古より明日へ

令和が始まりましたね。平成30年間は日本が衰退した時代とも言われる中、これから日本は何処へ向かうのでしょうか。かつての目の前の景気を追いかけるような軽薄な時代にはなって欲しくないですね。賑やかしのエンタテイメントではない、洗練された日本文化が深まり、興隆する豊かな時代と、是非ともなって欲しいものです。そしてまた何故この30年が衰退の時代だったのかも、しっかりと検証すべきだと思います。

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私は音楽家として、琵琶楽を何としても芸術音楽として世界に出して行きたいですね。そのためには言葉の問題はこれから大きな課題となって行くでしょう。そして何を語り伝えるのか、そこがこれから問われる事と思います。
マーケットがもう国内に留まらず、世界が相手になった以上、これまでのドメスティックな村意識では、変らないどころが衰退しか招きません。民俗芸能はそれはそれで素晴らしいものだと思いますが、民族音楽というくくりの中に居ては、あくまで珍しいアジアの一地域の音楽というところを越えらず、クラシックやジャズと同様の世界標準の芸術音楽としては聴いてもらえません。
現在の薩摩琵琶は、曲自体が大正昭和の軍国時代に作られたもので、内容的にも既に現代日本人にすら理解できないものが多いのです。忠義の心など歌われても、どう反応して良いのか・・・・。世界に視野を向けたら、このままで良い訳がありません。誰の目にもそう映っているはずです。今変らなければ薩摩琵琶は本当に滅んでしまうかもしれません。そう思っているのは私だけでしょうか・・・・。
永田錦心そして西洋音楽を取り入れた新しい琵琶楽を創造する天才が現れるのを熱望する(意訳)
かつて永田錦心は、こう言って芸術音楽としての琵琶楽を、世界に向けて発信したいと願っていました。洋楽云々という所は今の時代からすると?な感じを持つ方も多いでしょうが、そういうことではなく、視野が世界に向い、芸術音楽として琵琶楽を確立したいと願った事が熱く伝わってきます。しかしながら弟子たちにはその志は伝わらず、新しい琵琶楽の創造も、世界への進出も、誰もしなかった。結局錦心流から飛び出た鶴田錦史が、世界への第一歩を武満徹らと共に踏み出したのです。
残された形を真似る事は出来ても、志を継ぐ事はそう簡単に出来るものではありません。永田錦心もさぞ嘆いていることでしょう・・・。

鶴田錦史以降、海外公演なども少しづつやる人が出てきましたが、演奏しているのは、流派の曲だったりノヴェンバーだったり、まだまだ既成のものをやっているだけで、新たなスタイルを打ち立てて勝負した人は、残念ながら居ませんね。お稽古事の延長をやっているようでは、結局珍しい楽器のパフォーマンスという域を出ません。海外に行った時にこそ、音楽家としての哲学を持ち、音楽で独自の世界を表現して欲しいものです。それにしても何故何でも自由に出来るこの時代に、自分の音楽をやろうとしないのでしょうね・・・・。

イルホムまろばし5
ウズベキスタン タシケントのイルホム劇場にて 私の代表作「まろばし」を現地の音楽家達と演奏
編曲と指揮はアルチョム・キム バックはオムニバスアンサンブルの面々

私は私なりのやり方しか出来ませんが、国内でも国外でも、どんな場所だろうと、今まで通り私の創った音楽をやります。その自分の世界を創り上げる為に、雅楽から始まる千数百年年以上に渡る琵琶楽を勉強しているのです。軍国時代のものばかり見ていても古典の勉強にはなりません。古典があるからこそ前衛が存在するのです。過去を学ぶことこそ明日への第一歩。それが音楽家としての矜持ではないでしょうか。
幸い、今はネット配信等の技術が後押ししてくれることもあり、海外からの問い合わせも少しづつ多くなりました。ここ数年で台湾の音楽家が私の作品を取り上げて、リサイタルで何度か演奏してくれた事も嬉しかったですね。こういう動きがもっと広がるように、作品創りも演奏活動も、世界を対象にした活動を繰り広げて行きたいと思います。

