蔵謎 The Mystery of Tibet

先日ヤンリーピンの「蔵謎」の舞台を観て来ました。蔵とはチベットの事。前作「シャングリラ」では雲南省の少数民族を従えて、舞台を作り上げましたが、今回はチベット地域の農民達をスカウトし、一から指導して作り上げています。原生態舞踊と評されるその舞台は、私に衝撃を与えました。

この舞台は聖地ラサまで五体倒地で巡礼をする老婆の姿を通して、老婆が出会う、各地域の民族の踊り・歌で構成された作品。輪廻転生・永劫回帰というチベット密教の奥儀をテーマにした壮大な舞台でした。

           ヤンリーピン10
私は踊り手との共演が多く、国内のかなり舞踊団の公演を観て来ましたが、これほどまでに心揺さぶられる魅力的な舞台は、生まれて初めて!!もう書きたいことが山のようにあるのですが、何よりも私の心に響いたのは、自国の音楽・踊りを基に現代という時代に即して創造し、舞台を作り上げている事。いつも私がこのブログで訴えている事をそのまま具現化したものでした。

私は今まで邦楽界には今一つ目標に出来る人が見つかりませんでした。魅力のある人はいるけれど、「この人」という人は世阿弥位でしょうか。
ヤンリーピンは私の目指すものをやり遂げている。正にこれからの私の指針となるような人だと思いました。世阿弥、マイルスに続き、私が心から尊敬してやまない人にヤンリーピンが加わりました。

ヤンリーピン12ヤンリーピン4

  

            

ヤンリーピン1

この美しさ。異常です。とても50代の女性とは思えない。これだけしなやかで姿の美しい踊り手は見たことがりません。

今回はターラ菩薩の役をやったのですが、もうどう見てもターラ菩薩にしか見えませんでした。

今回はチベットの五つの地域の農民を実際にスカウトし、振り付け演出芸術監督として指導し、舞台全てをヤンリーピンが作っています。確かにその踊りはもう信じられない位の存在感で、匂い立つような、震えるような魅力に溢れていました。あまりの美しい姿に涙が出てきました。
でもヤンリーピンの魅力は単に踊り云々では無いのです。舞台の全てを作り上げる、人間的な大きな器と実力。正に私が求めてやまない魅力をあまりにも沢山湛えています。

           ヤンリーピン9

歌も踊り手が歌います。あの地声発声の素晴らしい歌を、踊り手自らが歌い、踊り、自分達の文化を高らかに歌い上げている。踊りはもちろんですが、その声は特に強烈で、もう聞いているだけで身震いするほどでした。やはり何度も書いているように、歌詞では無い、声質そのものにこそ感動が生まれるのだと確信しました。

古くから伝承されたものを現代という時代に合わせ構成し、人間の根本に迫る壮大なテーマに挑戦し、表現して行く。自国への愛溢れる眼差しと誇り。スケールの大きさ。充実した内容。もう書いても書いても言い表せないのです。

そこには日本の邦楽家のように、洋楽に媚を売る姿は微塵も無い。全くロックもジャズも出てきません。全て民族の楽器と歌・踊りで、民族の文化で勝負しています。邦楽器でアニメソングやポップスをやって、合奏団でクラシックもどきをやってご満悦な連中とは基本的に次元が違うのです。古典の権威に寄りかかる者、己の道だの何だのとのたまっている連中とは、別生物のようだと思いました。

            ヤンリーピン11

あまりに色々な想いが湧き上がり、とても一度では書ききれないので、また次回書いてみたいと思います。

二つの月

IMGP0842

もう東京では桜が大分咲いてきました。世の中動き出してきた感じはありますが、夫々の気持ちと考え方で、行動してゆくのが自然な形だと思います。これからは日本の中だけでなく、世界的にも価値観が変わってゆくのかもしれません。いずれにしろ、ペースを取り戻すにはまだ時間がかかりそうですね。
友人の形態模写芸人 根本雅也君も、今月から元気に赤坂GRAFFITIでライブを開始するようです。彼の舞台を見たらきっと皆元気になると思うな。お勧めです。迷わずにがんばってくれ!!
根本雅也HP  http://playsic.blog91.fc2.com/

