パラダイムシフト

人間を拒むようなとんでもない暑さが続きますね。私は何とか大丈夫ですが、コロナ以上にこの暑さには気を付けないといけません。いつから夏はこんな異常な暑さになってしまったのでしょう。私が子供の頃体験してきた夏は、こんなんじゃなかったと思うのですが・・・・。

気候も、社会もどんどんと変わって行き、自分自身も年を重ねて、この世に不変というものがあるのだろうか、という想いが年を追うごとに強くなりますが、正に世はパンタレイですな。特に今はもう変化というよりもパラダイムシフトともいえるような状態にあるのではないかと思います。

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六本木ストライプハウスにて photo 新藤義久
先日、知人から「お前の琵琶は完全にパラダイムシフトしてるね」と言われました。私にとっては何より嬉しい言葉なんですが、この時節にぴったりな言葉だなとも思いました。私は元々琵琶を手にした最初から、ずっと自分の思う形の独自路線をやってきたので、従来の○○流による弾き語りのスタイルが「薩摩琵琶」というものだと感じている人にとっては、私の演奏は最初からパラダイムシフトしていたようなものですね。同じ琵琶を弾いても全く違う音楽をやっている訳ですからね。最近はそれがかなり徹底してきたという事でしょうか

私からすれば、やりたいことをやりたいようにやる為にギターから琵琶に転向したので、従来の薩摩琵琶がどうかという事は、最初からほとんど眼中に無かったのです。薩摩琵琶は明治以降、特に対象~昭和の芸能で、能のような古い歴史のある古典でもないし、いかついた男性目線の歌詞で、時に軍国っぽい内容にも全く共感は出来なかったので、その音楽には何も興味が持てませんでした。明治という新しい時代とは言え、何故千年以上の豊かな歴史を持つ琵琶音楽の流れの中に、あのようなスタイルの音楽が、出来上がってしまったのでしょうか・・?。
長い琵琶樂の歴史でも、樂琵琶は雅な宮廷音楽でした。樂琵琶の秘曲「啄木」の様にその音色を聴いているだけでシルクロードにまで想いを馳せられるようなスケールの大きい音楽でした。平家琵琶も古典の物語を通して人間の存在そのものを想起させ、諸行無常を語るやはり大きなスケールを持つ音楽でした。盲僧琵琶はその名の通り宗教的な音楽でしたので、現世を超えた世界を琵琶と語りが表していました。

しかし近代に出来た薩摩・筑前は、感情を丸出しにして、個人の喜怒哀楽をぶつけるように、直近の出来事や戦争の事を歌います。どろどろとした感情を語り、琵琶の弾法自体も「叩く」という方が似合うような、単純なものになりました。それも当時の一つの新しい形だったのだと思いますが、スケールの大きな世界を表現していた琵琶樂が何故、目の前の現世の事を大声張り上げて語るようになってしまったのか?。まあそれだけ当時の世の中が軍国一色だったのでしょうね。私には残念でなりません。

2020フルセット④私はとにかく琵琶の楽器としての表現力の高さと音色が何より気に入っていました。この25年程、自分の創作として、やりたいことをやりながらも、琵琶樂の古典である樂琵琶=雅楽や平家琵琶等もそれなりに勉強してきました。やはりせっかく世界にも例のない長い歴史と素晴らしい内容の音楽が、そこにあるのですから、その過去の遺産を知らないというのは、どうしても薄っぺらくなってしまいます。琵琶樂の千数百年に渡る歴史の中で、薩摩琵琶はまだ世に知られるようになって、まだ100年程の歴史しかないのです。音楽的にはこれから次世代、次々世代が成熟洗練を施して行くだろう、と私が感じるのも無理はないと思いますが、如何でしょうか。琵琶樂の深い歴史と、これ迄奏でられて来た素晴らしい音楽を知らないというのは、私にとってはもやもやをずっと抱えている状態になってしまうのです。まあ評価はどうあれ、私自身は今の自分の作品群や活動には大変充実を感じています。
私は若い頃に、二つの流派で少しばかり習いましたが、残念ながらそれはあくまでお稽古として形を習っただけで、琵琶樂の分析や考察、研究、歴史等々、ある意味アカデミックな内容はお稽古の中には微塵もありませんでした。それは指導する先生が悪いというのではなく、私が求めるものが薩摩琵琶の流派というものの中に無かったという事です。歴史の浅い薩摩琵琶の流派にそれを求めるのは酷というものでしょう。