今こそ、この新しい時代にこそ、永田錦心の志を持って、琵琶楽の素晴らしさを世界の人に聴いてもらう時ではないでしょうか。

歌舞伎のように「人を楽しませる」のを目的として、つまりエンターティナーとして、高いレベルを目指すのか、それとも日本の精神性や哲学をもって「表現するもの」としてやって行きたいのか。この区別をはっきりとさせるべきです。日本ではこの辺がごちゃ混ぜになっていて、芸能と芸術の区別がない。国内だけでドメスティックな視線でやって行くのならそれでも結構かもしれないけれど、世界を視野に入れたら、自分のやっている事がどういうものなのか、態度とスタイルをはっきりさせなければ、中途半端なものとしてしか評価されず、ただの珍しい民俗芸能としてしか見られない。

私は音楽をやりだした子供の頃から歌謡曲やポップスは苦手なので、表現行為として音楽をやって行く方が向いていると思っています。なんの主張も哲学も無く、売ることを優先としているものは、私には向きません。
是非とも器楽としての琵琶楽をもっと創り、この妙なる音色を届けたいですね。
2016川瀬美香写真2s
北鎌倉其中釜サロンにて Photo 川瀬美香
少し宣伝です。
top_heike_book_on5月6日より、NHKeテレの「100分de名著」という番組が4回に渡り放送されます。今月のテーマは平家物語。解説が能楽師の安田登さん、そして私が琵琶の演奏を担当しております。安田さんは平家物語を通して、平安時代と中世以降の組織論の違いなど、いろんな視点で解説をしてくれます。
この新たな時代に「平家物語」などの古典をもう一度見直すことは、日本人の感性を磨き上げることに通じます。そして海外に出て行く時にこそ、日本人としての感性と文化が問われるのです。英語をしゃべる事も必要ですが、それは単なるスキル。大事なのはどんな文化と哲学を持って生きているのかという部分です。スキルがあっても中身がなくては何にも表現出来ません。問われるのは英語力ではなく、お上手な演奏でもなく、何を語るかなのです。かつて鈴木大拙は英語で世界に向けて仏教を語り、日本の文化を世界に広め、日本文化の奥深さを知らしめ、そこから禅ブームなどが海外に沸き起こりました。代表作として知られている「禅と日本文化」は、大拙が英語でスピーチしたものを、日本人が日本語訳した本です。
是非これからの琵琶人には、英語で、そして演奏で日本の古典の魅力、琵琶の素晴らしさを熱く語り表現てほしいのです。
是非御覧になってみてください。
番組HP:https://www.nhk.or.jp/meicho/index.html
令和の時代を豊かな文化の時代にして行きたいですね。軍国時代の歌を歌っている場合ではないですよ。世界に目を向けて、高らかに日本文化の素晴らしさををうたい上げることこそ、私達の使命。
令和は私達のこれからの志と活動にかかっています。

プロの条件Ⅵ

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先日は毎年恒例の半蔵門ヒロサロンにて、フルートの久保順さんと演奏してきました。昨年はViの田澤明子先生との演奏でしたので、このサロンでは洋楽器とのコンビが今後定着して行きそうです。順さんの「着物でフルート」のスタイルも、もう定番になりつつありますね。

