狩野尚信「三十六歌仙額」
秋来ぬと 目にはさやかに見えねども 風の音にぞおどろかれぬる
(古今集) 藤原敏行
秋の風になりましたね。暑さの苦手な私には嬉しい限りです。この秋はやっとレクチャーなどではなく演奏会の機会が増えて来て、色々と機会を頂いています。やはり私は舞台で演奏するのが一番良いですね。琵琶樂人倶楽部では色んな話はしますが、学者でもないので、あくまでも琵琶樂への誘いとしての部分でやっています。
活動は様々な形があって良いと思いますが、だからと言ってあちこちどこにでも逃げ場を作っていたら物事は深まりません。このコロナ禍にあってレクチャーでの収入が随分と助けてくれたのは事実ですが、音楽家は作曲し演奏するのが本分。行くべき道に進んで行きたいと思います。
先ずは毎年参加している「9.11メモリアル」
があります。今年は久しぶりにフルートの久保順さんと「二つの月」を演奏します。9.11を題材とした作品でもありますし、今この現代にこそ演奏するべき作品だと自負しています。彼女は9月22日に日本帰国10周年という事でリサイタルを開くようです。今後の活動を頑張ってほしいですね。彼女とは秋にも共演を予定しています。
最近はコロナで低迷していた仲間達もやっと活動し出しているようで嬉しいです。多分今動き出している方々は、色々と考え次代を見据え頭を切り替えているからこその活動再開なのでしょう。「昔みたいに、元のように」なんて頭で、今迄と同じ発想をして、同じ事をやろうとしている人は、もう動きが取れなくなっているのではないでしょうか。このコロナ禍は、ある意味淘汰を促したともいえるかもしれません。とにもかくにも志のある人が動き出すことが嬉しい限りです。
そして次にはこれまでも何度か紹介した東日本大震災復興支援のコンサート「響きあう絵 みつめあう音」の演奏会があります。山内若菜さんの作品と共に演奏するのですが、震災詩人の小島力さんの詩を基に私が作曲した「Voices~能管・琵琶・声の為の」の初演をします。また新たな編曲版「祷~和楽器によるAve Maria」の初演も合わせてやります。この二曲の譜面書きがこの所続いていましたが、やっと譜面上は一段落ついて、これからリハーサルに集中します。
また少し後には、11月に静岡で予定しているお寺での演奏会が二つあり、そこでも新作を上演する事が決まっています。篠笛と琵琶の二重奏なのですが、色々とアイデアも盛り込んでいるので、すんなりとは出来上がりませんね。ただ今奮闘中。今迄の焼き直しでない新作をものにしたいと思っています。
また9月の琵琶樂人倶楽部では新ヴァージョンの「経正」のお披露目もありますし、もう一曲独奏曲もまだ舞台にかけていなかったので、演奏しようと思っています。という訳で先月から頭の中に色んな音楽が鳴りっぱなしなのです。
photo 新藤義久
私は常に自分の作曲したものを演奏して舞台に立っているので、創るのは大変ですが気分は充実しています。演奏を専門としている方とはまた違った充実感だと思います。私が共演している方は皆さんハイレベルの演奏家の方々ですが、音楽に対するアプローチがまた私と違って、私には到底できないことが出来る方々なので、大変刺激を頂いています。何事もそうですが、一方向しか視点がないと見えるものも見えて来ません。私が共演する演奏家は音楽や譜面の中に命を吹き込むことが出来る方々ばかり。鋭い視点と音楽への愛情に溢れ、私の書いた譜面から、私が想像もしなかった世界を紡ぎ出してくれるのです。皆さん本当に凄い!!。だから私の譜面は自由に解釈できるように余白を作っている曲が多いです。アドリブ部分のある曲があるのもそのためです。書き込めば書き込むほど、作曲者も演奏者も「こうでなければ」「こうあるべき」という硬直した狭い近視眼的な視点に固執しがちです。それでは創造の精神は動き出してくれません。私は共演者の感性をどこまで引き出せ得るか、というのも大きな課題だと思っています。本当に素晴らしい仲間に恵まれて嬉しい限りですね。
