師走の空

2020ー12セルリアンイナンナ1先日のセルリアンタワー能楽堂での「東西の冥界下り」は賑々しく終えることが出来ました。盛りだくさんの内容で、上演も5時間に渡って(勿論休憩をはさみながら)の公演でしたが、無事に上演が出来嬉しかったですね。

年内は25日に「耳なし芳一」の新たなヴァージョンの収録と、27日にJCPM(japanese culture promotion and management  https://www.jcpm.jp/)の企画による収録の2本で終了です。今年は春から、とんでもない状況でしたが、色々と声をかけて頂き、良いお仕事をさせてもらいました。実現しなかったことも数々とありましたが、その分見えてきたことも多かったですね。

ここへきてコロナウイルスの状況も新たな変化が出て来ました。もうこれからは今までの延長としての未来を考えることが出来ませんね。変化の速度もあまりにも急で、色んな物事が想像つかない速度で変化して行ってます。ここ数年よく言われている「2045年シンギュラリティー」も、もっと早い段階で迎えるでしょうね。
こういう事態の中にあって、どうすべきかなんてことは私には全く判りません。この先の自分に与えられた運命は判りませんが、どんな事態になっても生きて行くという事だけは確信しています。


1ギャラクシティープラネタリュウムドーム
演奏会は当分通常のようには開けないでしょうね。左の写真は今年の2月にやったギャラクシティープラネタリュウムドームでの写真ですが、この時は、終演後の打ち上げ会場で、代表の方に「来週から休館にするよう」運営本部から電話がかかって来ました。間一髪での上演でしたね。来年も1月23日にギャラクシティードームで「銀河鉄道の夜」をやる予定なのですが、ちょっと心配です。
出来る事なら来年は是非作品を録音して残しておきたいです。「四季を寿ぐ歌」の他にも色々と録音しておきたい作品が溜まってきました。その為にはもっと譜面も今一歩詰めて書き込んでおかないといけないし、アンサンブルの方も充実させないといけないのですが、集まって練習することが出来るかどうか・・。録音しておきたい作品はいくつもあるので、何とか実現したいですね。

このところ昼間の天気は良いし、朝陽が射してくる時や、夕暮れ時の美しさには、毎日感激しています。この穏やかな姿と、目に見えないコロナウイルスという真逆の日常からは、様々な想いが湧き上がり、渦巻いてきますね。コロナウイルスは、自然と共に暮らすことを忘れてしまった人類への警鐘とも言われていますが、私の頭で考えても現代人の暮らしは、随分と歪んでいるように思います。今後Aiによりすべてを管理されてゆく世界へと歩みを進めるのか、それともAiを活用しながら、有機体としての人間本来の姿を模索するのか・・。

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新宿区主催の「小泉八雲生誕170年記念『漱石と八雲-文豪たちが見た世界と日本』~能で味わう漱石・八雲の世界」の舞台より能楽師の安田登先生、笙奏者のカニササレアヤコさん、私


これからは芸術家が、その方向性を示して行くだろうと私は思っています。ネット配信で世界と一個人の音楽家が繋がっているように、今後は個人と世界が、国境の隔たりを感じることなく繋がって行くようになるでしょう。経済の在り方も政治の在り方も、国単位では考えられなくなるでしょうし、お金の在り方ももう変わりつつあります。
そう遠くない将来、人間の命の在り方も変わってくるのではないでしょうか。既に人間から「老い」というものが無くなりつつある、なんて研究も世間には知られていますが、トランスヒューマニズムがどんどんと加速して、肉体という概念も大きく変わって行くことと思います。これまで人類が辿って来たものとは違う人間の在り方が、もうすぐ目の前にあるのです。

