芸と技

今年は花粉症の症状もあまり出なくて割と快適です。仕事の方は暇と言えば確かに暇なのですが、演奏会も適度な感じに入っているという状況なので調子はまずまずです。空いている時間に、あれこれと新作の事を考えたり、旧作に手を入れたりしています。また今年もレクチャーの機会を色々と頂いているので、それのレジュメを書いたりしてます。

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SOON KImさんと 琵琶樂人倶楽部にて Photo 新藤義久


私はベテランの方を組むことが多いのですが、現役で活躍しているベテランの方はさすがに色んな場面を通り越してきているので「こなれている」方が多いですね。多くの経験と並外れた技を持っているのは勿論ですが、独自の世界をしっかりと持っていて、その知識や技をどう使うかを熟知しておられます。そんな先輩方々と御一緒する度に、本当に多くの事を勉強させてもらっているのですが、技というものがどれだけ大切で、また上っ面の技がどれだけ危ういかというのを、いつも感じます。

人間は古より自分を拡張したいという願望を持つ生き物なのです。早く走る為に馬を乗りこなしたり、車を発明したり、遠い敵をやっつける為に弓矢やピストルを発明しその技術を磨き、物を創るために道具を創り、そうして文明を築いてきました。そういう自己拡張の技術を持つと、どうしても使いたくなるのが人間というもので、後先など考えず、先ずどういうものか試して使ってみたくなる。スポーツカーで暴走したくなるのも、科学者が原爆の威力を試したくなるのも同じ事。崇高なヴィジョンなど後から付け加えられた体裁でしかありません。自己拡張の欲望に振り回され、愚かな事を人有史以来繰り返してやって来ているのが人間であり、それは未だに続いているのです。

これは個人の中でも多々ある訳で、こと音楽に限って言えば、人より秀でたものがあれば音楽よりもその技を聴かせたくなって、大声でコブシ回して、複雑な和音を使って、超絶早弾きなんて事をやりたがる。自己顕示欲は誰しも子供の頃から持っているものですが、それをそのまま舞台で振り回しているのは、あまりに幼稚な感性ですね。私にはロレックスやアルマーニで着飾って、自慢しているバブル時代の兄ちゃんと同じように見えます。肩書の看板を常にぶら下げているのも同じ事。厚化粧のように飾り立てたものは観たくないのです。その人そのものから立ち現れる音楽・世界を私は観て、聴きたいです。

キャリアを重ねる程に問われるのは音楽であり、音楽家としての器です。どんな音楽を創造してくれるのか、リスナーはそれを期待しているのではないでしょうか。かつて3大ギタリストなんて呼ばれたベック・クラプトン・ペイジは皆良い曲を創る一流の作曲家でもありましたね。特に個人的にはジミー・ペイジの作品は今で聴いても褪せる事の無い素晴らしい曲だと思います。
技というものは常に乗り越えられて行くものです。その内空を飛ぶ乗用車も登場するかもしれません。エドワード・ヴァン・ヘイレンがデビューした時に、これ以上のギターの技はもう無いだろうと、当時感じましたが、今やエレクトリックギターの技はとんでもない領域に来ています。

もう人間業ではないですね。今後どうなって行くのでしょう?。技に任せてガツガツやるのも、若さとして一つの勢いになるかと思いますが、そこで止まっていたら音楽家・演奏家としての評価も付かないし、かつて凄いと言われた技もどんどんと次の世代に追い抜かれて単なる懐メロになってしまいます。ファンとしてはお気に入りのアーティストがベテランになって、どんな境地でその人独自の音楽を聴かせてくれるかを期待しているのではないでしょうか。
私は技が見えるうちはまだまだと、よく自戒を込めて書いていますが、技の先にある世界を聴かせることが出来て、初めて技に存在理由が出てくると思っています。そんな音楽を創るのが音楽家の仕事であって、技を披露するのは音楽家の仕事ではない。私はそう思いますね。

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Photo 新藤義久

逆に世の中にはそんな技巧を拒否して、想い入れを看板にしている人も多いですが、それも結局音楽に魅力がないと、ただのポーズのようにしか見えません。魂だ血だなどと激しい思い入れは判るのですが、入魂なんて言いながら神妙な顔をしてブルースやフラメンコをやっている日本人には、私は理解が及びません。日本ならではの新たなブルースやフラメンコを創り上げるという創造的なアプローチには大いに共感しますが、そういう人もまたほとんど見当たらないですね。物真似で終わっていては意味がありません。土方巽のような、新たなジャンルを創り上げる人物は久しくお目にかかったことがありませんね。