今年の4月は例年になく何だか妙に忙しかったのですが、この演奏会で一段落。このGWはじっくりと曲創りに取り組めそうです。以前記事にした「四季を寿ぐ歌」と独奏曲・弾き語り曲の見直し、新作の構想練りなどやりたい事はいっぱいあるのです。
先日アドラー心理学に詳しい知人に色々と話しを聞かせてもらいました。最近何かと話題ですが、話しを聞いてみると、何だかいつも私が考えていることとかなり近く、自分の普段のスタイルを後押ししてくれるようで、元気が出ました。
「他を軸としない」、「肩書きを追いかけない」、「自分の目的を優先する」「共演者が輝くような曲を書く」・・・等々、邦楽の世界に足を踏み入れて、私が感じたことそのままを、あらためて言ってくれている様な気がしました。現在の邦楽界はこれら全てが全く逆ですね。
最近では承認欲求という言葉もよく聞かれるようになりましたが、我々舞台人は、常に評価をされてナンボなので、自己顕示欲や承認欲求は舞台人として大事なところではありますね。しかしそれが、おかしな所に傾くと、もはやアーティストではなくなります。
プロ活動を始めると、いつしか売れる為、食う為に、技術を切り売りするかの如く何でもやるようになりがちです。売れなければ意味は無いとも思うようにもなるでしょう。確かに音楽で生きて行くには稼がなくてははいけません。その気持ちは切実ですし、身に染みて良く判ります。音楽で食べていくことが出来ないのでは、もはやプロとはいえませんからね・・・。
松林図1
松林図屏風
中世の日本画家 長谷川等伯は、寺が新しく建立されたと聞けば営業をかけ、常に帳簿をつけて一門を従えて経営にいそしんでいたそうです。しかし長谷川等伯はそういう食って行く為の営業に振り回されて、自分の目的を忘れるような事はなかった。何処までも自分の目的を達成する為に何が必要か、ということを考えていたのです。でなければあれだけの作品は残せません。つまり営業活動に隷属はしなかったということです。
食って行く為の芸に陥り、食う事が目的になって、有名になりたいという承認欲求に傾いた時点で、芸術家音楽家はお終いです。生きて行くにいろんな努力が必要なのは、どの職業でも同じ事。しかしそこに囚われていたら目の前の承認欲求は満たされても、本当に自分が思う「自己実現欲求」は満たされません。いつしか承認欲求の奴隷に成り下がって行くだけです。まあそうなる人は、その程度の器でしかないということですが・・・。

トルクメニスタン アシュカバッド マフトゥムクリ記念国立劇場にて
私はどんな演奏会でも、ほぼ100パーセント自分の作曲した作品を演奏するので、技術の切り売りということは無いですが、とにかく作曲が自己実現へのキーワードです。評価はもちろん気にならないといえば嘘になりますが、とにかく何を言われようが、自分がやりたい事を「仕事」として実現して行くのが、一番の目的です。
私は曲を書くときに共演者を想定して書くのですが、共演者が変った時には、前のやり方を押し付けるのではなく、自由に解釈してもらいます。そして共演者が「これは自分の曲だ」と思える位に、とことん曲に向き合ってもらって、それから共演します。だから相手が変われば曲はどんどん変わるのです。しかし形が変れど、コンセプトの舵取りは常に私がしっかりやっているので、私がやろうとしていた事は確実に実現します。そのようにフレキシブルに私自身が対応するのです。相手の個性を生かしつつ、私の軸も揺らがせない。このバランスが保てるからこそ、あらゆる場での演奏活動が実現し、私の思う表現も実現するのです。
相方に思う存分活躍して欲しいですし、相方の演奏が生きてこそ、音楽がまた新たな命を得て輝くというもの。しかし相手の個性や魅力を生かすだけでは、私の音楽は成立しません。毎回再構築して行くという訳です。つまり私は作曲家であり、プロデューサーであり、そして演奏家なのです。プロとはそういうことが出来る人だと思っています。上手に演奏するだけではないのです。そしてこういう考え方は、明らかにマイルス・デイビスの影響だと思っています。
私が実際に聴きに行ったライブアンダーザスカイ 85年と新宿(現在都庁のある場所)での野外公演81年

今、伝統と呼ばれているものは、ほとんどが明治以降や昭和以降というものが多く、「伝統ビジネス」などと揶揄されていますが、音楽を聞かせることよりも、形や権威付けをしたがったり、偉くなりたいと思うその本質は正に承認欲求です。つまり自己肯定感が低過ぎるのです。肩書きつけて偉くなるよりも、素晴らしい音楽を創り上げるのが音楽家の目的なはず。本来の自分の目的を忘れずに、成就して欲しいですね。そのためにももっと自分のやっていることに自信を持って欲しいのです。

キッドアイラックアートホールにて ASax:SOON Kim Dance:牧瀬茜 映像:ヒグマ春夫 各氏と

時代と共に様々な形が出来上がり、色んなやり方があって良いのです。個人が世界に向けて発信するこの現代には、現代のやり方があるものです。かつて50年ほど前、鶴田錦史の演奏に日本音楽の最先端を感じ、現代邦楽に皆が熱い想いを持って耳を傾けた時代がありましたが、もっと遡れば100年程前、大正時代辺りには、永田錦心や宮城道雄の創り出した、あの最先端の日本音楽に世の中が熱狂し、それを受け継ぎ、次世代に向けて次の最先端を創り出そうという熱い志も確かにかつてあったのです。今また新たな価値観、やり方、スタイルが出てくる時期に来ているように思います。

