個性というもの

私は日々色んな所に出掛けているので、芸術家以外にも様々な方々に会います。何故か魅力的で面白い方ばかりに会うのですが、たまに無理をしているなと感じる人にも会います。私のような洛外の者は世の中を外側から見る事も多いので世の主流の意見とは違うと思いますが、どうも現代人は個性というものに囚われ、また同時に誤解もしているように思う事が多々あるように思えて仕方がないのです。

戯曲「良寛」能楽師の津村禮次郎先生と座・高円寺にて
8月に新潟の佐渡相川春日神社能舞台で再演します。

 

人間は誰一人として同じではありません。姿かたちも声も人生も皆それぞれです。だから本来はただ自分で在りさえすれば、自ずと個性が満ちていて保たれているのですが、現代社会に於いては、自分で自分を演出するのが個性と思っている人が多いのではないでしょうか。身に着けるものや出入りする場所等で「自分はこういう人間」という暗示をかけ,キャラを作って、またそれをアピールする。そしてそれが自分の個性であり、人生だと思い込んでいる。

服や身に着けるもので「自分らしく」あろうと、色んなものを選択するのは各人の好みですから結構な事だと思います。しかしその選んでいる服はメディアが宣伝しているものの中から選ばされ、ライフスタイルも皆、提供されたものの中で自分が選んでいる。つまり誘導されているにも拘らず自ら築いたと思い込まされて生きているのが現状ではないでしょうか。ワイルド系癒し系等々色んなタイプに自分をカテゴライズして、それに合う服を選ばされ、体系も髪型もそういうステレオタイプの何かに自然と近づくように誘導されている。ファッション雑誌ではタレントの誰々風のファッションや髪形が紹介され、美容室にタレントの写真を持ち込んでカットしてもらうなんてのが普通になっている。私にはそれが違和感なのです。


パフォーマーの坂本美蘭さん、ダンサーの牧瀬茜さんと
尺八:藤田晄聖 Asax :SOON Kim

 

立派な人間、格好良い人間、まともな人間という定形は幻想でしかないのです。時代が変われば、そんな定型もどんどん変わります。もう少し型にはまらず自由で良いと思うのですが。如何でしょう。
現代社会は経済や産業が基本になって、資本主義を是として、右肩上がりで成長して行くのが善であり正義でありという「ビジネス」が生活全般、根底に蔓延り、皆が年収や肩書を追いかけます。右肩上がりで成長するには、どこかから搾取しない限りは成長は無いし、石油も電力も求めれば求める程に自然を破壊して行く。しかし個人はそういう負の現実に疑問を抱かず目を向けようともしない。自分を取り巻く小さな世界だけを見て勝ち組だの成功者だのと自分と他人を比べ、その勝ち組に羨望の眼差しを向け、気づかない内に俗世間の物差しで自分の人生を測っている。挙句の果てに自分が何者であるか判らなくなって「自分探し」などと言って、またビジネスの餌になって行く。何だか残念な感じがしませんか。
現代人の目には、この豊饒な大地は見えているでしょうか。そこに人間の姿はあるでしょうか。そこに溌溂とした生命や個性はあるのでしょうか。

私にも色んな好みがあります。こだわりもあります。でも常に他と比較して生きていたら、人生は苦しみが増すばかりだと思っていますので、人は人、自分は自分と常に思っています。なるべく争いもしません。私にはスポーツは戦争と同じようにしか見えないので一切見ません。人間が感情むき出して争っている姿はどう見ても戦争のように思えてならないのです。ゲームも一切見たくないですね。トランプなんかもほとんどやったことがありません。まだアクション映画の方が如何にも作り物っぽいので見ていられます。
私は元々音楽活動を始めるにあたって何も持っていなかったので、捨てるものもありませんし、人と争う種が私にはありません。だから自己顕示欲がギラギラしている方とは組めませんね。音楽は分かち合うものであって争うものではないので、自分のやりたい事を自分のペースでゆっくりやっているだけです。

