舞台というもの2023

立春も過ぎ、東京では何だか晴れた日が多くなりました。時々まだぐっと寒さも来ますが、昼間は結構暖かくなって気持ち良いです。今日は確定申告の開始日ですが、毎年初日の午前中にやってしまうのが恒例ですので、今年ももう気分はスッキリ。となると心配なのは花粉症ですが、まあ何とかなるでしょう。

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滋賀県 常慶寺にて 笛の大浦典子さんと


今年も色んな舞台の予定があるのですが、いつも思う事は、どれだけ新鮮な気持ちで舞台に向かって行けるかという事です。長年やっていると、自分のやりたい舞台だけを自分でやりたいようにやるようになるし、組む相手も大体決まってくるものですが、それが予定調和の手慣れたマンネリになって行くと、途端に音楽も舞台もしぼんでしまいます。私が一番組んでいるのは笛の大浦典子さんですが、もう20年以上マンネリどころか、毎回自分がしっかり練習しておかないと、ついて行けない位にいつもチャレンジしてます。

世は常に動いていますので、世に生きる人々のセンスも移りゆきます。そんな世の動きが見えなくなった時が舞台人の終わりなんでしょうね。これまでやって来て思うのは、ベテランになればなる程に挑戦して行くような人だけが、舞台人として残って行けると感じます。誰しも自分の作品、スタイル、活動の仕方等そういう自分で作ったものはなかなか変えられません。しかしそれらの自分のキャリアが、いつしか大きく重い鎧のようなものとしてのしかかってしまいがちです。一度その荷を下ろすことが出来るかどうか、ベテランになればなる程にその器を試されます。

さて、今年もLiveは色々と始まって来ました。改めてご案内しますが、来月には能楽師の津村禮次郎先生と、成城のサローネフォンタナにてサロンコンサートをやりますし、篠笛の長谷川美鈴さんの毎年恒例の会や、プライベートコンサート等色々入ってます。

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左:ルーテル市谷教会ホールにて 花柳面先生と
中:横浜ZAIMにて シン・ヤンジャ氏と
右:東海道川崎塾交流館にて 牧瀬茜 SOON・KIM  ヒグマ春夫各氏と


世に芸人さんと言われる人も居れば、芸術家と言われる人も居ます。プロの芸人さんは皆自分のオリジナルの芸を持ち、その人ならではの世界も持っているので、舞台を観ているのは楽しいし、私は大好きです。これはお稽古事を上手にやっているようなものとは基本的に全くレベルの違う話で、本当にレベルが高く、観客として観ていて納得のいく舞台をやってくれます。
それに対して、芸術家と言われる人も、同じようにオリジナルの世界を表現します。先日の花柳面先生の「生命の樹」の舞台のように観客を異次元に連れて行ってしまうような魅力がありました。上に張ったダンサー シン・ヤンジャさんや牧瀬茜さんも、その場でしか実現しないような魅力的な世界を創り出してくれました。

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人形町楽琵会にて 津村禮次郎先生と


いつもお世話になっている能楽師の津村禮次郎先生や日舞の花柳面先生は、いわゆ技や芸を見せません。そして自分のネタを披露するという事もしません。どんな小さな会でも何かを創りオリジナルなものを上演します。つまり持ちネタでお仕事はしないのです。常に創り出し、同じ演目でも共演者が変われば、その相手と共に一緒になって新たなものを創ります。津村先生には毎年人形町楽琵会に声を掛けて舞ってもらいましたが、私の作曲作品を聴いて、そこから得たインスピレーションでオリジナルな世界を創って来てくれます。曲に合わせて衣装も変えるし、ある会では、右を男性、左を女性と設定して両性具有の姿となって独自の世界を創り出してくれました。(上記写真)
これに対し芸人さんは、あくまで自分の持ちネタに拘りますね。私はそんな芸人さんの舞台に呼ばれていくこともありますが、私が舞台に加わっても芸人さんは新たなものを創り出すことはしません。自分おネタをやります。だ方私はそういう場合常に伴奏に回ることになります。

