舞台というもの2020

自粛解除の方向になって、世の中がだいぶ動き出してきていますが、秋の演奏会やイベントなどが、ここにきて次々に中止になってきています。主催者の方もやりたがらないし、キャンセル料がかかる前に中止して、年内はやめておこうという流れを感じます。人を集める演奏会や演劇公演など、今後開催して行けるのでしょうか?。世の中は本当にどこに向かって行くのか、先が見えないですね。
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ゲンロンカフェにて  画像はネット上から頂きました

先日は安田登先生と「ゲンロンカフェ」にて無観客によるライブ配信をしてきました。司会は山本貴光さん。いつもと感じが違いましたが、久しぶりに「舞台に立ってる」という感じで楽しかったです。今回は平家物語のお話でしたが、「経正」の話なども出てきて、ついつい脱線してしゃべってしまいました。すいません。大変面白かったです。やっぱりどんな場所でも舞台というものはいいですね。自分の生きるべき場所という気がしますね。
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月曜日には琵琶職人の石田克佳さんが来てくれまして、私の大型二号機をピックアップして行ってくれました。これで私の使う塩高モデルの琵琶5面は全て象牙レス仕様になり、心置きなくどこにでも琵琶を持って行って、暴れまわることが出来ます!。
糸口はこのように白蝶貝になります。月マークや覆手(テールピース)の部分も全て象牙の使用を止めて、貝や木などの素材に変更します。
元々塩高モデルは糸口以外には象牙をほとんど使っていなかったのですが、白いプラスティックを使っているところが少々あり、そんな部分も空港などでは象牙と疑われかねないので、そういう部分も全て、見た目が象牙チックな感じにならないような素材に変更してもらいます。5面の塩高モデルの状態は今とても良好に保たれているので、今回の改造で、更にレベルが上がるように調整していきたいですね。琵琶の状態をキープするのは本当に至難の業でして、サワリ、各柱のバランス、絃、ボディーの状態などなど、自分の思う形に調整できるようになるには、大変な時間と労力、そして経験が必要です。これほど手のかかる楽器は他に知りません。まあ歌の伴奏で弾く程度なら、ほどほどに整っていれば良いのかもしれませんが、私は弾き語りではなく「器楽としての琵琶樂」がテーマですので、楽器のメンテナンスに関しては絶対に妥協は出来ないのです。ヴァイオリンやギターの演奏家なら当たり前の話ですが、楽器の状態は音楽家としての生命線ですから、ここは譲れないですね。ギタリストなどは、プロでもアマでも皆さん本当にギターが好きでしょうがないという人が弾いているので、皆さん細部に渡ってかなりの思い入れを持っていますが、それが当たり前なので、拘っているという感覚すらないですね。むしろ琵琶人の様に、自分でサワリの調整もしないという方が、私には理解が難しいです。
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毎年6月は一年で一番忙しい時期でして、今年は例外とはいえ、色々と予定が入ってます。それもあって、今月中にメンテをやっておきたかったという訳です。先ず6月10日は琵琶樂人倶楽部が第150回目を迎えます。テーマは「薩摩琵琶で平家を聴く」という予定でしたが、歌唱を伴う演奏会は難しい状況でもありますので、今回はViの田澤明子先生をお迎えして、Viと琵琶による現代邦楽、それと琵琶の独奏曲などをお話と共にお送りします。
13日は安田先生と鎌倉能舞台。20日は毎年恒例の三番町ヒロサロンにて、フルートの神谷和泉さんと小さなコンサート。新作なども交えて楽しくやりたいと思います。そして27日はフラメンコギターの日野道夫先生、尺八の藤田晄聖君とのライブ。それからまだ未定ではありますが、30日には観世流シテ方の津村禮次郎先生と「良寛」の舞台も予定されています。

この感じでまた活動が再開して行くといいのですが・・。とにかく日常が戻り、何事に於いても皆が自分の目で見て、行動できるようになることを願っています。少なくとも芸術活動は、しっかりと自分の言葉で自分の世界を語るようになりたいですね。
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2016年の舞台「良寛」津村禮次郎先生と

