山月記を弾く

先日、広尾の東江寺にて、能楽師の安田登先生と狂言師の奥津健太郎先生、そして私とで「山月記」を上演してきました。能のスタイルではなく、いわゆる朗読による公演だったのですが、そこは並みの語り手ではないお二人ですから、なかなかどっしりとした作品となりました。

東江寺にて

この演目は、きっとこれからも再演があると思いますが、私はあらためて「山月記」を読み返して我が身を振り返り、今「山月記」を上演する機会を得たことに、何かの縁を感じるような想いがしました。

この「山月記」には有名な「臆病な自尊心と尊大な羞恥心」という言葉が出てきますが、芸事に携わる身としては、ビビッと来るものがありましたね。
私は20代の頃はジャズギターでお仕事をさせていただいていました。20歳頃からちょくちょくと仕事をもらい、ジャズギタリストになる夢が少し現実になるような気がして、それなりにがんばっていたのですが、今思えば世の中がバブルに向かって景気が良くなっていた頃なので、おこぼれで仕事をいただいていたようなもの。自分の実力で取ってきた仕事でも無いし、自分の音楽で勝負していた訳でもありません。少しばかりの技術と知識でやっていただけなのです。
24歳、ジャズにロックテイストを入れて最先端のようなつもりでいた頃
妙な自信だけが空回りして、小さな世界で「上手」やら「凄い」やらとちょっとおだてられていた自分は、本当に小さな器の勘違い野郎でした。だから山月記の主人公 李徴の独白を聞いていて、言葉の一つ一つに惹き付けられました。
結局ギタリストとしては才能も無く、技量もなく、大した仕事も出来ず、勿論レコードも出せず挫折したのですが、だからこそ今があるのだなと終演後、両先生方と食事をしながら、そんな話しがつい口から出てしまいました。
もし李徴のように虎になってしまうほどの強い心があれば、それがたとえ臆病な自尊心あっても、何かしら残せたかも、などとも思いました。私は当時、そんなに振り切れる所まで物事を出来る人間ではなかったのです。

琵琶に転向してから、お陰様でそれなりにやらせていただいてきました。今思えば、やっと自分に合う世界にたどり着いたと思いますし、まさに水を得た魚という感じだったと思います。ただ残念ながら琵琶の世界には、私の上の世代の方でプロ活動をしている人がほとんどおらず、そのノウハウを持っている先輩が周りに誰も居なかったのです。だから自分で曲を作って、自分でマーケットを開拓して、何でも自分でやってきたのです。自分を取り巻く不自由な状況が、かえって自分の中にあった能力を発揮させたと感じています。

琵琶弾きになって、独自の活動をするようになってみると、ジャズの経験と知識が大いに役に立って、他には無いスタイルのものが出来た事は嬉しかったですね。あらためてジャズを通り越してきたことに意味を感じました。また今から20年ほど前には、今ほどではないにしろ、割と手軽にCDを出せる時代になっていて、インディーズでもそれなりに評価も頂けるようになってきた頃なので、どんどんと自分の創った曲をレコーディングして、オリジナルな世界を表現する事を世に出して行く事が出来、やっと自分の思う音楽活動が展開して行ったのです。

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若き日 今はもう無い静岡の実家にて

1stCDの「Orientaleyes」をリリースした時には、本当に嬉しかったのを覚えています。現代邦楽がアカデミックなクラシックの作曲家の作品に陥って、妙に権威付けられ、形骸化していたのを残念に思っていたので、私が琵琶で活動を始めるにあたって、従来のスタイルには微塵も寄りかからない、邦楽とジャズ(特にフリージャズ)を接近させた独自の世界を創り出しました。これは、権威に対するアンチテーゼでもありますし、私にとっては実に自由に表現出来るスタイルであり、現在でもアドリブを必ず入れる私の作品の端緒となりました。一番最初に作った「まろばし」は今でも、私のスタイルを代表する最重要な作品です。

