秋の演奏会色々2019

まだまだ蒸し暑い日々が続いていますが、もう夏というより秋を感じつつありますね。今年の秋も、ありがたいことに色々と演奏の機会を頂いています。
photo:新藤義久

こうして演奏の場を頂くことはありがたいの一言ですが、そこに胡坐をかき、仕事に依存してしまうと、創造する心を見失ってしまいます。舞台に立つだけでなく、常に創り続けることも芸術に身を投じたものの宿命です。技術や経験だけを売るようになったら音楽家とは言えません。だからお仕事だけでなく、何よりも音楽に対して謙虚でなくてはいけないのです。そこがその人の器となって行くと、いつも肝に銘じて、やらせていただいています。まあ完璧にこなすことはできませんが、私なりにベストを尽くすしかないですね。

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琵琶樂人倶楽部の看板絵 作:鈴田郷

では、今月の公演のご紹介。先ず来週11日(水)は第141回の琵琶樂人倶楽部。もうすぐ13年目に突入するのですが、すでに来年一年の予定もほぼ決まっていまして、更に内容充実になって行ってます。
今月は朗読の櫛部妙有さんを迎えて「方丈記」を樂琵琶と共に上演します。以前俳優の伊藤哲也さんと共にやりましたが、伊藤さんとはまた違う魅力を持った櫛部さんの朗読には、とても深い魅力があります。

その後は島根県益田市に飛んで、グラントワという大きな美術館で、尺八の田中黎山君との演奏会。ここでは一昨年にも、作曲・企画の東保光さん、語り部の志人さんらと演奏したのですが、今回はデュオで、いつもの演奏会に近い形での演奏となります。

次の週は熊本県益城の阿弥陀寺さんで、能楽師の安田登先生、俳優の佐藤蕗子さんと共に公演があります。ここは安田先生がいつも様々な企画をしているお寺で、地元の方々との交流が盛んなところです。なんと宴会にはフルアコギターやベースも用意してあるとのことで、ジャズセッション大会になる予定とのこと。楽しみです。

その足で鹿児島に行って、アフリカンパーカッショングループの群青BAMAKO Sessionsと、尺八の室屋朋子さんとのライブをやることになりました。群青BAMAKO Sessionsの肥後君とは、もう20年以上に渡る長い付き合いで、一昨年鹿児島で久しぶりに再会して、小さなライブをやりました。その時に長管尺八を携えてきたのが室屋さんでして、拙作の「塔里木旋回舞曲」を樂琵琶と尺八で一緒にやっていただきました。ぶっつけ本番ながら、しっかりしたレベルで吹き切り、独奏での演奏も素晴らしかったので、今回も声をかけてみました。色々と話を聞いたところ、古典本曲をじっくり勉強しているという事でした。今回は薩摩琵琶を持ってゆくので、「まろばし」に挑戦してみたいと思います。鹿児島の方必聴ですぞ!!

帰ってすぐにはまた安田先生の「魂を鎮める芸能~能楽講座」、そして29日は前回も書きましたが、フルートの神谷和泉さんとの初共演。荻窪衎芸館にて西洋と日本をシルクロードでつなげるという面白い企画公演です。神谷さんとは音楽的な相性も良いし、楽しいサロンコンサートとなると思います。是非お越しください。

来月は東洋大学での特別講座、琵琶樂人倶楽部は尼理愛子さん、ナカムラユウコさんを迎えての開催。安田先生とは高松~京都で公演。そして日本橋富沢町楽琵会では、このところお知らせしている「四季を寿ぐ歌」の初演があります。他、横浜の鶴見文化講座では笛の大浦典子さんとの公演。更に月末にはセルリアン能楽堂にて、能の「卒塔婆小町」をもとにした創作演劇を、安田先生、玉川奈々福さん、ヲノサトルさん、奥津健太郎さん、槻宅聡さん、劇団mizhenの皆さんと上演します。
まあ目まぐるしいほどの演奏会であり、すべて内容が違うというのも私らしいです。勿論11月も更に池袋あうるすぽっとや、静岡鉄舟寺と続きますが、これはまた次の機会にお知らせします。

