今日は、まばゆいほどの春の陽差しが注ぎ込んでいます。私は相変わらずのお散歩おしゃべり三昧で、毎日本を読み、音楽を聴き、譜面を書き、季節を眺めて暮らしています。そんな生活をしていると、季節の移ろいに敏感になり、花の姿から、芸術家やその作品から、多くの示唆を与えられるのです。


こちらはいつもお世話になっている陶芸家 佐藤三津江さんの作品。上段左から「月の記憶」「美土な旋律」下の作品は「アビアント」というタイトルがついています。
彼女の作品に接していると、とても自由な精神の躍動を感じます。奇抜というのではない。何かに対抗しているとか、解放されるとかではなく、何ものにも囚われず自由ということ。そこが彼女の作品の魅力です。
私は演奏しているだけではどうにも収まらない人で、とにかく作品を作りたいという願望が強い。古典でもない流派の曲をやるなんて、逆立ちしても考えられない。そういう私は、ともすると何かに対抗することでエネルギーを燃やしたり、がんばってしまう。そういう時に佐藤さんの作品を見ると、自分の姿がよく見えて、本来の自分が取り戻せるのです。
こちらは音楽学の石田一志先生の「モダニズム変奏曲──東アジアの近現代音楽史」という本。近代からの音楽の流れが、多方面の視野を持って描かれている。作曲という行為がどういうものであったのか、その時邦楽はどう時代と寄り添って行ったのか。そういう先輩達の軌跡を読んでいると、ワクワクしてきます。私の好きな宮城道雄などの活躍する背景などは、読んでいるだけで活力が沸いてくるのです。
外に出れば、都内の梅花はもう盛りのように咲き、椿のつぼみを観ても希望に溢れているかのよう。あらゆる命が芽吹くこの季節は、私に新しい時代へと進むことを促しているようです。
これまでの人生を振り返ると、私には10年周期みたいなものがあり、今年はその新たな一年の始まり。この始まりの年に、何が始まるのか。希望と不安と煌めきが渦巻いています。

人間年齢を重ねて行くと、限りある時間というものを感じるようになるのは自然なことだと思います。昨年は、それでなくとも震災を経験し、皆多くの事を感じたことでしょう。
私も自分の肉体の変化を感じずにはいられない年になってきました。普段「諸行無常」「盛者必衰」等と唄っていますが、「永遠」や「無限」、そんな概念は所詮人間の煩悩が作り出した幻想のような気がするこの頃です。
沙羅双樹の花
何事も「形」を残すのは難しいと思いますが、形あるものでも想いを持って「語り継ぐ」ことで、ある程度時代を超えて行く事が度出来るでしょう。その想いに深い愛情があれば末永く受け継がれ、無ければ形は消えて行くのは世の習い。結局、永遠に、無限に受け継がれて行く最大にして唯一の物は「形」ではなく、「愛」なのでしょうか。
先日「さわり」という鶴田錦史の事を書いた本を読みました。書評は別として、鶴田錦史という人がどんな事を考えて行動していたのか改めてよく判りました。私は琵琶人でしたら永田錦心の方が私を駆り立てるようなもの=共感・想いを強く感じていて、鶴田の琵琶の技も人間も好きな方ではないですが、彼女の琵琶に対する思想、やり方、功績には興味があります。
私は自分が抱く数々の想いを繋げて、永田や鶴田がやったたように、私も自分のスタイルを作り上げたいと思います。それが先人への私の想いと愛の投げかけ方であり、先人達の軌跡の中から受け継ぐべきものを受け継ぎ、彼らから私の所まで続く「永遠」です。ただ私から先は何とも判りません。
永田も鶴田もあの形は彼ら一代限りのもの。私の形ではない。永田や鶴田の琵琶への想いは何かしら私も受け継いでいるかも知れませんが、彼らが作り上げた形を受け継ぐことは、私の仕事ではありません。
私は鶴田錦史に会ったことはありませんが、本を読む限り、鶴田は多分、弟子達に対し、自分の曲を語り継いでもらうより、新時代の琵琶楽を作る事を期待したのではないかと感じました。弟子達の琵琶楽の形が鶴田と違えど、そこにどうしようもなく鶴田の姿が立ち現れてくるのだとしたら、それこそが鶴田への「想い・愛」というものだと思います。
京都御所の梅2012年3月
金の切れ目が何とやらという世の中で、どんな形になろうとも変わらない想いと愛を持ち続けられるものこそ、自分にとって本当に大切で、無限で永遠なものという事でしょう。愛するという気持ちはきっとまた形を変え、無限に受け継がれていくと思います。そこには利害も権威も見栄も無い。一時の思い込みのような浅いものでも無い。ただただ深い愛情に満ちているだけだと思うのです。
あなたにとって大切なものは何ですか。大切な人は誰ですか。
声楽の話題は時々書いていますが、私はかなりの声楽好きであります。持っているCDもジャンル分けすると声楽のものがダントツに一番多い。それだけに結構厳しくもなるのですが、若手には本当に良い声楽家が出てきましたね。昨日は杉並公会堂小ホールにて行われたオペラ「ティレジアスの乳房&プーランクキャバレー」を観に行きました。