伎芸天m

技芸天


こういう時代に在って、従来の枠を超えて先頭を切るのは、芸術家しかないのではないでしょうか。これが「風の時代」という事なのだと私は考えています。従来の国家、人種、イデオロギー、会社、性別、年齢、格差etc.などは、もうこれからはどんどんと曖昧になるだろうし、既にそんな所を超えている人は沢山居ます。特に芸術家には既に実践して生きている人が多いのは皆さんご存じの通り。
本来古典、特に能などでは、時間も性別も身分も超えた世界が描かれています。そんな崇高な芸術が既に日本には室町時代からあったのですから、もしかすると次の時代を示して行く芸術は、日本から生まれるのかもしれませんね。目の前の小さな事に囚われず、大きなヴィジョンと実行力のある邦楽人を望むばかりです。

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photo 新藤義久


今年は年賀状を出すのをやめました。私はお陰様で何とか過ごせましたが、とても「明けましておめでとう」という言葉は、今吐くことは出来ません。
新たな時代が見えてきた時、皆に何かしらの挨拶が出来たらいいですね。


「漱石と八雲」新宿区

先日の新宿区主催の「漱石と八雲」はYoutubeにて動画が公開になっています。ご覧になって観てください。


受け継ぐということ2020

先週末は麻布区民センターホールにて、劇団アドック公演「雛」(昨:芥川龍之介 脚本:神尾哲人)の音楽を担当してきました。

劇団主催の伊藤豪さんと三園ゆう子さんと出逢ったのは、もう20年近く前だったように思いますが、これまで様々な作品の音楽を担当させていただきました。この「雛」だけでも3回やっています。2014年には川崎能楽堂にて、琵琶・筝・尺八と共に三園さんの一人語りの形で、三浦綾子原作の「母」をやったこともあります。今回も楽しくやらせていただきました。

笛の小泉なおみさん、主演女優の三園ゆう子さんと
今回の音楽は、笛と琵琶のみによる演奏。相方は笛奏者の小泉なおみさんでした。小泉さんとは島根グラントワで以前ご一緒していましたので、最初からとても良いアンサンブルが出来上がり嬉しかったです。曲は新たに「雛」のテーマを私が作曲して、更に小泉さんが伴奏などを付けて編曲したヴァージョンも作ってくれたので、劇中だけでなく、終演後にも流してもらいました。小泉さんはモダンなセンスと技を持っている演奏家なので、今後もライブなどでお手伝いして頂こうと思っています。

私は琵琶で活動し出した25年前から、ずっと毎年演劇やダンスの舞台の音楽を担当してきました。アングラな劇団から、舞踏、バレエ、コンテンポラリー、能、日舞、地唄舞、フラメンコ、中国舞踊…もう何でも来いという感じで、毎年やらせてもらっていますが、とにかく舞台を皆で創って行く感じが面白いです。普段私は、一人かせいぜいデュオばかりなので、大人数でワイワイ言いながら、様々なやり方で作品を創り上げやって行くのは、とても新鮮なのです。
ダンサーや役者の方々と音楽家はエネルギーの出し方が違うので、基本的に全体のやり方はお任せして、口は出さないのですが、私はどうにも天邪鬼なので、公演中も様々なアドリブを入れて、アプローチをしています。今回も琵琶ソロの部分は毎回アドリブ。最終日はちょっとカマしてしまいました。すいません。

ロビーに飾った雛人形を前に、劇団主催の伊藤豪さん、小泉さん、三園さんと

アドックではこの「雛」が旗揚げの作品で、その他三浦綾子の作品を多く上演しています。小林多喜二の母の語りで始まる「母」や「壁の声」「青い刺」等重厚な作品を多く取り上げています。楽しくて、軽いスタイルの、現代的な演劇とは違いますが、門外漢の私でも、稽古からずっと付き合っていると、そこには一舞台人として、芸術家として多くの得るものを感じます。こういうオーソドックスな社会派の演劇は、流行りではないかもしれませんが、特に若手の方には、ベテランから直接指導を受けることが出来る、良い勉強の場でもあると思います。是非是非頑張って欲しいですね。