笛の大浦典子さんと、滋賀のお寺にて
秋は多くのイメージを与えてくれます。秋を題材とした曲が多くなるのもそのためですね。特に秋の風にはとても深い風情を感じずにはいられません。目に見える世界ではなく、聴覚や触覚、臭覚などに訴えるものにこそ創造力が宿るのです。冒頭に古今集の中の藤原義之の和歌を載せましたが、万葉集から古今集への変化は、正に視覚からの解放であり、聴覚や触覚・臭覚が開き、そこから導かれる豊かな感性を形に表したことではないでしょうか。現代は、古今集から受け継がれた豊穣な感性が薄くなっているように思えてならないのです。表層の喜怒哀楽や、目に見える事物も、その背後には大いなるものがあると感じるのが日本の感性だと私は思います。それだけ日本は長い歴史と文化を、この風土で育んできたのです。今一度、足元にある深い感性と文化に目を向けて頂きたいものです。特に琵琶樂は千数百年前からそうした感性と共に在った訳で、喜怒哀楽に振り回され、戦記物で顔を真っ赤にして興奮している冒険活劇のような音楽ではなかったはずだと私は考えています。
秋風に誘われて、新作も次々に出来上がってきました。この秋が楽しみです。
毎年8月の琵琶樂人倶楽部は、SPレコードコンサートをやっています。開催日もいつもの水曜日ではなく第3日曜日の18時開演となっておりますので、ご注意ください。
琵琶樂人倶楽部にて、能楽師の安田登先生と。蓄音機の名器クレデンザを前にしてのパフォーマンス
2012年迄は第一部も二部も琵琶をかけていたのですが、さすがに曲調が皆同じなので、聴くだけでも結構疲れてしまいました。そこで2013年から第二部では、他ジャンルの邦楽または日本人の声楽家のものをかけていました。同時代に違うジャンルではどんなものがあったのかを知るのも面白いという事で、昨年迄は第二部は日本人の声楽家を中心にかけていました。
しかしそれももう随分と長くやったので、今年からは第二部に私の専門分野でもあるジャズに変更します。ジャズと薩摩・筑前琵琶は同じ時期に成立した音楽で、両方を体験してきた私としては、語るべきものも沢山あるので、今年からこの企画になりました。初期のマイルス、パーカー、ビリー・ホリデイ等かけてお話したいと思います。

asagaya jazz streetにて、SKY trio
私は10代の終わり頃、ジャズギタリストに成ろうと思って東京に出て来ました。ギタリストとしての最初の仕事はナイトクラブのバンドマンの仕事でした。しかしまだ10代の私にとって水商売の雰囲気は違和感しかなく、好きにもなれなくて、何年か頑張ったのですが辞めてしまいました。その後自分で曲を創ったりしたものの、どうにも八方ふさがりでライブをやる事もままならずバイトに明け暮れる日々だったのですが、知人の紹介で作曲家の石井紘美先生の所に行って人生が展開して行きました。石井先生の勧めで琵琶に転向してからは面白いように曲が書けるようになりましたし、自分が行くべき道もどんどんと明確になっりなって行きました。石井先生はきっと私の質を見抜いていたんでしょうね。
何だか水を得た魚という感じで、それまで知らない内に子供の頃から身についていた古典文学の知識も役に立ちましたし、石井先生の下で学んだ現代音楽の知識も琵琶に合致しました。
つまり琵琶は私にとてもリアルな生を感じさせてくれる楽器だったのです。ギターを弾いている頃は、ギターを弾いている事が嬉しくて、やりたい音楽以上にギターを舞台で弾いている自分に満足していました。勿論私の事なので、あれこれと曲を創りやっていたのですが、若さという事もあって明確な自分の音楽の姿は見えていませんでした。