音楽家も本当に自分の想う音楽をやって欲しいです。ジミヘンを真似れば真似る程、何だか哀れに思うのは私だけではないはずです。勉強や稽古の為に真似るのは大いに結構。しかし上手に表面を物真似出来た所で本当に心の底から楽しんでいるのでしょうか。素晴らしい音楽を創り出した先人達は皆自分のスタイルを見出し、自分独自の音色を創り、自分のやり方を見出したのです。我々も自分の音色を創り上げ、自分だけのやり方を見つけませんか。それこそが先人へのリスペクトだと私は思います。
物事の根源に向かい本質を求め創り出して行くのがアーティストの姿だとしたら、現代という時代も判った上で、世間の常識や習慣ルールという幻想を乗り越えて、そのもっと奥にある生命や実体に向かって行って良いのではないでしょうか。人間が生きる事と創造する事はイコールです。過去なぞり、出来合いの小さな世界に憧れ、寄りかかり固執しているようでは何も創り出せないと私は思います。皆さんは如何ですか。

 

 

左 平野多美恵、久保順、右:灰野啓二 田中黎山 各氏と

個性は、何もしなくても元から備わっているもので、自分の存在そのものです。表面をお着替えすれば気分は変わるでしょうが、個性が変わるという事はありえません。自分の生き方をして初めてその個性が魅力として滲み出て来る。私はそんな風に思います。

もっと自分に向き合って、自分のやりたい事をどんどんやって行きたいですね。

「サワリ」の話Ⅶ~音色それぞれ

暑い日々が増えて来ましたね。私は自分自身が暑さに弱いのに加え、琵琶も湿気が大敵なので、どうもこれからの季節は苦手です。

最近は色んな方の琵琶の手入れをする機会があり、色々と勉強になります。皆それぞれに好みがあり、スタイルがあり、この多様さが琵琶の魅力になっているんだなと実感します。一人一人声も顔も違うように、琵琶の音も色々あるのだと思います。もっとそれが音楽として個性的な琵琶樂が飛び出して行って欲しいですね。

私の分解型琵琶。最近よく鳴り出してきました

 

教えている生徒のものは、いつもサワリ調整のやり方を見せ教えてながら調整してあげるのですが、是非自分で出来るようになって欲しいものです。生徒の中に最近分解型琵琶を手に入れた人が居て、そのサワリを診てあげたら、とても良い感じで鳴り出して気持ち良かったですね。喜んでましたよ。何だか私も嬉しくなってしまいました。彼は弾き語りスタイルを中心にして色んな場所で演奏しているので、あの分解型は、これからきっと彼の良きパートナーとなって行くんでしょうね。
ギターなんかも同じですが、新しい琵琶は手に届いてから、細部のセッティングを自分なりに調整してあげないと本来の音が出て来ません。先ず絃を自分に合うものに替え、その上でサワリの調整を細やかにしてあげて、そこからがスタートです。コツコツと自分なりの工夫をしながら育てて行ってこそ唯一無二のパートナーになって行くのです。最初の調整をおろそかにすると、いつまで経っても楽器のポテンシャルも引き出せないし、パートナーにもなってくれません。

時々知り合いの琵琶も頼まれて調整するのですが、声を使う人には長いサスティンや響き過ぎるサワリは歌にとって扱いにくくなってしまいますので、その辺も考えてやることが必要です。先日も筑前琵琶のサワリ調整をしたのですが、一の糸をいつもの調子でばっちり鳴るように調整したら、さすがに鳴り過ぎて歌いにくいという事でサワリと鳴りを押さえるような調整をしました。そうしたら全体がしっとりとした弾き歌いにちょうど良い感じでバランスが取れて響いてくれました。サワリの調整をする時には「これはどう?、もうちょっと渋くする?」なんて調子で話しをして、相手の好みを確かめながらやるのですが、人によって求めるサワリが様々で、そういう話がなかなか楽しいのです。何事も正解が一つしかなく、ゴールが決まっているようなものは面白くありません。多様な琵琶のスタイルに常に触れていられるのは幸せであり、良い勉強になりますね。

