Penguin Village

先週から物凄い熱さでしたので、ずっと家に籠っていたんですが、お陰で次の新曲の構想が具体化してきました。先日琵琶樂人倶楽部で演奏した「龍と詩人」はデュオの演奏は正直な所まだまだ実験という感じだったのですが、琵琶パートに関しては割といい雰囲気で出来たので、その後色々いじっていました。よく考えてみれば以前にも同じイメージで書いた曲がある事を思い出し、譜面を引っ張り出したところ、ピンと来るものがありずっともやもやとしていたイメージがはっきりとしてきたのです。樂琵琶とヴァイオリンのデュオを想定して只今作曲中です。ちょっと視点が変わっただけで、世界は広がるもんですね。乞うご期待

先日の琵琶樂人倶楽部 パフォーマー中村明日香さんと


私はもう30年以上TVを持っておらず、SNSもやっていません。以前はミクシーや最初期のFacebookを少しばかりやっていたのですが、 どうも色んな人の想念が見えてしまって見ていられません。たまにツィッターやFBの情報を送ってくれる友人が居て、少しばかりその情報も見るのですが、世に溢れる事件や国内外の情勢は勿論の事、個人的な記事でも、どうにもこちらの心が揺さぶられてしまって見ていられないのです。また音声をオンにした時に突然鳴るけたたましい音にも勘弁願いたい。

また私は子供の頃からオリンピックなどスポーツ全般、ほとんど見たことがありません。人と人が感情丸出しで争っているのは、私には戦争と同じに思えて仕方がないのです。まだアクション映画の方が、映画と割り切れるので見ていられます。
時々、スポーツや大河ドラマの話を当然知っているだろうという前提で話を振ってくる人が居るのですが、何故皆が同じものを見ていて、知っていて、興味があるとと思うのでしょう。そのメンタルが私には理解が出来ません。日本人は皆自分が「普通」で、皆同じ感性をしていると思い込んでいる人があまりに多い。

一時期「共同幻想」などと言う言葉がはやりましたが、根本的な部分での日本人としての感性に共通するものは私も感じていますが、俗事に対すること迄、皆同じと思ってしまう浅はかな思考は現代ならではかもしれません。

スティーブ・カーンが来日した時に観た「Drスランプ」を見て作った曲 live at 六本木ピットイン

私からすると日本全体が「Dr.スランプ」に出てくるペンギン村の中で暮らしているように見えます。音楽家芸術家も、同じ思考を持った小さな村を作りたがる。「和して同ぜず」とは程遠く、皆が「同」になって、同じ思考を持ち、同じ方向を見ていない人とは関わろうとしない。私には、そうした村感覚が、どうにも理解が及びませし、今の日本の衰退を作った元凶だと思っています。
何故個として、自分の意見を持ち、自分で動いて行こうとしないのでしょうね。いつもSNSで連絡取りあって、その中で何かやろうとするメンタルでは、いつまで経っても世界が見えず、村から抜け出せません。私はとてもペンギン村の住人には成れそうにありませんな。ちなみに上記の曲は、スティーブ・カーンというギタリストが「Dr.スランプ」を見て気に入って創った曲です。同じアニメを見ても、ペンギン村でアラレちゃんと楽しく遊ぶ事しか考えつかない日本人には、こんな曲は創れないでしょうね。私は六本木ピットインでライブを聴きに行きました。

今日本を苦しめ、衰退させているのは、この「同」の感覚ではないでしょうか。「和」ではないですね。皆が一緒だと思い込み、「普通」というのがまるで宗教のように蔓延している。マスクやワクチンの問題もそうですが、世界とつながる時代になっても目の前の情報しか入れようとせず、挙句の果てには自分と同じでない人とは一緒には生きられないという強烈なまでの排他主義的村人感覚が、あらゆるもののバランスを壊しているように私は思います。邦楽はこの村感覚=同族意識で流派や協会が凝り固まって、自分たちとそれ以外などと分けている間に、社会と溝が出来てしまったのではないでしょうか。個として世の中に立ち向かう邦楽人が出てきて欲しいですね。

