音楽の喜びⅦ

先日、第18回日本橋富沢町樂琵会をやってきました。毎年年明けの回は現代琵琶楽ということでやっているのですが、今年はヴァイオリンの田澤明子さん、フルート・龍笛の久保順さん、笙のジョウシュウ・ジポーリン君をゲストに、ちょっとてんこ盛りの演目でやってきました。いつもよりお客様は少なめでしたが、充実の演奏をすることが出来ました。

雅楽の古典曲からシルクロードもの、現代雅楽、現代邦楽迄たっぷりと演奏してきました。そして何時も尺八などとやっている私の代表作「まろばし」をヴァイオリンと演奏したのですが、これがなかなか良かったです。ヴァイオリンはアラブ・インド・アイリッシュ・ブルーグラスとあらゆる民族音楽でも使われていますが、その表現力には無限に可能性を感じますね。もちろん田澤さんのずば抜けた技術と柔軟な感性があってこそなのですが、多分これからヴァイオリンは私の音楽では重要な楽器になって行くと思います。「まろばし」もこれからどんどん進化して行くでしょう。

また昨年の8thCDで収録したヴァイオリンと琵琶による「二つの月」はもう定番という感じになりました。後、やはり8thCDで収録した「西風」も最近ヴァイオリンとリハーサルを重ねているので、この三曲はヴァイオリンと薩摩琵琶のコンビでこれからがんがん演奏して行きたいと思っています。

加えて樂琵琶のシルクロード系各作品も、ヴァイオリンやフルートでもうばっちりとアンサンブル出来るようになりましたので、今回も最後に「塔里木旋回舞曲」をVi ・FL・ 琵琶でやってきました。お二人とも私と一緒に始めた当初はアドリブに手間取っていましたが、元々ハイレベルなクラシックの教育を受けてきて、20代で国際コンクールに於いてその実力を示してきたお二人なので、テクニックやリズム感はもちろんのこと、音楽や芸術に対する素養が基本的に高く、これ迄接してこなかった邦楽や雅楽に対しても、どんどんと吸収対応してくれます。お二人とももう驚くようなアドリブを弾くんですよ。凄いもんです。邦楽人では考えられないですね・・・。

また今回は笙のジョシュ君が参加してくれたお陰で、また新たな展開が生まれました。ヴァイオリン・樂琵琶・笙の編成で拙作「凍れる月」を演奏したのですが、これが今後の可能性を感じさせる良い演奏でした。彼は日本とアメリカを行ったり来たりなのですが、これからは私の演奏会に登場する機会が多くなりそうです。

今月の琵琶樂人倶楽部にて photo 新藤義久

私はこの日本橋富沢町樂琵会と琵琶樂人倶楽部を合わせて、年間17回自分で企画しています。その他小さな演奏会も時々主催しています。いずれも規模は小さいですが、10年以上に渡りこうして、自分で企画してやって来て思うのは、現代のエンタテイメント優先の音楽業界と芸術音楽のギャップですね。ジャズほどではないですが、邦楽は、業界内で招待券を回しあっているだけで、集客力は今ほとんど無い、と言って過言ではないでしょう。残念ですがこれが現実です。

現代では音楽はエンタテイメントにカテゴライズされ、ショウビジネスとして成り立たないものはやっても意味は無いという雰囲気も漂います。逆にライブハウスの村社会化も都会では著しいです。アートとエンタテイメント、ショウビジネスが常に密接に関わっている現代は、アーティストにとってはなかなか厳しい世の中ともいえます。
何千人のホールを一杯にするのもプロの実力の一つだと思いますが、売ることを優先し、売る事を目的として、音楽が食って行くための技芸に陥ったら、そこに素晴らしい音楽が流れ出すでしょうか・・・・。演者がどこを見ているか、何を想ってやっているかで、随分とその表現は変わってきますね。

津村禮次郎先生と 日本橋富沢町樂琵会にて 
私は、何時まで経っても小さな会しか企画主催出来ないですし、大した集客も出来ないので、ショウビジネスという観点で見れば、負け組みもいい所です。しかしまあこうして思う事をずっとやってきているのですから、ありがたいとしか言いようがありませんね。幸い私の回りには、素晴らしい芸術家が沢山居て、そういう芸術家たちに囲まれていますので、こうして様々なことにチャレンジしながらこれ迄やって来れたのだと思っています。また私が作曲にも活動にもチャレンジしていなかったら、こんな素敵な仲間達は集ってくれなかったでしょう。