薩摩琵琶は楽器の名前とジャンルが一緒くたになっているので判りずらいですが、ギターでもクラシックからジャズやロックもあるように、同じ琵琶を使っても色々な音楽があって良いと思います。私は100年前に成立した近代の薩摩・筑前の琵琶とは全く違う、新たな琵琶樂を創っているのです。
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さて今度の日曜日16日は琵琶樂人倶楽部の夏の恒例、SPレコードコンサート。今回は珍盤をそろえております。乞うご期待。18時開演です。是非お越しくださいませ。

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良寛公演 先日の稽古風景とチラシ

そして21日の戯曲「良寛」の公演も迫っております。毎回、贅沢にも津村先生の主催する緑泉会の稽古場をリハーサルに使わせてもらってやっているのですが、稽古を重ね、だんだんと良い形が出来上がってきました。21日14時30分(昼の部)、18時30分(夜の部)の開催です。こちらも是非よろしくお願いします。

加えて月末には内田樹さんの主催する神戸凱風館にて、安田登先生、SPACの榊原有美さんと私の3人で、「吾輩は猫である~鼠の段」「耳なし芳一」「夢十夜~第三夜」の公演が決まりました。関西方面の方、是非是非よろしくお願いいたします。
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昨年の12月、日本橋富沢町楽琵会にて、津村禮次郎先生と photo 新藤義久
時代は容赦なく変化して行きます。今はそれがかなり急激になっています。新しい時代に新しい音楽を創造した永田錦心の様に、及ばずとも私も新たな琵琶樂を創って行きたい。過去をなぞって上手を競い合っても、新たな時代に新たな音楽は響かない。形も感性も時代と共に変わるのが当たり前。私が継承するものは、時代と共にありながら創造するという志であり、それこそが受け継ぐものだと思っています。

次の時代へ

夏の午睡の戯言にて2020

長い梅雨が明けて急に暑さが来ました。それもかなり蒸し暑く、体には結構厳しいですね。コロナウイルスも未だ落ち着きませんし、地元のお祭りも中止になって、どうにもすっきりとしない夏となってしまいました。

先月のあうるすぽっとの舞台写真が送られてきました。今回は「漱石と八雲」と題したシリーズの第二回目。今年は漱石の「夢十夜~第一夜」「吾輩は猫である~鼠の段」、八雲の「破られた約束」の3本です。


撮影:川面健吾 提供:あうるすぽっと

この舞台はYoutubeの「あうるすぽっとチャンネル」にて18日より無料配信がありますので、是非ご覧になってみてくださいませ。現在は昨年の舞台のダイジェスト版がご覧になれます。

また今月は座・高円寺にて、戯曲公演「良寛」があります。和久内明先生の脚本で、共演は津村禮次郎先生、中村明日香さんです。これまで何度も上演してきましたが、今回は脚本がかなりすっきりして、良い感じに仕上がっています。8月21日、昼夜の二公演です。

こんな時期にとても良い仕事をさせてもらって、感謝しかありませんね。舞台活動が今後どうなって行くかは判りませんが、こうして機会を頂けることを本当にありがたく思っています。この秋も機会さえあれば、質の高い仕事をやって行きたいと思っています。

そして前後しますが、16日は夏恒例の琵琶樂人倶楽部SPレコードコンサートです。
第一部が琵琶なんですが、今回は珍品ばかりを揃えました。マニアの方は必聴ですよ。乞う期待。第二部は古関裕而の曲を当時の色々な歌手の歌で聴いていただきます。昔の歌手は本当に皆さん上手いですね。何とも情感があって、聴いていて実に気持ち良いです。8月16日午後6時開演です。いつもより開演時間が早いので、お気を付け下さい。