常にどんな小さな舞台でも「創る」という事をし続ける芸術家と、自分の持ちネタを披露して、舞台をギャラの取れる仕事として全うして行く芸人の、この違いを最近特によく感じます。勿論それぞれ比べるものではありませんが、芸人と芸術家が共演するのはなかなか難しいですね。

5m藤枝 熊谷寺にて 笛の大浦典子さんと
私は一緒になって新たな世界を創り出して行けるような人が、やはり性に合います。笛の大浦さんとも、毎回舞台の度に新作を書いています。このコンビは彼女が良く口にする「こさえる」のが基本ですので、毎回新鮮で取り組むことが出来ます。そうすると前からやっているレパートリーにも新たな発見を感じられるのです。
私の曲はやる度に変化できるように、あえて細かく書き込まないように譜面を作っています。何よりも共演者が目一杯演奏出来ないと曲に生命感が宿りません。そして同じ相手であってもやる度に変化して行く事で、演奏に新鮮さも出て来ます。こうしろああしろと相手に規制をかけ、私の思い道理にやらようとしても、それを求めれば求める程、相手は単に技術だけでこなすようになってしまいます。技術の高い上手な人程そうなってしまって、その人の持ち味は出て来ません。
演奏する曲がどんな曲であっても、先ずは相手の解釈を尊重して、相手が曲に対し、技術を越えて自分自身の感性で挑むようになって初めて曲に命が宿るのです。当然共演者が変わればどんどん曲も変わるし、やる度に新たな展開があって、作曲者としても演奏者としてもそこが面白いのです。これがアンサンブルの醍醐味であり、舞台の本来の姿だと思っています。

色んなやり方があって良いと思います。しかし今はネット配信によって世界がマーケットという時代。目の前のマーケットや小さな仲間内の枠に受けようとするような感性は、もうそろそろ消滅するだろうと思っています。日本人はすぐに村を作りたがるので、仲間内で話題になる事をしたがりますが、そんな事にかまっているような時代ではないと私は感じています。今は世界の人があらゆる感性で、自由に音楽を聴いている時代です。全く違う基準、感覚で自分の曲が簡単にクリック一つで聴かれ、また判断されてしまう時代です。日本人が好きな「上手」や「正統」なんていう小さな枠内の価値観は一切通用しません。日本は音楽だけでなく社会全体が、小さな村意識を越えて次の時代に歩みを進める事が出来るでしょうか。何だか私には危うく感じられて仕方がないのです。

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photo 新藤義久


自分の頭の中とは違う感性が、私の曲にどう反応するか、そういう所に私はワクワクしますね。私には派手なエンタメの大舞台での活躍というものは無いですが、自分の作品を世界の人が聴いてくれるかと思うと、良い時代になったと感じています。どんどん作品を創ってリリースして、舞台でも上演して行きたいですね。夏にはヨーロッパ公演も控えていますので、私の曲がどんなふうに受け入れられるのか楽しみです。

相も変わらず取り留めも無く書いてしまいましたが、やはり私は私の道を行くだけですね。「媚びない、群れない、寄りかからない」をモットーにこれからも納得のいく舞台をやって行きます。

アジアの風2023

先日横浜に用事があったので、前から行きたかったユーラシア文化館で開催されている「江上波夫没後20年ユーラシアへのまなざし~造形の美と技」に行ってきました。展示物はそんなに多くは無かったですが、白瑠璃の椀など正倉院とも関連するものが出ていました。

ユーラシア文化館チラシ

江上先生と言えば「騎馬民族王朝説」で有名ですが、私はまだ高校生くらいの頃、NHKの特集で「騎馬民族王朝説」を見て以来、ずっと興味を持っています。学問的な事は判らないですが、小説なんかでもちょくちょくと取り上げられていて、最近のものでは加治将一さんの「失われたミカドの秘紋」なんかにもちょっと出て来ますね。とてもロマンを感じます。私は子供の頃から古代の歴史に大変興味があって、シュメール文明、古代ユダヤ、旧約聖書、日本の邪馬台国や卑弥呼なんかの大和朝廷成立以前の歴史を題材とした本など読みだすと止まりません。日本の神話も、近隣の国の歴史を合わせて紐解いて読んでいくと、古代日本の成立が垣間見えて面白いのです。