芸術系に関心の高い若者は、ともすると前衛的なものや、流行の最先端を行っているものに目が行きがちで、オーソドックスなものを軽視しがちです。特に現代の日本では、美術や演劇が好きだというアート系の人と話していても、ほとんど古典文学や古典芸能の話は出て来ません。知識も無いし、自国の古典に関心がない。最先端の情報はどんどんと流れてくるので、最先端を知らないと「時代について行けない」などと思って、そちらにばかり目が行くのでしょうが、是非自分の足元に多くの遺産があることに気付いて欲しいですね。まあ流行りもの、舶来ものに弱い日本人特有なのかもしれませんが・・・。
先週の琵琶樂人倶楽部にて
世界一の長い歴史と文化を誇るこの日本に於いて、平家物語一つ知らない人がほとんどというのはどう考えても、今後の日本にとってもったいない。戦後の教育の失敗だと思います。古典の中に次の時代を生きるヒントは山のようにあるし、現代の抱えている問題も古典を通して見えてくる。何故なのか??。それは長い時間を経て、様々な時代を経ても尚残ったものだからです。目の前の情報ではなく、その時の流行りでもなく、この風土の中で生き抜くための、普遍的な基本情報のようなものが、古典の中には詰まっているのです。せっかく世界一の情報が目の前にあるのにそれを見ようとしないのは、もったいないとしか言いようがありませんね。
これは芸術の部分だけでなく、日常の暮らしに於いても言えることで、現代の日本では、「受け継ぐ」という事が、まるで出来ていないように思えるようなことが多々あるのです。日々とても危ういものを感じています。
私自身、日本音楽の最先端に居ようと常に思っていますが、過去があるからこその最先端なので、古典やオーソドックスなものは常に視野に入れています。入れなければ、とても最先端には居られません。古典を知らなければ何が新しくて、何がただの焼き直しなのかの判断すらつきません。
今回のような演劇舞台は、派手な演出がある訳ではなく、大変地味なものです。しかし受けを狙ったり、奇をてらったりするものになりつつある現代の舞台において、人が舞台に立つための大切な内容が、そこにはあるように思いました。芥川の書いたこの作品自体が先ずは素晴らしいし、更に脚本演出の神尾哲人(伊藤豪)さんが受け継いできたものは、その前に何代にも渡って受け継がれてきたもので、そこには大きな蓄積があるのです。舞台人として
の大事な、大切な言葉がち散りばめられて作品となっているのです。是非若手にそれを受け継いでもらいたいですね。

古典のレールの上に乗る必要は無いし、アイデアに関しては、古典に関係ないような新しい頭脳から出てきたものにこそ新鮮な魅力があったりもします。古典を大事にすることと、寄りかかることは全く違うので、古典を勉強してエリートのような顔をしているのはただの俗物。愚の骨頂です。ろくに受け継いでいないのと同じです。そしてそんな人が古典の世界には沢山居るのも事実です。
しかしだからといってそこで古典と断絶するのではなく、今こそ素直な感覚で、世界一の歴史を誇る日本の古典に接し、そこから次世代の舞台を創り出して、更に次の世代へと繋げて行ってもらいたいですね。

今年は、舞台に立てずに終わろうとしている人もいる事でしょう。こんな時に、私は有り難いことに大小様々な舞台に立たせてもらっています。明日はセルリアン能楽堂にて、東西の冥界下りという舞台もやるのですが、実に面白い内容になっております。残念ながらチケットは既に完売とのことですが、また別の機会に、どこかで再演が出来たらいいな、と思っています。
どう受け継ぐかも確かに才能の内ですが、どう受け継がせるかも我々世代の大きな課題だと思います。この日本の滔々と流れる素晴らしい文化を、次世代に、またその先の世代に繋げて行きたいですね。文化こそ人間。この灯を消してはならないのです。

追伸:18日より、先日収録した「小泉八雲生誕170年記念『漱石と八雲-文豪たちが見た世界と日本』~能で味わう漱石・八雲の世界」~新宿区夏目漱石情報発信事業の動画がYoutubeで配信されています。是非ご覧ください。

