過ぎゆく日々2011-11


今月はart salon 香音里や福島県立美術館、来月は近江楽堂で創心会、毎年定例の小さなアートカフェ、グリーンテイル、杉並公会堂大ホール、曳舟文化センター大ホールとめまぐるしいほどに演奏会が続いていますが、来年は少し楽琵琶作品の作曲に力を入れたいと思っています。

あまりのんびりしていると、ぶらぶらしているだけで作品も出来ないものなのですが、ゆったりとした時間は創作には大切。とにかく自分の理想の舞台をやるためには、内容が充実していないといけません。

その舞台はまだまだ小さなものかも知れませんが、とにかくその時々で納得する舞台をやってみたいですね。ここ2,3年、たまにですが納得できる舞台をいくつか経験させて頂いてます。今後はそういう舞台をもっともっと増やしていきたいです。その為には大きな視野と柔軟な感性、そして独創性のある発想がやっぱり必要だ、とやればやる程に思う日々です。

全ては舞台の為に!!

饗宴~現代に甦る中世世界

この所朝晩がぐっと寒くなってきました。やっと琵琶には良い季節となりましたが、明日2011年11月11日武蔵境スイングホールにて「饗宴~現代に甦る中世世界」といコンサートを企画しました。

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日本の中世、鎌倉から室町期は日本独自の芸能、文学が花開いた時です。今回は中世に成立した仏教思想を基にした新作を集めて演奏します。
プログラムは

プロローグ 尺八古典本曲
踊躍の時(東保光 作曲  薩摩琵琶・筑前琵琶・尺八・ピアノ)
二つの月(塩高和之 作曲 尺八デュオ)
陽光(安藤紀子 作曲 ピアノ独奏)
まろばし(塩高和之 作曲  尺八・琵琶)
平重盛(初代 橘旭宗 作曲 筑前琵琶弾き語り)
壇ノ浦(塩高和之 作詞・作曲 琵琶語り・ピアノ・ダンス)

です。題材は古典ですが、ほとんどが新作、または新解釈による演奏です。私はエンタテイメント音楽の演奏家ではないので、ノリノリで楽しいという演奏会ではないですが、30代の若手中心の勢いのある連中が気合いを入れて精進しております。ぜひぜひお越し下さいませ。

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常に人前に出る仕事をしておりますと、色々な人に恵まれます。時にあまり相性の良くない人もいますが、仕事を成就する為に、あの手この手でやり遂げる。そんな一癖ある人が私は結構好きです。まあ自分の中に同じようなものを見ているんでしょう。
人の想像できない発想と行動をし、あらゆる手を尽くし、たとえ理解されなくとも目的は必ず達成する、そういうプロの仕事人は格好良いです。今回出演の人達は、それぞれの個性を今、正に羽ばたかせようとしている時を迎えている人ばかり。彼らはこれからどんな風になって行くのだろう。魅力ある音楽家になって欲しいものです。

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人間生きていれば、自分では気づかないうちに、何かに囚われ、周りも見えず余裕がなくなり、調子良くやっていたつもりが、急にポキンと折れてしまう、そんなこともあります。まあそれも良い経験。強いものは更に強いものに必ずやられてしまう。常に柔軟な姿勢を持って、時代や周りと対応できるものだけが進化して行けるのは世の習いです。紅葉し、枯れてこそ、また芽吹くというもの。只闇雲にがんばって、抵抗して、突っ張っているだけでは自ずと限界が来ます。がんばると同時に色々なものを受け入れる事を学ばねばなりません。

私もご多分に漏れず、失敗に失敗を重ねてきましたが、とある出会いをきっかけに、「全ての出来事には意味がある」と近頃特に思うようになりました。
嬉しい時、有頂天の時、寂しい時・・動揺したり、舞い上がったり、本当に穏やかに一日を過ごすことは難しい。でもそれら一つ一つに必ず意味があり、メッセージがある。そこから何を学ぶかを常に問われている気がしてなりません。

