春の訪れ

春が来ましたね。暖かい陽射しと共に花粉もやって来ました。今年は花粉が多いという事ですが心配ですね。

今は連日前回ご紹介したヨーロッパ公演のプレコンサートの事でバタバタしてます。今回はソプラノ歌手の廣瀬かおりさんが、フランスに在住だった経験を活かし、マネージメントを色々とやってくれているのですが、先ずは今度の日曜日(3月5日)にやる成城サローネフォンタナの公演を成功させようという事で、色々と声を掛けたりしています。午後1時開演ですので、是非是非お越しくださいませ。当日ふらりと来ていただいても結構です。お待ちしております。

以前も書きましたが、新しいチャレンジをしつつも、そろそろ自分らしい舞台をなるべくやって行こうと思っています。今迄は、とにかく自分の視野を広げ、幅広い芸術家たちと交流したいという想いから、ピンと来るものにはどんどんと飛びついていましたが、今後はその精神は大事にながらも、より良い形で私の音楽をしっかり聴いてもらえるようにして行きたいです。今までやって来た演劇の音楽のような琵琶が伴奏に回るような形はそろそろ卒業ですね。どんなジャンルの方でも一緒に作品を創って行けると良いのですが、これがなかなか難しい。


金沢ナイトミュージアム2020s左から能楽師の津村禮次郎先生、中:能楽師の安田登先生、俳優の佐藤蕗子さん 右:ヴァイオリニストの田澤明子先生

一流と言われる方々と一緒にに舞台をやらせて頂いて一様に感じるのは、個々の技は見えないという事です。他のジャンルを考えるとよく判るのですが、文学ならば、いかに巧みに難しい言葉を操っても良い小説になりませんし、絵画でも超絶技巧を入れ込んで絵を描いても、誰も感動してくれません。そこに作家独自の世界があり、人を惹きつけてやまない魅力が溢れていてこそ人が集まってきます。しかし音楽家は、いざ自分が舞台に立ってみると途端に技のご披露に一気に陥入りやすい。何故なんでしょうね。若い人がそこで目一杯やっているのは、それはそれで可愛いもんですが、私のような年の者が、そんな調子では、誰も相手にしてくれません。

京都 清流亭にて 笛の大浦典子さんと


技は表現する世界を実現するためのツールなので、演目によっても変わるし、時代によっても技は変わります。私達の生活も、もうスマホがマストになっているように、生きてゆく上での技もどんどん変わって行きます。世の中と共に在るのが芸術だと私は思っていますので、それを無視して表現活動をして行く事は出来ませんね。マイクやスピーカーが登場した時代には、声の出し方も大きく変わったでしょうし、畳の上で演奏するのと、ホールでやるのも同じやり方では伝わりません。こうして技も感性も留まる事無く変化して行くのです。

「学んで思わずば、即ちくらし。思うて学ばずば、即ちあやうし」という言葉がありますが、私はいつもこれが頭にあります。人は技でもお金でも知識でも、一度手に入れたものは、誇示したくなり、使いたくなってしまう。ただ技だけを見て練習・修行しても、同時に考えを深める事をしなければ、その技も生かせません。

練り上げた技こそ自分の価値だと思うようになったらお終いです。アーティストは作品やそこから表現すべき世界こそが第一。技を習得した時点で、もうその技は過去のものなのです。その技術をどうやって生かして行くか、よく考えて視線を次世代に向けて行こうとしなければ、かえってその技が仇になります。今時コブシがいくら回せても、余計な装飾としか思ってもらえないのと同じです。骨董品にすら成れないでしょう。それだけ時代は急激に変化しているのです。
作品として表現する世界がある人と、技量
を聴かせたい人では、その深浅は歴然と舞台に現れてしまいます。技だけでなく、常にそうした表面的なものに囚われないように気を付けたいものです。

13年前 京都清流亭にて 


陽射しも暖かくなり、マスクの装着も自己判断になって、これから世の中が動き出すでしょう。やっとここ数年の閉鎖空間が開け、春が訪れるような気がします。これからが楽しみです。

梅花の季節2023

外はかなり春の気配となってきましたね。我が家の近くの善福寺緑地では梅花が咲き出し、春の陽射しが満ちて気持ち良い日々になってきました。春になると様々なものが動き出し、正に芽吹くという生命の躍動を感じます。演奏会の方も3月からぼちぼち始まります。という訳で先ずはこちら、Team NOSARUの演奏会のお知らせから。