想いの空

琵琶樂人倶楽部にて、安田登先生、名和紀子さんと

先日の琵琶樂人倶楽部は、沢山の方にお越しいただいて、大変充実した会となりました。小さな会場ですし、こういう時期でもありますので、何人かお断りをするような形になってしまいましたが、これからも内容充実でやってまいりたいと思います。今後共宜しくお願い申し上げます。
左:浄瑠璃寺、中:高天彦神社参道。右:高鴨神社

琵琶樂人倶楽部にて  photo 新藤義久
私はあまりデジタルが得意でなく、SNSも一切やっていないし、せいぜいこのブログとメールを書く程度の、超アナログ派なので、何とか時代にへばりつきながら生きて行くしかないだろうと思っていますが、PCやデジタルツールなどの生活システムという部分よりも、一番心配しているのは、現代人の「想像力の欠如」です。
ネットの記事や書き込みなどを見るにつけ、いつもその「想像力」の無さに残念な思いを感じてしまいます。プロであるはずのライターでさえ、物事の背景や裏側への視野にかけるような文章を書いている例が多いように思います。自分と違うレイヤーに生きる人が居て、全く違う生き方があり、感性があるという事が理解できないのでしょうか・・・。世の中に起こる事件などを見ても、自分の世界以外の物を想像出来なくなっているような、痛ましいものが大変多いように思います。またそれに対する意見を見聞きしても、もうこの国は終わりか、と思えるような言葉ばかりが並んでいますね。今、心が失われてきている。私には、そうとしか思えません。こうした現代日本人の姿はかなり深刻な問題ではないかと思えて仕方がないのです。

世の中の流行りを見ても、目の前が楽しいものが全てになりつつありますね。じっくり考え、味わうものは大変少ないです。日本は、江戸時代から歌舞伎に代表されるように、何でもありの目の前を楽しませるエンタメが大流行ですが、そういうものと同時に、深く感じ、想いを馳せるような芸能も、かつては沢山存在していました。
アバークロンビー2ジョン・アバークロンビー「Current Events」
現代の音楽家は、喜怒哀楽の感情を歌い上げるのが「表現する」事とばかりに、声を張り上げているものが多いですが、哀しみの裏側にある心、喜びの背景にある情景等々、何か喜怒哀楽のもっと奥深い所が忘れ去られているような気がしてなりません。表層の感情ばかりでは味わいは感じませんね。
70年代、80年代辺りまでは、そんな流行りのポップスと同時に、リスナーの想像力を刺激するような音楽を創るレーベルがまだ頑張っていてリスナーもそういうものを求める人が多く、結構世界に受け入れられ、CDやレコードの売り上げも大きかったように思います。私の世代だとECMレーベルなどはその筆頭でしょう。キース・ジャレットの「ケルンコンサート」等はもの凄いセールスを記したし、アルヴォ・ペルトの諸作品は、現代音楽の新たな分野を世に紹介し、これもまたかなりのセールスを実現しました。私はラルフタウナーの「ソロコンサート」、ジョン・アバークロンビーの「Current Events」などの作品等々、ECMレーベルの作品から、かなりの影響を受けました。これらの音楽は聴くと同時に、感じる音楽でした。
琵琶樂人倶楽部にて、安田登先生、名和紀子さん、晄聖君

世の中のものは、どんなものでも様々なタイプのものが溢れているのが無理の無い状態だと常々思っていますが、今では、どんなものでも感じる事よりも楽しむことが優先というものが多いですね。生活すべてがあまりに便利になってしまって、想像力をさして使わなくても生きて行けるようになってしまったので、周りの物や人と関わるという、人間の基本が崩れてきているように感じるのは私だけではないと思います。何か根幹が危うくなっていると感じられて仕方がありません。