2010年高野山常喜院独演会にて

色んな事を日々考えますが、私は「媚びない・群れない・寄りかからない」人生を生きているので、そんな私が琵琶を選んだのは当然だと思っています。小学生の頃よりクラシックギターを習っていましたが、その時から一人で演奏していましたし、ジャズギターを弾いていた頃もソロギターに強い関心がりました。前回書いたラルフ・タウナーやパットマルティーノ、ジョー・パス等、独自の世界を持ちながら、それを一人で表現できるプレイヤーに強い憧れを持っています。先ず個として表現すべきものがあり、それを具現化する事が出来るのがアーティストだと私は思っています。そういう土台があって、はじめてアンサンブルが成り立つと思うのですが如何でしょうか。

私が選ぶ共演者の方々も皆、独自の音楽観を持ち、それを表現する技量と感性を持ち、独演会も開いて活動している。一人で出来ない人が集まっても寄り集まっているだけで、「数は力」とばかりに目先のパワーで押し切る事しか出来ない。そんな表面的な力を行使しても、直ぐに内部から崩壊してくるのは現代日本の現状を見ていれば明らかではないですか。エコノミックアニマルと言われた70年代から、バブルを経て、この2020年代の衰退迄、これだけの変化衰退を見てまだ、次
世代を見据え変わろうと思わないのでしょうか。良いところは継承し、変えるべきところは積極的に変える意思を持たない限り、物事は継続できません。それは古典の中に、ありとあらゆる事例として書いてあるではないですか。今の日本は末期の平家ようなものです。

森有正森有正は「孤独とは経験そのものであって、孤独であるという事が、つまり人間であるという事」「孤独は孤独であるが故に貴いのではなく、運命によってそれが与えられた時に貴いのだ。」と書いていますが、私はこれらの言葉に深く共感します。孤独をいつも恐れている現代日本人は、その孤独感を紛らわすために目の前を盛り上げてくれるエンタメに日々血道をあげて本質を考えようとしないでいる。上記の言葉の後には「自分の勝手で作りだした孤独程、無意味でみにくいものはすくない。本当の孤独は孤独からは生まれない」と続きます。

ペンギン村で遊んでいるのも、そろそろ終わりにしないと。

行きつ戻りつ

連日の猛暑ですね。体調を崩している方も多いのではないでしょうか。充分に気を付けてください。私はこの所は演奏も週に1度、多くても2回程度ですので、のんびり部屋の中に居る事が多いのですが、この暑さではとても琵琶を担いで飛び回るなんてことは出来ませんね。

今年の3月 サローネ・フォンタナ 能楽師:津村禮次郎先生、尺八:藤田晄聖君と


今年に入ってから舞台では、ちょっと今迄苦手と思っていた曲や新作などをあえてやっているのですが、曲を見直したり、推敲する機会にもなって良い刺激をもらってます。
曲は家の中で練習している内は判らないのですが、一度舞台にかけてみると、作品の質や持っているエネルギーがダイレクトに判り、その曲を演奏する自分の立ち位置みたいなものも強く感じさせてくれます。不思議なもんです。リスナーと対峙しないと曲の命というものは輝かないのでしょうね。そしてその曲の持っているエネルギーを引き出すためには、その曲に合った技術が必要という事を初演の時などはいつも感じます。だから新作を作ったらそれに合う技術をどんどんプラスして行かないといけないのです。ここ最近は、あまり演奏しない曲を演奏しているせいか、そんなことを改めて感じるようになってきました。いわゆる身体に覚えさせる的な練習を積むことは確かに大事なのですが、ある程度技が出来るようになった時が一番危険です。

それは自分の得て来た肉体的な反応と、覚えて来た知識の奴隷になるからです。新たな作品を舞台にかけるには、今迄の延長線上には無い発想の柔軟さがないと、これまで引いたレールの上から抜け出せません。「初心」とはよく言われることですが、これまでの自分を断ち切って、いつでも新たな自分に成る覚悟を忘れるなという事です。「初」の左側の偏は衣の意味。右側は刀。衣服を作る時には、先ずどんなに美しい反物でもそこに刃を入れ、反物を切らないと衣服になりません。つまり何かを創り出す時に、刃を入れる覚悟を持てという事です。
今迄得て来たものの範疇からでしか発想出来ないと、知らない内に時代も社会もリスナーも関係無いただのオタク状態となり、結局「お見事」な芸にしかなりません。芸術は常に予定調和の真逆に存在してこそ芸術です。