実は、この夏ヨーロッパツアーが予定されていまして、そのチームの名前が「Taem NOSARU」といいます。能楽師の津村禮次郎先生を筆頭に、笙の真鍋尚之さん、ソプラノの廣瀬かおりさん、作曲の渋谷牧人さんらと一緒に行ってくるのですが、このツアーはスペイン・バルセロナのサグラダファミリア、同じくバルセロナのコロニア・グエル教会地下聖堂、フランス・ブザンソンの古楽器フェスティバル、そしてデンマーク・コペンハーゲンでのワールドミュージックフェスティバルの演奏が決定してます。なかなか凄い事になってます。JTBでツアーも組むとのことですので、NOSARUと一緒にヨーロッパに行ってみたいという方は是非以下にお問い合わせください。上記HPでは短いプロモーション用の動画もご覧になる事が出来ます。

Team NOSARU 事務局 everness888@gmail.com

今回は、そのプレ公演という事で、3月5日に成城のサローネフォンタナにて、公演とワークショップを行います。ツアーではデンマーク在住の尺八奏者キク・デイさん、スペイン在住の尺八奏者オラシオ・クルティさんが加わるのですが、プレ公演では、いつも一緒にやっている尺八の藤田晄聖君に頼んで加わってもらう事になりました。
尚、このプレ公演はサローネフォンタナにて、3月4月5月と開催し、6月には武蔵小金井駅前の宮地楽器ホールにて、少し規模を大きくしてやることになっております。私は3月と6月の登板です。是非是非お越しくださいませ。


この他3月11日には、毎年恒例となっている笛の長谷川美鈴さん主催の「和の音」。今回は相模原の日庭寺で開催です。

今回はこの演奏会の為に新曲を仕立ててみました。篠笛と琵琶の曲は昨年静岡のお寺での演奏会の時にも新曲を創ったのですが、今回の作品は、その構成を基にしながら創ってみました。今までにないちょっと新鮮な曲です。乞うご期待。


photo 新藤義久

私はとにかく創り続ける事が、自分の仕事だと思っています。やはり音楽も芽吹いて行かないと、世の中と共に在り続ける事は出来ません。私はの仕事は見事に琵琶を弾く事ではないなとやればやる程に感じます。作品を創り、それを聴いて頂く、それが私の仕事です。
そして創る為には視野も感性も柔軟でいなければ質の高いものは出来ません。私の音楽の土台となる古典やその他様々な音楽・芸術への視線も更に深めて、過去の経験や知識に寄りかかる事の無いように心がけてます。現代はリリースすればそのまま世界発売な訳ですから、大声出してコブシを回しても、そんなものは世界の人にしてみれば単なる形としか認識してくれません。閉じられたドメスティックな感性、メンタルを開放して行かないと、琵琶の音は世界に響きません。

人は音楽からエネルギーを感じているのです。技芸を聴いているのではありません。明確に伝えたいものが自分の中にあってはじめて技芸にエネルギーが満ちて来ます。琵琶の音で伝えたい世界は何なのか。そしてそれは何故自分が伝えたいのか。そこを先ずクリアにして、そしてそれを具現化することが出来て、初めて世界中に溢れる音楽と同じ土俵に上がれるのです。そこまで持って行かない限り、世界の人に琵琶樂の魅力を伝える事が出来ません。意識をどのように持ち、どこに視点を向けるか、そこが一番大切ではないでしょうか。私は「世界の中の私」という感覚が、今後もっと必要になってくると考えてています。

善福寺緑地

こういう創作活動をこれまで続けて来れたのは、とにもかくにも「お陰様」というしかないですが、季節の風情を感じ様々な植物の躍動を観る事が私の中では、とても重要な事だと思えるようになりました。それは心の中の余裕が出来たとも言えるし、感性が開いて色んな所に視野が向いて来たとも言えるかもしれません。

