今年もお世話になりました2020

年内の仕事は終わりました。最後の2本は収録の仕事だったので、演奏会をやった後のような高揚感が無く、何だか妙な仕事納めでした。

今年は音楽の在り方が随分と変わりましたね。演奏会という形態自体がほとんどなくなり、配信がやたらと増えました。私も「あうるすぽっと」主催のもの、最近では「金沢能楽美術館」主催のもの、そして先日紹介した新宿区主催のものを配信させてもらっていますが、私の世代ですと、今迄はリアルがあるからこそ、ヴァーチャルである動画というものが成り立っていたと思うのです。下に10代の頃に憧れたミュージシャンたちの写真を張りましたが、子供の頃はリアルに見ることのできない海外のミュージシャンの映像などTVで放送していると、食い入るように見ていました。NHKでYesのライブを流していた時にはびっくりしましたし、ジミヘンのライブなんか、見ているだけで成りきっていましたね。部屋にはLPジャケットを飾り、ポスターを張って、NYのジャズクラブで演奏している自分を想像しながら、毎日朝から晩までLPレコードをずっと聞いていました。今ではyoutubeで何でも観ることが出来ますが、当時の動画は少年の心を直接刺激する、あまりに強力な媒体だったのです。

それに比べ昨今の動画作品は、生演奏の安易な代用品という感じがどうしてもしてしまいますね。しかしもう時代は、リアル・ヴァーチャルという境界も超えて行くのでしょう。既に80年代初頭のMTVなんかが先駆けだったのでしょうね。バグルスの「ラジオスターの悲劇」なんかを見た方も多いでしょう。あの頃から映像でしか表現できない音楽作品も沢山出来ていますし、映像に対する想いも価値観も、今後どんどんと変化して行くのでしょう。私は時代に追いついて行けるのかな・・。

私は今年一年、本当にありがたいことに沢山の仕事を頂きました。全て自分のスタイルで曲を付け、即興をして仕事をさせてもらったので、本当に感謝しかないです。ただこれ迄の様に自分の作品を演奏する演奏会は、ほとんど開けませんでした。定例の琵琶樂人倶楽部はやっていましたが、日本橋富沢町楽琵会の方は2月にやっただけで、来年以降も休止となっています。上半期には自分の作品を演奏する演奏会を色々と予定していたのですが、結局全て中止になってしまい、下半期は世の状況としても予定を立てられず、また仕事の演奏が色々と入っていたこともあって、自分の演奏会は開けませんでした。仕事としては成り立ちましたが、活動としてはどうにも中途半端な形になってしまったのが残念です。来年は地味であっても、もう少し確実に自分の音楽を発表していけるよう頑張りたいですね。
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左:琵琶樂人倶楽部にて、中:日本橋富沢町楽琵会にて、右:六本木ストライプハウスにて いずれもphoto:新藤義久

琵琶樂人倶楽部も内容を更に充実させて、少し今年とは内容も方向も変えて行こうと思っています。今年も色んな曲を創り、数は少ないですがレパートリーとして定着したものも出来上がり嬉しく思っています。やはり私は曲を創って、弾くところまでやってはじめて、自分の音楽活動が成り立ちますので、来年は更なる曲創りとパフォーマンスに徹したいですね。

毎年年末には一年を振り返り、その都度課題が見えてくるのですが、お陰様で悪い方向には行っていません。そして年を経るごとに自分の姿が見えて来ます。音楽に限りませんが、結局やればやるほどに自分自身になって行くという事を感じていまして、人間=音楽という位に成りたいなと思っています。言い換えれば、音楽そのものも活動も、私という人間が豊かでなければ、音楽も大したものは創れないという事だと思っています。だからもっともっと自分自身が豊かになって行きたいのです。
今年は多くの良き機会を頂き、経験も見聞も広がり、多くの人ともつながりが出来ました。本当にありがたく思っています。是非来年もこの勢いを繋げて行きたいですね。