その反面、表面の体裁やルールは取り繕おうとして、自粛〇〇の様に、中身より目に見えるルールを守る事で満足し、またそれを盾に攻撃することで、自分は正当だと思い込む。何故そういうルールなのか、どうして行けば、皆が気持ちよくウェルビューイングで暮らして行けるのか、そういう事に想いを馳せることをしないですね。近視眼的で表面的な思考は、対立とトラブルをどんどん生んで行くように、私は思えて仕方がないのです。

ヴィオロンにて、朗読の櫛部妙有さんと  photo 新藤義久
寄ってかかるものを見つけ、そこに身を寄せている事で安心し、中身を考えようとしないのは、日本人の特性なのでしょうか。想像力は人間の生きる術の最たるもの。月を見て、歌を詠むこともなくなった日本人に、明日はあるのでしょうか。

豊かな音楽を創って行きたいものです。

自然(じねん)ということ

またコロナの感染が増えてきて、今後の見通しか立ちませんね。来年も波乱の一年になるのでしょうか・・。舞台はどうなってしまうのでしょう。いずれにしても、魅力ある音楽が響く世の中であって欲しいものです。

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今年最後の琵琶樂人倶楽部は、年末恒例のお楽しみ企画。今回は尼理愛子姐さんと尺八の藤田晄聖君。そして今回はスペシャルゲストとして安田登先生が、いつも率いているノボルーザの名和紀子さんと共に、漱石の「夢十夜」の中から「第一夜」と「第三夜」をやってくれます。勿論私も入り、第一夜では晄聖君も絡んでの演奏となります。会場のヴィオロンはとても小さな名曲喫茶でして、以前は特別な会の時にはぎゅうぎゅう詰めに座ってもらっていましたが、こういう時期でもありますので、空間を確保するためにも、今回は完全予約の形で、15名様限定でやることにいたします。いつもふらりと来ていただけるのが琵琶樂人倶楽部の良い所なのですが、今回は是非ご理解をお願いいたします。
宮本武蔵

先日の記事で「而」の事を書いたのですが、大変反響がありました。ありがたいことです。この「而」と共に私は、ここ数年でよく考えているのが、「自然(じねん)」です。仏教や武道では自然を「じねん」と読みますが、これは「はからい」または「必然」なんていう言葉で言い換えることも出来そうです。
人間は、何かをしようとする意思は誰しもあるし、それがあるからこそ、世の中が出来上がるのですが、「自分でやってやる」という個人の考えや作為よりも、「どうしてもそこに行くしかない」というような「はからい」や「導き」に身を任せると、個人を超えた世界が出て来るような気がします。これは私個人のこれ迄の経験から感じている事ではあるのですが、強い個人の意志だけでは届かない、もっと先の世界があるような気がしてなりません。

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30代の頃、邦楽ライブハウス和音にて
若い頃は何に於いてもポジティブシンキングという事が第一で、強い意志が明日を創ると信じていました。しかし今は、それだけでは世界が小さ過ぎると思えてならないのです。個人の力でブイブイやっていても、かえって限界しか見えて来ません。音楽活動も、頑張るのは勿論結構な事ですが、自分が何かに「導かれる」ことを意識した時から、どんどんと広がって行きました。自己顕示欲を振りかざし、つまらない虚飾や肩書を纏い、凄いぞオーラを出してガツガツやっても、かえってその器の小ささが見えるように、個人という視点をいったん外した方が、大きな世界に繋がり広がって行くという事を、ここ20年で経験してきました。それは同時に自分自身であり続ける事であり、何にも囚われない素のままの自分を体現する事でもあると思います。活動も音楽そのものも、自分らしい「じねん」であるものには揺るぎないものを感じます。またその感覚を持てるかどうかという事が重要な要素だとも感じています。