          
さて、今日の御題は「二つの月」。この「二つの月」は私のデビューアルバムに入れた曲で、チェロと琵琶のための作品だったのですが、今年の川崎能楽堂でのまろばし公演に際し、尺八二管によるデュオに編曲しました。

           

           
この「二つの月」は9.11のテロの時に書いた曲で、二つの相反するものの「出会い~衝突~共生」という過程を描いた曲です。
古の昔から人間社会では、延々と対立が繰り返されてきました。源平合戦の例を挙げるまでもなく、日本でも皆、相争って歴史を刻んできました。個人レベルでも、合う人合わない人がいるし、こちらからどうコミュニケーションをとっても判り合えない人もいます。更には自分の中でも、もう一つの自分を感じ、驚き、時に嫌悪してしまう事もあるでしょう。

人間はなかなか自分を変える事は出来ない。変えようなんて思う時点でもう難しい。変われる人は、変えようなんて事すら思わずに、しなやかに変化してゆく。
しかしそんな簡単に変われない我々も、相反するものに出会った時に、戦うばかりでなく、お互いの違いを認め合い、共生してゆくという道もあるのではないでしょうか。その共生してゆく時に、お互いを認め合うのに、音楽は大きなファクターになるように思います。

              弁天15
 
音には形が無い。だからこそ何にも囚われずに感じることが出来る。これに言葉がついてしまうと、同胞にしかわからない意味、同世代にしか判りあえない内容が付きまとい、感じることの範囲が狭まってしまう。時代や国境を越えられない。

私達は、社会や歴史、宗教など、多くのものの中で生きざるを得ないし、そこから導かれたものが日本独自の感性となってゆくのだけど、それら私達を取り巻くものがあるが故に、一人間としての素直な感性でいられず、異質な物を受け入れる事が出来なくなっているのも事実です。特に邦楽人には、肩書きやら流派やら、受賞歴みたいな立場からしかものを見ないとんでもない輩がわんさかいる。

弁天18民族の感性を表した古典音楽は素晴らしい。時代を経て洗練もされ高い域に達しているものも多い。しかしその民族しか判り合えないものも多くある。かつて武満徹さんがNYに居る時に「音楽には国境があるんですね」と言った事を思い出します。

その点、音楽に至る前の音色そのものは、形が無いだけに、取り巻くものの色眼鏡を超えて、素直な人間としての感性だけで感じることが出来ます。
違う歴史を持った民族でも、音色の中にお互いの感性を感じた時、お互いを認め合えるきっかけになるのではないでしょうか。その感性は、そこから夫々の文化へと通じ、その後その深さをお互いが認識したら、戦いから共生へと道を繋げる事が出来るのではないでしょうか。

琵琶には独特の素晴らしい音色があります。あの音色だけで繋がり、分かち合える人が世界中にいっぱいいるのです。無国籍な形の音楽を演奏するというのではなく、日本のやり方でいい。ただ日本人にしか判らない歌詞(日本人でも判らない歌詞)や感性で固められたものを演奏するのではなく、どんな世代、民族の人でも入ってこれるようなものも積極的に演奏して行くべきだと思うのです。

残念ながら今の琵琶は、明治大正の時代に書かれた「歌」ばかり。歌詞も成立当時の感性で書かれているので現代人にはなかなか理解が難しい。今こそあの魅力的な琵琶の音色をもっと響かせなくては・・と思ってしまいます。弁財天さんも悲しんでいる事でしょう。

             

琵琶に限らず、素敵な音色で、出会い、繫がり、心を通わせ、二つの月が仲良く共に輝き、二つの月が寄り添って穏やかな時を過ごせる、そんな世界が出来上がってゆくといいですね。

