夕雨

すっかり春の風を感じますね。まだまだ肌寒いですが、季節が移ろって行く時の風情は大好きです。また先日は夕方から雨が降り、気分がしっとりと落ち着きました。

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善福寺緑地

私は雨が降ると何故か感性が開くというか、刺激されて、発想が沸いて出て来ます。「而」の魔術的な時間が雨によって刺激を受けるのでしょうか。先日はデヴィッドラッセルの「バリオス作品集」をずっと聴いていました。精緻且つ端正な表現の中に類稀な美音が響き渡り、音楽が私の内面に向かって満ち、広がって行くのです。私は基本的に外に向かって行く音楽よりも、内面に響く音楽が好きなので、一見派手なコルトレーンやマイルスの音楽も、実は内面に深く響き渡る部分にぐっと来るのです。雨の風情とそんな内に向かう音楽は、いつも私を満たしてくれます。今回もずっともやもやしていた独奏曲の冒頭の部分が、雨の到来と共に頭に浮かび、すらすらとフレーズが出てきました。それまで数日ちょっとうだうだとしていた気分も上向いて、陰から陽へとじんわりと変わって行きました。
この時期は震災の事もまだまだ記憶にあって、ウキウキはしていられないのですが、何か季節の移り変わりと共に、心身が動き出したようです。

今週は8日に3,11の追悼の会をヴィオロンでやります。毎年ルーテルむさしの教会でやっていたのですが、こういう時期ですので、今年は使えず、急遽ヴィオロンでやることになりました。震災については、年を重ねるごとに色々と考えることがありますね。コロナ禍中にある今、生活全般に渡って今後の在り方を見直す良い時期だと思っています。

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そしてすぐ後の10日には、第159回の琵琶樂人倶楽部があります。今回は筑前琵琶の本場福岡から、今とても勢いのある奏者 石橋旭姫さんが来てくれます。筑前琵琶の演奏は関西や九州が中心で、なかなか関東では本格的な演奏が聴けませんので、とても良い機会だと思います。曲は「舞扇鶴ヶ岡」「清水一角」をたっぷりと弾き語りして頂きます。 
私自身が普段からあまり弾き語りをやらないので、オーソドックスな近代琵琶樂をしっかり聴きたい方には、是非是非お勧めです。石橋さんとは2018年に、琵琶樂人倶楽部でもおなじみの平野多美恵さんが主催した「森の中の琵琶の会 薫風」でご一緒させてもらっていて注目していたのですが、今回御縁があり、出演の運びとなりました。ご期待ください。尚開演時間が1時間繰り上がって、18時30分からとなっていますので、ご注意くださいませ。

