ヤン・リーピンの衝撃は未だ続いています。時が経つにつれ、舞台そのものよりも彼女の舞台にかける姿勢への感銘が、私に多くの事を考えさせる様になってきました。
東京は一見平静を取り戻しつつあるように見えますが、そうではない。これからが本番です。今変わらなければ、日本は本当に沈んでしまう。何をどう変えるべきなのか、大いに問われているのだと思います。
変わるには「しなやかさ」が必要です。「優しさ」が必要です。そういった、今我々に求められている基本姿勢がヤンリーピンの舞台から感じられました。

何故、農民をスカウトして世界一流の舞台をやろうと思ったのか。それは、都会に住む洋舞・洋楽を勉強しているいわば半西洋人は、すでに本来の生活も身体も失い、民族の踊りが踊れなくなっているからだと思います。我々現代の邦楽人もそうですが、確実に感覚が矯正を受けている。古来からの生活様式はもはや現代には無く、良い声や、良い音の基準すら判らなくなって、綿々と伝えられてきた文化はここ何十年かで急激に失われつつあるのです。
そんな状況も含め、舞台を作り上げるには、様々な事をクリアしなくてはいけません。スポンサーやお金、広告etc.ヤン・リーピンは大きなヴィジョンを持ち、それら全てをクリアし、志を貫き、具現化させている。それをやり遂げるには、しなやかさを持って、状況に、人間に対応し、変化する力強さが必要です。
私のような末端の音楽家でも、舞台をやるには色々とあります。でもいつも思うのが、「しなやかさは優しさであり、力強さである」という事です。ちっぽけな自分の世界観だけでものを見たり、意見をしていては、人は何も納得してくれない。深い優しさを持って接すれば、自分と違う意見を持つ相手も受け入れることが出来、しなやかに変化して行く事を恐れなければ、強い絆も生まれ、ゆるぎない強さをもたらします。
深い優しさが無ければ、しなやかさも生まれない。そして変化する力強さも生み出せない。そこには反発しか生まれない。何だか邦楽界が見えてくるようです。

桜は何逆らうことなく、奢りなく、振り回されず、季節や環境に合わせて自分に与えられた仕事を全うしている。人間もそうでありたいのですが、どうしても我欲から離れられない。もっと咲いていて欲しい。桜吹雪が綺麗。そんな事すら人間の願望であり、欲でしかない。
欲はある種の原動力でもありますが、その欲は大いなるヴィジョンへ、次代への希望へと繋がっていかなければ、単なる自らを縛る鎖でしかない。
ヤン・リーピンの舞台からは充分すぎるくらいに力強さを感じました。でもそれは圧倒的に威圧する様なものではなかった。とてもしなやかで、優しい感じがした。そしてヴィジョンを実現した彼女の姿には、強い意志と共に、見ているだけで包まれてしまうような、ふわりとした柔らかさも感じたのです。
ヤンリーピンの興奮、未だ冷めやらぬ状態ですが、色々な湧き上がる想いも、ゆっくりと整理して少しづつまた書きたいと思います。
そんな興奮の最中、昨日は久しぶりに谷中のなってるハウスにて、ライブをやってきました。


今回のドラマーは、いつもの大沼アニキではなく、御大 小山彰太さんでした。小山さんは私が高校生の頃コンサートで何度も聞いていた方です。静岡で山下洋輔トリオのメンバーとして来ていたのですが、山下トリオ2代目のドラマーとして、若手新人のホープだった小山さんと、Saxの坂田明さんが目いっぱい跳ねる様にやってましたね。懐かしい。あれから早30年余り・・・・。
私がファーストアルバムを出した頃は、チェロの翠川敬基さんと小山さんと私でよくライブやってました。詩人の白石かずこさんが即興詩を読んで、我々がバックで演奏するなんていう、いわゆるコラボをやったりしました。それももう7・8年前です。
今回は久しぶりの共演でした。小山さんはとにかくアンサンブルするドラマーです。音量も控えめだし、以前はチェロ・琵琶・ドラムの編成で、マイクを一切使わずに充分アンサンブルが出来ていました。派手さは無いものの、とても音楽的にたたきます。いつもの大沼アニキとやる時は一発必中の「戦い」に挑むような感じでやるのですが、小山さんはその人柄そのまま、以前のように今回も穏やかな演奏となりました。どちらも面白いです。
途中から
大沼アニキも駆けつけてくれて、終演後は4時間近く、小山・大沼・塩高の三者飲み会に突入。3人ともテンション上がってしまって、カウンターの方が、「もうやめといた方が良いですよ」と声をかけるほどに・・・。
ジャズの先輩達とは本当に話が尽きません。やっぱり私は邦楽家ではないね。
こちらは昨日のお客様。今こういう時期に、来て頂いて、嬉しい限りです。皆さん音楽が好きで、左のお二人は尺八をやっているそうです。
他にも大勢来て頂きまして、本当にありがとうございました。
今年は花見も控えめで、春の華やぎもかなり控えめですが、桜は人間にはお構いなく、その春を謳歌しています。


