今週は宮地楽器ホールでの「9.11メモリアル」と、琵琶樂人倶楽部~薩摩筑前聴き比べをやって来ました。
以前人形町楽琵会で「二つの月」を共演した時のもの
9,11の方は前回お知らせした通り、拙作「二つの月」をヴァイオリンの田澤先生と私のデュオに、津村禮次郎先生の舞が入って再演したのですが、以前やった人形町楽琵会の時とは違い、会場が広く響きも抜群でしたので、津村先生も自由に動くことが出来、実にドラマチックな舞台となりました。やはり自分が思い描いているものが実現するというのは嬉しいですね。
この夏はヨーロッパへのツアーが無くなって半月ほど空いてしまい、強烈に暑い日が続いていた事もあって、ずっと家の中に居ました。幸い創りかけの曲を完成させたり、レパートリーを見直したりと、わりに有意義に過ごすことが出来、嬉しい夏でした。
また最近はコロナ自粛が一段落着いてから、何か潮目が変わったのか、音楽活動も次の段階に入ったように感じています。私は10年位(早い時は5年程)の周期で活動内容が変化して行くのですが、今は新たなページが開かれる分岐点なのでしょう。これまでの活動の在り方はこれから一変すると思います。
今一番感じている事はやはり演奏会のやり方ですね。集客が以前のように行かなくなってきている感じがあり、自主企画公演を開くのがちょっと厳しいですね。お陰様で琵琶樂人倶楽部は細々と毎月楽しくやらせてもらっていますが、もうCDがほぼ無くなり配信でのリリースが一般的になってくると、演奏会も変化して行くのは必至であり、宿命ですね。従来の演奏会の形は無くならないと思うのですが、やはり集客+同時配信のような形が一般的になって行くのだと思います。つまりPCと音楽がより密接になって行くという事です。
音楽を創って行くという事は、日々刻々と留まる事無く変化して行く日常や社会と対峙する事でもあるので、音楽家として生きて行く以上は、活動スタイルに関してはどんどんと変化せざるを得ませんね。明治にSPレコードが登場した時もそうだったでしょう。永田錦心は正にSPレコードという当時の最先端メディアに乗って時代の音楽界に登場したのです。そんな時代の変化を拒否していたら音楽活動はやって行けません。音楽はやればやる程に生きもののように感じます。
photo 新藤義久
私の場合ショウビジネスの世界にいる訳ではないので、売る為に音楽性が変わるという事はないです。琵琶を手にした最初から、弾き語りではなく現代日本の音楽をやるという想いで一貫していますので、その音楽的な内容は全く変わりようがないですね。しかし以前作った曲も時が経つと自分の中での意味合いも変わって行きます。先日演奏した「二つの月」は、9.11のテロの後、思う所あって作曲したのですが、1stアルバム「Orientaleyes」をリリースした時でもあるので、あの時も私の新たなページが開いた時だったのでしょう。最初はチェロと琵琶のデュオでした。それが15年以上経って、あのテロの意味にも様々な展開があって、私の中でも事件当時とは考え方が変わったことで、2017年にヴァイオリンと琵琶に編曲し、曲の持つ重みもより一層大きくなりました。今では私の最重要のレパートリーとなっています。ヴァイオリニストの田澤明子さんという、他にはあり得ない才能に出逢ったのは、正に新たなページが開かれた瞬間だったと思います。
その他の曲も作った当時とは私の感性も深まって来ているし、世の中の変化もあって、懐メロをやる様には演奏出来ないのです。デュオなどでパートナーと共にやる曲は尚更、自分だけでなくパートナーも変化して行くし、表現方法も想いもそれぞれに変わって行くので、そんなこともあって曲は生き物のように進化して行くのです。
琵琶樂人倶楽部も11月で16周年、開催も190回となります。最初に始めた時の事はよく覚えています。琵琶樂の様々な姿を世に紹介したいと琵琶製作者の石田克佳さんに相談し、先輩の古澤月心さんに声をかけ、会場の名曲喫茶ヴィオロンのマスターにも話を持って行って、毎月第二水曜日を一年丸々押さえてもらって、私としては結構な勢いでスタートしました。新たなページがめくられた瞬間だと思っています。
