糸の話Ⅱ

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神田川沿い

週末は桜雨でしたね。残念でしたが、リハーサルついでに東中野の神田川沿いをちょっと歩きました。雨のせいで人はほとんどおらず、しかし桜は満開に近い感じで咲いていました。

よく琵琶の絃はどんなものを使っているのか聞かれます。残念ながら琵琶絃はもう生産しているメーカーが丸三ハシモトしかないので、ギター絃のように色んなメーカーのものを選ぶという事が出来ませんが、以前は浅草の仲見世通りに「ひょうたんや」という三味線の撥などを扱う店があって、そこでも琵琶絃を売っていました。職人に作らせているとのことでしたが、もう随分前に琵琶絃は無くなってしまいましたね。鶴田錦史氏は、ここでよく3の糸など買っていたそうです。私も以前は少し買ってみたのですが、細い絃が切れやすかったのと、音色も丸い柔らか系だったので私には合わず、ほどなく使わなくなってしまいました。

絃

これは今私が中型琵琶で使っている丸三ハシモトの絃です。邦楽人は糸と言いますね。これも何だか風情があっていい感じです。
第一絃は45番、第二絃が1ノ太目、第3絃が2ノ太目、第4・5絃が20番です。大型琵琶には第二絃にもう少し太い35番を張っています。私が使っていた長い尺の絃はもう生産していませんので、一番細い絃はせっかくダブルサイズで二本分取れるのに、私の琵琶では1本分しか取れず、コストが倍になってしまいました。琵琶人口が減ると、絃の供給も無くなってしまうんじゃないかと心配してます。

絃は太ければ音量は確実に上がりますが、セッティングをしっかりしないと、発音の振幅から戻ろうとする力が強いのでサスティーン(音伸び)は少なくなりがちです。私のような極太の絃を使うのなら、サワリの調整はかなり気を遣わないと、伸びのある良い音はしませんね。私は触っただけでサワリが鳴り出す位繊細に設定してあります。またチューニングも45番などの太い絃を張るのなら、Dが限界ですね。Eでは音色にもう無理が出て来ます。
太い絃はとにかく張りが強いので、力強い音も出るのですが、強烈な一音が欲しい方や、器楽の演奏には向くものの、歌の伴奏で弾きたいや、リズムカッティングのように軽やかに弾きたい方には向きません。
先ずはどんな音楽をやりたいのか、そしてその為にどんな音色を出したいのか、という前提が無ければ、音量を稼ごうとしてただ絃を太くしても扱いずらいだけです。私は時々大型琵琶でも弾き語りもやりますが、この琵琶の響きで語れるように曲を創っていますし、かなり声量にも自信のある人でないと声が負けてしまいます。

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六本木ストライプハウスにて photo 新藤義久 


上記の写真は大型琵琶を演奏しているものです。私は身長が170ちょっとありますので、それを考えると琵琶の大きさが解るかと思います。標準サイズよりかなり大きく、重いです。軽く持てるような代物ではありません。この楽器の大きさがあってこそ極太の絃が張れるのです。標準サイズに張るのはネックが張力に耐えられないし、お勧めしません。

サワリの話は別にして、絃を鳴らすには太い細い関係無く、右手のタッチがとても大事です。ヒットする時に素早く絃から撥を離さないとまともに鳴ってくれません。絃を押さえつけて圧力をかけると、引っ張っているのと同じ状態なので、チューニングが狂いやすいだけでなく、振幅にも無理が生じるので、自然な振幅にならず戻ろうとする力が強くなり、サスティーンも少なくなってしまいます。力で弾くと手元ではアタックのある力強い音がするかと思いますが、音というのは末広がりに響いて行く性質ですので、手元で大きな音がしても、原音がつぶれていては10M先に行った時に芯の無いぼやけた音になってしまいます。弦楽器はすべて原理が同じですが、手首を柔らかく使い、どれだけ絃に負担をかけずに弾く事が出来るか。ここがポイントですね。