それが琵琶を始めたとたんに、最初から弾き語りではなく「現代邦楽」という自分のやりたいものが具体的に見え、1stアルバムから(石井先生作曲の「HIMOROGI」を除いて)総ての曲を自分で作曲し11枚のアルバムをリリースする事が出来ました。またその創作の発想となる背景の文化や歴史まで、今迄興味を持って見聞きしていたものが一気に一つにつながって、自分の音楽を明確に感じる事が出来たのです。まあ紆余曲折はありましたが、自分のやりたいものが見えてくるというのは変な寄り道もしないし、余計な事に振り回されないし、全て自分で責任を負うという事を前提にして、自分で思う存分自由に出来るという事でもあります。琵琶は私にそんなリアルな人生をもたらしてくれたのです。
琵琶樂人倶楽部にて photo 新藤義久
今、やっとジャズも邦楽も冷静に聴く事が出来るような気がしています。よく言えば余裕が出た、という事でしょうか。私の中ではジャズと琵琶楽はとても共通するものがあって、物は違えど気分はほとんどあのギターを弾いていた頃から変わっていません。
SPレコードは現代の感覚からすると、ノイズばかりで良い音には感じないかもしれませんが、よく聴いていると、その生々しいまでのリアルな音楽の姿を感じる事が出来ます。当時は録音機材も簡素なもので、マイクすらなく、初期の録音では蓄音機のラッパに向かって演奏したものをレコード盤に刻んでいました。勿論エコーもないし、マルチ録音もミックスダウンも途中の修正も出来ない一発録音だったこともあり、演奏家の気合の入り方が違うのです。勿論それが出来るレベルの演奏家しかレコード吹込みは出来ませんでした。琵琶に関して言えば、当時のレベルはかなり高く、現代の演奏家で敵う人はいないだろうと思う程の充実ぶりです。
こうしてSPを聴いていると、録音の技術の向上に反比例して演奏家の質の低下を感じます。表面的な事は上手くなっても、音楽そのものに対する姿勢からして考え直したいなと思えて来ます。
今コロナを経て、音楽家も大きくその感性ややり方を変えて行くべき時期に差し掛かっています。これからの在り方を考える為
にも過去を一度見有詰め直すことが大事になっているのではないでしょうか。実は答えは古典の中に在るというのは、私が琵琶に携わって感じたことの一つです。
今回からの琵琶とジャズのSPコンサートは、いわば私の真骨頂です。是非是非お越しくださいませ。
先日久しぶりに40年来の仲間と話をしました。彼とは若き日に同じギターの先生に就いて研鑽を積んんだ仲で、お互いにライブハウスなどでライブをやっていました。彼はプログレ派で私はジャズ派。彼は年齢も一つ上でしたが、いつも私の一歩先を行く人でした。それから二人ともギターからは離れ、それぞれに思う道を選び、その道を貫いてきた同志でもあります。彼は数年前に伴侶を亡くし、私もあまり声をかけるのも悪いと思って連絡を控えていたのですが、最近彼の住んでいる所のすぐ近くで演奏会の話が持ち上がったので、たまにはゆっくり逢いたいと思って電話をしてみました。
小網代湾
久しぶりに良い話が出来嬉しいひと時でした。昔話ではなく、お互いがそれぞれのやり方今でも生きているという事に、何とも言えない共感が感じられ、何か一緒に仕事をするという訳でもないのに、仲間であることの嬉しさが湧いて出てきました。お互い組織に寄りかからず、自分で新たなジャンルを切り開くようにやって来たので、普段から何かと共感するところが大きいのですが、久しぶりに話をして大いに感じるものがありました。私はともすると、一人でやるという感覚が強く、徒党を組むのを良しとしない方向に行きがちです。それは悪く言えば一人で出来る事しか実現できないとも言えるので、新たな仕事をする時には、このやり方で本当に良いか常に自分の行動や志向を客観的に捉えて見直すことにしています。
琵琶樂人倶楽部にて photo 新藤義久
私は子供の頃から剣道をやっていたので、よく剣豪の本など読み漁っていて、特に宮本武蔵関連の本にはかぶれていました。子供の頃の文集には「○○みたいな剣豪になりたい」なんてことを書いていましたね。武蔵の言葉や絵などをブログに引用するのはその為です。とにかく只管己の道を切り開いて行く孤高の人が好きなんです。私は武蔵の「独行道」の様にはとても生きられませんが、自分が組織に入って、その中で何かをやるというのは子供の頃からイメージが湧きませんでしたね。やりたい事は実現すべく自分で工夫して、自分のやり方で、自分の足で歩んで行く。そういうものだと今でも思っています。