葛城 高鴨神社の池

そして今年は、私の周りの方々の訃報が相次ぎました。コロナ関連ではなかったのですが、私の年齢になれば、自然と旅立つ友人知人も増えて行きます。訃報に接する度に、様々な想いが湧き上がるのですが、悲しさよりも、かえって自分に与えられた運命は何なのか、と感じることが多くなりました。
人間は色んな側面を持っているし、人によってそれぞれに、自分でも捉えきれないほどの様々な想いを持っています。それ故、数えきれない人々の想念が社会に張り巡らされ、そのカオスの中に生きているのが人間だと常々思っています。生かされているとは、そのカオスの中に身を置いているという事であり、そのカオスを身の周りに作り出すのもまた自分自身であると思っています。つまり自分の妄執を自分で生み出しているのが、人間なのかもしれません。

そのカオスの中で、唯一生死こそが、自分だけのものなのです。生きるのも死ぬのも誰かに代ってもらう事は出来ません。現世に生きる我々は、物やお金など目に
見えるもので何事も判断しがちですが、所詮そんなものは自分自身ではないし、名誉や肩書などは一定のルールの中で他人からもらった幻想に過ぎない。場所や時代が変われば、英雄も犯罪者になってしまうのが世の中というもの。そんな幻想に身を置いて振り回されていたら、いつまで経っても迷いの中を彷徨っているだけです。
現世に於いて他人から恨まれようが好かれようが、自分の人生は自分しか生きられない。そして死もまた自分でしか体験することは出来ません。
良寛さんでは無いですが、人は死ぬべき時に死ぬのです。その死に方も生まれ方も運命であり、自分で望んだ形にはなりません。西行の様に死を思うような形にした人もいるのでしょうが、それすら運命といってよいでしょう。だからこのカオスの中で生かされている自分の命と、与えられた運命を感じ、自分の生を生きない限り、自分の人生は全うできないと、私は思っています。。

さて、来年一年の琵琶樂人倶楽部のスケジュールがほぼ決まりました。少し未定な所や、上述したようにもう少し考え内容を変更して行くところも出てくると思いますが、大体この内容でやりますので是非お越しいただきたいと思っています。

琵琶樂人倶楽部 
 
来年も琵琶の音が響き渡りますように。

師走の空

2020ー12セルリアンイナンナ1先日のセルリアンタワー能楽堂での「東西の冥界下り」は賑々しく終えることが出来ました。盛りだくさんの内容で、上演も5時間に渡って(勿論休憩をはさみながら)の公演でしたが、無事に上演が出来嬉しかったですね。

年内は25日に「耳なし芳一」の新たなヴァージョンの収録と、27日にJCPM(japanese culture promotion and management  https://www.jcpm.jp/)の企画による収録の2本で終了です。今年は春から、とんでもない状況でしたが、色々と声をかけて頂き、良いお仕事をさせてもらいました。実現しなかったことも数々とありましたが、その分見えてきたことも多かったですね。

ここへきてコロナウイルスの状況も新たな変化が出て来ました。もうこれからは今までの延長としての未来を考えることが出来ませんね。変化の速度もあまりにも急で、色んな物事が想像つかない速度で変化して行ってます。ここ数年よく言われている「2045年シンギュラリティー」も、もっと早い段階で迎えるでしょうね。
こういう事態の中にあって、どうすべきかなんてことは私には全く判りません。この先の自分に与えられた運命は判りませんが、どんな事態になっても生きて行くという事だけは確信しています。


1ギャラクシティープラネタリュウムドーム
演奏会は当分通常のようには開けないでしょうね。左の写真は今年の2月にやったギャラクシティープラネタリュウムドームでの写真ですが、この時は、終演後の打ち上げ会場で、代表の方に「来週から休館にするよう」運営本部から電話がかかって来ました。間一髪での上演でしたね。来年も1月23日にギャラクシティードームで「銀河鉄道の夜」をやる予定なのですが、ちょっと心配です。
出来る事なら来年は是非作品を録音して残しておきたいです。「四季を寿ぐ歌」の他にも色々と録音しておきたい作品が溜まってきました。その為にはもっと譜面も今一歩詰めて書き込んでおかないといけないし、アンサンブルの方も充実させないといけないのですが、集まって練習することが出来るかどうか・・。録音しておきたい作品はいくつもあるので、何とか実現したいですね。