撥

表現の為には右手のタッチはとてもとても大事なのですが、琵琶ではあまりそういう教育はしませんね。これは器楽が発展していないという事なんですが、これからは更なる研究が必要だと思います。
表現をするためには太い絃でもPPを出せるようにならないと、とても使いこなせません。どんな楽器でも同じですが、PP程難しいのです。バンバン大きな音で鳴らすのは少し慣れれば誰にでも出来ます。慣れてくるとPPも出せるようになれます。しかしその両極端しか出来ない人が結構います。大事なのは基本としてメゾピアノやメゾフォルテが安定して出せる事。そしてその基本から上下に自由にタッチをコントロールできることが、どんな弦楽器でも必須の技術です。

そして太い絃は撥の角度を変えると色んな鳴り方に対応してくれます。基本音量が大きいからだと思いますが、右手のタッチにしっかり反応してれるのは嬉しいです。こうした細かなテクニックは、是非ライブで、目の前で見てください。

絃間大型琵琶の絃と柱の間
太い絃はその振れ幅も大きくなるので、それに伴って左写真のように柱と絃の間をかなり広く取って、更に他の柱とのバランスの調整もしないと、絃振幅が柱に当たって、音が皆潰れてしまいます。
絃を変えるという事は、サワリ、右手のタッチ、左手の握り方やタッチ、柱の高さ、そして何よりも音楽性迄、あらゆる所に影響して行きます。自分の求める良い音を出したければ全体を徹底しないと、かえってバランスの悪い音しか出て来ません。すべてのパーツとセッティングのバランスが取れてこそ威力を発揮します。

私は基本的に弾き語り曲は演奏レパートリーのごくごく一部でしかないので、私の琵琶は全て器楽用にセッティングされています。ほんのたまに壇ノ浦などの弾き語りをやる機会があるのですが、そういう時も全体のプログラムは器楽曲がメインで、1曲のみ弾き語りという事がほとんどですので、大型琵琶の響きで語れるように曲を創ってあります。そしてそれが逆にオリジナルなスタイルにもなっています。まあ流派の弾き語り曲しかやらない人は、こういう話は関係がないですね。

絃の選択は、サワリの調整と共に演奏者の命なので、声と同じレベルで人それぞれに研究して行かないと、自分のサウンドは出せません。それは一人一人顔や声が違うのと同じ事で、演奏に於いて独自のサウンドが感じられないという事はまだまだプロとしては半人前という事です。

大中小
左:大型 中:中型 右:標準サイズ

私は初心の頃、毎月琵琶樂協会や各流派の演奏会に行って、演奏している人を観察していました。一人一人弾き方の特徴や音色の特徴など結構詳しく分析してノートに書き込んでいました。良い勉強になりましたね。琵琶はまだ充分には弾けませんでしたが、明らかに石田琵琶店で直前にサワリの調整をやってもらったんだろうな、という人が多かったですね。その人独自の音色になっていないし、普段から調整してないのは聴く人が聴けばバレバレです。一応私はギタリストの端くれでしたので、絃と楽器の状態はすぐ見てとれます。だから自分のオリジナルモデルを創る時に、そういったことを踏まえ、かなり細々と注文を付けてスペシャルなものを創ってもらったのです。

琵琶の演奏会に行って一番気になっていたのは、皆さん基本がフォルテになってしまっているという事。上記したように、これではより大きな音までワンポイントしか幅がないので、ダイナミックスが少なく、大声をずっと出しているような一本調子な演奏になってしまいます。ずっとフォルテ状態では、勢いだけで品の無い猪突猛進型の演奏に陥ります。薩摩琵琶を弾く男性にはそのタイプがやたら多いですね。やはり弦楽器は7色の音色が出せなくては。もう随分前ですが東京文化会館で聴いた世界的ギタリスト ジュリアン・ブリュームは、正に七色の音色で魅了してくれました。その音色は今でも記憶に残っています。

細い絃も勿論ですが、太い絃を自在に操るのはなかなか難しいです。テクニックがあれば良い音楽が創れるとは限りませんが、自分の求めるサウンドを出せない人に良い音楽を創る事は出来ません。今はネット配信でリリースしたらそのまま世界発売状態になる時代です。気持ちさえあれば、気合を入れれば、なんて視野の狭い甘えた村意識では、音楽をリスナーに届ける事は出来ないのです。