昨年のSPレコードコンサート。後ろにあるのが日本に数台しかない蓄音機クレデンザ
今年のこの混迷はまだ当分続くようですが、個人的にこの混迷で見えてきたものも色々とあります。私がこの小さい頭で色々と思うに、人間はきっとこの現状を乗り越えて行くだろうという事と、日本社会は痛みを伴いながらも、次のステップに向かうだろうという事を感じています。まあ残念な事も多々ありますが・・・・。

前回の記事で、地の時代・風の時代という事を書きましたが、今でも地球上のどこかで常に紛争や戦争が起きていて、全く止むことがなく続いています。途上国では搾取と非道が未だまかり通っていて、先進国と非先進国のその格差は広がるばかり。先進国の飽食はその格差があるからこそ実現し、その格差が紛争を生み、またビジネスも生むのです。
一方、市井に暮らす我々は、TVを見ながら、おびただしい程に毎日毎日提供されるエンタテイメントに興じ、目の前の楽しさを追いかけ、物事を深く考えないように、思考を停止させられています。一杯のコーヒーの裏側にどれだけの理不尽な事実があるのか、考えようともしないように洗脳されていると言っても良いのではないでしょうか。

そしていよいよこの歪んだ世の中の限界と、積み重ねてきた罪が、目に見えないウイルスによって暴露されているような気がします。この「地の時代」は、今、最後の結末へと導かれ、とどめを刺されるところに来ているのかもしれません。人間は来たるべき時代に歩みを進める資格があるかどうか、審判にかけられているのではないでしょうか。
日本橋富沢町楽琵会にて、能楽師の津村禮次郎先生、筑前琵琶奏者の平野多美恵さんと
次世代に地球をつなげて行くのは、政治でも経済でも軍事でもなく、芸術なのかもしれないと私は思っています。芸術が多様性を受け入れ、自由な精神を喚起させ、人間を因習から解き放し、本来の人間の素直な姿を謳歌するものなら、次世代への答えは芸術の中にあるでしょう。しかし音楽も今やショウビジネスによって、一つの売れる商品となって、更には現実におけるストレスのはけ口になってしまっているのではないでしょうか。それらショウビジネスの土台となっていた感性=資本主義=パワー主義ではもう世界は回らないように思います。少し極端かもしれませんが、資本主義やショウビジネスというのは、人類にとってコロナ以上の強烈なウイルスではなかったのか。今ではそんな風にも思えて来ます。
情報が瞬時に駆け巡る時代に在っては、以前はカモフラージュされていた都合の悪い真実が、一気に白日の元に晒されるのです。もう目の前に見える偽りの豊かさという幻想から逃れ、人間にとって、地球にとって本当に必要なものは何か、考えるようになって行かないと!。

上:アゼルヴァイジャン国立音楽院 ガラ・ガラエフホールのセミナーにて

下:ウズベキスタン イルホム劇場公演リハーサル中
私が何かできる訳ではありませんが、少なくとも、この手を、こぶしを握り締める手から、誰かを抱きしめる手に変え、そして武器を持つ手を、楽器を奏でる手にしたくなるような世界を奏でたいですね。力を誇示し、レイシスト的な民族主義や偏狭なイデオロギーを表す音楽はもう無くなって欲しい。あらためてH氏の言っていた「愛を語り届ける音楽」というキーワードは、「風の時代」を象徴する言葉の様に思えて来ます。

私は琵琶を担いで世界中を巡って、多くの人と音楽を創って行きたいのです。上の写真は11年前にシルクロードの国々をツアーで回った時のものです。各国の音楽家と交流し、半月程色々な国を巡ったツアーでした。ウズベキスタンでは、拙作「まろばし~能管と琵琶の為の」を、イルホム劇場の音楽監督でもあるアルチョム・キムさんが編曲し、ミニオケを加え、現代のノヴェンバーステップスのような形にしてくれて、現地の音楽家と演奏しました。アゼルバイジャンのバクー音楽院では、特別講座を開いて現地の音楽家達と交流しました。