このところ昼間の天気は良いし、朝陽が射してくる時や、夕暮れ時の美しさには、毎日感激しています。この穏やかな姿と、目に見えないコロナウイルスという真逆の日常からは、様々な想いが湧き上がり、渦巻いてきますね。コロナウイルスは、自然と共に暮らすことを忘れてしまった人類への警鐘とも言われていますが、私の頭で考えても現代人の暮らしは、随分と歪んでいるように思います。今後Aiによりすべてを管理されてゆく世界へと歩みを進めるのか、それともAiを活用しながら、有機体としての人間本来の姿を模索するのか・・。

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新宿区主催の「小泉八雲生誕170年記念『漱石と八雲-文豪たちが見た世界と日本』~能で味わう漱石・八雲の世界」の舞台より能楽師の安田登先生、笙奏者のカニササレアヤコさん、私


これからは芸術家が、その方向性を示して行くだろうと私は思っています。ネット配信で世界と一個人の音楽家が繋がっているように、今後は個人と世界が、国境の隔たりを感じることなく繋がって行くようになるでしょう。経済の在り方も政治の在り方も、国単位では考えられなくなるでしょうし、お金の在り方ももう変わりつつあります。
そう遠くない将来、人間の命の在り方も変わってくるのではないでしょうか。既に人間から「老い」というものが無くなりつつある、なんて研究も世間には知られていますが、トランスヒューマニズムがどんどんと加速して、肉体という概念も大きく変わって行くことと思います。これまで人類が辿って来たものとは違う人間の在り方が、もうすぐ目の前にあるのです。

伎芸天m

技芸天


こういう時代に在って、従来の枠を超えて先頭を切るのは、芸術家しかないのではないでしょうか。これが「風の時代」という事なのだと私は考えています。従来の国家、人種、イデオロギー、会社、性別、年齢、格差etc.などは、もうこれからはどんどんと曖昧になるだろうし、既にそんな所を超えている人は沢山居ます。特に芸術家には既に実践して生きている人が多いのは皆さんご存じの通り。
本来古典、特に能などでは、時間も性別も身分も超えた世界が描かれています。そんな崇高な芸術が既に日本には室町時代からあったのですから、もしかすると次の時代を示して行く芸術は、日本から生まれるのかもしれませんね。目の前の小さな事に囚われず、大きなヴィジョンと実行力のある邦楽人を望むばかりです。

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photo 新藤義久


今年は年賀状を出すのをやめました。私はお陰様で何とか過ごせましたが、とても「明けましておめでとう」という言葉は、今吐くことは出来ません。
新たな時代が見えてきた時、皆に何かしらの挨拶が出来たらいいですね。


「漱石と八雲」新宿区

先日の新宿区主催の「漱石と八雲」はYoutubeにて動画が公開になっています。ご覧になって観てください。


受け継ぐということ2020

先週末は麻布区民センターホールにて、劇団アドック公演「雛」(昨:芥川龍之介 脚本:神尾哲人)の音楽を担当してきました。

劇団主催の伊藤豪さんと三園ゆう子さんと出逢ったのは、もう20年近く前だったように思いますが、これまで様々な作品の音楽を担当させていただきました。この「雛」だけでも3回やっています。2014年には川崎能楽堂にて、琵琶・筝・尺八と共に三園さんの一人語りの形で、三浦綾子原作の「母」をやったこともあります。今回も楽しくやらせていただきました。

笛の小泉なおみさん、主演女優の三園ゆう子さんと
今回の音楽は、笛と琵琶のみによる演奏。相方は笛奏者の小泉なおみさんでした。小泉さんとは島根グラントワで以前ご一緒していましたので、最初からとても良いアンサンブルが出来上がり嬉しかったです。曲は新たに「雛」のテーマを私が作曲して、更に小泉さんが伴奏などを付けて編曲したヴァージョンも作ってくれたので、劇中だけでなく、終演後にも流してもらいました。小泉さんはモダンなセンスと技を持っている演奏家なので、今後もライブなどでお手伝いして頂こうと思っています。