江上波夫

江上波夫先生

現在の中国辺りにはシルクロードを渡ってかなりの多様な人種が入り込んでいたのは確かですので、日本の大和王朝成立以前に大陸との交流もかなりあったというのは大いにうなづけるものだと思います。唐の国にはもうはっきりと史実として、ソグド人やヨーロッパ系迄多様な人種が居たことが解っていますので、ひと頃のNYのようなメルティングポット状態だったというのも当然だと思います。きっと色んな事が起こり、文化が生まれて行ったのでしょうね。空海なんかがそこで大活躍した事を思うと、わくわくしますね。

また私は琵琶の活動を始めた頃に、故 星川京児さんからよくいろんな国の話を聞いていました。無尽蔵とも言えるその知識にはただただ驚くばかりで、星川さんと奥様がやっていたお店「アノマ」にはよく通っていました。琵琶という楽器がアジア全体に広がって、様々な音楽を奏でて行ったと思うと、琵琶の音色も日本の流派のそれとは全く違って聴こえて来ました。元々小泉文夫先生の本や監修したレコードは私の大好物でしたので、私にとっては琵琶=日本よりも、むしろ最初から琵琶=シルクロードのイメージだったのです。琵琶に辿り着いたのも必然ですね。2009年には、中央アジアの国々へのコンサートツアーをしたり、浜松にあるシルクロード美術館でも独演会をやった事がありますが、西から東迄アジア全体で琵琶の音が響き渡っていたというのは素晴らしいですね。大いにロマンを感じます。その琵琶の歴史の中で日本で発展してきた琵琶を今私が弾くという事には、おこがましいながらも何か使命のようなものも感じます。

こんな形で琵琶に関わってきたので、まだ流派が出来て100年程しかない歴史の浅い薩摩琵琶だけに留まる事は私には出来ませんし、ましてや一時期の軍国主義や皇国史観、忠君愛国思想などに固まったものは到底受け入れがたいものでした。樂琵琶に於いても、雅楽にとどまらず、最初から芝先生の複曲もの等、シルクロードに直結していったのも、私にしてみれば当たり前すぎる程に当たり前の事でした。逆に○○流なんかの看板を挙げて、正統だの何だのと言っている村人感覚が私にはどうしても理解が出来ません。

長い歴史の中で生きている我々は、琵琶一つとっても、その歴史の中で様々に姿を変え、それぞれの土地で奏でる音楽も様々に変化し減の響きを伝えてきたのです。それはそのまま人間の営みであり、命の連鎖です。表面は変わっても人間が生きて行くという根本は、何ら変わっていません。変化し姿を変えて来たからこそ、今に伝えられているのです。小さな視野や区分でものを見ていたら、その命は何も見えて来ません。
以前JICA横浜にて、ジョセフ・アマトさんと、今大活躍の筝奏者REO君と演奏したことがありましたが、その時お客様からも「琵琶は日本というよりオリエンタルですね」と感想を頂きました。

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笛の大浦典子さんと photo 新藤義久


今私は、そんな長い琵琶の歴史の中で、この日本に伝えられ変遷してしてきた琵琶に出逢い、それを次世代へと繋げる最先端の日本の琵琶樂を創りたいとずっと思っています。過去を大事にしながらもその焼き直しに走る事無く、次世代に響き渡る音楽を創りたいのです。平安時代の源博雅、藤原師長、中世の明石覚一、近代の永田錦心、現代の水藤錦穰・鶴田錦史。そうした先達が居て、そしてその先端に私も居るんだという事を感じずにはいられませんね。