イルホムまろばし10

若き日 ウズベキスタンの首都タシケントのイルホム劇場にて
アルチョムキム指揮オムニバスアンサンブルとメンバーと拙作「まろばし」演奏中


どんな絃を選ぶか、どんなサワリのセッティングにするのかで、見える景色は随分と変わるものです。そして何よりも頭の中を変えられない人は、絃を変えても弾きずらいだけです。自分の音楽は何なのか、何を表現したいのか、何故それを表現したいのか、流派やこれまでの常識やルールに囚われていて、「自分の音楽」と「お稽古して得意なもの」の区別がつかないような意識では見えるものも見えません。自分は二人居ないのです。是非自分だけの独自のサウンドと音楽を創って行って下さい。

いよいよ始まる

もう春本番という感じですね。周りも桜がかなり咲いてきて華やいで、街にも活気が出て来ました。

6神田川1

花粉症の方は、まあ何とかやり過ごしているという感じですが、音楽活動は少しづつ展開し出して来てました。今月は定例の琵琶樂人倶楽部がお店の都合で中止だったのですが、4月からはまたいつも通りに戻り、4月はこれから活躍するだろう人達を紹介する会をやります。皆さんオリジナル曲で挑戦します。乞うご期待。こちらはまた改めて書きます。
琵琶樂人倶楽部 : 2023年4月12日(水)第183回「次代を担う奏者達」 (blog.jp)

作曲の方も、先ずは創りかけのようになっていた独奏曲が完成したので、これから事あるごとに舞台にかけて行こうと思っています。「風の宴」のライバルになるような作品に育って行くんじゃないかと期待しています。他に笛とのデュオ作品も一応出来上がったので、これもどんどん舞台にかけてレパートリーにしていこうと思っています。もう一曲構想があるのですが、これが出来上がったアルバムのレコーディングしたいと思ってます。

2浜田山1

春になると気分もポジティブになって、心が動き出す感じが良いですね。心に喜びが溢れているようになると全身が生き生きしてきます。時々「琵琶奏者として活動して行くのには色々と御苦労があるかと思います」と言われるのですが、私は日々楽しんでいるといった方が強く、苦労と感じたことはほとんどありません。勿論世の波騒は尽きる事が無く、難しい問題もありますし、上手くいかない事もありますが、音楽活動が苦しみや闘いになっていたんじゃ、素敵な曲は創れませんし、日々楽しんでるからこそ、これまで何十年も続けていられるのです。
私はどんな演奏会でも全て自分で作った曲しか弾かないので、やりたくない曲を演奏するという事はほとんど無いですし、自分に合わない仕事は丁重にお断りしてます。これは琵琶で活動を始めた最初からもう30年近く全く変わっていません。エンタメ系の仕事は私には出来ませんからね。私にそういう分はありません。自分がやりたいものをやる為に琵琶を弾いているので、好きなものを好きなようにやって、こうして暮らしていれば、音楽から喜び以外の言葉は出て来ないですね。

2photo 新藤義久
音楽をやっていると、売れる事や有名になる事、偉くなる事や抜きん出て上手になる事が、音楽の悦びより優先している人をよく見かけますが、そうやっていつも他人との比較の中で生きていてはさぞかし苦しいでしょうね。そういう部分も若い頃には頑張りの一つで必要かと思いますが、いい年をしてそんなレベルに囚われているようでは、ろくな音楽は創れませんし、良い仕事も出来ません。何事も携わる人がどんな意識を持っているかで、全く違うものになってしまうのはいつの世も同じです。

論語の中に「子貢曰く、貧にしてへつらうことなく、富みて驕ることなくんばいかんと」というくだりがありますが、孔子も「可なり、未だ貧にして楽しみ、富みて礼を好む者に若かざりと」と言っております。訳すと孔子は「まあいいだろう、ただ、貧しくて道を楽しみ、お金持ちになっても礼を好む者にはかなわないんじゃないか」と答えています。つまり「~~してはならない、○○するべきだ」等と禁止や否定の心がある内は大した事ないという訳です。自分がありのままの自分で在り続け、楽しんでいる状態の方が良いという事。そこには喜びがあり、そこから音楽も生まれて行く。他軸で自分を測り、比べて、更に争っていても、心には静寂も平安も訪れないのです。

