡ぐ響き」は無事終わりました。今回はまとめ役の笛奏者 長谷川美鈴さん以外は、パーカッション、ピアノ、ベースという洋楽器の方々と一緒だったのですが、メンバー皆さんフランクでとても楽しい演奏となりました。またスタッフの皆さんも地元愛に溢れた方々が実に素晴らしいサポートをしてくれて、お客様も本当に沢山いらしてくれて、手作り感のある素敵な演奏会となりました。是非また青梅で演奏会をやりたいですね。

宋建寺

それにしても青梅は本当に良い街です。私は都会に居ると息苦しくなって、結構頻繁に青梅や奥多摩、信州などに行って英気を養っています。このブログにもそんなプチ旅行記を載せていますが、ああいう土地で演奏出来るのは嬉しいですね。勿論都会ならではの素晴らしさも重々判っているのですが、基本的に人里離れた山奥みたいな所に憧れる気持ちは10代からずっとあるので、これからは都会に基盤を持ちながら、生活は緑にあふれた所でするなんてのも良いかな~~と思ってます。

 

風を感じたライブ キッドアイラックアートホールにて
あわただしくリハーサルやら舞台が続く毎日ですが、青梅の演奏会も、地元の人々のサポートも、リハーサルを重ねている国立劇場での演奏会のメンバーも、いずれにも人が集い一つになって興す気持ちの良い風を感じるのです。
想いは具体的な言葉でなく、形式でもなく、目にも見えない風となって肌で感じる。私は何時もそんな風を感じる時、とても幸せな気分になります。言葉には虚偽が潜んでいることも多いですが、風にはそれが無い。偽りようがない。純粋なものしか風となって吹き来ることはないのです。

仏教では禅風という言葉があるそうですが、先人の教えや想いを、形ではなく、その志において受け継ぐことが大事だと常に思っています。形は目に見える分、判りやすいですが、形に囚われて惑わされて、その本質にある志をいつしか見失なってしまう。本来純粋であるはずの音楽の世界でもそういう例は数限りなくあるものです。だから形ではなく、表面の上手さでもなく、そこから風を感じることが一番の継承だと感じています。

 

私が何時も演奏している琵琶独奏曲「風の宴」も先人の琵琶人の風を我が身に受けて、また次世代へとその風を渡す、という意味合いで作曲しました。曲中には、私が尊敬を寄せている琵琶人のフレーズが随所にちりばめられています。私はあくまで自分自身でありたいと思っていますが、そこには先人達の風が吹き渡り、常に私は琵琶を弾く度に、その豊穣な風に包まれていると感じられるのです。

この風はきっとシルクロードを渡り、日本へと受け継がれ、また太古の昔より現代に絶え間なく続くものでもあると思います。組織や流派を守っても、そこに風は起こらない。偉くなっても、有名になっても、上手になってもそんな所には風は無い。風は時代も俗世も軽々と超え、心の中にこそ吹き渡るものであって、心でしか感じられないのです。

福島安洞院にて。津村禮次郎先生と

今迄風を感じたことは何度もありましたが、能の津村禮次郎先生とやっていた戯曲公演「良寛」で、樂琵琶と先生の舞のみの8分間に渡るラストシーンは、今までに経験したことの無い特別な風を感じました。早朝の湖面を渡るような、静やかで無垢な、あの静謐に満ちた風は忘れられないですね。会場全体が一つに成ったような特別な瞬間空間でした。舞台上に於いて、あれだけの風を感じるというのはなかなか無いので、良く覚えています。

次世代に風を送りたいですね。

水無月の頃

毎年何故か、GWが明けた頃から6月~7月頭辺りが大変に忙しくなります。
湿気が多く、琵琶にとって一番最悪な季節に演奏会が多いとは何故なのでしょうね。まあ何をおいてもお仕事を頂くのはありがたいの一言なのですが、とにかくこの時期、楽器も本人も調整に一苦労です。今年も様々なタイプの演奏会がひしめいているのですが、そんな中でも気持ちの良い演奏会をご紹介。

先ずは左のチラシ「琵琶の調べ~紡ぐ響き」。今月27日青梅市 宋建寺での演奏会です。この会は横笛の長谷川美鈴さんのお声がかりで、個性的なメンバーが揃いました。和洋の楽器がソロ・デュオ・アンサンブルを繰り広げます。まだお席も若干あるそうなので是非起こし下さいませ。バリエーションのあるプログラムとなっています。詳しくは私のHPのスケジュール欄を御覧になってみて下さい。
そしてもう一つ。これまで何度か演奏させてもらっている練馬の「けやきの森の季楽堂」での筑前琵琶の演奏会。この演奏会は、日本橋富沢町樂琵会や琵琶樂人倶楽部でお世話になっている筑前琵琶奏者の平野多美恵さん主催の演奏会によるもので、タイトルは「森の中の琵琶の会 薫風」。右の写真は昨年の季楽堂での私と尺八の吉岡龍見さんの演奏会の様子。良い感じでしょ?。古民家を再生した空間は邦楽にはドンピシャなんです!!。
平野さんは先日国立劇場の公演にも出演され、これからが楽しみな今、大変のっている演奏家。今後は御自分でも演奏会を主催して活動を展開して行くようで、今回がその第一歩となりました。こちらは6月9日の開催です。乞うご期待!。