神田音楽学校音楽祭021そして12日は神田音楽学校の「神田音楽祭」が内幸町ホールにて開催されます。ネットでの配信もするようですので、こちらも宜しく。

毎年花粉の時期は暇で、4月の終わりのGW辺り過ぎからだんだん盛り上がってくるのですが、今年はちょっと先が見えないですね。秋には少しばかりお仕事を頂いていますが、自分の演奏会の企画が立てられないので、もう少し様子見という感じです。作曲も進んでいますので、秋まで時間があるというのは、ちょうど良いのかもしれません。日々の食い扶持が問題ではあるのですが・・。
コロナ禍という事もあり、色々と考えることが多いのですが、この所肉体の在り方、身体性というものに想いを馳せています。自分がそれなりの年齢になってきたことで、肉体的な衰えという所もある程度感じてくると、心の面だけを考えてはいられなくなるというのが正直なところです。
私は以前から人間は肉体的な生き物でなく、あくまで精神的な生き物であり、精神や感性こそが文化であると言い続けているのですが、この頃は肉体という所にも目が向くようになりました。前回のブログに書いたような、基本的な奥底にある感性(核と言えばよいのでしょうか)は変わらないと思いますし、そこにこそアイデンティティーもあるのでしょう。しかしそうはいっても人間は肉体を離れて存在することは不可能です。
現在は脳だけを取り出して有機体である肉体を離れ、ヴァーチャルな世界へと移行しようとするような動きもあり、また仏教の世界観などは最先端のそれらの考え方に合う様で、法華経とデジタルや量子力学の世界との関わりについて話などをする人も出て来ています。私もその辺の話は、大した理解が出来ないまでも、割と共感するところが多く、興味深く聴いています。しかし演奏家である以上、私の音楽も肉体と共に在り、また、年齢と共に演奏も少しづつ変わって来てます。
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先月の配信ライブ ベルベットサンにて
例えば演奏するだけでなく、聴くという行為も肉体を伴うものであり、聴くことで何かしらの感覚が呼び覚まされて、肉体が変化して行きます。体調が良くなる人もいるだろうし、興奮して元気が出る人もいるでしょう。精神や感性は何よりもまず中心にあるものですが、手や肌の感触、身に吹き来る風の心地など五感全ては感性がつかさどる部分ではあるものの、脳での知覚よりも、もっと先に肉体が感じるという話も聞いたことがあります。いずれにしろ肉体と感性は、お互いに影響し合って、ヴァーチャル世界の様にどちらか一方では、存在し得ないのではないかと思います。
例えば歩くしかなかった時代に、馬に乗る事で、遠いところまで行くことが出来るようになった人類は、その感性を大きく広げたことでしょう。弓矢の発明なんかも、目の前に居ない、遠くに居る相手を倒せるのですから、その感覚的変化は大きかったでしょうね。石を投げるようなものと違い、自分の身体が拡張されたように感じたのではないでしょうか。
そして馬や弓矢、各種道具に合わせ、肉体自体も変わって行ったことと思います。こうしたことは人間には多々ありますね。また社会の形成や文字や書物の発明など、人類は大きな変革をもう何度も味わってきていますが、それに伴って変わったのは感性だけでなく、肉体もそうであったと感じてなりません。肉体と精神・感性のつながりが今とても興味深いのです。

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琵琶樂人倶楽部にて、能楽師の安田登先生、俳優の名和紀子さんと pfoto新藤義久

アイデンティティーとなるような核の部分は、感性という言葉では表しきれないので、また別と思っていますが、現代の人間は100年前の人間とは自分の肉体を取り巻く生活環境も変わり、当然感性感覚も変化していると思います。
現在は様々な研究がなされていて、有名な所ではDavid
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Sinclair教授の「老いなき世界」なんてのもありますね。今私が20歳の肉身体を持ったとしたら、きっと見える世界も感性も変わってくるでしょうが、今のこの年齢の肉体だからこそ感じることが出来る世界が確実にあるように思います。結局肉体を離れた感性はありえないのかもしれません。

雨がもたらす心の有様は、様々なものを想起させてくれます。若い頃は心より先に肉体が動き出したのでしょうね。そういう意味では、芸術にとって年を重ねるというのは、肉体の支配を離れ、より感覚感性そのものに近づいて行く、とても良い事のように思えます。

今自分が創り、奏でることが出来る音楽をやりたいですね。

梅花の季節2021

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善福寺緑地

梅花の季節ですね。春の陽射しを感じながらも、まだマフラーが手放せないこの頃ですが、そんな中、梅花の姿がふんわりと癒しをくれます。季節が巡るというものは本当に素晴らしいです。我が家の近くにある善福寺緑地ではもう盛りも過ぎてしまいましたが、先月後半からずっと楽しませてもらいました。

桜も勿論素晴らしいのですが、梅の花は、寒さの中にほっこりと希望の光を見るようで、本当に気分が晴れやかになります。またその密やかな風情もいいですね。華々しい豪華絢爛な桜花も素晴らしいですが、梅花のちょっと控えめで密やかな姿は清らかで、とても愛おしいのです。今の世の中、そういうものがどんどんと無くなりつつあるので、梅花のあの風情を何としても、この日本の風土に残して行きたいです。そして梅花こそ日本の文化そのものだと、常々思うのです。