私はショウビジネスにはとても乗れませんが、なるべく多くのリスナーに聴いてもらいたいという想いはしっかりありますので、集客も宣伝もしますし、衣装も考えます。プログラムには特に気を使って、テーマ設定から曲順まで常に考え、自分なりの努力はしています。しかしながら、どう逆立ちしても私自身はエンターティナーには成れません。まあ音楽も超のつくほど個性的ですし、この顔で、それもしかめっ面して弾いているんですから、・・・・・。こればかりは致し方ないですね・・・。
なるべく良い形で聴いていただけるように心がけるのが、私に出来る精一杯のエンターテインです。舞台に立つとは何か、自分なりの答えを持って
やって行きたい。

こうして音楽に関わって生きて行けるこの喜びを感じずにはいられませんね。

梅花の季節2019

もう日差しの中にはっきりと春を感じるようになりましたね。梅の花も咲き出して、気持ちはどうにも春に向ってしまいます。

善福寺緑地

こういう時期を毎年迎えられるというのは幸せなものです。まだ寒さが残るこの時期に、ふと見る人を包むように静かな眼差しで淡々と咲く梅花。そんな梅花を見ていると、何か包まれているような感じがします。同時に、何時まで経ってもガツガツと生きている我が身の事を思わずにいられませんね。私は何でも俺流でやってきましたが、よくまあこれ迄こうして生きてきたな、と梅花に癒されながら、我が身を振り返るがこの時期の常です。
毎年こんなことを思い感じながらも、何かを創り出すには、のんびりとはしていられないというのが現実。まだまだ私は梅花に癒されるばかりで、私自身は梅花のような静寂と微笑みには至りません。程遠いですね。当分の間ガツガツバタバタと奮闘するのが、今のところの私の役目のようです。
京都山科 東部文化会館にて
世阿弥は「住するところなきを、まづ花と知るべし」言い遺しています。何だか自分に向かって放たれているような言葉だと何時も思うのですが、ようは留まることなく変化流転し続けよという事です。その中にあってこそ、花も現じるもの。現状や伝統に安住してしまっては、花は開かないのです。一所に住することなく、他軸を持ってものを見ず、どこまでも自分の目と心で見て感じて、美を問い続ける事・・・。
なかなか厳しいですね。他のものに振り回されてどたばたとして、色んなことをやっているのは、世阿弥の言う「住するところなき」ではないのです。自分自身であり続け、自分自身が追い求めてこその変化でなければ意味がありません。この自らの内なる精神=姿勢を忘れてしまった時、音楽はただの賑やかし、お稽古事に陥り、いつしか消えて行ってしまいます。

もっと境地が高くなれば、変化し続けようとする心が、がつがつとした表面的活動から離れ、もっと内面へと入り込んで行くのでしょうが、私はまだ、自らあちこち動き回る事が必要なようです。だから色んな事を試し、企画し、飛び回っているのです。この活動が心に集約される時、一つの完成に至るのかもしれません。そしてまたそこから新たな世界へと扉も開くのでしょうね。

さて今週は,今年初めての日本橋富沢町樂琵会が木曜日にあります。前回もお知らせしましたが、ヴァイオリン、フルート、笙という今までに無い琵琶との組み合わせが、新たな世界の扉を開いてくれることと思います。琵琶の可能性を是非とも感じていただきたいと思います。19時開演です。

善福寺緑地

私は何時も梅花のような人や物を求めてしまう。でも求めているだけでは駄目ですね。自分自身が梅花のような存在になる位でなければ・・・。何も構えず、微笑みに満ち、且つ揺るぎ無い心で自然のまま居られるように、ありたいものです。
まだ梅の花は楽しめそうです。しばらく都内をうろつきながら、この豊かさを味わってこようと思います。

動き出す季節2019

暫し冬眠状態でしたが、少しづつ演奏会が始まってきました。今週は第134回琵琶樂人倶楽部にて、ベテランのメゾソプラノ 保多由子さん、ヴァイオリンの濱田協子さんをお迎えして、洋楽とのコンビネーションによる作品の会をやってきました。ハイレベルの演奏家というのはどのジャンルでも素晴らしいですね~~。