私は琵琶で活動し出した25年前から、ずっと毎年演劇やダンスの舞台の音楽を担当してきました。アングラな劇団から、舞踏、バレエ、コンテンポラリー、能、日舞、地唄舞、フラメンコ、中国舞踊…もう何でも来いという感じで、毎年やらせてもらっていますが、とにかく舞台を皆で創って行く感じが面白いです。普段私は、一人かせいぜいデュオばかりなので、大人数でワイワイ言いながら、様々なやり方で作品を創り上げやって行くのは、とても新鮮なのです。
ダンサーや役者の方々と音楽家はエネルギーの出し方が違うので、基本的に全体のやり方はお任せして、口は出さないのですが、私はどうにも天邪鬼なので、公演中も様々なアドリブを入れて、アプローチをしています。今回も琵琶ソロの部分は毎回アドリブ。最終日はちょっとカマしてしまいました。すいません。

ロビーに飾った雛人形を前に、劇団主催の伊藤豪さん、小泉さん、三園さんと

アドックではこの「雛」が旗揚げの作品で、その他三浦綾子の作品を多く上演しています。小林多喜二の母の語りで始まる「母」や「壁の声」「青い刺」等重厚な作品を多く取り上げています。楽しくて、軽いスタイルの、現代的な演劇とは違いますが、門外漢の私でも、稽古からずっと付き合っていると、そこには一舞台人として、芸術家として多くの得るものを感じます。こういうオーソドックスな社会派の演劇は、流行りではないかもしれませんが、特に若手の方には、ベテランから直接指導を受けることが出来る、良い勉強の場でもあると思います。是非是非頑張って欲しいですね。

芸術系に関心の高い若者は、ともすると前衛的なものや、流行の最先端を行っているものに目が行きがちで、オーソドックスなものを軽視しがちです。特に現代の日本では、美術や演劇が好きだというアート系の人と話していても、ほとんど古典文学や古典芸能の話は出て来ません。知識も無いし、自国の古典に関心がない。最先端の情報はどんどんと流れてくるので、最先端を知らないと「時代について行けない」などと思って、そちらにばかり目が行くのでしょうが、是非自分の足元に多くの遺産があることに気付いて欲しいですね。まあ流行りもの、舶来ものに弱い日本人特有なのかもしれませんが・・・。
先週の琵琶樂人倶楽部にて
世界一の長い歴史と文化を誇るこの日本に於いて、平家物語一つ知らない人がほとんどというのはどう考えても、今後の日本にとってもったいない。戦後の教育の失敗だと思います。古典の中に次の時代を生きるヒントは山のようにあるし、現代の抱えている問題も古典を通して見えてくる。何故なのか??。それは長い時間を経て、様々な時代を経ても尚残ったものだからです。目の前の情報ではなく、その時の流行りでもなく、この風土の中で生き抜くための、普遍的な基本情報のようなものが、古典の中には詰まっているのです。せっかく世界一の情報が目の前にあるのにそれを見ようとしないのは、もったいないとしか言いようがありませんね。
これは芸術の部分だけでなく、日常の暮らしに於いても言えることで、現代の日本では、「受け継ぐ」という事が、まるで出来ていないように思えるようなことが多々あるのです。日々とても危ういものを感じています。
私自身、日本音楽の最先端に居ようと常に思っていますが、過去があるからこその最先端なので、古典やオーソドックスなものは常に視野に入れています。入れなければ、とても最先端には居られません。古典を知らなければ何が新しくて、何がただの焼き直しなのかの判断すらつきません。
今回のような演劇舞台は、派手な演出がある訳ではなく、大変地味なものです。しかし受けを狙ったり、奇をてらったりするものになりつつある現代の舞台において、人が舞台に立つための大切な内容が、そこにはあるように思いました。芥川の書いたこの作品自体が先ずは素晴らしいし、更に脚本演出の神尾哲人(伊藤豪)さんが受け継いできたものは、その前に何代にも渡って受け継がれてきたもので、そこには大きな蓄積があるのです。舞台人として
の大事な、大切な言葉がち散りばめられて作品となっているのです。是非若手にそれを受け継いでもらいたいですね。

古典のレールの上に乗る必要は無いし、アイデアに関しては、古典に関係ないような新しい頭脳から出てきたものにこそ新鮮な魅力があったりもします。古典を大事にすることと、寄りかかることは全く違うので、古典を勉強してエリートのような顔をしているのはただの俗物。愚の骨頂です。ろくに受け継いでいないのと同じです。そしてそんな人が古典の世界には沢山居るのも事実です。
しかしだからといってそこで古典と断絶するのではなく、今こそ素直な感覚で、世界一の歴史を誇る日本の古典に接し、そこから次世代の舞台を創り出して、更に次の世代へと繋げて行ってもらいたいですね。