プロとして活動できる邦楽人がどんどん出て来て欲しいですね。

一息一命

ちょっとご無沙汰しました。4月は例年ですとわりに時間があるのですが、今年は妙に忙しく、演奏会で手一杯でした。

先日、第19回日本橋富沢町樂琵会にて、尺八の矢野司空さんをお迎えして演奏して来ました。

矢野さんはご存知の方も多いかと思いますが、現役のお坊さんであり、「尺八説法」という形で長いこと活動を続けている方です。今回は本曲「本調」「松巌軒霊慕」を演奏してくれましたが、説法の方は、「息」について色々とお話を頂きました。

とにもかくにも今回は、本曲の魅力をたっぷりと味わうことが出来ました。素晴らしいの一言!!。音に命が宿っているというのは正にこのことですね。本曲が始まると静寂が会場を漂い、気の流れを感じるような空間に変るのです。最弱音の中に細やかな息使い一つ一つが表われて、命が尺八を通して鳴っているようでした。これには会場のお客様も唸ってましたね。こういうものに接すると、上手とか何とかそういう低次元の言葉は出てきませんね。
ビュービューと鳴らして、ポップスを吹いて喜んでいるような尺八奏者が多い中、久しぶりに本来の尺八の真髄「一音成仏」を聴いた気分でした。
日本橋富沢町樂琵会では今迄にも、能の津村禮次郎先生始め、こういう日本文化の真髄を演奏する方にお越し頂きましたが、これからもこういう本物の和の文化をどんどんと応援して行きたいですね。

この日はもちろん拙作「まろばし」も演奏しました。「まろばし」は「一音成仏」という尺八の世界観を現代に新たな形で表してみたい、という志で作曲したものですが、リズム・メロディー・ハーモニーという洋楽の3要素を用いず、琵琶と尺八が音で会話をしてドラマを造って行くように作曲されています。尺八奏者にとっては、自由に思いっきり自分の世界を出せる曲であるだけに、奏者によって全く異なる表現が可能であり、且つ奏者の持っている世界やレベルがそのまま出てしまうという、ある意味恐ろしい曲です。
若手の演奏と、ベテランの演奏では全くアプローチが異なりますし、同じ世代でも視点や感性の違いなども、そのままダイレクトに出てしまいます。もうかなりの数の尺八奏者と演奏しましたが、実に面白かったですね。

司空さんはジャズも聴いてきた方ですし、アンサンブルもやって来た方なので、いわゆる尺八オタクのような狭い視野の演奏家とは全く違うのです。音程やリズム感などの技術もしっかりしていますが、洋楽的なそれではなく、尺八らしく表現されているのがいいですね。

正に現代の一音成仏を目指した「まろばし」にはぴったりの方とも言えます。
そして今回の説法は「息」についてお話をいただきました。
「意識して普段から呼吸をしている人は居ないですね」という所から始まり、呼吸をしなければ人間は生きて行けないのに、意識して呼吸をしていない、自分の意思ではなく何かによって生かされている。いったい何によって生きているのか・・・・。この辺から仏教的な話しを色々としてくれたのですが、
言われて見れば、普段は何の意識もせずに呼吸をしていますね。毎日自分で「生きてやる!!」といって呼吸をしている訳ではないですからね。こうした当たり前のことをよくよく考えてみれば、この命は何なのかというというところに辿り着くのは必然だと思います。私も説法を聴きながら、あらためて感じる事が大いにありました。

遠い昔、音律は物理の原則を究極的に表したものとされ、音律はとても神聖であり、音楽は政治支配には欠かせなかったそうです。大陸では何千年も前の古い遺跡から調律を施された楽器が出土していますが、そういうことを見ても、音律そして音楽は国にとって大事なものだったのでしょう。音律は世の成り立ちを表すものであり、音楽は正に生命そのものを示すものとして考えられていたようです。事実日本の雅楽でも、各調子には季節や方角、色など色々な決め事があり、人体や社会の何処に対応するかまで理論付けられていました。権力者がいかに音楽を重要視したかが伺えます。
まあ権威権力は別として、音がそのまま生命であると感じた古代の人の感性は、随分と鋭かったのではないでしょうか。きっと雷鳴や風の音にも多いなる命を感じていたことと思います。今のように音楽=エンタテイメントとしてしか受け取ろうとしない世の中では考えられませんが、尺八の古典本曲などは、その一息がそのまま命の一息だったのでしょう。そういうものがまだ現代に脈々と受け継がれているというのは素晴らしいですね。

