語らいは続く

まだまだ寒い日が続きますね。この間のブログで、「ただいま作曲中」と書いたら、早速友人達から「曲は出来たか」という突っ込みを頂いたのですが、残念ながらまだ出来てません。そう簡単には出来ないのですよ。

源光庵2012-2
春まだ遠い源光庵(今月の写真)

紅梅6京都御所の白梅(今月)

では何をやっているかというと、作曲はもちろんなのですが、毎日のように色んな人と会って、お茶しながら「語らい」(おしゃべり、といった方が良いか?)をして、演奏会や映画、演劇、美術家の個展などに通っています。世間では、こういうのを「遊んでる」というのだろうな~~。
ここ2週間ほどで、琵琶人はもちろんですが、陶芸家、クラシックの音楽家、邦楽家、舞踊家、ジャズマニア、美術作家etc.と「語らい」してます。皆それぞれの視点を持っているから大変面白い。毎年2月の半ばから4月の半ば過ぎは私のオフシーズン。ここ10年、この期間はいつも花見と「語らい」(やっぱり、おしゃべりの方が合っている気がする)をして、曲作りの糧としているのです。              
                                    
   京都御所の白梅1京都御苑の白梅2
           京都御所の白梅(先月)

更に、私は作曲で譜面を書く時にはほとんど楽器に触らないので、この時期は琵琶も手にしません。お手入れするだけ。そういう時期があるからこそ、また新鮮な気持ちで演奏会シーズンに入って行けるのです。

私の場合、音楽活動に関して言うと、集中して取り組む時期と、全く音楽に関わらない時期の両方を持つ事がとても大事だと思っています。20才の頃プロのギタリストとなる門出に、ギターの潮先先生が「音楽とは全く関係ない趣味を持ちなさい」とアドヴァイスをくれたのですが、その意味が今になって実によく判ります。

       源光庵2012-1
        今月の悟りの窓と迷いの窓

私のような人間は、琵琶に熱中しているだけでは、周りも自分も見えなくなるのです。琵琶は珍しいだけに、活動していると常に多くの人が寄ってきて、皆自分の方を向いていてくれるような錯覚に陥ります。でもしばらくそんな状態が続くと、ライブやって満足している自分に気づきます。転々と色々な所に出向いているものの、本当の意味で活動は広がっていないし、音楽的にも自分の世界に浸っているだけで、全然創造性に満ちていない。これではいけないのです。琵琶だろうが何だろうが、現実社会の中で存在しているのだから、その中にあって自分がどんな存在か、自分の音楽はどういうものなのかよく判っていなくてはいけない。以前はネットでコメントなどを頂いたりすると、「自分はそこそこ活動している」なんて具合に錯覚していたものです。それが判らないで喜んでいるうちはただのお稽古事。いつまで経っても生業には成りません。

       2012-2-1
         今月の悟りの窓

私は音楽に全く関係ない趣味を持っているわけではないのですが、美術系の方や他ジャンルの音楽家との「語らい」、海外の友人達とのメールのやり取りは、私を琵琶の世界から遠くへ連れて行ってくれます。特に先日書いた「仲間」と思えるような人達は、話せば話すほどに自分の目が開いて行くようで、実に楽しい。大切な存在です。最近はずいぶんとギターも弾くようになったし、一日中ジャズを聴いていて、琵琶をすっかり忘れていることもしばしば。これがあるからこそ作品が生まれるのです。

今日も明日も「語らい」は続くのです。私が音楽家である限り。


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相棒

 

