今月リリース予定の10thアルバム「AYU NO KAZE」は今月11日にリリース予定です。オリジナルアルバムとしては10th、未発表作品を集めたオムニバスアルバムを入れると12thとなる今作品は、iTunes 、アップルミュージック、Spotify、レコチョク、Youtube Music等々各配信会社でお聴きいただけます。私にとってはこのインストアルバムは原点回帰でもあり、1stアルバム「Oriental eyes」から22年経って、改めて自分の音楽を見つめ直すターニングポイントだと思っています。収録された楽曲は22年の熟成を経て改めて具現化した私の音楽であり、あらゆる点に於いて私のフラッグシップとなると感じています。
これから二回に分けてこのアルバムの解説をして行きます。最初はメンバー編
笛の大浦典子(松尾慧)さん。彼女とはもう30年近くに渡って一緒に演奏しています。私に樂琵琶を勧めてくれたのも、雅楽を教えてくれたのも大浦さんでして、日本各地の民謡も色々と紹介してくれました。本当に私の視野を広げてくれて、毎回私は学ぶ事ばかりです。今回も自分で創った曲ながら、一緒にリハーサルを重ねていて、彼女の演奏を聴きながら何度も手直しを繰り返し録音しました。曲に対してこれだけの熱意をもってアプローチしてくれる人はなかなか居ません。私の作品の笛はほぼ大浦さんですが、一番最初に創った私の代表曲「まろばし」をはじめとし、総ての曲が彼女の助力なしでは成立しなかったものばかりです。今回収録した「凍れる月~第三章」はこれから笛と琵琶の定番曲として「まろばし」と並んで演奏して行きたいと思っています。他「遠い風」ではとてもゆったりとしたノスタルジックな風景を描き出してくれて、「西風(ならい)ではこの風土に吹き渡る風を叙情的に歌い上げてくれました。
そしてここ7,8年程御一緒させてもらっているヴァイオリンの田澤明子先生。8thアルバム「沙羅双樹Ⅲ」の時からお願いしているのですが、そのエモーショナルな演奏はとにかく素晴らしく、一緒に演奏しているとあちらの世界へと行ってしまうようなエネルギーを内に秘めた演奏家です。今回は「凍れる月~第二章」と「Voices」を演奏してもらいましたが、二曲とも田澤先生でないと実現できない曲となっています。「凍れる月~第二章」は私がずっと長い間温めていた曲想を具現化したのですが、とても抽象的なその世界観をしっかり汲み取ってくれて良い感じに仕上がりました。この曲も定番のレパートリーとなって行くと思います。「Voices」は、もともと初演時は笛の大浦さんに能管でお願いしていた作品ですが、何度か再演をして行く中で、ヴァイオリンに変えてみた所、曲の新境地が開けて来ましたので、今回はヴァイオリンでやってもらいました。
最後はメゾソプラノの保多由子先生。保多先生には「Voices」を歌って頂きました。この曲は2年程前、福島の復興を応援する団体主催の演奏会で、震災詩人の小島力さんの「わが涙茫々」という詩に曲を付けて欲しいという依頼から出来上がった作品です。最初に詩を見せて頂いた時に、飾り気のないとてもリアルでストレートな内容に惹きつけられたのですが、同時に、これに曲を付ける事は出来ないと感じ、一度お断りをしました。しかし再度の依頼を受け、手法を変えて作曲し出来上がったのがこの「Voices」です。上記したように最初は第3パートを大浦さんの能管でやってみたのですが、その後フルートや尺八でもやってみて、昨年の保多先生のリサイタル(銀座 王子ホール)でヴァイオリンに替替えてやってみた所、保多・田澤両人の相性も良く、表現がとても豊かにマッチしましたので今回は保多・田澤・私のトリオでの演奏となりました。
とにかく3人とも大変高い音楽性と技術を持っているので、正に音楽を創り上げて行くという感じで進められたのがとても嬉しいです。有意義で且つ楽しい時間でした。日本の各地の音楽の話や、アジアヨーロッパの音楽の話など、それぞれが持つ専門の話も色々聞かせてもらって、リハーサルをやる度にどんどんと大きなものへと羽ばたいて行くのが実に面白かった。