歌って踊って、みんなで楽しんで・・というお祭り的な舞台が今やどんな分野でも主流ですが、じっくりと音楽を味わい、感性を羽ばたかせて、心を豊かにする音楽や音色は、しっかりと受け継いで、次世代に伝えて行きたいですね。それが私の使命のような気がします。

毎度小さなサロンコンサートではありますが、素晴らしい時間となりました。

雨にむかひて月を恋ひ

この所は温度差が大きく、着るものも何を着てよいのやら判断がつきません。体もついてゆきませんね。月初めは花見にかこつけて、ふらふらと出歩いていたんですが、先週は琵琶樂人倶楽部、そして横浜イギリス館での演奏会をやってきました。花粉の時期も過ぎたので、久しぶりに弾き語りでの演奏でしたが、声が充分に出るというのはやはり気持ちの良いものですね。

新宿御苑

徒然草に「花は盛りに、月は隈なきをのみ見るものかは。雨にむかひて月を恋ひ~」という一節が出てきます。まあ群雲の掛かる月なんてのは、それ自体風情があって良いのですが、見えないからこそ、心の中に月の美しさを感じるのでしょう。花の盛りも目の前にすると実に気持ち良いものですが、本当の美は目ではなく、心で感じるもの。葉桜を目にするからこそ、その盛りを心に描き、また次の年を待ち焦がれるのでしょうね。
何事も形や装飾をそぎ落としきった所にこそ、本来の美が表れるという感性は日本文化の底流として、ずっとありますね。それがなかったら、平安時代の和歌も、中世の茶道、華道、能なども生まれなかっただろうし、日本人の心は別のものになっていたことでしょう。

人はとかく目で見る情報に囚われてしまいます。いつもよく書いている、宮本武蔵の「観の目強く,見の目弱く」という言葉は、なかなか現代人にこそ必要な教訓だと思います。音楽でも食べ物でも情報でも、あらゆるものが溢れるようにある現代の世の中で、何でも選択でき、何処にでも自由に行け、便利で、楽で、考えることを必要としない・・・・。そんな現代に生きる我々は、観の目がどんどんと弱くなっていくばかりです。

音楽の世界も、目で見るような音楽ばかり。感性が震えるようなものは本当に少なくなりました 。レコードを食い入るように聴いて、アドリブの一つ一つを全て記憶するように育った私としては、今の音楽はビジュアル先行で、音楽が聞こえて来ないですね。邦楽でも、派手な衣装に身を包んで、歌あり、踊りありで演出を懲りに凝って舞台をやるのが「凄い」「さすがプロだ」ともてはやされますが、それはショウのステージとしてはプロでも、音楽としてはどうなんでしょうかね・・・・?。私には邪魔なものが多すぎて、そこからは音楽はほとんど聞こえてきません。正に食って行くための芸に成り下がった、末期の姿という風に私には見えます。

さて、今月18日木曜日には第19回の日本橋富沢町樂琵会があります。今回は尺八の大ベテラン、矢野司空さんがゲストに来てくれます。司空さんは山本空外師に師事した僧侶でもあるので、色々なお話もしてくれます。これが実に面白いのです。
「一音成仏」とは尺八の世界でよく言われる言葉ですが、あらゆる装飾を取り払い、美をも取り去った後に、溢れ出る日本感性の真髄が聞こえてくるのが尺八古典本曲です。この風土が長い年月を経て育んだ、日本独自の感性は、時代を超えて必ず届くと思います。もちろんそれだけ演者のレベルがもっとも問われる音楽でもあります。今回は矢野さんは「松巌軒霊慕」という本曲を演奏してくれます。必聴ですよ。