ちょっと視点を変えてみると、いわゆる「練習」には大きな危険が宿っているのです。「一生懸命やりました。課題はすべてこなしました」という方は単なる技芸者であって芸術家ではありません。優れた指導者は生徒のそんな部分を見抜いて、良い方向に導いて行く事でしょう。だからどんな師に就くかが大切なのです。また生徒もそういう感性と器を持った人なら、先生の言っている意味は充分に理解できるでしょう。練習はその質を問われるし、練習の段階でその人の芸術家としての器が試されるのです。琵琶の世界にもそんな良き道を示してくれるお師匠様がいるといいですね。
音楽活動も飛び回っている事に満足してしまう人が多いですが、練習でも何も考えずにただやったという事に満足して、多少の技術が出来るようになった事で満足してしまう事が多いのです。そしてそういうものを「お稽古事」というのです。

昨年11月の琵琶樂人倶楽部 Vnの田澤明子先生、ASaxのSOON・Kimさんと


そんな事を日々考えながら色々と試すことが出来るのも、それを実践し試すことが出来る現場があるからと言っても過言ではないと思います。毎月の琵琶樂人倶楽部では毎回やりたい事を何でもやっているんですが、演奏・選曲だけでなく、どんなゲストを招くのかという事も含めて会の運営全体で、毎月毎回がある意味実験なのです。上手く行った時もあれば失敗したなと思う事も多々あります。言い換えると、失敗した姿もリスナーに見てもらえるという事です。これはとても大事なところで、何かを成し遂げる事は、どれだけ失敗をしたか、その数が多ければ多い程、成功に近づくのです。皆失敗したくないし、失敗した姿見せたくないですね。しかしそういう部分を曝け出す覚悟の無い人は、いつまで経っても失敗を恐れ、また失敗を隠すようになって、どんどんと委縮してしまいます。

かのスティーブン・ジョブズはあれだけの素晴らしいものを創り出す迄に、とんでもない失敗を繰り返しているのです。今から見るとよくまあこんなものを製品として売り出したなと、思えるようなものを出して、会社も大損害を被っています。現在の日本の会社はどうでしょうか。イノベーションなどと言いながら、形だけセミナーなど開いても、結局大きな失敗はなるべくしないようにしながら、イノベーションしている姿勢は見せておこうとして、体裁だけの部門を作り、いつまで経っても浅い経験しか積まず、目の前をやり過ごしているのではないでしょうか。
私にとって琵琶樂人倶楽部は、その経験が全てが糧となり、舞台へと繋がって行く土台のような場所なのです。もう16年近くそんな事をさせてもらっている事に感謝しかないですね。

2014年琵琶樂人倶楽部にて かつて一緒に運営をしていた古澤月心さん、ゲストの琵琶製作者の石田克佳さんと


琵琶人を見ていると、キチンとしなくてはいけないと強く思い込んでいる人が多過ぎるように思います。立派で良い所だけを見せようとするメンタルでは何も創り出せないし、いつまで経ってもお稽古事から抜け出せません。
もう引退してしまった先輩に、師匠とそっくり瓜二つに演奏する方がいました。部分を聴くと見分けがつかない程の演奏でしたが、とてもまじめて几帳面な性格の方でしたので、表面の形が似てい
るだけに、かえって鶴田遷都は真逆の、神経質な迄に線の細い姿が見えて来るようでした。それがその人の音楽という事なのでしょうが、ベテランという年になっても何とも囚われている風にしか私には見えませんでした。

先日、津村禮次郎先生から、毎回を真剣勝負と思って舞台に臨むという、大変貴重なお話を聞かせてもらいました。しかし真剣=完璧としてしまうと、形ばかりが整って、中身の無いものになってしまいます。形を整える事に終始するのはアマチュアです。間違えないようにきちんとする事は真剣に取り組む事ではありません。そこが判らない人が多いのではないでしょうか。
それに真剣勝負をする舞台が週に何度もあったら、さすがにこの身も心ももちません。真剣勝負を挑むところを見極めてスケジュールも組んで、自分のペースを作って行けるセルフマネージメント能力がないと結局続けて行く事は出来ません。これが広く自分の周りを見渡すことが出来る器というものかもしれません。続けられないという事は、時間をかけて深めて行く事も出来ないという事でもあります。全てに100%というのはただの素人の浅はかな考えでしかありません。それが判らない人は生業として行く事は出来ないのです。何事にも弾力がなのです。