土方巽

土方巽

今、芸というと芸術の方が格上のようにも思われますが、芸術という言葉は明治に作られた新しい言葉です。日本はもう1000年以上も前から和歌を通して創造的世界を描いてきました。芸は決して技というだけで終わるものではないと思います。世阿弥や芭蕉、利休らが創造した世界の何と深く大きく深遠な事か。皆さんにもお分かりかと思います。そういう先達の築いて来た豊穣なまでの歴史の中で、お稽古事を垂れ流しているようでは、とても音楽家とは名乗れませんし、人前で演奏するのは、日本文化を創り上げた先人達に対する冒涜とも言えるのではないかと私は常に感じています。

私は私独自の音楽を創り、その世界を表現して行きたいですね。それがどう評価されるかは判りません。しかしやらずにはいられない。そんな気持ちでここまでやって来ました。少しづつ少しづつ自分らしい世界が出来上がりつつあります。それは琵琶を手放すまでずっと続く事でしょう。

ワクワクしてしまうような芸を舞台で観て、そこに立ち現れる魅力に溢れる世界を感じたいですね。

次代を担う奏者達2023

今月の琵琶樂人倶楽部は、恒例の「次代を担う奏者達」を開催します。毎回少しづつ出演者も変わり、今年は、昨年も出てくれた古田佐知子さん、鈴木晨平君の他、欣侘東生さん、中山誠也君の二人が加わり演奏します。中山君はまだ始めたばかりなので今回は祇園精舎のみですが、他の三人はオリジナル曲での挑戦です。

このシリーズは、これまでにも色んな方に出て頂いたのですが、皆さんが揃ってオリジナルというのも初めてです。
琵琶は流派に入らないと弾く事が出来ない、と思っている人も多いですが、そんなことは一切ありません。よくこのブログに登場する尼理愛子さんはヤフオクで琵琶を落札して、全くの独学で毎月オリジナル曲でライブ活動をやっていますし、かく言う私も独学のようなものです。最初に少しばかり習ってみましたが、流派の曲はどうにも好きになれなったので、未だに流派のフレーズはろくに弾けないし、今迄大ホールだろうがライブハウスだろうが海外公演だろうが、琵琶の活動を始めた最初から流派の曲を弾いたことは一度もありません。オムニバスを入れると11枚となるアルバムも全て自作曲を収録し、全てオリジナル作品を演奏する活動をもう25年ほどやってます。弾き語り曲も、壇ノ浦や敦盛等、自分が演奏する曲は歌詞も節もフレーズも全部オリジナルを弾いています。
琵琶はやっている人も少なく特殊な感じがするので、何だか流派に入らないとダメなんじゃないかという感じが強いかもしれませんが、何をどう弾いたって良いのですから好きにやればよいのです。ギターだったら遊んでいる内に、Youtubeなんか見ていて弾けるようになってしまう人の方が多んじゃないでしょうか。往年の名ジャズギタリストやロックギタリストが、誰かに習ったなんて話は聞いたことがありません。何かに所属して、流派の先生に習わないとだめという凝り固まったメンタルこそが、邦楽衰退の元凶かもしれません。

教室でお稽古した曲を、そのまま自分のレパートリーなんて言っているのでは、世の中から見れば「お稽古事」言われても仕方ありません。少なくとも作品を創り出して行くアーティストではないですね。何百年も受け継がれて来た曲~例えば「啄木」のような曲だったら、様々な時代の感性や波の中で洗練され、深い味わいと価値を持って今に伝えられていると思いますが、100年にも満たない、それも軍国主義時代の価値観の曲をわざわざ今やりたがるという事は、その演奏家がそういう思考を持っていると判断されても致し方ありません。