響きあう季節

           桜1photo MORI Osam

今日はちょっと花冷えの一日でしたが、4月に入り、外にはぐっと春の匂いが満ちてきました。心情的にも、皆少し落ち着いて、心機一転というところではないでしょうか。
先週よりすでに、桃・杏・ハクモクレンなど春の花は元気いっぱいに咲いてきていて、我が家の程近く、善福寺緑地にはもう桜の花がかなり咲いていました。

         sakura  2011-2       
桜は、季節からの問いかけに答えるように、季節と響き合いながら、その最も美しい姿をほんの少しだけ披露します。正に季節と共鳴するように・・・。
このピンクの花は「陽光」という品種の桜で、もう満開に咲いていました。

震災直後は、本当に色々な事を考えさせられました。皆さんもきっと同じだった事と思います。大切な人を想い、自分に出来る事、やるべき事をあらためて自覚して、色々なものをちゃんと見極める目の大切さを感じ・・・・。等など色々と考え巡らせましたが、どんな形でも深い繫がりを持って、共に生きている仲間達は何よりも変えがたいものだ、と思わずにはいられませんでした。

被災地はまだまだ大変な状況だと思います。復興には5年10年とかかるでしょう。本当の支援はこれから。物もお金ももちろんですが、何よりも心が豊かになることこそ一番の希望の源だと思います。私は確かに無力ですが、私の演奏に興味を持ってくれる仲間も東北にはいます。その為にも私自身が希望に溢れていなければいけません。そんな方々にこれから最高の琵琶の音を届けたいです。

花が季節と響きあうように、人と人も響き合い、豊かな時間が生まれていきます。人夫々が響きを発して、最高のパートナーを探し出しているのかも知れませんね。

e-弁天2サラスバティー弁財天は古の昔から、サラスバティーとして、琵琶・ビーナを奏で、人々と響き合い、多くの共鳴・信仰を集めてきました。日本に渡ってきてからも、未だ我々はその音色と響き合い、導かれているのかもしれません。

響きあう魂が、更なる響きを奏で、e-弁天4多くの仲間を繋げ、妙なる響きとなってゆくように、私の琵琶の音も、聞いている人と響き合い、大きく深いつながりが出来ると嬉しいです。

希望に溢れた春を迎え、妙なる響きが世に満ちて、深く愛が育まれますように。

          桜-4photo MORI Osamu

         

始動

外はもうすっかり春の日差しになり、今週末には桜も大分咲くようです。
すでに、桃や杏、ハクモクレンなど春の花はその煌きを謳歌し始めています。

             白桃photo MORI Osamu

被災地は、まだまだ復興には程遠いのだと思いますが、この春の陽が希望の光となって注がれる事を願って止みません。

私はお陰様で心身ともに回復しました。まだ万全ではありませんが、もう普段どおりに戻りつつあります。

こういう時期には色々なことを考えざるを得ません。まして今回は体調の不良もあり、多くの事を思う時間となりました。
仲達がいかに大事な存在であるか、自分がどんな人間であるか、音楽の無力とそして大いなる魅力。自分の進むべき道と理由etc.数多くのことが頭に浮かんでくるのですが、一番思った事は、色々なものを受け入れる器の大きさということでした。

この国難ともいうべき時にあっては、有無を言わせないくらいの指導力が求められるでしょう。政治家には特に今、そうあって欲しいですね。
しかし、我々のような一個人が、いつも主義主張を振りかざしているだけでは何も成就しません。もっと強いもの、大きいものにあっさりとやられてしまう。どんな事態が起こっても、どんな意見・批判に晒されても、それらを受け入れ、常によき方向に、しなやかに変化して行ける心の柔軟さと強さがないと、事は前には進まないのだと思います。