水無月は何故か皆さん勢いが良いです。

若き日 高野山常喜院「塩高和之演奏会」にて
良い舞台をやりたい。納得する内容の舞台を創りたい。ただその一心で、今までやってきました。特にこの水無月は色んな想い出があります。数々の失敗も経験しましたが、はっとするような特別な瞬間にも何度も出逢いました。舞台というのは観るほうも、やる方も何にも変えがたい魅力があります。私は舞台に立つという事がとにかく喜びなのです。熱狂、興奮、静寂、超越・・・。あの瞬間がたまらないのです。エンタテイメント音楽では無いので、お金とは無縁ですが、毎月何度も何度も舞台に立って、それを生業としている今の、この人生はとても気に入ってます。

忘れられない舞台もあれば、もう一度やってみたいと思うものもあります。しかし舞台はその場だけで成立する、いわば「生もの」。過去を引きずってはいけないのです。
舞台はいうなれば異次元の夢の空間。場の大小ではなく、どんな所でも舞台は日常から離れた場所なのです。私たち舞台人は、夢の世界を表現し提供する者なので、夢の世界を創りだす為にも、毎回新鮮な気持ちで舞台立ち向かいたいのです。芸術家として作品を創り出すことはとても大事なことですが、それと同時に我々は「生」の舞台を務めることもまた同じように大事なのです。観客との同時進行の時間性を持つこと。これが他の芸術ジャンルの方々と大きく違う所です。

この水無月の頃に多くの声をかけてもらっているのも、何か意味があるのでしょう。毎年こうして勉強させてもらっているんだな~と、今年もしみじみしています。これからも素晴らしい作品はもとより、充実の舞台を創って行きたいですね。
芥川
今回はちょっとおまけ
水無月になると芥川龍之介の「相聞」という詩を何時も思い出します。

また立ちかへる 水無月(みなづき)の
  歎きを誰(たれ)に 語るべき
沙羅のみづ枝に 花咲けば
かなしき人の 目ぞ見ゆる
方丈記公演にて

私はこんなロマンチックな想いに浸っている暇は当然無いのですが、いつかはこういう詩を詠める様なゆったりとした日々を過ごしたいですね。その時に我が身から流れ出る音楽が楽しみです。

しっかりお仕事してきます!!。

軸を立てる

ここ数年「活動順調のようですね」と声をかけられることが多くなりました。まあ私のように自分で作曲して演奏している人は他に居ないし、古代の秘曲から最先端の薩摩琵琶まで弾く人も居ないので、何かと目立つのでしょう。
ただ私はいわゆるエンタテイメント系の仕事は一切やらないし、ギャラ云々ではなく、自分が納得出来る仕事を選んでやらせてもらってます。生意気なようではありますが、琵琶のような特殊な楽器は、しっかり選んで行かないと、飛び道具のように扱われて、技術の切り売りになって、本当の意味で音楽をやらせてもらえず、使い捨てのようになってしまうのです。そうやって食って行く為の芸になったらもうお終い。そこには創造性も無くなり、目の前のギャラや話題だけを追いかけるような小さな世界しか存在しなくなる。芸術家は日常にまみれていては何も創りだせませんので、日々超然としている位でちょうど良いのです。ですからどんな小さなサロンコンサートでも、とにかく自分で納得が行くものをやるようにしています。

国立劇場演奏会

しかしながら、好きなことをやっていると言うのは、知らぬ間にぬるま湯状態にもなって行くものでもあります。時にはガツンと来るようなこともやらないと良い状態を保てません。良い刺激が必要なのです。実は来月の頭に、左記のチラシのような企画があり、そこで新作初演を控えています。正倉院の復元琵琶を使った作品で、こういうものを演奏させていただくのはとても光栄なのですが、これがなかなか難しい。只今リハーサルを重ねていますが、私の音楽に対するアプローチとは全く違いますので、ほとんど歯が立ちません。本当に良い勉強になります。たまには自分にとって厳しい仕事もやっておくことは必要ですね。この機会を大事にしたいと思います。