箱根岡田美術館 中庭の巨大な風神雷神図の前にて


もっと心を開放して自由な発想で、本当に自分の表現したい事をどんどんやって欲しいですね。平家の弾き語りをやるのだったら、何故それを自分がやるのかという根拠と哲学、独自の音楽観をしっかりと自分の内に持って、流派のコピーではなく、自分のやり方で、確固とした自覚を持ってやって欲しいものです。
「こういうものだ」「これをしちゃいけない」「きちんとしなくちゃ」なんていう旧世代が押し付ける幻想と偏狭な感覚に洗脳されるのはもう終わりにしませんか。何となく周りを見て皆と一緒で、なんていう平和ボケした村人感覚ももうそろそろ卒業しないと。今はネット配信で作品が瞬時に世界に流れて行く時代です。私の作品も海外の方が買って聴いてくれているのです。活動のやり方も、センスも基本も、もう日本という枠で考えている時代ではありません。流動するが如くに変化し続けているのです。世界を見れば、まもなくドル建ても終焉するでしょうし、G7よりもBRICSの方が経済活動が大きくなっています。そういう中で日本音楽を発信して行こうとするのだったら、頭をいい加減切り替えないと!!。
音楽は時代と共に在ってこそ音楽。せっかく琵琶という他には無い、妙なる響きのを奏でる楽器を手にしたのだから、何物にも囚われず自由に自分の音楽を、私は表現して行きたいのです。

鈴木晨平     古田佐知子     欣侘東生

4月12日(水)
場所:ビオロン(JR阿佐ヶ谷北口徒歩5分)
時間:19時00分開演
料金:1000円(コーヒー付き)
出演:塩高和之(琵琶・司会)古田佐知子 鈴木晨平 欣侘東生 中山誠也(以上琵琶)
演目:祇園精舎 旅宿の花 琵琶行 うすらい 鵺 あゆの風 他

お待ちしています。

超えて行くもの

桜もこの辺ではもう見納めですね。短い間でしたが、今年も楽しませてもらいました。

名残りの桜

先日、今話題のヴァイオリニストのパトリシア・コパチンスカヤを聴いてきました。実はコロナ前にも一度聴きに行ったことがあったのですが、その時はちょっと面白いという程度の印象だったのですが、今回はおもしろいを越えて物凄いという印象でした。
ここ4・5年程、コパチンスカヤをはじめ、テオドール・クルレンティスやバーバラ・ハニンガムなど、凡そこれまでのクラシック演奏家とはタイプの違う人達が活躍し出していて、なかなかクラシック界も面白くなってきたなと思っていました。先日の演奏会のリハーサル風景が公開されていますので、是非観てください。これを見るだけでもかなりいってますね。

以前はヴァイオリンと言えばギドンクレーメルや、アンネ・ゾフィー・ムター、次の世代だったらヒラリー・ハーン等、正統クラシックというイメージが強く、とてもコパチンスカヤの様な人が表舞台に出てくるような雰囲気はありませんでした。しかしこういう人が世に認められて評価されてきているというのは、懐が深いというか、凄い事だなと思って眺めていました。

そんな想いを持って聴きに行ったのですが、私のちっぽけな想いなど完全に吹き飛んでしまう様な衝撃的なライブでした。表現がかなり個性的なのも判っていたし、実力も勿論解っていたつもりでしたが、そんな所ではなく、もう根本からして違うのです。圧倒的なエネルギーと音楽に対する姿勢を見せつけられました。もうジミヘンやヴァン・ヘイレンレベルです。

30代に組んでいたグループ Orientaleyes

私は琵琶を手にした最初から、好きな事を好きなようにやっていて、やるからには徹底的にやろうと思って日々活動しています。邦楽や雅楽の世界でも流派や協会を越えて活動をしている人は、当時もそれなりに居て、現代作曲家の作品を演奏したり、グループを組んで新作を中心にやっていいました。頑張っている人は居たのですが、オリジナルのスタイルを持ってやっている人は本当に少なかったですね。皆さんお上手で、珍しい曲や難しい現代曲に挑戦するという所までは良いのですが、音楽そのものが強烈な個性やエネルギーを発している方は皆無でした。それに皆さん判で押したように優等生的な雰囲気を纏っていて、そのアカデミックに寄りかかった姿は私には馴染めませんでした。鶴田錦史や高橋竹山のような独行道を歩み、圧倒的に他を越えて行くような人は未だ見た事はありません。