時代は常に移りゆき、総ての物事そして人間も変化して行きます。その中で創造力のある試み、営みが溢れんばかりにあるからこそ生活も物も音楽も今に伝えられます。琵琶がこれ迄伝えられてきたという事は、そんな営みがずっと続いていたという事です。人間というのは、定家のように「古きを慕い、新らしきを求む」ものなのでしょう。決して一つ所に留まるという事は人類の歴史を見てもあり得ないのです。琵琶樂もこれからどうなって行くか判りませんが、私も古きを慕いながら、自分の求める所を進みたいと思います。

江上先生の足跡を久しぶりに辿って、ユーラシアの大地とずっと伝えられてきた琵琶樂の歴史に、ロマンが広がりました。

ゆっくりと柔らかに

先日の「生命の樹」の舞踊公演は無事終わりました。

今回私は、日舞の花柳面先生、韓国舞踊のペ・ジヨン先生のチームで、フルートの久保順さんと音楽を担当しました。曲は拙作の「彷徨ふ月」を使い、それを編曲して演奏しましたが、今回も素晴らしい作品になりました。面先生とはもう何度となく創作舞台をやらせてもらっていて、毎回記憶に残るような充実した作品を創ることが出来て嬉しいです。考えてみると私がお付き合いしているアーティストは皆、古典をベースに持ちながらも常に創作活動をしている方ばかり、普段から共演が多い能楽師の津村禮次郎先生や安田登先生はその筆頭です。

人それぞれではありますが、アーティストが「芸」を身に着けたが故に、自分で築き上げたスタイルに自ら閉じ込められて、どんどん世界が小さくなって行ってしまう姿を時々見かけます。作品でも舞台でも、ものを創るには柔軟性が何よりも大切。何かを築き上げた人ほど、それを守ろうとして失敗の無いものしかやろうとしなくなりがちなのですが、そこには勢いも魅力もありません。アーティストはどこまで行っても好奇心旺盛でどんどん未知のものにチャレンジしてこそアーティストです。だから作品も舞台も深まって行くのです。自分の世界に分厚い殻を創ってしまっては、共演者もリスナーも入って来てくれません。ベテランになればなる程に、柔軟な心であるよう心掛けていくことが必要だと思います。言い方を変えるとキャリアを積むほど、こちらの器を試されるとも言えますね。

私はデュオ作品のレパートリーが多いので、共演者とは常に良いパートナーシップを築けるように心がけています。曲を書く時、いつも一緒に演奏する人を想定して、その人の魅力が一番引き出るように曲を創っているのですが、そうする事で曲のエネルギーが何倍にも大きくなって行くし、それはリスナーに確実に届くものです。共演する人の音楽に最大限のリスペクトをしながら作曲して行くと、そういう心はしっかりと相手にも伝わって行くものでそれが良いパートナーシップにもつながります。逆に自分のやりたい事の伴奏をさせようという意識のある人や、自分のお上手さを聴かせようなんて心でいる人は、共演者の持ち味も生かせないし作品も小さな器の中から出る事が出来ません。狭量な心というものは姿にも作品にも駄々洩れに現れてしまうものです。
とにかく共演者に目いっぱいやってもらうようにすればするほど、自分の考えているもの以上のものが出てきて、曲にも生命力が溢れ、面白い展開になって行くのをこれまで沢山経験してきました。

幸い、私はこれ迄素晴らしい共演者に巡り合う事が出来ました。笛・尺八・ヴァイオリン、メゾソプラノ、フルート等々素晴らしい共演者のお陰で本当に沢山の曲を書く事も出来ました。皆尊敬できる音楽家です。私はその魅力をどう引き出してあげる事が出来るか、作曲家としても演奏家としても、常に問われている訳で、私の音楽を何倍にも輝かせてくれる共演者とのパートナーシップは音楽をやってゆく上でとても大事な事なのです。

静岡県藤枝市 熊谷山蓮生寺にて 笛の大浦典子さんと

琵琶など長いことやっていると、行く所行く所で「先生」と呼ばれるようになります。「先生」でも何でも、いかに自分自身にまとわりつく囚われを無くし、柔軟な心でいる事が出来るか。そしてまた豊かな感受性を持って日々を生きる事が出来るか。これが今後の私の一番の課題だと思います。
1月は妙に忙しかったですが、しばらく時間が作れそうなので、ゆっくり新たな作品創りをしようと思っています。ゆっくりと柔らかく周りと接して歩いて行けば、何だか今年も面白くなりそうです。