しかし同時に、弾き語りなど流派の曲をやっている人をみて「やつらとは違う」というような狭量な想いも募っていました。

そんな風にやっていると、ちょっと面白いことをやっただけで話題になるし、雑誌などにも取り上げてもらう事も何度かありました。李徴ではないですが、他の琵琶人と交わる事をせず、自分に好意的な所とだけ付き合い、孤高を気取り格好つけていましたね。私はとにかく、右寄りで軍国的な旧価値観で出来上がっている薩摩琵琶唄が心底嫌いでしたので(今でも勿論!!)、従来の弾き語りはやりませんでした。そういう弾き語りをやらないことこそ私の矜持であり、自分のスタイルだと言い放っていました。しかし内心では「やらない=出来ない」というところを批判されたくないから他の琵琶人と付き合わなかったのかもしれません。嫌いな従来の琵琶楽に何かしらの圧力を感じていたのでしょう。臆病な自尊心というやつでしょうか。今でも弾き語りは公演の中で一曲やればいい方ですが、あの頃は流派の曲を弾き語りでやること自体に、強烈な対抗と嫌悪がありました。今でも自分の創った曲以外、一切弾き語りはやりませんが、つまらない意地を張って、それに振り回されていた頃でした。

そしてそういう時には相応の躓きがあるるもので、色々と失敗もしました。また年齢的にも力業で何でもやれるような20代とは違うので、身体が悲鳴を上げたりして、己の狭い視野と小さな器、そして技量の無さを思い知らされて来たのです。これを世間では「経験」というのでしょうかね・・・。

東江寺にて

紆余曲折を経て今が在るわけですが、結局自分で「思い知る」という体験を通り越さない限り、世界は広がらない。李徴が虎になってはじめて己を知るように、「思い知る」事で自分の心が変わって、初めて気がつくのです。多少上手になったり、仕事を頂いても、いつまで経っても見えている世界は小さいままなのだということを「思い知り」ました。
先日の公演で李徴の独白を安田先生の生声で聴いていたら、何か自分のこれまでの事が想い出され、今こそ身を振り返り、自分にとって本来あるべき姿に、歩みを正して行くべき時なのではないかとも思えてきました。自分が一番自分らしい姿で居られる事が、自分の音楽を生み出して行くベースであるという事を、あらためて感じたのです。
田原順子先生と、日本橋富沢町樂琵会にて

昨年、日本橋富沢町楽琵会に田原順子先生をお招きして会をやりました。田原先生は正に20年前、ギラギラした目付きで琵琶を弾いていた私に「面白いわね」と声をかけてくれた唯一の先輩であり、その後もつかず離れずエールを送ってくれた方です。昨年先生を自分の会に招くことが出来、この道でやって来て本当に良かったと思いましたが、同時に紆余曲折を経ながらも琵琶界のスタンダードに迎合することなく、あくまでもどこまでも自分のやり方でやってきたことは、自分の運命だったとも思いました。勿論その軌跡には何の後悔も無く、今も大変充実していますが、李徴の言葉は鏡のようなリアルさで、今の私に迫ってきました。

こういう出会いこそ縁なのかも知れません。良い機会を頂きました。

学ぶという事Ⅱ

梅雨に入り、じめじめとしてきましたね。絹糸にとっては困った季節になりましたが、こういう時にこそ失敗を経験し、学ばなければ!。まあ失敗ばかりというのも何なのですが・・・。

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先日の広尾東江寺演奏会にて 

私はこれまで習ってきた先生は、皆タイプがどこか似ているんです。私自身がどんな先生についても同じ学び方をしてきたともいえますが、先生方は皆一様に「自分で何がやりたいのか考える」という課題を与えてくれました。しかしながら一般的には、どうしても一番先に「これが弾き方です。歌い方です。基本です」と教えて、自由に楽器に触らせるという事をしないですね。日本的な教え方とも言えますが、「教える」が「仕込む」と同じ意味になってしまっていて、個性を伸ばすよりも、矯正するように何かの方に押し込めようとするやり方は未だに根強いと思います。以前何度か呼ばれていたインターナショナルスクールでは、生徒に筝でブルースなんか弾かせて楽しんでましたよ。