自宅に籠ってネットばかり見ていると、自分の知りたいものだけが集まってきてしまい、いつしか自分の意見が世界の意見の様に思えてきてしまいます。こういう現象を「フィルターバブル」というそうですが、こんな中に身を置いていたら、自ら「村」を作って閉じこもっているようなもの。こういう時期にこそ、自らを振り返り、何かに囚われていないか、流されていないか、そしてプライドに振り回されていないか、じっくりと見つめ、次の時代を考える時間にしたいものです。世の中をしっかり見据えて、多様性に溢れる現実を受け入れなければ、どんどんと孤立してしまいます。この世の中に在って、はじめて自分自身が存在する意味も価値も出て来ます。閉ざされた中で命だけ保っていても、生きているとは言えない。地球そのものも、多様なものが存在してこそ生命となって、我々を育んでくれるのです。

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ゲンロンカフェにて  画像はネット上から頂きました

今後新たな形の活動に移行せざるを得なくなって行くと思いますが、どこまで行ってもリスナーあっての音楽です。特に琵琶の音は是非、皮膚の感触で聴いて味わってもらいたい。スピーカーから出た音でなく、生の振動を感じて欲しいのです。ネット配信で聴いていただくのは勿論嬉しいのですが、新たな形で、琵琶の生音を体験できるような方法を模索して行きたいです。この基本がなくならないように、そのためにも今は機会さえあれば舞台に積極的に立って、今後の舞台の在り方を模索して行きたいと思います。とにもかくにも私は舞台に立ってナンボ。どんな時代になったとしても舞台の上で、自分の音楽を奏でたいですね。
さて今日はこれから、6月末予定の舞台「良寛」の打ち合わせで、脚本和久内明、津村禮次郎両先生とミーティングです。盛り上がってきました!!。

5月の風 2020

福島 安洞院での公演より。津村先生と
世の中雰囲気が変わりましたね。今後がどのようになって行くか心配ではありますが、とにかく動き出してきたのは良いことだと思っています。私も6月からは色々と演奏会が入っています。琵琶樂人倶楽部は6月でちょうど150回を迎えますし、小さなサロンコンサートやライブ等々、ようやく少しづつですが、日常が戻ってくる感じです。それからもしかすると、また「良寛」公演が月末には実現するかもしれません。津村先生の他、今回は新たなメンバーも加わっての開催となりそうです。今年は9月の横浜能楽堂での津村先生との会が流れてしまいましたので、楽しみです。

急に世の中が動き出すとウイルス感染の第2波が心配ですが、総合的に考えると、これ以上のロックダウンや自粛状態では、ウイルス以外の要因での問題が増えそうな気がします。ソーシャルディスタンスやオンラインでのレッスンなどが加速する事で、人間本来の信頼関係やスキンシップがなくなってくるのは別の多くの問題に繋がるような気がしてなりません。確かに命には代えられないのですが、ただ生きていれば良いというものでもありません。疑心暗鬼でロボットのような人間が生きていても世の中は成り立ちません。現代はともすると思考優位で肉体性が無くなってしまいがちです。加えて潔癖脅迫症が蔓延しているような世の中では、生き物が生きてゆく上で破綻が見えています。

ネット上では多くの識者の皆さんが、今後のAiの発展を念頭に次の時代を語っていますが、私にはどこか違和感をいつも感じます。あちこちで爆発的なAiの進化による世界の事を聞きます。しかしそのような状況の中で「人間がいかに生きるべきか」という哲学を語る人はほとんどいませんね 。
バブルの頃と同じで、何でも欧米スタイルに憧れ、流暢に英語をしゃべり、先進国を飛び回り、どうすればシステマチックに合理的に仕事をこなすことが出来るかについては盛んに勉強されていますが、四季の風情などに心を乗せて行く感性は無駄だとばかりに皆さん眼中に無いですね。今第一線の政治家やビジネスマンで、日常的に和歌を詠む人はほとんど居ません。それは必要ないと思っているからでしょう。

しかし今までの「環境を破壊して物を作って行く」感性から、自然と一体化して共に生きて行く感性こそが、今後は重要な要因になってくるかもしれません。弱い所から搾取することで一部の人間が贅沢三昧で生き延びる資本主義のやり方は、「常に格差を世界のどこかに作り出す」方法です。これでは経営でよく言われるサスティナビリティー(持続可能性)はかなり低いのではないでしょうか。それよりも世界の国々と共に分かち合うやり方をした方が、環境破壊もせず、争いをせず、つまらない欲望をたぎらせることなく、幻想に支配されず、平和で、無駄なものを作り出さないで、総合的に一番効率良く人間が幸福感を感じて行けるかもしれません。

