年末雑感

12月に入り年末らしくなるかと思ったら、妙な天気が続き、なにやら不穏な感じがしますね。このところの異常な気象はどうも気になりますね。来年が平穏無事であると良いのですが・・・。

昨年12月の日本橋富沢町樂琵会にて、筑前琵琶の平野多美恵さんと

今週末からどどっと演奏会が詰まっていまして、色々と観て廻るのは今しかないという訳で、先週今週は仲間のライブやらベテランの舞台、そして映画といつになく観て歩きました。日本の古い映画はあらためて観るとよく出来ていますね。お金も手間もかかっていて、役者も粒ぞろいで素晴らしいクオリティーでした。これからは日本のものも積極的に観て行こうと思います。
また同世代の仲間や若手の演奏も少し聴きに行きましたが、いずれも好感が持てるまっすぐな演奏でした。こういう仲間達が順調に活動を続けていけると良いですね。多々苦労はあると思いますが、現実に負けずがんばって欲しいものです。かと思えば一番高い値段を取っているベテランの舞台にどうにも不満が残ったりして・・・、色々と勉強をさせてもらっていました。

鎌倉其中釜サロンにて 撮影:川瀬美香
やはり舞台はその大小に関わらず、その人そのままが見えてしまうんだな、とあらためて思いました。レベルが上がればあがるほどクオリティーを求められるし、器も問われるというもの。演目一つ、共演者一つ、衣装一つ、演出一つ、どれをとっても、そこに明確な意思があり、必然がないと妙な作意を感じてしまうし、どこか甘さがあると、レベルの高い人ほど目立ってしまいます。
普段は自分があの舞台の側にいることを思うと、観客の視線の厳しさをひしひしと感じますし、更に身を引き締めていこうとあらためて思いました。

私は琵琶奏者として活動を始めた最初から、ダンス系(日舞~能~クラシックバレエ~モダンダンス~舞踏eytc.)と毎年公演をしていて、自分でも身体表現に関心がどんどん高くなってきました。来年も既に二つ決まっていますが、このところ演劇系の方とのお付き合いがまた一段と増えてきて、今後が楽しみです。
演劇系の方と話をして居ると、皆さん舞台全体を見ている事がよく判ります。音楽家はともすると、1曲を上手に弾こうとする意識に凝り固まって、舞台全体を考えられない人が多いのですが、それではリスナーはもう納得しないでしょう。お上手さを聞かせようとするのは所詮お稽古事でしかありません。

CD「まろろば」ジャケット
先日お亡くなりになった上原まりさんと、もう随分前に御一緒させてもらったことがありましたが、やはり上原さんは舞台全体に目が行き渡っていて、見事な舞台運びでした。私はその頃、まだ自分のレパートリーを格好良く弾くことばかりに気を取られていて、今思えば全くなっていませんでした。その時、上原さんの姿にプロというものの矜持を感じたのを、今でも覚えています。

どんな所でも舞台全体視野に入れてやって行きたいものです。

このところ色々とアイデアが出て来て、曲も出来上がってきています。これ迄作曲してあまりやってこなかった曲もあらためて手を入れて、いい感じになりましたので、来年からの舞台のプログラムもより充実してくる事と思います。

さて、明日はお世話になっている神田音楽学校のクリスマスパーティー&発表会。明後日は古澤月心さんとの年末恒例「蕎麦道心」での年越しライブ、日本橋富沢町樂琵会、琵琶樂人倶楽部の他、フラメンコギターの日野道夫先生とのジョイントライブなど、連日の演奏会で今年最後の大忙しとなります。いずれも大きな演奏会ではありませんが、日本橋富沢町樂琵会では能楽師の津村禮次郎先生をお迎えして、拙作「凍れる月」で津村先生に舞っていただきます。新しいアレンジでの久々の再演となりますので、気合を入れて充実した内容にしたいと思っています。

今年もいい感じでお仕事させてもらいましたが、最後の締めもばっちり決めたいですね。舞台全体を入れた大きな視野と器を持って来年も挑みたいと思います。是非是非御贔屓に。