広尾東江寺にて、笛の大浦典子さんと

音楽家として生きるという事は、不安定な人生を生きると言い換えても良い位、綱渡りのような毎日が続くものですが、この人生を受け入れない限り、音楽家には成れません。忙しく動き回る時もあれば、ずっと何もないことも多々あります。経済的な面に於いても結構厳しい場面が多々あることでしょう。一流だろうが三流だろうが同じことです。しかしそういう不規則不安定な日々に振り回されていては何も創ることが出来ません。そして人生で安定・安息を求める方には音楽家はお勧めしません。教室経営をするのも一つのやり方ですが、「先生」の演奏程つまらないものはないのです。レッスンプロはどこまで行ってもレッスンプロ。厳しいですが、これが現実です。

まあ、私は教師としてはまるで向かないこともあり、自由に動き回っていますが、ここまでやると、この生き方以外に何が出来るか?、とも思いますね。人それぞれ身の丈に合ったやり方でやるしかないのです。

この秋も、実りのある充実した活動をしてゆきたいです。

夏は終わらない

暑さが引きませんね。そろそろ秋の風も感じたい頃です。ちょうど夏と秋の橋渡しのこの時期に、Viの田澤明子さんとPiの西原直子さんのサロンコンサートに行ってきました。

photo 新藤義久
田澤さんは昨年リリースした8thCD「沙羅双樹Ⅲ」で素晴らしい演奏をしてくれて、それ以来時々もったいなくも御一緒させてもらってます。田澤さんはホールでのリサイタルも地道にずっと続けていますが、数か月に一度は、気軽なサロンコンサートを定期的に開いていて、私はそういう時に出来るだけ通って聴かせてもらっています。何といってもあの演奏が目の前で聴けるとういうのは貴重ですからね。

田澤さんは、毎回独奏ではバッハに取り組んでいるのですが、今回はバッハの無伴奏ソナタ第1番でした。以前シャコンヌを聴いた時にも感じましたが、何とも口では形容しがたい、惹きつけられるような、鬼気迫るようなパッションを、今回も十二分に感じました。とにかく音が生きている。命が宿った音が躍動するのです。そして私は田澤さんの演奏には、毎回人生を感じるのです。
これだけの音色と演奏を実現するために、彼女はどんな人生を送ってきたのだろう・・。猛練習をしただけでは済まない、もっともっと大きなものを通り越してきたんではないか。毎回そんなことを考えさせられます。と同時に自分の音楽家としての立ち位置も、考えずにはいられなくなるのです。

photo 新藤義久

今回はバッハの他、グリークのViとpの為のソナタ第2番もやったのですが、これも本当に凄かった。音色が輝くように、本当に命が宿っているように躍動し、鳴り響いているのです。ぐいぐいと惹きつけられました。こういう演奏を聴くと私は演奏家ではないな、とつくづく思います。私は音楽家ではあるかもしれませんが、演奏家ではないですね。今回も良い経験と勉強をさせてもらいました。またこれだけの充実を聴かせてくれる人は、私の周りでぱっと思いつくのは、能の津村禮次郎先生や、日舞の花柳面先生、尺八の矢野司空和尚、吉岡龍見先生位でしょうか・・・。そうそう居ないですね。

日本橋富沢町楽琵会にて photo 新藤義久

さて、私はこの夏に区切りをつけるべく、このところ書いている「四季を寿ぐ歌」の「夏の曲」に頭をひねっているのです。とにかく私はのんびりゆっくり創りますので、人の何倍も時間がかかります。「夏」が出来上がると全6曲が完成すのですが、この「夏」の曲が出来上がらないと、私の夏は終わらないのです。