皇居


特に梅の花は、まだ肌寒い頃に咲き、私たちの心に温かさと潤いを感じさせてくれます。桜の華やかさに比べれば地味な存在かもしれませんが、その佇まいにはケレンが無く、ただ密やかに咲く姿は、私の一つの理想です。人間は皆どこかに、評価されたい、良く見せたい、良く思われたいという俗な心が少なからずあります。それがあるからこそ人間は向上心が湧き上がり、文明を築き上げてきたのでしょう。私自身も自分の音楽を聴いてもらいたいし、気に入ってもらいたいし、評価も欲しい。決して悪い事だとは思っていませんが、そういう感性は時に肥大し、いつしか欲に振り回され、振り回されている事にも気づくことなく人生を過ごしてしまいます。こういう姿は、何も求めずただ静かに咲く梅花の無垢な風情には程遠い。
だからこそ毎年春の初めに梅花を愛で、自らの心に溜まった澱を祓い浄化させているのかもしれません。

梅花を愛で、春の陽を感じ、また魅力ある音楽を創って行きたいですね。

舞台というもの2023

立春も過ぎ、東京では何だか晴れた日が多くなりました。時々まだぐっと寒さも来ますが、昼間は結構暖かくなって気持ち良いです。今日は確定申告の開始日ですが、毎年初日の午前中にやってしまうのが恒例ですので、今年ももう気分はスッキリ。となると心配なのは花粉症ですが、まあ何とかなるでしょう。

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滋賀県 常慶寺にて 笛の大浦典子さんと


今年も色んな舞台の予定があるのですが、いつも思う事は、どれだけ新鮮な気持ちで舞台に向かって行けるかという事です。長年やっていると、自分のやりたい舞台だけを自分でやりたいようにやるようになるし、組む相手も大体決まってくるものですが、それが予定調和の手慣れたマンネリになって行くと、途端に音楽も舞台もしぼんでしまいます。私が一番組んでいるのは笛の大浦典子さんですが、もう20年以上マンネリどころか、毎回自分がしっかり練習しておかないと、ついて行けない位にいつもチャレンジしてます。

世は常に動いていますので、世に生きる人々のセンスも移りゆきます。そんな世の動きが見えなくなった時が舞台人の終わりなんでしょうね。これまでやって来て思うのは、ベテランになればなる程に挑戦して行くような人だけが、舞台人として残って行けると感じます。誰しも自分の作品、スタイル、活動の仕方等そういう自分で作ったものはなかなか変えられません。しかしそれらの自分のキャリアが、いつしか大きく重い鎧のようなものとしてのしかかってしまいがちです。一度その荷を下ろすことが出来るかどうか、ベテランになればなる程にその器を試されます。

さて、今年もLiveは色々と始まって来ました。改めてご案内しますが、来月には能楽師の津村禮次郎先生と、成城のサローネフォンタナにてサロンコンサートをやりますし、篠笛の長谷川美鈴さんの毎年恒例の会や、プライベートコンサート等色々入ってます。

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左:ルーテル市谷教会ホールにて 花柳面先生と
中:横浜ZAIMにて シン・ヤンジャ氏と
右:東海道川崎塾交流館にて 牧瀬茜 SOON・KIM  ヒグマ春夫各氏と


世に芸人さんと言われる人も居れば、芸術家と言われる人も居ます。プロの芸人さんは皆自分のオリジナルの芸を持ち、その人ならではの世界も持っているので、舞台を観ているのは楽しいし、私は大好きです。これはお稽古事を上手にやっているようなものとは基本的に全くレベルの違う話で、本当にレベルが高く、観客として観ていて納得のいく舞台をやってくれます。
それに対して、芸術家と言われる人も、同じようにオリジナルの世界を表現します。先日の花柳面先生の「生命の樹」の舞台のように観客を異次元に連れて行ってしまうような魅力がありました。上に張ったダンサー シン・ヤンジャさんや牧瀬茜さんも、その場でしか実現しないような魅力的な世界を創り出してくれました。

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人形町楽琵会にて 津村禮次郎先生と


いつもお世話になっている能楽師の津村禮次郎先生や日舞の花柳面先生は、いわゆ技や芸を見せません。そして自分のネタを披露するという事もしません。どんな小さな会でも何かを創りオリジナルなものを上演します。つまり持ちネタでお仕事はしないのです。常に創り出し、同じ演目でも共演者が変われば、その相手と共に一緒になって新たなものを創ります。津村先生には毎年人形町楽琵会に声を掛けて舞ってもらいましたが、私の作曲作品を聴いて、そこから得たインスピレーションでオリジナルな世界を創って来てくれます。曲に合わせて衣装も変えるし、ある会では、右を男性、左を女性と設定して両性具有の姿となって独自の世界を創り出してくれました。(上記写真)
これに対し芸人さんは、あくまで自分の持ちネタに拘りますね。私はそんな芸人さんの舞台に呼ばれていくこともありますが、私が舞台に加わっても芸人さんは新たなものを創り出すことはしません。自分おネタをやります。だ方私はそういう場合常に伴奏に回ることになります。