音楽に国境は確かにあるけれども、音楽家は言葉は通じなくても、音を出せば心を通じ合える。そんな「風の時代」を早くを迎えたいものです。

風に語りて~2020水無月

世の混迷は続いていますね。狛江のインド料理屋さんプルワリでの定例ライブはいい感じでやることが出来ました。この時期に貴重な機会を頂いて、ありがたいです。来月は9月5日土曜日に、ヴァイオリンの田澤明子先生とのデュオをやります。是非またよろしくお願いいたします。
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自宅近くの太田黒公園 今年4月末

この間とある機会に、占星術をやっている人に会いました、その方が言うには、12月から「風の時代」が始まるそうです。今はまだ「地の時代」というらしく、物やお金、権威等が中心に世の中が回っていて、そんな時代がもうすぐ終わりを告げ、新たな時代が始まるようです。
私は占星術には興味は無いのですが、ずっと以前から風や月が作曲のテーマでしたので、何だか我が意を得たりという感じがしましたね。私はこれ迄、物を追いかけ、権威を追いかけ、お金を軸にして、他と比較しながら村の中で生きる時代は、もうオールドセンスだという事を、ずっと繰り返して伝えてきました。しかし世の中は未だ物やお金、権威等を基準にして考えている人が沢山居ます。残念ですね。

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2011年6thアルバム「風の軌跡」レコーディング時 若い! 笛の大浦典子さんと
「風の時代」とは、私が思うに資本主義やショウビジネスがもう終わるという事だと思っています。大きな組織に所属して、何かしらの地位を持ち、高い給料(ギャラ)を取るのが「勝ち組」などと言っている価値観はほどなく崩れて行くでしょう。資本主義経済は、右肩上がりで成長して行くのが宿命ですで、どこかからか搾取をしなければ成り立たない。つまり格差の構造はどんどん広がり、一杯のコーヒーにさえも奴隷のような労働がなくては成り立たない状態になってしまう。そういう事実は既にネットの情報を通じて皆が判って来て、資本主義の大いなる矛盾と、現在の豊かさに対する幻想と疑問を持つ方も増えてきました。

一方ショウビジネスは、TVや雑誌などの小さい範囲にしか流通しないメディアで煽って、「みんなが聞いているから」「今これが流行っているから」というある種の村感覚の同調意識に訴えかけて、消費を促している訳ですが、そんな姿勢は、今後も通用するでしょうか。
これからは個人が世界のマーケットにアクセスして、自分で選択して見つけて行く時代。個人が小さな範囲でものを見たり、消費したりはしないのです。全世界が揃って良いというものならまだしも(あり得ませんが)、東京で流行ってるとか、NYの最先端などという感覚が既に前時代的といえると思います。そして表現者はTVなどから離れて行き、それゆえライブというものが貴重なものになって行くでしょう。一方でオンライン配信が増え、観客はTVの時代の様に狭い地域の方々ではなく、世界中の人になって行くでしょう。私のようなマイナーな作品でさえ、配信で買ってくれるのは海外の方が多いです。あくまで個人が自分で選択して行く「個の時代」に向かうのは目に見えています。
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日本橋富沢町楽琵会にて、Vn:田澤明子先生、Fl:久保順さんと
もう日常の生活に於いて世界の人が相手となる時代に、小さな範囲での肩書が意味をなさないことは誰にでも判ることです。そういう村感覚を早く脱し、純粋に中身で勝負する姿勢に成らなければ、やって行けません。これからはAiやネットがもっと生活の基盤になり(悪い面も様々あると思いますが)、いい会社に勤めているとか、肩書を持っているとか、金持ち、勝ち組云々という、他と比較して生きる村感覚よりも、自分が何をして、どうやって生きているのか、そんな個人の生き方こそが重要で、そこに幸せを見出し満足感を感じるという「風の時代」になる、と思っています。組織の時代は終わったのです。もしかすると国家という意識も今後変わって行くのかもしれません。「個」の時代がどのようになって行くかは未知数ですが、これまでの常識は、もはや通用しなくなるのは目に見えていますね。