私如きには、何が良いか判りませんが、少なくとも言えることは、これまでのパワー主義、グローバルスタンダードという考え方自体が先進国中心の消費主義な訳ですから、その根底にある搾取の構造でものを考えていたらもう後がないという事です。
Aiは新たな感性と哲学の上に立って、初めて進化して行くものであり、これまでの覇権主義の延長で進化して行ったら、ターミネーターの世界しか待っていません。シンギュラリティーなどと横文字を並び立てて語るなら、先ずはその根底の哲学を語らない限り、明るい次代の姿は見えて来ません。今すぐにでも根本的な哲学・感性の転換が必要だと思うのは私だけではないでしょう。それともまたガンジス川やヴェネツィアの運河をドロドロに汚し、アジアやアマゾンの森林を焼き尽くし、世界の海を汚染し、大都市の大気汚染で癌になり、ジャンクフードでメタボになった体をサプリでダイエットするような世の中に戻りたいのなら話は別ですが・・・。
大国による覇権争いを繰り返し、経済、軍事によるパワーバランスで世の安定を保ち、世界中(先進国の事)どこにいても色んな物が手に入り、どこにでも行くことが出来、エンタテイメントを享受することが「豊かさ」だと思う感性のまま進んで行ったら、第2第3のコロナウイルスはまたすぐ確実にやってくるでしょう。目の前の欲望を満足させることを出来るのが本当に「豊かさ」でしょうか?。その発想では、地球の裏側の野菜が国内産の野菜より安く売っているという現実がおかしいと思わないし、毎日気軽に飲んでいるコーヒーの裏側にどれだけの搾取があるのかも感じようともしない。
今の私達の暮らしは、その背景に信じられないような過酷な労働力が無ければ実現しないのです。それは犠牲を強いることで成立する生活であり、その頂点のセレブという姿に憧れて、追いかけているその貧弱な感性はやはり歪んでいます。メディアに洗脳されているともいえるかもしれません。よく考えれば、どこか変だとは思いませんか?。労働力だけでなく地球環境をも犠牲にして得た、目の前の楽園幻想は、このまま続けていたらどうなるか、それがもう判らない程人間はおろかになってしまったのでしょうか。

日本橋富沢町楽琵会にて 私の琵琶を作ってくれている琵琶職人 石田克佳さんと

これを機会に現実に目を向け、今後世界全体が持続可能な社会になるよう、その感性、発想、構造から変えて行くようになって行くと嬉しいですね。そしていつも書いているように新時代には新時代のリーダーが必要です。明治に永田錦心という方が居て、昭和に鶴田錦史が居たからこそ、今私が琵琶弾きとして生きている。前時代の延長上にしか視線を向けられないリーダーでは、次の時代は創れないのです。時には以前のものを壊して行く勇気がなければ、時代は動きません。琵琶樂の世界は、昭和の鶴田錦史の登場以降、それが出来ませんでしたね。残念です。世の中が今後が良い方向に向かうことを期待しております。

さて、来月の演奏会に向けて、準備開始です!!

道を作る

異常なまでのGWも終わり、世の中が動き出していますね。これが今後どういう展開になって行くか、私には到底判りません。しかしウイルスを警戒することは何よりも重要であるものの、海外ではロックダウンによる自殺率の急上昇も報告され、コロナ以外での死亡が問題となっていることもありますので、もっと社会全体を見て判断する姿勢が必要なように感じています。大都市以外では緊急事態宣言も解除になるとの事。是非良い方向に行って欲しいですね。
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2019年あうるすぽっと 能楽師 安田登 浪曲師 玉川奈々福 各氏と

先日、某所で小さな会をやってきました。まあ本格的な演奏会をやる段階ではないので、リスナーも限定された少人数の極々プライベートなものだったのですが、2月の終わりからもう2か月以上舞台が無い状態だったので、楽しかったですね。琵琶もびゅんびゅん鳴ってました。今回は歌の曲は飛沫が飛ぶので遠慮してほしいという事で、独奏曲とデュオによる曲のみでしたが、「器楽としての琵琶樂」をいつも掲げている私にとっては「お任せあれ」という感じで、久しぶりに気持ち良く演奏させていただきました。