禅の修行のように「頭で考えずに先ず坐れ」というやり方にも大いに共感する部分があるのですが、こと芸術に関しては、やはり考えながら学ぶという姿勢がないと、型をなぞる事で終わってしまいがちです。これは武道などにも言える事かと思います。
先生と生徒では、年齢、性別、体格、筋力、そして何よりも感性が随分違うと思いますので、先生の思う「正しい」形は必ずしも生徒に合っているとはいえません。これは音楽でも武道でも同じ事で、「これが良い音です」と教えるよりも、自分で「良い音」を見つけるようにさせる位でないと、本当の意味で身については行きません。
先生は「良い音」の価値基準を教えているつもりだと思いますが、それこそ相手が何も知らないと決め付けている上から目線の態度だと思います。それは洗脳でしかないのです。大人なら何かしら自分の価値基準を持っているでしょう。しかし子供にだって、新しい時代の子供の感性があります。その感性を十二分に羽ばたかせてあげるようでなければ、芸術的感性は開きません。それが教育というものではないでしょうか。先生の色に染めるのは洗脳以外の何物でもありません。

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キッドアイラックアートホールにて Per:灰野敬二、尺八:田中黎山各氏と

教育が洗脳になってしまったら、それはもはや教育ではありません。そこに芸術は無いのです。型を教えるにも、表面の形だけでなく、必ず「何故こうなのか」という中身をしっかりと教えないと、生徒は何の疑問をもたず、型をしっかりとやることで満足し、その中身を考えなくなってしまいます。芸術的思考なしに、得意なものをやって喜んで、どや顔しているだけになってしまいます。そこにはもう音楽はないし、リスナーも聴いてはくれません。学ぶ者は、常に自分で考えながら学ぶ事が何よりも大切なのです。過去だけでなく現代に溢れる多くの音楽・芸術に触れ、自分の感性を磨くことも同時にしていかないと、社会とコミットする事はできません。音楽は社会と共に在ってこそ音楽。だからこそ音に命が宿るのです。社会と関係無いものはただの骨董品でしかありません。
人間は自分の経験を積み重ねて、身を取り巻く多くのものとの関わりを感じ取りながら勉強し、技を習得して行くの至極当たり前です。誰かに「正しい事」を教わったのではありません。

皆さん自転車に初めて乗った時を覚えていますでしょうか。転んだり、補助輪をつけたりしながら自分でバランス感覚を身に付けていった事と思います。最初はお父さんに後ろを持ってもらったりしたことでしょうが、お父さんはその後、自転車の乗り方にあれこれ注文をつけたでしょうか?。楽器だったら、ギターをやっている人は皆判ると思いますが、最初は本をちょっと見たり、弾けるやつの手を見たりしながら、「これがCのコードか」なんて具合に自分で覚えて行ったことでしょう。自然の中で生き延びてきた人間にとって、ものを習得するというのは、自分で考え、経験し、見つけて行くというのが基本です。アドバイスはもらっても、それをどう活用するかを考えなければ、習得は出来ません。あれこれ考えながらやっているその過程こそ経験であり、後々創造性を育む大事な大きな土台となるのです。

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神戸芸術文化センターホールにて、語り:伊藤哲哉、コントラバス:水野俊介各氏と

何かの規範の中にのみ居ると、いつしか視野も感性も閉じこもってしまい、勘違いしたプライドさえ生まれてきます。しかも本人は自分がその小さな枠の中に居ることに気づかない。しかし芸術に携わるには、その全く反対の精神を持たなくては創造は出来ません。あらゆる規制、習慣、因習、常識から開放され、自由な精神で生きて、表現してゆこうとするのが芸術家。琵琶でしたら永田錦心、鶴田錦史、両先生のような方こそが芸術家です。この先生達の創った「型」を習うのか、それともその「型」を創り上げた土台となった「精神」を受け継ぐのか、よく考えてみて欲しいですね。どんなジャンルでもそっくりさんは表面が似ているだけで、物まね芸人の域を出ないのです。その類のものを「受け継いでいる」とは誰も評価してはくれません。現代でジミヘンそっくりに弾いたところで評価されるどころか、ただの物真似以上にはならないし音楽家とは評価してくれません。今の琵琶樂の現状を永田先生はどう思うのでしょう・・・・?。