目の前の現実を見つめ、対処してゆく事は何よりも大切ですが、どんな状況下でも、音楽や芸術・文化を失う事は出来ないのです。文化の無い人間はもはや人間では無い。音楽を持たない民族はありえないのです。
先日ヤンリーピンの「蔵謎」の舞台を観て来ました。蔵とはチベットの事。前作「シャングリラ」では雲南省の少数民族を従えて、舞台を作り上げましたが、今回はチベット地域の農民達をスカウトし、一から指導して作り上げています。原生態舞踊と評されるその舞台は、私に衝撃を与えました。
この舞台は聖地ラサまで五体倒地で巡礼をする老婆の姿を通して、老婆が出会う、各地域の民族の踊り・歌で構成された作品。輪廻転生・永劫回帰というチベット密教の奥儀をテーマにした壮大な舞台でした。

私は踊り手との共演が多く、国内のかなり舞踊団の公演を観て来ましたが、これほどまでに心揺さぶられる魅力的な舞台は、生まれて初めて!!もう書きたいことが山のようにあるのですが、何よりも私の心に響いたのは、自国の音楽・踊りを基に現代という時代に即して創造し、舞台を作り上げている事。いつも私がこのブログで訴えている事をそのまま具現化したものでした。
私は今まで邦楽界には今一つ目標に出来る人が見つかりませんでした。魅力のある人はいるけれど、「この人」という人は世阿弥位でしょうか。
ヤンリーピンは私の目指すものをやり遂げている。正にこれからの私の指針となるような人だと思いました。世阿弥、マイルスに続き、私が心から尊敬してやまない人にヤンリーピンが加わりました。



この美しさ。異常です。とても50代の女性とは思えない。これだけしなやかで姿の美しい踊り手は見たことがりません。
今回はターラ菩薩の役をやったのですが、もうどう見てもターラ菩薩にしか見えませんでした。
今回はチベットの五つの地域の農民を実際にスカウトし、振り付け演出芸術監督として指導し、舞台全てをヤンリーピンが作っています。確かにその踊りはもう信じられない位の存在感で、匂い立つような、震えるような魅力に溢れていました。あまりの美しい姿に涙が出てきました。
でもヤンリーピンの魅力は単に踊り云々では無いのです。舞台の全てを作り上げる、人間的な大きな器と実力。正に私が求めてやまない魅力をあまりにも沢山湛えています。

歌も踊り手が歌います。あの地声発声の素晴らしい歌を、踊り手自らが歌い、踊り、自分達の文化を高らかに歌い上げている。踊りはもちろんですが、その声は特に強烈で、もう聞いているだけで身震いするほどでした。やはり何度も書いているように、歌詞では無い、声質そのものにこそ感動が生まれるのだと確信しました。
古くから伝承されたものを現代という時代に合わせ構成し、人間の根本に迫る壮大なテーマに挑戦し、表現して行く。自国への愛溢れる眼差しと誇り。スケールの大きさ。充実した内容。もう書いても書いても言い表せないのです。
そこには日本の邦楽家のように、洋楽に媚を売る姿は微塵も無い。全くロックもジャズも出てきません。全て民族の楽器と歌・踊りで、民族の文化で勝負しています。邦楽器でアニメソングやポップスをやって、合奏団でクラシックもどきをやってご満悦な連中とは基本的に次元が違うのです。古典の権威に寄りかかる者、己の道だの何だのとのたまっている連中とは、別生物のようだと思いました。

あまりに色々な想いが湧き上がり、とても一度では書ききれないので、また次回書いてみたいと思います。

もう東京では桜が大分咲いてきました。世の中動き出してきた感じはありますが、夫々の気持ちと考え方で、行動してゆくのが自然な形だと思います。これからは日本の中だけでなく、世界的にも価値観が変わってゆくのかもしれません。いずれにしろ、ペースを取り戻すにはまだ時間がかかりそうですね。
友人の形態模写芸人 根本雅也君も、今月から元気に赤坂GRAFFITIでライブを開始するようです。彼の舞台を見たらきっと皆元気になると思うな。お勧めです。迷わずにがんばってくれ!!
根本雅也HP http://playsic.blog91.fc2.com/
さて、今日の御題は「二つの月」。この「二つの月」は私のデビューアルバムに入れた曲で、チェロと琵琶のための作品だったのですが、今年の川崎能楽堂でのまろばし公演に際し、尺八二管によるデュオに編曲しました。
この「二つの月」は9.11のテロの時に書いた曲で、二つの相反するものの「出会い~衝突~共生」という過程を描いた曲です。
古の昔から人間社会では、延々と対立が繰り返されてきました。源平合戦の例を挙げるまでもなく、日本でも皆、相争って歴史を刻んできました。個人レベルでも、合う人合わない人がいるし、こちらからどうコミュニケーションをとっても判り合えない人もいます。更には自分の中でも、もう一つの自分を感じ、驚き、時に嫌悪してしまう事もあるでしょう。
人間はなかなか自分を変える事は出来ない。変えようなんて思う時点でもう難しい。変われる人は、変えようなんて事すら思わずに、しなやかに変化してゆく。
しかしそんな簡単に変われない我々も、相反するものに出会った時に、戦うばかりでなく、お互いの違いを認め合い、共生してゆくという道もあるのではないでしょうか。その共生してゆく時に、お互いを認め合うのに、音楽は大きなファクターになるように思います。