移り行く季節

181202_155240今年は鎌倉などでは、あまり綺麗な紅葉が見られないと聞いていましたが、先日、九段下の近くに用事で行った時、北の丸公園を通り抜けたら、実に素晴らしい紅葉に出会いました。
深まり行く秋というものは何とも風情がありますね。春も勿論ですが、こうして季節が移り行く様は、本当に詩情を掻き立てられます。やはり日本の音楽はどこまでも自然と共に在り、日本人もまた自然の一部として生きているんだな~~と毎年感じる事が出来ますな。この感性が和歌を生み、平安文化を創り上げ、中世へと引き継がれていったんでしょうね。能や茶道、華道など現代の日本の文化の根幹となっているものは、皆この感性の上に成り立っていると思わずには入られません。古の歌人も紅葉を愛で、和歌を詠み、心を豊かにしたんでしょう。この感性が現代迄受け継がれ続いているということに、ロマンを感じますね。

私は一年を通して、大体毎週どこかで演奏しているのが常なのですが、時々ふと演奏会が一週間~十日無いという時が数ヶ月に一度位あります。こういう時が自分にはとても必要で、この余裕があるからこそ、紅葉や春の花や空や雲など、自然に接して感性が広がるのです。常に追われているばかりでは愛でるどころか、気がつきすらしませんからね・・・。

楽器も同じで、愛でてあげるくらいの時間がないと、こちらの感性には答えてくれません。私の楽器が常にベストコンディションでいられるのは、ゆっくりメンテしてあげる時間があるからです。楽器は演奏家にとって命ですから、たっぷり愛情も手をかけてあげないとね!!!。

IMGP0422これは石田琵琶店の3代目の作品。私の琵琶の製作やメンテナンスをやってくれている石田克佳さんのおじいちゃんの作。大正時代との事です

先週も珍しく演奏会が十日間程無く、時間がありましたので、早速楽器の調整を片っ端からやっていて、サワリはもちろんの事、柱をはずして音程や高さの調整をしたり、糸巻きの密着具合を確かめたりしてたっぷり「愛でて」あげました。今回は特に中型と標準サイズの調整をしましたが、写真左の標準サイズが、結構良い感じに仕上がりましたよ。ビュンビュン鳴るようになりました。

その他はレパートリーの譜面も総点検して、楽譜の書き直しにも時間をかけます。普段やっていていると、「ここのタッチを変えてみようかな」「ここのアレンジ変えてみようかな」という小さなアイデアが結構溜まって行くので、そういう小ネタを片っ端から実践してブラッシュアップしているという訳です。

新作としては、最近は笛と樂琵琶の小品1曲と、短い樂琵琶独奏曲を先月仕上げました。この独奏曲はもう少し発展させて、今までのオリエンタルムードではない、幻想的な現代作品に今後仕上げて行くつもりです。他にも幾つかアイデアがあるので、それらを具体化して、来年末にはまたアルバムを録音したいと思っています。今後はCDの制作をやめて、配信のみになって行くと思いますが、どんどん創って行きたいと思っています。特に薩摩琵琶の独奏や他の楽器とのデュオ曲などをもう少し創りたいのです。

鶴田錦史1来年の活動についても色々と考えています。戦略というほどの大げさなものではないのですが、思う形で活動を進めて行くには、計画を立てるのはとても重要。演奏会ごとに、求められる曲も違えば、共演者も様々。しかしどんな演奏会であっても、全てに於いて私の音楽が鳴り響かなくては、私がやっている意味がありません。
私は日本橋富沢町樂琵会と琵琶樂人倶楽部という二つの定例会を主催しているのですが、両方とも1年間のスケジュールを前年の10月までには決めます(出演者も内容も)。琵琶樂人倶楽部は年に12回、日本橋富沢町樂琵会は年に5回の計17回の演奏会を1年以上前に決定しているのです。もちろんゲストの方にも連絡を取って承諾を頂き、前年の11月には次の年の一年間のスケジュールが入ったチラシを配り始めます。

スケジュールでもコンテンツでも、先ず自分でやれることを把握して、何をどうやれば自分の音楽が伝わるのか、じっくり考える事が必要です。かの鶴田錦史師は、「才能なんて関係無い。自分の全てが武器になる位でないと」と言ったそうです。少しばかり上手だとか、才能があるとかそんなことではなく、その人の顔も姿も下手も上手いも、何でも丸ごとがその人の武器、つまり自分の全てを魅力として輝かせることが出来るかどうかということだそうです。さすが鶴田先生らしい名言だと思います。