メインキャストで出ているソプラノの西本真子さんが、以前オペラ「トゥーランドット」のリュウ役をやった時に聴いて、大変気に入っていたので、久しぶりの彼女の歌声をとても楽しみにしていました。またプーランクの作品もCDでは持っているものの、生で聴いたのはシュトゥッツマン位で、ほとんど機会が無いので、そういう意味でも期待していました。初日という事もあって、第一部の出だしはちょっとぎこちなかったですが、後半の森山京子さんの堂々たる歌でぐっと気分が出てきました。西本さん、森山さん等メインキャストはさすがに素晴らしいレベルで、聴いていて気持ちよかったです。演出や演技の方はまだ「ちょっと」という感じもあり、舞台としては色々な意見があると思いますが、素晴らしい歌声には満足!今の邦楽界では若手であれだけのレベルで歌える人は居ませんね。
今の邦楽の大きな問題点は「歌」にあると個人的に思っています。邦楽の価値観は現代の聴衆のそれとは大きくずれていると思えてしょうがないのです。ラジオで(私はTVを持っていないので)大御所の歌を聴いても、若手のライブに行ってもがっかりすることが少なくありません。
オペラ歌手のような技量でなくとも、歌というのは技術で聴かせるものではありませんので、音楽にふさわしければ、どんな歌であろうと十二分に聴き応えがあります。マリリンモンローの歌とか、ジョニーロットンの歌とか、歌としてはいわゆる下手という部類のものでも、あれはそのキャラと合っているし、それを求め、評価する人も多いのです。私もピストルズはかなり好きですが、あの音楽にはジョニーロットンの歌がないと成り立ちません。ビートルズのヘイジュードなんかをオペラ歌手が歌い上げると、興ざめしてしまうと思いませんか。
歌は世に溢れているけれど、いい歌はなかなか少ないですね。私が30才のころでしたか、メゾソプラノの波多野睦美さんの歌を聴いたときには本当に心底感動しました。その声は、耳ではなく皮膚に滲みてくるように、静かに静かにホールへと満ちてくるのです。何とも言い表せないですが、優しく包まれるような、あまりにも美しい歌声でした。その道に人生をかけて生きている人の歌には感動がありますね。
虚勢を張って肩書き並べて歌っている人、「こんな程度で」なんて逃げ道を作って歌っている人の歌は、もう結構です。
私はけっして洋楽万歳ではありませんが、本気の声楽やオペラは実に素晴らしいと思います。ぜひ聴いてみて下さい。その精緻で清浄な魅力に虜になりますよ。お勧めです!!
まだまだ寒い日が続きますね。この間のブログで、「ただいま作曲中」と書いたら、早速友人達から「曲は出来たか」という突っ込みを頂いたのですが、残念ながらまだ出来てません。そう簡単には出来ないのですよ。

春まだ遠い源光庵(今月の写真)
京都御所の白梅(今月)
では何をやっているかというと、作曲はもちろんなのですが、毎日のように色んな人と会って、お茶しながら「語らい」(おしゃべり、といった方が良いか?)をして、演奏会や映画、演劇、美術家の個展などに通っています。世間では、こういうのを「遊んでる」というのだろうな~~。
ここ2週間ほどで、琵琶人はもちろんですが、陶芸家、クラシックの音楽家、邦楽家、舞踊家、ジャズマニア、美術作家etc.と「語らい」してます。皆それぞれの視点を持っているから大変面白い。毎年2月の半ばから4月の半ば過ぎは私のオフシーズン。ここ10年、この期間はいつも花見と「語らい」(やっぱり、おしゃべりの方が合っている気がする)をして、曲作りの糧としているのです。