      悟りの窓2011-11-1今月(11月1日)の悟りの窓

あなたはどんなメッセージを受け取りますか。

樂琵琶宣言

今回の楽琵琶のCD「風の軌跡」を出したことで、私の中で、色々と変化が出てきました。

私が一番最初に琵琶を習ったのは、四弦四柱の錦心流でした。しばらくやってみたけれど、弾き語りがメインの流派だったこともあり、器楽として琵琶を弾きたい私は、ほどなく器楽の演奏をよくやっている五弦の錦琵琶鶴田流に鞍替えしたのです。鞍替えしてすぐさまライブ活動に入ったものの、レパートリーも少なく、いつもギターのピックを持ち歩き「ギター弾いたらもっと凄いんだ」といつも自分に言い訳を用意していたのを想い出します。自信無かったんでしょうね。

        okumura photo9我が愛器 塩高スペシャル錦琵琶

3年ほどしてやっと琵琶でやってゆく決心がついて、その後、全曲私の作曲によるファーストアルバム「Orientaleyes」を出すことになったのです。それが今から10年程前の話。声は使っているものの、歌や語りは入っていません。この頃には変な迷いjacketsはなかったですね。レーベルもジャズのレーベルだったので、自分の音楽を思う形で世に出すことが出来、本当にただただ嬉しかったという記憶しかありません。沖至、坂田明、小山章太、詩人の白石かずこ、ジャズチェロの翠川敬基・・・こんな凄い音楽家が集うレーベルだったので、今までやってきたジャズがより進化し、私のオリジナルの音楽が、やっと形になり世に現れた、そんな想いでいっぱいでした。若さゆえの稚拙さも多々ありますが、今でもこのCDはお気に入りです。

その後琵琶奏者として活動して行くうえで、平家の語りが出来ないと仕事にならないので、弾き語りを始めたのですが、下手だ下手だと言われながらも、割と何でも起用に出来てしまう性質なので、まあ順調にやってきました。今考えれば、薩摩琵琶=弾き語り、という世界に囚われていたともいえるし、進化の途中だったとも言えると思います。

そういう中で楽琵琶に出会ったのです。さっそく楽琵琶でもライブを始めたものの、薩摩琵琶をパワフルに弾ききる事でしか、まだ表現することが出来なかったので、最初はギターから転向した時のように、「薩摩を弾いたらもっと凄いんだ」という言い訳をやはり自分に持っていました。なんというか私は進化していないですね。

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それでも楽琵琶の最初のCD「流沙の琵琶」を出す頃には、ようやく納得いくように弾けて来たのですが、まだ演奏会は薩摩と楽琵琶の半々でした。それが今から5年前。そして今回楽琵琶の2枚目「風の軌跡」を出すことで、自分に一つの決心がつきました。

色々やってきて、やはり私は歌う人ではないと思います。もともと現代音楽志向だし、ポップスは聴かないし、ロックでもジェフベックの一連のインストものやプログレに憧れてきた方なので、やはり器楽の方が合っている。今回のCDは色々な意味で、私の一番私らしい作品になったと思っています。「Orientaleyes」から10年。紆余曲折を経て、薩摩琵琶の「弾き語りでなければ」という呪縛も解け、やっと自分の音楽を取り戻した感じがしています。

薩摩琵琶はどうしても語りとセット、というのが今までの琵琶の世界ですが、私はそもそも自分の作曲作品を琵琶という魅力的な音色の楽器で弾く事から出発し、それ目的としていたので、10年経ってやっと、薩摩琵琶の因習から解放され、自分を取り戻したという感じがしているのです。これからは薩摩琵琶でもがんがんインストものをやって行きたいですね。

個人の感情を表現する音楽は、私はあまり好きではないのです。個人や人間はあくまで陰にあって、音が無限に想像力を掻き立てるようなものであってほしい。そのためにはやはり私の音楽に言葉は無い方がよいのです。そして空間がいっぱいあった方がよい。言葉という限定されたイメージは、私の音楽には向かない。声は魅力的だけど、言葉を乗せる音楽は他の人に任せよう。

楽器としての琵琶の音色は、私にお任せあれ。これからが楽しみだ。

五線譜の風景

邦楽と五線譜というのは、およそ水と油、というのが一般的な見方で、琵琶人にも五線譜を使うことに反対する人が多いです。その気持ちはとてもよく判るのですが、五線譜というものは、様々な情報が書いてあってとても便利。邦楽に於いて五線譜を嫌う人は、そもそも五線譜の捉え方が問題なのです。私はそれを長年訴えてきているのですが、なかなか伝わりません。「五線譜イコール洋楽ではない」これを何とか判って欲しいと思っているのですが・・・。

       etenraku雅楽譜

五線譜は、ご存じの通りクラシックの記譜法ですが、20世紀ジャズの時代になると、五線譜に対する接し方が大きく変わってきます。クラシックでは「ド」と書いてあれば、絶対ドだし、ドミソと書いてあればその通りに演奏しますが、ジャズでは譜面を基にして、自分で音を変化させたりフェイクさせたりして、あくまで自分の考えで表現をします。五線譜はあくまでツールでしかないのです。まあメモ書きのような感じとでも言えば良いでしょうか。