先生に寄りかかり、ティーチャーズペットよろしく先生に気に入られて、優等生ぶっているようでは、芸術から遠く離れた小島に篭っているも同然です。何かを創り出したいのなら、その精神はどんな段階にあっても、どんな状況にあっても、何ものにも囚われない自由な心で、常に多くのことから学ぶ姿勢を持って居なくては!!。「守・破・離」の精神を持って自立して欲しいものです。邦楽・琵琶楽の今後はその精神に掛かっていると言っても過言ではないでしょう。
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福島安洞院にて、津村禮次郎先生と「良寛」を上演中

一方、流派という組織には、計り知れないものがあると私は感じています。勿論まともな流派という事ですが・・。以前邦楽の先輩から「流派とは知性である」と教えられました。確かに流派には、長い年月を経て蓄積され洗練されてきた哲学や、時代の変化に翻弄されながらも生き延びてきた経験があり、所作の一つ一つに意味があります。つまり流派とは大学のような所、と私は考えています。全ての流派がそうだとは思いませんが、古典に対する知識・知性も、旺盛な創作の果てに残されたものの中には、型一つ取ってもそこには深い経験が詰まっているはずです。
だから能のような長い歴史の中で洗練と核心を繰り返して、今尚生きているものを学ぶという事自体はとても重要であり、現代に於いてもしっかりと機能している組織であるならば、その中に教育に関しても充分なシステムが備わっていることと思います。残念ながら薩摩琵琶は個人芸であり、しかも流派というものが出来てまだ100年程度。流派の体を成していません。更には軍国時代の流行音楽という側面もありますので、洗練された型や知性というものは、まだこれから数百年は経たないと現れて来ないでしょう。今の流派に、樂琵琶から始まる千数百年の琵琶樂の歴史を教えられる先生がいるとは、私は思えません。
歴史があり、尚且つ現代にも旺盛な躍動のある「流派」という組織は、学ぶものにとってとても大切な学びの場。薩摩琵琶にも、今後こういう場が成立して行ったら良いですね。

学ぶ身として大事な事は、表面上の型を追わない事。教師もそれを生徒に追わせない事。型を上手にやろうとする浅い心では、その本質はいつまで経っても見えて来ません。型の中に秘められた世界を紐解くのが稽古であり、勉強だと私は思っています。

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季楽堂にて、尺八の吉岡龍見さんと   Photo Mayu

学ぶとは考える事。私はそう思って実践しています。先ずは先生の事を真似ろ、とばかりに強制して行く教え方・学び方は、芸術に於いては全く的を得て居ないと思います。常に考え、感じ、頭も体もフル回転してこそ学ぶ事が出来ると思っています。
世界一の歴史の長さを誇る日本には、音楽だけをとっても限りないほどに素晴らしいものが沢山ありますし、文学・芸能・歴史・宗教など勉強すべき事は山のようにあるはずです。一生かかっても学びは終わらないでしょう。上手に琵琶が弾けた歌えた、お名前もらったなんて事は、やっと義務教育、いや幼稚園を卒業したという程度。芸術に、音楽に人生を賭けるということは、常に現在進行形で学び、創造して行く人生を選択するという事。お教室で習った事を上手にやって喜んでいるのは、ただのオタク趣味に過ぎないのです。世の中の人はそういう風に見ているのですよ。そんな輩が多いから、いつまで経っても稽古事や河原乞食という目でしか見てもらえないのです。芸術・音楽がもっと社会とコミットし、誇りを持って自国の文化として認識されるには、上手に弾くこと歌うことではなく、次世代に向けて創造してこそではないでしょうか。

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岡田美術館 尾形光琳作 菊図屏風前にて

私が習ってきた先生方は皆、「貴方は何がやりたいのか」、「それが本当に貴方の音楽なのか」、「やりたい音楽のためには何をやるべきなのか」・・・そういうことを常に問いかけてくれました。また自由にやらせてくれました。だから私は常に、自分で考え、創り、実践した来たのです。そのために学ばなければ行けないことを自分で探し、社会とのかかわりの中で学んできたのです。
若者には、是非多くのことを学んで、新たな日本音楽を創って行って欲しいものです。

伝えるという事Ⅱ

先日の第20回日本橋富沢町樂琵会は盛況の内に終える事が出来ました。ゲストには私の琵琶を作ってくれている石田克佳さんを迎えまして、彼の正派薩摩琵琶と私のモダンスタイルの聴き比べの他、二人でマニアックな琵琶トークも展開して、なかなか面白い会となりました。