大体私は人が争っているのを見るのがいやなので、ゲームもやりませんしスポーツも見ません。現代では珍しいタイプかと思いますが、何も人に合わせる必要はないし、皆横並びでないと不安で未だマスクも外せないような現代日本人気質は、けっして良いと思っていませんので、私はいつも自分軸で、自分の思う所を生きるようにしています。だから音楽に於いて、他との比較の中で「争う」などという事は正に愚の骨頂としか感じられないのです。

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photo 新藤義久


どんな形で音楽と関わるかは人それぞれです。確かにどんな職業でも生業としているかどうかは大事な所です。生業としているプロでないと見えない世界も確かにあります。しかし自分に合うレイヤーを行き来して、好きな選択をする事が出来る時代でもありますので、自分が自分で居られるところを自ら求めて行けば良いのではないでしょうか。一番大切なのは、そこに喜びがあるかどうかだと私は思います。孔子の言葉通り、いくら高収入があっても、幸せをお金では測れませんし、心に禁止や強制が残っているようでは、そこに喜びは生まれ得ません。舞台で琵琶を奏でているあの喜びは、自分の心の中にしかないのです。どんな状況であれ喜びを持って生きているのが一番の成功だと私は思っています。

私は有り難い事に琵琶を生業として、これ迄生かさせてもらいました。ある意味奇跡だと思っています。だから音楽に否定や強制など持ちこみたくないし、他軸を気にして、人と自分を比較するような事は考えられません。そんな風に生きていたら、日々楽しくないですからね。

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さあ、いよいよ春本番。琵琶の音が響き渡りますよ。

彷徨ふ春

今年もまた3・11がやって来ました。近頃は東京でも地震が来ると騒がれていますが、世の中全体が何とも不穏な時代になりましたね。今年は毎年和久内明先生が主催している追悼の会ではなく、長谷川美鈴さん主催の「和の響」の方で演奏してまいりました。この日は未だに避けては通れないものがあります。もう東北でも子供たちに震災の事を教えていないという報道も先日ありましたが、単に震災というだけでなく、大事な記憶として今後の日本社会の為にも伝えて行くべきものではないかと年々感じています。

3.11の前には、ブログでお知らせしていたサローネフォンタナにてTeam NOSARUの公演もやって来ましたが、両方共、幸いな事に花粉症の症状が収まっていたので声も出ましたし、共に初めての場所でしたが、どちらも響きがとても良く、気持ち良く演奏する事が出来ました。

先ずサローネ・フォンタナでは、拙作「まろばし」に能楽師の津村禮次郎先生が舞で入り、同じく「花の行方」にはソプラノの廣瀬かおりさんが素晴らしい声で参加してくれましたので、雰囲気も新たにぐっと引き締まり、気持ち良かったですね。やはり音楽は生ものだと実感しました。

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サローネフォンタナにて 能楽師の津村禮次郎先生 尺八の藤田晄聖君と


そして11日の「和の響」日庭寺では、笛の長谷川美鈴さんとのデュオに加え、会のコーディネートをしてくれた笛師の志村薫さんのアイデアで、「件の森」という明治の三陸地震を題材とした朗読作品を上演。なかなかに好評でした。

長谷川日庭寺2023

相模原日庭寺にて 笛の長谷川美鈴さんと


会場はお寺と言ってもかなりモダンなつくりの所で、響きもよく、気持ちが良かったです。普段から仏画や俳句、精進料理の教室等を開催して、様々に活動しているお寺さんです。

また帰りには上記の笛師 志村さんの工房に寄って音楽談義をしてきました。津久井湖のすぐ近くにあるその工房は広さもたっぷりあり、自然の中で自由にお仕事されている様子が本当に素晴らしかったです。私もこういう所を拠点として活動して行けたらいなと心底思いました。

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photo 新藤義久

これから日本にも世界にも様々な事が起きて行くと思いますが、私は今年も昨年に続きアルバムを出したいと思っています。資金やスケジュールなど考えるべきところも沢山ありますので断言は出来ないのですが、出来れば年内には12枚目となるアルバムを完成させたいです。出来る限り多くの作品を発表して行きたいのです。現在次のアルバムに収録できそうな曲もだんだん構想が具体化してきました。そしてもう一つ、前衛的で静寂感のある作品を書きあげたらレコーディングに突入という感じです。

