音楽が生まれる時

相変わらず世の中は激動していますね。この変化に日本はついて行けるのでしょうか。そして世界はどうなって行くのでしょうか。

セミナーアゼルバイジャン バクー国立音楽院ガラ・ガラエフホールにてレクチャーコンサート2009年
10thアルバムはお陰様で再生数も上がって好評です。毎回アルバムを出すと「どうやって作曲するんですか」と聞かれるんですが、これはなかなか答えが難しいですね。洋楽の和音やスケールを勉強するのも有効ですが、そんなものは日本の音楽でもないし、西洋音楽は世界の音楽の中の一部分でしかなく、ドレミが通用するのは、実はこの地球のごく一部なのです。インドでもアラブでもアフリカでもドレミなんてものはありません。欧米が経済や軍事力を背景に「欧米こそ世界のスタンダードである」とジャイアンみたいに強引に押し付けて回って、日本人は明治の開国以降それに洗脳されているだけですので、洋楽の中で作曲している内はこの風土の音楽は響かないと私は思っています。逆に現代の日本で日本音楽以外を排除するのも、世界がつながっている今のこの時代にあって不自然だと思います。私はこの風土で生まれ育ったので、まず基本は日本文化があって、その土台の上に色んな音楽のエッセンスが乗っかっているという感じですね。世界の音楽は実に多様で魅力的です。ドレミの音楽しか聴かないなんて人生の半分どころか8割9割の楽しみに目をつむっているのと同じだと思いますね。私は中央アジアやアラブ圏の音楽なんか好きで、今でもよく聴きます。要は自分の土台が何なのかを認識している事が一番大事じゃないでしょうか。

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photo 新藤義久


じゃあ、音楽はどうやって創って、その源泉はどこにあるのかといえば、それは日常を生きる事が作曲と同じ事で、日々の生活中に音楽の源泉が在るとしか言いようがありません。梅や桜をのんびりと眺めたり、誰かとコーヒーを飲んだりご飯食べたり、そんなことが最後には作品に集約されて行くのです。洋楽の作曲理論でもなければ演奏技術でもない。そういう事もツールとしては多少必要ですが、音楽を生み出すのはそこではありません。勉強して練習してできたものは技芸でしかないし、それはもうすでにあるものの焼き直しでしかない。それより桜を見てふと口ずさむ節や、春の野に溢れかえる多様な色彩、香り、風、それらから甦る記憶、そんなものの中に身も心も浸り、湧き上がるドラマを空想して、心も柔らかく豊かに広がって俗世から上昇していくことの方が音楽に直結します。自分の中に在るものがこうした自然とのふれあいで何倍にも大きく膨らみ、新たなものもそこから生まれ出て来るという感じでしょうか。
日本には奈良平安時代から続く和歌があり、それを今でも感じることが出来るのです。古代の日本に想いを馳せ、当時の人がどんなふうにこの桜を見て感じていたか、そんなことを考えるだけでも心は大きく羽ばたいて行きます。そして空想に浸るだけでなく、現代日本の中にまた新たな美しさを見出して、それを歌に音楽にするなんて最高じゃないですか。日本以外の国では出来ない事ですよ。それだけ日本の文化と歴史は深いのです。