そして、今月末には初共演となるフルーティストの神谷和泉さんとのジョイントコンサートがあります。クラシックと邦楽をシルクロードでつなごうという企画公演なのですが、最初はあまり片意地張らずに、先ずは20年来お世話になっている地元の音楽サロン「衎芸館」にてやることになりました。
神谷さんとは神田音楽学校の講師仲間であるのですが、とても楽しいキャラの方なので、いつか一緒にやってみようと話していまして、拙作の塔里木旋回舞曲やSiroccoなど、昨年辺りから樂琵琶とのデュオ曲を少しづつやってもらっていました。それが最近、薩摩琵琶とフルートで「花の行方」をやってもらった所、彼女のフルートの素直な表情が、何かとっても和の雰囲気に合うんです。けれんが無いというのか、演奏者の個性のままに音が出てくる感じで、この純邦楽的な作品にぴったりなのです。多分に神谷さんの個性・感性と実力の賜物だとは思うのですが、こんなにこの曲がしっくりとアンサンブル出来る演奏者も珍しい。ちょっとした発見なのです。是非是非聞きに来てください。
9月29日日曜日の14時開演です。
福島安洞院にて。魂を揺さぶる詩人の和合亮一さんと

人間はその時代時代によって感性は全然違うし、環境によっても感じ方は随分と変わるものです。しかし根本のところでは、古代人も現代人も同じだと思います。私はその時々での心情を歌う音楽よりも、もっと奥のところに届くような音楽を創りたいですね。喜怒哀楽を歌い上げるものも好きなんですが、どんな時代のどんな国の人でも共感できるようなものを創って行きたいのです。少なくとも琵琶に関しては「The 日本」というのではなく、多分に「汎アジア」という感性で弾いていますので、アラブから中央アジア、インド、東南アジア~東アジア迄、琵琶の辿った軌跡のある国々では少なくとも、何かしらの共感を持ってもらえるような作品が出来たら嬉しいです。その上で日本という色彩感もあれば尚良いですね。
さて、今年はどんな秋が待っているかな。

響き合うもの

夏の暑さのピークももう過ぎた感じですね。我が町の隣では夏の終わりを告げる阿波踊りが盛大に開催され、しっかりその熱気を味わってきました。
この夏は、色んな人に会ったり、数々のリハーサルをやったりして、先日は夏の恒例SPレコードコンサートもやってきました。夏はいつも演奏の機会が少ないのですが、有意義な時間を過ごさせていただいてます。

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ヴィオロンにある蓄音機「クレデンザ」とても基調なものです

先日のSPレコードコンサートでは、昨年に続き第一部は永田錦心の特集をやったのですが、毎度SPレコードを聴いていると、そのレコードが出回っていた時代に想いが飛んでゆきます。当時は音楽が社会の中に響いていたんでしょうね。今は音楽が街中どこにでも溢れているけれど、音楽が人生の中で喜びや糧となっていた時代とは程遠く、日々消費されているだけのように思えてなりません。残念です。

フラメンコギター:日野道夫、ウード:常味裕司、樂琵琶:私
音楽に限らず、物事は皆「響き合って」います。人と人は勿論の事、自然、社会、時代、物・・・一見関係ないようなものでも、あらゆるものが何かの関係性を持ち、響き合って存在しているのです。少なくとも同時期に存在するものは、どこかに何かしらの共鳴関係を持っていることでしょう。仏教ではこれを「縁」というのでしょうか。その響きが悪ければ世の中も悪くなるでしょうし、複雑になれば、その関係も複雑になります。現代音楽が複雑になって行ったのも、まさに時代を示していたということなんでしょうね。