まだまだ本当の意味で充実した活動には程遠いですが、これからも気合を入れて精進して行きますので、是非是非御贔屓の程を・・・。

箱根岡田美術館にて

私は色んなバランスをとりながらも、自分のやりたい事を、やりたいようにやって来ました。何か目標を立てるというよりも、今自分がやりたい事をやり、その先に道を見るといえばよいでしょうか。「カーネギーホールに立ちたい」とか、「○○に成りたいとか」そういう意味でのゴールのような目標は私には無いですね。日々充実して琵琶を生業として、自分の世界を音楽で表現し生きて行きたいというのが、私の願いです。
もう少し言い方を変えると、他人を軸としないということ。他人の作った価値感や基準、例えば賞や名取などそういうもので自分を計らないようにしています。あくまで舞台の上に立って、リスナーに評価されてナンボだと思っていますので、他軸を追いかけるのは時間の無駄としか思えないのです。それは追いかけているようで振り回されているだけですからね・・・。

なにも突っ張っているわけではなく、ジャズやロックでは当たり前のことなので、そういう土壌で育った私には、極々自然な感覚なのです。何よりも日々舞台に立って、自分の曲を演奏している事が一番の幸せなので、邦楽に身を投じてから、皆さんが賞などを取りたがり、またそれを看板にしたがるの姿を見て、私と違うタイプの音楽家がこんなに居るのかと、びっくりしました。かの魯山人は「芸術家は位階勲等とは無縁であるべきだ」と言いましたが、私には至極まともな意見だと思えて仕方ないですね。

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永田錦心永田錦心も鶴田錦史も、宮城道雄も皆独自の世界を創り出したからこそ残っているのではないでしょうか・・?。両先生は、新しい時代に新らしい琵琶楽を創造し、遺しました。その志を次ぐ人がきっとこれからも出てくる鶴田錦史2ことを願うばかりですね・・・・。決して形をなぞってはいけません。

永田、鶴田両先生共、伝えられた話を聞くと、様々な芸術に関心があり、常に貧欲に吸収していったそうです。芸術家なら当たり前ですが、最先端を創る人は他人を軸としていては前に進めない。また今迄誰もが常識と思っていたレールの上も歩かないものです。永田先生は、洋楽がこれから日本音楽にどう関わるかを考えて、「これからは西洋音楽を取り入れた、新しい琵琶楽を想像する天才を熱望する」と当時発行されていた琵琶新聞上に発言していました。後の鶴田先生は洋楽との共演も数多いですが、それだけでなく義太夫など他の邦楽ジャンルからの技を自らのスタイルに取り入れて、独自の琵琶楽を創りだしました。今後、琵琶界に両先輩の志が満ちてくると良いですね。

私は両先生のような才覚はないかもしれませんが、自分の音楽が日本音楽の最先端でありたいと、常に思っています。そして自分のやりたい事を実現する為に、様々なジャンルの音楽や日本の古典文化を勉強することが必須だと考えているので、常にそういう姿勢で文化全体に接しています。
よく色々な方が私の演奏を「ロックのようだ」「フラメンコギターに近いものを感じる」と評してくれます。また演奏家も、アドリブパートが入っている私の作品を評し「さすが元ジャズ屋だね」とよく言ってくれますが、私がこれまで通り越してきた音楽の影響がそのまま琵琶の上に現れ、それらの音楽と通じるということは実に喜ばしい事です。これからも永田錦心にも鶴田錦史にも無い、私独自の琵琶楽をどんどん創りたいですね。「なぞる」のだけはまっぴらごめんです!。
戯曲公演「良寛」にて、能楽師 津村禮次郎氏と

私への評価は別として、ただ言えることは、自分の軸、揺るぎない軸を立てない限り、私の音楽の実現はありえないということ。他軸に振り回されていたら、何も創り出せません。どこまでも自分自身に成りきらなくては!!。もちろん意地を張るということではありません。意地を張るというのは他に対してやっていることなので、そんな他人の軸を意識しているようでは、本当の自分の軸を立てていないということです。自分の軸を立てている人は、他人の意見も素直に取り入れるし、つっぱる必要も無く、とても自然に、そして素直に居られるでしょう。
私は黛敏郎さんが言うところの「プレロマス(荘厳さと力に満ち、そしてしなやかなもの)に共感するものを感じます。虚勢を張って、表面を飾った状態ではなく、志が内側に満ちて、且つ自然体でしなやかな姿。私はそういう姿で居たいのです。私という存在は唯一であるように、私の音楽も唯一でありたいのです。

コーカサスの夜明け

この時期は一年の間で本当に毎年忙しく過ごしていますが、謙虚な姿勢を持って、あくまで自分のペースを崩さずに、自分の音楽を納得のいく形でやって行きたいですね。

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