だから音楽家もマイルス・デイビスやアストル・ピアソラみたいな自分で新たなジャンルを創り出すようなタイプの人の音楽に惹かれいます。出来上がったジャンルの上で名人を目指すようなメンタルの人の音楽はスケールが小さく、優等生的でつまらない。特にジャズや邦楽は、その場での臨機応変な対応を求められる音楽だけに、練習したことをお上手にやろうとすると一瞬でばれてしまいます。
邦楽でも永田錦心や鶴田錦史の話をよくするのは、その独自の道を行く姿勢が好きなのです。海童道祖や高橋竹山のような邦楽家は今はほとんど居ませんね。残念です。
キッドアイラックアートホールにて Asax:SOON・Kim Dance:牧瀬茜 映像:ヒグマ春夫各氏と
こんな私ですが、コロナ以降、色々と活動のやり方を変えざるを得ない事もありますし、自分一人でただ突っ張っていてもどうにも事は動かないという事はここ最近特に感じていて、今は頭も行動も切り替えが出来るかどうかの瀬戸際に来ている所だと思っています。そのせいもあって最近は特に自分の周りの仲間の存在をとても大きなものとして感じています。「媚びない・群れない・寄りかからない」がモットーの私ですが、良き仲間との連携は良好に保って行きたいものです。
良く振り返ってみると。私がお世話になった方々も皆独自の道を切り開くように歩んでいる方ばかりです。しかし皆さん創造性の豊かな自立した芸術家としては勿論ですが、その周りには素晴らしい仲間も居ました。そして仲間の方々も素晴らしい魅力のある方ばかりでした。私もそういう仲間に恵まれるような存在になりたいですね。
2010年寶先生追悼の会 大分能楽堂にて 福原道子 福原百桂各氏と
お世話になった方々の中でも作曲家の石井紘美先生は特別な存在です。一応琵琶は錦心流と鶴田流の先生に就きましたが、琵琶における先輩という存在には残念ながら恵まれませんでした。だからずっと一人で曲を書き、演奏会を仕立て、全国を(時に海外も)回ってやってきました。
元々私に琵琶を勧めたのは石井先生です。また何でも一人でやるという私の気質を決定的に強く押し上げたのも石井先生です。先生は現代音楽の最先端を行く電子音楽の分野で活躍している方で、今やもうその分野の大御所としてヨーロッパにて活躍していますが、石井先生の言葉は今でも色々と想い出します。中でも「実現可能な曲を創りなさい」という言葉は今でも常に胸の中に在ります。
これだけだとちょっと言葉足らずで判りにくいですが、これはこじんまりとして、無理なく演奏できる曲を創りなさいという事ではないのです。「こじんまり収まってしまうようなら、お前の器はそれまで。どんな手の届かないと思える仕事でも必ず自分の手で実現できる所まで実行せよ。それだけの器と実力を持て」という事。つまりどんな仕事でも自分で片を付けろという意味だと捉えています。
先生は私が琵琶に転向してからも、琵琶とコンピューターの作品を書いて、私をロンドンに呼び寄せて、初演をロンドンシティー大学で企画してくれたり、ドイツの現代音楽レーベルWERGOで世界発売された先生の作品集に、その時のライブ音源を入れてくれたりして、その時点で私ではとうてい実現出来ないような場と作品と機会を私に提供し、そこに導いて、私を一段も二段も上に引っ張り上げてくれました。
アルチョム・キム指揮オムニバスアンサンブルと拙作「まろばし」リハーサル中
本番
こうして振り返ってみると、素晴らしい師や仲間に恵まれているんだな、としみじみ感じます。上記の古い友人と語り合っていたら、こんな事が急に溢れるように浮かんで来ました。
良き仲間に囲まれるくらいの大きな器と人でありたいものです。