それにしてもサワリの調整一つでこれだけ変化に幅がある楽器というのも珍しい。ギターやピアノも勿論調整で大きく変わりますが、琵琶程変わる楽器は他に見た事がありません。

特に糸口のサワリ調整は、全く別物になるので一番気を遣います。多分このブログを見ている琵琶人も同じように感じている方も居るでしょう。自分で調節できるようになると自分だけのサウンドが出せますよ。
また貝プレートの糸口になじめない方も多いかと思います。私も最初はちょっと音色がどうなるか心配だったのですが、約8年程舞台やレコーディングで使い続けた実感として、象牙の糸口も貝プレートも、その音色は象牙のものと変わらないと感じています。全く心配なく使えてます。しかも貝プレートは削り過ぎたらプレートを交換するだけでコストも手間もかかりませんし、土台の木部を削らない限り、とてもメンテナンス性が良いのです。
これからの時代を考えれば象牙の使用は世界的にも無理がありますので、早い時期に貝プレートに替えて本当に良かったと思っています。少し前に象牙の糸口のままアメリカに琵琶を持って行って没収された方が居ましたが、これからの琵琶人には是非貝プレートをお勧めします。勿論サワリの調整が自分で出来るというのが前提ですが。

材料はどんどん変わります。どんな楽器でも素材は世の変化と共に変わって行きます。素材自体が枯渇する事もあるし、時代が求める音色が変化して行く事もあります。しかし皆それぞれの時代の魅力的な音を目指して、素晴らしい音楽を創り上げているのです。ピアノの鍵盤もドラムのヘッドも弦楽器の絃も、どんどん変化しながらも素晴らしい音を奏でる為に、時代に見合う演奏テクニックを演奏家が開発し、新しい音楽を創造し、それぞれの時代の音楽を創り出しているのです。

桑の土台の上に黒檀、その上にスネークウッド、そして貝プレートという構造

先日の琵琶樂人倶楽部は琵琶職人の石田克佳さんを招いて「琵琶トーク」をしたのですが、お客様から高い倍音が聞こえるという御感想を頂きました。特に太い絃を弾くと倍音は聴こえやすいのですが、サワリの調整によってもその特定の倍音を押さえたり出したりすることが出来ます。糸口のサワリのもう少し上の部分に空間が少しあるとキンキン(ヒョンヒョンと言う方が合っているでしょうか)とした高い倍音が出て来ます。これはこれで気持ち良いので、私は割と出るままにしておく事が多いのですが、ちょっと出過ぎると思う時には貝プレートの上部のスネークウッドの部分に軽~くやすりをかけて、隙間を無くし、高い倍音を押さえるようにしています。ただこれは写真で見せてもほとんど判りません。実際に目の前で教えないとどうにも伝わらないのです。象牙の糸口だともっと判りにくいかもしれません。是非お師匠様に教えてもらってください。

それとサワリの調整をする際の残酷な現実として、老眼の方はかなり厳しいです。光にかざしながらやるのですが、細かい隙間がどうしても見えずらくなります。幸い私は普段から眼鏡も必要無く過ごせているので大丈夫なのですが、本を読
む時に老眼鏡が必要な方は、サワリの調整もかなりやりにくいと思います。先ずは柱でも糸口でもその状態が見えないとどうしようもないです。慣れてくると大体音でどういう状態になっているか判るのですが、それでも見えないとまともに調整する事は出来ません。早い方は40代から老眼になってくるようですが、サワリ調整専用のメガネなどを用意する事をお勧めします。こればかりはどうにもなりません。

 

 

サワリの音色は、結局その人がどんな音楽をやりたいか、それによって随分違ってきます。材質も勿論ですが、先ずは自分で最適な調整が出来なければいくら材質を変えた所で、求める音は出て来ません。求める音色はそのままその人の音楽です。お稽古事で楽しむのなら、習っている先生と同じで良いと思いますが、時代のセンスが目まぐるしく変化している現代に合って、お稽古事と言えども琵琶樂に対する好みは変化して行くのではないでしょうか。T流などをみていると、流祖と今の門下生はまるで違った歌い方をしています。とても同じ流派とは思えません。これは良い悪いではなく、こういう変化はあらゆる分野で時代の流れと共に当然であるのではないでしょうか。
創造する事を忘れ、技術も根拠も実績も積もうとせず「象牙でなければだめだ」「〇〇ねばならない」「昔は良かった」なんていう、変化を恐れ、過去に寄りかかる薄弱なメンタルで居たら、次世代の琵琶樂は響きません。受け継ぎたいのならどんな分野でも常に「創造」をし続け、「変化」を受け入れる精神が必須です。時代の変化を受け入れないようでは、何事に於いても継続は望めません。