今年は、舞台に立てずに終わろうとしている人もいる事でしょう。こんな時に、私は有り難いことに大小様々な舞台に立たせてもらっています。明日はセルリアン能楽堂にて、東西の冥界下りという舞台もやるのですが、実に面白い内容になっております。残念ながらチケットは既に完売とのことですが、また別の機会に、どこかで再演が出来たらいいな、と思っています。
どう受け継ぐかも確かに才能の内ですが、どう受け継がせるかも我々世代の大きな課題だと思います。この日本の滔々と流れる素晴らしい文化を、次世代に、またその先の世代に繋げて行きたいですね。文化こそ人間。この灯を消してはならないのです。

追伸:18日より、先日収録した「小泉八雲生誕170年記念『漱石と八雲-文豪たちが見た世界と日本』~能で味わう漱石・八雲の世界」~新宿区夏目漱石情報発信事業の動画がYoutubeで配信されています。是非ご覧ください。

想いの空

琵琶樂人倶楽部にて、安田登先生、名和紀子さんと

先日の琵琶樂人倶楽部は、沢山の方にお越しいただいて、大変充実した会となりました。小さな会場ですし、こういう時期でもありますので、何人かお断りをするような形になってしまいましたが、これからも内容充実でやってまいりたいと思います。今後共宜しくお願い申し上げます。
左:浄瑠璃寺、中:高天彦神社参道。右:高鴨神社

琵琶樂人倶楽部にて  photo 新藤義久
私はあまりデジタルが得意でなく、SNSも一切やっていないし、せいぜいこのブログとメールを書く程度の、超アナログ派なので、何とか時代にへばりつきながら生きて行くしかないだろうと思っていますが、PCやデジタルツールなどの生活システムという部分よりも、一番心配しているのは、現代人の「想像力の欠如」です。
ネットの記事や書き込みなどを見るにつけ、いつもその「想像力」の無さに残念な思いを感じてしまいます。プロであるはずのライターでさえ、物事の背景や裏側への視野にかけるような文章を書いている例が多いように思います。自分と違うレイヤーに生きる人が居て、全く違う生き方があり、感性があるという事が理解できないのでしょうか・・・。世の中に起こる事件などを見ても、自分の世界以外の物を想像出来なくなっているような、痛ましいものが大変多いように思います。またそれに対する意見を見聞きしても、もうこの国は終わりか、と思えるような言葉ばかりが並んでいますね。今、心が失われてきている。私には、そうとしか思えません。こうした現代日本人の姿はかなり深刻な問題ではないかと思えて仕方がないのです。

世の中の流行りを見ても、目の前が楽しいものが全てになりつつありますね。じっくり考え、味わうものは大変少ないです。日本は、江戸時代から歌舞伎に代表されるように、何でもありの目の前を楽しませるエンタメが大流行ですが、そういうものと同時に、深く感じ、想いを馳せるような芸能も、かつては沢山存在していました。
アバークロンビー2ジョン・アバークロンビー「Current Events」
現代の音楽家は、喜怒哀楽の感情を歌い上げるのが「表現する」事とばかりに、声を張り上げているものが多いですが、哀しみの裏側にある心、喜びの背景にある情景等々、何か喜怒哀楽のもっと奥深い所が忘れ去られているような気がしてなりません。表層の感情ばかりでは味わいは感じませんね。
70年代、80年代辺りまでは、そんな流行りのポップスと同時に、リスナーの想像力を刺激するような音楽を創るレーベルがまだ頑張っていてリスナーもそういうものを求める人が多く、結構世界に受け入れられ、CDやレコードの売り上げも大きかったように思います。私の世代だとECMレーベルなどはその筆頭でしょう。キース・ジャレットの「ケルンコンサート」等はもの凄いセールスを記したし、アルヴォ・ペルトの諸作品は、現代音楽の新たな分野を世に紹介し、これもまたかなりのセールスを実現しました。私はラルフタウナーの「ソロコンサート」、ジョン・アバークロンビーの「Current Events」などの作品等々、ECMレーベルの作品から、かなりの影響を受けました。これらの音楽は聴くと同時に、感じる音楽でした。
琵琶樂人倶楽部にて、安田登先生、名和紀子さん、晄聖君