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福島の安洞院にて 能の津村禮次郎先生と

大体音楽にルールはないのです。ドミソの和音にFを入れたら間違いなんて事は、校則で「髪が耳にかかってはいけない」と考えているようなもの。バッハは素晴らしいですが、バッハのルールが世の総てではないし、ましてや日本の風土に生まれ育った音楽家が西洋のルールに従って縛られていること自体変でしょ。日本には竹に穴を開けただけで魅力ある音を出す楽器もあれば、石のくぼみに息を吹きかけるだけで強烈なパワーを発する笛もある。そういうものが今でも現役で活躍出来ているのが日本音楽です。数値的に何でも構築して作ろうとする西洋のものとは真逆を行くのが日本の感性であり、最高の魅力です。尺八でドレミが出ない等と言っているのが馬鹿らしく思えませんか。日本人はブリコラして音楽を創る天才ですよ。
「野生の思考」という本が60年代に出ましたが、西洋第一主義なんてものは今や幻想であり、もうそんな時代は既に終わっているのです。現代日本人は未だにそれに洗脳されて、自らの素晴らしさを見失っているいるのです。自分軸で考えるなんて言いながら安手のアンビエント音楽で瞑想して、しっかりドレミに洗脳されている。竹林を吹き渡る風音にこそ心を浄化する力があり、日本人はそれを感じ取る感性を受け継いでいるはずなのに、そういう身の内にあるパワーには関心を向けない。これだけ豊かな風土と文化を持っている世界でも稀な国に生を受けながら、そこから生まれて来た文化や歴史には目もやらず、舶来文化を信奉し西洋ルールにしがみついて、それが全てだ基本だと思い込む。これを「自由からの逃走」と言わずして何というのでしょうか。

2私は10代の頃から食べるのも忘れる位夢中になってジャズ一色の生活をしていました。20歳の頃からそれでお仕事をやり出してみて、先ずは音楽が消費されて行くショウビジネスの在り方に違和感を感じ、またリズムや和音のルールに縛られている自分を感じ、20代はずっと試行錯誤の毎日でした。作曲の石井紘美先生に琵琶を勧められて琵琶に辿り着きましたが、今思えば、要はギターのテクニックと知識を一度捨てて、常識や偏見などの鎧を脱ぎ捨て、自分自身になりきってみろという事だったと思います。

小学生の頃から毎日弾いて自分の分身と思っていたギターを手放したらどんな音楽が残るのか。見当も付きませんでしたが、とにかく足を踏み出してみました。そうして琵琶弾きとして1stアルバムの「Oriental Eyes」が出来上がりました。今聴くと現代音楽とフリージャズとプログレがミックスしたような世界だと感じます。そして先月リリースした「AYU NO KAZE」も全く同じ。今更ながらに自分の音楽を再確認しました。土台は日本にありながら、そこに現代特有のあらゆるものが入り込んできている現状が、私というフィルターを通して表現できたかなと思っています。

オリエンタルアイズジャケットm

しかし周りを見渡してみたら「これはダメ」「これは違う」等々、まるで校則みたいなルールを押し付ける方々が居る事に気が付きました。ジャイアンの腰巾着のスネ夫みたいなもんだなと思っていましたが、まあ情けないというか、琵琶が絶滅危惧種だと言われる理由が分かった気がしました。人間はつくづく弱い生き物だなと感じましたね。

皆、日々の現実を生きて行くのは大変ではありますが、せめて音楽を聴く時、作曲する時は、自分が囚われている事から解放されていたいですね。芸術に接し携わるという事は俗世間を離れ、自分を何物にも囚われない素直な状態にする最高の時間を持つという事です。そこに規制は要らない。音楽をやっていると皆、立派で、有名で、上手でありたいと思うかもしれませんが、それこそが囚われの最たるものです。そんなものは過去の人間が作り出した幻想でしかないのです。自分が自分で居られる事が出来るのが音楽との時間です。

春の野に出て、まだ肌寒い中ひっそりと咲く梅花に恋をしよう。桜の木の下で酌み交わす酒に酔いしれて歌を歌おう。その時間がそのまま音楽に成るのです。

稲生座2025ー2ー3

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さて明日は、尼理愛子さんのライブにお邪魔して、笛の玉置ひかりさんと演奏してきます。

2月3日(月)
場所:高円寺稲生座
時間:19時30分開演  第一部 塩高・玉置   第二部 尼理・吉岡(尺八)
料金:1650円+ワンドリンク

音楽を創ろう!。

自由ということ

お陰様で10thアルバム「AYU NO KAZE」は大変好評を頂いております。自画自賛ではありますが、等身大の今の私の世界を表現出来たように思っています。iTunes、Apple music、レコチョク等々、配信各社でお聴きいただけます。Youtube musicでも聴けますが、Youtubeプレミアムに加入していないと途中で広告が唐突に入ってしまうようですのでご注意ください。