キッドアイラックアートホールにて 灰野敬二 田中黎山各氏と
私は作曲家の新作初演については、もうほとんどやる機会が無く、年に一度あるかどうかという位です。私は自分で演奏する曲は全て自分で作るのがごく普通の事ですし、もし他の人の曲をやるとしたら私なりの解釈とアレンジをしてやりますね。また一緒に演奏するメンバーも、私の曲に共感を持って演奏してくれる人を厳選しています。とにかく自分の音楽を創りそして演奏する事をしないと、どうにも気が済みませんね。
演奏家の中には、有名作曲家の曲を演奏する事が、まるでステイタスのようにやりたがる人も多いですが、私はどんな場所でも私の音楽をやりたいですね。人それぞれで良いと思うし、やり方は様々だと思います。しかしそこにその人の音楽が聴こえて来ないと、魅力を感じません。いつも書いていますが、何故自分がその曲を演奏するのか、という所が見えない演奏家があまりに多いのです。残念ですが、そういうものにはお稽古事以上のものは感じません。お上手しか見えて来ない上に、どうだ!とばかりの低レベルな自己顕示欲満載の演奏は正直不快です。

photo 新藤義久

私は若き日に初めて琵琶を手にして「これで俺の表現したい世界が具現化するぞ」と意気込んでやって来ました。元々古典文学などには親しんでいたので、すんなりと琵琶に転向したのですが、残念ながら音楽という部分に於いて、古典琵琶樂が、現代に命あるものとして鳴り響いているとは思えませんでした。むしろ邦楽よりも雅楽などは面白いと思いましたし、芝祐靖先生の創造的な活動にも注目していて、特に復曲ものなどは大変参考にさせていただきました。結局私が注目したのは琵琶樂ではなく、芝先生の活動や能の世界感、そしてその根底にある和歌の広大な世界でした。現代邦楽というものも色々ありましたが、それは私がやる音楽とはとても思えませんでした。
古典音楽に○○界などのような枠というものがあるのだとしたら、私は最初から枠外の人です。まあ芭蕉とまではいきませんが、既存の枠の中に居ても自分の活動は成り立たなかったでしょう。普通は枠の中から飛び出して自由を獲得するものですが、私は最初から枠の外に居ましたので、元々あまり窮屈な感じは持っていませんでした。

もう20年以上前にリリースした1stアルバム「Orientaleyes」からそうでしたが、これはあくまで私の作品集であり邦楽ではないですね。当時は私なりに現代日本音楽を表現したつもりでしたが、ジャズ誌でも取り上げられる位でしたから、プログレやフリージャズに近いと思います。しかしながらこのアルバムが私の音楽を決定付けたのです。

逆にその後のアルバム以降、弾き語りもやるようになって、私から従来の琵琶樂に少しばかりに寄ってみたり、樂琵琶で古典雅楽をやってみたり、シルクロードイメージの曲を創ったりして、古典に対するスタンスも出来上がってきました。それらが今につながっています。現在はまた元に戻ってきて、既存の琵琶樂や雅楽などの形からどんどんと離れて行ってます。寄って行った時も、また離れつつある今も、それが自然の流れだと感じているので、その流れに従っています。

今回再度コパチンスカヤを聴いて感じたのは、「これだけの事をやるには圧倒的な位のエネルギーとレベルがなくては、伝える事は出来ない」という事。私はこれまでもそう思ってやって来ましたが、改めて深く深く実感しました。考えるまでもなく私が良いなと思う音楽家は皆圧倒的なものを持っていますし、その人なりの世界がしっかりと感じられます。そういう事を改めて感じさせてくれました。現状の中に鎮座しているようでは優等生のレベルをいつまで経っても越えられません。私も超えて行く存在になりたいですね。久しぶりにあの沸騰するような高揚感を味わいました。

糸の話Ⅱ

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神田川沿い

週末は桜雨でしたね。残念でしたが、リハーサルついでに東中野の神田川沿いをちょっと歩きました。雨のせいで人はほとんどおらず、しかし桜は満開に近い感じで咲いていました。

よく琵琶の絃はどんなものを使っているのか聞かれます。残念ながら琵琶絃はもう生産しているメーカーが丸三ハシモトしかないので、ギター絃のように色んなメーカーのものを選ぶという事が出来ませんが、以前は浅草の仲見世通りに「ひょうたんや」という三味線の撥などを扱う店があって、そこでも琵琶絃を売っていました。職人に作らせているとのことでしたが、もう随分前に琵琶絃は無くなってしまいましたね。鶴田錦史氏は、ここでよく3の糸など買っていたそうです。私も以前は少し買ってみたのですが、細い絃が切れやすかったのと、音色も丸い柔らか系だったので私には合わず、ほどなく使わなくなってしまいました。