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善福寺緑地

そう思いながらも現実の日本社会は、もうずっと前から「迷」の時代にあると感じています。混迷、低迷・・色々な迷がありますが、今の日本社会は、行き場が無く、出口も見えない「迷」の中を彷徨っているように思えて仕方がないのです。
以前の私は梅花を目にする度に、その秘めた風情に心癒され、ただただ梅花の風情に浸って心を遊ばせ日本の豊饒な文化を感じていたのですが、この「迷」の時代にあっては、それだけでは済みません。今この「迷」から何とか抜け出して、次の時代へとシフトして行かないと、日本文化そのものが危うくなってしまうと思えてなりません。

今は24時間スマホから手が離れないという人が普通だという時代です。私にはそういう姿が奴隷のように見えます。奴隷と化している自らの姿を、自分で認識出来ていないように思えて仕方がないのです。営業活動というのならまだしも、何故そんなに自分の日常の事をSNSで四六時中発信したいのでしょう?。何故他人の日常が気になるのでしょう?。日々仕事中でも、コーヒーを飲んでいても、気になってしまうというのは、私には精神的に異常な状態にあるように思えるのですが、そう思うのは私だけなのでしょうか・・・?。

こういう時代には、前にも書いた「静寂」や「密やかさ」や「秘める」というものを社会に求めても仕方がないのしょうね。想像力もそれに伴って消えて行っているように感じます。
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2017年3,11祈りの日 福島安洞院にて
現代人は何かを成し遂げるのに、直ぐ目に見えるパワーを求めがちですが、強いエネルギーで事を成すというのは現代の幻想です。圧倒的な技術や筋肉ムキムキのパワーなど、梅花を目にして歌を詠む感性の持つ力には及びもつきません。

かつて梅花を見て歌を詠み、そこから文学や音楽が生まれて行った時、そこには豊かな感性が漲っていた事でしょう。ガツガツとした物理的なパワーではなかったはずです。圧倒的な技術や科学、武力等の物理的な力が物事を、社会を創造してきたのではないのです。梅花に心を寄せて歌を詠むその感性が文化や歴史、そして社会を創って行ったのです。物質文明にどっぷりと浸かって囚われている現代人はそこを忘れている。

そしてそんな時代だからこそ、音楽・芸術が今こそ必要なのではないかと思っています。音楽や芸術は、時代を反映するだけでなく、リスナーも作り手も、リアルな「生」を共感し、同時に次の時代を感じ、そこに生きる事への希望を見出すからこそ、大きな魅力を感じるのではないでしょうか。
残念ながら現代の日本に於いては、民族音楽や古典というものに、まるで力が無いように見えます。見渡してみれば、確かにそこに希望は見えないし、次の時代も感じられません。ただの研究発表やお稽古事になっているからではないでしょうか。民謡ですらコンクールで競い合い、家元制度が出来上がってしまうのですから・・。残念でなりません。
古典は常にその時々の時代の人々によって、時代の形で再生されるのであって、なぞられるものではありません。かつて宮城道雄や武満徹、黛敏郎なんかがその最先端にいました。海外ではグールドやブーレーズが正に古典を再生しました。今そんな精神を感じるのはどれだけいるのでしょう?。クリュレンティス位でしょうか。
彼らの音楽には旺盛に漲るパワーがありました。しかしそれは単なるムキムキのパワーではなく、梅花を見て歌を詠みあげ、そこから音楽を紡ぎ出す、感性のパワーです。

私はその感性の在り様を「静寂」と呼んでいます。今古典に向かうという事は、新たな時代に古のものを再生し、新たなもの~それが次世代の古典となる~を創り出す事だと私は解釈しています。形に囚われ、時代と共に変わる事への迷いがあったら、次の時代を生きて行けない。必然だったらどんどん変わる精神が必要です。そして表面の姿がどれだけ変わっても、要はその根底に存在するものが何か、そこを掴んでいるかどうか。それが静寂の感性であると私は思っています。
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善福寺緑地