私はどんな人とリハーサルをしても、ほとんどその中身は話をしていて、音を出すのはほんの1,2回です。私が譜面で描いた曲がどんな世界観を表現しようとしているのか、その背景にはどんな歴史があり、現代にどうつながっているのか、そんな事を先ずは説明するのですが、そこで話は終わらない。今度は共演者自体がイメージを膨らませて、どんな風景や色が見えるのか、そこからどんな世界を感じるのか、沢山沢山語りあって、それから音を出して行きます。
作品を創って行くには、そこにいかに命を吹き込むことが出来るかが問われるのです。かつての現代邦楽と言われる作品は音大でクラシックを勉強した作曲家が作っていたので、あくまでクラシックと同様、作曲家の作品として譜面は事細かく指定が書き込まれ、建築物のように作られている楽曲がとても多かった。当時はそれを忠実に再現出来る人が凄い凄いともてはやされていましたが、私はそれに大きな違和感しか持ちませんでしたし、特に邦楽器でオーケストラのようにアンサンブルするものは、交響曲モドキのようで、クラシックコンプレックスの塊にしか聴こえませんでした。なぜこんなに豊穣な文化と歴史のある日本の感性を捨てて、クラシックモドキをやって面白いのかは未だに理解が出来ません。少なくとも自然と調和共生して境界線を引かず、自由自在に物事の「あわい」を行き来するように生きて来た日本人の生き方ではないし、日本の音ではないと感じていました。ルールを決め、物事を仕切り構成し、世の中を人間中心主義で周りを加工して押し進めてしまう西欧的なやり方は、邦楽器の音色とは水と油だと思えてしょうがないのです。現代のポップス邦楽も同様に感じます。
私は音楽が作曲者のものではなく、演奏家のものであって欲しいと思っています。そしてリスナーのものであって欲しいと思っています。私にとって作曲とは、演奏家が命を吹き込む場所を創る事。作曲者を超えて音楽が立ち上がるには演奏家の大きな力が必要です。演奏家は再現者ではなく作曲家と同じ創造者です。作曲家と演奏家がその創造力を発揮して、初めて音楽となり得るのです。演奏者には譜面を再現する技術ではなく、演奏家自身が思い描く世界を表現するための技術が必要になってきます。正確に弾く技術ではなく、想いを具現化する力が必要なのです。そこを履違えているといつまで経っても、音楽に命は宿りません。
私は共演者の感性が自由に開き羽ばたく場を創り、出てきた音をまとめ上げるのが仕事です。だから譜面は演奏者のイメージを喚起させるものでなくてはならないのです。指定を細かく書き込んで自分の思い通りにやらせるのではなく、演奏者が自分なりのイメージを広げられるようなメロディーや音の重なりを書いて、そこから大きな世界に羽ばたいて行けるような譜面を書き、場を設定して行きます。
今回も総てそのようにして譜面を創りました。細かく指定すればするほど「私」という器の中に音楽が留まってしまいます。今回の3人は私の想像を超えるような自由で独自な世界を持っている。だからこそその何物にも囚われない野生的感性を自由に羽ばたかせることが出来るようにしたのです。現代の洋楽的な目で見ると、私は作曲家でありながらプロデューサーに近いですね。メンバーの持っている世界をどこまで引き出す事が出来るのか、その手腕を問われているのだといつも感じます。これはマイルス・デイビスをずっと聴いてきてその音楽の創り方を自分のスタイルとしてやってきた結果です。
今回はタイトル曲の「AYU NO KAZE」や「凍れる月~第四章」等、独奏でじっくり琵琶の音色を聴いて頂く曲も排していますが、全体としては作曲家としての作品個展的な内容が強いかと思います。これが私の音楽なのです。
是非お聴きくださいませ。
今年も宜しくお願い申し上げます。
もう年賀状を止めてしまいましたので、これが新年の挨拶となりますが、これも世の流れ、形式だけのものを卒業して行く過程だと思いますので、是非ご理解を。
今年は先ず何と言っても10thアルバム「AYU NO KAZE」のリリースです。22年前の1stアルバム「Oriental Eyes」が蘇ったような内容になりました。やはり自分の音楽はこれだと思える納得のいく内容となっています。1stを出した時も「琵琶らしい曲はあるのですか」という問い合わせがありましたが、「塩高らしい曲しかありません」としか答えようがなかったですね。私はこれまでの作品も全て自分で作曲したものをリリースしていますし、且つ新作をレコーディングしています。代表曲の「まろばし」のように相方を変えて何度か録音したものもありますが、手慣れたレパートリーを収録するようなことは一切しません。私が聴いて来たアーティストは皆そうして常に最先端を聞かせてくれましたし、手慣れたお見事なものを聴かせると言いうメンタルこそが、リスナーを遠ざける大きな要因だと思っていますので、これからもこの姿勢は変わらないと思います。