 

 

photo 新藤義久

私はすべての琵琶を器楽用にセッティングしているのですが、弾き語りをたまにやる時も塩高モデルの大型琵琶でやりますので、歌う「間」や声量も随分と変えています。声を聴かせる事以上に琵琶を聴かせるのが私のスタイルなので、私の琵琶のセッティングは歌う人に取っては参考にはならないと思いますが、人それぞれの琵琶の音色がもっと世に溢れるのが理想ですね。それぞれのスタイルで魅力ある琵琶の音をどんどん響かせて欲しいですね。ちなみに私は歌に関して、歌い手と弾き手を分ける形でこれからどんどん作品を創って行こうと思ってます。

様々な琵琶の音が響き渡る世の中になって欲しいものです。

流れのままにⅡ

先日のMIMINOIMI 主催の「 Anbient  Week」は良い感じで演奏することが出来ました。会場は築50年(もっとかな)はゆうに経っているだろうと思はれる廃墟のようなビルで、そこがまたアートな感じで気に入りました。

 

会場では久し振りに秦琴奏者の深草アキさんと再会を果たすことが出来、来年は年明けに琵琶樂人倶楽部にも出演してもらう事になりました。深草さんとはかなり前に邦楽ジャーナルクラブ「和音」で知り合ってからずっとメールなどで繋がっていたのですが、お逢いするのは本当に久しぶりでした。ああいうフェスは色んな方と知り合えるのが嬉しいですね。

深草さんの演奏も聴かせてもらって、色々とお話もしていたら、また自分の姿というものも見えて来ました。やはり色んなジャンルの方々との交流は己を磨きますね。やはり私は演奏家というより作曲家の部分が強いのでしょう。作曲をして自分の想う世界を描き発表して行くスタイルでやって来ましたが、いわゆる演奏家とはちょっと意識が違うのだと改めて感じました。

この動画は昨年、青梅宗建寺で行われた深草さんの演奏。ここは私も以前演奏したことのあるお寺です。深草さんの音楽は他には無い独特の世界観が魅力的で、地味で静かな音楽ながら、PPによるかすかな音からリズミックな表現まで多彩な表現があります。歌(というより声)も入りますが、あくまで演奏がメインであるのが素晴らしい。だから秦琴の音をじっくりと味わうことが出来る。こういう歌の入り方は私が探していたスタイルに大変近く、多くの示唆を頂きました。今後は歌の入る作品も創って行きたいと思っているので、アイデアも湧いてきました。HPもありますので是非ご覧になってみてください。

 

先日のライブでは10thアルバムに収録した「凍れる月 第三章」を藤田晄聖君の尺八でやってみましたが、これがなかなかいい感じで、曲の新たな魅力も感じられました。笛とは違って雰囲気が変わり、曲の新たな一面が引き出されたように感じています。私は自分の曲を色んな演奏家と演奏するのですが、楽器を限定せず、ヴァイオリンや尺八など色んな楽器とやっています。「塔里木旋回舞曲」も笛とのデュオで創りレコーディングしまたが、ヴァイオリンとのデュオもとてもいい感じで気に入って9thアルバム「Voices from the Ancient World」に収録して、ライブでも良くやっています。「西風(ならい)」も笛でやったり尺八でやったり、時にはASax&ヴァイオリン&琵琶のトリオでやったりして、それぞれに違った魅力を感じています。「君の瞳」も元々フルートと琵琶で創りましたが、今ではもうヴァイオリンとのデュオ曲のようになっています。曲自体も色んな形で出来るように演奏者の解釈で色々出来るようにあえて書き込みを細かくせずに作曲してありますが、有能な演奏家と組む事と色々と試せる機会がある事で曲の可能性はどんどん広がり、曲の持つ世界はどんどんと深まって行くのです。作曲家としても演奏家としても本当に嬉しいですね。