某老舗のギターメーカーのゼネラルマネージャーは、若き日、初めてその会社の工房に職人として入った時に、「必然が系統立てられたようなギター制作の工程」に感心したと語っていますが、正に「じねん」とはこのことなのではないかと私は思いますし、また伝統や流派の型とは、そういうものだろうと思うのです。長い年月を経て伝わった型は、既に余計なものはそぎ落とされ、個人という小さな領域も超え、必然だけが残っている。創始者のスペシャルケースの技や形はとうに乗り越えていて、その流派なりの仕事をする上でのゼネラルケースが「じねん」で出来上がっているのではないかと思っています。
形や体裁を極端に求め、作りたがる日本人は、何でも伝統やら古典という形を纏いたがります。しかし付焼刃的な体裁に「じねん」はありませんし、また中身の内容も判らなくなってしまい、外側だけの体裁を残しているものは結局廃れて行くのではないでしょうか。

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原宿アコスタジオにて

そして「じねん」には陰陽のバランスが整っているという事も、このところよく感じています。一つの節、そして一つの動作の中にも陰陽を感じますね。以前から陰陽の存在を感じてはいたのですが、武道を通して、陰陽があらゆる面に渡っていることを明確に感じるようになって来ました。全体に、そして細部に渡って、あらゆる単位に陰陽が存在するのです。

逆に陰と陽ではなく、陽と陽になったり、陰と陰になったりすると、存在の在り方が変りますね。そこにはある種のパワーが出たり、魅力も発すると思いますが、これは結構危うい。スキも多くなりますし、視点が一つになってしまって周りが見えなくなって、己のパワーだけで動いてしまう。これでは持続性も無いし、とても脆く、崩れやすい気がします。陰陽がバランスよく整うと、周りと調和して、無理がなくなり、全体が「じねん」につながる。そんな風に感じています。

今世の中を見てみると、どうも陽と陽になっているものが多いように感じます。確かに元気は良いのだけど、底が浅く、一発屋的で、しかも危なっかしい。思うに自分の外に軸を持っていると、外側の軸で自分も他人も、物事全てを測るようになって、それ故に常に自分を誇示し、確認しようとしてしまうのではないでしょうか。自分の中の軸を見失ってしまうと、本来自分が生きてゆく上で大事なものには目が行かず、さして必要の無い~お金や地位、学歴、他人に対しての優劣等々~ものに振り回されてしまいます。当然そこには「じねん」も陰陽も存在し得ません。

この「じねん」、そして陰陽は音楽活動についても言えることですし、曲創りにも、日々の行動全般にも渡っています。何か上手く行かない時、もやもやする時は、少し自分を見つめ直したり、周りを眺めたりしながら、陰陽のバランスを確かめ、自分のやっていることが「じねん」になっているかどうか確かめるようにしています。

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2011年1月の琵琶樂人倶楽部、琵琶製作者の石田克佳さん、古澤月心さんと。3人とも若いね~~

琵琶樂人倶楽部も独自のペースでやったのが良かったですね。だから14年続いたのだと思います。あくまで自分のやれることを、自分で考えながらやって来ました。一つの視点や、考え方、そして一つのレイヤーに固執せず、流派からもジャンルからも飛翔独立して、幅広く声をかけていたからこそ、陰陽のバランスも整い、人が集ってくれるのだと、最近は感じています。
これからも「じねん」そして陰陽の二つを崩さないようにやって行きたいですね。

12月9日(水) 19時30分開演
場所:阿佐ヶ谷ヴィオロン
出演:塩高和之(司会・琵琶)
   ゲスト 尼理愛子(琵琶)藤田晄聖(尺八)
   スペシャルゲスト 安田登(能楽師) 名和紀子(俳優)
演目:まろばし~尺八と琵琶の為の  西風~尺八と琵琶の為の  風の記憶~琵琶独奏のための
   夢十夜(第一夜 第三夜)他
料金:1000円(コーヒー付)
要予約 限定15名様
   

