
NHKeテレの「100分de名著」は大変好評の内に、4回の放送を終了しました。色々な方からご意見を頂き、本当にありがとうございました。ちなみにこんな感じでした。雰囲気出てます・・・?。
先月は、番組で解説と朗読をしている安田登先生に声をかけてもらって、幾つか小さな会をやったのですが、今までに無い面白いライブをやる事が出来ました。
私はこれまでも結構、色んなジャンルの方々とやってきましたが、新たな出会いはまた新たな出会いを生むものですね。私の発想を越える面白かったライブをちょっとご紹介します。
先ずは浪曲師 玉川奈々福さんと安田先生、そして私による「耳なし芳一」。それもただやるのではなく、原本である英語版を和訳して、新たな解釈での上演でした。出来合いのエンタテイメントに終わらずに、意思を持って作品を上演出来たことが良かったですね。語りは安田先生、奈々福さん共にさすがのもの。これは「縁側ラヂヲ」https://engawaradio.com/ にて、早速公開になったようです。
そして次は天籟の会主催によるイベント、屋形船での「船弁慶」。安田先生、私そして狂言師の奥津健太郎先生の3人での上演。これに当日飛び入りで能楽師の加藤眞悟先生も一節、知盛の役でお出まし願うという豪華メンバー。これは勿論とても面白かったのですが、その後に笑福亭笑利さんによる落語「船弁慶」も上演されました。
落語船弁慶は滑稽な人情話なのですが、ラストに加藤先生が詠った知盛の台詞がそのまま出てくるのにはびっくり、「雷お松」の放つその台詞に、舟に居たお客さんもヤンヤの喝采!!。普段ほとんどエンタテイメント系の方とご一緒する事が無いので、ここ一月は実に貴重な体験をさせて頂きました。
狂言師の奥津先生が「明治頃までは普通の庶民が謡曲や浄瑠璃の稽古をしたりするのは、ごくごく日常の事で、それがあったからこそ落語船弁慶の滑稽な話も楽しめる。先行する古典芸能ももっとがんばらなくては!」とおっしゃっていましたが、本当にそう思います。
西洋のものでもシェークスピアが判っていないと理解出来ないギャグもあるでしょうし、仏教の事が判らない人に「石堂丸」なんて聞かせても全然中身は伝わらない。滑稽な話こそ、そうした下地がないと成立しないのです。
左:浪曲師 玉川奈々福さん 私 右:能楽師 安田登先生
せっかく長い歴史を誇る日本なのですから、その文化も繋がっていてこそ意味がある。日本文化を広める為に邦楽器で洋物ポップスを演奏するよりも、こんな一流所の越境ジャンル企画を聴かせれば、皆が満足し、且つ大爆笑出来る。またそれをきっかけに古典への興味も出てくる。是非プロデューサーや企画をする人は考えて欲しいものです。
私のように前衛を走ろうとする人間には企画はなかなか出来ませんが、こういう和の企画は実に興味深いです。残念ながら私は気の効いた事は言えませんし、相変わらずの仏頂面ですが、こうした充実の企画でしたら、演奏の方で充分に応戦出来そうです。
photo 新藤義久
5月は両親の命日で墓参りなどにも行ってきたのですが、前回書いた、大柴譲治牧師や久しぶりの友人との再会もあったし、ちょっと旅行も出来、色んな方にも出会いました。ここ一月で今まで経験した事のない色んな仕事もさせてもらえました。人でも物でも経験でも、出会いは新たな視野と発想を生むんですね。これも両親のお導きかもしれません。大いに刺激を得た一月でした。
最近は素敵な音楽に触れると、すぐに涙もろくなってしまいます。まあ感性豊かともいえるかもしれませんが、いい年になったということですかね・・・。特に素晴らしい歌を聴くとたまりませんね。歌はその人独自の声質と心の在りようがそのまま出てしまうので、上手に歌おうとするような邪念俗欲な心が見えてしまうものは、私にはいただけません。何処までも素直で清らかな歌が好きですね。
先日、私のお気に入りのメゾソプラノ ジョイス・ディドナートをYoutubeで聴きまくっている時に、おすすめで出てきたのがこれ。いきなりやられてしまいました。こんなやつが身近に居たら人生変りそうです。
ヘンデルの歌曲は特に好きなんですが、この「Lascia ch’io pianga~私を泣かせてください」(涙のながれるままに と訳されることもあります)は若き日にカウンターテナーのヨッヘン・コワルスキーを聴いて大感激して以来、色んな歌手の演奏を聴いています。久しぶりにガツンとやられました。