OKINAWA Calling

先週はずっと沖縄に行っていました。今回は演奏会ではなく教育プログラムで、最初に日本の学校二ヶ所で演奏して、あとはずっとインターナショナルスクールを中心に回ってきました。

メンバーは、もう20年来の付き合いで、特にこの所特にお世話になっているJCPM7 arts cafeのリーダー、ジョセフ・アマトさんとアマトさんの片腕として頑張っているミツタユージ君と私の3人で行ってきました。英語の方は二人に任せ、私は日本語担当。しかしいつも思うのですが、英語を喋れないと本当につまらないですね。今回は特に会う方が皆英語圏の方ばかりでしたので、いつも以上に実感しました。

大山小学校2大山小学校

宜野湾市立大山小学校音楽鑑賞会(学校のHPより転載)


日本の学校の生徒と、インターナショナルスクールの生徒は随分と反応が違います。以前横浜インターナショナルスクールで授業した時にもそうでしたが、日本人は皆判で押したように恥ずかしがるのですが、そんな子はインターナショナルスクールではあまり居ません。今回は「祇園精舎」をローマ字で書いて、皆に歌わせたり琵琶を弾かせたりしたのですが、もうラップのように歌い踊り出す子も居て、とにかく楽しんじゃおうという気分が溢れてたのが良かったですね。文化の土台が違うからしょうがないのですが、日本人特有の、「周りの出方を見てから自分が動く」という所は何とかならないかなといつも思います。このコロナ禍でも日本社会全体がそうでしたが、日本全体が大きな村状態で自分の意思を優先せず、常に周りを気にしながら生きなければならないのは、かなり窮屈だと私は感じています。ちなみにインターナショナルスクールでは先生もマスクをしていませんし、生徒にも自分の意思で決めるようになっていましたので、私は終始ノーマスクでした。

北谷フィッシャリーナサンセットビーチ


今回のメインは宜野湾市と読谷村のインターナショナルスクール。私たちはちょうど真ん中辺りの北谷町美浜地区、フィッシャリーナと呼ばれているしゃれた海辺のホテルに連泊していました。サンセットビーチはもう映画に出てくるような場所で、おじさん一人で黄昏ていても全く絵にはならないのですが、ジャケット一枚あればちょうど良い位の気温でしたので、のんびり沖縄のフレイバーを感じられました。
しかしこのロマンチックな景色の中を突然爆音が響き渡るのです。そう、この周りには普天間、嘉手納他、米軍の施設が沢山あり朝夕問わず米軍機が飛び交っているのです。それは経験してみないと判らないようなとんでもない爆音なのです。東京では考えられないような現実に、いったい何が始まったのか最初は判りませんでした。ホテルのTVでちょうど宜野湾市民が夜間早朝の米軍機の発着を止めるよう訴訟を起こしたというニュースを見たのですが、この現実はちょっと厳しいですね。

国防という事が最近は特に話題になっていますが、この現実を目の当たりにして、日本社会が今抱えている現実の厳しさを感じずにはいられませんでした。一般道でも迷彩柄の軍の車が走っていましたし、私が行った学校の子供たちも皆軍関係者の家族でもあり、沖縄の経済も米軍あってこそ成り立っているという意見も聞きました。
有史以来地球上で争いが無くなった事はありません。争いで勝ったものが英雄となり、歴史は常に勝者の側から見たもののみが伝えられ、平和を願いながら戦争を繰り返している。人間はいくら文明が発展しても、根本的に何も変わっていないのだと爆音を聞きながらしみじみ感じてしまいました。

