この所演奏会が目白押しです。神戸から帰って来て、品川区のシルバー大学での講座第二回目をやって、次の日には琵琶樂人倶楽部にて「四季を寿ぐ歌組曲」の再演。日曜には朗読家の櫛部妙有さんと武蔵ホールでの公演。明日は生産性本部のセミナー、週末は金沢にて昼夜公演と、何だか駆けずり回っている感じです。毎年秋と6月はこんな感じですが、今年のような特別な一年でも、こうして変わりなく演奏して行けることの幸せを感じております。

先日の神戸シン・エナジー本社での記念撮影
この所、能楽師の安田登先生と御一緒することが多いのですが、安田先生は漢文や古代文字の先生でもありますので、よく孔子のお話しをします。私も横で聞いていて、なるほどと思う事が多く、中でも「和して同ぜず」という言葉はこれからの時代に、大事な言葉になるだろうと、いつも感じています。
私はジャズ出身ということもあり、自由に自分の作曲した作品を弾いて仕事をさせてもらっていますが、同じ音楽家でも、私のような独自のスタイルを、異質に感じる人も多いかと思います。またリスナーの方でも、琵琶と言えば「耳なし芳一」のようなイメージが出来上がってしまっていて、私の弾く薩摩琵琶や樂琵琶は??な感じに思う方も多いみたいです。大体どこに行っても「ロックだ」と言われることが多いですね。
琵琶のようなものはともかくとして、今の日本は、どうも「思い込み」が様々な所で強くなっているのではないでしょうか。何となくの「思い込み」が、今のような非常時になると、いつしか「こういうものだろう」「こうあるべきだ」という具合に、同調圧力へとつながっているような気がします。異質なものを面白がる位でいてくれると良いのですが、人間追い詰められると、異質なものを排除しにかかりますね。

広尾 東江寺にて 安田登先生、狂言師の奥津健太郎先生と
「和」するとは、皆が同じ形になる事ではありません。字の語源を辿ると、違う調子の笛が束になっている形なのですが、異なる様々なものが一緒になっている状態が「和」です。「同」とは一緒に居るものが皆同じ質になるという事。つまり「和して同ぜず」とは、異なるものは異なるままに、同じ社会の中に生きている、多様性のある社会といい変えても良いと思います。「和を持って尊しとなす」は皆が同じになるという事ではなく、色々な人が協調し合って生きるという事ではないのでしょうか。
今は皆、不安が募り、自分と違うものを排除しようとする気持ちが強くなっています。異質なものを攻撃することで安心し、同じ想いの仲間と繋がり、目先の安心を得る。これはネットのフィルターバブルと同じ現象です。SNSなどで「いいね」が集まって来て、自分の意見が世論正論だと勘違いしてしまう。本来全世界と繋がることが出来、様々なものと出逢うことが出来るネットをやっているのに、かえって偏狭な視野へと、自分を追い込んで、お仲間と頷き合っているだけという事が判らなくなってしまうのです。

櫛部妙有さんとヴィオロンにて photo 新藤義久
先日、櫛部妙有さんと国木田独歩の「たき火」を演奏してきましたが、その内容が明治期の逗子を舞台にしたもので、明治という変化の時代に、これからを生きる子供たちの無邪気さと、行き場の無い老いた旅人の対比が、沸き立つように描かれた作品でした。場所柄、平家物語「六代」などの、一つの時代の滅亡を感じさせる歴史を背景に持ちつつ、古い価値観が新たな価値観へと変化しつつある中で、淘汰され行く者と、これからを生きる者が浮かび上がり、移り行く時代を深く感じさせるものでした。
現代日本人は、一つのレールやレイヤーで判断しがちです。別の視点というものを持つ事が、本当に不得手になっているように思えます。「勝ち組」「負け組」などという言葉を使い、学歴や年収など目に見えているところで人も物も測り、多様なもの、多様な生き方を受け入れられない。そんな現代人の姿は、これからの世界に於いて、本当に危ういものを感じずにはいられません。
物、金、肩書、学歴、そういうものをどうしても欲しくなってしまう人は、肩書や年収を得てきたことがプライドだと勘違いしている。音楽家だったら、音楽が評価の対象であり、学者だったらその研究の中身こそ価値があるのに、そこに目を向けず、外側に誇示された派手な看板に目を奪われ、そこを追いかけ、振り回されてしまう。
しかし世界はもうどんどんと動き出して、次の価値観へとシフトして行っているのではないでしょうか。よく「風の時代」等とも言われていますが、このままだと、新たな時代に取り残される、「たき火」の老旅人や柳生石舟斎のような人が溢れ、そこからくる混乱や騒動が増えてくるような気がしています。

キッドアイラックアートホールにて 牧瀬茜(ダンス) SOOM KIm(Sax) ヒグマ春夫(映像)各氏と
自分と違う感性を受け入れることが出来るかどうか、技術よりも知識よりも、感性をシフトして行けるかどうか。今、我々は、そこを問われているように思えてなりません。