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日本橋富沢町樂琵会にて石田さんと

やはりお客様としては、スタイルの違う琵琶を聴けるというのは面白いことだと思います。琵琶樂人倶楽部でもレクチャーの回でない時には、複数人の演奏家を呼んで聴き比べをやっているのですが、とても喜ばれています。以前組んでいたアンサンブルグループ「まろばし」でも、琴古流と都山流の尺八二重奏の曲を作曲して上演したり、日舞の五條流と花柳流をカップリングしたりしてプロデュースをしましたが、お客様には大変喜ばれました。お陰様で、幸い私の周りには「俺様一番」みたいな勘違い系の人は居ないので、多様な琵琶の魅力を良い形で発信出来て嬉しいです。
これは 琴古流 故 香川一朝さんと、若手の都山流 田中黎山君のデュオです。この曲は元々9,11のテロの後に作曲したもので、異文化の共生をテーマにした作品でした。それを尺八二重奏に編曲したもので、現在は昨年リリースした8thCD「沙羅双樹Ⅲ」にも収録した、ヴァイオリンと琵琶とのデュオのバージョンも出来上がっています。
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違う流派とのカップリング 左:古澤月心さんと、中:平野多美恵さんと、右:鶴山旭翔さんと

人間というのはどんな偉い人でも、自分と異質なものを拒否する性質があります。人種だったり、派閥だったり、果ては南口と北口なんてつまらない事を言い出して枠を作って競い合い、しまいには戦争を始めてまで異質なものを排除しようとする生き物です。まあ性というものなんでしょうか。

その垣根を乗り越えて共生して行こうとするのが芸術であり、またその使命なのだと私は考えています。また芸術家にはその幅と器が求められているとも思っています。しかし偏狭な心で、主義主張を振りかざすだけの方も残念ながら居ます。本当に残念ですが、これも現実です。今は世界がクリック一つで繋がる時代。私の作品もアジアだけでなく、ヨーロッパ・アメリカでも聴かれています。こうして繋がって行くのは世の流れであり、それに伴って人間の感性が変わって行くのもまた必然。

邦楽の世界を見ていると、リスナーの方がどんどんと新たな世界に歩みだしているのに、演奏する側が踏みとどまっている状態です。音楽は常に命あるものとして時代に中で生き続けてこそ音楽。現状のままでは、千年以上に渡り豊穣な魅力に溢れる音楽として伝えられてきた琵琶楽も、ただの過去資料や骨董品になってしまう。多様なものが共生してこそ社会であり、共生以外に平和はありえないのは、誰もが判っていること。社会の通年、常識、因習などは50年もすれば、真逆といっていいほどに変ってしまうことを、世界大戦などを通じて皆知っているはずです。そんな一時期の感性など軽々と乗り越え、自分と違うものを率先して受け入れ、実現するのが芸術家ではないでしょうか。その芸術に携わる人は時代を先取りする位で丁度良い。人種やジェンダー、国籍など、そんな壁は芸術には無い。地域的民族的な感性は確かにありますが、そこを土台にしながらも、壁を超えてゆくのが芸術家です。各国のこれまでの革命の歴史を見ても、皆芸術家がその感性や思想を支え、民衆をリードして行ったではないですか。
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昨年の荻窪音楽祭にて。Vi 濱田協子 Pi 高橋なつみ
現代日本で、着物を着て生活している人はほとんど居ません。しかし日本人としてのアイデンティティーは皆持っている。つまり表面の形などに拘る事は意味が無いのです。やり方は夫々違うかもしれませんが、そんなものに拘っているようでは一番の核心は何も伝わりません。意味のある所作と単なるお作法は全く違うのです。そこが判らなければ、いつまで経っても「村」から出る事は出来ないし、衰退は免れないのです。

音楽を受け入れるのはいつの時代でもリスナーなのです。芸術だろうが、エンタメだろうが、社会の中で社会の流れと共に生きる市井の人々が聴いてこそ音楽。やる側が何か訳の判らないものに拘っても、聴く人々の心を打たない限り、音楽として存在する事は出来ません。社会の流れと共に生活も音楽も変わって行くのが世の習い。変る事が出来ないものは必然的に滅んで行きます。どこを変えて、どこを守るのか、そのセンスを今、琵琶楽は強烈に、切実に問われているといってよいでしょう。