            弁天9

人はほんの少し勉強したり経験を積んだりすると、そこから見えるものを自分の意見だと思ってしまう。目の前の情報に直ぐ踊らされるのもまたしかり。しかし人間一人が持ち合わせている情報や経験などたかが知れている。下手な知識や経験、もっと言えば立場や肩書きなどを持っているが為に、他の意見も聞こえず、見えるものも見えなくなってしまう。

しっかりとした意見を持って生きる事はとても大事なこと。そして色々な情報を、その時々で纏め上げてゆく知性もまた必要ですが、同時に常に心を純粋な状態にして、他を受け入れて、自らが変化してゆく事を恐れてはいけないと思います。いくら自分が努力して積み上げたものであっても、時代と共に変化してゆくのは当然なのです。自分を認めてくれる世界だけに住み、自分と同じ意見の者だけを相手にしていたら、いつしか孤立してしまう。 
 
               e-弁天6

私は今回の震災を目の当りにして、この風土に生まれ育った日本人の「核」を感じました。海外からも日本人の質を賞賛する声が上がりましたが、その「核」は形を伴ったものでないし、むしろ形はなどなく、あったとしても常に変化して行くと思います。そして脈々と確実に受け継がれてゆくものだと思いました。

琵琶は古い形を伝える楽器です。確かに日本のある種のアイデンティティーを表現する音楽が、古い昔に出来上がりました。しかし形式や過去の作品に固執していたのでは、その「核」もぼやけてしまいます。伝えるべきはそんなものでは無い。私がやるべきものは、その「核」なのです。

古い形のものを背負っていても、中身は「核」を中心として、常に変化してゆくようでありたい。そしてそれが日本人全体で共有できるものでありたい。一過性の流行ではなく、長きに渡って共感を得てゆくものでありたい。

さ、これからまた琵琶を抱えて飛び出してゆきます。春はもう直ぐなのです。

            21

春の嵐

ちょっとご無沙汰してしまいました。
              北海道4
                           photo MORI Osamu
世の中騒然としていますが、無力なる私は、情けない事にここ4,5日ずっと臥せっておりまして、未だほとんど布団の中におります。
今年の春は体全体の調子が今一つで、酷い花粉症位に思っていたのですが、日を追うごとに鼻水はもちろん、咳は出るわ、頭痛はするわ、体温調節が効かず、熱くなったり寒くなったりするわ、口内炎は出来るわ、挙句の果ては、寝たきりになっていたせいか、腰まで軽いぎっくり腰じょうたいになり、血痰を吐くにいたって・・・・。

もう体のあらゆる部分が悲鳴を上げていて、寝返りをうつ事もままならないという状態でした。それでも昨日は数時間は布団を出て動いてみたのですが、まだまだ良くなりそうにありません。
琵琶を生業として生活しだして、十数年、多少の体調の変化はありましたが、寝込むような事は一度も無かったので、今回は参りました。

TVを見ると震災の悲惨なニュースが続き、何も出来ない無力な自分を思い、私もちょっとしたPTSDになっていたのかもしれません。
地震関連のニュースを見ては涙が止まらず、ミクシイなどを覗いても、早々に関西に帰った知人が、毎日のように「あれ食べた」「こんな人と会った」とハッピーな事を書いているのを見ると、正直いい気はしません。まあ、こういう時こそ明るい話題を提供しようとしているのは判るのですが・・・。

こういう自分が弱った状態というのを、あまり経験していないので、ちょっとまごついているのかもしれません。朝起きても、ろくに食べるものも無いような行き当たりばったりの生活をしていたツケが、こんな国難と言われる非常時に回ってきたのでしょう。

             梅にメジロphoto MORI Osamu
という訳で、暫く更新が滞ると思いますが、今月中には心身ともに復活します。やるべき事はいっぱいあるのです。
暫しお待ちを。

© 2025 Shiotaka Kazuyuki Official site – Office Orientaleyes – All Rights Reserved.