是非「観の目」で聴いて、心の中に豊かな世界を感じて下さい。

花の姿 人の姿2019

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左:善福寺緑地、花見の宴、右:新宿御苑

今週は桜満開ですね。今年もいつもの花見仲間と近くの善福寺緑地で盛り上がってきました。こうして花の姿を見ていると、本当に多くのことを想い、感じますね。
今度の元号も、梅花の歌から取ったそうですが、私が何時も歌っている「嘉辰令月」にも通じていて、何だか嬉しいです。色んなことを言う人もいますが、私はこれからの世を寿ぐような感じがして気に入りました。

善福寺緑地

毎年こうして花見が出来るというのは実に幸せな事だとつくづく思います。散り行く桜なんか、何ともいえない風情があって、何だか浸ってしまいますね。ただ近頃は美しいだけでなく、その姿に生死というものもかなり感じるようになりました。年を取ったということなんでしょうかね・・・。

存在するものは皆、死を内在しているのは世の習い。古から諸行無常やパンタレイと言われるように、すべてのものは常に移り行くものであり、永遠に変らないものは何一つありえないのです。死のない生はありえないし、生のない死もまたありえない。だからこそ、限りある命だからこそ、その生の輝きが美しく感じられるのかもしれません。

蕾が脹らみ花を咲かせ散り、新しい葉が出て来て、紅葉し、枯れて、また蕾が脹らんでくる花の姿を一年を通し見つめていると、その姿に命の営みを感じずに入られません。そしてその生き様や使命、その場に咲く運命等々、色々な想いが湧き上がって来ます。私のように人生折り返し地点に来ると、何に接しても、そんなことを思ってしまいます。人でも花でも全ての命には生死が定めとしてあり、また何かしらの使命がある。そこに生きる何かしらの理由もある。最近はそんなことをよく想います。
岡田美術館にて
私自身は平凡な人間ではありますが、私という人は世界に一人だけですし、他の誰にも成り得ない。言い方を変えれば、他の人には出来ない特別任務を背負っているとも言えます。きっとこうして琵琶を弾いて回っているのも、与えられた使命なのかもしれません。私は好きでやっているだけなのですが、考えてみれば、今ここに導かれたと思うことが本当に多々有り、これ迄こうして、どうにかこうにか琵琶弾きとして生かされてきた事を思えば、琵琶を弾くということがそのまま私の存在理由でもあると思います。

私の音楽はどんな風に聴かれているのか、私には判りませんが、薩摩琵琶はとかくそのパワフルな弾きようや、大声を放つ様が目に耳につきやすいものです。しかしそんな表面的な強さや、多少のお上手さを見せているようでは、まだまだですね。常にそういう所に寄りかからないように自重しています。
表面の体裁を繕い、立派な名前や肩書きに飾られていても、小器用なテクニックでうたい上げても、表側をなぞっている音楽は低俗の極み。ましてや平家物語をやるのであれば、言うまでもないでしょう。消え入るようなかすかな音にも、その中に滔々と流れる命の営みが満ち、力強い音にも、その裏側に滅び行く姿が内在して初めて何かが語れるのと思うのは私だけではないでしょう。こぶしまわして哀れだの何だのと大声上げているような演奏がいかに薄っぺらいものか、聴く人はすぐに判るものです。そんな心で平家物語を舞台で演奏する事は、私には出来ません。
photo 新藤義久

今年は私個人にとっても色々と変化して行く年になりそうです。先日書きました「四季を寿ぐ歌」も今年中には完成すると思いますので、樂琵琶・薩摩琵琶共に充実のプログラムを組んで行けると思います。自分の世界がより明確になるだろうし、それに伴って活動のやり方も少しづつ変化して行くことでしょう。環境も変わって行くかもしれません。今はそんな時期だと思っています。

毎年楽しませてくれる梅や桜も、毎年その姿は変ります。長い間通って眺めていると、満開の豪勢な姿を魅せてくれるものばかりでなく、勢いが無くなってしまったもの、その寿命を終えたもの等、様々な姿に出会います。私もいつかはこの命が尽きる時が来るでしょう。それも私に与えられた運命、使命なのだと思います。私が残した音楽が誰かに、何かを感じさせ、そこからまた新たな音楽が生まれていったらいいな~~、なんてことを想いつつ、今年も花に酔い、酒に酔い、この一瞬の輝きを楽しませてもらいました。

たとえ密やかであっても、自分らしく自分の花を咲かせたいものですね。

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