本番2
ジョージアの首都トビリシにあるルスタベリ劇場にて

活動を続けていると、どうしても目の前の事に囚われて、ただ一生懸命になるだけで、全体が見えなくなることがあるものです。一所懸命やっている自分に酔っているとも言えるでしょう。日本人は特に「上手」や「お見事」というのが大好きで、誰かのそっくりに歌えるとか、弾けるとか、そんなところを賞賛する傾向がジャンル問わず多いので、おだてられてうっかりそういう所を向いてしまうと、もう自分の音楽は響かない。先日もYoutubeで、往年のポップス歌手そっくりに歌う方が話題でしたが、大変上手だとは思うものの、物真似芸人にしか見えませんでした。それを楽しんでいる分には結構だと思いますが、物まね芸では世界は認めてくれないのです。世界とそのまま繋がっている現代では、視野の狭さは命取りです。プロではやって行けない。
私のような規模の小さい音楽でさえ、ネット配信を通じて海外から問い合わせが来るのが、現代という時代です。自分の発した音楽はそのまま世界を駆け巡るのです。
貴方は誰かのそっくりさんや二代目になりたいですか?。それとも他の誰でもない貴方の音楽を世界に響かせたいですか・・・?。
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北の丸公園

季節が移り変わるように、私の活動も刻一刻と世の中と共に移り変わって行きます。事にここ10年程のSNSの発展やネット配信によって、完全に世界に向かって発表して行くという意識に成らざるをえない状況になってきましたし、Youtube Musicなどの新しいサービスもどんどん始まり、その状況は日々更に発展し続けています。こういう世の中で活動しているという意識を持てるかどうか、そこがポイントですね。
私の琵琶楽に対する基本のスローガンでもある「器楽としての琵琶」という部分も、自分の中で大分徹底してきましたので、自分の作品をどんなプログラムで聴かせ、舞台全体を張って行くのか。そしてどんな形と方向で活動を展開するか、年を追うごとに、その器とセンスを問われているように感じます。

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皇居内の紅葉

今月も色々と演奏会が続いて、13日には前回書いたように、日本橋富沢町樂琵会で津村禮次郎先生との共演もありますので、あまりゆっくりは出来ませんが、年末には毎年演奏会がなくなるので、じっくりと腰を据えて、季節を楽しみながら、これからの自分について考えて行きたいものです。
豊かな音楽を創りたいですね。

古から現在(いま)へ、そして未来へ

今年も早、街にはクリスマスソングが流れ出しましたね。
年内はもう大きな演奏会はないのですが、日本橋富沢町樂琵会にて毎年年末恒例になっている、能楽師の津村禮次郎先生との共演が何といっても今年最後の大仕事です。

今年は拙作「凍れる月」で津村先生に舞ってもらうのですが、今回はいつもの相方 大浦典子さんの龍笛ではなく、あえてフルートの久保順さんに声をかけて、樂琵琶とフルートで演奏します。久保さんとは日本書紀歌謡の会でずっと御一緒していたのですが、今年の6月に東洋大学にて「方丈記」の公演があり、私の楽曲を久保さんと私が組んで演奏し、そこに津村先生の舞が乗るという舞台をやらせていただきました。これがなかなかいい感じで出来ましたので、自分の中の視点を変えるという意味も含めまして、今回はフルートと樂琵琶でやってみる事にしました。
昨年の津村先生の舞姿 Photo MAYU
今年は年明けにリリースしたCDで、Viの田澤明子さんに演奏してもらってから、ヴァイオリニストやフルーティストなど、洋楽器との組み合わせをかなりやりました。樂琵琶とヴァイオリンは、以前にも中島ゆみ子さんと組んでとても気持ちよかったのですが、本当に音色といい、バランスといい、実にしっくり来るのです。もうSiroccoや塔里木旋回舞曲などは、Viと組んで演奏する機会の方が多くなりました。来月の神田音楽学校の年末パーティーでは、フルートの神谷和泉さん(初共演)と組んで演奏します。
洋楽器と邦楽器・雅楽器では確かにその音楽は違うし、文化も違うのですが、実は核の部分では共通するものを抱えているように感じます。シルクロードを西に行くか、東に行くかで分かれて行ったと考えれば、やはりルーツは一つともいえますね。少なくとも私の作品を演奏する時に楽器の違和感を感じたことが無いのです。