今回は3人のゲストを迎えました。

今年もそんな訳で私にとって新たな挑戦の一年となると思います。琵琶樂人倶楽部も昨年で18年目に突入し、開催も200回を超えました。今月は8日に筝の藤田祥子さ
ん、尺八の藤田晄聖君を迎え、重衡と千手の物語を筝・尺八・琵琶唄のトリオ編成で演奏します。詳しくは琵琶樂人倶楽部の方を御覧くださいませ。
私が音楽で届けたいのはお見事さでも技でもなく、その音楽の先に在る世界です。むしろ技は消えてしまう位でよいのです。私は色んなアーティストの創り出すその世界に憧れ、そこ惹かれて音楽家を志したのです。どんなに上手でも技を見せつけるだけで世界を感じられないようなものはただの旦那芸でしかないと思っています。聴いて頂くのは私の作り出した世界をこそ聴いて頂きたいのです。
今年もよろしくお願いいたします。
2024年も終わろうとしています。今年も良い仕事をさせていただきました。充実した舞台をやらせて頂いて、本当に嬉しく思っています。
先ず年明けは何と言っても与那国島に行った事ですね。東芝国際交流財団の教育プログラムの仕事だったのですが、与那国島に行けたことがとにかく嬉しかったですね。
左はドクターコトーのドラマの舞台となった診療所、中は久部良小学校での子供達へのレクチャー、右は島の一角で放牧されている馬です。とにかく人より動物の方が多い所で、とても解放された気分になりました。素晴らしい体験でした。
2月は東久留米南部地域センターホールでの公演。新横浜のスペースオルタに続き今回も画家 山内若菜さんの大きな作品と共に演奏させていただいたのですが、拙作「Voices」を初演時の能管からVnに変えての初演でした。このトリオが年明けにリリースされる10thアルバム「AYU NO KAZE」につながりました。これ迄この曲は初演時が能管、その後フルート、尺八と色々変えてやって来ましたが、Vnで定着しそうです。
3月はティアラこうとうでの舞踊の会。花柳面先生、福原百之助さんとの共演でした。またこの時には尾上墨雪先生、藤陰静枝先生の作品も乗り、墨雪先生の芸術院選出のお祝いもあり大変華やかな会となりました。
5月は文藝サークルカトレアの会のさよなら公演を神奈川の貞昌院にて開催、そして銀座王子ホールで行われたMsの保多由子先生のリサイタルに客演しました。王子ホールでは拙作「経正」「Voices」を演奏。あの王子ホールに私の作品が鳴り響いた記念すべき演奏会でした。

6月は久しぶりに大谷けい子先生のダンスネオシノワーズの舞台を四谷区民ホールでやりしました。若手笛奏者の玉置ひかりさん、ダンスの工藤文皓君、同じく杉本音音さん、鈴木恵子さん、そして主催の大谷けい子先生と共演。上記の動画のような面白い舞台が出来上がりました。
山形の鶴岡にある本鏡寺での公演も記憶に残っています。Msの保多先生、フルートの久保順さんと共に演奏し、演奏後は羽黒山にも連れて行って頂き、すっかり整いました。山の中に居ると本当に落ち着きます。そろそろ山に入る時期なのかもしれませんな。
9月には人形町楽琵会が5年ぶりに復活。上記の「平家幻想」で共演した笛の玉置ひかりさん、そしてこの時知り合った日舞の西川箕乃三郎君と三人で、充実の会をやらせていただきました。このチームはこれから何か始まりそうな感じがしています。来年もどこかで公演が出来たら嬉しいですね。
10月は10thアルバム「AYU NO KAZE」のレコーディングに入り、毎年恒例の東洋大学文学部での特別講座を務めました。
11月は木ノ下歌舞伎主催の木ノ下裕一さんの企画で「ひらく古典のトビラ」に出演。松本市民芸術館にての上演でした。アナウンサーの加賀美幸子さん、俳優の成河さん、そして木ノ下さんと共に様々な古典を取り上げて上演。素晴らしい会となりました。