薩摩琵琶はいつも書いているように永田錦心、鶴田錦史というパイオニアが居たからこそ、細々ではありますが今に続いています。平家琵琶は江戸時代に盲人伝承から正眼者へと受け継がれ、譜面を開発したからこそ後に続きました。盲人の平曲家から見れば、譜面を作るなんて事はナンセンス以外の何ものでもなかったでしょう。しかしその変化が江戸時代にあったからこそ、今伝えられているのです。永田錦心も鶴田錦史も当時は批判されました。どんな分野でも最先端を行く者は、なかなか理解されません。しかし今衰退の極みに在る琵琶楽に於いて、さび付いたレールの上をただのろのろ歩いているだけで良いのでしょうか?。今こそ、古い衣を脱ぎ捨てて踏み出さなければ、本当に滅んでしまいます。世の中はしっかり永田・鶴田に付いて行きました。能も長唄も筝曲もどんどん新作を作り、新しい感性を入れながら今まで発展してきたのです。琵琶楽だけとどまっている訳には行かないのです。是非挑戦する心を燃やして欲しい。

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広尾東江寺にて 笛の大浦典子さんと

新しいものに挑戦し、創り出すこの創造性こそが芸術の命です。こうした旺盛な創作があるからこそ、古典の研究も進み更に更に洗練されて、世界が豊かに、そして魅力的になって、人々を魅了するのです。創造性無きところに明日はありえません。伝えて行くとは、創る事と言い換えてもよいと思います。

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永田錦心は生前、「西洋音楽を取り入れた、新しい琵琶楽を創造する天才が現れるのを熱望する」と琵琶新聞紙上に書いています。今では特別に西洋音楽を取り入れなくても良いと思いますが、私も明日に向かって新たな一歩を踏み出せる琵琶人が出てくることを大いに期待しています。

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ちょっとご無沙汰してしまいました。梅雨に入りましたね。私は雨の日がとっても好きなんです。昔から演奏会の時はほとんど雨に当たらない晴れ男なので、演奏会の無い暇な時に雨が降ってくれることが多く、雨の日はお休み状態な事が多いです。まあ琵琶版「晴耕雨読」ですな。

日本橋富沢町楽琵会にて photo 新藤義久

ここ一週間はメゾソプラノの保多由子さんの演奏会、フラメンコピアノの安藤典子さんのライブなどにも伺いました。今週からまた忙しくなるので、よさげな演奏会に行けるときには、せっせと通うようにしています。

琵琶樂人倶楽部では独奏曲も弾いたのですが、この曲がどうもいかんのです。実はこの曲にはデュオヴァージョンもあり、デュオでは結構いい感じで出来るのですが、ソロ版はずっと不満を抱えたままでした。そこで、あらためてこの曲を演奏する時の舞台の情景や、曲が響き渡っている時のイメージをもう一度シミュレーションしてみて、考え直してみた結果、「セカンドメロディーが琵琶に合わない」という結論に達し、思い切ってそこを廃してみたら、いい感じになりました。更にもう一枚ベールがはがれると、今後のレパートリーになると思います。

「沙羅双樹Ⅲ」レコーディング時 Viの田澤明子さんと
私は年がら年中、こうして作曲したり、曲を作り変えたり推敲したりして、常により良い形に作品を仕上げています。ネット配信している作品も50曲程ありますが、中には潰したり、作り変えた曲もありますね。最近では最初の弾き語りアルバム「沙羅双樹」(2005年)に収録した「経正」をよくやりますが、あの頃とは、弾法も節もかなり変わっています。
私は、演奏する曲の全てがオリジナルであることもあって、流派の曲をおみごとに弾くという名人芸的な発想をしません。常にブラッシュアップして、手を入れて、より良いものに仕上げ、常に現時点で最高と思える形にすることで、独自の世界を表現するべく進化しています。つまり芸を披露するという事はしないのです。世界を表現するのが私のやり方です。
幸い私の回りには「良い舞台を創る事が最優先」という人達ばかりなので、創り上げる事に対してネガティブな目を向けて来る人が居ないのが嬉しいですね。