而~「魔術的時間を呼び出すための無為の重要性」

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人形町VIJONSにて

今年は安田登先生に声をかけてもらう事が多く、随分と沢山の舞台をやってきたのですが、先生の舞台はパフォーマンスだけでなく、必ずお話しのコーナーもあります。そこでは時々論語の話が出てくるのですが、その中で「而」という言葉にいつも感心してしまいます。「温故而知新」の言葉の間に入っているあれで、「しこうして」と読まれて、特に意味のない字の様に扱われ、訳されもしないことが多いのですが、これを先生は「魔術的時間を呼び出すための無為の重要性」と解説しています。これに私はピンと来るものを感じました。正に私の為にある字だと思えてならないのです。また今、この字は社会にとっても必要な字ではないかと、このところ感じています。

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ヴィオロンにて photo新藤義久
私は、自分では琵琶弾きとして先頭を切って飛び回っている方だと思うのですが、周りの人からは「いつもブラブラしているみたいだけど、毎日何やってんの?」と常に聞かれます。今日も言われました。まあSNS等一切やらず、自分の活動を周りにアピールすることもしないので、世間の方からすると確かに暇人風に見えるのでしょう。私としては忙しい人に見られるるよりは、ぶらついているように見える方が嬉しいのですが、ブラブラとほっつき歩くのも仕事の内と思って、のんびり自分のペースでやってます。

天才といわれる人はどうだか知りませんが、私は曲を作っても、何度も推敲を重ねてないと仕上がりません。レコーディングした曲でも、その後に編曲を施したものが少なくないですね。8thCDに琵琶の独奏曲として収録した「西風」は結局デュオ曲として今演奏していますし、同じく「彷徨ふ月」もかなり編曲をし、「壇ノ浦」の崩れもレコーディング直後に手を入れました。CDには手慣れた曲でなく、常にその時の最先端を入れるようにしていますので、1年も経てば結構変わって行く曲が多いです。

曲を創るまでの時間も、創ってからレパートリーになるまで熟成させて行く為の時間も、正に「而」。一見効率の良いやり方には見えないかもしれませんが、そこは「魔術的時間を呼び出すための無為の重要性」という訳です。ずっと寝かせておいたアイデアが、ある時にふと具体的に成ったり、何となく見直した譜面から、劇的なアレンジが浮んできたりするもので、こうした瞬間は、がちがちと毎日努力したのでは現れません。ぶらぶらした時間が在ってこそ目の前に出現するのです。
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昨年12月の日本橋富沢町楽琵会にて、Vnの田澤明子先生と

私は、演奏会が続いている時は別として、それ以外は大体、週に1回か2回程大小の舞台に乗っている感じで、ふと1週間程何もない時もたまにあります。お教室をやっている訳ではないので、暇なときは本当にのんびりとさせてもらってます。今はちょうどその時期で、今回は二週間程ぶらついているという稀な時間を楽しんでいます。
前から書いているように、ほぼ全ての仕事で自分の曲(及びアドリブ)しか演奏しないので、いわゆる皆さんが想像しているような練習はほとんどしません。私の毎日は曲を創る事と、創った曲を推敲することです。自分の作った曲に関しては、常に頭の中であれこれとアイデアが巡っていまして、何度も何度も譜面を書き直しています。それをしなくなる頃に、やっと自分のレパートリーとなって行くという寸法です。正に曲が「而」の時間を過ごしているという事でしょうか。

一方琵琶の調整には、かなり膨大な時間を割いて、これだけは誰にも負けない位時間を費やしていると思います。それくらいしないと思う音は出て来ないし、常に音色は追及して行かないと音楽は命を保てません。他のジャンルでは当たり前のことです。薩摩琵琶は日々の「サワリ」の調整を自分でやらないと、まともに鳴ってくれません。歌の伴奏でちょっと合いの手で弾けばよいというような、お稽古事を楽しんでいる人は別として、演奏家として生きて行く人には、楽器の調整は必須の事であり、それだけ楽器が自分の体の一部のように感じられないようでは、音楽は創れません。少なくとも薩摩琵琶のような手のかかる楽器の演奏家には向きませんね。歌手が24時間常に喉の状態に気を遣っているのと同じです。私の日々の中で、サワリの調整は毎日の食事やシャワーを浴びるのと同じようなレベルでやっています。ちょっと気にかかるとか、忘れるという次元のものではなく、もう生きて行くための当然の営みになっています。
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兵庫県芸術文化センターホールにて。俳優の伊藤哲哉さん、コントラバスの水野俊介さんと「方丈記」公演 映像はヒグマ春夫さん
先日も俳優の伊藤哲哉さんが我家に来てくれて、早速夕方早い時間からウイスキーを吞りながら、長い事お喋りしていましたが、こういう「而」ともいうべき時間が、大いなるものを生み出すのです。特に伊藤さんと話していると、芸事の先輩でもありますので、色んな発想・アイデアが浮かんできます。