めじろと梅s

誰しも相棒と呼びたくなる仲間は居ると思いますが、私もいろいろな相棒に恵まれています。仲間というよりも相棒といった方が似合う、色々な分野の方々が居ることが私の財産かな。最近は特にそう思います。
そんな相棒達と話をしていて面白いのは、実際に言葉を交わしていると、自分の事が自分で見えてくることです。相手も同じみたいです。とにかく御飯食べながら、お茶しながら、実際に話をして言葉を交わすことが、とっても大事なんです。

        biwa iroiro

不思議ですね。面と向かっておしゃべりすることで自分の考えがまとまってくるのです。一人で考えているだけでは見えないものが見えてくる。何故かメールのやり取りだけではだめなんです。やはり言霊ではないですが、口に出すという事には何か力があるのでしょうか。
私は春にはほとんど仕事しないので、こういう相棒達とおしゃべりの時間に費やしています。まあ遊んでいると言われればそれまでなのですが、この遊びこそが多くの作品を私にもたらすのです。

昨日、メンテナンスに出していた琵琶が戻ってきました。琵琶は正に私の相棒。残念ながら言葉は話せませんが、音で答えてくれる。だから常にベストな状態に調整してあげています。私は大概のメンテを自分でやるタイプで、サワリはもちろん、膠を溶いたり、駒の下に板を足したり、駒そのものを作ったり、糸口をのこぎりでばっさりと切り落として改造したり、糸巻きも自作したり・・・ほとんど木工職人の如くやってしまうのですが、大体2年に一度位、琵琶を作ってくれた石田克佳さんに全体の調子を見てもらってます。

         okumura photo9お帰り
いつも居る相棒がいない状態というのはどうも落ち着かないですね。戻ってきてやっとホットしました。

語り:伊藤哲哉 コントラバス:水野俊介 各氏と方丈記熱演中

私はありがたいことに色んな相棒に恵まれていて、本当に嬉しい限りですが、彼らと話をしていて最近特に思うのは、もっと自分らしくなるべきという事。これまで日本文化そのものはもちろん、琵琶や邦楽・雅楽というところに強いこだわりを持ってきましたが、実際の私という人間は、大人になるまで洋楽で育って来ている。これからはもっと素直にそういう部分を出していこうと思います。現代そして次世代という未来を考えれば、そこの部分で素直になれなくては、何も生み出せない気がしています。
昨年出したCD「風の軌跡」は良い転機でした。自分の原点に帰る事が出来、そして相棒との語らいが、更に私の私らしい部分を再認識させてくれました。

これからが面白くなりそう。持つべきものは相棒ですね。

Both sides now

台湾山桜1-s
      台湾の友人から送られてきた今年の山桜の画像


毎年の事なのですが、春になると必ず「最近はろくに演奏会が入ってないようだがどうしたんだ」と二、三人に言われます。どうも花粉の時期は年によって症状が酷く出るときもあるので、仕事はちょっと控えていて、特に声を使う仕事は慎重になってしまうという訳なので、一つご勘弁を。

オイストラフ毎年この時期は作曲に当てています。今年もそうなのですが、新しい曲想を得るために色々な音楽を聴いていて、今年は今まで積極的に聴かなかったドイツ系のクラシックを結構聴いています。特にブラームス。これまではフランス系ばかり聴いていたのですが、友人の勧めで聴いてみたら、これが結構いいんだな。オイストラフが弾くヴァイオリン協奏曲はほぼ毎日の定番です。それから、これもあまり聴いていなかったハイフェッツの演奏。やっぱり凄いな~~。ただいまブルッフのViコンチェルト「Scotish Fantasy」を聞きながら書いてます。目の前に情景が広がって行くよう。
私はポピュラー・エンタテイメント系は苦手なので、こちら方面は知らないものが一杯ありますが、クラシックやジャズは色々と聞いているつもりでもまだまだ世の中には凄い音楽・演奏がありますね。

そして最近また私的に再熱しているのがパットマルティーノというジャズギタリスト。パットマルティーノ
ジャズ好きの仲間がマルティーノに凝り出したこともあって、久しぶりに聴いてみると、これがまた良いんだな。何とも言えない影があって、そこがどうしようもなく私を惹きつけるのです。ベンソンやウエスのような陽が燦々とあたるようなステージで花咲く演奏家も良いけれど、演奏でも曲でも、そこに何とも言えない陰影を感じるマルティーノの演奏には、麻薬のような魅力があると思います。マルティーノの弾くImpressions,Days of Wine and Roses,What are you doing the Rest of your life、FootprintsそしてBoth sides now辺りはたまらないですね。ただのスタンダードでは無いところが素晴らしい。マルティーノは前衛的なプログレみたいな曲も結構やるし、とにかくとても洗練されていて、常に光と影を感じるところが魅力的。