私は20代から自分の想う音楽を創りたいと思ってやって来ましたが、なかなか具現化しませんでした。そんな中でやっと自分の相方となる琵琶に出逢い、30代に入り少しづつ自分の音楽を世に出すことが出来るようになりました。私は何事に於いても人より随分と時間がかかってしまうのですが、自分が想う所をこの年迄、淡々と自分のペースでやって行く事が出来、こうしてまた自分の音楽を世に出すことが出来、本当に嬉しく思っています。
私は自分の世界を表現して行くのが音楽活動だと思っていますので、自分で作曲し、演奏会を企画して演奏し、アルバムを創り、お仕事も色々と頂きながらやってます。いわゆる流派などで琵琶を弾いている方とは随分違う感覚だと思いますし、またショウビジネスの音楽でもないので細々としたものですが、これが私のスタイルであり、音楽に対する姿勢です。

アルバムで共演しているVnの田澤明子さん、笛の大浦典子さんと  photo 新藤義久


こんな風に自由にやっている訳ですが、自由にやる事は同時に孤独でもあるという事です。孤独というと何だか寂しそうですが、そういう事ではなく「一人で創る」という事です。私は、琵琶仲間はあまり居ませんが、友人知人は山のように居ます。創るのは一人ですが活動に於いては、こうした方々のお陰でやって行けるのです。日本人はみんなで一緒にというのがとにかく好きなせいか、じっくり一人で思索したり、創り込んだりという音楽家は少ないですね。特に邦楽の世界は少ないように思います。私は元から人とつるむ性格でもないし、いつも同じ仲間とつるんで飲んで、なんていう事はないですね。親しい友人は居ますが、基本的には「媚びない・群れない・寄りかからない」ようにしていますので、琵琶談義をするのも毎月の琵琶樂人倶楽部の時位ですね。
きっと世阿弥も利休も芭蕉も武蔵も、その人生の中に孤独を持ち、その孤独の中で新たな世界を創り出していったのではないでしょうか。いつも書いている森有正の言葉「孤独は孤独であるが故に貴いのではなく、運命によってそれが与えられた時に貴いのだ」は身に沁みるのです。

photo 新藤義久
人間というものは歴史を見ても、宗教や政治体制から解放され自由になると、アイデンティティーなどと言いだし、自分の所属先を求め身分や肩書が欲しくなるものです。やはり寄ってかかる所がないと不安なのでしょうね。これが人間の性なのか、それとも文明がもたらした弊害なのか判りませんが、枠から解放され自由になったのに自ら枠を求め、身分をもらい、その枠のルールに沿って生きて、保証される事で安心する。これをフロムは「自由からの逃走」という名前を付け、権威主義への従属を人間は常に抱いているからだとしましたが、音楽の世界も同様で、何物にも囚われず自由への意思を貫いている時にはエネルギーに満ち勢いも半端ないけれど、いつしか自分の過去に寄りかかり、肩書という鎧を纏い、お得意なものを羅列し出すと途端にエネルギーが失われてしまいます。かつて自由にやっていた人も、ベテランだの先生だのと言われだす頃がその人の試金石ですね。自分を自分という牢獄の中に放り込んでしまうことのないように、いつも自由な精神のままでありたいものです。

琵琶を手にしてから一番感じたのは、人間とはつくづく弱い生き物だという事です。勿論私自身も弱い。自分で自制して軸を保ち、良い状態を常にキープできるように気にかけていないとどんどん崩れてしまいます。私は良くも悪くも枠からはすぐにはみ出してしまうので、いつも一人で居る事が多いのですが、小さな枠に囚われ、その中からものを見るような事のないように気を付けています。現代は私のような無名の音楽家の作品でも、ネット配信で世界の人が聴いてくれる時代です。何処にでも軽々飛んで行ける風の時代なんですから、重たい鎧は邪魔なだけ。「世界の中の私」という感覚でこれからも淡々と自由にやって行きますよ。