常にどんな小さな舞台でも「創る」という事をし続ける芸術家と、自分の持ちネタを披露して、舞台をギャラの取れる仕事として全うして行く芸人の、この違いを最近特によく感じます。勿論それぞれ比べるものではありませんが、芸人と芸術家が共演するのはなかなか難しいですね。

5m藤枝 熊谷寺にて 笛の大浦典子さんと
私は一緒になって新たな世界を創り出して行けるような人が、やはり性に合います。笛の大浦さんとも、毎回舞台の度に新作を書いています。このコンビは彼女が良く口にする「こさえる」のが基本ですので、毎回新鮮で取り組むことが出来ます。そうすると前からやっているレパートリーにも新たな発見を感じられるのです。
私の曲はやる度に変化できるように、あえて細かく書き込まないように譜面を作っています。何よりも共演者が目一杯演奏出来ないと曲に生命感が宿りません。そして同じ相手であってもやる度に変化して行く事で、演奏に新鮮さも出て来ます。こうしろああしろと相手に規制をかけ、私の思い道理にやらようとしても、それを求めれば求める程、相手は単に技術だけでこなすようになってしまいます。技術の高い上手な人程そうなってしまって、その人の持ち味は出て来ません。
演奏する曲がどんな曲であっても、先ずは相手の解釈を尊重して、相手が曲に対し、技術を越えて自分自身の感性で挑むようになって初めて曲に命が宿るのです。当然共演者が変わればどんどん曲も変わるし、やる度に新たな展開があって、作曲者としても演奏者としてもそこが面白いのです。これがアンサンブルの醍醐味であり、舞台の本来の姿だと思っています。

色んなやり方があって良いと思います。しかし今はネット配信によって世界がマーケットという時代。目の前のマーケットや小さな仲間内の枠に受けようとするような感性は、もうそろそろ消滅するだろうと思っています。日本人はすぐに村を作りたがるので、仲間内で話題になる事をしたがりますが、そんな事にかまっているような時代ではないと私は感じています。今は世界の人があらゆる感性で、自由に音楽を聴いている時代です。全く違う基準、感覚で自分の曲が簡単にクリック一つで聴かれ、また判断されてしまう時代です。日本人が好きな「上手」や「正統」なんていう小さな枠内の価値観は一切通用しません。日本は音楽だけでなく社会全体が、小さな村意識を越えて次の時代に歩みを進める事が出来るでしょうか。何だか私には危うく感じられて仕方がないのです。

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photo 新藤義久


自分の頭の中とは違う感性が、私の曲にどう反応するか、そういう所に私はワクワクしますね。私には派手なエンタメの大舞台での活躍というものは無いですが、自分の作品を世界の人が聴いてくれるかと思うと、良い時代になったと感じています。どんどん作品を創ってリリースして、舞台でも上演して行きたいですね。夏にはヨーロッパ公演も控えていますので、私の曲がどんなふうに受け入れられるのか楽しみです。

相も変わらず取り留めも無く書いてしまいましたが、やはり私は私の道を行くだけですね。「媚びない、群れない、寄りかからない」をモットーにこれからも納得のいく舞台をやって行きます。

アジアの風2023

先日横浜に用事があったので、前から行きたかったユーラシア文化館で開催されている「江上波夫没後20年ユーラシアへのまなざし~造形の美と技」に行ってきました。展示物はそんなに多くは無かったですが、白瑠璃の椀など正倉院とも関連するものが出ていました。