これは恋人を想う歌なのですが、こんな清浄な心のままに描かれる曲は、日本には少ないですね。どうしても日本の歌は私小説的、個人的な小さな世界になりがち。もっと普遍的で大きな空に届くようなものはあまり聴いた事がありません。日本には浄土へと旅立つ世界観などもあるのですが、日本の音楽に於いては、大きな世界を感じる曲は少ないですね。
以前「アベ・ヴェルム・コルプス」のイントロ部分をオーケストラバックに演奏させてもらった事があるのですが、大合唱を背にしてステージに居ると、正に身も心も清められるようでした。レ・ミゼラブルやフランダースの犬のラストシーンのような、穢れの一切が消え、清らかな心となって天に召されて行く様な世界観は、八百万の神の日本の風土には合わなかったのでしょうか・・・。
ちなみにディドナートの歌声も是非
バロック時代の伝説のカストラート ファリネッリの生涯を描いた映画「カストラート」を以前観た事があるのですが、あの中でもこの「Lascia ch’io pianga」はとても印象的なシーンに出てきましたね。興味のある方は是非検索してみてください。youtubeにも出ています。
私は、どうしても最期には清浄な世界に行ってしまいます。それは永遠の憧れであり、理想なのです。それは多分に普段の自分が俗にまみれているからでしょうね。
もう25年程前に波多野睦美さんの演奏会に初めて行った時、あの声が耳ではなく皮膚に沁みるように伝わってきて、そのまま包まれてしまうようになったのを今でもよく覚えています。そういうものに触れると、もう駄目ですね。自分の音楽も純粋で大きな世界に心が飛んで行くようなものでありたいものです。タイプは違えど、60年代のコルトレーンやラルフタウナーの澄み切った世界、デビットラッセルのあの淀みもけれんも無いピュアな音色、アルヴォ・ペルトの深遠・・・etc.私には届かない世界なのでしょうか・・・・。
ルーテルむさしの教会にて
私が琵琶唄に関して、自分で創ったものしかやらないのは、旧来の琵琶曲で、そんな清らかさを感じるものが何も無いからです。ましてや上手に歌おうとしてコブシしまわして得意になっていたり、大声張り上げて、忠義だ正義だと、そんな力やイデオロギーを誇示するようなものは俗の極み。加えて肩書きをひけらかすような姿勢は芸術・音楽の前にあって、俗悪の象徴のようにしか感じられません。何度も書いていますが、琵琶の音色に感激した事は多々ありますが、琵琶唄に感激した事は未だ一度も無いのです。琵琶楽が、感情を吐き出すだけの低俗なものであって欲しくはありません。もっと深く大きな世界を歌い上げるものであって欲しい。そしてそれが「Lascia ch’io pianga」のように、世界中の人が共感できるものであって欲しい。
芸術にはどんな表現があってよいし、形や感性も自由に羽ばたいてこそ芸術だと思います。様式美は確かにあると思いますが、芸術に携わる者がそこに囚われていては、美は現れてきません。またリスナーに、形を強要したり限定するのは、もっての他だと私は思います。
表現形態はどうあれ、その根底に何があるか。そこが大事なのではないでしょうか。芸術が表出するその根源にあるものを、愛という人もいるでしょうし、神という人もいるでしょう。言葉は様々でも、国籍や宗教が違えど、核心の中の核心、本当の人間としての根本は、人が生きて行く上で同じだと思います。
今邦楽にそんな核心がどれだけあるのでしょう。いくらお上手でも、格付けしたり自慢しあったりするような卑小な心では、その妙なる音色は世界に届きようがありません。是非次世代には恋の歌を歌い上げる琵琶奏者が居てほしいですね。恋の歌こそ、何処までも清らかでなくては。そんな曲がどんどんと創られて行くと良いですね。
琵琶唄が哀れや悲しいという歌ばかりでなく、「涙の流れるまま」に愛を語り、届け、そんな心に共感・感動できるようなものになったらいいですね。
先週末は関西に行ってました。今回は演奏会ではなく、色々と行きたい所があったので、用事にかこつけてぐるっと廻ってきた次第です。
琵琶湖に昇る朝日(午前5時頃)