またこれからは農業に転職する人が増えるという意見もありますね。日本は食料自給率が低いので、良い傾向だと思いますが、そうすると都市と地方の関係も変わり、そこから新たな民謡や芸能が生まれてくるようになるかもしれません。きっと農業でも、農協のような組織の時代から、ネットやAIを活用して、個人単位で独自の活動を展開し行く農家が増えて行くのでしょうね。あらゆる分野でそういう事がどんどんと進んで、世の中の構造や常識そのものが急激に変化して行く時代に入るのではないでしょうか。

宮本武蔵歴史を見て行くと、こういう大きな変化の時代がこれまでいくつもあったことが判ります。平安時代から鎌倉時代、戦国時代から江戸時代、江戸時代から明治等その急激な変化について行けなかった人は多かったことでしょう。戦国時代から江戸時代に変わった時、柳生宗矩は時代が変わったことをいち早く感じ、武道の在り方を「力」から「知」へと変えていきました。宗矩の父 石舟斎は自らを「兵法の舵を取りても世の海を、渡りかねたる石の舟かな」と詠み、自らを時代に乗れぬ石の舟と言っていましたので、新たな時代の在り方を巡って、父親との対立は結構あったでしょう。
一方、宮本武蔵は戦国の世が終わっても、石舟斎と同じくすぐには変えられなかった。最後の最後になって、五輪書を書くに至り、一つの答えを見出したのだと思いますが、きっと武蔵ほどの人は、世の流れを敏感に感じ、もう力の時代ではなくなった現実を想い、相当もがいたのでしょう。その「もがき」が出来る人はまだいい。しかしもがくことも出来ず、何だか訳も判らず時代の中に置き去りにされてゆくしかない人が、私を含めどれだけ多いか。

今まさに我々はその渦中に置かれているのだと思っています。

いつもは邦楽や琵琶の事を書いていますが、何故琵琶や邦楽が衰退したのか、その理由はただ一つ。柳生石舟斎の様に、古い価値観を変えることが出来ず、新たな時代へと心の方が踏み出すを事をしなかったからです。
これからは資本主義に変わる概念が出て、幸せの価値観も変わってくるでしょう。セレブに憧れ、高級車に乗り、海外ブランド品を買うのに必死にお金をつぎ込んでいた姿は、今後、負の時代の日本の姿としてお笑いのネタになって行くのではないでしょうか。

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福島 安洞院にて 能楽師:津村禮次郎先生と

概念や価値観は、所詮人間が創り出した幻想でしかありません。時代によって善も悪も正義も、ひっくり返ってしまいます。2000年代に入って、日本がこれだけ衰退しても尚、目の前の欲を追いかけている人が世に溢れて、絶えることがありませんでした。メディアの作り出した目の前の幻想に振り回されるだけ振り回されて、未だそれに気づかず、物事の核心に視線を向けようともしない人が渦めいて・・・・。その結果がコロナウイルスだったと私は思っています。欲望に支配された人間がもたらしたものだと。

風の時代を生きたいですね。

縁は異なもの2020

先日池袋の「あうるすぽっと」にて、安田登先生、玉川奈々福さん、木ノ下裕一さん、いとうせいこうさんらと「能でよむ」の収録をしてきました。大変充実した時間となり満足しています。

あうるすぽっと2020総合チラシ

舞台の方は 8月18日~9月22日の期間配信となります。また配信に先駆けスペシャルトークライブを、本日7月26日17時に配信いたしました。

あうるすぽっと公式Youtubeチャンネル 「あうるすぽっとチャンネル」 
昨年の公演&トークの様子、本日配信のトークライブもご覧になれます。
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以前ぶらりと行った猿橋