2昨年、画家の山内若菜さんが演奏中の姿をスケッチしてくれたもの
春はこんな風に色んな構想がどんどんと湧き上がって来ます。その分いつもあちらこちらへと身体も心も彷徨うのです。震災の事も思い出しますし、これからの活動の事や、生活の事等々多方面に気が行って、同時に色んな事を頭に描いてふらりふらりと彷徨ってしまいます。
曲も、書きあげた譜面を見直しては書き直し、結局没にしてみたり、延々とそんなことを繰り返しています。効率はすこぶる悪いのですが、こうした逡巡をして、無駄とも言えるような時間を経てこそ、何かが生まれてくると思っています。よく周りからは、毎日何をぶらぶらしているんだと言われるのですが、これでもお仕事しているんです!!。まあ途中散歩に行ったり、コーヒー飲んだり(時にビールも)昼寝をしたりしながらやっているので、世間ではこういうのをゴロゴロ・ブラブラしてると言うのかもしれませんが、幸せな事です。
こういう時間は若い頃は持てませんでした。時間が無いというより、一見無駄とも言えるような、非生産的な事をしていると、何だかさぼっているようで、取り残されてしまうんじゃないかなという強迫観念が強かったからです。この年になると、作品はこういう中から生まれてくると判っているので、許される限りのんびりと構えています。

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善福寺川緑地

毎日稽古して積み上げた先だけを見ているようでは、実は何も生み出せず創れません。物事の延長線上で発想するのではなく、予定調和ではないゼロからの発想こそが、ものを、時代を創り出し、変革しリードして行くのです。そのためには今迄と同じ発想や行動をしていては、次が見えません。優等生的感性では、レールの延長線上のものしか出て来ないのです。そんな発想、思考しか出来ないと、激動する時代にあっという間に取り残されてしまいます。

次代を創るのは常にアウトローです。それがまた正統になり、そしてまたそれに対するアウトローが次の時代を創って行く。私が古典から学んだことは、こういう事なのです。古典を読んで和歌や歴史に詳しくなって、教養豊かな趣味人になるよりも、古典に接する事で、どうやって時代が変わて行ったのか、そういうもののダイナミックな歴史の流れを知る事こそ古典の魅力だと思います。それまでにない発想をする人が、今日本には求められているのではないでしょうか。私も常に「創る」人でありたいと思っています。

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13年前 京都清流亭にて 笛の阿部慶子さんと

今は外に出ると梅花はもう盛りを迎えていて、その次に桃やコブシ、ハクモクレン、ハナスオウが今か今かと待ち構えるようにスタンバイしていますね。今年は少し早い感じがします。そして桜の本番になれば正に花々の饗宴。陽射しがぐんと増して、キラキラと生命が溢れるような光景は何とも心が躍ります。毎年この時期は鼻をぐしゅぐしゅさせながら、近くの善福寺緑地に散歩に行っているのですが、花々のそんな姿を観ていると、頭の中に蠢くもやもやした想いや願望、妄想も皆ポジティブな方向に向かって行くようです。春は物事が動き出す季節。世の中が動き出すと出逢いも増えて、仕事も人生も先へ先へと進んで行きます。こういう時期にあの震災があったかと思うと、何とも言えない気持ちが今でも込み上げるのですが、これからが希望の見出せる時代になって行く事を願うばかりです。

春の訪れ

春が来ましたね。暖かい陽射しと共に花粉もやって来ました。今年は花粉が多いという事ですが心配ですね。

今は連日前回ご紹介したヨーロッパ公演のプレコンサートの事でバタバタしてます。今回はソプラノ歌手の廣瀬かおりさんが、フランスに在住だった経験を活かし、マネージメントを色々とやってくれているのですが、先ずは今度の日曜日(3月5日)にやる成城サローネフォンタナの公演を成功させようという事で、色々と声を掛けたりしています。午後1時開演ですので、是非是非お越しくださいませ。当日ふらりと来ていただいても結構です。お待ちしております。