これからはもっと積極的に、色んな楽器と組んでゆきたいし、そういう作品も創ってゆきたいと思います。
実は来月、津村先生に舞っていただく「凍れる月」はネット配信で海外、特に米国においてかなりダウンロードされている曲でもあります。ちょっと幻想的な雰囲気の曲なのですが、日本ではどうしても樂琵琶=雅楽というイメージが強いのか、「Sirocco」や「塔里木旋回舞曲」などの派手なアップテンポの曲以外は、なかなか認知されないのです。相方を洋楽器にすることで大分雰囲気も変わり、曲の魅力もアピールできそうですので、これからは邦楽器だけでなく、今迄の作品も洋楽器と組んでやってみようと思っています。
2019年日本橋富沢町樂琵会スケジュール
第18回  2月21日(木)「邦楽・洋楽の垣根を越えて」
            ゲスト 田澤明子(Vi) 久保順(フルート・龍笛)
第19回  4月18日(木)「和の真髄を現代に」
            ゲスト 矢野司空(尺八)
第20回  6月20日(木)「薩摩琵琶 古典から現代へ」
            ゲスト 石田克佳(琵琶製作家 正派薩摩琵琶)
第21回  10月17日(木)「四季を寿ぐ歌」
            ゲスト 大浦典子(笛)原田香織(中世文学研究者)
第22回  12月19日(木)「邦楽の未来へ」
            ゲスト 津村禮次郎(能舞) 
           


日野先生手書きのかわいいチラシ

そして年内は日本橋富沢町樂琵会の他、久しぶりにフラメンコギターの日野道夫先生とのライブもあります。こちらは狛江のインド料理店プルワリでの気軽なライブです。21月14日18時30分開演です。是非!!

戯曲公園「良寛」の楽屋にて、津村先生と
ピアノやギター、そして歌には国境はありません。どんなジャンルにでも合うし、ギターは古賀メロディーなどでもや欠かせないものにもなっています。本来楽器は、自由にどこまでも羽ばたいて行くものなのです、だから琵琶はシルクロードを伝わって日本に辿り着いたのです。しかし日本の琵琶は何時まで経っても、一つの世界に留まろうとする。これだけ多様な魅力と、幅広い対応が出来る構造を持っているのに・・・?。私は琵琶の魅力をもっと多様な世界に広めたいし、自分自身も普段から様々なジャンルの方々とお付き合いしているので、それらのアーティストとどんどん一緒に舞台を創ってゆきたいと思っています。そして日本から世界に向けて、古典から最先端まで琵琶音楽を発信したいのです。

年を追うごとに色々な機会を頂く機会が増えて本当に嬉しいです。もっともっと色々とやってみたいですね。来年も楽しくなりそうです。乞うご期待!!

晩秋の音色

この時期は演奏会シーズンながら、今年はさほど忙しくないので、ゆっくりと色んな事を楽しんでいます。まあ今年は春頃からつい最近まで猛烈な忙しさだったので、ちょっと休憩という所でしょうか。もう頭の中は来年の活動について巡っています。

最近の大仕事 田原順子先生との共演 於:日本橋富沢町樂琵会
忙しい時は常に臨戦態勢にあるせいか、自分の中の様々な部分が妙に研ぎ澄まされて、普段なんでもない事に敏感になって行きます。これは良い面も悪い面もあると思いますが、少し落ち着いてから我が身を振り返ると、自分というものが色々と見えてきますね。
何故自分はここでいらだったのか、何故このシチュエーションで平気だったのか、何故ここにいて気持ち良いのか、気持ち悪いのか・・・色んな反応をする自分を冷静に見つめると、自分がどんな奴なのか改めて見えてきますね。自分らしくあるというのは、先ずは己を知る事ですから、こういうゆったりとした時期こそが、自分の音楽をより深めて行くのかもしれないですね。

京都の琵琶サークル 音霊杓子の面々と

私は相変わらず、いわゆる皆さんがいうところの「練習」というものをしないのですが、その分常に頭の中では新作の構想したり、次なる活動の展開を考えたりして過ごしています。
ちょっと思考が詰まると、これからの活動の事やレパートリーの事等を書き連ねた「未来ノート」を開き、考えをまとめるのが習慣です。今後の計画なども色々と書いてあり、いつ頃どんなCDをリリースするとか、どんな曲を作るか、どこに向かって活動を広げるなんていうことを書いては消し、消しては書きながら、自分の軌道を修正しています。