それにしても世の混迷はさらに深くなるばかりですね。そういう中でも小さなライブや収録のお仕事など頂いているのは本当にありがたいのですが、年を重ねるごとに縁に導かれている、という事を強く感じます。
私は人と比べるという事は普段からしないのですが、誤解を恐れずに言うと、私は普段何も練習はしてないのです。ギタリストからの転向でしたので、最初から特に弾くのに不自由したことは無いですし、ありがたいことに、ほぼ100パーセント自分で作曲したものを弾いて、お仕事させてもらっていますので、クラシックの演奏家の様にスコアに取り組んで勉強しなくても、譜面が出来上がった時には、もう頭の中に曲は入っています。声の方は少し訓練は必要ですが、私は琵琶奏者であって、歌手ではないので、歌に時間を割くつもりもないし、弾き語りはあくまで「こんなスタイルもある」という程度のスタンスでしかないので、声を使う仕事が入らない限り、声の練習はしません。来月は戯曲公演「良寛」で声を使いますので、そろそろ声慣らしをやりますが、昨年辺りから、自宅や稽古場に使っているスタジオでも声出しをすることはほぼ無くなりました。

私が毎日やっていることは、次に創る曲や、それを入れた新たなプログラムを考えたり、これからやって行きたい活動の事等をいつも考えて、譜面にメモしたり、夢ノートに今後の願望などを書き連ねています。まあ自己プロデュースと言ったらよいでしょうか。
多分琵琶奏者と言われる方とは全く違う事をやっているのだと思いますが、こういう私が、年を重ねるごとに「縁」を感じてしまうのです。
神田看板
神田音楽学校の看板絵
私もいっちょ前に神田音楽学校 https://kanda-ongaku.jimdo.com/ という小さな小さな学校で数人の生徒さんに琵琶を教えているのですが、その生徒さん達相手に、レッスンの合間に、国内の演奏活動の話や、シルクロードやヨーロッパツアーの事等々、これまでの活動の事を少しづつ話しています。
生徒さんにとっては無駄話ともいえる内容だとは思いますが、時々話しながら、こんなに色々な体験をしてきたんだと、我ながら不思議な感じがします。こんなに素敵な体験をしてきたというのが、本当に不思議でならないのです。これは私ががつがつ努力して求めたものではありません。あくまで琵琶の縁に導かれたからこそ、今ここに居る。その事だけは確かです。

世の波騒の中に身を置いていれば、小さなストレスから大きな心配事迄、色々とあります。私の様に財力も肩書も何もない人間は、現実を生きて行くにはお金にいつも追いまくられ、トラブルとまで行かなくとも、人生ままならない事も少なからずあるものです。しかしそういう今の私を取り巻く現実も、琵琶によってもたらされた縁なんでしょう。このコロナ禍のなかで、多分今後は生活も活動も変わって行くと思いますが、どこまでも縁に導かれてゆくような気がします。

東日本大震災の時、「生きているだけでめっけもん、感謝感謝」と言っている友人が居ましたが、その友人の言葉を聴いて、私は何だか肩の荷が下りたようにすっきりして、ネガティブな感情も飛んで、気分もグッと上がりました。しかし普段は、色々なものに振り回され、すぐに欲丸出しで調子に乗って、つい何かと戦ってしまう。それもパワーの内ですが、他を軸としていては、いつまで経っても自分自身の姿は見えて来ません。縁も導きも、先ずは自分の人生を生きているというのが前提条件ではないでしょうか。そして自分の音楽を高らかに歌い上げているかどうか・・・。先ずはそこからではないでしょうか。

運命は自らが切り開くという強い意志も大切ですが、是非志を持って、良き運命に導かれるようでありたいものです。琵琶の縁に導かれ、ここまで生きて来られて、めっけもん。そのくらいのお気楽さが私にはちょうど良いのです。いつも上機嫌でいたいですね。

この所書いている「脱東京」という事も含め、これからの人生もまた導かれてゆくのだろうと思っています。
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フラメンコギターの日野道夫先生による手作りチラシ