 

ウズベキスタンの首都タシケントにあるイルホム劇場にて。「まろばし」をアルチョム・キムさんに、ミニオケのバックにネイ(ウズベキの笛)&琵琶に編曲してもらって上演

 

毎年、梅雨時期はパンクするんじゃないかという位忙しかったですが、さすがにコロナを経て、変わって来ました。今はじっくりと創作する時期なのだろうと思っていますが、こういう流れの変化を感じ取れるかどうかはとても大事な事。世の中全体も勿論ですが、自分を取り巻く状況がどんな流れの中にあるのか、そこを解った上で、あえて逆らって行くのか、もしくは流れの乗ってゆくのか、そこにその人の器が問われます。

最近は琵琶の楽曲をもっと創りたいという気持ちが強くなりました。以前は演奏会のプログラムを意識して作曲をしていたという感じがかなりあって、オープニングにはこんな曲。二部の頭にはこんな曲という具合に作曲していたのですが、今は、単に充実した琵琶の楽曲を創り上げたいという気持ちの方が強くなりました。自分の中での変化も面白いです。

 

photo 新藤義久

 

作曲及び演奏に対する姿勢の変化は、自分の年齢的な事もあるだろうし、私が今後のヴィジョンをどう持つかで考え方も活動も、日々の生活も変化して行く事でしょう。自分が見据える今後の自身の姿を成就する為にも、今はこの流れに乗って行くのが最適だと感じています。今年ももう半分ほど過ぎてしまいましたが、後半が楽しみですな。何かが始まるのかな??。

 

 

琵琶トーク

 

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来週の琵琶樂人倶楽部は毎年恒例になっている、琵琶製作者の石田克佳さんを迎えての琵琶トークをやります。石田さんはもう実質上お父様と共に国内唯一の琵琶の制作を担う方です。また正派薩摩琵琶の演奏もしますので、先ずは「小敦盛 二段」を演奏して頂き、私が「壇ノ浦」を演奏。二つの琵琶の聴き比べをします。その後二人で色々琵琶についてのトークを繰り広げるという毎度恒例の構成です。今回は琵琶に使われる材料についてお話を聞かせて頂こうと思います。

私の中型琵琶の裏側に使っている花梨の木ももう入って来ないようですし、桑の木や撥に使う柘植の材等、これまで通りという訳には行かなくなっているようですので、その辺りの事をお聴きしたいと思っています。小さな会ですので、お席も25人程でマックスです。ご興味のある方は是非ご連絡くださいませ。

 

琵琶樂人倶楽部にて SOON・Kim  田澤明子各氏と

 

私は最初から自由に琵琶の活動をしていますので、いわゆる流派の方とはほとんど交流がありません。意識的に避けてきた部分もありますが、作曲と演奏を不可分やっている私にとって、流派の形をそのままやろうとするスタイルと私とでは、あまりにも見ている所が違い過ぎて、同じ琵琶と言えども、話が出来る所があまりなかったというのが実情です。その分、私は能や長唄・日舞等の邦楽の他のジャンルの方々や洋楽の演奏家・作曲家、他ダンサーや詩人等様々なアーティスト達と幅広くお付き合いさせてもらっています。
石田さんはそんな私のやり方にも理解を持ってくれて、私がどんな音楽をやりたいいのか、どんな音を欲しているのか、その辺りをよく理解して「塩高モデル」を創り上げてくれました。流派でやって行く人から私のようなオリジナルスタイル迄、自然に対応してくれるのが嬉しいですね。今回もなかなか普段は聴けない話を聴く良い機会となると思います。是非お越しください。

2020フルセット④

 