10thアルバム「AYU NO KAZE」配信開始② 曲紹介

1月11日に配信が始まりました10thアルバム(未発表曲を集めたオムニバスを入れると12th)「AYU NO KAZE」の曲紹介です。今回は20年以上前にリリースした1stアルバム「Oriental Eyes」の頃に帰ったような私の原点に直結した作品を集めました。20年以上の時を経て改めて私の音楽が浮かび上がって来た気がしています。琵琶弾き語りは無く私自身は歌っていません。1曲のみメゾソプラノに歌ってもらっていますが、いわゆる歌とはまた違いヴォイスと表現した方が良いと思えるようなもので、全体がインストアルバムと言えます。器楽としての琵琶樂をずっと標榜してきた私の現時点での答えとも言える内容です。

「東風 AYU NO KAZE」
薩摩琵琶の独奏曲です。「風の宴」に続く曲として、何としても薩摩琵琶での独奏曲を創りたいとずっと思っていたのですが、ようやく出来上がりました。「風の宴」はいわゆる都節音階で出来でいるのですが、こちらは全体がマイナーペンタトニックで創られています。タイトルの「あゆのかぜ」とは万葉集の中で大伴家持が越中時代に読んだ歌「あゆのかぜ いたく吹くらし奈号の海人の 釣りする小舟こぎ隠る見ゆ」という歌から取りました。この歌では東風を「あゆのかぜ」と読ませていますが、これはこの地方(現在の富山県射水市辺り)の呼び方という事です。日本海側の風には日本の風土に渡る風だけでなく大陸からの異国の風も吹き来て、都とはまた違うものを感じさせる風だったことと思います。ここは部分的に転調を入れる事で違う種類の風を表現していて、そこがこの曲の一つのポイントになっています。万葉の頃は異国からの文化が入って来て来て、時代が静かにそしてダイナミックに変化して行く時代。それはそのまま現代にも通じるものを感じます。そんな雰囲気を形にしてみました。この曲は今後の私のスタンダードになると確信しています。

「凍れる月~第二章」
2006年の発表した「流沙の琵琶」というアルバムの中で「凍れる月」という龍笛と樂琵琶の作品を発表しました。その曲の雰囲気は私が琵琶も手にする以前から追いかけて来た一つのイメージを具体化したのですが、今一つ作曲が甘く、何度も舞台で演奏しているにも拘らず、思うような世界が立ちあがるのは本当に稀で、常に平均点を超えられなかったのです。そのイメージをもう少し確実に舞台で表すことが出来るように、あれこれと考えかなり長い間もやもやして、何度も譜面を書いては書き直しライブで試行錯誤を繰り返しようやく形になりました。またそのイメージはジャズの名曲「Blue in Green」にも通じる所があり、この想いをヴァイオリニストの田澤明子先生にぶつけてみた所、田澤先生の類い稀な感性と技術が見事に新たな世界を示してくれました。これらの試行錯誤の中から生まれたのがこの曲です。前作「凍れる月」の先に見えてたイメージがこのよう姿を見せてくれて、本当に嬉しいです。

「凍れる月~第三章」
第二章が出来上がった事で、今度は少し別の視点から同じモチーフを捉えようという想いが出てきて具体化した曲です。第三章ではモチーフは同じながらドラマ自体をがらりと変えて一本調子の篠笛と薩摩琵琶という組み合わせで創りました。第二章まではある色彩を念頭に全体の幻想性を前面に出して抽象的な雰囲気に仕上げているのですが、こちらは月が人格化し、月自体が内に秘めた狂気を吐き出して、ルナティックに動き出すようなドラマ構成にしました。ちょっとプログレっぽい感じです。かなり激しくなる部分もありますし、手法としてインテンポとルバートを同時に組み合わせてみたりして、ダイナミックに仕上がっています。途中オーネットへのオマージュも盛り込みました。これからのデュオの定番になりそうな曲です。