そんな中でしたが、読谷村ではBloom Coffeeという良い感じの緩さがあるお店でリラックス出来ました。

自家焙煎のルワンダのコーヒーとBLTサンドを頂いたのですが、コーヒーも実に良い香りでしたし、サンドウィッチもフレッシュな野菜と質の高いベーコンを使っていて、クオリティーがかなり高く満足しました。この日は沖縄クリスチャンスクールインターナショナルという海辺にある学校での授業で、二日間に渡り朝から15コマもやったのですが、天気もすっきりと晴れて、素晴らしい景色の中、子供たちも4クラス、どのクラスの子たちもノリノリだったので、楽しい二日間でした。

琵琶などやっていると、大人は教養だの権威だのと、色んなバイアスを持って琵琶に相対するのですが、もっと面白がって接しても良いんじゃなかなと、この所よく思います。「~~してはいけない」「○○は間違っている」等と禁止や否定を常に心に持っていては見えるものも見えません。大人はすぐに自分を証明する為なのか、肩書を何かしら欲しますが、そんな衣は一歩外に出たらただの重たい鎧でしかありません。琵琶をやり出して、邦楽のそういう現状を始めて目にして、こういうメンタルからは素敵な音楽は生まれないと感じた気持ちは、今でも変わりませんね。

photo 新藤義久


私が平家物語などをあまりやらなくなったのも、戦争の話、人殺しの話を音楽で語りたくなくないからです。平家物語は確かに勧善懲悪のような単純なものではありませんが、今薩摩・筑前でやっているそれは、ちょっと和風な雰囲気を纏ったエンタメでしかないと私は思っています。その歌詞は私には、古典の深みも魅力も感じる事の出来ない残念なものに思えます。平家
物語をこんな受けの良いエンタメにしてやって欲しくはないと習い始めから思っていましたので、私は流派の曲は一切やりません。

大変残念なのですが、邦楽では習ったことを上手にやるという事に意識が行ってしまい、内容を考察をして、自分の哲学を持って音楽表現をしていると思える奏者は見当たりません。結局戦争物語を冒険活劇のようなエンタメとしてやっている。こんなものを私がやる意味が何処にあるのかと、琵琶を手にした最初から思っていました。だから敦盛や経正など、琵琶らしい題材として別の視点で歌詞も曲も作り直して、自分らしい解釈を持って演奏して来ましたが、そろそろもうそういう戦争物語の弾き語りもやめようと思っています。祇園精舎以上に素晴らしいと思える琵琶語り曲は、今の所知りませんね。

今回は丸5日間子供達と共に過ごし、沖縄の現実も肌で感じて、新たな時代にやるべきものを考える良いきっかけとなった旅になりました。また改めて沖縄に行きたいですね。

変わりゆく時Ⅱ

ジェフ・ベックが亡くなりました。この所の世の中の急激な変化を見ていて、歴史のページは少しづつめくられてきていると感じていましたが、何だか一気にめくられたような気分です。

エレクトリックギターで、歌の無いインストのジャンルを創り上げたのはジェフ・ベックです。それまでロックギターのインストでこれほどにハイレベルな楽曲と演奏はありませんでした。ショウビジネスの中にありながらも、売れる売れないという所でしか成り立たなかったロックを、そんな部分から切り離し音楽作品として成立させた功績はあまりにも大きいと私は思っています。
音楽が歌から離れ器楽が成立するという事は、その音楽がかなりの洗練を経たという事です。もう少し言うと、優れた音楽家が登場する事だけではなく、それによってリスナーの感性が刺激され、更に深い所まで導かれて行ってはじめて器楽はジャンルとして成立するのです。エレクトリックギターでそれを成し遂げたのがジェフ・ベックだったと私は思っていますし、それはエレクトリックギターの革命だとも感じています。

ジャズギターはナチュラルトーンで演奏するので、フレージングは豊かですが、音は伸びず、細やかなニュアンスやロングトーンのコントロールは全く出来ません。そこが魅力でありながらも、サックスなどを聴くにつけその圧倒的な表現力に対し、もどかしいものを感じずにはいられませんでした。パット・マルティーノのように、そこを逆手にとって独自のスタイルを創り上げる人も居ましたが、ディストーションが登場してから、自在に音を伸ばしコントロールする事が出来るようになって、その表現力は大きく変わって行きました。60年代はジミヘン、クラプトンがそれを主導し、楽曲としてはキング・クリムゾンなんかが、歌中心ではない器楽的でロックの範疇を越えた音楽作品を創り出して行き、その流れがジェフ・ベックの75年リリースの名作「Blow by Blow」、翌76年の「Wired」へと繋がって行くのです。この二枚はエレクトリックギターの可能性というだけでなく、新時代を開いた名作として、今でも超えるものが無い程に完成度が高い作品です。