世の中のものは、どんなものでも様々なタイプのものが溢れているのが無理の無い状態だと常々思っていますが、今では、どんなものでも感じる事よりも楽しむことが優先というものが多いですね。生活すべてがあまりに便利になってしまって、想像力をさして使わなくても生きて行けるようになってしまったので、周りの物や人と関わるという、人間の基本が崩れてきているように感じるのは私だけではないと思います。何か根幹が危うくなっていると感じられて仕方がありません。

その反面、表面の体裁やルールは取り繕おうとして、自粛〇〇の様に、中身より目に見えるルールを守る事で満足し、またそれを盾に攻撃することで、自分は正当だと思い込む。何故そういうルールなのか、どうして行けば、皆が気持ちよくウェルビューイングで暮らして行けるのか、そういう事に想いを馳せることをしないですね。近視眼的で表面的な思考は、対立とトラブルをどんどん生んで行くように、私は思えて仕方がないのです。

ヴィオロンにて、朗読の櫛部妙有さんと  photo 新藤義久
寄ってかかるものを見つけ、そこに身を寄せている事で安心し、中身を考えようとしないのは、日本人の特性なのでしょうか。想像力は人間の生きる術の最たるもの。月を見て、歌を詠むこともなくなった日本人に、明日はあるのでしょうか。

豊かな音楽を創って行きたいものです。

自然(じねん)ということ

またコロナの感染が増えてきて、今後の見通しか立ちませんね。来年も波乱の一年になるのでしょうか・・。舞台はどうなってしまうのでしょう。いずれにしても、魅力ある音楽が響く世の中であって欲しいものです。

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今年最後の琵琶樂人倶楽部は、年末恒例のお楽しみ企画。今回は尼理愛子姐さんと尺八の藤田晄聖君。そして今回はスペシャルゲストとして安田登先生が、いつも率いているノボルーザの名和紀子さんと共に、漱石の「夢十夜」の中から「第一夜」と「第三夜」をやってくれます。勿論私も入り、第一夜では晄聖君も絡んでの演奏となります。会場のヴィオロンはとても小さな名曲喫茶でして、以前は特別な会の時にはぎゅうぎゅう詰めに座ってもらっていましたが、こういう時期でもありますので、空間を確保するためにも、今回は完全予約の形で、15名様限定でやることにいたします。いつもふらりと来ていただけるのが琵琶樂人倶楽部の良い所なのですが、今回は是非ご理解をお願いいたします。
宮本武蔵

先日の記事で「而」の事を書いたのですが、大変反響がありました。ありがたいことです。この「而」と共に私は、ここ数年でよく考えているのが、「自然(じねん)」です。仏教や武道では自然を「じねん」と読みますが、これは「はからい」または「必然」なんていう言葉で言い換えることも出来そうです。
人間は、何かをしようとする意思は誰しもあるし、それがあるからこそ、世の中が出来上がるのですが、「自分でやってやる」という個人の考えや作為よりも、「どうしてもそこに行くしかない」というような「はからい」や「導き」に身を任せると、個人を超えた世界が出て来るような気がします。これは私個人のこれ迄の経験から感じている事ではあるのですが、強い個人の意志だけでは届かない、もっと先の世界があるような気がしてなりません。

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30代の頃、邦楽ライブハウス和音にて
若い頃は何に於いてもポジティブシンキングという事が第一で、強い意志が明日を創ると信じていました。しかし今は、それだけでは世界が小さ過ぎると思えてならないのです。個人の力でブイブイやっていても、かえって限界しか見えて来ません。音楽活動も、頑張るのは勿論結構な事ですが、自分が何かに「導かれる」ことを意識した時から、どんどんと広がって行きました。自己顕示欲を振りかざし、つまらない虚飾や肩書を纏い、凄いぞオーラを出してガツガツやっても、かえってその器の小ささが見えるように、個人という視点をいったん外した方が、大きな世界に繋がり広がって行くという事を、ここ20年で経験してきました。それは同時に自分自身であり続ける事であり、何にも囚われない素のままの自分を体現する事でもあると思います。活動も音楽そのものも、自分らしい「じねん」であるものには揺るぎないものを感じます。またその感覚を持てるかどうかという事が重要な要素だとも感じています。