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「沙羅双樹Ⅳ」レコーディング時 Viの田澤明子先生と
今月の琵琶樂人倶楽部は残念なことに中止になったのですが、来月は開催も第150回目となり、ゲストにはCDでも共演しているViの田澤明子先生をお呼びして2います。新たな門出として充実したものをやりたいと思っております。
一方日本橋富沢町楽琵会の方は残念なことに、現在開催のめどが立たず、とりあえず秋までは何も出来ません。詳細が判り次第またご報告させていただきます。右上の写真は2月の日本橋富沢町楽琵会のもの。筑前琵琶の鶴山旭翔さんと充実した素晴らしい会をやることが出来ました。

しかしこれだけ家に居る時間があると曲創りには良いですね。普段から私は、「ぶらぶらしているようにしか見えない」と言われているんですが、有り余るほどの余裕があればこそ、創り出せるものもあるんだ、というのを確信しました!。音楽的な部分に関してだけ言えば、この籠城生活は何か与えられた時間という感じがしないでもないです。
これまでやっていた弾き語りの小品を3曲ほどブラッシュアップして、洋楽器とのデュオ曲を2曲(バラードとオリエンタルムードのもの)、そして独奏曲1曲(伝統的な都節音階によるもの)がほぼ完成しました。後デュオによる現代曲を1曲創って、独奏の現代曲「彷徨ふ月」を今一度見直したいと思っています。
ここ何年も、弾き語りの企画公演でない限り、自分で歌う曲は、プログラムの中で1曲だけにしてきましたが、今後は更に徹底して、器楽オンリーのプログラムを確立したいと思っています。声を使うのであれば、歌手や語り部を1曲ゲストに呼ぶ位がいいですね。とにかく「器楽としての琵琶樂」をさらに推し進めて行こうと思っています。この籠城生活は、そうした私のスタイルを創り上げ、今後の私の活動へとつなげる為にも大切な時間となっています。

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島根グラントワにて 語り部 志人さんと

常にNext Oneを追い求める気持ちがないと、音楽家は生きて行けません。得意なものをやって満足したらもう終わり。活動を次へと展開するためにも、一つのものに固執しないことですね。過去の成功例を追いかけていたら、次の時代へと続くものは創り出せません。音楽家でも学者でも、自分が一度創り上げ得たものを手放せない人がほとんどです。上手な人ほど、頭の良い人ほど、偉い人ほど、その姿は顕著に外側に現れてしまうものです。それがその人の器であり、一流となる人と、二流三流で終わる人の差でもありますが、どこまでできるかは別として、出来るところはどんどんとやって行こうと思います。

そして物事を持続させて次世代へつないで行くには、多様性を受け入れる事が、とても大きな要因となります。料理人でも、先代の味を追いかけ、先代のお客さんだけを見ていたら、サスティナビリティーはほとんどありません。師匠と同じでないとだめだとなったら、音楽でも料理でも師匠の命と共に滅ぶしかありません。自分の中に於いても多様性を受け入れるという姿勢は必要です。

素晴らしい先達は沢山います。しかし受け継ぐのは核の部分だけでいい。音楽においては、受け継ぐものは言い換えれば「匂い」のようなものだと私は思っています。技でも曲でも師匠そっくりな人を多く見かけますが、そのほとんどに「匂い」を感じたことはありません。系譜というものは、いくら名前を付けようが何だろうが、形で繋がるものではないのです。

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琵琶樂人倶楽部にて

今、世界は先代の轍の上を行くか、それとも新たな道を行くか、どちらに向かっているのでしょうか。ラテン語の格言に「私は道を見つけるか、さもなければ道を作るであろう」というものがありますが、生きて行くという事はそういう事ではないでしょうか。これまでの様に大国の懲りない覇権争い、それによる地球環境の壮絶なまでの破壊、資本主義、ショウビジネスやエンタテイメントという名の幻想と洗脳・・・。これからも依然としてこれまでと同じ道を進みつづけ、その中でお金やステイタスを求めるように誘導され、相変わらず迷いの中を蠢いていたいですか?。それとも次世代へとつなげる別の道を選択して自分本来の生を全うしたいですか?。コロナウイルスはそんな現実を突きつけてくれましたね。