川崎アートフェス ダンス:牧瀬茜 ASax:Soon KIm
琵琶:私 photo:薄井崇友

そもそも物事でも人間でも「留まる」ということはないのです。ヘラクレイトスの言うように「万物流転」なのです。勿論自分の肉体も止まるという事はありません。動いているからこそ響き合うし、その響きも変化して行きます。命は動き続けてこそ命。止まってしまえば、それは命とは言えません。
そんな風に思うと、現代人の生活様式は自ら有している豊かなその響きを、自ら止めようとしているように思えるのです。まるで自分で自分の命を削り取っているよう。ひたすら便利さを追い求めるあまり物に依存し、肉体も脳もろくに使おうとしません。これでは穏やかで豊かな響きが生まれる訳がありません。
そして今や個人の肉体レベルではなく、社会全体がマヒしているようにも思えます。今の世の中の現状を見るにつけ、豊かな響きは感じられませんね。

こんな時代にこそ、今一度響き合うことを確認するのは大切なことだと思います。自然と人間の関係もこのままでは、お互いを破滅に導いてしまいかねません。まずは自分一人の所から響きを求めてみませんか。勿論素晴らしい音楽と共に。現代では目の前を楽しませてくれるエンタテイメントは溢れています。楽しむことも大事ですが、与えられた楽しさだけでなく、自らが求めて、何かを感じ、深く深く探ってみると、そこにはきっと豊かなものがあると思いますよ。そして今まで聴こえて来なかった音楽も響いてくるはずです。世の中にはそんな素敵な音楽が沢山あるのです。ただ気が付かないだけ。

安田登先生と「みずとひ」にて

命が躍動するような響きを持つ音楽は、激しいリズムや力強い大きな音よりも、小さなささやきやPPPの弱音なんかの方が多いかもしれません。癒し系のヒーリング音楽という事ではありません。一見地味だったり、渋かったりして、今までは気にも留めなかったものが、求める心の導きによって、きっと響いて来るでしょう。昔から「琴線に触れる」という言葉がありますが、心に満ちるその感覚こそ命の躍動であり、響きだと思います。
日本橋富沢町楽琵会にて Photo 新藤義久

今、響き合うものを感じていますか。自分に共鳴してくるようなもの。例えば故郷の山や海、家族、相棒、そして自分の心に届く音楽・・・。色々あると思います。また気持ち良いだけの響きではなく、時に厳しい響きも感じるでしょう。しかしそんな響きを感じることもまた縁であり、あなたにもたらされたのです。そこにも何か学ぶべきものがあるのでしょう。社会の中に生きるという事は、心地よい響きだけでなく、不協和な響きも感じることでもあるのです。私はこの現代に豊かな響きを創りたいのです。気持ち良いとか、癒されるといったものではなく、心が惹きつけられ、また掻き立てられて、新たな世界に目が開けてゆくような、響きのあるそんな音楽を創りたいのです。しなやかで、且つ力強く、繊細で、且つ現状に胡坐をかかない大胆さを持ったプレロマスな音楽を、琵琶と共に創り出して行きたいですね。

そろそろ夏休みも終わり。エンジンが徐々にかかってきました。

純度

猛暑に台風、大変な夏ですね。夏は演奏会が少ないので、このところよく話題にしている「四季を寿ぐ歌」という全6曲の組曲の作曲にいそしんでいます。もう一歩というところですが、これがなかなか進まないのです。まあのんびりやらせていただきます。

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先日演奏会の時に立ち寄った銚子の海(犬吠埼のすぐ隣です)

この夏は部屋に居ることが多いので、かねてから考えていたPCの交換をしました。OSを変えたので色々と大変でしたが、すったもんだの末、とりあえず無事終了。ついでにPC周りの環境もぐっとスリムにして、部屋の中もだいぶ整理しました。
基本的に我が家は物の少ない家で、来る人皆に「ここは仕事場・稽古場でしょ」と毎度言われるような所なのですが(毎日ご飯作っていますよ!)、さすがにレジュメを頻繁に書く都合もあり、ネタとなるような古典音楽・文学・美術、歴史、仏教関連の本や資料が押し入れを占領していました。長いこと生きていれば何かと澱(オリ)が溜まってくるものです。それらを整理し、譜面やCD、レコードなども選別し、古本屋さんに来ていただいて、結構な量を引き取ってもらいました。