今、現代社会には梅花の風情を感じる人が少なくなって来ています。ガツガツとパワフルに生き抜く人は多いですが、人間存在の根底に静寂の感性が消えた時、人間は人間性を保持できるのでしょうか。欲しいものが即座に手に入り、嬉しい楽しい等、その場の目の前の刹那の感情に振り回されて日々を過ごしているようになりつつある現代人には、もう芸術を創り出す力が無くなって来ているとも感じています。
確かに科学や技術のパワーも必要です。でもそれらをどう使うかは感性にゆだねられます。核融合技術をどう使うか、感性によって変わってしまう事を人類は経験したではないですか。物理的なパワー、それだけでは時代を創造し得ないのです。梅花を見て、そこに美しさや自然の理や、人生の豊かさを感じ取れる感性が技術の奥底にあってこそ、豊かな社会が出来上がるのです。現代人は梅花を歌で詠みあげるという、千年以上に渡る日本の歴史を形成したとてつもないエネルギーを、今失いつつあるのです。

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日本橋富沢町楽琵会にて 能楽師の津村禮次郎先生、Vnの田澤明子先生と
だからこそ今、梅花の秘めた美しさを大事にしたいのです。梅花の密やかな風情を忘れて欲しくないのです。形は変わっても、この土地に生きて来た人間の感性は、どこまでも根強く保持して欲しいのです。その感性が日本を創ってきたのです。グローバル化も良い事だと思うし、世界と繋がることが出来るネットの発達も素晴らしい。しかしそれに流されて、この土地に花開いた豊穣な感性を失った時、日本人は人間として生きて行けないような気がしています。
人間らしいという定義も、今後変わってくるでしょう。今が人類崩壊のその節目なのかもしれませんが、まだ日本には梅花がある。梅花から生まれた和歌があり、音楽・文化がある。私にはそれが最後の砦ではないかと思っています。

梅花の姿から想いが広がりました。

静かな暮らしⅢ

すっかり春を感じる陽射しになりましたね。ちょっとご無沙汰してしまいました。今年は花粉症がしっかり始まっていまして、目のかゆみ、鼻詰まり、全身の倦怠感等々しっかり来ていて、ぐったりとしてます。コロナは相変わらずですし、先日の地震もあって、何かこのさわやかな春の陽気も素直に喜べませんね。穏やかな日々が戻って来て欲しいものです。

 

先日「三蔵法師 玄奘の旅路」という映画を観ました。「西遊記」ではなく、リアルな玄奘の旅が描かれいて、更には途中で立ち寄った中央アジア諸国の音楽や踊りもふんだんに使われている。この点が私の一押しポイントなんですが、玄奘役の役者さんも、ぴったりな感じで、信念を持って過酷な道に挑み進む姿が、変に盛った感じが無く、自然で素晴らしいです。なかなか素敵な作品ですよ。

 

観ていて俗事に日々振り回されている我が身が、かえって感じられました。俗世の中であたふたしている私のような凡人は、自分が何かをやっているつもりになっているだけなんでしょうね。
玄奘三蔵や、私が秘かに敬愛する道元禅師は、正に選ばれし者なのだと思いますが、私はこうした人達に何とも言えない静寂を感じます。そしてその静寂から多くの力や魅力が発せられているようにいつも感じるのです。きっと彼らの体には、大いなるものの声が響き、且つ導かれもするのでしょう。だからこそ世を超越するような信念を持ち、そしてその信念に従って、人智を超えた行動して行くのでしょうね。「運命はこころざしある者を導き、こころざし無き者を引きずる」。セネカの言葉通りだと思います。

 