私は私の道を作り、そろそろ始動します。

樂の音は遠く

5月はぐっと暖かくなり、毎年仕事も活発になって行く月なのですが、今年はこのさわやかに晴れた空に樂の音は響きそうにないですね。世界中がこんな状態というのは、人類史上例がないのではないでしょうか。皮肉なことに、コロナウイルスの蔓延で人が動きを止めたとたん、ガンジス川の水が透明になり、各大都市の大気汚染が改善されて、インドではヒマラヤがよく見えるようになり、ヴェネチアの水路の水質が向上しクラゲが現れたりと、人間が活動を止めると同時に、環境が本来の姿に戻っているようです
日の出 アゼルヴァイジャン バクーにて
人間は無理をして来たんでしょうね。地球ももう限界で、人間自体もキャパを超えて働き過ぎなのだと思います。先進国が追及してきた右肩上がりの「成長」は、結局誰かを、何かを犠牲にしなくてはありえない「幻想」であって、この地球に於いては間違っていたということです。資本主義経済は物の豊富さや、目先の便利さを目の前に具現化しましたが、決して人間本来の豊かさはもたらさなかった。それは人類を滅亡に追いやる魔術だったという事を、このコロナウイルスが証明し、また教えてくれました。
実は大気汚染が原因で亡くなる人はコロナどころではなく、毎年もの凄い数に上って

いますし、交通事故で亡くなる人も数知れない。ジャンクフードのお陰でどれだけの人が体と心を病んで死んでいるか・・・。資本主義経済活動の陰で考えられないほどの犠牲を払って生きているのが現代人です。それでも「成長」というカルト教団のような「教え」に憑りつかれて、それを信じて、顧みようとはしない。

今現在、中国はいち早く経済活動を再開し、他国に先んじて、ここぞとばかりにまた元のような大量生産を始めているようですが、すぐに欧米諸国も負けじと追随するでしょう。こうした世界の動きを、皆さんはどう感じますか。

敦煌莫高窟の壁画に描かれた楽人達

音楽にも同じことが言えるように思います。クラシックをはじめとして、ジャズもロックも、アスリートの様に技術を極めることが美徳とされ、凄い事ととされてきましたが、それで音楽は「豊か」になったのでしょうか。コンクールを勝ち抜き、音楽がショウビジネスへと急加速で変化して行き、「売る」ことにがつがつと熾烈な競争を繰り返している現在、音楽は大事なもの、大切なものを置き忘れ、その土壌を自らどんどんと破壊しているのかもしれません。
芸術家音楽家は、次に来る新たな時代に、何を創り奏でて行くのでしょうか。そして我々人類は次世代の哲学を創り上げ、次のステップへと踏み出すことは出来るでしょうか。今全世界が問われていると思います。

私は少しづつ出来そうな演奏会を始めて行こうと思っています。ネット上でライブ配信をしている人も沢山居て、皆さんそれなりに模索しながら頑張っていると思いますが、私に出来るのはやはり生演奏だと思います。今の所来週の琵琶樂人倶楽部は難しそうですが、出来る限りやって行こうと思っています。
鎌倉 其中窯にて photo 川瀬美香

もしかしたら資本主義というのものが、人類に沸いた強力なウイルスではなかったのか?。今私はそんな風に感じています。資本主義を推し進める人をエリートとして階級社会を形作って行ったことこそが、そのウイルスの蔓延であり、人類の過ちではなかったのか?。コロナウイルスも資本主義というウイルスのもたらした新種かもしれません。この期に及んでまだ全時代の大量生産大量消費の方向に先を争って再開しようとしている破滅的な現実は、第二第三のコロナウイルスをまた生み出すような気がしてならないのです。
大変な時代に出くわしました。それでも創り奏でるのが我々音楽家の宿命というものだと思っています。
樂の音が響き渡る世になって欲しいものですね。

Open your eyes

GWとなりましたが、緊急事態宣言も延長される見通しで、先が見えないですね。このまま延長されると、停滞するデメリットがそろそろ目立ってくるような気がしてなりません。ウイルスは勿論ですが、もっと目を大きくして全体を見ないと危うくなりそうで、大変心配しています。自分の五感全てを使ってしっかりと世の中を見て、真実を見極めていかないと、雰囲気に流され、惑わされて、振り回されて、すり減ってしまいまいそうです。