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photo 新藤義久

いつもは笛とやっている作品をヴァイオリンと組んでやったり、新たな声と琵琶の新作なども上演いたしました。相変わらず小規模の会ではありますが、演奏の方も上々の出来。満席のお客様にもお越しいただき、良い時間となりました。

2また冬眠中のお楽しみとして、ジャズのライブハウスでも遊ばせて頂きました。今回はスーパーヴォーカリスト松本泰子さんが歌ってくれたので、もうゴージャスに盛り上がり楽しかったです。
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さて、来週は今年初の日本橋富沢町樂琵会があります。既に4年目に入り、今回で18回目となります。今回はヴァイオリンの田澤明子さん、フルート・龍笛の久保順さん、そして友情出演で笙のジョウシュウ・ジポーリン君も駆けつけてくれます。皆さんジャンルの垣根を越えて音楽の可能性を探求するハイレベルな方々ですので、面白くなりそうです。

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琵琶樂人倶楽部にて、朗読の櫛部妙有さんと photo 新藤義久

演奏会をやればやるほどに、自分の音楽が明確になり、また自分が何者なのか見えてきます。琵琶樂人倶楽部も12年で通算134回やりましたが、私はがんばって毎回努力してやってきたのではなく、やりたい事をただやりたいようにやってきただけなのです。面白そうなものを持っている人に声をかけて、出てもらい、とにかく琵琶に関する事ならば何でもありで企画してきました。だから毎月大変、なんてことは一度も思ったことはなく、終わった後の打ち上げも含め、毎月楽しみでしかたがないのです。
お客さんが5人程しかいないこともあれば、今回のように座りきれない位来てくれることもありますが、毎回色々な知人友人が集ってくれて、本当に嬉しいのです。

私はずっと一人でやってきました。組織に入らず、他人の作った価値観におもねることなく、淡淡と一人でにやっているのが、私には合っていると思っていますし、これからも変わらないでしょう。でもこれまでを振り返って見ると、何でも一人でやっているつもりでも、色んな人に声をかけてもらって、そのお陰でこうして生き延びてきたな、と思いますね。
以前はある種、自分で一匹狼的なところを気取っている部分もあったかもしれません。まあそのくらい突っ張っていてちょうど良かったと思っていますが、二十歳の頃から音楽活動を始めて、もう長いことミュージシャン暮らしをしていて思うことは、結局一匹狼だろうがなんだろうが、色んな人の縁の中でしか生きられないし、それらの縁に生かされているということですね。まあ私も年を重ね、少しは柔らかくなったということでしょうか・・・。
考えてみれば、琵琶を弾いて廻って、何とかこうして生きていられるのですから、奇跡みたいなもんです。

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東洋大学文化講座にて

何しろ自分の道を歩いてゆくしかないですね。私は私、自分のペースでこれからも琵琶を弾いて廻って、どんどんと良い作品を創って行きたいのです。のんびりごろごろしているのも、そろそろ終わり。動き出す季節がやってきました。

春の気配2019

このところ天候が不安定ですね。東京でも雪が降ったり、コートも要らないくらいに暖かくなったりして、身体が追いつかないという方もいらっしゃるのではないでしょうか。それでも早、梅の花もちらほら。少しづつ春の気配を感じますね。この春への期待感があるからこそ、寒さもまた愛おしくなるというものですね。

皇居の梅

2月3月は毎度書いているように演奏会が少ないので、曲つくりに邁進(?)しているのですが、閉じこもっていると発想も出て来ないので、普段会えない方に会って芸術談義などしたり、ジャムセッションしたり、色々楽しませてもらってます。
そんな方々と近頃よく話に挙がっているのは、教えるとは何かということです。私のような年になると、皆さん活動はもちろんのことですが、教育者としても第一線でがんばっている方も多いです。残念ながら私は教える事が不得手で、未だに教室などは開いていません。まあそれでも少し付き合いのある所で琵琶を教えている生徒が数人いるのですが、先輩方々のお話を聞いていると、教える事、伝える事、伝統、継承等々これらがいかに大変なことか、年を重ねれば重ねるほどに感じます。