改めて手持ちの本やCD・レコードなどを見てみると、以前は必要と思っていたものが、今は「もう卒業かな」と思えるものも、それなりにあるものですね。音楽的な面も、自分の知らないうちに変化しているんものです。こうして年を重ねて行くんですかね・・・。すっきりしました。
1私は大体の事柄について、「足すよりも削る」ということを常に繰り返しています。これは私の性質ということもあるのですが、能の津村禮次郎先生などとご一緒させてもらうと、毎回ぎりぎりの所で相対することをしないと、とても御一緒できるものではありません。余計なものを盛って飾り立てても邪魔になるだけなのです。自分が純度の高い状態でないと舞台は踏めないのです。今思えば、これまで多くの先輩方に、こういうことを教わってきたんだと思います。ありがたいことですね。

元々、必要なもの以外はなるべく持たない。常に身一つに近い状態に保つ。これが昔からの私の矜持なのですが、作曲においても、最初はモチーフから色々と譜面を書き連ねて、ある程度形が出来てくると今度はどんどんと削ってゆきます。この作業が作曲の鍵となのです。
盛って行けば行く程、焦点がぼやけ、表現しようとする本質から遠ざかり、作品の質はどんどんと下がってゆくものです。簡潔であり、またその簡潔性ゆえの抽象性もあるからこそ、リスナーの感性が開き、創造性を持って音楽を聴いてくれるのです。余計な加飾が多い人というのは、表現すべき本質が見えていない。ただ目の前の自分の想いに自分で振り回されて、吐き出しているだけなのです。だから飾り付けて、盛って体裁を繕おうとするのです。

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物や情報が溢れ返っている現代では、「自分にとって何が必要で、何が要らないのか」その見極めは難しいですね。今の時代、よくよく物事自分自身で判断して、自分で取捨選択していかないと、余計なものがまとわり付き、すぐに時代に流されて、自分の本来の目的を見失ってしまいます。またその見極めが出来るかどうかは、その人のセンスであり器でもあります。
琵琶人でも、アイドルや演歌歌手のバックで弾いてTVに出るのが嬉しいという人もあれば、私のようにご免被るという人もいます。目的が違えば、感じ方も全く逆になるのは当たり前。それがその人の個性になり、またそれぞれの音楽を生み出してゆくのです。

私は20年程前に、「HPやブログは私の音楽活動にとって絶対に必要なものになる」と確信しましたので、誰よりも早く始めました。最近のネット配信も必要だと思ったから、邦楽の中ではいち早く始めたのです。逆にスマホは今迄必要と感じたことが無いので、未だ使っていません。SNSも以前少しだけやってみましたが、やはり必要が無いと判断し止めました。
今の世の中、あらゆるジャンルのものが身の回りに存在するので、面白そうなものはジャンル問わず常にチャレンジしてみるのですが、どこかで自分にとって必要かどうか判断をしてゆきますね。

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日本橋富沢町楽琵会にて Vi:田澤明子 photo:新藤義久

自分がやりたいものは何なのか。何故それをやりたいのか・・・。年を重ねれば重ねるほどに考えます。音楽家は舞台に立っているのが何よりも嬉しいので、調子よく仕事をもらっていると、中身はどうあれ舞台を立っていること自体に酔ってしまい、音楽を創造し、思考することを止めてしまうことがしばしばあります。経済面の事もありますし、「舞台に立てるだけでありがたい」という音楽的にネガティブな思考になる人も多く、音楽そのものを追求しようとせず、技の切り売りに走ってしまう。それは音楽家としてとても残念なことだと私は思います。いろんな考え方があると思いますが「食ってゆくための芸」に陥ったら、音楽家はもうお終いだと思っています。まあそこから出てくる音楽も何かあるかもしれませんが・・・。