先ずは今回の旅の最初にルーテル大阪教会に伺ってきました。私は地元にあるルーテルむさしの教会で度々演奏していて、イースターなどイベントにもよく参加し、牧師の大柴譲治先生がルーテル大阪教会に転任する時には「方丈記」の公演もやらせていただきました。大柴牧師には、教会に行く度に何時も声をかけてもらって、説教も何度となく聴いていましたが、何か波長が合うというのでしょうか、不思議と牧師の言葉はすんなりと私の中に入って来るのです。このブログでもその時々の感想などを書き連ねていますが、何時も聴く度に心と体がほぐれて行きました。
昨年は8thCDも出したので、一度CDを持って大阪教会に伺って、大柴牧師を訪ねてみようと思っていながらなかなか時間が取れず、一年半が過ぎてしまいました。是非この機会に行ってみようと思い立ち、訪ねてみたのです。

何か心にひらめく時には、良き偶然が重なるもので、特にアポイントも取っていなかったのですが、大柴牧師がいらっしゃって、久しぶりの再会をすることが出来ました。来週にはアメリカに行ってしまうということで、丁度良いタイミングだったのですが、更にその日も、少し早くても、遅くても逢えないという絶妙の時間だったようで、これもまた縁かな、と思わせるような再会でした。
牧師はとても元気そうなご様子で、突然の訪問にもかかわらず大変歓迎してくれて、楽しいひと時を過ごさせてもらいました。相変わらず、話しをしているだけで、心も体もほぐれて行くような感じで、嬉しい再会となったのです。いつかルーテル大阪教会でも演奏の機会を持ちたいと思っています。
そして次は、これまた20年ほど前から、お世話になっている大阪本町にある「自然館」という小さな自然食品のお店にも久しぶりに行ってきました。
私が1stCDを出した頃からのお付き合いなので、もうかれこれ20年近く前から、時々顔を出しています。お店の「たかりん」さんは八重山民謡の唄者で、かの大工哲弘さんの愛弟子でもあります。私がよくブログで大工さんの事を書いているのは、実は私の1stCD「Oriental Eyes」を、この「たかりん」さんが大工先生に持って行ってくれたのがきっかけです。私の1stCDを聴いてくれた大工先生から感想を頂き、それ以来私はCDをリリースする度に先生に送り、ご意見を頂いていて、また大工先生からもCDを出す度に毎回送っていただいて、ずっとやり取りが続いています。実はまだ大工先生とはお会いした事は無いのですが、やり取りだけはずっと続いているという、不思議な間柄でもあります。こうした縁が大きなエールとなり、私の今の活動の支えとなったのです。
この自然館にも突然伺ったのですが、何と伺ってみたら、丁度今放映されているNHKeテレの「100分de名著」を見ていてくれて、何だか久しぶりという感じもない程に話が弾みました。
大柴先生もたかりんさんも、皆以前と変らず元気で、落ち着いた、暖かいエネルギーを放っていました。その順調そうな様子をみて、私も大分調子が出てきました。
琵琶湖に浮かぶ島「沖島」にて路地を歩く
こういう再会は、とっても元気が出ますね。日々穏便に過ごしているようでも、結構知らないうちに色々なものと戦い、知らず知らずの内に自分の心の何処に「こわばり」が生まれてしまいます。自分の力で考えて、がんばって、努力して・・・やっていればいる程、見えるものも見えなくなって、自分の本来の姿を見失ってしまうもの。だから時々心をほぐして「素」の自分を取り戻す時間を持つようにしています。
そして自分の力で生きているのではなく、自分という存在が「生かされている」という事をあらためて感じることが、とても大切なことなのです。キリスト教的に言うと「愛されている」という事でしょうか・・・。そんなひと時をこうして持てる事が幸せですね。
沖島外観、信楽駅の一つ手前の玉桂寺前駅の吊り橋、定番信楽焼きの狸
今回の旅では、本当に良い再会をする事が出来ました。この後私は暇に任せて、近江八幡から舟に乗り、琵琶湖に浮かぶ島「沖島」に渡り島の中を歩き回って、次の日は、貴生川から信楽高原鉄道に乗って、信楽に行ってまたうろうろとしてきました。真夏日の気温となる日中はちょっとしんどかったですが、豊穣な時間を過ごす事が出来、良い旅となりました。