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私はどんな姿をしているのだろう


私はどんなジャンルでも、感情丸出しの土着っぽいものはどうしても受け入れがたい。洗練された音楽である事が、私が聴く最低条件。琵琶楽も自分の形にしないと気が済まないのは、こうした私の趣味に寄るところが大きいのだと思います。
以前ある方から「塩高の作品は日本のエレガントだ」と評されたことがあって、めちゃめちゃ嬉しかった。なんといっても清楚で凛とした姿があって、更にそこに光と影を感じる音楽をやっていきたいです。

この春は一杯素晴らしい音楽を聴いて、曲作りに励みます。秋頃には披露できると思います。乞うご期待!!

轍の先へ

先日、琵琶樂人倶楽部が第50回目を迎えました。足かけ5年、古澤錦城さんと毎月レジュメを書いたり、演奏したり、話をしたりして開催して来た軌跡を今、感じています。

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    2011-1-17
琵琶製作家の石田さんと

過去の軌跡は以下を参照ください。
http://biwa-shiotaka.com/?page_id=46

毎回テーマを決めて、それに沿った話、レジュメ、演奏を追われるようにやっていますので、自分でも良い勉強の場となっています。先日の50回目は定番のテーマで、「平安期の楽琵琶について」を新ネタ入りで話をさせて頂きました。

琵琶(特に薩摩琵琶)の世界は音楽学という分野が著しく遅れています。演奏家の琵琶に対する認識も、他のジャンルに比べ、いつまで経っても成熟しません。明治に出来た尺八都山流は、自分たちの曲をけっして古典とは言わないし、現行の雅楽でも「近代雅楽」とはっきり言っているのに対し、琵琶では昭和になって出来たものや戦後数十年しか経っていないものでも、古典と言ってはばかりません。さすがにこれは情けない。現代音楽の祖といわれているバルトーク・シェーンベルクでも19世紀の生まれですよ!!
こういう姿勢が今の琵琶のレベルをそのまま表しています。

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鈴田郷作「琵琶樂人倶楽部の看板絵」


クレデンザ2こんな中で、琵琶樂人倶楽部ではその歴史を辿り、明確にレクチャーすることで、先ずは歴史認識をしっかりと正し、それぞれの時代の琵琶楽の魅力を紹介し、そこから次世代への可能性を探っていこう、という主旨で始まったのです。場所を提供してくれている名曲喫茶ヴィオロンのマスターにはとにかく感謝しかありません           

小澤征爾さんの本を読んだり、Metのオペラを見ても思いましたが、最高峰といわれる人達は、クラシックという歴史あるものをやっていても、それを最先端の表現として舞台にかける。古典をしっかりと勉強しても、古典という権威や形に寄りかからない。世界の大舞台で、最高レベルのものをやっているという意識はやっぱり凄いものを生み出します。

他の方は色々な考え方があると思いますし、どういう考えを持っていてもかまわないのですが、私の個人的な想いとしては、琵琶楽が日本から世界に発信するような音楽でありたいと思っています。世界の人が琵琶を聴いて感激するようなものでありたい。日本の、それも一部の人が喜んでいる、東洋の一民俗芸能ではなく、たとえ小さな舞台でも、世界に通用する芸術音楽でありたい。単なるヒットソングではなく、ドビュッシーや武満やマイルスやコルトレーンやジェフベックやクリムゾンと同じステージに居たい。その為にも琵琶楽の歴史認識やこれまでの琵琶楽を勉強することはとても大事なのです。そしてその脈々と伝えられてきたものを、どのように現代や次世代に向けて表現して行くか、今それが問われていると思います。