ノヴェンバーステップス初演時の鶴田錦史
若き頃に少しばかり就いた先生は「〇〇流は絶対に間違えてはいけないのだ」と言っていましたが、間違えないように完璧に演奏しようとするあまり、技芸だけが聞こえるだけになってしまったら、それはもう音楽ではありません。お稽古事です。
鶴田錦史は、その時々で節を変えて語っていたと聞いていますし、「エクリプス」では尺八の横山勝也との丁々発止のアドリブが過ぎて、作曲者の武満徹から「もうちょっと譜面通りにやってください」と注意されたそうですが、私はその位の幅があって良いと思っています。いい加減にやるという事ではなく、その時その時の自分の姿を曝け出すという覚悟で舞台に立てば良い。完璧に間違えずに、なんて心根では音楽は舞台で演奏できないと私は思っています。
琵琶弾き人生をやっていれば色々な事がありますが、自分に合うちょうど良い弾力を持ち続ける事が出来たからこそ、今までやって来れれたのかなと思っています。

Ralphタウナー「Solo Comcert」アルバムジャケットより

先日の琵琶樂人倶楽部では宮沢賢治の「龍と詩人」をパフォーマーの中村明日香さんとやりました。まだ実験段階ではありましたが、多くの経験を得る事が出来ました。私が琵琶パートの参考にしたのはラルフ・タウナーの「SOLO CONCERT」というライブアルバムです。1979年にECMからリリースされたこのライブアルバムは、既成のジャズやクラシックに寄りかからずに、自分の音楽を追求した若きラルフ・タウナーの感性とエネルギーが迸っているギターミュージックの傑作です。私はこのアルバムを20歳の頃聴いて本当に感激し、この作品が自分の作曲の根底にあると思っています。今でも何度も聞き返しているのですが、今回また聴いてみたら「龍と詩人」の作品に通じるアイデアを感じる事が出来たのです。是非ともこんな作品を遺して行きたいですね。

若き日 広島の厳島神社社殿独演会にて

そんな事を思いながら、もう琵琶を生業として30年近い年月を過ごすことが出来ているというのは本当に幸せな事です。これからも同じように「もう少しで俺の世界が出来上がる」なんて喚きながらやり続けている事でしょう。そしてこうして続けられた方こそ、色々考え、様々な失敗も経験し、深まって行くのです。止めてしまったらそこで終わってしまいます。こんな時間を通して、私は自分のスタイルを作ってきたのであり、今、作品も色々と出来上がって、世に遺すことが出来つつあり嬉しく思っています。「壇ノ浦」を如何に上手に演奏しても、私には空しいだけですからね。

私は失敗をしたり、勘違いをしたりしながら行きつ戻りつしながら続けて来ました。そんな行ったり来たりする事を舞台でさせてもらえて来たからこそ、今迄こうしてやって来れたのだと思います。琵琶樂人倶楽部はそういう意味では、私の土台となってきた場なのです。
年齢や時代と共に活動の在り方は変わって行きます。しかしだからといって目標は変わらない。年齢を重ねる程に納得の行く音楽を創り、演奏し、遺して行きたいですね。

友遠方より来る2023

連日の暑さに参りますね。夏はどうものんびりする癖がついているのか、演奏会が少ないですね。

グンナル 2023先日、かつてコンビを組んでいた相棒、尺八奏者 グンナル・リンデルさんがスウェーデンから久しぶりに来日したので、地元の居酒屋で呑ってきました。5年に一度くらいの間隔でグンナルさんが来日するので、その度に会うのですが、毎回話が尽きず、いつも超絶飲み会に突入します。まあ190mを超えるような大柄のグンナルさんですから、私とはアルコール消費量が違います。今回も6時間に渡り、呑んで食べ、語りあいました。その話の内容はもはや日本人相手では出来ないくらいに濃いもので、尺八の事はもとより、万葉集、古今和歌集、風姿花伝、申楽談義、難波土産(虚実皮膜論)、西山松之助ともう縦横無尽に日本文化を語り尽くしました。