こうした私の姿勢は、そのまま私自身の眼差しが、今現在どこを向いているかという事、そのものでもあります。20年前はまだ東京や関西、琵琶界などという小さなイメージと発想しかありませんでした。10年前でもまだ世界はそんなに大きくなってはいませんでした。せいぜい海外公演でヨーロッパや中央アジアを色々と廻り、演奏したという程度です。しかしその後、いち早く邦楽の分野でネット配信を開始したことで、何処の国の人が何を視聴し、どの曲を買ってくれたのかが、リストで送られてくるようになりました。そうすると、自然と「自分の作品を世界の人が聴いている」という、かなり具体的なイメージが持てるようになりました。

イメージが具体的になると、表現が変りますし、作曲にも大きな影響が出てきます。小さな視野しか持てない頃は、悪く言えばただの村人。何かにつけ周りと競争し、己の世界を追求しているつもりになっているオタク状態。それが大きな所が見渡せるようになると「世界の中の自分」という感性になってきます。全く知らない国で自分の曲が流れている。全く日本文化を知らない人達が純粋に音楽として聴いている。これを明確にイメージ出来るかどうかという事は、活動して行く上での大前提に関わる問題だと思います。
photo 新藤義久
私がこれ迄やってこれたのは、こうして具体的なイメージが徐々に大きくなって行ったから、活動が展開して行ったのだと思っています。天才ではないので、とても時間はかかるのですが、大きなイメージが見えてくると、おのずからそれに見合った技術が身についてきますし、曲もそのイメージに見合った作品が出来上がってきます。また音楽だけでなく、発想の大前提が変るので、色々なものが、これまでと違う視点で見えてきます。意識が変われば、顔つきも、姿も変ります。身の回りのあらゆるものの見方、感じ方が変わるのです。
このイメージ力をもっと高めたいですね。そして余計な衣をはずして、本当に伝えたい事をしっかりと届けられるような作品にして、世界に放ちたいのです。

さて明後日、20日木曜日の日本橋富沢町樂琵会では、私の琵琶を作ってくれている琵琶製作の石田克佳さんをゲストに迎えます。勿論彼の弾く正派薩摩の演奏と、私のモダンスタイルの聴き比べもありますが、琵琶トークの方も全開でやりますので、琵琶に興味のある方は必見、必聴!!。他では見られない、聴けない、滅多にないチャンスです。ぜひぜひお越しくださいませ。19時開演です。

お待ちしております。

動き続けるという事

6月は、毎年どういう訳か忙しい。今年は例年ほどではないですが、それでも色々とやらせていただいてます。我々舞台人はとにかく舞台に立ってナンボ。何はともあれ、ありがたいの一言しか出て来ないですね。
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広尾 東江寺にて 左:狂言師 奥津健太郎先生 中:私  右:能楽師 安田登先生 

曲がりなりにもプロの琵琶弾きとして約20年、これ迄自分なりにやってきて、舞台に立ち続ける事が出来、本当に感謝しています。紆余曲折、失敗も多数あれど、そういう積み重ねが今の私という事です。何事においても「動き続ける」という事は、個人として、音楽家として、私が生きる上での大きなキーワードなのです。
肉体も命ある限り、心臓でも血液でも呼吸でも、一瞬たりとも止まらないという事が前提条件であるのは当たり前なのですが、音楽活動も同じで、舞台に立つ事が日常になり、音楽を作り、演奏する事が人生と成ってゆかないと、音楽家としてこの身と心が機能しません。時に休息も必要ですし、振り返る事も大切ですが、ストリートだろうが国立劇場だろうが、とにかく人に聴いてもらう場所に自分の身を常時置いている事。これが出来ない人は音楽家には成れませんね。