この「而」の時間は演奏会が続いているとなかなか持てないのです。先月は毎週旅の空でしたので、「而」の魔術的時間が持てませんでした。だから暇であるというのは、何かものを創り出す人にとって、とても大切なことであり、自分自身が暇人で居ることが出来るというのは、芸術家の才能の一つとも言えます。
大体人間は忙しくしている方が充実感が持てるので、暇にしていると「何かをしなくてはいけない」と焦り、それが出来ないとまるでダメ人間のように思えてきたり、また定収入が無い事で不安が募ってしまって、創作どころではない状況に陥ってしまう方が多いです。精神的に、また経済的に追い詰められて音楽から離れて行く人をこれまで沢山見て来ました。彼らの気持ちは、自分の実感として痛いほどによく判ります。たまたま私は死なない程度に、音楽で収入を頂いてきましたが、とにもかくにも暇人で居られるというのは、この現代社会の中では、なかなか難しいというのが実感です。
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ナレッジカルチャーアカデミーにて。先生らしく立派そうですね??。

何かを創り出すには勉強も確かに必要です。琵琶のような古い歴史がある楽器は、古典の芸能や文学等、お勉強ネタには事欠きません。琵琶弾きとして仕事をやって行くには、こういう勉強は必須ですし、またかなり興味を持ってこうした部分にも接する位でないとプロとして仕事にはなりません。演奏だけしていれば良いというものではありません。
何事も勉強は死ぬまで続くのですが、気を付けなければならないのは、音楽家と学者は全くの別のものだという事。音楽家は勉強や練習オタクに陥ったら、もう音楽家としては成り立ちません。人間、知識を得ると、何か世界が広がったような気がするものですが、それは大いなる幻想。その知識を超えて、そこから新たな世界が見えてきて、初めて「広がった」のであって、知ることは土台でしかないのです。

邦楽をやっていると、大学で特別授業を頼まれたり、ちょっとした講演をお願いされることは多々あります。大学の講師だとか、何だかアカデミックな肩書を付けたがる人が多いですが、そういう所と音楽活動は切り離して行かないと、頭の中が音楽家・舞台人になって行きません。お勉強はどこまで行っても芸術ではない。そういう所から離れて初めて「而」の時間が現れて、様々な魔術的時間が目の前に広がって、作品が生まれて行くのです。曲でも舞台でも生み出し、創造して行くという事が我々の仕事。そこを無くして我々は存在し得ません。
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9月の赤坂「遊雲」ライブ後の打ち上げにて、メゾソプラノの保多由子先生、尺八の藤田晄聖君と

しかしながら世の中は効率主義で何でも計ります。役に立たない事には価値は勿論の事、お金も時間も費やさないですね。先日亡くなった小柴昌俊先生(ご近所さんです)は「私の研究は役に立ちません」と言い放っていたそうだけど、目の前の役に立つような研究しかやらなくなったら、学問ももう終わり、何十年先を見据えてふんだんに資金を使わせるくらいでないと、明日の日本は成り立ちません。
まあ昼間からビールを吞んでぶらついているように見えても、そこは明日の邦楽界の為だと思って、「魔術的時間を呼び出すための無為の時」を過ごしているんだろうと思っていただきたいものです!?。

といいながら今日も昼から吞ってしまった。

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