        biwa iroiro

琵琶樂人倶楽部の活動を通して私が感じたことは、このような事です。Metの舞台もバロックをやろうが現代ものをやろうが、常に最新の演出、最高の技術、最上級のキャストで現代最高峰の舞台を作り上げて行く。琵琶楽もその志でありたいのです。
小さな己の世界に閉じこもっていては始まらない。目の前の事を追いかけているだけでは、いつまで経っても日々の食い扶持にありついているだけです。その辺のことを常に自分に言い聞かせて、もっとその先の世界に視線を、感性を向けて演奏していきたいのです。

琵琶樂人倶楽部を始めてから、シルクロードツアーが実現し、樂琵琶でも活動が広がり、クラシックの音楽家達とも共演がはじまりました。歩みは遅いですが、私にとっては皆素晴らしい事です。小さな会ではあっても、ここからどんどんと大きな世界へと目を向けて、羽ばたいていきたいものです。

今後の琵琶樂人倶楽部にもご期待ください。


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「ほど」にする凄さ

沼袋のシルクラブにで行われた柳亭市馬さんの独演会に行ってきました。

市馬

私は仕事では時々落語家さんとご一緒するのですが、自分で落語会に行くことがほとんど無いのです。今回は仲間の花柳面萌さんのお誘いに乗って行ってきました。

とにかく一言「品がある」これほどに品格のある落語を聞いたのは久しぶりですね。私は落語通でも何でもないですが、TVなどで見てもとにかく過剰な表現をする方が多い。それはその場では笑いも取れるし、ウケが良いかも知れませんが、それでは品格が失せてしまう。舞台というのはどんな分野でも表現の場であるのは確かです。しかし等身大の技でもって、尚且つほどよい抑制があるからこそ表現は伝わり、はじめて舞台として成り立つものです。ウケるというのと表現するのは違うものだと思うのです。

市馬さんは、その「ほど」の良さがある。だから姿がいい。声も良い。そして何といっても語り口が穏やかで自然。派手なしゃべりや動きで笑いを取るのでは無く、あくまで話の中身で聞き手をつかむ。その上色々なものに素養があるのを感じました。特に歌関係がお好きなようで、謡曲、浪曲、新内などなど身についているものが無理なく出てきます。いや~良い芸をお持ちです。大変感心しました。

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photo MORI Osamu

品の良さとは何か、これはなかなか言葉で言うのは難しい。綺麗に着飾っていても品の悪い人も居るし、ジーパン履いて居ても品の良い人は良い。品格はどうしても、そこに居るだけで姿に出てしまいます。綺麗とか美人とかイケメンとかそういうことでは無く、佇まいといえば良いでしょうか。近頃は姿のよろしくない人を見かけることが多くなりましたね・・・・。

先ずは良い姿をしていること。そしてその人の等身大から無理なく出て来るものが、技を通して舞台に乗ると、素晴らしい空間が生まれてくるのだと思います。

ただ舞台人として気をつけなくてはけないのは、舞台というものは常に非日常の場であるということ。日常が見えるようではただの素人です。だから等身大という事を誤解してはいけません。舞台に於いて「自然」とは、普段通りということではないのです。
かといって無理して過剰な表現をして芸人ぶっていたり、上品ぶってもいけません。身についているものが自然に出て来るので、その人以上にはならないのです。

上手く書けませんが、その辺のバランスを持った人だけが舞台に立つ事が出来、舞台人として生きていけるのです。自分の芸を聞いてくれる人が居るだけでいい、なんて自分を甘やかして日々の食い扶持だけ追っかけているようでは、とても続きません。常に上を向いて創造して行く事が出来なければ、舞台には立てないのです。そして、そこに「ほど」の感性が宿った人だけが一流になるんだな、と市馬さんの落語を聞いていて思いました。 

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幸いにして私の周りには姿が良い人がいっぱいいます。私も是非そうでありたいものです。


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