ユーラシア文化館チラシ

江上先生と言えば「騎馬民族王朝説」で有名ですが、私はまだ高校生くらいの頃、NHKの特集で「騎馬民族王朝説」を見て以来、ずっと興味を持っています。学問的な事は判らないですが、小説なんかでもちょくちょくと取り上げられていて、最近のものでは加治将一さんの「失われたミカドの秘紋」なんかにもちょっと出て来ますね。とてもロマンを感じます。私は子供の頃から古代の歴史に大変興味があって、シュメール文明、古代ユダヤ、旧約聖書、日本の邪馬台国や卑弥呼なんかの大和朝廷成立以前の歴史を題材とした本など読みだすと止まりません。日本の神話も、近隣の国の歴史を合わせて紐解いて読んでいくと、古代日本の成立が垣間見えて面白いのです。

江上波夫

江上波夫先生

現在の中国辺りにはシルクロードを渡ってかなりの多様な人種が入り込んでいたのは確かですので、日本の大和王朝成立以前に大陸との交流もかなりあったというのは大いにうなづけるものだと思います。唐の国にはもうはっきりと史実として、ソグド人やヨーロッパ系迄多様な人種が居たことが解っていますので、ひと頃のNYのようなメルティングポット状態だったというのも当然だと思います。きっと色んな事が起こり、文化が生まれて行ったのでしょうね。空海なんかがそこで大活躍した事を思うと、わくわくしますね。

また私は琵琶の活動を始めた頃に、故 星川京児さんからよくいろんな国の話を聞いていました。無尽蔵とも言えるその知識にはただただ驚くばかりで、星川さんと奥様がやっていたお店「アノマ」にはよく通っていました。琵琶という楽器がアジア全体に広がって、様々な音楽を奏でて行ったと思うと、琵琶の音色も日本の流派のそれとは全く違って聴こえて来ました。元々小泉文夫先生の本や監修したレコードは私の大好物でしたので、私にとっては琵琶=日本よりも、むしろ最初から琵琶=シルクロードのイメージだったのです。琵琶に辿り着いたのも必然ですね。2009年には、中央アジアの国々へのコンサートツアーをしたり、浜松にあるシルクロード美術館でも独演会をやった事がありますが、西から東迄アジア全体で琵琶の音が響き渡っていたというのは素晴らしいですね。大いにロマンを感じます。その琵琶の歴史の中で日本で発展してきた琵琶を今私が弾くという事には、おこがましいながらも何か使命のようなものも感じます。

こんな形で琵琶に関わってきたので、まだ流派が出来て100年程しかない歴史の浅い薩摩琵琶だけに留まる事は私には出来ませんし、ましてや一時期の軍国主義や皇国史観、忠君愛国思想などに固まったものは到底受け入れがたいものでした。樂琵琶に於いても、雅楽にとどまらず、最初から芝先生の複曲もの等、シルクロードに直結していったのも、私にしてみれば当たり前すぎる程に当たり前の事でした。逆に○○流なんかの看板を挙げて、正統だの何だのと言っている村人感覚が私にはどうしても理解が出来ません。

長い歴史の中で生きている我々は、琵琶一つとっても、その歴史の中で様々に姿を変え、それぞれの土地で奏でる音楽も様々に変化し減の響きを伝えてきたのです。それはそのまま人間の営みであり、命の連鎖です。表面は変わっても人間が生きて行くという根本は、何ら変わっていません。変化し姿を変えて来たからこそ、今に伝えられているのです。小さな視野や区分でものを見ていたら、その命は何も見えて来ません。
以前JICA横浜にて、ジョセフ・アマトさんと、今大活躍の筝奏者REO君と演奏したことがありましたが、その時お客様からも「琵琶は日本というよりオリエンタルですね」と感想を頂きました。

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笛の大浦典子さんと photo 新藤義久


今私は、そんな長い琵琶の歴史の中で、この日本に伝えられ変遷してしてきた琵琶に出逢い、それを次世代へと繋げる最先端の日本の琵琶樂を創りたいとずっと思っています。過去を大事にしながらもその焼き直しに走る事無く、次世代に響き渡る音楽を創りたいのです。平安時代の源博雅、藤原師長、中世の明石覚一、近代の永田錦心、現代の水藤錦穰・鶴田錦史。そうした先達が居て、そしてその先端に私も居るんだという事を感じずにはいられませんね。