随分前に、浪曲の故国本武春さんは「腹が減ったら、楽屋に挨拶にでも行けば、弁当の一つや二つ余っているもんだよ」と言って、金があろうが無かろうが、芸人としての人生をばく進するその姿勢を見て、当時の私は大いに感じるところがありました。今思うと、その位の気持ちで生きて行く事で、舞台人としての経験も蓄積され、さらに大きなエネルギーになって我が身に満ちて行くように感じます。
音楽で収入を得るのは本当に難しい。誰もが直面する現実だと思います。しかしそれを乗り越えて、なお動きを止めないこと。常に自分のペースで確実に動き続けている人は、揺るぎないものが姿に、音に出てくるものです。それが音楽家になるという事だと思います。
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若き日 京都清流亭にて
良い素質をもっている人がプロの道を諦めたり、お教室の先生に納まって行ったりする例をずっと見てきて、私自身もそんな現実に対し、もがきにもがいている内に、この年になってしまった、というのが本音です。若手と呼ばれていた頃は、常にままならない現実に牙を剥いている事で、モチベーションを高めていたんですね。まあそれでも止まらずにここまで走って来れたのは、「生かされた」「生かしてもらった」とうことなのでしょう。年を経る事に感謝が深くなって行く訳です。少しづつ自分なりのやり方になってきたと思いますが、それはそのまま自分の姿が自分で見えてきたという事だと思っています。

そして音楽そのものにも同じことを思っています。私がよく演奏する「啄木」も、平安時代の最後の遣唐使 藤原貞敏が持ち帰ってから、今まで伝えられているのですから、細々でもその伝承が続いているのです。まるで曲が生き物のように動きを止めること無く、今までその命を保っているかのようです。やれ正統な継承だの、楽部がどうのこうの・・・・という事をすぐに言い出す人が多いですが、歴史はそういう人間が作り出したルールや組織などでは動きません。歴史はどの国でもどんな時代でも、その時代の正統とされる勢力以外の力によって、次のステップへと激動して行きます。
まして芸術は、一時代の権威権力などで動いているようなものではないのです。確かにその時々の権力に翻弄はされますが、そんな短いスパンで存在するものではありません。本当に素晴らしいものは、人間の思いこんでいる正統なんていう幻には左右されません。受け継ぐべき人が確実に受け継いで、長い時間を生きて行くのです。

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今は無きキッドアイラックアートホールにて ダンス:牧瀬茜さん Sax:SOON・KIMさん 琵琶:塩高

感性もルールも常識もどんどんと変化するものであり、正解も正統もそれが通用するのはほんの一瞬。組織などはほんの一時期にしか機能しないし、「良い」という価値ですらほんの何十年かの間に間逆になってしまいます。そんな小さな枠ではなく、もっと長い時間の中で自分の動きを考えれば、組織の中で優等生になる事は「目の前のルールに振り回されているだけ」ともいえます。軍国時代の正統は今では通じません。明治後期~大正・昭和初期という軍国の時代に出来上がった薩摩琵琶唄が現代に通じないのは、正にこれが原因です。戦争で100人敵を殺した英雄は、戦争が終わっても英雄で居られるしょうか・・?。
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同じくキッドアイラックアートホールにて Per:灰野敬二 尺八:田中黎山各氏と 

動き続けるとは、そんな小さな世界のことではないと、私は思っています。その時々の時流に乗るという事でなく、引かれたレールの上を調子よく走ることでもなく、時代がどうあれ、その時のルールがどうあれ、そんな目の前の幻想を突き抜けて、美を追い求める事。この本質が自分で見抜けている人は動き続けることが出来る。受けを狙って優等生面をしたり、目先のお金を求めて動くと、程なくして動きが止まるものです。それは次々に新しいものが出て来て、すぐに需要がなくなるからで、当たり前のことなのです。
芸術に身を投じた者は、常にどんな状態にあっても自分の美を求め、動くのです。ただ忙しく動き回っているだけでは意味は無いのです。まして動き回っているだけで満足し、そういう自分に酔っている様な者に美は宿りません。意思を持って、何ものにも振り回されずに美を求めて動いているか。私はそんな風に芸術家をいつも見つめています。

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さて、今月の日本橋富沢町樂琵会は、国内唯一の琵琶店、石田琵琶店の石田克佳さんをゲストに迎え、職人ならではの琵琶トークをたっぷりと聞かせていただきます。勿論石田さんの弾く正派薩摩琵琶と、私のモダンスタイルとの聴き比べもあります。滅多に聞けない話が聴けると思いますので、ぜひぜひお越しくださいませ。

何処までも求める所を求め、動き続けて行きたいですね。

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