音には形が無い。だからこそ何にも囚われずに感じることが出来る。これに言葉がついてしまうと、同胞にしかわからない意味、同世代にしか判りあえない内容が付きまとい、感じることの範囲が狭まってしまう。時代や国境を越えられない。
私達は、社会や歴史、宗教など、多くのものの中で生きざるを得ないし、そこから導かれたものが日本独自の感性となってゆくのだけど、それら私達を取り巻くものがあるが故に、一人間としての素直な感性でいられず、異質な物を受け入れる事が出来なくなっているのも事実です。特に邦楽人には、肩書きやら流派やら、受賞歴みたいな立場からしかものを見ないとんでもない輩がわんさかいる。
民族の感性を表した古典音楽は素晴らしい。時代を経て洗練もされ高い域に達しているものも多い。しかしその民族しか判り合えないものも多くある。かつて武満徹さんがNYに居る時に「音楽には国境があるんですね」と言った事を思い出します。
その点、音楽に至る前の音色そのものは、形が無いだけに、取り巻くものの色眼鏡を超えて、素直な人間としての感性だけで感じることが出来ます。
違う歴史を持った民族でも、音色の中にお互いの感性を感じた時、お互いを認め合えるきっかけになるのではないでしょうか。その感性は、そこから夫々の文化へと通じ、その後その深さをお互いが認識したら、戦いから共生へと道を繋げる事が出来るのではないでしょうか。
琵琶には独特の素晴らしい音色があります。あの音色だけで繋がり、分かち合える人が世界中にいっぱいいるのです。無国籍な形の音楽を演奏するというのではなく、日本のやり方でいい。ただ日本人にしか判らない歌詞(日本人でも判らない歌詞)や感性で固められたものを演奏するのではなく、どんな世代、民族の人でも入ってこれるようなものも積極的に演奏して行くべきだと思うのです。
残念ながら今の琵琶は、明治大正の時代に書かれた「歌」ばかり。歌詞も成立当時の感性で書かれているので現代人にはなかなか理解が難しい。今こそあの魅力的な琵琶の音色をもっと響かせなくては・・と思ってしまいます。弁財天さんも悲しんでいる事でしょう。

琵琶に限らず、素敵な音色で、出会い、繫がり、心を通わせ、二つの月が仲良く共に輝き、二つの月が寄り添って穏やかな時を過ごせる、そんな世界が出来上がってゆくといいですね。
photo MORI Osam
今日はちょっと花冷えの一日でしたが、4月に入り、外にはぐっと春の匂いが満ちてきました。心情的にも、皆少し落ち着いて、心機一転というところではないでしょうか。
先週よりすでに、桃・杏・ハクモクレンなど春の花は元気いっぱいに咲いてきていて、我が家の程近く、善福寺緑地にはもう桜の花がかなり咲いていました。
桜は、季節からの問いかけに答えるように、季節と響き合いながら、その最も美しい姿をほんの少しだけ披露します。正に季節と共鳴するように・・・。
このピンクの花は「陽光」という品種の桜で、もう満開に咲いていました。
震災直後は、本当に色々な事を考えさせられました。皆さんもきっと同じだった事と思います。大切な人を想い、自分に出来る事、やるべき事をあらためて自覚して、色々なものをちゃんと見極める目の大切さを感じ・・・・。等など色々と考え巡らせましたが、どんな形でも深い繫がりを持って、共に生きている仲間達は何よりも変えがたいものだ、と思わずにはいられませんでした。
被災地はまだまだ大変な状況だと思います。復興には5年10年とかかるでしょう。本当の支援はこれから。物もお金ももちろんですが、何よりも心が豊かになることこそ一番の希望の源だと思います。私は確かに無力ですが、私の演奏に興味を持ってくれる仲間も東北にはいます。その為にも私自身が希望に溢れていなければいけません。そんな方々にこれから最高の琵琶の音を届けたいです。
花が季節と響きあうように、人と人も響き合い、豊かな時間が生まれていきます。人夫々が響きを発して、最高のパートナーを探し出しているのかも知れませんね。
弁財天は古の昔から、サラスバティーとして、琵琶・ビーナを奏で、人々と響き合い、多くの共鳴・信仰を集めてきました。日本に渡ってきてからも、未だ我々はその音色と響き合い、導かれているのかもしれません。
響きあう魂が、更なる響きを奏で、
多くの仲間を繋げ、妙なる響きとなってゆくように、私の琵琶の音も、聞いている人と響き合い、大きく深いつながりが出来ると嬉しいです。
希望に溢れた春を迎え、妙なる響きが世に満ちて、深く愛が育まれますように。
photo MORI Osamu