先日は筑前琵琶の鶴山旭祥さんをゲストに迎え、筑前と薩摩の聴き比べをやったのですが、楽しい時間を過ごさせてもらいました。鶴山さんとはもう20年程お付き合いをさせてもらっていて、今でも年に数回は御一緒させてもらってますが、私に無いものを沢山持っている鶴山さんの演奏はいつも興味深く、先日も色んな気づきを頂きました。昔からずっとお付き合いのある方とこの琵琶樂人倶楽部で今でも御一緒出来るというのは本当に幸せな事。それにお互いの音楽もそれぞれに深まり、終演後の琵琶談義も実に面白いのです。こんな具合で琵琶樂人倶楽部もやって行くうちにゲストに来てくれる人も自分も、開催内容も、ゆっくりと変化してきました。ここ数年は毎月ゲストを迎えてやるようにしているのですが、毎年新しいゲストが一人二人増えますね。毎年9月に来年一年間のスケジュールを組んでいるのですが、来年も新たなゲストに声を掛けているところです。また一年楽しませてもらいますよ。
私は年を経るごとに、何だか本のページをめくって行くような感じに思えてきて仕方が無いのです。次を自らの力で切り開いて行くというよりも、行くべき所に導かれているという感じです。20年、30年前の過去も、単に過ぎ去ったものではなく、ページを前の方にめくり戻すと、さっとその頃が甦る。あまり昔の事とは思えなくなってきています。まあ鏡を見ると随分と顔は老けてしまいましたが、感覚だけは物理的時間を軽々と飛び越えてしまうのです。もしかするとこういうのが年を取るという事なかもしれませんね。
30年近く前。ターンテーブルやアナログシンセを入れてガシガシやっていた頃
そしてもう一つ。年齢を重ねて行くと、自分に嘘はつけなくなります。取って付けたように和風っぽい感じを出したり~例えば地方の民謡を取り入れたり~すると、とても違和を感じてしまいます。特に民族色の強い音に関しては、風土も歴史も自分の中に無いものは、所詮物真似以上にはならないのです。それはその音楽へのリスペクトもないという事ですし、自分の音楽にとっては余計なものになってしまう。そういうものはもうやりたくないですね。
私の友人に「YMOは当時の日本の民族音楽だ」とよく言っている面白い人が居るのですが、私は実に良くその言葉が判るのです。70年代から80年代に静岡と東京で暮らしてきた私にとって、縁もゆかりもない東北や沖縄の民謡は私の持っている風土の音楽ではありません。今は民謡歌手も各地の歌を歌うようになりましたが、もはやそれは今まで言われてきた民謡ではないですね。「民謡」というジャンルの音楽でしかない。自分が生まれ育った土地や風土そして歴史があってこその民謡であり、雪が降るのを見たことも無い私が、津軽民謡を真似して演奏しても、それは偽物で、且つ嘘でしかないのです。それよりも高度成長の好景気の中で物に溢れ、贅沢を満喫していた当時の日本全体の暮らしを考えたら、よっぽどYMOの音楽の方が当時の日本人の感性を代表していた「日本の民族音楽」であり、またあの頃には、その日本の民族音楽が世界に飛び出て行った、そんな時だったのでしょう。
阿佐ヶ谷ジャズストリートにて Flの吉田一夫さんと
個人的な事で言えば、20代の頃(まだYMOが流行っていた頃)、私はジャズにどっぷり漬かっている状態でした。しかしどうも息詰まりを感じ、自分の音楽が見つからずもがいていたのです。そんな時に琵琶を勧めてくれた作曲家の石井紘美先生との出逢いは正に運命でした。あの時私が開くべきページが目前に示され、導かれるようにして今に至るのです。これからもまた新たなページをめくって行くのだと思いますが、身にまとわりついた知識やキャリア、技術は重たい鎧にしかなりません。ほとんどの方がそういう身に着けたものを捨てられず、活動をする程に重たい鎧を自分でも知らない内に背負ってしまうものです。そんなものはどんどん脱ぎ捨てて、身軽に自分のありのままの姿が出てくるような、リアルな音楽を創りたいですね。次のページをめくる時はもうすぐのような気がしています。