私は凡人ながらも有り難いことに、これまで色々と仕事を頂き、本当に感謝しています。しかしどこか活動を展開するために音楽を創るようになり、活動に合わせた演目・演奏をするようになって、自分の内面から沸き上がる純粋な音楽とはズレが生じて来てはいないだろうか、という事を時に感じます。勿論合わないと感じたお仕事は丁重にお断りをするようにして、なるべく納得のいく形になるようにコントロールしているつもりではありますが、俗世の中にあっては、なかなか思う様には行きません。信念を最後迄貫いた玄奘とはまるで違いますな。しかしそれもまた自分に与えられた器であり、運命であるのでしょう。自分なりにしか出来ませんが、できるだけ自分の行くべき道を進みたいものですね。
池袋あうるすぽっと にて
今は幸か不幸か、割と日々静寂の中に身を置けるので、自分の内面と向き合う事が多くなりました。静寂を持つと言っても良いかと思います。静寂の中に身を置くだけでも、色んな声が聴こえて来るものです。そしてそろそろ色々な所を改めていく時期かな、と思ってもいます。まあ一つの周期が来ているという事でしょうか。形はともあれ、本来聴こえるべき声がしっかり聞こえるような暮らしや生き方をしたいものです。俗物は俗物なりに、自分の事くらい自分で何とかしなくては!。

 

「才能は静けさの中で作られ、性格は激流の中で作られる」などといわれますが、静寂こそが物事の源であるという事は常々感じています。そして現代社会に一番足りないのもこの静寂です。私があまりエンタテイメントに近寄らないのは、そこに「静寂」を感じないからです。
 
 
キッドアイラックアートホールにて 映像:ヒグマ春夫
楽しい、便利、みんなで盛り上がる…というものはとても嬉しい事だし、一見平和で一体感も感じられ、調和の取れたような雰囲気になるものですが、人は実はそんな所で繋がっているとは思えません。調和とはそんなものではないと思います。ネット社会でもフィルターバブルやエコーチェンバーなどという言葉がありますが、何となく調和したように見えるという事は、多様な感性に目隠しして見えなくするものであり、極端なことを言えば、忖度社会を助長し、全体主義的なものに容易に利用されてしまう。表面を演出し、カモフラージュしたエンタテイメントには、逆に危ういものを感じてしまいます。
かつて村上春樹は「人は傷と傷によって結びついている。痛みと痛みによって、脆さと脆さによって繋がているのだ。悲痛な叫びを伴わない静けさはなく、血を地面に流さない許しはなく、痛切な喪失を抜けない受容はない。それが真の調和の根底にあるものなのだ」と言いました。私はハルキストではないですが、この言葉には共感しきりです。表面的な楽しさを追いかけ、刹那を消費していたら、真実を見つめる眼差しは薄れ、こういう人とのつながりの本質を見失ってしまうように私は思います。
 
 
グルジア(現ジョージア)ルスタベリ劇場大ホールにて

 

私は色々なものに好奇心もありますが、そこに静寂を感じられるか、という部分が判断の一番の基準です。言葉で言い表すのはとても大変なのですが、ジョン・コルトレーンやジミ・ヘンドリックスのような激しい音楽にも静寂を感じますし、高橋竹山や海童道祖、宮城道雄の音楽にも大いに静寂を感じます
。表面の形の問題ではありません。残念ながら近代の琵琶歌には、静寂を感じたことはありません。

 

静寂とは何か。とても難しい問題ですし、理論化も言語化も出来ません。しかし生命は皆、静寂の中から生まれ出たのではないでしょうか。
山に入れば様々な音に包まれます。ただ人工の音はしません。私が歌や声、言葉に対してかなり厳しく神経をとがらせるのは、そこに個人の感情が乗り、人間の創り出した人口の世界が見えるからです。自然の中にあればあるほど、それらは違和感として目立ってしまう。つまり静寂とは無音という事ではないのです。
私は最終的にはこの静寂を求めて音楽を創っていると言っても良いかと思います。少しづつ、少しづつその静寂が我が手に感じられるような気もしています。今少し時間はかかると思いますが、ただ求めるのはその一点。きっと死ぬまで、こんなことを言い続けるのでしょうね。
 