毎日物凄い暑さですね。さすがに外に出る気にはなれません。ちょうどこの夏はあまり飛び回るようなスケジュールが入ってないので、家の中でのんびり譜面に向かってます。
先日の 7 arts cafeのライブでも思ったのですが、前々からデュオによる静かな作品を創りたいとずっと考えていたので、頭をひねっています。やっぱり笛かヴァイオリンとのデュオが今の所一番しっくり来ますので、その線で創っているのですが、これから何が生まれ出てくるか楽しみです。
人形町楽琵会にて Vnの田澤明子先生と
秋になると、市民講座や大学なんかの特別講座等レクチャーのお仕事も少しあるので、少しづつレジュメに反映できる知識もため込混んでいます。琵琶という歴史の長い楽器に携わって行くには、己の小さい頭の中で捉えているだけでは、ろくなものは出て来ませんので、平安時代から続く琵琶の変遷を知るのも大いなる創作活動の土台です。しかしながらそういうものに意識が向いているとアーティスト本来の創作活動とは違う方向に頭が働いて、なかなか作品を生み出して行く事が出来ません。だからそんなお勉強と創作活動はしっかり線引きをするようにしています。
アーティストは音楽家でも画家でも物書きでも創ることがその本質ですので、古典に対峙しても、新たな視点を向けるようでなければ自分の音楽は演奏できません。流派の先生からどう習ったかではなく、自分の思い描くものを表現してこそアーティスト。そしてまたそれが単なる思い付きやアイデアではなく、その発想の土台となる歴史や宗教性や哲学性なども考え抜いて、自分で辿り着いたものを具現化するのが我々の仕事です。
日本は歴史が長いだけに古典に関しては、出来上がった当時と今では、社会の構造も世の中の感性も全然違います。特にジェンダー問題などはその最たるものでしょう。社会の中に在ってこそ音楽も美術も生まれて行くという部分を忘れては成り立ちません。また逆に流行に媚を売るような姿勢の人も多いですが、それではやはり何も生み出せません。常に時代と共に在るという姿勢を持ち、且つ媚も売らないというぶれない姿勢を持てる人だけがアーティストと呼ばれるのです。
熊野観心十界図
随分前にとある大学の熊野関連のイベントで絵解きの芸を見たことがあるのですが、女性の出席者からからかなりのクレームがついたのを覚えています。私が見ていてもひどい内容でしたが、担当教授が現代においてデリケートな部分を事前に説明することなく、演じ手の人も現代の感性とは違う事を全く把握しておらず、何が問題なのかも理解しておらず、へらへらと笑っている姿は今でも覚えています。そんな状態では性差別と言われても仕方がありません。古いものは貴重で権威あるとでも思っているのでしょう。今はそういう事がどんどん炙り出されていますが、表面だけをなぞり、ありもしない権威やプライドに囚われ、物事の本質を掴もうとしない鈍い無神経な感性と姿勢が、結局文化の継承を妨げ、人を離れさせ、そして挙句に破壊して行くのです。今の世の中には邦楽界以外にも、こういう例があまりにも多くないでしょうか。
永田錦心 藤原師長
どんなジャンルもそうですが、琵琶もこれまで歴史を繋いできたのは、時代時代で新たなものを創造し、活動を展開したアーティストが居たからこそです。平安時代最後の遣唐使 藤原貞敏や、雅楽の天才 源博雅、そして後期の天才 藤原師長。室町時代の明石覚一。近代以降では永田錦心、水藤錦穰 鶴田錦史。いつの時代でも、ただのお上手な芸人や蘊蓄屋も多かったことと思いますが、これらの天才たちはそんな者とは全く違い、皆創造的であり且つ革命的な存在でした。今当然と思われている事はこうした天才達が始めた事なのです。今後こうした創作活動をする人が出てこなければ、琵琶樂も明清楽のように消えてなくなって行くでしょう。今は琵琶にとっては危うい時代です。
琵琶樂人倶楽部にて photo 新藤義久