「凍れる月~第四章」
こちらは第二章の雰囲気を樂琵琶の独奏に置き換えて、静かな小品としてまとめてみました。こういう樂琵琶の独奏曲もぜひ欲しかったので、割とすらすらと曲が出来上がりました。これからはまた樂琵琶の演奏会もやって行きたいので、そんな時にはぴったりの曲です

「西風(ならい)」
9thアルバム「Voices from the ancient world」で、ヴァイオリンとのデュオで収録した曲です。
「ならい」とは東日本の太平洋側の漁師言葉で、冬に吹く風の事を言います。土地土地によって風の方向が変わるのですが、今でもこの「ならい」は使われています。琵琶は西方から伝わった楽器ですので、私は「西風」と書いて「ならい」と読むようにして、「東風」を「あゆのかぜ」と読む第1曲目との対になる曲として位置付けています。
元々笛や尺八など邦楽器とのデュオの為に創った曲ですので、今回は元々の形である篠笛とのデュオの形で再録してみました。マイナーペンタトニックによる民謡風のテーマメロディーが様々に変化して行く様を描いてみました。チューニングはDDADを使っています。以前はDDAEが定番で「まろばし」や「二つの月」等以前の作品ではこちらを使っていたのですが、ここ何年かの作品「Voices」「凍れる月~第三章」等ではこちらをよく使ってます。絃の張り、全体の鳴りだけでなく柱のポジションも大変使い易く、私の琵琶にはぴったりなチューニングだと感じています。

「遠い風」
樂琵琶と篠笛による静かな作品です。異国の風を感じるメロディーながらどこか懐かしい気持ちになる、そんな所がコンセプトです。このメロディーを聴いているのは日本に帰化した渡来人かな?。

「Voices」
ここ数年演奏している曲ですが、元々は福島応援隊という団体が主催するイベントの為に作曲したものです。初演は新横浜のスペースオルタ。画家 山内若菜さんが製作した福島をテーマにした巨大な作品の前で演奏しました。震災詩人 小島力さんの詩に私が曲を付けたのですが、そのけれんの無いリアルな言葉に音を付けるのは難航しました。一度はお断りもした程でしたが、再度の依頼を受け結果的に素敵な曲となりました。先ず言葉を分解して音声レベルにして音楽を付け、曲の進行と共に言葉がリアルな実態を持って立ち現れるような作りにしてみました。初演はメゾソプラノ・能管・琵琶でしたが、何度か試行を繰り返しまして、最終的にメゾソプラノ・ヴァイオリン・琵琶と
いう形になりました。このヴァージョンは昨年、保多由子メゾソプラノリサイタル(銀座王子ホール)にて演奏しました。

「Voices」初演時に山内若菜さんがスケッチしてくれたもの

以上が今回の内容です。これらの作品はいずれもこれからの私の重要なレパートリーになる作品ばかり。これ迄琵琶語りなどもそれなりにやって来ましたが、やはり私は器楽としての琵琶樂をずっと標榜してきましたし、これからも何を置いても琵琶の音色を届けたいのです。歌ではありません。

私は1st「Oriental Eyes」から、全て自分で作曲をして琵琶のインストをやって来ました。樂琵琶でも古典雅楽ではなく、あくまでオリジナルな世界を表現して来て、あくまで琵琶の音至上主義でやってきたのです。ただ15年~20年位前は薩摩琵琶の流派の常識である「弾き語りでなくては琵琶ではない」という価値観にまだどこかで囚われ、弾き語りでも絶対に負けられないという気持ちが強くありました。自分の中の囚われに振り回されていたという事なのでしょう。今となってはそれもまた経験の一つですが、そんな所も2018年リリースの8thアルバム「沙羅双樹Ⅲ」で「壇ノ浦の弾き語りを収録して、それできっぱり囚われから卒業して、9th「Voices from the Ancient World」ではヴァイオリンとのデュオインストアルバムを創りました。そして今回、何物にも囚われない私独自の世界を実現できたと自負しています。やはり私は琵琶の音色を聴かせるのが自分の使命だと思っています。