静かな朝の陽射しの中で。

in a silent way

東京では毎日天気の良い日が続いてます。もう梅も咲き出して、気もそぞろにあちこち出掛けて行きたい今日この頃ですが、まだまだ世の中ままなりませんね。

昨日の第159回の琵琶樂人倶楽部は、先週のベルベットサンライブの再演のような形で、Vnの田澤明子先生に加え、尺八の藤田晄聖君も駆けつけてくれて、良い感じで出来ました。Vn・尺八・琵琶という形は、今の私の音楽にはぴったりな感じがします。もう少しこの形を詰めて追い込んで行きたいですね。

只今、作曲の師である石井紘美先生とやり取りをしていて、2003年に初演した先生の「HIMOROGI Ⅰ」を手直ししているんですが、これは私の2ndCD「MAROBASHI」に収録されていまして、そのCDの中に「in a silent way」という私の作品も入っています。もう18年前の録音です。
ばればれなのですが、マイルス・デイビスの傑作アルバムのタイトルをそのまま頂きました。勿論音楽は全く違いますが、イメージとしてはマイルスの作品にインスパイアされて作った曲です。17絃筝とヴォイス、フルート、琵琶という編成の作品で、17絃筝を弾いたカーティス・パターソンさんに色々お願いして、左手にコントラバスの弓を持ち、右手は爪を付けずにアルペジオをしてもらって、更に深く響く彼の声で和歌の英訳をぽつりぽつりと語ってもらうというものです。雰囲気は極静かな、幻想的な作品ですが、琵琶のCDに入れる曲としては結構挑戦的な作品です。このスタイルの曲は、1stアルバムに収録した「時の揺曳」、樂琵琶の「凍れる月」等があります。当時の私の中では一つのスタイルとして重要な作品群だったのですが、現在のレパートリーには明確な形でこの世界観を持っている曲が無いので、このスタイルの新曲を改めて作ろうと思って只今頭をひねって(酒を友とし魔術的時間を楽しんで)ます。ヴァイオリンとのデュオを想定しているのですが、尺八を入れてトリオ編成でも良いかもしれません。
ベルベットサンにて Vnの田澤明子先生と
先週のベルベットサンのライブでは、琵琶独奏の「風の宴」、現代音楽は「二つの月~ヴァイオリンと琵琶の為の」「まろばし~尺八と琵琶の為の」。そして新たな路線として「君の瞳(Vn&琵琶)」「西風~ならい(Vn&尺八&琵琶」のラインナップだったのですが、現在の私の音楽として、納得出来る作品群でやることが出来ました。その時感じた事と、1st,2ndCDを創った時の記憶が、石井先生の作品を見直すことで、改めてリンクしました。20年という時を経て、自分の行くべき道へと、新たに突き進む時が来たようです。今のレパートリーに「in a silent way」の世界観が加わると、かなり最強になって来ると思います。

私はジャズに狂っていた10代20代の頃も、60年代70年代辺りの最先端で前衛的なものが好みで、ロックもいわゆるプログレをよく聴いていました。決してオーソドックス派ではありません。未だにコルトレーンの「Impressions」やマイルスの諸作品等は日々欠かすことのできない栄養です。琵琶はバルトークやシェーンベルクなどの現代音楽から武満徹を経て我が手に入って来たので、かなり変わった経緯を持つ琵琶奏者といえるかと思います。ただ子供の頃から古典文学にはずっと親しんでいましたので、いわゆる邦楽の和歌や古文などの古典世界には違和感なくすんなりと馴染みました。という訳で和の感性と前衛への志向が合致すれば、おのずから現代琵琶樂という事になりますね。だから昨今のポップス邦楽や、大正・昭和に出来上がった流派の弾き語り曲などは、私にはかなり遠い音楽なのです。
ウズベキスタンの首都タシュケントにあるイルホム劇場にて 拙作「まろばし」演奏中 
指揮はアルチョム・キム氏、バックの弦楽合奏はオムニバスアンサンブル