以前も書きましたが、新しいチャレンジをしつつも、そろそろ自分らしい舞台をなるべくやって行こうと思っています。今迄は、とにかく自分の視野を広げ、幅広い芸術家たちと交流したいという想いから、ピンと来るものにはどんどんと飛びついていましたが、今後はその精神は大事にながらも、より良い形で私の音楽をしっかり聴いてもらえるようにして行きたいです。今までやって来た演劇の音楽のような琵琶が伴奏に回るような形はそろそろ卒業ですね。どんなジャンルの方でも一緒に作品を創って行けると良いのですが、これがなかなか難しい。


金沢ナイトミュージアム2020s左から能楽師の津村禮次郎先生、中:能楽師の安田登先生、俳優の佐藤蕗子さん 右:ヴァイオリニストの田澤明子先生

一流と言われる方々と一緒にに舞台をやらせて頂いて一様に感じるのは、個々の技は見えないという事です。他のジャンルを考えるとよく判るのですが、文学ならば、いかに巧みに難しい言葉を操っても良い小説になりませんし、絵画でも超絶技巧を入れ込んで絵を描いても、誰も感動してくれません。そこに作家独自の世界があり、人を惹きつけてやまない魅力が溢れていてこそ人が集まってきます。しかし音楽家は、いざ自分が舞台に立ってみると途端に技のご披露に一気に陥入りやすい。何故なんでしょうね。若い人がそこで目一杯やっているのは、それはそれで可愛いもんですが、私のような年の者が、そんな調子では、誰も相手にしてくれません。

京都 清流亭にて 笛の大浦典子さんと


技は表現する世界を実現するためのツールなので、演目によっても変わるし、時代によっても技は変わります。私達の生活も、もうスマホがマストになっているように、生きてゆく上での技もどんどん変わって行きます。世の中と共に在るのが芸術だと私は思っていますので、それを無視して表現活動をして行く事は出来ませんね。マイクやスピーカーが登場した時代には、声の出し方も大きく変わったでしょうし、畳の上で演奏するのと、ホールでやるのも同じやり方では伝わりません。こうして技も感性も留まる事無く変化して行くのです。

「学んで思わずば、即ちくらし。思うて学ばずば、即ちあやうし」という言葉がありますが、私はいつもこれが頭にあります。人は技でもお金でも知識でも、一度手に入れたものは、誇示したくなり、使いたくなってしまう。ただ技だけを見て練習・修行しても、同時に考えを深める事をしなければ、その技も生かせません。

練り上げた技こそ自分の価値だと思うようになったらお終いです。アーティストは作品やそこから表現すべき世界こそが第一。技を習得した時点で、もうその技は過去のものなのです。その技術をどうやって生かして行くか、よく考えて視線を次世代に向けて行こうとしなければ、かえってその技が仇になります。今時コブシがいくら回せても、余計な装飾としか思ってもらえないのと同じです。骨董品にすら成れないでしょう。それだけ時代は急激に変化しているのです。
作品として表現する世界がある人と、技量
を聴かせたい人では、その深浅は歴然と舞台に現れてしまいます。技だけでなく、常にそうした表面的なものに囚われないように気を付けたいものです。

13年前 京都清流亭にて 


陽射しも暖かくなり、マスクの装着も自己判断になって、これから世の中が動き出すでしょう。やっとここ数年の閉鎖空間が開け、春が訪れるような気がします。これからが楽しみです。

梅花の季節2023

外はかなり春の気配となってきましたね。我が家の近くの善福寺緑地では梅花が咲き出し、春の陽射しが満ちて気持ち良い日々になってきました。春になると様々なものが動き出し、正に芽吹くという生命の躍動を感じます。演奏会の方も3月からぼちぼち始まります。という訳で先ずはこちら、Team NOSARUの演奏会のお知らせから。

実は、この夏ヨーロッパツアーが予定されていまして、そのチームの名前が「Taem NOSARU」といいます。能楽師の津村禮次郎先生を筆頭に、笙の真鍋尚之さん、ソプラノの廣瀬かおりさん、作曲の渋谷牧人さんらと一緒に行ってくるのですが、このツアーはスペイン・バルセロナのサグラダファミリア、同じくバルセロナのコロニア・グエル教会地下聖堂、フランス・ブザンソンの古楽器フェスティバル、そしてデンマーク・コペンハーゲンでのワールドミュージックフェスティバルの演奏が決定してます。なかなか凄い事になってます。JTBでツアーも組むとのことですので、NOSARUと一緒にヨーロッパに行ってみたいという方は是非以下にお問い合わせください。上記HPでは短いプロモーション用の動画もご覧になる事が出来ます。