また東洋大学でずっとお世話になっていた原田香織先生がやっているインターネットラジオ夢の種の番組「室町のコバコ」にも出演させていただきました。能楽の番組ですので、私は門外漢なのですが、ちょっとばかりお話させていただきました。
そして今月はアルバムの残りのレコーディングとミックスダウンを終え、あとは年明けのリリースを待つばかり。
photo 新藤義久
こんな調子で今年も素晴らしい舞台を務め、良い仕事をさせてもらいました。私はコロナの間は何かと声がかかり忙しくしていたのですが、コロナが一段落すると、小さなレクチャーなどが無くなり、演奏会の数も減って来ました。しかし大分数は少なくなりましたが、その分充実の舞台となりました。また念願の10thアルバムも創る事が出来、今年も充実した一年となりました。
来年はリリースした作品をどんどん上演して行く事と、新たな琵琶の歌曲の作曲にも挑戦して行くつもりです。是非また舞台にお越しくださいませ。
今年もお世話になりました。
今年も押し詰まってまいりましたね。とはいえ琵琶奏者は年末年始は暇なんです。おめでたい曲やラブソングのイメージはないですからね。私は大分浮世離れしている方で、ここ30年程TVも持っていないしSNSも一時期やってましたがすぐにやめてしまった位ですので、世間の流れとはあまり関係なく過ごしています。そのせいか年末だからといって訳も判らず走り回ることもなく、今年ものんびりしています。
今年も早々に年内の演奏会は終わり、暇に任せて、もう一度しっかり読みたいと思っていた中沢新一さんの本をいくつか読み返し、その他知人の書き下ろした原稿など溜まっていた本を片っ端からやっつけています。アルバム制作の方はちょっと色々見直しがあって休止状態なんですが、こちらも年明け1月中にはリリースできるように頭をひねっているところです。前から思っていましたが、中沢さんの本は、レヴィストロースなんかに共感する私の思考と共通する部分を多く感じますね。特にアジアや日本の風土に根付いて、社会を超えた野生みたいな、その辺りがとても共感します。面白い。世の中ちょっと面白くて知的興味をそそる程度のものばかりが溢れていますので、こういう本当に充実した内容の本は良いですな。発想が広がりますね。
私の思考は多分に色のイメージが発端となっているものが多いのですが、それは言い換えれば根源的なものへの憧憬、志向と言ってもよいかと思います。色に対するイメージや想いは、何物にも囚われない感性であり、それは国家や法律・常識・慣習など、人間がどうしても作り出してしまう固い枠を飛び越えた所にある根源的感性といえます。
こんな風に、作曲に関しても先ずは色から発想する事が大変多いです。中でも私のイメージの中心は青です。私は昔から物を選ぶ時には迷わず青を手に取ってしまう傾向にあり、友人にも「何故青いものばかり選ぶの」とよく言われてました。前世で何かあったのでしょうか。
私の曲に「風」と「月」に関するものがとても多いのは、青のイメージから広がった感性と言ってよいかと思います。青には永遠、深遠、自然、孤独、静寂というようなイメージを感じますが、それは現代社会があまりに人も物も密になり過ぎて、システムも複雑になり過ぎて個人が生きる空間を失っているので、青が持っているこれらのイメージを求めるのかもしれません。私からすると現代社会の中に「青」が欠けているという事なのでしょう。大地との繋がりを忘れ果て、自分達が作ったルールでがんじがらめになって、日々あらゆる欲望をたぎらせ、それを消費する事に終始している現代人には、今一度青のイメージが必要なのではないでしょうか。
よく引用する宮本武蔵の「見上げる空は一つなれど果て無し」や、森有正の「孤独は孤独であるが故に貴いのではなく、運命によってそれが与えられた時に貴いのである」等の言葉も、その通奏低音に青の世界を感じますが、それもやはり現代に失われつつある感性だと思っています。
photo 新藤義久