日本はクラシック式の教育を導入したので、ドと書いてあれば、正確なドを弾かなければならないと思い込み、尺八にフルートのようなキーをつけたり、ドレミ調弦のお箏を作ったり、と涙ぐましい改良してきたのですが、それはやっぱり邦楽としてはおかしい。オークラウロ
だからこそ、今でも五線譜に対して強力な反発があるのだと思います。特に子供の頃ピアノやってました、ギター弾いてました、という人は「五線譜はこう弾くべき」という事をクラシック式に洗脳されているので、実にやっかいですね。どうしても一度思い込んだものを解放できない。もっと柔らかく、「ド」と書いてあっても、ドのあたりの音を弾けばいい位に思えればよいのですが、そうはいかない。何度話をしても判らない人が多いですね。

右の写真はオークラウロです。ちょっとわかりにくいが、尺八にクラリネットのようなキーが付いているもので、一時期は結構使われたそうです。

五線譜をジャズ式に捉え、譜面の先に自分の音楽を見て、五線譜を単なるツールと考えると、五線譜は大変便利な機能満載のものになります。五線譜の絶対音程を基本に邦楽器を考えるのでなく、あくまでコミュニケーションツールとして考える。そうすれば、従来のクラシック式のやり方に囚われることは一切無いでしょう。大体クラシックでも五線譜に何でも書き表せるなんて事はなく、皆さんそこから考えて考えて「音楽」を紡ぎ出しているのです。楽譜に書かれている通りに弾いて終わりなんて事はありえないのです。この辺も「楽譜に書いている事を弾いているだけ」なんて具合に、邦楽の人は誤解してますね。あくまで譜面の先に広がる音楽を表現しているのです。
      

         
sirocco参考これは、今度発売したCDの中の曲の譜面。こういう風に、必要とあれば五線譜と明治に出来た琵琶譜を混ぜて書けば良いのです。
あくまで出て来る音楽の為に譜面はあるのであって、五線譜だろうが琵琶譜だろうが、関係ないのです。素晴らしい音楽であればいいのです。

しかし日本人は本当に本当に本当に舶来コンプレックスが根強く、「そんなこと言っても琵琶は弾けないことがいっぱいあるんですよ」という人も多いですね。よく考えて欲しい。ピアノだって音は伸ばせないし、ヴィブラートすらかけられない。つまりこういう発言をしてしまうのは、「ギターのように、ピアノのように」という具合に、自然と洋楽器を基本という風に感じているからです。ピアノはそんな制約の中で、あれだけ素晴らしい音楽を奏でているのに、琵琶弾く人は「琵琶では無理」という。あれだけ素晴らしい音色と表現力があるのに・・・残念でなりません。こういう硬直した頭はいつになったらほぐれるのでしょうか。若い方が、皆こうやって洗脳されるかのように感性を狭められてゆく姿を見る度に悲しくなります。まあそれがその人の感性の限界かもしれませんが・・・・。

ピアノで指が届かないような譜面を書く作曲家は勉強不足の半人前。同じように五線譜だろうが何だろうが、琵琶で弾けないような譜面を持ってくる作曲家は同じく勉強不足でしかありません。私はどんなベテラン作曲家の作品でも、具合の悪い所があればどんどんと突き返します。それにはちゃんと理由を説明しなければ、相手だって納得しない。全体の構成、琵琶の構造等、色んな事をちゃんと見渡して、作曲家が「確かにあなたの言う通り」と思ってくれればどんどん良い作品になって行きます。
2度3度は当たり前、10回以上突き返したこともあります。演奏家と作曲家は主従ではなく、一緒になってやっていけば良いのです。その為にはこちらにもそれなりの知識、見識、理論を持っていなければいけません。そういう勉強も演奏家に必要なのです。特に琵琶のような特殊とされる楽器の演奏家は、その特殊さを現代の作曲家に説明するだけのものを持っていなければ良い作品は生まれて来ません。そういう勉強はしたくないという人はお稽古で習った曲を楽しんでいれば良いだけのこと。

作曲家とコミュニケーションを取るための共通言語として五線譜を使い、こちらも初見で大体読めれば、曲全体を把握できるし、対等に話が出来るのですが、こちらが中途半端にしか理解できないのでは、どうしても作曲家が主人になってしまいます。こちらに対等の知識があれば、逆に琵琶という専門知識を持っているこちらの方に歩み寄ってくるというもの。