時代は常に移りゆき、総ての物事そして人間も変化して行きます。その中で創造力のある試み、営みが溢れんばかりにあるからこそ生活も物も音楽も今に伝えられます。琵琶がこれ迄伝えられてきたという事は、そんな営みがずっと続いていたという事です。人間というのは、定家のように「古きを慕い、新らしきを求む」ものなのでしょう。決して一つ所に留まるという事は人類の歴史を見てもあり得ないのです。琵琶樂もこれからどうなって行くか判りませんが、私も古きを慕いながら、自分の求める所を進みたいと思います。

江上先生の足跡を久しぶりに辿って、ユーラシアの大地とずっと伝えられてきた琵琶樂の歴史に、ロマンが広がりました。

ゆっくりと柔らかに

先日の「生命の樹」の舞踊公演は無事終わりました。

今回私は、日舞の花柳面先生、韓国舞踊のペ・ジヨン先生のチームで、フルートの久保順さんと音楽を担当しました。曲は拙作の「彷徨ふ月」を使い、それを編曲して演奏しましたが、今回も素晴らしい作品になりました。面先生とはもう何度となく創作舞台をやらせてもらっていて、毎回記憶に残るような充実した作品を創ることが出来て嬉しいです。考えてみると私がお付き合いしているアーティストは皆、古典をベースに持ちながらも常に創作活動をしている方ばかり、普段から共演が多い能楽師の津村禮次郎先生や安田登先生はその筆頭です。

人それぞれではありますが、アーティストが「芸」を身に着けたが故に、自分で築き上げたスタイルに自ら閉じ込められて、どんどん世界が小さくなって行ってしまう姿を時々見かけます。作品でも舞台でも、ものを創るには柔軟性が何よりも大切。何かを築き上げた人ほど、それを守ろうとして失敗の無いものしかやろうとしなくなりがちなのですが、そこには勢いも魅力もありません。アーティストはどこまで行っても好奇心旺盛でどんどん未知のものにチャレンジしてこそアーティストです。だから作品も舞台も深まって行くのです。自分の世界に分厚い殻を創ってしまっては、共演者もリスナーも入って来てくれません。ベテランになればなる程に、柔軟な心であるよう心掛けていくことが必要だと思います。言い方を変えるとキャリアを積むほど、こちらの器を試されるとも言えますね。

私はデュオ作品のレパートリーが多いので、共演者とは常に良いパートナーシップを築けるように心がけています。曲を書く時、いつも一緒に演奏する人を想定して、その人の魅力が一番引き出るように曲を創っているのですが、そうする事で曲のエネルギーが何倍にも大きくなって行くし、それはリスナーに確実に届くものです。共演する人の音楽に最大限のリスペクトをしながら作曲して行くと、そういう心はしっかりと相手にも伝わって行くものでそれが良いパートナーシップにもつながります。逆に自分のやりたい事の伴奏をさせようという意識のある人や、自分のお上手さを聴かせようなんて心でいる人は、共演者の持ち味も生かせないし作品も小さな器の中から出る事が出来ません。狭量な心というものは姿にも作品にも駄々洩れに現れてしまうものです。
とにかく共演者に目いっぱいやってもらうようにすればするほど、自分の考えているもの以上のものが出てきて、曲にも生命力が溢れ、面白い展開になって行くのをこれまで沢山経験してきました。

幸い、私はこれ迄素晴らしい共演者に巡り合う事が出来ました。笛・尺八・ヴァイオリン、メゾソプラノ、フルート等々素晴らしい共演者のお陰で本当に沢山の曲を書く事も出来ました。皆尊敬できる音楽家です。私はその魅力をどう引き出してあげる事が出来るか、作曲家としても演奏家としても、常に問われている訳で、私の音楽を何倍にも輝かせてくれる共演者とのパートナーシップは音楽をやってゆく上でとても大事な事なのです。

静岡県藤枝市 熊谷山蓮生寺にて 笛の大浦典子さんと

琵琶など長いことやっていると、行く所行く所で「先生」と呼ばれるようになります。「先生」でも何でも、いかに自分自身にまとわりつく囚われを無くし、柔軟な心でいる事が出来るか。そしてまた豊かな感受性を持って日々を生きる事が出来るか。これが今後の私の一番の課題だと思います。
1月は妙に忙しかったですが、しばらく時間が作れそうなので、ゆっくり新たな作品創りをしようと思っています。ゆっくりと柔らかく周りと接して歩いて行けば、何だか今年も面白くなりそうです。

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