Team NOSARU 事務局 everness888@gmail.com

今回は、そのプレ公演という事で、3月5日に成城のサローネフォンタナにて、公演とワークショップを行います。ツアーではデンマーク在住の尺八奏者キク・デイさん、スペイン在住の尺八奏者オラシオ・クルティさんが加わるのですが、プレ公演では、いつも一緒にやっている尺八の藤田晄聖君に頼んで加わってもらう事になりました。
尚、このプレ公演はサローネフォンタナにて、3月4月5月と開催し、6月には武蔵小金井駅前の宮地楽器ホールにて、少し規模を大きくしてやることになっております。私は3月と6月の登板です。是非是非お越しくださいませ。


この他3月11日には、毎年恒例となっている笛の長谷川美鈴さん主催の「和の音」。今回は相模原の日庭寺で開催です。

今回はこの演奏会の為に新曲を仕立ててみました。篠笛と琵琶の曲は昨年静岡のお寺での演奏会の時にも新曲を創ったのですが、今回の作品は、その構成を基にしながら創ってみました。今までにないちょっと新鮮な曲です。乞うご期待。


photo 新藤義久

私はとにかく創り続ける事が、自分の仕事だと思っています。やはり音楽も芽吹いて行かないと、世の中と共に在り続ける事は出来ません。私はの仕事は見事に琵琶を弾く事ではないなとやればやる程に感じます。作品を創り、それを聴いて頂く、それが私の仕事です。
そして創る為には視野も感性も柔軟でいなければ質の高いものは出来ません。私の音楽の土台となる古典やその他様々な音楽・芸術への視線も更に深めて、過去の経験や知識に寄りかかる事の無いように心がけてます。現代はリリースすればそのまま世界発売な訳ですから、大声出してコブシを回しても、そんなものは世界の人にしてみれば単なる形としか認識してくれません。閉じられたドメスティックな感性、メンタルを開放して行かないと、琵琶の音は世界に響きません。

人は音楽からエネルギーを感じているのです。技芸を聴いているのではありません。明確に伝えたいものが自分の中にあってはじめて技芸にエネルギーが満ちて来ます。琵琶の音で伝えたい世界は何なのか。そしてそれは何故自分が伝えたいのか。そこを先ずクリアにして、そしてそれを具現化することが出来て、初めて世界中に溢れる音楽と同じ土俵に上がれるのです。そこまで持って行かない限り、世界の人に琵琶樂の魅力を伝える事が出来ません。意識をどのように持ち、どこに視点を向けるか、そこが一番大切ではないでしょうか。私は「世界の中の私」という感覚が、今後もっと必要になってくると考えてています。

善福寺緑地

こういう創作活動をこれまで続けて来れたのは、とにもかくにも「お陰様」というしかないですが、季節の風情を感じ様々な植物の躍動を観る事が私の中では、とても重要な事だと思えるようになりました。それは心の中の余裕が出来たとも言えるし、感性が開いて色んな所に視野が向いて来たとも言えるかもしれません。

皇居


特に梅の花は、まだ肌寒い頃に咲き、私たちの心に温かさと潤いを感じさせてくれます。桜の華やかさに比べれば地味な存在かもしれませんが、その佇まいにはケレンが無く、ただ密やかに咲く姿は、私の一つの理想です。人間は皆どこかに、評価されたい、良く見せたい、良く思われたいという俗な心が少なからずあります。それがあるからこそ人間は向上心が湧き上がり、文明を築き上げてきたのでしょう。私自身も自分の音楽を聴いてもらいたいし、気に入ってもらいたいし、評価も欲しい。決して悪い事だとは思っていませんが、そういう感性は時に肥大し、いつしか欲に振り回され、振り回されている事にも気づくことなく人生を過ごしてしまいます。こういう姿は、何も求めずただ静かに咲く梅花の無垢な風情には程遠い。
だからこそ毎年春の初めに梅花を愛で、自らの心に溜まった澱を祓い浄化させているのかもしれません。

梅花を愛で、春の陽を感じ、また魅力ある音楽を創って行きたいですね。

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