ちょっとご無沙汰しておりました。急に寒くなりましたね。秋らしくはなりましたが、もうすぐ年末と思うと何だか妙な気分です。
photo 新藤義久
先日の第190回琵琶樂人倶楽部17年目突入回は、賑々しく終える事が出来ました。今回は私のメインにしている前衛的な器楽曲のみでやらせて頂きました。一般的な渋い琵琶の古風なイメージを持ってやって来たお客様には厳しい内容だったと思いますが、琵琶を手にした最初から「媚びない、群れない、寄りかからない」が私のモットーなので、今後もブレずに自分の思う所をやって行こうと思っています。
終演後は盛んに「これは実に塩高らしい音楽だ」「これはプログレだ、基本はクリムゾンだよね」「いやいやリズミックな展開がツェッペリンに通じるよ」「琵琶の音楽を越えたね」等々、色んなお客様から様々な有難い感想を頂きました。最初からお稽古事に対し距離を取って活動をしていた私としては、正にしてやったり!!。
Msの保多由子先生 Vnの田澤明子先生 photo 新藤義久
今回はヴァイオリンの田澤明子先生、メゾソプラノの保多由子先生という、現在考えうる洋楽系最強の布陣でしたので、本当に素晴らしい演奏と楽曲を聴いて頂く事が出来ました。ヴァイオリンの田澤先生とは2018年リリースのアルバム「沙羅双樹Ⅲ」に収録された「二つの月」を弾いて頂いてから数々の舞台で共演させてもらってきて、コンビネーションもばっちりです。いまや笛の大浦典子さん同様、私の作品を演奏するにはかけがえのないパートナーとも言える演奏家です。私は共演者の演奏を頭に描きながら曲を書くので、相方の技術だけでなくアプローチの仕方や性格、姿、人間性全てが曲には必要なのです。だから代わりはありえない。曲がもう何度も再演され、新たな展開として別のプレイヤーによって演奏されるのは素晴らしい事ですが、曲が生み出される瞬間には、その人でないと成立しないのです。
今回は、今私が考えている音楽を表現するのにふさわしいトップクラスのお二人が演奏してくれたことが、何よりの幸せでした。「二つの月」は田澤先生でなければ成立しないし「Voices」は保多先生でなければ成立しない。トリオで演奏する「Voices」に今回新たに田澤先生が加わったことで、この曲は一つの頂点を迎えたと思っています。
今回は他にヴァイオリンと樂琵琶による小品「凍れる月~第二章」を初演しましたが、なかなかいい感じに出来ましたので、これをさらに仕上げたいと思っています。あとは能管と薩摩琵琶の緊張感ある静かな作品と、歌と薩摩琵琶のデュオで現代詩による重厚な作品も考えています。毎度同じことを書いていますが、もう一歩先に行きたいのです。表現の世界に完成はありえませんが、ここ5年程で自分の作品が充実して来て、自分の表現する世界が明確になって来ている実感があります。この世界をもっと明確な作品群として遺したい。今はそんな想いが湧き上がっています。
今回は16周年、190回目の開催にこんなメンバーで臨むことが出来、本当に幸せな時間を感じる事が出来ました。来年の200回記念の会にもこのメンバーで臨みます。
左:(尺八)グンナル・リンデルさん 右:(笛)大浦典子さん
私はこれまで素晴らしい音楽家たちに恵まれました。最初期には笛の大浦さんとのコンビの他、尺八のグンナル・リンデルさんとも「パンタレイ」というコンビ名で盛んにライブをやっていました。本当に有難い事だと今は感じています。活動を始めた頃にグンナルさん、大浦さんというパートナーがいなければ曲は創れなかっただろうし、演奏活動もままならなかったと思います。
ライブ活動を始めた頃 邦楽ライブハウス和音にてもう25年程琵琶で活動をしていますが、私は最初から流派の曲は一切やらずに、全て自分の作曲した作品を弾いて仕事をしてきました。国内は元より、海外公演にも声をかけて頂き、これまでアルバムも11枚リリース出来、ネット配信で海外にも届けられるようになって、何とかこうして琵琶を生業として生かさせてもらっている事は、実に幸せな時間を生きてきたという事だと思っています。人間生きていれば、生活の事や家族・友人・仕事関係等々心配事の種は尽きません。親の介護や自身の健康問題で音楽活動を断念した仲間も居ます。人生全てが順調などと言う人は誰もいないでしょう。そんな様々な事がありながらも、今もこうして琵琶奏者として生きていられる事に感謝しかないですね。年を追うごとに自分のスタイルにも充実を感じてきていますし、これからはもっともっと本来自分があるべき姿になって行って良い時期だと思っています。