絃

これは今私が中型琵琶で使っている丸三ハシモトの絃です。邦楽人は糸と言いますね。これも何だか風情があっていい感じです。
第一絃は45番、第二絃が1ノ太目、第3絃が2ノ太目、第4・5絃が20番です。大型琵琶には第二絃にもう少し太い35番を張っています。私が使っていた長い尺の絃はもう生産していませんので、一番細い絃はせっかくダブルサイズで二本分取れるのに、私の琵琶では1本分しか取れず、コストが倍になってしまいました。琵琶人口が減ると、絃の供給も無くなってしまうんじゃないかと心配してます。

絃は太ければ音量は確実に上がりますが、セッティングをしっかりしないと、発音の振幅から戻ろうとする力が強いのでサスティーン(音伸び)は少なくなりがちです。私のような極太の絃を使うのなら、サワリの調整はかなり気を遣わないと、伸びのある良い音はしませんね。私は触っただけでサワリが鳴り出す位繊細に設定してあります。またチューニングも45番などの太い絃を張るのなら、Dが限界ですね。Eでは音色にもう無理が出て来ます。
太い絃はとにかく張りが強いので、力強い音も出るのですが、強烈な一音が欲しい方や、器楽の演奏には向くものの、歌の伴奏で弾きたいや、リズムカッティングのように軽やかに弾きたい方には向きません。
先ずはどんな音楽をやりたいのか、そしてその為にどんな音色を出したいのか、という前提が無ければ、音量を稼ごうとしてただ絃を太くしても扱いずらいだけです。私は時々大型琵琶でも弾き語りもやりますが、この琵琶の響きで語れるように曲を創っていますし、かなり声量にも自信のある人でないと声が負けてしまいます。

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六本木ストライプハウスにて photo 新藤義久 


上記の写真は大型琵琶を演奏しているものです。私は身長が170ちょっとありますので、それを考えると琵琶の大きさが解るかと思います。標準サイズよりかなり大きく、重いです。軽く持てるような代物ではありません。この楽器の大きさがあってこそ極太の絃が張れるのです。標準サイズに張るのはネックが張力に耐えられないし、お勧めしません。

サワリの話は別にして、絃を鳴らすには太い細い関係無く、右手のタッチがとても大事です。ヒットする時に素早く絃から撥を離さないとまともに鳴ってくれません。絃を押さえつけて圧力をかけると、引っ張っているのと同じ状態なので、チューニングが狂いやすいだけでなく、振幅にも無理が生じるので、自然な振幅にならず戻ろうとする力が強くなり、サスティーンも少なくなってしまいます。力で弾くと手元ではアタックのある力強い音がするかと思いますが、音というのは末広がりに響いて行く性質ですので、手元で大きな音がしても、原音がつぶれていては10M先に行った時に芯の無いぼやけた音になってしまいます。弦楽器はすべて原理が同じですが、手首を柔らかく使い、どれだけ絃に負担をかけずに弾く事が出来るか。ここがポイントですね。

撥

表現の為には右手のタッチはとてもとても大事なのですが、琵琶ではあまりそういう教育はしませんね。これは器楽が発展していないという事なんですが、これからは更なる研究が必要だと思います。
表現をするためには太い絃でもPPを出せるようにならないと、とても使いこなせません。どんな楽器でも同じですが、PP程難しいのです。バンバン大きな音で鳴らすのは少し慣れれば誰にでも出来ます。慣れてくるとPPも出せるようになれます。しかしその両極端しか出来ない人が結構います。大事なのは基本としてメゾピアノやメゾフォルテが安定して出せる事。そしてその基本から上下に自由にタッチをコントロールできることが、どんな弦楽器でも必須の技術です。

そして太い絃は撥の角度を変えると色んな鳴り方に対応してくれます。基本音量が大きいからだと思いますが、右手のタッチにしっかり反応してれるのは嬉しいです。こうした細かなテクニックは、是非ライブで、目の前で見てください。

絃間大型琵琶の絃と柱の間
太い絃はその振れ幅も大きくなるので、それに伴って左写真のように柱と絃の間をかなり広く取って、更に他の柱とのバランスの調整もしないと、絃振幅が柱に当たって、音が皆潰れてしまいます。
絃を変えるという事は、サワリ、右手のタッチ、左手の握り方やタッチ、柱の高さ、そして何よりも音楽性迄、あらゆる所に影響して行きます。自分の求める良い音を出したければ全体を徹底しないと、かえってバランスの悪い音しか出て来ません。すべてのパーツとセッティングのバランスが取れてこそ威力を発揮します。