歌でも演奏でも、本当に心の底から出てきたものかどうか、リスナーにはすぐ判ってしまうものです。頂くお仕事をこなし、上手に演奏しているだけでは何も伝わりません。何故伝わらないか?。それは誰が弾いても同じだからです。自分じゃなくてもよいからです。自分以外の他の人でもこなせるような仕事をしていたら、いつでも誰かにとって代わられてしまいます。だから自分のスタイルや哲学を確立することは音楽家には必須なのです。その時にどれだけ余計なものを取って、自分自身になりきって質を高められるか、そこがとても大切な部分だと感じています。

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キッドアイラックアートホールにて。Per:灰野敬二 尺八:田中黎山 琵琶:塩高

レベルが上がる程に、年を重ねる程に、「何をやるか」が問われている。私はそんなことをいつも考えています。純度が高くなくては、自分の音楽は聴いてもらえないのです。

私は私がやりたいものしかやってこなかった。多少の逡巡はあっても、やっぱり意に沿わないものは出来ないのです。現実の世の中は意に沿わないことだらけで、生きてゆくのもやっとこさなので、せめて音楽だけは、余計なものを削ぎ落とし、自分の純度を保ちたいものです。

古の空へ

先日は猛暑の中、皇居三の丸尚蔵館で展示されている「正倉院御物を伝える」展示会に行ってきました。場所が地下鉄出口のちょうどすぐ近くで、門を入るとすぐに尚蔵館ですので、夏の日差しにもあまり当たることなく助かりました。

お目当ては勿論螺鈿紫檀五弦琵琶です。これは本物ではなく復元されたものなのですが、実によくできていました。またこれは石田琵琶店の作ではなく、木工の坂本曲齋氏が本体を担当し、象嵌を新田紀雲氏、加飾を北村昭齋氏・松浦直子氏が担当して作り上げたものです。また糸は私も使っている丸三ハシモトが担当しましたが、上皇后陛下が育てた、国産の古代種の蚕「小石丸」の繭で作った糸を張ってあるとのことです。

昨年国立劇場での演奏会では、正倉院所蔵の四弦と五弦のレプリカを、私(四弦)と久保田晶子さん(五弦)が弾いて、新作を上演したのですが、その時のレプリカは、形はそのままに装飾の無いもので、演奏を目的として作られた楽器でした。今回のものは、第一級の工芸品として復元されたもので、また趣が違い、とにかく姿が美しかったです。

こういうものが長い年月を経ても伝えられ、また修復、復元されて丁寧に保存されているというのは、実に素晴らしいことです。その豊かな文化を何を差し置いてもリスペクトして行ってほしいですね。

雅楽は素晴らしい伝承力があり、敦煌で発見された琵琶譜など、そのまま今でも読めるのです。千年以上前のものをそのまま伝承しているというのは日本ならでは。アジアは勿論世界でも日本だけなのです。大陸では国境が変わり、民族も入れ替わって行く国が多い中、日本だけはずっと変わらず続いているのです。この世界一の長い歴史と伝承の力を、ぜひ良い意味で誇りにしてほしいものです。

トルクメニスタン マフトゥムクリ劇場でのリハ時

私のシルクロード趣味はなかなか筋金が入っていまして、子供のころからずっとその興味が途切れることはありません。私にとって琵琶は邦楽の楽器というよりも汎アジアを代表する楽器です。特に樂琵琶はまさにシルクロードがもたらしたものであり、その音もそのままシルクロードに飛んで行けるものだと常々感じています。

ウズベキスタン イルホム劇場で、拙作「まろばし」を演奏中 指揮はアルチョム・キム、
バックはオムニバスアンサンブル
シルクロードは単なる悠久のロマンというだけでなく、知れば知るほど、その歴史は壮絶なものがあります。その歴史の中で多くの物や人や文化が行き来し、また破壊もされ、それがまた各地域でオリジナルな形に花開いていったのです。先日見たバリ舞踊でも感じたのですが、その仮面は舞楽の蘭陵王に似たものを感じました。文化はあらゆるところに、様々な形となって伝播してゆくんですね。やはりアジアは古代から繋がっていたんだなと、改めて感じました。