囚われは鎧であり、自ら呪いをかけているようなもの。囚われている間は自分の本来の姿が霞んで、時間はどんどん過ぎて、つまらない所に引っかかっていて行くべき道も見えなくなります。囚われの時期は今思えば確かにプラスの経験だったと思いますし、そこを乗り越えたからこそ、本来の道を再確認する事も出来ましたが、それは自分の道に戻って来れた人だけが感じる事で、囚われている内はそれを感じる事も、行くべき道に戻る事も出来ません。頑張っている人程、どうしても自分に呪いをかけるが如く、承認欲求や自己顕示欲という囚われの中でもがいている。若い時ならそれも一つのパワーともなりますが、いつまでもそこに留まっていたらどんどん萎んで行くだけです。そんな人もたまに見かけますが、是非鎧を下ろし本来の自分のあるべき姿を取り戻して、自分の行くべき道を進んで欲しいなと思います。

私は琵琶で活動を始めたのがもう30代半ばでした。それに加え、何をやっても人より時間がかる性質ですので、随分年を重ねてしまいましたが、年々少しづつでも自分の行く道がはっきりとして来て、今こうして私の音楽として姿を現してくれた事が本当に嬉しいですね。重たい鎧を全部脱ぎ捨て、パット・マルティーノが言うように自分が自分らしく在る事が一番の喜びだと実感しています。この「AYU NO KAZE」は私のマイルストーンとなって、これからの活動の主軸になると思います。これからの人生が益々楽しみになってきました。

10thアルバム「AYU NO KAZE」配信開始 ① メンバー紹介

T5m加工K&S7m

ジャケットm

今月リリース予定の10thアルバム「AYU NO KAZE」は今月11日にリリース予定です。オリジナルアルバムとしては10th、未発表作品を集めたオムニバスアルバムを入れると12thとなる今作品は、iTunes 、アップルミュージック、Spotify、レコチョク、Youtube Music等々各配信会社でお聴きいただけます。私にとってはこのインストアルバムは原点回帰でもあり、1stアルバム「Oriental eyes」から22年経って、改めて自分の音楽を見つめ直すターニングポイントだと思っています。収録された楽曲は22年の熟成を経て改めて具現化した私の音楽であり、あらゆる点に於いて私のフラッグシップとなると感じています。

これから二回に分けてこのアルバムの解説をして行きます。最初はメンバー編
大浦典子1(Ohura Noriko)笛の大浦典子(松尾慧)さん。彼女とはもう30年近くに渡って一緒に演奏しています。私に樂琵琶を勧めてくれたのも、雅楽を教えてくれたのも大浦さんでして、日本各地の民謡も色々と紹介してくれました。本当に私の視野を広げてくれて、毎回私は学ぶ事ばかりです。今回も自分で創った曲ながら、一緒にリハーサルを重ねていて、彼女の演奏を聴きながら何度も手直しを繰り返し録音しました。曲に対してこれだけの熱意をもってアプローチしてくれる人はなかなか居ません。私の作品の笛はほぼ大浦さんですが、一番最初に創った私の代表曲「まろばし」をはじめとし、総ての曲が彼女の助力なしでは成立しなかったものばかりです。今回収録した「凍れる月~第三章」はこれから笛と琵琶の定番曲として「まろばし」と並んで演奏して行きたいと思っています。他「遠い風」ではとてもゆったりとしたノスタルジックな風景を描き出してくれて、「西風(ならい)ではこの風土に吹き渡る風を叙情的に歌い上げてくれました。