先日は久しぶりの雨の一日となり、気持ちも身体もゆったり出来ました。
さわやかな青空は勿論嬉しいのですが、私は雨の日の風情がなんだか好きで、こういう雨の日にのんびりしていると、余計な雑音が消えて、思考が深まり、体がほぐれ、気持ちがぐ~~と落ち着きます。普段は演奏会やらリハーサルやらで、常に何かに追われているのですが、先日は丁度一段落ついて仕事の予定もなかったので、心身ともにリラックス出来ました。
私は他の演奏家とはちょっと異質で、いわゆる練習というものをほとんどしません。本当に様々な仕事をさせてもらっていますが、どんな仕事でも自分で創った曲を演奏するので、出来上がった時点で既に頭の中に曲の姿があります。だから譜面の読み込みは必要無いし、技術的な練習なども同様、あまり必要ではありません。私はあくまで私の世界を表現するために弾いているので、その世界を実現できる技術があれば、それで良いのです。まあ演奏家と作曲家の丁度中間に居る、この立ち位置がとても独特で、且つしっくりときます。名人芸を求めたがる邦楽の世界では異質なんだと思いますが、何よりも自分の世界を表現することを何よりも第一としたいですね。
演奏家は常に技術を磨き、それを維持し、更なる技術も求め・・・、という事が必須になるのでしょう。更なる技術は更なる世界も生み出すとも思いますが、そういう発想をしていると、何時しか技術の奴隷になるものです。技術の深さはとても大事なことなのですが、それはあくまで表現すべきものがあって、それを実現するためにある技術でなければ意味がありません。上手を求めても音楽は創り出せない。上手を求める心を卒業しないと、いつまで経ってもアマチュア以上には成れません。

リストやパガニーニのような方々は別として、これまで上手であるが故に苦しんでいる演奏家を色々と見てきました。それは自分が行くべき道やヴィジョンが見えてない上に、何でも弾けると自分で思いこんで、意味の無い音をぺらぺら弾いてしまうからです。音楽家は、演奏マシーンになってはいけない。何処まで行っても表現者である、という意識で舞台に立たなければ、その技術も空回りするだけで、かえって邪魔になるものです。
色々なやり方、考え方があってよいと思いますが、是非表現者として音楽に向かって欲しいものです。私自身は何より作品を創り出す方が好きですし、また作品が出来上がることに、何ともいえない喜びを感じます。
私にとって練習は、考えている事です。自分の曲をどんな感じで演奏するのか、色々と想いをめぐらせています。一番初期に創った「まろばし~尺八と琵琶の為の」などは、即興性が問われる作品ですので、哲学的な部分を深めていかないと、貧弱な音楽性と思考がそのまま音に乗ってしまいます。楽器の練習よりも、むしろ自分の人生の充実の方が演奏にとって重要です。自由にやれる曲だけに、その時点での自分の内面がそのまま演奏上に現れてしまいます。上記に貼り付けた演奏は20年前のものですが、全く同じ譜面でも、生活も、背景にあるものも、感性も今とは全然違いますので、演奏もそれなりに違ってきています。若さ故の勢いや魅力も勿論ありますが、こうしてあらためて聴くと、この20年の軌跡を感じますね。

雨音を聴いていると、色んなことを考え、想いが巡ります。音楽そのものは勿論、これからの活動の事や、世の中の流れ等々、ゆっくりじんわりと浮かび上がってきます。
そして琵琶を弾いて生きている幸せも感じますね。晴れの日ばかりでイケイケになっていたら、この幸せは、その半分も感じられないでしょう。立ち止まったり、振り返ったりする時間があるからこそ、目が前に向くのです。
来月もなんだかんだと演奏会が続いています。日本橋富沢町樂琵会では、私の琵琶を作ってくれた、琵琶製作の石田克佳さんをゲストに迎えて、トークを交えた会をやる予定です。石田琵琶店は日本で唯一の琵琶の専門店です。滅多に聞けない琵琶製作の話など聞けますので、ぜひ是非ご参加ください。お待ちしています。

先日は第137回琵琶樂人倶楽部をやってきました。今回は筑前琵琶の特集ですが、最近知り合った尺八の藤田晄聖君を何とか引っ張り出そうと思いまして、前座で藤田君と私とで「まろばし」を演奏しました。私が今まで共演してきた尺八奏者とはまた違った個性があって面白かったです。今後に期待ですね。