私がグンナルさんと一緒にスウェーデンやイギリスに公演に行ったのが、もう20年前。あの頃からグンナルさんの知識は頭抜けてもの凄いものがありましたが、現在ストックホルム大学で教職に就いている事もあり、更に研究が進んでいるようで、私でも知らない日本文化の奥底にある話がポンポン出てくるのです。今迄これだけ古典の話が出来た人は、木ノ下歌舞伎の木ノ下裕一さん位ですね。いやいやあまりに話が広大で深くて、そして楽しくて時間を忘れました。話は当然伝承や型についての問題点や今後の展望に迄及び、それはそれは有意義な時間を過ごすことが出来ました。

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グンナルさんとの飲み会の2,3日前には、能を観に行きました。観ながら色々考えていたんですが、幽玄の世界を現代人に魅せ、伝えるのは難しいなというのが正直な感想です。もう少し何かその世界に入って行くきっかけが欲しいと思ってしまいます。いつもお世話になっている能楽師ワキ方の安田登先生は「眠くなっても良いのだ」と言ってくれるのですが、能の形式美を継承するのはとて大事な事ながら、表現しているその世界観を現代の人に伝える為には、何かを変えて行く事も必要な事ではないかとも思います。これは能に限った事ではなく、常に伝統というものを伝えて行く時の葛藤です。次世代に何を伝えるのかという事は、とても難しい問題ですが、あえて型を破り、新たなものを創り上げる事も辞さないという姿勢と覚悟が必要かもしれません。今伝統には、そこが問われていますね。

グンナルさんとも「芸」とは何か、という事を中心に話していたのですが、技や型のその奥にある根理を見失っては意味がありません。世阿弥は「初心」という言葉を使って、それまでの自分を切って捨てる覚悟を常に忘れてはいけないと説いているそうですが、守・破・離と言われる邦楽は今、守に囚われているのかもしれません。何を伝承して行くのか、型とは何を意味し、その型の何を伝えて行くのか。伝統芸能に携わる人はどこまでも思考を広げて深めて行かなくては、表面をなぞっているだけで終わってしまいます。それでは結果的ににも伝えられません。大胆な「破」が必要なのかもしれません。

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横浜能楽堂第二舞台にて FL:久保順 Ms:保多由子各氏とリハーサル中

つい先日も横浜能楽堂の第二舞台で、第一部を古屋和子さんの一人語り、第二部を私とメゾソプラノの保多由子さん、フルートの久保順さんのトリオでの演奏という珍しいカップリングで私の作曲作品を上演しましたが、絶好調の古屋節を聞きながら、熟練した話芸が聴こえ来る程に、私のやり方は真逆を行っているなと感じました。私は、むしろ芸が聴こえないように、見えないようにしたいのです。世界観を感じてもらいたいので、目に見える技や芸はその妨げになってしまう。聴き終わった後には、個人の芸などは忘れてしまうような世界を感じてもらいたいのです。お見事な芸を見せ、それを追求するのが邦楽だとしたら、私のは邦楽ではないと思います。「お見事」という声がかかるようでは、リスナーの感性や意識がその技の所に留まっているという事であり、私の想う所に迄達していないという事です。技だの芸だの、そんな所をどんどんと超えて、創造力を羽ばたかせて異次元迄飛んで行って欲しいのです。だからこそなるべく言葉という具体性のあるものを普段から使わないようにしているのです。今回演奏した「Voices」は歌詞がありますが、リスナーが言葉の表面的な意味に引きずられることがないように、あえて言葉を解体し再構築して行くように創りました。現時点での私の日本語の扱い方を具現化した作品です。

私なりに考えるに「お見事」的な芸を披露するようになったのは近世邦楽からではないかと思っています。技や芸を見せる事で、より高い木戸銭(ギャラ)を得る為にエンタテイメント色がどんどん強くなり、大衆化が進み、芸の部分が肥大化していったのではないでしょうか。感じさせるよりも楽しませる要素を大事にしたのでしょうね。それはそれで結構だと思いますが、私の考える音楽や舞台とは決定的に真逆です。そしてそうした変化は、中世迄の邦楽の概念や構造そのものを大きく変えたのだと思います。