京都御所の白梅(先月)
更に、私は作曲で譜面を書く時にはほとんど楽器に触らないので、この時期は琵琶も手にしません。お手入れするだけ。そういう時期があるからこそ、また新鮮な気持ちで演奏会シーズンに入って行けるのです。
私の場合、音楽活動に関して言うと、集中して取り組む時期と、全く音楽に関わらない時期の両方を持つ事がとても大事だと思っています。20才の頃プロのギタリストとなる門出に、ギターの潮先先生が「音楽とは全く関係ない趣味を持ちなさい」とアドヴァイスをくれたのですが、その意味が今になって実によく判ります。

今月の悟りの窓と迷いの窓
私のような人間は、琵琶に熱中しているだけでは、周りも自分も見えなくなるのです。琵琶は珍しいだけに、活動していると常に多くの人が寄ってきて、皆自分の方を向いていてくれるような錯覚に陥ります。でもしばらくそんな状態が続くと、ライブやって満足している自分に気づきます。転々と色々な所に出向いているものの、本当の意味で活動は広がっていないし、音楽的にも自分の世界に浸っているだけで、全然創造性に満ちていない。これではいけないのです。琵琶だろうが何だろうが、現実社会の中で存在しているのだから、その中にあって自分がどんな存在か、自分の音楽はどういうものなのかよく判っていなくてはいけない。以前はネットでコメントなどを頂いたりすると、「自分はそこそこ活動している」なんて具合に錯覚していたものです。それが判らないで喜んでいるうちはただのお稽古事。いつまで経っても生業には成りません。

今月の悟りの窓
私は音楽に全く関係ない趣味を持っているわけではないのですが、美術系の方や他ジャンルの音楽家との「語らい」、海外の友人達とのメールのやり取りは、私を琵琶の世界から遠くへ連れて行ってくれます。特に先日書いた「仲間」と思えるような人達は、話せば話すほどに自分の目が開いて行くようで、実に楽しい。大切な存在です。最近はずいぶんとギターも弾くようになったし、一日中ジャズを聴いていて、琵琶をすっかり忘れていることもしばしば。これがあるからこそ作品が生まれるのです。
今日も明日も「語らい」は続くのです。私が音楽家である限り。

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誰しも相棒と呼びたくなる仲間は居ると思いますが、私もいろいろな相棒に恵まれています。仲間というよりも相棒といった方が似合う、色々な分野の方々が居ることが私の財産かな。最近は特にそう思います。
そんな相棒達と話をしていて面白いのは、実際に言葉を交わしていると、自分の事が自分で見えてくることです。相手も同じみたいです。とにかく御飯食べながら、お茶しながら、実際に話をして言葉を交わすことが、とっても大事なんです。

不思議ですね。面と向かっておしゃべりすることで自分の考えがまとまってくるのです。一人で考えているだけでは見えないものが見えてくる。何故かメールのやり取りだけではだめなんです。やはり言霊ではないですが、口に出すという事には何か力があるのでしょうか。
私は春にはほとんど仕事しないので、こういう相棒達とおしゃべりの時間に費やしています。まあ遊んでいると言われればそれまでなのですが、この遊びこそが多くの作品を私にもたらすのです。
昨日、メンテナンスに出していた琵琶が戻ってきました。琵琶は正に私の相棒。残念ながら言葉は話せませんが、音で答えてくれる。だから常にベストな状態に調整してあげています。私は大概のメンテを自分でやるタイプで、サワリはもちろん、膠を溶いたり、駒の下に板を足したり、駒そのものを作ったり、糸口をのこぎりでばっさりと切り落として改造したり、糸巻きも自作したり・・・ほとんど木工職人の如くやってしまうのですが、大体2年に一度位、琵琶を作ってくれた石田克佳さんに全体の調子を見てもらってます。
お帰り
いつも居る相棒がいない状態というのはどうも落ち着かないですね。戻ってきてやっとホットしました。
語り:伊藤哲哉 コントラバス:水野俊介 各氏と方丈記熱演中
私はありがたいことに色んな相棒に恵まれていて、本当に嬉しい限りですが、彼らと話をしていて最近特に思うのは、もっと自分らしくなるべきという事。これまで日本文化そのものはもちろん、琵琶や邦楽・雅楽というところに強いこだわりを持ってきましたが、実際の私という人間は、大人になるまで洋楽で育って来ている。これからはもっと素直にそういう部分を出していこうと思います。現代そして次世代という未来を考えれば、そこの部分で素直になれなくては、何も生み出せない気がしています。
昨年出したCD「風の軌跡」は良い転機でした。自分の原点に帰る事が出来、そして相棒との語らいが、更に私の私らしい部分を再認識させてくれました。
これからが面白くなりそう。持つべきものは相棒ですね。