そして今回のメインゲストは平野多美恵さん。平野さんは、このところ公私共に大変充実されているようで、前にも増して生き生きして見えました。様々な活動を模索しているようなので、これからが楽しみです。
周りの仲間が動き出すと、こちらも止まっている訳には行きませんね。邦楽以外にも、インド舞踊のエミ・マユーリさんなども最近動き回っていますし、陶芸の佐藤三津江さんは陶芸の枠を越えて活動を展開しているようです。何だか仲間が皆それぞれに動き出している、このなんともいえないエネルギーに満ちた盛り上がりは、いいものですね。私自身、昨年8thCDを出してから、随分と仕事の質や形が変わってきているのですが、それが今年は更に明確になって来ていまして、明らかにこれまでとは違う一歩を踏み出しているように感じます。
こういう変わり目の時には、色んな作品が生まれるものです。今創っている「四季を寿ぐ歌」の他にも作品が出来つつありますし、今迄とは違う共演者とも演奏の機会が増えてきて、色々な刺激を頂いています。
これまでの音楽家としての時間を振り返ると、流れが変り、活動が展開して行くきっかけはいつも人との出逢いが、その一番の要因ですね。確かに昨年辺りから、これまでとは違うジャンルやタイプの方々と随分知り合いになりました。それだけでもワクワクするのですが、自分で行く道を、その時々でしっかり見極め、自分自身をどのようにプロデュースして行くか、そういう視点も持っていないと、ただ流れに身を任せているだけでは流されてしまいます。自分でも何かしらの努力をし、また人に導かれ、そんな事が相まって、私という人間は生かされているということでしょうか・・・。

ローマ皇帝ネロの家庭教師としても知られる、哲学者セネカはこんな言葉を残しています。
「運命はこころざし有るものを導き、こころざし無きものをひきずってゆく」
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正にこんな感じがするのです。志を持って、自分の行くべき道に向かって行動を起こしている時には、確かに何かに導かれると感じる事が多いです。もちろん普段でも意外な出逢いもあるのですが、先ずは自分自身がぶれないで、且つ活動してこそ、出逢いも大きな意味を持つような気がします。このセネカの言葉は、いつも心のどこかに在りますね。
永田錦心も鶴田錦史も、新しい時代の中で、新たなステップを踏み出しました。明治そして昭和の戦後という時代が切り替わる時に、この二人の琵琶の天才が居たという事は、琵琶樂にとって大きな意味があったことと思います。
現在、目には見えないかもしれませんが、ここ5年程で全く新たな時代が始まっています。マーケットは一気に世界に広がり、以前では考えも出来なかった、音源の世界配信が私でも可能になりました。また旧来のように流派や協会などという小さな枠で邦楽器を演奏する必要もほとんど無くなり、若者が自由に邦楽器を手にして活動出来るようになってきました。
世界の中の日本、そして自分という視野が開けてきた事は、とかく組織や習慣に縛られやすい日本人にとって、とても大きな事だと思います。これまでの日本の体質は、どうしても保守=正統という傾向に走りがち。自分でも判らない内に小さな枠の中で優等生を目指してしまう。組織はあってよいと思いますが、引かれたレールの上に居るだけでは次の時代は創れない。次の時代を切り開くのは、どんな分野でも、何時の時代でも、別方向からやってくる人です。是非次世代を切り開く、発想、センス、技を持った若手が育って欲しいものです。それこそが永田、鶴田の願った世界であり、その志こそ継ぐべきものだと私は考えています。
芸術は常に時代と共に存在してこそ価値があります。この時代の中で新たな次のステップを踏み出して行きたいですね。
昨年の国立劇場公演 正倉院の復元琵琶を演奏
先日のNHKeテレ「100分de名著」は色々と反響がありました。以外に多くの方が見てくれていて、ありがたく思っております。今月は後2回放送があり、再放送もありますので、是非御覧になってみてください。番組HP https://www.nhk.or.jp/meicho/index.html