下の写真にある、牧瀬茜さん、ヤンジャさん、灰野さん、坂本美蘭さんとのライブの時のものですが、これらのライブは全くテーマも何も決めずに、完全な即興としてやりました。何が出てくるか判らない緊張感と、その場でしか出現しない時間と空間が実に刺激的で、演者自体に表現者として明確に持っている世界が無いと、ただのお遊びや雑音にしかなりません。手慣れたものなど一切通用しない真剣勝負なので、皆ヴォルテージがめちゃくちゃ高かったですね。私は今でも美蘭さんとは即興ライブを時々やっていますが、20年前の私は、そうした生々しいライブから生まれてくるものが、いつも根底にありました。今はそれプラス作品としての完成度という所も加わっているのですが、あの頃の粗削りで生々しい、そして徹底的に自分らしい姿も、今一度現在の舞台に取り入れてみたいですね。

横浜ZAIMにてダンサーのYangjahさんと 右:六本木ストライプハウスにて、パフォーマーの坂本美蘭さんと

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左Per:灰野敬二 尺八:田中黎山 中:Sax:SOON・Kim Dance:牧瀬茜 各氏と共にキッドアイラックアートホールにて
この20年、様々な経験を通して、演奏、作曲共に蓄積してきたものが沢山ありますが、どこまで行っても等身大の自分であり続けないと、音楽が色んなものでコーティングされて「お仕事」になってしまいます。お金だったり、一定の評価だったり、肩書だったり…そういうものも、ただやみくもに否定することはないのですが、それらと音楽は関係無い。そういう周りにくっついて来るものと音楽を切り離し、経験を重ねる程に、余計な衣の無い自分らしい姿になって行くことが出来るかどうか。キャリアが上がれば上がる程、器が問われます。

今思うのは、自分の創り出す音楽が、どこまで行っても日本という土壌の中から湧き出て世界へと向かう、日本音楽の最先端でありたいという事。私の能力でどこまで出来るかどうかは別として、志としては、今迄自分が聴いてきたジャズやロックやクラシックと同様に、魅力ある音楽を確立したいと思っています。

琵琶樂人倶楽部にて photo 新藤義久

PS:2ndCDには「壇ノ浦」の収録したんですが、今聴くともう本当にへたくそで、そのへたくそぶりにびっくりしました。でもここが無かったら今が無い訳ですので、自分の軌跡を振り返るにも、この頃の弾き語りを収録しておいて良かったと思っています。格好良い所ばかりを見せようと思ってもそうはいかない。この時代の記憶と記録があるからこそ、今がある。そんな風に思いました。それにへたくそながらも、当時就いていたT師匠の歌い方そっくりで、自分でもそのあまりのコピーさ加減にびっくり!。私も20年位前はこんなだったんだと、あらためてあの頃に想いを馳せました。