田澤1sそしてここ7,8年程御一緒させてもらっているヴァイオリンの田澤明子先生。8thアルバム「沙羅双樹Ⅲ」の時からお願いしているのですが、そのエモーショナルな演奏はとにかく素晴らしく、一緒に演奏しているとあちらの世界へと行ってしまうようなエネルギーを内に秘めた演奏家です。今回は「凍れる月~第二章」と「Voices」を演奏してもらいましたが、二曲とも田澤先生でないと実現できない曲となっています。「凍れる月~第二章」は私がずっと長い間温めていた曲想を具現化したのですが、とても抽象的なその世界観をしっかり汲み取ってくれて良い感じに仕上がりました。この曲も定番のレパートリーとなって行くと思います。「Voices」は、もともと初演時は笛の大浦さんに能管でお願いしていた作品ですが、何度か再演をして行く中で、ヴァイオリンに変えてみた所、曲の新境地が開けて来ましたので、今回はヴァイオリンでやってもらいました。

保多由子(Yasuda Yoshiko)最後はメゾソプラノの保多由子先生。保多先生には「Voices」を歌って頂きました。この曲は2年程前、福島の復興を応援する団体主催の演奏会で、震災詩人の小島力さんの「わが涙茫々」という詩に曲を付けて欲しいという依頼から出来上がった作品です。最初に詩を見せて頂いた時に、飾り気のないとてもリアルでストレートな内容に惹きつけられたのですが、同時に、これに曲を付ける事は出来ないと感じ、一度お断りをしました。しかし再度の依頼を受け、手法を変えて作曲し出来上がったのがこの「Voices」です。上記したように最初は第3パートを大浦さんの能管でやってみたのですが、その後フルートや尺八でもやってみて、昨年の保多先生のリサイタル(銀座 王子ホール)でヴァイオリンに替替えてやってみた所、保多・田澤両人の相性も良く、表現がとても豊かにマッチしましたので今回は保多・田澤・私のトリオでの演奏となりました。

とにかく3人とも大変高い音楽性と技術を持っているので、正に音楽を創り上げて行くという感じで進められたのがとても嬉しいです。有意義で且つ楽しい時間でした。日本の各地の音楽の話や、アジアヨーロッパの音楽の話など、それぞれが持つ専門の話も色々聞かせてもらって、リハーサルをやる度にどんどんと大きなものへと羽ばたいて行くのが実に面白かった。
私はどんな人とリハーサルをしても、ほとんどその中身は話をしていて、音を出すのはほんの1,2回です。私が譜面で描いた曲がどんな世界観を表現しようとしているのか、その背景にはどんな歴史があり、現代にどうつながっているのか、そんな事を先ずは説明するのですが、そこで話は終わらない。今度は共演者自体がイメージを膨らませて、どんな風景や色が見えるのか、そこからどんな世界を感じるのか、沢山沢山語りあって、それから音を出して行きます。

作品を創って行くには、そこにいかに命を吹き込むことが出来るかが問われるのです。かつての現代邦楽と言われる作品は音大でクラシックを勉強した作曲家が作っていたので、あくまでクラシックと同様、作曲家の作品として譜面は事細かく指定が書き込まれ、建築物のように作られている楽曲がとても多かった。当時はそれを忠実に再現出来る人が凄い凄いともてはやされていましたが、私はそれに大きな違和感しか持ちませんでしたし、特に邦楽器でオーケストラのようにアンサンブルするものは、交響曲モドキのようで、クラシックコンプレックスの塊にしか聴こえませんでした。なぜこんなに豊穣な文化と歴史のある日本の感性を捨てて、クラシックモドキをやって面白いのかは未だに理解が出来ません。少なくとも自然と調和共生して境界線を引かず、自由自在に物事の「あわい」を行き来するように生きて来た日本人の生き方ではないし、日本の音ではないと感じていました。ルールを決め、物事を仕切り構成し、世の中を人間中心主義で周りを加工して押し進めてしまう西欧的なやり方は、邦楽器の音色とは水と油だと思えてしょうがないのです。現代のポップス邦楽も同様に感じます。