かつてアジアでは漢字が共通言語でした。日本書紀などは外交文書として漢文で書かれていますが、アジア各国で多くの行き来があり、東アジア全体が一つの文化圏だったのです。興亡の繰り返しが延々と続き当時の人々にとっては厳しい場面も多々あったと思いますが、そうした中にあってもアジア全体が繋がり文化が伝播・創造されていったことを思うと、その紡がれた歴史に大いに惹かれるものを感じます。

ジョージア(当時はグルジア) ルスタベリ劇場公演終演後、当時のダイアスポラ担当大臣夫人、グルジア大使夫人と

今、日本は厳しい時代に入っています。特に外交問題は大変ですし、経済や少子化など国内でも様々な問題を抱えています。私のような小さな存在にはどうすることもできないかもしれませんが、そういう個人の小さな声を上げてゆくことは大事であり、正に今はそういう時代に入ったと思います。
日本は世界的に見れば、確かにまだ治安は良いかもしれませんが、もう安心に暮らせる世の中とは言い難くなっているように思えます。事件云々というよりも、人心が今危機に瀕しているのではないでしょうか。国が存続するには、経済も外交もとても大事なことですが、国民が心の豊かさを失ってしまったら、もう存続できません。目の前の楽しさを提供するだけのエンタテイメントばかりが氾濫するようでは、国は危ういと思うのは私だけではないでしょう。是非とも楽しいだけでなく、共感し感じ合えるような音楽が、もっともっと社会の中に出てきて欲しいですね。文化こそ国家であり、人間の基盤だということを、今こそ再認識するべき時代だと思います。

アゼルバイジャン バクー音楽院にて セミナー終演後の記念撮影

これからアジアはもっと協力しあっていけば、豊かな歴史になって行くと思うのは、各国の誰もが思っている事。個人的には各国に友人がいて、親しく付き合っているというのに、国家単位になると喧嘩状態では情けない。確かにそれぞれ負の部分もありますが、是非とも武器よりも楽器を手に取って共に奏でたいものです。

憎み合う、争い合うのは人間の本性という意見もよく言われます。シルクロードの歴史も同じく、人間の歴史は常に争いの歴史であり、だからこそ平和な時代を皆求めるというもの一理あるのかもしれません。しかしながら誰も戦争は望んでいないのです。憎み合い、争い合うのが人間の営みの基本になってしまったら、そこに音楽は生まれるでしょうか。どんなに悲惨な時代でも、基本は平和であり、笑顔があるからこそ、どの国でも音楽が生まれ、受け継がれてきたのではないでしょうか。
音楽の背景に哲学はあっても、音楽はイデオロギーを声高に吠えるものではない。私が近代の薩摩琵琶に於ける軍国的な忠義の心云々の歌詞に違和感を覚えるのもこの一点に尽きます。
音楽は主張し合うものでなく、むしろ自分と違うものに対して橋を架け、手を差し伸べるものであって欲しい。違うものが共存共生してこそ世の中であり、自然というものではないですか。私は今までもそういう想いをテーマにした作品を沢山創ってきましたが、共生こそは地球の存在そのものだと思いませんか。
多種多様な生物が暮らし、互いに生態系を支えて、この地球を形創っている。そこに優劣はなく、すべてが関わり、響き合って成り立っている。人間だけが勝手に優劣をつけて、争い合っているのです。

今までの歴史の上に立つ我々は、これまでの歴史がもたらした素晴らしい文化や芸術をこれからも継承し行くべきだと思います。そしてこれまで繰り返された戦争の歴史を乗り越えて、新たな人類共生の哲学を持たなくては、もう後がない。人も地球も壊れてしまう。目先の利益や小さなプライドで憎しみ合っていても、そこに未来は無いということは誰もが感じている事でしょう。
新たなる未来へぜひ命をつなげてゆきたいものです。

螺鈿紫檀五弦琵琶を見ながら、想いが巡りました。

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