琵琶はどこへ行っても大体耳なし芳一や琵琶法師というイメージで捕らえられてしまいます。また演者も珍しいとか唯一などという特別感を売るようになってしまうものです。確かにその場ではお客さんもそんな雰囲気に浸り見ることが出来満足してくれると思いますが、その繰り返しをした結果が今のこの衰退の現状ではないでしょうか。タレントとして売れたいのか、それとも音楽家・芸術家として評価をされたいのか、あいまいな姿勢でいると何も成就しません。永田錦心や水藤錦穰、鶴田錦史等本気で琵琶樂を創り上げて行った、そんな志を持った人がもっと出てきて欲しいですね

世界の音楽の流れを見ると、今受け継がれている音楽を作った人は皆、新たなものを創った人達です。パガニーニ、バルトーク、シェーンベルク、ドビュッシー、ラベル、ジョンゲージ、武満、黛、パーカー、マイルス、コルトレーン、オーネット、ジミヘン、パコデルシア、ピアソラ、ボブマーレイetc.
皆時代の音楽を創り上げたのです。時代と共に社会が変わるように形を変えながらも、先人達の感性や精神を受け継いでいったからこそ音楽が出来上がり、今に残っているのです。日本には世阿弥、利休、芭蕉をはじめ宮城道雄、海神道祖といった人達がずっと日本の音楽・文化を創り続けて来ましたが、今は創るという事を本当にしなくなってしまった。特に琵琶樂に於いてはそれが顕著です。よく平成は失われた30年と言われていますが、それは邦楽に於いても全く同じだと私は思っています。

2009 高野山 1sjpg19年前 第一回高野山常喜院演奏会にて 笛の阿部慶子さんと
何度も書いていますが、私は30代で活動を始めた時、某雑誌の編集長から「琵琶で呼ばれている内はまだまだだ。塩高で呼ばれるようになれ」とアドバイスを受けました。琵琶の珍しさに寄りかかり、その珍しさを売りにしても、ネットで少しばかりアピールしても、そんなものはすぐに同じような賑やかしの輩に取って代わられる。

私は琵琶の音色に強烈に惹かれ琵琶を手にしました。弾き語りに惹かれたわけではありません。この音色にこそ惹かれたので、声はかえって無い方が純粋に琵琶のあの妙なる音色を聴かせることが出来ると琵琶を手にした最初から感じていました。笛や尺八筝曲三味線は皆独奏曲があり、その音色を存分に聴かせているのに、琵琶はいつまで経っても歌の伴奏しか弾こうとせず、弾き語りという形を演者が変えようとしなかった。変わって行く事こそ継承であり、伝統を創って行く事ではないでしょうか。私はジャズをやっていた頃からずっとそう思って音楽に接しています。雅楽ですら平安時代にも明治時代にも大きな改革をして、変わって来ているからこそ現代に伝えられているのです。

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photo 新藤義久

 

私は子供の頃から古典文学や歴史に接していたので、ジャズをやっていたにも拘らず、すんなりと邦楽の世界に入って行けました。また大人になってから琵琶に出逢った事も良かったですね。子供の頃からやっていたら今のようにはならなかったでしょう。ジャズを通り越したのは実に良い事だったと思っていますが、そのせいか自分が創り出すものの土台が何であるのか、その土台から何を表現したいのかという哲学的な部分では琵琶を手にした最初から一定の想いを持っていました。だからジャズをやる事よりも自由に創作が出来たのです。

そして石田さんが最初から近くに居た事は私にとって大きな大きな運命だったと思っています。塩高モデル無くして私の音楽はありえません。
私は現代の琵琶樂を創りたい。私にしか出来ないものを創り上げたい。能や雅楽、長唄などと違い、まだ歴史の浅い薩摩琵琶の世界では、創作は自由自在にやれますし、樂琵琶も雅楽の外側に居たからこそ自由にやって来れました。色んな事が実にタイミングよく自分の身の周りにあったし、今になって思うと導かれたんだなと感じています。これからも自分の想う所を進んでいきたいですね。
琵琶トーク是非お楽しみに。

 