この空の下で

先日配信のライブをやって来ました。ジャズのライブハウスからの配信でしたが、良い感じで出来ました。3日間(7日まで)は無料でご覧になれます。

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この所ずっと譜面ばかりいじっていたので、久しぶりの実演は楽しかったですね。まあ細かいミスは色々とありましたが、自分の今のスタイルは表現できたと思います。ヴァイオリン・尺八とのアンサンブルもいい感じでした。これから配信によるライブや仕事が増えて行くと思いますが、良い形で配信をして行きたいと思っています。また配信が増える分、今後生演奏の魅力が注目されて行くんじゃないか、と秘かに期待せずにはいられませんね。
今後の世の中の動き次第ではありますが、小規模のサロンコンサート等、私に出来るところを色々企画して行きたいと思います。
3キッドアイラックアートギャラリーにて ダンサー:杉山佳乃子 映像:ヒグマ春夫
私は自由に自分のやりたいことをやりたいようにやっています。よく周りからも「やりたいようにやっているね」と言われているのですが、秘訣も何もなく、常に等身大の自分で居ようと心がけているだけです。頂いた仕事でも、少しやってみて合わないと思うものはお断りするし、自分の中も常に見つめて、本当にやりたい事以外のものは徐々に止めて行くようにしています。
音楽活動を、「仕事をもらう」という感覚でいると、どうしてもその仕事を得るために動いてしまいますが、そうではなくて、自分で動いて、自分で曲を創り、演奏会を企画して、自分で自分の舞台を創るという気持ちで普段から考えて、細々とでも生きて行けるだけのお金も得られるように計画して動けば、やりたいことを何とか貫けるし、つまらない雑音も入ってこないものです。確かに簡単なことではないかもしれませんが、自分のやりたいことをやるには、ただ好きな音楽をやっているだけでは、せっかくの曲も舞台で響きませんね。
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ベルベットサンにて
私は、自分自身が常に自由で居るという事がとても大切だと思っています。音楽をやるのに規制は何もありません。常にフリーな状態に居ることが何よりも大切だと思うのですが、如何でしょう。
どこにも所属せず地道にやっていると、私の事を一匹狼の様に思う方もいるようですが、10代の頃から、森の中で自給自足で暮らしたい、なんて願望がずっと根強くある人間ですので、一人で居るのが元々好きなんです。また作曲の師である石井紘美先生の「実現可能な曲を書きなさい」という教えがいつも根底にあるせいか、大きな編成よりもソロや小さな編成の方をいつも選びますので、派手な大舞台より、こじんまりとしたサロンコンサートなどの方がしっくり来ます。そんな思考ですので、自分のペースで淡々とやっていられるのです。
幸い上記ライブの様に素晴らしい仲間は沢山居るし、これからやろうと思っている構想も色々とあって、当分私の音楽活動は尽きる事はないですね。
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日本橋富沢町楽琵会にて、Vn:田澤明子 笙:ジョウシュウ・ジポーリン各氏と
また自分が精神的にも社会的にも自由な存在で居るというのは、「風の時代」のキーワードのように思っています。
音楽家の中には、自分の音楽をやる事より、「ビックになる」「大きく稼ぐ」「偉くなる」という想いの強い人も多いですが、私には、こういう感性自体が、これからの時代にそぐわないと思えて仕方ありません。何かの枠の中で自分の存在を考えてしまうと、どうしても「何某かの自分」という発想が出て来ますが、風には国境も組織もお金も、何も関係ないですからね。
ジョンレノンではないですが、もう国境も無くなりつつある時代なのかもしれません。世界では未だに領土を争って戦争も起こっていますが、あまりに旧時代的だと私は思います。国際情勢は一口には語れません。しかし古い価値観を手放すことが出来る人(国)だけが、自由に羽ばたいて行ける、と私は感じています。先日の日本IOCの発言等も、もう時代に対応出来ない旧体質の解りやすい例ではないでしょうか。国境、人種、年齢、ジェンダー等、今迄特に疑いもしなかったものの本質や問題が、このコロナ禍によってどんどん炙り出されています。この動きがどんな方向に行くか、私如きでは判断できませんが、日本人が大好きな「常識」や「普通」という概念はこれからどんどんと崩れて行くのは間違いないと思っています。勿論それに伴って様々な事も起こるでしょう。しかしその変化の動きは止められない。
以前チャップリンは映画の中で「一人殺せば殺人者、百人殺せば英雄だ」という名セリフを残してくれましたが、人間は人間の作った法律やルール、雰囲気に簡単に囚われてしまうものです。アンティゴネーを例に出すまでもなく、人間の作ったルール程危ういものはありません。

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ベルベットサンにて、Vn:田澤明子 尺八:藤田晄聖、各氏と
人の運命は他人には判りませんが、自分の行くべきところを求める事こそ、自分に与えられた運命ではないでしょうか。皆様々な事情を抱え生きているので、何事もすんなりとはいきませんが、やりたい事をやらない、やれないのは運命ではなく「諦め」でしかないと私は思います。大したことが出来なくとも、自分なりにやってみる方がやっぱりいいですね。何か成果や成功を求めようとする気持ちこそ、囚われのような気がします。
この空の下、少なくとも私は私であり続けたいですね。これからまだ大変な時期が続くと思いますが、やりたいことをこれからもやって行こうと思います。それが一番の幸せだと、年を追うごとに確信してきました。

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