昨日の東京は桜が満開。昼間は絶好の花見日よりでした。
左はソメイヨシノ発祥の染井稲荷神社の桜。右は地元の善福寺川緑地。桜を眺めていると、気分も晴れやかになって、これからの音楽活動にも弾みを頂いた気分になりました。
相変わらず多くの人と会い、話をし、とてもとても元気をもらっていますが、長かった春休みもそろそろ終わり、琵琶を手にする機会も増えてきました。活動開始です。
桜は人間を喜ばせるが如く毎年咲きます。在原業平や西行の気持ちもよく判りますね。桜を見ていると、満開の姿にその生命力の全てをかけているかのように思えてきますが、今が盛りと咲き誇る大木も、一年の内に輝くときはほんの一瞬。大木たりとも、やがては朽ち、その命を全うして果てるのです。命あるものならば、毎年同じということはあり得ないのが世の中というもの。
楽曲もいつまで経っても同じというものはありません。形に囚われていては、形骸化してその魅力も輝きも失せてきます。古典でも流派の曲でも常に創造性を持って取り組まなくては、ただの焼き直しに終わって、その命を保てない。ちょっとアイデアを加えた位では、とても輝きません。すぐに見すかされてしまいます。これは自分の作った曲にも言えることで、自分がいつ演奏しても新鮮な気持ちでその曲に向かっていけなくなったら、もう演奏は出来ないのです。
善福寺川緑地
昨年から「二つの月」という尺八二管のデュオ曲を、尺八琵琶のデュオに直そうと思って、ぐずぐずしていたら、来月ライブを一緒にやる尺八の方に「是非やってみたいのでがんばってくれ」との嬉しい言葉を頂き、ただいま再挑戦している所です。
この曲は元々はチェロと琵琶のデュオ。それを尺八二管に編曲し、今度また琵琶と尺八に姿を変えている。色々な魅力があるから変わる事が出来るのか、それとも姿を変えないと生きて行けないからなのか・・・・。
私の作品がこれから、他の誰かによって演奏されることがあるかどうか判りませんが、流派を作って伝承させても、形骸化に陥る例があまりにも多いので、私と面識のない一演奏家が意欲的に取り組んでくれると良いですな。激しい創造力を持って、私の作品に新たな命の煌めきを与えて欲しいものです。

バッハの無伴奏Viソナタ&パルティータをこの所よく聞いています。この曲は演奏者によって全然違う。いつの時代も色々な演奏者に色々な想いを持って演奏され、その生命力はどんどん豊かに増してくるようです。それはどの時代にあっても創造性を掻き立てられる魅力的な作品だからこそ、ますます輝いて行くのでしょう。譜面上は同じでもその内面は、演奏者の凄まじいまでの創造力によって様々な変化をしてきているのです。
ヘラクレイトスの「パンタレイ」(万物流転)」と言う言葉をご存じでしょうか。命あるものはもちろんのこと、一見変わらないような物体でも、芸術作品でも、時代により、人により価値や意味が変わり、存在自体が変化している。これが人間の作り出す社会に於いての、万物の姿なのだと思います。人間が作り出すものには全て命があると思えば、自然界のものでなくとも確かに納得です。
変わらないものは無いのかも知れません。古典と言われるものは正に内面変化の代表みたいです。変わらないもの、それは「万物は変わるという事」位でしょうか。
私自身も、日々の出逢いや経験によって常に多くの変化をしています。しかしそれらが次のステージに私を導いてくれるのです。
さあ、舞台に向かいますか。
花粉もようやく収まり、やわらかい春の陽気に包まれて、やっと動き出し始めました。今年のオフシーズンは例年になく色々と考え、多くのアイデアが生まれました。
2012台湾
私はすぐに調子に乗り、奢り、失敗をする。そういう人間です。それを未だ繰り返していますが、失敗する都度、周りに居る心深き、広き人々が私を諭し、反省を促し、次の階段へと後押ししてくれました。昨年も数多くの失敗しました。
そんな私でも、今後の自分の方向性がそれなりに見えている気になっていました。しかしどこかで今一つすっきりしなかった。言葉では色々と書けるものの、心がどこか追いつかなかった。そこでこのオフシーズンに、そのすっきりしない心の元を辿ってみました。
私は本来考える必要も無い目の前のことに囚われて、自分の中のエゴや意地を自分自ら増長させて、それらに振り回されていました。色々な良き仲間達との語らいに導かれ、遅まきながらここに来てそれにやっと気づき、霧が少しずつ晴れてきました。
新たな気持ちで4月からの演奏会をやっていきたいと思います。