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photo 新藤義久


何故その曲を自分が演奏するのか、どんな世界を見据え、その曲を何故自分の舞台で、自分の表現として演奏するのか。そこから何を表現したいと思っているのか。ただのストーリーテラー芸なのか、それともストーリーを越えたもっと大きな世界を見据え持っているのか等々、そんな話をする琵琶人は居ませんね。残念です。自分のお稽古した技を目いっぱい披露できる曲を舞台でやっているのでは、お稽古事以上にはなりません。
私は琵琶を始めた最初から、流派の曲を自分のライブでやるなんてことは考えたこともありません。高円寺のあまたあるライブハウスで、教室で習った曲をやっている発表会みたいなライブは一つも無いですよ。皆どんなにへたくそでも自分の曲をやって舞台に立っている。それでなければライブをやる意味は無いでしょ!!。バッハをやるのでも、自分で解釈し研究して自分なりのバッハをやるからこそ舞台に立てるのではないですか。それをしないで習ったように上手にコブシ回して得意になってやっているようでは、とても音楽とは言えないと思うのは私だけでしょうか。

少なくとも私が感激してきたアーティストは皆創り出す方々でした。既成概念ややり方や形式等一瞬にしてにぶち壊す位のエネルギーがありました。ジミヘンやマイルス・デイビス、皆そうです。予定調和の型にはまったものはエネルギーが決定的に低いのです。

パコデルシア3パコ・デ・ルシア
何故自由に何でも表現できる場である音楽に於いて、教わった事をやろうとするのか。不思議ですね。型とはそんな程度のものでしかないのだとしたら、それを伝承する意味が見えて来ません。かつてプレスリーが出た時もパンクロックが出た時も、強烈な反発と共にそれを上回る熱狂的な支持がありました。これがエネルギーです。ピアソラもドビュッシーもラベルも、パコ・デ・ルシアもリスナーがショックを受ける位に既存の価値観や技をどんどん乗り越えたからこそ、今に続く音楽を創り出したのではないでしょうか。

邦楽にもかつては血沸き肉躍るような熱狂の時代がありました。創り出すというエネルギーを失ったものに、リスナーは魅力を感じてはくれないのです。技を披露して喜んでいるようなメンタルでは、次世代は誰も付いてこないと私は思っています。「お見事」なんて物を捨て、観衆を驚かせ、反発もさせ、ぐいぐい惹きつけて、異次元へと連れて行ってしまうようなエネルギーが、今邦楽には必要ではないですか。

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左:人形町楽琵会にて津村禮次郎先生と
右:戯曲公演「良寛」にて、津村先生、パフォーマーの中村明日香さんと

御一緒する機会が多い、能の津村禮次郎先生や日舞の花柳面先生は、作品を創るという意識がとても高く毎回がスリリングです。今年1月にシアターXでやった面先生、韓国舞踊のペ・ジヨン先生、Flの久保順と上演した作品はとてもスリリングで且つ素晴らしい作品でした。そうした先輩方々には、その土台には広大なまでの伝統が常にどっしりと漂っているのです。だから新しい作品でもその中に伝統を感じるのです。私がしっくりと腑に落ちる事はそういう事なのです。
もう何度となく再演している戯曲公演「良寛」のラストは、照明も固定して全く演出を入れず、津村先生と私の奏でる樂琵琶の音のみによる8分間もの長いシーンで終わるのですが、そこには良寛と良寛を取り巻く人々の姿が現れ、それらの存在を超え、正に翁のような大きな存在が目の前に現れました。そして会場にはとてもとても静かに人知を超えた「大いなるもの」が降りてきて、そして隅々に迄満ちて、会場は早朝の湖面のように澄み渡った、静寂に包まれまれた清浄な世界が出現します。そこには個人の小賢しい自己顕示欲も無いし、お見事な芸も技も無い。そんな場を経験すると、風土が育んで育ててくれた日本の感性と、その長い歴史の中に我が身が生かされているのだと感じられます。そしてそれこそが私の表現すべき世界だと思えて仕方がないのです。個人の頭で考えた小さな世界ではなく、千数百年に渡りこの風土に育まれ伝わって来たものを受け継ぎ、そしてそこから自分なりに作品を創り出して行きたい。津村先生や面先生の姿を追いかけたいのです。