某老舗のギターメーカーのゼネラルマネージャーは、若き日、初めてその会社の工房に職人として入った時に、「必然が系統立てられたようなギター制作の工程」に感心したと語っていますが、正に「じねん」とはこのことなのではないかと私は思いますし、また伝統や流派の型とは、そういうものだろうと思うのです。長い年月を経て伝わった型は、既に余計なものはそぎ落とされ、個人という小さな領域も超え、必然だけが残っている。創始者のスペシャルケースの技や形はとうに乗り越えていて、その流派なりの仕事をする上でのゼネラルケースが「じねん」で出来上がっているのではないかと思っています。
形や体裁を極端に求め、作りたがる日本人は、何でも伝統やら古典という形を纏いたがります。しかし付焼刃的な体裁に「じねん」はありませんし、また中身の内容も判らなくなってしまい、外側だけの体裁を残しているものは結局廃れて行くのではないでしょうか。

アコ1
原宿アコスタジオにて

そして「じねん」には陰陽のバランスが整っているという事も、このところよく感じています。一つの節、そして一つの動作の中にも陰陽を感じますね。以前から陰陽の存在を感じてはいたのですが、武道を通して、陰陽があらゆる面に渡っていることを明確に感じるようになって来ました。全体に、そして細部に渡って、あらゆる単位に陰陽が存在するのです。

逆に陰と陽ではなく、陽と陽になったり、陰と陰になったりすると、存在の在り方が変りますね。そこにはある種のパワーが出たり、魅力も発すると思いますが、これは結構危うい。スキも多くなりますし、視点が一つになってしまって周りが見えなくなって、己のパワーだけで動いてしまう。これでは持続性も無いし、とても脆く、崩れやすい気がします。陰陽がバランスよく整うと、周りと調和して、無理がなくなり、全体が「じねん」につながる。そんな風に感じています。

今世の中を見てみると、どうも陽と陽になっているものが多いように感じます。確かに元気は良いのだけど、底が浅く、一発屋的で、しかも危なっかしい。思うに自分の外に軸を持っていると、外側の軸で自分も他人も、物事全てを測るようになって、それ故に常に自分を誇示し、確認しようとしてしまうのではないでしょうか。自分の中の軸を見失ってしまうと、本来自分が生きてゆく上で大事なものには目が行かず、さして必要の無い~お金や地位、学歴、他人に対しての優劣等々~ものに振り回されてしまいます。当然そこには「じねん」も陰陽も存在し得ません。

この「じねん」、そして陰陽は音楽活動についても言えることですし、曲創りにも、日々の行動全般にも渡っています。何か上手く行かない時、もやもやする時は、少し自分を見つめ直したり、周りを眺めたりしながら、陰陽のバランスを確かめ、自分のやっていることが「じねん」になっているかどうか確かめるようにしています。

2011-1-17
2011年1月の琵琶樂人倶楽部、琵琶製作者の石田克佳さん、古澤月心さんと。3人とも若いね~~

琵琶樂人倶楽部も独自のペースでやったのが良かったですね。だから14年続いたのだと思います。あくまで自分のやれることを、自分で考えながらやって来ました。一つの視点や、考え方、そして一つのレイヤーに固執せず、流派からもジャンルからも飛翔独立して、幅広く声をかけていたからこそ、陰陽のバランスも整い、人が集ってくれるのだと、最近は感じています。
これからも「じねん」そして陰陽の二つを崩さないようにやって行きたいですね。

12月9日(水) 19時30分開演
場所:阿佐ヶ谷ヴィオロン
出演:塩高和之(司会・琵琶)
   ゲスト 尼理愛子(琵琶)藤田晄聖(尺八)
   スペシャルゲスト 安田登(能楽師) 名和紀子(俳優)
演目:まろばし~尺八と琵琶の為の  西風~尺八と琵琶の為の  風の記憶~琵琶独奏のための
   夢十夜(第一夜 第三夜)他
料金:1000円(コーヒー付)
要予約 限定15名様
   

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