ワクワクしようぜ

先日のSupper Dommuneの配信ライブは、久々にワクワクする時間でした。

残念ながら一般には公開していないのですが、それでも配信時には約480ビュー程観て頂きまして、茂手木潔子先生とも久しぶりにお逢いして、トークコーナーでも色々と話をする事が出来ました。ああいう空間に居られるというのが嬉しいですね。尺八の藤田晄聖君も楽しんでくれたようです。
来月5月10日に本番のライブがあるのですが、是非お越しくださいませ。深草アキさんや高田みどりさんも出演されます。

MIMINOIMI  Anbient  Week

5月10日 中目黒Just Another Space  私と晄聖君のコンビは16時スタートです。
チケットはこちらから 
MIMINOIMI – Ambient / Week – 2025 “Sense of Gradation” DAY6「Sound & Performance #1」 | Peatix

そして27日の日曜日には滋賀の常慶寺で久しぶりに演奏して来ました。ここはもう10年以上前からの御縁で笛の大浦典子さんと何度かやって来ました。今回は今年出した10thアルバム「AYU NO KAZE」の中からの新作を盛り込んでのプログラムでしたが、とても良い雰囲気の中演奏出来ました。こちらの報告はまた後日。

2012年の常慶寺演奏会の時のもの 笛の大浦典子さんと

琵琶というと和服を着て、弾き語りで平家物語なんてイメージしか沸いてこない人も多いと思いますが、これだけの表現力のある楽器をそこだけに閉じ込めるのは実にもったいないです。私はこの音色に魅せられ琵琶を手にしたのであって、けっして語りや歌に魅せられたのではありません。だから今でもこの琵琶独自の音色を追求して、器楽曲を中心に作曲演奏を活動を続けているのです。ただ琵琶樂は弾き語りのスタイルが平家琵琶以来の伝統ですし、そこも琵琶樂にとって大切な歴史だと思いますので、琵琶と歌の組み合わせにも、少しばかりですが独自のアプローチをしているのです。
私自身も弾き語りは年に何度かやるのですが、歌でも演奏でも、プロレベルでやるには生半可な精進では出来ません。他のジャンルとも引けを足らない、個性と実力が在って初めて、聴いてもらえるのです。邦楽は今その部分に対する意識が欠けているように思えてなりません。

先ずは、現代そして次世代が共感するような内容の曲を創る事が先決です。歌詞も大正昭和の軍国的な忠義の心や戦争の歌を未だにやっているようでは聴いてもらえないのは当たり前。薩摩琵琶はまだ流派が誕生して100年程。平家琵琶のような古典であれば歴史的な価値もありますが、何十年か前の時代の歌を、それも多分に軍国的、男尊女卑的で父権的パワー主義全開の歌を誰が今共感してくれるでしょうか。どんな分野でも変わろうとしなければ滅びるのを待つだけです。これからの世代の琵琶人で弾き語りをやる方には、是非大いにリスナーに共感される歌を創って頂きたいですね。

photo 新藤義久


我々の仕事は「その先の世界」を描いて魅せる事です。かつて宮城道雄や永田錦心、鶴田錦史など邦楽をリードしてきた方々は、常にリスナーが期待している以上の、その先の大きな魅力ある世界を創り出し、聴かせ、魅せて来ました。だからリスナーもいつもワクワクして付いてきたし、邦楽全体が創造力に溢れ、勢いがあったのです。かつてのジャズも同じでしたね。しかし邦楽もジャズもいつしか創造の志は薄れ、上手を目指すようになって、既存の出来上がったレールの上を走り、優等生になってしまった。世界の常識を破り、皆が思いもよらない世界を創り出してゆくエネルギーと魅力を、次代のリスナーは求めているのではないでしょうか。

私のやっている事は、ごまめの歯ぎしりかもしれません。それでも優等生面をして先生と呼ばれるより、私は自分の想う所をやって行きたいですね。琵琶樂のもっと先の世界を創りたい。どんな曲が生まれ、どんな世界が待っているのか楽しみでしょうがないのです。予定調和な所で遊んでいるのは、私には退屈でしかありません。いつもワクワクしているからこそこれ迄琵琶を弾いてきたのです。
一緒にワクワクしませんか。

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