以前は全国を飛び回っている事に満足していたような所もあったのですが、やはり一つづつ丁寧にやって行くのが良いと思うようになって来ました。「お仕事」ではなく納得できる活動をじっくりとやって、納得できる作品を遺して行く事が結局喜びにもつながります。確かにこれ迄の様々な仕事の経験は何物にも代えがたいものであり、総てが肥やしとなっていますが、もうそろそろ色んなものが整理され、身の回りの余計なものが剥がれ、すっきりして自分の本来あるべき所に立ち返ってくる時期だと思っています。
六本木ストライプハウスにて photo 新藤義久
他の人と比べれば、私の活動など大したことはないかもしれませんが、自分の思う音楽をやれているという事は、幸せな時間を過ごしているという事です。まあ音楽家はエンタテイメントのスターでもない限り経済的には世間並みという訳にはなかなかいかないので、世にいうウェルビーイングというものには程遠いですが、ただ「食べるための芸」ではなく、自分の思う所を少しづつでも実現している実感が私の悦びであり、幸せな時間を感じさせてくれるのです。
ゆっくりと自分のペースで、自分の思う所を今後もやって行きます。
私の住む杉並区では、この時期毎週のようにイベントをやってます。阿佐ヶ谷ジャズストリート(ジャズ)、高円寺フェス(ロックポップス)、荻窪音楽祭(クラシック)など、それぞれ特色のあるフェスが目白押しなのです。今年も阿佐ヶ谷ジャズストリートにちょっとだけ参加してきたのですが、楽しい時間でした。
阿佐谷は普段から人通りが多く、商店街はいつもにぎわっているのですが、この二日間はいつになく華やいで、ただ歩いているだけで自然と元気が出ますね。ジャズは邦楽と同じく、演奏する人も聴く人もどんどん減って行っているのですが、阿佐谷ジャズストリートは地元縁のピアニストの山下洋輔さんや海外で活躍されたベテランギタリストの増尾好秋さんなど、大御所級の方々も出演してなかなかのハイレベルの演奏が繰り広げられています。ストリートの方はポップス系の方たちが主で、あまりジャズはやっていないのですが、楽しいバンドが多く、色々と見て聴いて回っているのは結構楽しいのです。この二日間は浮世の憂さも忘れて気分は上々でした。こうした祭りで皆が楽しくなったり癒されたりして幸せになるのは良い事ですね。やはり人間にはエンタテイメントが必要なんだなと思います。
私は残念ながら凡そエンタテイメントを提供する側には向かない人なので、琵琶の演奏ではなかなかこういうイベントでの演奏はないですね。今回もちょっと隅っこの方でお手伝いをさせてもらった程度なのですが、まあ私の曲では笑ったり踊ったりは出来ないし、この仏頂面ではどうにもエンターティナーには成れませんな。
しかしこういう非日常を過ごす事は、日々のストレスを晴らしてくれるし、精神も肉体も整える事が出来るのだと思います。私ものんびり生きているようですが、知らない内にストレスは溜まりますし、時々こんな時間があるとリフレッシュできます。音楽家としても良い刺激を受けて、色々と気づく事も多いです。日本人はあまり普段はものを言わずに自分の内に溜め込んでしまうので、それで時々発散させるために各地に色んなお祭りがあるんでしょうね。
30代の頃やっていたグループ「Orientaleyes」
ターンテーブル、アナログシンセ、フルート&琵琶
この二日間の祭りで、私は色んな事を感じ考えました。古い友人も阿佐ヶ谷に駆けつけてくれましたし、ランチの時間には、蕎麦道心にて久しぶりに逢う音楽家達とゆっくり話をする時間もあって、良い時間を頂きました。ちょうど今月は月中で演奏会やらレクチャーなどの仕事が一段落着いていたので、追われている仕事も無く、しっかりリフレッシュ出来ました。