音楽を聴いて頂くという私の仕事は人里離れた所に居ては実現しません。とにかく人に集まってもらうしかないので、密であるというのは音楽家にとっては有り難い事なのです。しかしその密から生まれた音楽は本当にこの風土から生まれ出た音なのだろうかとよく考えます。音楽はやはり静寂から生まれるものではないかと常々思っています。以前はこうしたカオスから生まれ出るのも現代の芸術の宿命であり、現代芸術の一つの形と考えていたのですが、最近の現状を見ていると、エンタテイメントが行き過ぎ、パフォーマンス性イベント性が過ぎているように思えて、音楽が聴こえて来ないのです。そして現代社会はあまりにも大地から浮遊した幻想に包まれて、そこに踏みしめるべき人間の場所を感じないのです。本土の民謡ですら既にジャンルになってしまい、果てには民謡に家元制度まで出来上がっているのが現状です。それはもうかつて各地で歌われたであろう民謡でもないし、そこには大地も無い。音楽は楽しい事も重要な要素ですが、目の前を賑やかすばかりでは、そこに大地から沸き上がるエネルギーがないと中身のないただの賑やかしエンタメでしかなくなって、土地に生きる人々の心は聴こえて来ません。せめて音楽だけは風土や大地に根ざし、もっと言えば宇宙とも繋がり、生命の根源的なエネルギーに満ちていて欲しいのです。
知人から送られて来た先月の朧月
都会の中に居ても少しでも風を感じ、月を見上げ、その風情を感じようとしては居るのですが、静寂を感じる事の出来る場所は本当に少なくなってしまいました。私は人間が自然から遠ざかると、同時に野生も失い、大地から沸き上がって響き渡っていた音楽も失なわれて行くような気がしてならないのです。かつて三島由紀夫は高度成長期の日本の未来を「無機質なからっぽな、ニュートラルな中間色の、富裕な抜け目のない、或る経済大国が極東の一角に残るだろう」と言いました。彼はその言葉の後に「そして日本人は豚になる」とも付け加えています。
私はただの音楽家なので大したことは言えませんが、今日本がもう一度この大地と風土を取り戻さないと、本当に日本の歴史は終止符を打つのではないだろうかと感じています。それともここで終わるのが定めなのか。
物事が「続く」のと「なぞる」のは根本的に違います。形骸化され、権威付けられたものはエネルギーが乏しい。時代を生きる人間のエネルギーが漲り、且つこの大地と風土から湧き上がるエネルギーも相まって、次世代の日本音楽が生まれて欲しいですね。グローバル化によって各国の音楽文化も入って来ている現代では、当然その影響も出てくるでしょう。でも根底はこの大地です。世界の歴史を見ても、文化は常に色んなものとの出逢い接触によって発展し、その土地の生活に根付いて昇華して文化となって行くもの。純粋芸術などという事は、右翼のプロパガンダでしかありません。
大地と共に生きていた縄文時代に外来勢力が入り込み、法律や身分などを作り支配体制を敷いて国家というものが出来上がり歴史は先へと進んで行ったのですが、その時からすでに大地から浮遊し出したのではないでしょうか。その後貨幣経済が発展するにつれ、民衆も国家・法律・貨幣などなど人間の作りだした幻想の中に放り込まれ現代にまで続くのではないでしょうか。その幻想の最初の頂点は江戸時代のように思います。都市が生まれ、エンタテイメントが発展し、貨幣で暮らしが成り立つようになって、人々の欲望がどんどんと炙り出され、それがエンタテイメントへと昇華したように感じています。
Vn:田澤明子 ASax:SOON Kim 各氏と琵琶樂人倶楽部にて
社会の中でしか生きられない人間は。自分が居る場所のルールに従わなければ淘汰されてしまいます。何処で生きてもそこにはまた違う法律があり、身分やら肩書があり、その枠内で生きざるを得ません。しかしそんな人間の作りだした制度・幻想を軽々超えて行くものが音楽ではないでしょうか。特に現代社会に於いては、ネット配信で私の音楽も世界の人が聴いてくれる状況になっています。実際毎月のレポートを見ても色んな国の人が聴いてくれていて、台湾では私の曲が現地の音楽家達によって何度も演奏されています。音楽こそは国境も何も超えて通じ合えるものではなかったのではないでしょうか。私はそう思えて仕方がないのです。
現代は音楽にも権威が出来上がり、正統異端という概念が生まれ、系統のようなもので区別し、欲望・願望が丸出しになっている。もう一度自分たちが生きる大地に目を向ける時期が来ているように感じてならないのです。
青のイメージをぜひ感じてみてください。