フラメンコギター:日野道夫、ウード:常味祐司各氏と

やはり私は器楽が基本ですので、独奏曲の更なる充実とデュオの作品がもう何曲か欲しい所です。前回のブログでも書いた、新しい形の琵琶歌も勿論作りますが、あくまで器楽としての琵琶楽を基本として、その作品群の一環として声を使った作品も創る、という姿勢で作曲したいと思います。
どこまでも自分の音楽をやり、自分の表現をしてこそ舞台に立つ資格があると私は考えていますので、「お仕事」も必要ですが、上手に弾けるだけのお稽古事状態で舞台に立つ事はプライドが許せないのです。技術的なことよりも、自分で創り上げた作品で舞台に立つのは、私の中で基本であり矜持です。私以外の方の作品を演奏する時も、私なりの解釈が出来上がってからでないと、とても舞台には立てません。やっつけ仕事は出来ませんね。とにかく私でなければ成立しない、オリジナルな舞台を創り上げたいのです。以前にも書きましたが「琵琶で呼ばれるのではなく、塩高で呼ばれるようになれ」という某雑誌編集長の言葉は、今でもきっちり頭に入っています。

私は琵琶の音の魅力をもっと聴いて、味わって欲しいのです。他のジャンルの歌手や語り手と肩を並べても遜色の無いような「声」を持っている方なら、琵琶を抱えて歌う歌手を目指せばよいでしょう。しかし半端な声や歌唱力で弾き語りをしても、声も琵琶もその魅力を発揮出来ません。
琵琶はこれだけの音色と表現力を持っているのです。せっかくのこの魅力を使わないのは何とももったいないと思うのは私だけでしょうか。お稽古している人にとって弾き語りは当たり前でも、リスナーからすると違和感の方が強いのは、私が今まで散々やってきて感じた事です。皆さん琵琶の音を聴きたいのであって、うなり声を聴きたいのではありません。ましてや多分に右系軍国的な風が漂う忠義の心みたいな内容の曲を聴きたいという人は出会った事がありません。
琵琶はフロントで、独奏で、十二分に聴かせることが出来る素晴らしい楽器なのです。琵琶奏者として看板を挙げている以上、私はその妙なる音色と魅力を存分に発揮したいと思っています。

かつて水藤錦穣師が琵琶の演奏技術の高みを示してくれましたが、そろそろ琵琶の世界にも、パガニーニーやハイフェッツのような、飛び抜けた存在が出て来てよい頃だと私は思っています。ロックでもクラシックでも長唄でも義太夫でも民謡でも、歌と絃は別の人が担当してこそ素晴らしい音楽が出来上がったのはご承知の通り。ロックギタリストでも歌でヒットを飛ばすようになって、ギターを弾かなくなっていく人もいますね。やはり極めるにはどちらかに絞り込まないと、その先の突き抜けた世界へは行けないのでしょう。

しっかりとした「サワリ」をつけるようになったのは、戦後、鶴田錦史師以降だという意見もありますが、私もそう思います。それは正に、器楽としての琵琶が誕生した頃と重なります。この気持ちの良い「サワリ」は器楽を演奏するためにこそあるのだと私は思っていますので、これからどんどんと魅力溢れる器楽曲を作曲してゆこうと思います。

イルホムまろばし4

ウズベキスタン、イルホム劇場にて、指揮アルチョム・キム氏


琵琶は、あの音色こそ命。だから筝や尺八のように、器楽が標準になって行くのが私の理想です。私の器楽作品はネット配信で海外の方に沢山聴いてもらっています。時々海外からの問い合わせも来ますが、皆あの音色に惹かれて聴いてくれているのです。琵琶唄ではありません。琵琶は音色だけでリスナーを魅了する事が出来るのです。他の楽器との共演は素敵ですが、伴奏にまわる必要などありません。琵琶の溢れる魅力とエネルギーをどんどん解き放って行く演奏家が出て来て欲しいですね。

もう冬の気配も感じられる季節となりました。是非この深まる秋の空に琵琶の音を響かせたいですね。妙なる音には様々な想いが乗って、多くの人へと伝わって行きます。余計なものは要らない。ただ琵琶の音だけがあればいい。ただひたすらあの音色に包まれたいのです。