私はロックも好きなんですが、中学高校の時からずっとジャズを聴いているので、やはりジャズが一番しっくり来ます。古典文学や和歌には勉強するでもなく身近に親しんでいたので、ルーツは確かに日本文化だと思うものの、青春の思い出と言えばやはりジャズなんです。ジャズの大御所は故郷の静岡に結構公演に来てくれまして、数えきれないほど聴きに行きました。カウント・ベイシーやフレディー・グリーン、エルビンジョーンズなんかと握手したのを今でも思い出します。その他ソニーロリンズ、ミルト・ジャクソン、ジムホール、エド・ビッカート、バーニー・ケッセル、ハーブ・エリス、ジェームズブラッド・ウルマー、カルビン・ウエストン等々、そして東京に出て来てからはマイルス・デイビス、ジム・ホール、パット・メセニー、スティーブ・カーン、ケニー・バレル、ジョー・パス、オスカー・ピーターソン、リチャード・デイビス、ジョン・マクラフリン・・・。もう怒られそうなので止めておきます。皆20代の頃に強烈な印象と共に目の前でかじりつくように観て聴いてきました。
今、私が日本の音楽に対し冷静に自分なりの視点で接することが出来るのは、このジャズの体験があるからだと思っています。かのゲーテは「ひとつの外国語を知らざる者は、母国語を知らず」と言っています。つまり今邦楽衰退の一番の問題は他を知らないという点にあると思っています。他との比較が常に出来ていないと、結局自分の知っている事が正解だと思い込み、音楽全体の姿が見えて来ない。今はクリック一つで世界とつながる時代です。日本だけを見ていては邦楽も成り立ちません。世界の中の日本、琵琶、私という感性が持てないとオタク状態から抜け出せません。私の曲も配信で買ってくれるのは海外の方が圧倒的に多いです。こういう展開をしてこれたのも、演奏するすべての曲を自分で作曲していたからだと思いますし、またこれ迄25年程に渡って活動してこれたのも、日本人としての感性とジャズの知識や経験があるからだと確信しています。
この二日間ジャズフェスを聴いていて思ったのは、改めて私はエンターティナーではないという事と、そういう音楽活動を自らに求めているのではないという事。もう少し言うと、私はジャズでも邦楽でもかなり室内楽的な静かな空間で聴く音楽を創っているのです。決してリスナーをエンターティンする音楽を創っている訳ではないのです。どんな音楽にもエンタテイメント性はあるし、リスナーを乗せて楽しくなるのはとても気持ち良いですが、私のしたい事はそこではないのです。こういうジャズフェスで皆で盛り上がるのも音楽の大きな楽しみの一つだと思いますが、それは私の仕事ではないですね。私は若き日にジャズギターに夢中になってやっていましたが、ジャズギター自体がジャズの中では大変地味な存在で、サックスのように豪快にダイナミックスを表現できる楽器ではありません。そういうものに若い頃から親しんでいたせいなのか、琵琶でも大声張り上げて喜怒哀楽の感情や主義主張をまくしたてるように歌うスタイルには今でも馴染めません。じっくり琵琶の音を聴いてもらえるような音楽を創って行くのが私の仕事だと実感しています。
Photo 新藤義久
私はいつも頭の中で色んなタイプの曲の構想を練っています。しかし最後にはどうしても静寂感があって漂うようなもの、もっと言うと柔らかさと精緻なものが共存しているような世界観がその根底に出てきてしまいます。人間の作り出したルールによる秩序ではなく、自然が生命の誕生と共に宿していただろう人知を超えた調和が感じられないと、途端に窮屈に感じてしまいますので、ジャズもこねくり回した複雑な理論を追いかけている自分にふと疑問を感じ、もっとルーツに行きたいと思った結果琵琶に辿り着いたのです。
自分自身や自分を取り巻く環境を整える事は、私にとって音楽を生み出して行く事と同じなので、売る事や有名になる事を優先するショウビジネスのエンタテイメント音楽とはどうしても距離を置いてしまいます。つまり私の中でそれはいびつな形であって、それでは「整はない」のです。
楽器のメンテナンスの話もよく書きますが、それも整える事です。私が普段使っている琵琶は100年物から20年物まで色々ありますが、どれも素晴らしい音で鳴ってます。常にメンテナンスをしてゆっくりと付き合って行くと楽器と自分が調和してくるのです。5年もろくにもたないPCやスマホでネット配信して、こうしたブログなども使いながら活動をしている訳ですが、そんな先端の技術や物が無いと成り立たない現代の生活に今一つなじめないのも、私の性格なのでしょう。
SKY Trio+1 ASax:SOON・KIM FL:吉田一夫 B:うのしょうじ