加工し2m

2025ー1ー8 琵琶樂人倶楽部にて

私は音楽が作曲者のものではなく、演奏家のものであって欲しいと思っています。そしてリスナーのものであって欲しいと思っています。私にとって作曲とは、演奏家が命を吹き込む場所を創る事。作曲者を超えて音楽が立ち上がるには演奏家の大きな力が必要です。演奏家は再現者ではなく作曲家と同じ創造者です。作曲家と演奏家がその創造力を発揮して、初めて音楽となり得るのです。演奏者には譜面を再現する技術ではなく、演奏家自身が思い描く世界を表現するための技術が必要になってきます。正確に弾く技術ではなく、想いを具現化する力が必要なのです。そこを履違えているといつまで経っても、音楽に命は宿りません。
私は共演者の感性が自由に開き羽ばたく場を創り、出てきた音をまとめ上げるのが仕事です。だから譜面は演奏者のイメージを喚起させるものでなくてはならないのです。指定を細かく書き込んで自分の思い通りにやらせるのではなく、演奏者が自分なりのイメージを広げられるようなメロディーや音の重なりを書いて、そこから大きな世界に羽ばたいて行けるような譜面を書き、場を設定して行きます。

今回も総てそのようにして譜面を創りました。細かく指定すればするほど「私」という器の中に音楽が留まってしまいます。今回の3人は私の想像を超えるような自由で独自な世界を持っている。だからこそその何物にも囚われない野生的感性を自由に羽ばたかせることが出来るようにしたのです。現代の洋楽的な目で見ると、私は作曲家でありながらプロデューサーに近いですね。メンバーの持っている世界をどこまで引き出す事が出来るのか、その手腕を問われているのだといつも感じます。これはマイルス・デイビスをずっと聴いてきてその音楽の創り方を自分のスタイルとしてやってきた結果です。

今回はタイトル曲の「AYU NO KAZE」や「凍れる月~第四章」等、独奏でじっくり琵琶の音色を聴いて頂く曲も排していますが、全体としては作曲家としての作品個展的な内容が強いかと思います。これが私の音楽なのです。
是非お聴きくださいませ。

新年快楽2025

今年も宜しくお願い申し上げます。

もう年賀状を止めてしまいましたので、これが新年の挨拶となりますが、これも世の流れ、形式だけのものを卒業して行く過程だと思いますので、是非ご理解を。

今年は先ず何と言っても10thアルバム「AYU NO KAZE」のリリースです。22年前の1stアルバム「Oriental Eyes」が蘇ったような内容になりました。やはり自分の音楽はこれだと思える納得のいく内容となっています。1stを出した時も「琵琶らしい曲はあるのですか」という問い合わせがありましたが、「塩高らしい曲しかありません」としか答えようがなかったですね。私はこれまでの作品も全て自分で作曲したものをリリースしていますし、且つ新作をレコーディングしています。代表曲の「まろばし」のように相方を変えて何度か録音したものもありますが、手慣れたレパートリーを収録するようなことは一切しません。私が聴いて来たアーティストは皆そうして常に最先端を聞かせてくれましたし、手慣れたお見事なものを聴かせると言いうメンタルこそが、リスナーを遠ざける大きな要因だと思っていますので、これからもこの姿勢は変わらないと思います。

今回は3人のゲストを迎えました。

今年もそんな訳で私にとって新たな挑戦の一年となると思います。琵琶樂人倶楽部も昨年で18年目に突入し、開催も200回を超えました。今月は8日に筝の藤田祥子さ
ん、尺八の藤田晄聖君を迎え、重衡と千手の物語を筝・尺八・琵琶唄のトリオ編成で演奏します。詳しくは琵琶樂人倶楽部の方を御覧くださいませ。

私が音楽で届けたいのはお見事さでも技でもなく、その音楽の先に在る世界です。むしろ技は消えてしまう位でよいのです。私は色んなアーティストの創り出すその世界に憧れ、そこ惹かれて音楽家を志したのです。どんなに上手でも技を見せつけるだけで世界を感じられないようなものはただの旦那芸でしかないと思っています。聴いて頂くのは私の作り出した世界をこそ聴いて頂きたいのです。

今年もよろしくお願いいたします。

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