声の姿、音楽の力

先日の荻窪音楽祭の後は、横浜の寺尾サロン、琵琶樂人倶楽部第131回(12年目に突入)、そして鎌倉の槙邸サロンと立て続けに演奏してきました。
槙邸サロンでは久しぶりに一人で「経正」の弾き語りもやらせて頂きました。

私はいつも書いている通り、琵琶歌のスタイルと歌詞の内容にとても違和感があり、今ではいわゆる琵琶唄はほとんどやらなくなっています。今年はそれでも塩高オリジナルとして創ってある「壇の浦」や「経正」は何度かやりましたが、もう旧来の琵琶歌スタイルからこれからどんどんと離れて行くと思います。もっと自由に声を使うことが出来たら、弾き語りというのも私の音楽の一部として残って行くと思いますが、先日も「経正」を演奏していて、オリジナルの形にはしているものの、まだまだ旧来の節に囚われているし、自由になっていない部分を多く感じました。何ものにも囚われず自分の求める所を追い、走るのが、私のやり方ですから、弾き語りをやるのであれば、更に深めて、自分だけのスタイルと形を創り上げたいと思います。

今進行中のプロジェクトとして、古典を土台とし、且つ声を使った琵琶楽作品を創るべく、とある方に歌詞を書いてもらっています。このブログにも色々と書いているように琵琶歌には違和感はありますが、声にはとてもエネルギーがあると思いますし、声楽は大好きなので、今でもオペラのLive viewingを観たり、色んなジャンルのライブも楽しんでいます。今迄のような声を張り上げたり、節をつけてこねくり回したりしない、声を使った新たな琵琶作品を是非創りたいのです。歌や語り、ストーリーテリング中心に音楽が成立するのではなく、音楽の中の一要素として声がある、という新しい琵琶楽の形を、是非とも創りたいですね。
先日、代々木上原の東京ジャーミーで礼拝に参加させてもらってきたのですが声に魅せられましたね。アラビア語の礼拝の呼びかけ(アザーン)やコーラン読誦(キラーア)を聴いていると意味は何もわからないのですが、それ故かえって声からはエネルギーだけが伝わって来るのです。

声そして言葉は誰でも使えるだけに、そこに寄りかかってしまうと、ただの小手先の芸に陥って、何も伝わりません。琵琶の習い始めの頃は、「月下の陣」や「重衡」「敦盛」なんかの稽古をしましたが、これらの曲で何を表現するのかという事は、こちらから何度聞いても師匠や先輩は誰も話してくれませんでした。歴史や古典に詳しい人も居ませんでしたね。まあ小僧扱いされていたのでしょうが、舞台で演奏活動をしている先輩も居ませんでしたし、何かを表現していると思える人も誰一人居ませんでした。武士道云々の的外れな精神論をかざす人はいましたが・・・。ギターを弾いている頃、必至に自分の世界を追い求め、創ろうとして、その結果として琵琶を選んだ私としてはどうもね・・・。まあ私の居る場所ではなかったということなのでしょうね。
表現よりも良い声やら節回しのお上手さやらを追いかけて、自らそこに酔っていたら、まるでエネルギーの無い、自己顕示欲の塊になってしまいます。残念ながらジャンル問わずそういう例を多く見かけますね・・・。

ロックだろうがクラシックだろうが、記憶に残る音楽にはエネルギーが満ちているのです。烈しいという事ではありません。むしろ静寂感があるものです。そんな表面的なところに留まらず、内面がたぎっているのです。だから音楽から魅力が溢れ出て、多くの人が感動し、受け継がれてゆくのです。
時代は刻一刻と変わり、そこに生きる人々の感性も変わります。その中で命を輝かせるには、時代と共に生まれ続ける溢れんばかりの創造性、敷かれたレールや権威に囚われない自由な感性、次世代を見渡すような大きな視野、古典の知識・・・、そういうものがなくては舞台には立てないと私は思っています。今邦楽にはそれがあるかな・・・・?。
私自身は琵琶の演奏家なので、弾き語りをメインにすることはないし、歌い手にも成るつもりもないですが、琵琶にも魅力のある歌がこれから創られていって欲しいですね。
音楽はエネルギーなのです。

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