この阿佐谷ジャズストリートは、改めて自分の音楽を見つめ直す良いきっかけて与えてくれました。年に一度位こういう時間があるのは嬉しいですね。
この所本当にさわやかな天気が続いていますね。
先週はそんな気持ちの良い中、第189回琵琶樂人倶楽部、東洋大学伝統文化講座、そして平塚にある八幡山洋館にて「秋風楽~琵琶と笛、朗読の会」をやって来ました。八幡山洋館は窓から見える庭も素敵な場所で、以前よく演奏した横浜のイギリス館をこじんまりとした雰囲気があり、会場の響きも抜群。勿論大浦さんとのコンビネーションもいつものようにばっちりで、充実した内容で演奏出来ました。
今回は毎度お世話になっている文藝サークル「カトレアの会」の主催で、第一部に児童文学作家のあまんきみこさん原作の「青葉の笛」を平塚のサークルの方お二人が朗読をして、第二部は笛と琵琶の演奏会という内容でした。あまんさんの作品を声で聴くのは初めてでしたので、お二人の朗読は私も楽しみにしていました。
ところが当日朗読する二人の指導をしている方が稽古をしている中で、あまんさんの原作に手を入れ始め、数十ヵ所にカットを入れ、しまいには義太夫節を付け加えたりと、もうやりたい放題に改作してしまっているという事が判り、さすがにこれは良くないという事で、僭越ながら意見をさせていただきました。しかも今回は原作者であるあまんさんに何の断りもなく勝手にやり出したというのですから、言葉が出ませんでした。最終的には舞台で朗読する二人に話をして、本番では原文のまま朗読して頂きました。本番での朗読はなかなか堂に入った朗読で、随所にお二人の工夫も感じられて良い朗読でした。
確かに読むための作品を声に出して朗読しようとすれば、カットしたくなる部分も出てくるでしょう。特に笛の大浦典子さんが音を添えてくれたので、言葉をカットして笛の音だけにしたくなるのも判ります。しかしながら、まるで作品をただの素材やネタのように扱い、自分がやりたいように蹂躙するが如く切り刻んでしてしまうという事は、当然の如くあってはなりません。それは作品に対する冒涜です。そこには作品や原作者に対する敬意も尊敬も感じられません。
笛の相方 大浦典子さんと(昨年の琵琶樂人倶楽部の時のもの) photo 新藤義久
今回は本番で朗読をする方が、指導者のあまりの勝手なやり方に、さすがに心配になってこちらに連絡して来て判った次第なのですが、あのままやっていたら著作権法違反にもなっただろうし、会場にはあまんさんのファンの方も来ていたそうですので、大問題になっていた事でしょう。現役で活動している作者に対し、作品を朗読させてもらうだけでも原作者に相談するのが筋というものでしょうし、ましてや手を入れるとしたら、台本を診てもらって、了解の上やるのが当たり前。芸術に携わる人間のやる事とは考えられませんね
音楽でも何でもちょっとばかし技術を得た人は、音楽をやるよりも己の技量を見せつける事に凝り固まってしまって、作品に対する敬意も芸術に対する謙虚さも忘れて餓鬼のようになってしまうものです。自分の技量を披露しやすいネタを選び、更に披露しやすいように勝手に改作するような事は、もう芸でも何でもありません。「です」を「でした」に変えるだけでも全く文章のリズムも印象も変わってしまうのに、作者が心血注いで紡ぎ出した言葉を勝手に変えるなんてことは冒涜と言われても仕方がないですね。やりたいようにしたければ自分で創れば良いのです。創り出すことがどれだけ大変なものか。そして紡ぎ出された言葉や音がどれだけ尊いか実感するでしょう。
古典でも現代作品でも作品として存在している尊さが解っていないからこういうことを平気でやって、その上入場料まで取って稼ごうなんて発想をしてしまうのです。それはもう舞台人のセンスではないですね。
誰しも初心の頃、作品に魅力を感じて、舞台に感激して自分でもやってみたいという想いが湧き上がった事と思います。そんな頃、作品にも舞台にも謙虚な心で向かって行っただろうし、自分がやらせてもらうのがとても嬉しく思ったのではないでしょうか。そんな初心の頃の純粋な気持ちを忘れ、自分のわずかばかりの技術を見せつけよう、という偏狭な心に陥ってしまうというのは、本当に残念です。もう一度我が身を振り返って、芸術に携わり、舞台に立って生きて来れた事に感謝を持ち、芸術に対して謙虚な心を取り戻して欲しいものです。