今週末はフルートの神谷和泉さんと、狛江のインド料理のお店プルワリにて、気軽なライブをやります。とっても小さなお店なのですが、このところ毎月やらせてもらっています。フルートの神谷さんとは一昨年位から時々、御一緒させてもらっています。最初は樂琵琶とのデュオの曲が多かったのですが、この所薩摩琵琶とフルートの曲もいくつか出来上がり、レパートリーも増えてきました。

一緒にやる仲間との出会いもまたご縁。これまで多くの方と共演させてもらいましたが、それだけを考えても、やっぱり「縁は異なもの」だな、と思うのです。

静かな暮らしⅡ

この土日は、池袋の「あうるすぽっと」にて舞台収録をします。

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安田登先生、玉川奈々福さんに加え、昨年に引き続き、木ノ下歌舞伎の木下裕一さんが司会をやってくれます。今年はトークのコーナーで、いとうせいこうさんも加わり賑々しくやれそうです。演目は夏目漱石の「吾輩は猫である 鼠の段」「夢十夜より第一夜」、そして小泉八雲の「破られた約束」です。今回も安田先生は、「吾輩は猫である 鼠の段」で手話をやりながら演じられます。乞うご期待!。
今年は、こういう時期でもありますので、無観客での収録配信となりました。残念ではありますが、こんな時期に、こうして機会を頂けるだけでもありがたいですね。先日リハーサルをやったのですが、なんか舞台人やスタッフが集まり、あれこれと創って行くのは実に楽しいのです。やっぱり私の生きる場所はここしかないですね!!。

プルワリ2020ー8-1次の土曜日、8月1日には、このところの定例となっている、狛江プルワリにて、フルートの神谷和泉さんとのデュオライブもあります。
私は気が多いのか、作曲ばかりでも物足りないし、ライブだけでも物足りない。曲を創っている時は情景が浮かんで、色んなアイデアが湧いてきて、とにかく楽しく、また音楽として響いて舞台に流れると、本当に幸せな気分なんです。そしてライブも自分の独演だけでなく、色んなゲストを呼んで、ゲストに合わせて新たに編曲したり、新作をやったり、常に様々な企画をして、頭ひねって、あちこち飛び回っているのが私の活動スタイルなのです。加えてレクチャーなんかもなかなかこれも面白い。まあ「わらじ」がいくつもあるという事です。
しかし、今後こういう活動がどこまでできるのでしょうね。地方公演もどんどんと潰れて行ってます。頭ではあれこれと、食い扶持探しをしているのですが、とにかく不器用なたちですので、おいそれとスタイルを変えられない。本当にどうなる事やら。

秋の公演も、中止が相次いでいます。先ずは横浜能楽堂での津村先生との会、静岡の清水区にある鉄舟寺での笛の大浦典子さんとの公演、少し先では年明けすぐの札幌公演等、楽しみにしていた演奏会が次々に中止になってしまいました。特に鉄舟寺は山岡鉄舟ゆかりのお寺で、私の代表作「まろばし」のきっかけともなった場所ですので、本当に残念でなりません。あそこで「まろばし」を演奏したかったな~~。
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奈良 柳生街道

このコロナ自粛の間は、色んな方とメールをやり取りをして、色んな話を聴かせてもらいました。良い勉強にもなったし、多くの発想の転換を頂きました。こういう時間も無駄ではなかったですね。そんな中で時々話題が出て来たのが、「脱東京」です。「都会を離れ、緑豊かな地に行きたいね~~」などと皆で日々言い合っています。先日安田先生とも、そんな話をしていたのですが、先生も仲間も皆そう思いながら、舞台を駆け回る人生を送って来た人間は、そう簡単には都会から離れられないのです。