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さて今週は第186回の琵琶樂人倶楽部があります。今回は戯曲公演「良寛」で御一緒している、パフォーマーの中村明日香さんがゲストです。宮沢賢治の「龍と詩人」を明日香さんなりにやってもらい、私は樂琵琶で対します。津村先生や和久内先生もお時間があれば来てくれるそうなので、久しぶりに「良寛」チームの勢ぞろいです。19時00分開演です。ご興味のある方は是非ご連絡ください。

グンナル 和CD

20年程前に創ったCD 筝:カーティス・パターソン、鼓:藤舎花帆。尺八:グンナルさんらと


グンナルさんと話しながら、今回も話は尽きませんでした。遠方にこうして志を同じくする友が居るというのは嬉しいですね。

受け継がれるもの

ちょっとばかり奈良に行ってました。
今回は色々と用事があったので、あまり回れませんでしたが、落ち着いた良い場所にも出逢え、ならまちの風情や食事も楽しんできました。

私が奈良に行き始めたのは20数年前。1週間程宿を取り、奈良中を歩き回ったのが最初です。それから2,3年おきに行っているのですが、直近は2020年。葛城周辺や浄瑠璃寺・岩船寺など巡ってきました。2018年に再訪した秋篠寺も記憶に残っています。

私は観光客が押し寄せる所は全く興味がないので、東大寺の大仏殿などは近くを通っても素通りするだけです。旅に出たら必ず周辺の歴史を感じる所をぶらぶらして帰るのが毎度の習わしなのですが、お寺や神社でも、参道に土産物屋さんが立ち並び、ジュースやアイスを手にした観光客がワサワサ居るような所は、私にはただの宗教テーマパークにしか見えません。
大きなお寺でも、先日行った総持寺や唐招提寺などは凛として気持ち良いですね。道元さんが最初に開いた宇治の興正寺等も静かな時間が流れていて素敵でした。静寂に包まれたところが良いですね。
京都も一泊しましたが、もう夜でも外国人旅行客が沸いて出てくるほどに闊歩していて、私が楽しめそうなところは少なくなってしまいました。しかし奈良はまだまだしっとりとした、静謐ともいえるような風情の所が沢山あります。

円城寺


今回は仕事半分でしたので、あまり見て回ることが出来なかったですが、柳生の里の少し手前にある、忍辱山円城寺が何と言っても素晴らしかったです。秋篠寺のような澄み切った静謐という感じよりも、自然の中にしっとりと佇むという風情。境内全てに於いて人の手が入り過ぎず、でもしっかり目が行き届いていて自然と調和している姿は最高でした。以前ならまちを抜けて新薬師寺~白揮寺~柳生街道(途中までしか行けなかったので、戻ってバスを使って)柳生の里~笠置寺辺りをぶらぶらと歩いたことがあります。ああいう中に居ると、人間が生きて行くという事がとても丁寧な日々の中にこそあると感じられます。

柳生街道


そして奈良に行ったら、「もちいどの商店街」にあるレストラン「あるるかん」に必ず寄ります。20数年前最初奈良に行った時から行ってます。以前は親父さんが大きな体で頑張ってましたが、ここ数年は息子さん(?)が後を継いで頑張っている街の洋食屋さん(結構本格的なものも出します)なんです。大きめのゆったりとした店内なんですが、とにかくいつ行っても清潔で綺麗に整えられていて、20数年たっても当時のままで余計なものが無いのが素晴らしい。そして何より先代ゆずりの優しい味付けがしっかり受け継がれているので、ついつい色々と注文してしまいます。今回もたっぷり食べて来ました。

正倉院正面 この時期特別に目の前まで行く事が出来ました。


奈良に行くと、お寺にしても、こんな小さな個人商店にしても、「受け継ぐ」という事は何なのかをいつも感じます。今回は今井町にも寄りましたが、随分とカフェのようなお店が増えて、今井町のあの古い町並みにも変化を感じました。時は止まることが無いので、常に万物流転して行く世の中ですが、そういう流れの中に在って、心を伴わない形だけの継承は破滅への道を辿っているように見えます。今日本音楽の世界も「受け継ぐとは何なのか」という事を今一番考えなくてはいけない時期なのではないでしょうか。