音や金時にて ウード奏者の常味祐司さんと
どんな楽器でも基本の弾き方を先ずは教えるかと思いますが、この基本から出てくる音は「良い音」なのでしょうか?。旧来の形の音楽や概念・感性なら、それは確かに先生の思う「良い音」でしょう。しかし新たな世代の感性からすると、それはけっして「良い音」ではないかもしれません。例えば私は樂琵琶を指で弾いたり、サムピックで弾いたりします。雅楽からすればありえない奏法であり、また音色なのでしょうが、現代の感性では雅楽の基本通りよりも、指弾きの方が心地良く感じる事もあるのです。
かつてエレキギターで歪んだ音を創り出す最初のエフェクターが世に出た頃は、録音エンジニアが「音が汚い」といって録音を拒否したということを聞きましたが、今や歪み(ディストーション)こそエレキギターの命ともなりました。旧いジャズの弾き方では、その歪みはコントロールが出来ないし、そもそも弦からして変えないと鳴ってくれない。つまり時代の感性と共に技も楽器も変わるということです。

鎌倉 其中窯にて Photo川瀬美香

「人間は最初に習った事から逃れられない」最近特にそう思うことが多くなりました。自分が最初に習った事が基本となり、常識となり、そこからしかものを見なくなる。しかしそういうある種洗脳された感性を乗り越え、打ち破っていくのが芸術というものではないでしょうか。
私は、ギターに関しては小学生の頃から個人レッスンで先生について習っているので、自分でも解らない程にかなり一定の思い込みや洗脳があるのだと思います。だからこそ自分の音楽を開花させる為には、ギターではなく、自分の中で色のついていない楽器、つまり琵琶が必要だったのだと思っています。

私は今、四季を題材とする組曲のような作品を創っています。声を伴った作品はやはりオリジナルの形で創るべきだろうと思っていたところ、私の想いを汲んで歌詞を書いてくれる方が居まして,作曲に取り組んでいるという訳です。大声張り上げて押し付けるようにストーリーテリングをする、従来の琵琶唄ではなく、雅楽の焼き直しのようなものでもなく、声を和楽器、雅楽器と共にアンサンブルさせて行く作品にすべく、あれこれと頭の中を廻らしています。

型に乗っ取るのは、一見伝統の継承のような気がしますが、現在でもその型が社会の中に生きていなければ、ただの焼き直しに過ぎません。声と楽器という部分は普遍だと思いますので、普遍の部分は大事にしつつ、当然と思っていたような頭の中のこだわりを開放して行きたいと思っています。
私は琵琶の師匠に細かく教えられた方ではなく、「好きなように弾け」といわれてきた方ですが、それでも最初に習った事はどこかで、創作に於いて「足枷」になっている部分もあるかもしれません。そこを取り払って創りたいですね。

日本橋富沢町樂琵会にて、津村禮次郎先生と
私はけっして伝統を守るというタイプではありません。むしろ最先端を創る、そのためには壊すというスタンスです。しかしながら何時も思うのは、歴史や伝統を繋げ伝えて行くには、守るより創るというスタンスの方が良いのではないかということです。その位でないといくら優等生を量産しても歴史は続かない。創るにはあえて壊す位の旺盛な創造力がないと、流れの速い現代に於いてはあっという間に形骸化して、何を祭っているか判らないお社のようになってしまいます。今衰退の極みにある邦楽・琵琶楽はどうするのでしょう・・・。まあ私が心配してもしょうがないのですが・・・。

若き日 笛の阿部慶子さんと京都清流亭にて

一斉に芽吹く花や草木=生命はただただ純粋に美しいのです。人間の作り出した小賢しい囚われなど、生命の前には何の意味も無いし役にも立たないのです。
古代から続く琵琶楽は、それ自体他に例の無いものとして、日本の生命ともいえるほどに素晴らしいですが、その周りにまとわり付くものをしっかりと見極めないと、いつしか自らが作り出した目の前の形に振り回されて、本来の生命の輝きを見失ってしまいます。音楽、芸術は世のルールや因習を乗り越え、時間も時代も乗り越え、生命を謳歌することこそがその使命ではないでしょうか。そのために音楽があり、芸術があるのではないでしょうか。

音楽芸術に携わる者は、何ものからも自由に精神を羽ばたかせていて欲しいですね。春という季節は、自らの生命の純粋さを見つめ、世に溢れるけれんや因習をさっぱりと洗い流し、本来の輝きを取り戻す季節なのでしょうね。
春を待つ日のつれづれに。