五線譜を自由に使えるようになると、箏や尺八など他の邦楽器とすぐに合奏が出来ます。日本では楽器それぞれに譜面が違うので、やはり国内においても共通言語が必要なのです。
スタジオなどでは勿論五線譜を使うのですが、スタジオに入って、録音が終わり帰るまで、せいぜい30分ほど。それだけプロの現場では五線譜を自在に読めて、且つ音楽として表現出来るスキルが必須条件になっているのです。

mix2何も洋風にやる事が目的ではありません。邦楽をやれば良いのです。琵琶を琵琶らしく弾けば良いだけの事。
もっとグローバルに琵琶の魅力を聞いて欲しいのなら、色々な人と音楽を分かち合いたいのなら、そんな希望を抱いている人なら、五線譜を自由に使おう。そしてプロで食べて行きたいのなら、初見で読めるようにしよう。只それだけなのですが・・・。プロとしてのスキルを磨くという事を邦楽家はやりませんね。残念ですが・・・。
プロは限られた時間の中でクォリティーの高いものをやらなければならないので、気持ちさえあれば通じ合える、なんて悠長なことは言ってられないのです。

ぜひ頭を柔らかくして、固定概念を捨てて、もっと琵琶が、邦楽器が、そして邦楽という音楽が活躍できる場を演奏家みんなで増やしていきたい。

さて、明日から関西ツアーだ。気合い入れて行こう!!

プロの条件

琵琶なぞやっていると、本当に色々なところに出入りします。そして年々その幅が広がってきています。世の中そんな風に渡っていると、音楽家に限らず多くの芸術家にも出会いますが、他のジャンルから琵琶を眺めてみると、琵琶のような特殊な楽器には、プロという人がほとんど存在しない。 かわりに「プロのようなつもり」の人が多い。それはまあ面白いものを生む場合もあるので良いと思うのですが・・。
           
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お店をやるには、美味しい料理だけでは成り立ちません。店構えから接客、値段設定、コストや利益の計算等々、ありとあらゆることを考えて、それらが上手く回ってはじめて一軒のお店が成り立ちます。それと同じように音楽家も舞台全体に対する責任があるのです。ただお稽古した十八番だけを好きなようにやっていたいのなら、アマチュアでいれば良い。プロでやりたいのであれば、演奏内容は勿論のこと、衣装から照明から、プログラム、受付対応に至るまで、舞台全てに責任を持たなくてはいけない。小さな世界の中で、お稽古の成果しか演奏しようとしない、そんな音楽を、世の中の誰が聴くのでしょう??

現在では邦楽より雅楽の方が断然集客力があります。お客様の中には勿論趣味で稽古している人も雅楽11-10-23_002いますが、近頃は関係者以外の人達がわんさか押し寄せているのです。
これはひとえにプロデュースの成功と言えるでしょう。スターが出たと言う事も大きいし、「雅楽がいかに魅力的なものか」をしっかりと宣伝している。演奏家ははっきり言って、雅楽11-10-23_004今までのものをそのままやっているだけなのですが、雅楽は周りを取り巻く環境がしっかりしているのです。だから凄い集客力があるのです!。そして、最初から最後まで舞台を構成するノウハウが、伝統的に備わっていることも確かな事です。

私は「一流と二流の差は歴然としている」と思っています。生徒集めてお稽古付けているという程度はセミプロ。つまりプロではない。街のお師匠さん。
オリジナルでは未だ仕事できないけれど、色々なところに呼ばれて、それなりにお金も頂いているのは三流。
自分がリーダーとなって、小さいながらも舞台を張れて、且つオリジナルで勝負しているのが二流。
そして一流は自分のオリジナルを多くの人が支持し、大きな舞台を張れる人。これが私の中での区分です。

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一流には一流の器があると思います。この器の大きさが一流と二流の差。一流の技術は確かにずば抜けて凄いですが、二つの差は結して技術では無いですね。
自分も含めて、ネガティブな思考を超えられない人もいれば、自分一人だけでがんばっていて、この道で生かされている感謝を忘れてしまっている「我見の徒」も多く見受けます。この辺が器というもの。

バルトーク私は自分の器以上には成れませんが、この器でやれるところまでやっていきたい。高いギャラも一流のプロの条件ですが、それ以上に後々までも残って行くような音楽を作り、演奏して、内容充実でやりたいものです。

そして志の高い日本音楽家にもっともっと出会いたいのです。

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