私の父は短歌や俳句を創る人だったので、私自身は勉強した訳でもないのに古典文学には子供の頃から親しんでいました。自然と影響を受けていたのでしょうね。そのせいか近現代に成立した薩摩琵琶の流派の曲は、あまりに歌詞が表面的でどうにも受け入れがたかったのです。大衆演劇の舞台を見ているようでした。平家物語の「敦盛最期」の場面で、最後迄名乗る事無く熊谷次郎直実の手に落ちた敦盛が、琵琶歌では「我は経盛が第三の子、無官の大夫敦盛也」と名乗りを上げてしまうのです。敦盛が最期迄名乗らないという所に大きな意味があり、歴史性も、またロマンも掻き立てる大変重要な部分なのですが、この重要な場面についても平家物語全体に対しても、ただの冒険活劇程度にしか捉えていなかったのでしょう。大衆芸能であった大正~昭和初期の頃は、赤胴鈴之助みたいなものと同じような感覚でやっていて、当時はそれが受けたのでしょう。しかしそれを戦後になっても誰も疑問に思わず、推敲も考察もせず、音楽性や芸術性について何もにも考えずにお稽古事としてそのままやって来たという所が一番の問題です。芸術的感性で琵琶樂を観ることなく、ただお稽古事でしか捉えていない、こういう所が今の衰退を正に象徴していますね。平家物語を歌っていながら、ろくに平家物語を勉強も研究もしていないとは・・・。当時若かった私にも、その世俗っぷりにはどうにも理解しがたいものがありました。
薩摩琵琶の音色には最初からビンビン来るほどに、大いに感じ入るものがありましたが、薩摩琵琶の音楽やその歌詞は、あまりにも私からはかけ離れていたのです。だから活動の一番最初から自分で作品を作り、演奏しているのです。そんな第一印象から始めた琵琶ですので、自ずと「媚びない、群れない、寄りかからない」というスタイルが最初から徹底していたと思います。そのお陰か、文句を言われたことも無いですし、演奏作曲活動は樂琵琶にも拡がり、演奏のお仕事やレクチャー等の機会も沢山頂いて、琵琶を担いで20余年全国を回り演奏して生きて来れました。作品も11枚のアルバムとなって形に成った事は本当に嬉しく思っています。
人形町楽琵会にて 能楽師の津村禮次郎先生と
後輩の中にはショウビジネスの世界で頑張っている人もいます。きっと私が思う以上に大変なのだと思いますが、私はどうやってもそういう世界には居られないし、エンタテイメント系の音楽自体が好きではないので、縁は自然と離れて行きます。前にも書いたように演芸の舞台はけっして嫌いではないのですし、勉強になる事も多々あるのですが、こと音楽に関してはショウビジネス・エンタメ系のものはなかなか体が受け付けてくれません。やはり私には合わないのでしょうね。
私なりのやり方しか出来ませんが、時々御一緒させてもらっている能楽師の津村禮次郎先生のように、古典を軸足に持って、じっくりと創造的な活動をこれからもやって行きたいです。
ちょっと間が空いてしまいました。それにしても毎日暑すぎですね。
7 arts cafeでのライブはお陰様で終わりました。今回はヴァイオリンと琵琶というコンビネーションで、凡そ琵琶=古風というイメージとは対極にあるような前衛曲や、新作ばかりを集めた会でしたので、お客様も戸惑ったでしょうね。またちょっと絃が暴れてチューニングに苦労しましたが、いろんな点で更に考えを深める良い機会になったと思っています。色んなアイデアがどんどん沸いて出てくる感じです。写真を撮っていないのですが、以前人形町楽琵会でVnの田澤先生とやった時のものを。今回もこんな感じでした。
photo 新藤義久
私は何時も傍らに「未来ノート」と呼んでいるノートを置いています。これには何でも書いていて、年賀状の宛先から、これからリリースしたいアルバムの事、ゲストごとの演奏会のプログラム、楽器のメンテの箇所や費用、あとは購入したいもの、音楽以外の事等々色々と書き込んでいます。いつも楽器をいじる時に開いて眺めているだけなんですが、時々ふと書き込んだり、または消したりしながら、これからの事を考えてます。