高校生の頃、ジャズばかり聞いていた私ですが、この2枚のLPはショウビジネスのロックとは違い新鮮な魅力を持って、私の中に沁み込んでいきました。ジャズやロックではない新しいギターミュージックのような感じで聴いていたのだと思います。大声出して盛り上がるだけ(何かに似てる??)のロックとは全く違い、音楽作品としての完成度がとても高く、余すことなくエレクトリックギターの魅力を見せつけてくれたのです。またその音色を聴く度に様々な表情を感じられるという事も知りました。何しろエレクトリックギターをこんなに表情豊かに、そして細やかに歌わせることが出来るという事に驚きました。

私はこんな風に楽器としての魅力のあるギターミュージックをずっと聴いてきたので、琵琶でもインストに拘るのです。弦楽器奏者なら、楽器を弾いてリスナーを納得させる演奏をするのが当たり前であり、歌を歌うのであれば歌手というべきだと今でも思っています。ギターだろうが琵琶だろうが楽器の音色で世界を表現できない者は弦楽器奏者ではない。それを教えてくれたのがジェフ・ベックの2枚のLPだったのです。
最初に琵琶を手にした頃から「こんなにいい音が出る弦楽器を抱えていながら、何故弾き語りしかやらないんだろう」と思っていましたが、琵琶をただの伴奏にしか使わないなんて、そんなもったいない事は私には出来ませんね。何処までも琵琶の音色で表現し尽くすのが琵琶奏者として当たり前だと私は思っています。まあ歌を入れるんならやはりジミヘンみたいなに、先ずは楽器を存分に弾いた上で入れたいですね。

「Blow by Blow」裏ジャケットと 拙作「Orientaleyes」裏ジャケット


もう20年もたってしまいましたが、私は1stCD「Orientaleyes」のジャケ裏を、「Blow by Blow」のジャケ裏と同じ構図にして欲しいとデザイナーさんに駄々をこねまして、結局こんな感じに創ってもらいました。もうビョーキですね。曲も全てインストで、もちろん全てオリジナルで、琵琶の「Blow by Blow」として創りました。私の琵琶という楽器に対する答えと想いが詰まった輝かしい1stCDとして、今でもお気に入りのCDです。

2010年高野山常喜院独演会にて

私は、ジェフ・ベックやパット・マルティーノのような「己の道を歩んでいる」存在にとても惹かれます。それは孤高と表現するべきなのかもしれませんが、自分の中ではそのまま宮本武蔵なんかにも通じています。今そんな姿をしている琵琶人は、残念ですが見かけません。琵琶の演奏よりも歌にご執心で、声が出てるか、コブシが回っているかどうかなんてところで競っている事が私には全く理
解できません。歌よりも先ずはまともに琵琶を弾いて欲しいですね。

結局私という音楽家を育ててくれたのは、ベックやマルティーノ、パコ・デ・ルシア、ヴァンヘイレン、ラルフ・タウナー、ジミヘン等々こうしたギタリスト達だったのです。只管己の道を突き進んで行くその姿に自分の姿を重ねるように生きて来ました。いつものスローガン「ぶれない、群れない、寄りかからない」はこんなギタリスト達の姿を見て、心に刻んでいった言葉なのです。だから私も彼らの上っ面を真似するのではなく、あくまで自分の道を進むにはどうしたらいいだろうと逡巡を繰り返しながら、琵琶に辿り着いたという訳です。

ジェフ・ベックの素晴らしい音楽を聴くことが出来、また大きな示唆も頂き、本当に幸せでした。安らかに。

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