新緑の太田黒公園茶室脇

今は、作曲に専念する時期と決めて日々を過ごしています。器楽としての琵琶樂に、これまで以上に特化して行けるように、とにかくレパートリー全体の更なる充実を目指します。
このところは先月創った「バラード」の手直しと、今創っているフルートとのデュオ作品(タイトル未定)の推敲の真っ最中。途中気分を変えるために、今までやっていた短い曲をちょっと手直ししたりして、良い感じで充実しています。後は独奏曲と、もう一つデュオの作品をこの時期に創り上げたいですね。

こういう時は皆、技の衰えが気になり、いつにも増して練習をしている方も多いと思いますが、芸術家は記録を目指すアスリートではありません。どんな状況にあっても「創り」続けるのが本来の姿。戦争中だろうが、何だろうが、そこから発信して行くものです。これから新たな時代が始まろうとしている今、人々の感性も大きく変わるでしょう。大声でコブシを回して歌うスタイルが今では違和感があるように、今一生懸命維持しようとしている技は、もうこれから通用しなくなるかもしれません。技を追いかけるのではなく、どこまでも音楽を追いかけないと、ただの技を見せるだけの芸人になってしまいます。

常に前衛で在り続けるのが芸術家音楽家の本来のあるべき姿だと、私は思っています。今迄と同じ所を見て、今迄と同じような感じで舞台に立って、また活動を再開する・・・、そんな目線で次の時代が開けるでしょうか。明治の頃、そして昭和の戦後の時代の変わり目に永田錦心や鶴田錦史が活躍したのは、新たな時代の琵琶樂を創り上げたからです。今そこが見える琵琶人が居ることを願ってやみません。

しかしなかなか経験と年齢を重ねていくと、最前線で居るのは難しくなりますね。自分のやり方やペースが出来上がってしまうと、なかなかそこから抜け出せなくなりますし、こんな状況に追い込まれると、ついつい身近な仲間で何か出来ることをやろうとして、何か動画配信でもやると、やったことで満足してしまう。それは一番気を付けないといけない所で、知らず知らずの内に自分を取り巻く世界の中に、自分自身がからめ取られ、閉じこもって、果ては萎んでしまう。創造するには、自分の築き上げてきたものすら破壊し、革新して行くようでなくては、ものは創り出せません。ただ表面の形や姿を変えて活動するだけになってしまいます。

琵琶樂人倶楽部にて photo 新藤義久

本当に厳しいと思いますが、そんな時パートナーが居ると心強いですね。個人的な人生のパートナーから、仕事のパートナーまで様々な付き合いがあると思いますが、気の合うお友達ではなく、それぞれの形に於いて、深い所まで心を開いて話が出来、共に歩み、生きることを分かち合えるパートナー。そんな人が居る人は心もポジティブな状態でいられます。そのためには、自分自身も自立して生きている事です。寄りかかり、傷を舐め合うようになってしまっては、パートナーシップは築けません。私はその自立した状態を「静寂を持っている」と表現しているのですが、自分の意見を持って個として生きてこその、パートナーシップだと思っています。
若い頃は突っ張りまくって、常に何かと戦う事でテンションを上げていたのですが、今はやっと落ち着いてきました。戦いもせず寄りかかりもせず、自分がありのままで、自由無碍な自分で居る。しがらみなどは勿論の事、自分の築き上げてきた過去にすら囚われることなく、淡々と自分の足で明日に向かって生きて行く、そんな「静寂」を常に持っていたいものです。

少しお知らせを
昨年担当したeテレの「100分de名著」が再放送されることになりました。時間は以下の通り、再放送の更に再放送があるので、ちょっと判りずらい表示なのですが、HPを是非ご覧になってみてください。

5月4日 6日
5月11日、13日の4日間で、それぞれの会に再放送が以下のようにあります。
第一回
5月4日(月)午後10:25~10:50
再放送
5月6日(水)午前5:30~5:55
5月6日(水)午後0:00~0:25
第二回
   5月6日(月)午後10時25分~10時50分
再放送
5月8日(水)午前5時30分~5時55分
5月8日(水)午後0時00分~0時25分
第三回
5月11日(月)午後10:25~10:50
再放送
5月13日(水)午前5:30~5:55
5月13日(水)午後0:00~0:25
第四回
  5月13日(月)午後10時25分~10時50分

再放送

  5月15日(水)午前5時30分~5時55分
  5月15日(水)午後0時00分~0時25分

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