活動については今が転換期だと思っていますので、最近はまたこのノートを眺める事が多くなりました。ネット配信のお陰で新作のリリースは経済的に随分と楽になりましたが、私が主催してきた小さなサロンコンサートも、これまでとは違う形を作って行こうと思っています。そんな意味でも7arts cafeはこれから良い関係を築いて行けそうな場所になると思います。
琵琶樂人倶楽部も、お陰様で最近は何とか「あがり」が出るようになりましたが、とにかく集客が優先になって、演出やプログラムで媚を売るような受け狙いの内容にすることはやりたくないですし、企画運営に気を取られて音楽がおろそかになる事も無くして行きたいのです。音楽が喰って行く為の俗芸に陥ったら、もう私にとってそんなものは音楽でもなんでもありません。今迄もかなりその辺は徹底していたのですが、今後は更に徹底して自分の音楽をやろうと思っています。「媚びない・群れない・寄りかからない」がモットーの私としては、自分の思う音楽を思うようにやって行く為にも、今後の舵取りが重要になってくると思います。
メゾソプラノの保多由子先生と photo 新藤義久
今とある詩を基にした作品を書いているのですが、いわゆる詩にメロディーを付けるという事を止めて、あくまで詩から受ける印象を、楽の形にするという作業をしています。そんな折、先日、国立近代美術館MOMATに行ってきました。私は美術館や博物館の空気が好きなんです。
MOMATの常設展示の中に「詩と絵画」というコーナーがあったのですが、ここに興味を引かれました。音楽にするとどうしても詩にメロディーを付けて詩が中心になって、詩に支配されてしまいがちです。しかし美術作品だと純粋にその詩の印象を表現できる。そこが良いんですよ。今、詩と音楽という分野に取り組んでいる私としては、そんな美術家の姿勢に大きなヒントを得ました。
同時に私自身、琵琶弾き語りスタイルでの演奏は、もういいかなと思っています。まあ琵琶は伝統的に弾き語りでやるのがスタンダードなので、そういう演奏を期待する声も判るし、媚を売るという事ではなく、一つのスタイルとして演奏するのも仕事の一つだと思います。だから今迄の定番のものは時と場合によりやるのも良いかと思っていますが、もう弾き語りの新作というのは創る発想が無いですね。声を使うのであれば専門家にやってもらいます。実際に、琵琶の弾き語りの曲をメゾソプラノの保多由子先生に歌ってもらったりする機会もいくつかやっていますし、自分でやるよりずっと良い感じで出来ています。声には興味がありますが、従来のあの弾き語りのスタイルは私の音楽ではありません。とにかく琵琶の妙なる音を充分に響かせて行きたいと思っています。
今取り組んでいる作品は9月11日に新横浜のスペースオルタという場所で初演をします。メゾソプラノ:保多由子・笛:大浦典子さんと私のトリオによる演奏なのですが、それを契機として、詩・声・琵琶が皆独立して存在するような作品をこれから少し作ろうと思っています。
実はこういう作品はもう20年以上前に書いているんです。1stアルバム「Orientaleyes」に収録した「太陽と戦慄第二章」の第一章は、琵琶二面とソプラノによる作品で、両国の国技館ホールで初演しました。あの頃はまだめちゃくちゃだったと思いますが、既に自分の中にアイデアが確かにあったのです。
その時歌ってくれたソプラノ歌手 南田真由美さんが、最近こんな作品を発表しました。
ご興味のある方、是非聴いてみてください。彼女は現在、若手歌手へのヴォイストレーナとしても大活躍しています。
詩と音楽は切り離すことが出来ない程に、密接な関係にあるものです。特に日本音楽の第一号と言われている平家琵琶から、常に歌と共に在った邦楽は、詩や声といつも共に歩んできました。私はそういう中で今後の琵琶樂の発展を見据え、器楽としての琵琶樂を目指していますが、一方で邦楽と詩、そして声については、切り離しては存在し得ないとも思っています。私は歌い手ではありませんが、私なりの詩と琵琶との関わり方を示して行けたらいいと思っています。
乞うご期待!!。