私は基本的に弾き語り曲は演奏レパートリーのごくごく一部でしかないので、私の琵琶は全て器楽用にセッティングされています。ほんのたまに壇ノ浦などの弾き語りをやる機会があるのですが、そういう時も全体のプログラムは器楽曲がメインで、1曲のみ弾き語りという事がほとんどですので、大型琵琶の響きで語れるように曲を創ってあります。そしてそれが逆にオリジナルなスタイルにもなっています。まあ流派の弾き語り曲しかやらない人は、こういう話は関係がないですね。

絃の選択は、サワリの調整と共に演奏者の命なので、声と同じレベルで人それぞれに研究して行かないと、自分のサウンドは出せません。それは一人一人顔や声が違うのと同じ事で、演奏に於いて独自のサウンドが感じられないという事はまだまだプロとしては半人前という事です。

大中小
左:大型 中:中型 右:標準サイズ

私は初心の頃、毎月琵琶樂協会や各流派の演奏会に行って、演奏している人を観察していました。一人一人弾き方の特徴や音色の特徴など結構詳しく分析してノートに書き込んでいました。良い勉強になりましたね。琵琶はまだ充分には弾けませんでしたが、明らかに石田琵琶店で直前にサワリの調整をやってもらったんだろうな、という人が多かったですね。その人独自の音色になっていないし、普段から調整してないのは聴く人が聴けばバレバレです。一応私はギタリストの端くれでしたので、絃と楽器の状態はすぐ見てとれます。だから自分のオリジナルモデルを創る時に、そういったことを踏まえ、かなり細々と注文を付けてスペシャルなものを創ってもらったのです。

琵琶の演奏会に行って一番気になっていたのは、皆さん基本がフォルテになってしまっているという事。上記したように、これではより大きな音までワンポイントしか幅がないので、ダイナミックスが少なく、大声をずっと出しているような一本調子な演奏になってしまいます。ずっとフォルテ状態では、勢いだけで品の無い猪突猛進型の演奏に陥ります。薩摩琵琶を弾く男性にはそのタイプがやたら多いですね。やはり弦楽器は7色の音色が出せなくては。もう随分前ですが東京文化会館で聴いた世界的ギタリスト ジュリアン・ブリュームは、正に七色の音色で魅了してくれました。その音色は今でも記憶に残っています。

細い絃も勿論ですが、太い絃を自在に操るのはなかなか難しいです。テクニックがあれば良い音楽が創れるとは限りませんが、自分の求めるサウンドを出せない人に良い音楽を創る事は出来ません。今はネット配信でリリースしたらそのまま世界発売状態になる時代です。気持ちさえあれば、気合を入れれば、なんて視野の狭い甘えた村意識では、音楽をリスナーに届ける事は出来ないのです。

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若き日 ウズベキスタンの首都タシケントのイルホム劇場にて
アルチョムキム指揮オムニバスアンサンブルとメンバーと拙作「まろばし」演奏中


どんな絃を選ぶか、どんなサワリのセッティングにするのかで、見える景色は随分と変わるものです。そして何よりも頭の中を変えられない人は、絃を変えても弾きずらいだけです。自分の音楽は何なのか、何を表現したいのか、何故それを表現したいのか、流派やこれまでの常識やルールに囚われていて、「自分の音楽」と「お稽古して得意なもの」の区別がつかないような意識では見えるものも見えません。自分は二人居ないのです。是非自分だけの独自のサウンドと音楽を創って行って下さい。

いよいよ始まる

もう春本番という感じですね。周りも桜がかなり咲いてきて華やいで、街にも活気が出て来ました。

6神田川1

花粉症の方は、まあ何とかやり過ごしているという感じですが、音楽活動は少しづつ展開し出して来てました。今月は定例の琵琶樂人倶楽部がお店の都合で中止だったのですが、4月からはまたいつも通りに戻り、4月はこれから活躍するだろう人達を紹介する会をやります。皆さんオリジナル曲で挑戦します。乞うご期待。こちらはまた改めて書きます。
琵琶樂人倶楽部 : 2023年4月12日(水)第183回「次代を担う奏者達」 (blog.jp)