田端明先生という方をご存じでしょうか。ハンセン病回復者で、色々と著作を発表している方です。ハンセン病は医学的に伝染しないものと判っても、法律で隔離政策がとられ、患者達は死んでも遺骨は墓にも入れてもらえず、生きていても死んだことにされ、人生を否定されるような、それはそれは壮絶な生活を強いられてきました。小泉政権の時にやっとその法律が無くなりましたが、未だに偏見は残り、続いています。
私は田端先生が書いた文章を、ことあるごとに読み返してます。先生は短歌なども書く方で、別に文章が上手なわけではないですが、その想い、心が身に滲みてくるのです。
先生は21才で瀬戸内海の長島にあるハンセン病施設愛生園に入り、5年後に失明したそうです。私が書くより、是非先生の文章を読んで頂きたい。色々あるのですが、先ずはこの言葉を。
「命は預かっているもの。頂いたものでも、授かったものでもありません」「生きることを許され、生かされている命」と言っています。お寺なんかで何度も聞き、自分でも何度も書いているこの言葉が、先生の文章によって、やっとストンとこの身に落ちてきました。ご興味のある方は先生の名前で検索をかけてみてください。
私は、先生の文章を読む度に涙が流れます。でも私は今まで何度も何度もこの文章を読んで、涙を流してきたのに、ろくに判っていなかった。先生は自分の辛い人生を吐露しているのではない。人間のあり方を綴っているのです。今でも判ったつもりはないですが、最近になってやっと、これを読んで自分の姿がまざまざと見えてきました。自分がどんな生き方をしてきたか、自分のエゴで自分自身がいかに振り回され、時に周りを傷つけ、深い業の中にいたのか見えてきました。

神妙な事を書きましたが、別に出家したわけでも、悟ったわけでも何でもありません。ただ自分の姿が見えてきたのです。良いところも悪いところも・・。
これからも音楽的芸術的な指向は何一つ変わりません。むしろもっと先鋭的になるかも・・。やると思ったことはどんどんやっていきますが、今は心の霧が晴れ、解放された気分になりました。
これからがまた楽しみになりました。
花粉が舞い飛ぶ日々の中、ぬくぬくとくすぶっていたのですが、昨日は雨で花粉の心配も無かったので、たまには外に出て見聞を広げようと思い立ち、Met Live Viewing ヴェルディの「エルナーニ」を観てきました。

左の男性ががエルナーニ役のマルチェッロ・ジョルダーニ。相手役のエルヴィーラには新人のアンジェラ・ミードという若手のお二人。ここに以下の二人のベテランが加わり重厚な舞台となっていました。
この方はカルロ王役のディミトリ・ホヴォロストスキー。独特の発声による見事なバリトンでした。
そして写真が小さいのですが、このバスのフェルッチオ・フルラネットが本当に素晴らしかったです。さすがの存在感。今回一番のお気に入りです。
ヴェルディの作品は大げさな感じではあるのですが、歌手の方も気合いが入るようで、「ヴェルディ歌い」と言われるヴェルディ専門に歌う方がいる位、特別なもののようです。日本人にはちょっと理解しがたいような展開、濃~い表現等満載ですが、言語も何も飛び越えて酔いしれることが出来ました。歌に関しての考察はまたいつか書きます。

Metの舞台を目指して世界中からオペラ歌手が集まり、オーディションでしのぎを削って役を獲得している。そんな新人が、主役としてドミンゴやパバロッティなどの超一流と共演するのです。肩書きではない、実力でトップにまで行ける、こういうシステムは実に素晴らしいです。受賞歴や肩書きで、格がどうのこうのと言っている所とは大違い。
もちろん監督はじめ、美術や演出のスタッフも最高の仕事をする。もう凄いクウォリティーに仕上がらない訳がないのです。そして劇場には溢れんばかりの観客が待ちに待っている。客席に居る観客の顔を見ると、オペラを愛し、Metを愛し、「これこそが我々の文化なのだ」と叫びたい位の喜びに満ちて、その時間を謳歌している。
この熱気、この充実、これこそが舞台!!。オペラが、音楽が人々と共にあるというのは本当に素晴らしいです。


日本では、音楽をやっていると「良いご身分で」なんて言われてしまうお国柄。特に邦楽は働く必要のない人がやって居る、というような現状が未だ続いています。少しばかり活動しているだけで、「プロです」なんて顔してまかり通る、そんな状態なのです。
今の日本の伝統芸能は、実はほとんど明治期に出来上がったものですが、日本人自体がそういうことも全く知らない。誇りを持ってオペラを味わい楽しんでいる観客とはあまりにも違いすぎると思いませんか。
私は、現代でも過去でも大衆芸能が人々と共にあるなんてのは、マスコミに操作された幻想でしかないと思っています。どんなタイプのものがあっても良いと思いますが、単なる流行ではなくて、我々が何代にもわたり、誇りに思えるような音楽が、この日本の社会の中に無いのがおかしいのです。
その場が盛り上がればよい、楽しいが一番・・・、そんな程度の音楽で満足ですか?私は嫌です。

Metのオペラを待ち望む観客のように、日本人が自国の音楽を誇りに想い、そしてそれを楽しめる。そんな国になって欲しいのです。
今日は元気をもらった!!
この所晴天が続き、春らしくなってきました。同時に花粉もかなり飛ぶようになり、私は引きこもり状態になってますが、先日、台湾の友人からは桜の便りが届き、ゆるゆると和みました。