少し前のブログ記事に「宿」(宿神ともいう)のことを書きましたが、初心を忘れ、自己顕示欲だけを満たしていたら宿神は到底現れないと思うのは私だけではないでしょう。古典に親しんでいる者なら、古典芸能に宿神というものがいかに深くかかわっているか判る事と思います。舞台で「自分が、己が・・」なんて思っている時点で既に古典に携われるレベルではありません。古典ものでも現代ものでも、作品に最大の敬意を払い、自己を超越した世界にこの身を捧げてこそ、そこに生命が宿り、宿神は現れるものです。これはきっと洋楽でも同じだと思います。祈りから始まった音楽や踊りは、その原点に「おおいなるもの」への畏敬の念があり、己の技云々などのちっぽけな心は微塵も無かったはずです。自己顕示欲に取り付かれている心は全て音楽に現れてしまいますし、目つきにも歩き方にも姿全般に渡って見えてしまうものです。曲に我が身を捧げる位の気持ちが無くては古典には立ち向かえません。
箱根岡田美術館 尾形光琳作「菊花屏風図」前にて
私は著作権は人権と同じだと以前から主張しています。だから著作権が残っていようが残っていまいが、作品に対しリスペクトを持てないようでは舞台に立てないと思っています。アーティストが創り出し産み落とした作品を、勝手にもてあそび、感謝も何も無く商売の道具にして、商売のネタにするという事を、作品=人間に置き換えてみればどうでしょうか・・。芸術に携わる人はよくよく我が身を振り返り、考えて頂きたい。
何気なくやっている流派の曲でも、例えば薩摩琵琶の「敦盛」などは(大正~昭和時代辺りに作られたものだと思いますが)、最期に敦盛が名乗りを上げる部分が付け加えられ、原作の意図する所とは全くかけ離れてしまっている内容になっているようなものもあります。そういうものは仲間内では通用しても一歩外に出たら通用しません。そんな所をろくに考察もせずに、稽古したからといって安易にやってしまうのは音楽家として芸術家としてアウトだと私は思っています。孔子も「国を変えるなら樂を変えよ」と言っていますが、それだけ音楽・芸術は人間にとって大切な行為であり、人間の根幹にかかわる神聖な行為なのです。
現代では小さな演奏会でもそのまま世界に配信される時代です。いつまで経っても村意識から離れられず、世界の中の私という事が解らないままでは現代で舞台活動はやって行けません。特に邦楽は先生と言われている人のほとんどは、受賞歴や流派のお名前の看板を挙げていても生業として世の中で活動をしておらず、プロではありません。多少の技や知識はあるかもしれませんが、生業にも出来ず、著作権はおろか世界標準の感覚も判らない人が次世代を育てる事が出来るのでしょうか。私はいつも疑問に感じています。
芸術は常に「世の中」と共に在るのです。現代ではその「世の中」がネット技術で全世界対象となっているのです。頭の中が流派や協会、仲間内という所にしかないと、仲間内では当然のことも外に出たら犯罪になりかねません。何とか流の私ではなく、世界の中の私なのです。過去に寄りかかり、流派や協会に寄りかかり、そのくせ自己顕示欲だけは人一倍というのではお話になりません。今一度、初心に帰り、作品や舞台、そしてそれを創り出した人に対し敬意と尊敬を持って、独立した一芸術家として取り組んで頂きたいものです。
急に朝晩が寒く感じられるようになりましたね。私はこの位がちょうど良いですが、不調をきたす人も多いのではないでしょうか。
今年は暇だ暇だと言いながら、さすがにこの時期は何かと忙しくしています。確かにコロナ前に比べると大分少ないですが、まあ琵琶法師には稼ぎ時ですな。こちらに出ているので、気になる会がありましたら、是非お越しください。
毎年東洋大文学部の伝統文化講座をやらせてもらっているのですが、今年はいよいよ平家物語に特化した講座となります。今回は最初ではありますが、ストーリーや歴史の解説でなく平家物語を分析的に解読して行こうという内容で、儒教的な視点や浄土教的な描写そしてその対比、その他組織論的な解釈など、現代にも通じるちょっと今迄にない視点で語らせて頂きます。