東京に来たばかりの頃は、新宿の雑踏や、六本木、青山の雰囲気は何とも都会っぽくて、その辺りを闊歩している自分が好きだったのですが、年を追うごとに海や山や川のある緑豊かな地への憧憬が強くなり、都会を離れ、自然の中に身を置きたいと思うようになりました。友人からは「すぐに飽きて都会に戻ってくるよ」などと言われながらも、近頃はこんな話をする機会が増えましたね。
私は元々若い頃から、俗世を離れて山の中で自給自足の生活をするような暮らしに大いなる憧れがありまして、都会の壁一枚隔てて他人が暮らす、アパートやマンションの環境は基本的に、かなりのストレスなのです。都会の街はワクワクして、アクティブな感じがして好きなんですが、都会の暮らしはどうにも昔から好きになれません。まあ様々なストレスは自分の内面を炙り出すとも言われていますし、そういう意味では芸術活動には都会の方が合っているのでしょう。しかしやっぱり広いスペースと、豊かな自然に囲まれ、干渉されない静寂な暮らしがしたいですね。都会では無理な話なのは重々分かっているのですが、そろそろそんな都会の暮らしに耐えられなくなってきているのかもしれません。
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日本橋富沢町楽琵会にて こんなサロンコンサートもいつ開けるのやら photo 新藤義久

私は車の運転も出来ないし、PCにも強くないし、年齢を考えても、都会を離れてしまうと、もう仙人の様になってしまいそうな気がします。引っ込んでしまうと毎月の琵琶樂人倶楽部や日本橋富沢町楽琵会(現在は中止状態)もままならないだろうし、今後は地方公演もどうなるか判らないので、そう考えると、やっぱり仙人しかないですね。しかし芸術も音楽も、この世の中で多くのものを観て聴いてこそ、そこにドラマが生まれるのでしょう。そう思うと、芸術家はやはり都会は離れられないのでしょうか・・・。

以前、茶道をやっている方と話したら、「あの茶室というものは、都会の中にあるからこそ意味があるんだ。都会にあることで、あそこが特別な空間になる」と言っていました。確かにそうですね。森の中に茶室があっても、あまり感激はないかもしれません。つまり私は、あくまで都会に居ながら、自分の住まいだけは、俗世間を離れて特別な静寂の空間に身を置いていたいのでしょう。都合の良い考えではありますが、今の本音ですね。コロナ自粛で、都会の狭い部屋の中に籠っていると、かえって都会の騒音が耳につきます。緊急車両の音、隣の物音、商店街のざわめき・・・。とにかく都会はうるさいのです。そしていつもよりうるさい場所に自分が居ることを意識してしまいます。この所、どんどんと自然の中の静寂に想いが行ってしまいますな~~~。

狭山オーロラ

正直な所、今のマスクの義務化や、強迫観念の様に消毒を強制する、集団ヒステリー状態の世の中は、私にはつらいものがあります。だから「脱東京」なんて想いの日々をこのところ妄想しているのですが、そんな中、先日ふと思い立って、狭山市市立博物館で開催している、田中雅美写真展「オーロラの旅へ」を観に行ってきました。人工物の中であたふたしている自分が情けなく思いましたね。実に雄大で、且つ神秘的で、人間の存在を改めて感じさせてくれました。私は南国よりも寒い国に惹かれる方でして、カナダ北部やシベリア、北欧、アイスランド、トゥバ、モンゴル、キルギス、チベット等々、そんな所に興味が強いのですが、写真を見ながら引き込まれるような感覚がありました。こんな写真を見ていると、人生を変えたくなるような気分になりますね。自然はやっぱり素晴らしい。「物で栄えて心で滅んでいる」現代人は、どこかで自然にかえるべきだと、心から思います。

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昨年の「あうるすぽっと~能でよむ」公演より。木ノ下裕一、安田登、玉川奈々福の各氏と 
photo 山本未紗子(BrightEN)
こういう「脱東京」は、都会から離れられないという事が判っていながらの妄想でしかないのですが、このコロナウイルスは確実に世界を変えて行くと思いますし、同時に私の生活も大きく変わって行くように思っています。私の仕事や生活は急激には変えられませんが、徐々に自分の求める形になって行く、その時間が加速すると思います。都会の刺激の中で生み出される音楽は随分とやってきましたが、静かな暮らしの中で育まれる音楽はどんなものが出てくるのでしょう。それも楽しみなのです。

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