作曲の方も、先ずは創りかけのようになっていた独奏曲が完成したので、これから事あるごとに舞台にかけて行こうと思っています。「風の宴」のライバルになるような作品に育って行くんじゃないかと期待しています。他に笛とのデュオ作品も一応出来上がったので、これもどんどん舞台にかけてレパートリーにしていこうと思っています。もう一曲構想があるのですが、これが出来上がったアルバムのレコーディングしたいと思ってます。

2浜田山1

春になると気分もポジティブになって、心が動き出す感じが良いですね。心に喜びが溢れているようになると全身が生き生きしてきます。時々「琵琶奏者として活動して行くのには色々と御苦労があるかと思います」と言われるのですが、私は日々楽しんでいるといった方が強く、苦労と感じたことはほとんどありません。勿論世の波騒は尽きる事が無く、難しい問題もありますし、上手くいかない事もありますが、音楽活動が苦しみや闘いになっていたんじゃ、素敵な曲は創れませんし、日々楽しんでるからこそ、これまで何十年も続けていられるのです。
私はどんな演奏会でも全て自分で作った曲しか弾かないので、やりたくない曲を演奏するという事はほとんど無いですし、自分に合わない仕事は丁重にお断りしてます。これは琵琶で活動を始めた最初からもう30年近く全く変わっていません。エンタメ系の仕事は私には出来ませんからね。私にそういう分はありません。自分がやりたいものをやる為に琵琶を弾いているので、好きなものを好きなようにやって、こうして暮らしていれば、音楽から喜び以外の言葉は出て来ないですね。

2photo 新藤義久
音楽をやっていると、売れる事や有名になる事、偉くなる事や抜きん出て上手になる事が、音楽の悦びより優先している人をよく見かけますが、そうやっていつも他人との比較の中で生きていてはさぞかし苦しいでしょうね。そういう部分も若い頃には頑張りの一つで必要かと思いますが、いい年をしてそんなレベルに囚われているようでは、ろくな音楽は創れませんし、良い仕事も出来ません。何事も携わる人がどんな意識を持っているかで、全く違うものになってしまうのはいつの世も同じです。

論語の中に「子貢曰く、貧にしてへつらうことなく、富みて驕ることなくんばいかんと」というくだりがありますが、孔子も「可なり、未だ貧にして楽しみ、富みて礼を好む者に若かざりと」と言っております。訳すと孔子は「まあいいだろう、ただ、貧しくて道を楽しみ、お金持ちになっても礼を好む者にはかなわないんじゃないか」と答えています。つまり「~~してはならない、○○するべきだ」等と禁止や否定の心がある内は大した事ないという訳です。自分がありのままの自分で在り続け、楽しんでいる状態の方が良いという事。そこには喜びがあり、そこから音楽も生まれて行く。他軸で自分を測り、比べて、更に争っていても、心には静寂も平安も訪れないのです。

大体私は人が争っているのを見るのがいやなので、ゲームもやりませんしスポーツも見ません。現代では珍しいタイプかと思いますが、何も人に合わせる必要はないし、皆横並びでないと不安で未だマスクも外せないような現代日本人気質は、けっして良いと思っていませんので、私はいつも自分軸で、自分の思う所を生きるようにしています。だから音楽に於いて、他との比較の中で「争う」などという事は正に愚の骨頂としか感じられないのです。

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photo 新藤義久


どんな形で音楽と関わるかは人それぞれです。確かにどんな職業でも生業としているかどうかは大事な所です。生業としているプロでないと見えない世界も確かにあります。しかし自分に合うレイヤーを行き来して、好きな選択をする事が出来る時代でもありますので、自分が自分で居られるところを自ら求めて行けば良いのではないでしょうか。一番大切なのは、そこに喜びがあるかどうかだと私は思います。孔子の言葉通り、いくら高収入があっても、幸せをお金では測れませんし、心に禁止や強制が残っているようでは、そこに喜びは生まれ得ません。舞台で琵琶を奏でているあの喜びは、自分の心の中にしかないのです。どんな状況であれ喜びを持って生きているのが一番の成功だと私は思っています。

私は有り難い事に琵琶を生業として、これ迄生かさせてもらいました。ある意味奇跡だと思っています。だから音楽に否定や強制など持ちこみたくないし、他軸を気にして、人と自分を比較するような事は考えられません。そんな風に生きていたら、日々楽しくないですからね。

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さあ、いよいよ春本番。琵琶の音が響き渡りますよ。

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