また来月の琵琶樂人倶楽部は17周年の記念回でして、開催も何と190回を迎えます。来年には200回越えという何とも凄い事になっています。よくまあ毎月やって来たなと思いますが、ほとんど私の楽しみでやっているので、ストレスは全く無いのです。勿論17周年の記念の会の内容は私の真骨頂、現代作品の演奏をします。今回はメゾソプラノの保多由子先生、ヴァイオリンの田澤明子先生を迎えまして、新作から、来年レコーディングを予定している曲迄演奏します。その他ちょっとプライベートな会もあるのですが、大体こんな感じです。
10月11日(水)第189回琵琶樂人倶楽部「語り物の系譜」
13日(金)「秋風楽~琵琶と笛と朗読の会」 平塚八幡山洋館
14日(土)東洋大学文学部特伝統文化講座(レクチャーのみです)
11月8日(水)琵琶樂人倶楽部17周年記念
第190回「琵琶の洋楽器の新たな世界」
15日(水)カトレアの会演奏会 横浜能楽堂第二舞台
23日(木祝)「櫛部妙有朗読会」 音降りそそぐ武蔵ホール
25日(土)「能でよむ漱石と八雲」 松本市民会館
12月2日(土)「第4回和の音 篠笛と琵琶の集い」薫風工房
こうして琵琶を生業にしてこれまで生きて来れたのが本当に有難いですね。やればやる程に感謝しかないなと思えて来ます。綱渡りのような人生ですが、お金の事や人間関係など、私はあまり悩まないので好きなようにやって来れたのかもしれません。悩みと言えば作曲ですね。常に作曲をしているので、次にやる作品とそれをどういう風に上演するか、そんな所は大いに考え悩みます。琵琶はその特殊性故、とにかく自分でプロデュースをしていかない限り、待っていても流派の曲を並べただけの琵琶の会にたまに呼ばれるのが関の山。これでは音楽家としての自分の作品が上演出来ず表現者としての活動は出来ません。だから自分で機会を作って、自己プロデュースをやって行くしかないのです。まあベンチャービジネスを立ち上げるのと同じようなものですね。
毎年恒例8月のSPレコードコンサートにて photo 新藤義久 年を取りましたね
自分でコンテンツを作って、広報や営業をして、実演して、作品も売って行く。ここまでやらないと琵琶を生業として弾いて回れる環境は作れません。まあお教室の先生で良ければ特に考える必要もないと思いますが、自分が演奏する作品もそれなりのバリエーションが必要で、同じような弾き語りしか出来ないのでは「仕事」にはなかなか成りませんね。そして常に状況に応じて作曲編曲をして様々な舞台に応える事も必要です。そして一番大事なのは、それらが単に「仕事を得るため」や「稼ぐため」「有名になる為」の曲ではなく、ポリシーを持って自分で紡ぎ出した作品であるという事ですね。芸人として「売る」事を最優先して生きている方も多いかと思いますが、私はエンターティナーではありませんので、とても芸人には成れません。自分に合ったやり方をするのが一番です。
私はすべての演奏に於いて自分で作曲したものを弾かせてもらっています。たまに(5年に一度位)作曲家の新作を弾く仕事を頂く事もありますが、それも納得いかないものはお断りしますね。私は強い人間ではありませんので、俗に流されることのないように常に「媚びない。群れない、寄りかからない」をモットーにしているのです。
私の作品にはメインとなる薩摩琵琶の現代曲や創作曲、樂琵琶の作品、その他尺八二重奏や筝の作品など約60曲がリリースされていますが、総て自分の表現する世界として自信をもって出せる曲だけを遺し、また舞台でも自分の作品を弾ける舞台のみ引き受けています。我儘と言われるかもしれませんが、妥協していては良い活動も出来ないし、納得の行く作品も創れません。画家や作家が適当に創った作品を世に出さないのと同じで、私も適当なものは出しませんし、お金目当ての演奏もしません。お金や名前につられて舞台に立っている自分の姿は想像したくないですね。舞台に立つ以上は自分の表現したい世界をやりたいのです。
photo 新藤義久
世間的な収入という点では実に細々としたものなのですが、活動を始めて25年程CDのリリースもしてこれたし、ここ5年程はネット配信のお陰で、世界に向けて作品もリリースすることが出来ました。ネット配信の売り上げは圧倒的に海外です。とにかくコツコツと発表出来てきて嬉しい限りです。これからも充実した演奏会と作品発表のスタイルで頑張りたいと思います。この秋も充実した活動が出来ますように。