夢のお告げⅢ

今は無き吉野梅郷の梅花(左) 今年の皇居の梅(右)
早1月も終わり、2月に入ると、毎年何ともいえない時の流れの速さを実感します。梅の花も気になるのですが、同時に花粉も気になるこの頃ですね。まあこういう時期には、家に篭って作品を作っている訳ですが、うとうととしながら妄想を逞しくしてあれこれ考えているせいか、毎晩色んな夢を見ます。

私はこんな稼業ではありますが、生活はわりと規則正しい方で、12時頃になれば眠くなり、朝は7時には起きるという、およそ音楽家らしくない真面目(?)な生活をしています。そしてほとんど毎日、荒唐無稽な夢を見ます。何故なのかは判りません。怖い夢はほとんど見ないのですが、最近はもうずっと逢っていないような友人知人が出てくる事が多くなりました。

私には夢判断は出来ないし特殊能力も無いので、それらの夢が何を示し伝えているのかは、一向に判りませんが、見た夢を思い出してみると、その内容は普段から思っていること、感じていることに大体沿っているような気がしています。そう思うと自分にとって今一番やりたい事は何なのか、足りないところは何なのか・・・・見えないこともない・・・?。

山頭火・鴨長明

私は子供の頃から、山の中でひっそりと暮らしたいという隠遁主義みたいな部分を多分に持っていまして、西行や鴨長明、尾崎放哉、山頭火などにはどうにも惹かれてしまうのです。現代社会は、人と人がちょっと近過ぎる。SNSで繋がっていないと孤独を感じてしまったりするメンタリティーは、私にはちょっと異常なものに感じますね。
もちろん都会の喧騒の中に身を置いているからこそ、音楽活動が展開して行くのは重々承知していますが、人間はもっと静かな時間を過ごすことが基本的に必要なのではないか、とよく思います。個としての存在があるからこそアンサンブルが豊かになるのであって、個の自立や孤独に目を瞑って、目の前の楽しさを追いかけ、振り回されていたら、質の高いものは生まれて来ないし、世の中も良い方向には行かないと思うのは私だけでしょうか。
音楽がやたらと派手になり、音数が多くなってきているのも、時代の流れであると共に、人が自分の時間を静かにゆったりと持つ事がだんだん出来なくなってきている表れではないか、と思うこともあります。
キッドアイラックアートホールにて。
ダンス:牧瀬茜、Asax:SOON・KIM 
映像:ヒグマ春夫

私にとって、舞台は夢の中そのものとも言えるので、貴い孤独の中で色々と夢想する事と共に、舞台で体験する事は、そのまま夢の記憶の中に蓄積されて行くのでしょう。きっとそうした蓄積が夢となって表れるんでしょうね。また夢に出てくる場面が思いもつかないシチュエーションになって、様々な登場人物が出てくるのは、舞台で出現する異空間を常に我が身に体験しているからなのかも知れません。演奏する中で、様々なドラマを曲の中で創っていますからね・・・。

舞台でも音楽でも、芸術全般に於いて何時も思うのですが、その現場は常に非日常ということです。舞台だろうが、創作している時だろうが、芸術に心を寄せている時は、常に現実を越えているのです。また感性が現実を越えないようでは、ものは見えてきません。自分の喜怒哀楽に囚われて、心が現実を離れないと、自分の身の回りにしか意識が渡りません。そういう心情ももまた音楽を生み出すとは思いますが、時を越え、国境をも越え、共感され受け継がれて行く芸術音楽には成り得るとは思えません。

西
我々はいわば、音楽をやることで夢の語り手になっているといっても良いかと思います。琵琶の音に、想いを乗せて表現して行くことは、そのまま夢の世界を創っていることと同じなのでしょう。
西行は常に月や花を想い、人生そのものが夢の中にあって、その想いの中で自らの終止符もつけた人ですが、私も起きている間は音楽の事を考え、寝てもまた夢を見ている。つまりしょっちゅう夢の中に居るという訳です。西行のような芸術的センスもレベルも無いですが、同じような人生なのかもしれません。

なるべく長く夢を見ていたいですね。夢を見て、夢の世界を創り出す人生も、なかなか気に入ってます。

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