日中、ぬくぬくと逍遙しながら、相変わらずの日々ですが、最近は特にクラシックをよく聴いています。
最近のお気に入りはこれ。オーギュスタン・デュメイとマリア・ジョアオ・ピリスのデュオ。音が出た瞬間から、なんだか音がキラキラと煌めいているのです。音楽の喜びを全身に感じて、二人とも笑顔に溢れている情景が見えるんですよ。
CDを貸してくれた方にそんな印象を伝えると、「二人は共演をきっかけに、あまりの相性の良さに感じ入り結婚したとのこと」あの喜びに満ちた煌めきは愛情でもあったんですね。こんなにも音に現れるとは驚きです。

そしてこちら百万ドルトリオといわれた、ハイフェッツ、ルービンシュタイン、フォイアマンによる演奏です。音がとても品良くブレンドされていて、ふくよかで、豊かな音楽が響き渡ります。ただ名人が集まったというだけではありません。上のお二人のような煌めきとはまた違い、実に落ち着いていてエレガント。これぞヨーロッパの文化という感じです。
演奏家はその考え方一つで、全く違った音楽を奏でます。アート指向の方、ショウビジネス指向の方、指導者としての意識の高い方、それぞれの音楽があります。
私は自分の思う音楽を演奏する方が先なので、どうしてもショウビジネスとは遠くなって行きます。しかし生来のおしゃべりのお陰で、私のMCがそこそこ面白いらしく、舞台でも何とかこの顔と姿でやりくりつけています。
![IMG_3405[1]](https://biwa-shiotaka.com/wp-content/uploads/2012/03/9b3206ca.jpg)
私は20歳頃ナイトクラブのバンドマンを数年やっていました。1日4ステージ、スタンダードジャズを演奏するのですが、これはただの食べて行くための音楽でした。確かに色々勉強になりましたが、私は「喰っていく」ために意にそぐわない音楽をやるのは無理なようです。また「喰っていくため」の芸として音楽を捉えることも無理なようです。プロとして、生活できるだけのお金を稼げないようでは、半人前なのは重々判っていますが、たとえ食べていけなくとも自分の音楽はどこまでも純粋でありたいのです。高橋竹山なんかからすれば、甘ったれもいいところだと見えるかもしれません。しかし音楽で収入を得ていても、私が「喰っていくため」に音楽を選択することは、あり得ないのです。
上記のCDを貸してくれた方は、私の少年時代をよく知る方で、私の1stアルバム「orientaleyes」を聴いて「あの頃の君のまま、同じ姿をしていて迷いが無い」と言ってくれましたが、自分の思う道を進んでいる時には迷いなどありようがないのですね。あのCDから10年経って、またこれからも自分の姿のまま、自分の思う音楽をやっていきたいものです。

桜は何の作為もなく、変な思い入れもなく、ただあるがままに咲き、そして散って行く。私も素直な自分のありのままで咲き、そして散って行きたいものです。
今日は、まばゆいほどの春の陽差しが注ぎ込んでいます。私は相変わらずのお散歩おしゃべり三昧で、毎日本を読み、音楽を聴き、譜面を書き、季節を眺めて暮らしています。そんな生活をしていると、季節の移ろいに敏感になり、花の姿から、芸術家やその作品から、多くの示唆を与えられるのです。


こちらはいつもお世話になっている陶芸家 佐藤三津江さんの作品。上段左から「月の記憶」「美土な旋律」下の作品は「アビアント」というタイトルがついています。
彼女の作品に接していると、とても自由な精神の躍動を感じます。奇抜というのではない。何かに対抗しているとか、解放されるとかではなく、何ものにも囚われず自由ということ。そこが彼女の作品の魅力です。
私は演奏しているだけではどうにも収まらない人で、とにかく作品を作りたいという願望が強い。古典でもない流派の曲をやるなんて、逆立ちしても考えられない。そういう私は、ともすると何かに対抗することでエネルギーを燃やしたり、がんばってしまう。そういう時に佐藤さんの作品を見ると、自分の姿がよく見えて、本来の自分が取り戻せるのです。
こちらは音楽学の石田一志先生の「モダニズム変奏曲──東アジアの近現代音楽史」という本。近代からの音楽の流れが、多方面の視野を持って描かれている。作曲という行為がどういうものであったのか、その時邦楽はどう時代と寄り添って行ったのか。そういう先輩達の軌跡を読んでいると、ワクワクしてきます。私の好きな宮城道雄などの活躍する背景などは、読んでいるだけで活力が沸いてくるのです。
外に出れば、都内の梅花はもう盛りのように咲き、椿のつぼみを観ても希望に溢れているかのよう。あらゆる命が芽吹くこの季節は、私に新しい時代へと進むことを促しているようです。
これまでの人生を振り返ると、私には10年周期みたいなものがあり、今年はその新たな一年の始まり。この始まりの年に、何が始まるのか。希望と不安と煌めきが渦巻いています。