都会の人間は形式や組織など目に見える体裁ばかり気にしますが、奈良に居ると、そんな事よりもこの風情こそ受け継ぎたいといつも感じます。目の前の景色ではないのです。形は心の具現化であって、心があってはじめて形に風情が出てくるのではないでしょうか。人間の都合だけで綺麗に表面を整えメッキしたようなものに風情を感じられますか?。AIが今後世に蔓延っても、人間は自然との調和の中以外では存在出来ないのです。経済優先で弱者を見捨て、公害をまき散らし、目の前の豪華さを追求する感性がいかに危ういか、心ある人なら判っているはずです。正に今は「物で栄えて、心で滅ぶ」時代。子供から大人までその心がいかに乱れ感性が鈍っているか、日々のニュースが物語っています。この風土が長い時間を経て受け継いできたものを、美しいものとして次世代へと渡して行きたいですね。

AsのSOON・Kimさんと
(Kimさんは20代にNYに渡り、オーネット・コールマンのもとで直接教えを受けてきた方です。
現在ドイツに在住し、その教えを自分なりに継承すべく活動しています)


東京に戻ったのは平日の午後6時過ぎ。中央線は通勤ラッシュでごった返し、もうその異常さにふらふらしてしまいました。そろそろ東京には居られないかもしれないですね。

楽しんだもん勝ち

毎年梅雨時期は一年の内で一番忙しいのですが、何だかこのところ暇になっているので、色々と人に会う事が多いです。コロナ禍の頃の方が地方公演やらレクチャーやら、演奏会もそれなりにあって忙しくしていましたね。もしかするとこのコロナの3年間を境に、活動が次の段階にシフトしているかもしれません。これは良い兆候です。活動が変化して行く時期というのは、今迄にない作品が生まれて、且つ素晴らしい共演者にも出会いうものです。来月はパフォーマーの中村明日香さんとの初共演もありますし、これは今後面白い事になって行きそうですよ。

トリオ1s

琵琶樂人倶楽部にて、Vn:田澤明子、As:SOON・Kim各氏と photo 新藤義久


最近何かと引用する機会がある論語ですが、こんな文章があります。

「これを知るものは、これを好む者に如かず。これを好む者は、これを楽しむ者に如かず」

仲間と色々話していると、今来ているキーワードは「楽しむ」なんです。上記の画像は昨年の琵琶樂人倶楽部の時のものですが、この3人でやった「まろばし」と「西風」は最高でした。お二人ともレベルはウルトラハイですし、ジャンルが違う事もあって、アプローチがそれぞれ違ってとてもスリリングで「楽しかった」ですね。自分の核となる感性というものは枠を取り払った時にこそ出てくるのでしょう。そんな時に人は心底「楽しめる」のかもしれませんね。

しかし残念な事にコンプレックスが先に来てしまう日本人はこと音楽となると、ジャズでもフラメンコでもクラシックでも相手と同化しようとして表面の形を真似る事に終始して満足してしまいますね。これで本当に楽しんでいるんでしょうか。

ロイ・ブキャナン5
栗田勇

photo 新藤義久


私は以前から、音色に身体性を感じられない人や、いつも重い鎧や看板を背負いこんでいるような人とは演奏しません。そんな方とは、お話が来たら一度はお付き合いしても、次からは丁重にお断りしてしまいます。特に上手いと言われている人程、技術があるせいか、そういうものを心の内に持っていると、それが漏れるように演奏にも音色にも、目つき態度にも現れてしまいますので、とても舞台で聴いてはいられないです。全然楽しそうに見えませんし、そういう人とは縁を結びたくないのです。邦楽や雅楽の現場では、特に残念に思う事が多いです。とにかく身軽になってこころから楽しんでいる人が最高ですね。

そして私が楽しんでいると感じる人は皆さん静かです。声が大きくうるさい人は見たことがありません。どうしてでしょうね。先日もそんな自分の道を楽しんでいる仲間とゆっくりと「お茶の会」をやって来たのですが、とても静かで穏やかな時間でした。

色んな音楽への接し方があって良いと思いますし、どんな形でもその中に喜びを見出す事も大事だと思います。要は自分のやっている事を心底楽しんでいるか。そこに尽きますね。私は何よりも音楽を創り出す事が私の悦びであり、そしてそれを舞台で演奏出来ることが最大の楽しみなのです。

「楽しんで」生きて行きたいですね。

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