Across the Universe

どんな分野でも、自分が動き出すとどんどん楽しい事が周りに起こってくるものですが、音楽家をやっていると実に面白い刺激的な日々が訪れます。琵琶は特に珍しいことも手伝って、面白い事が次々に起きるのです。

かん芸館収録4先日、映像作家のkutimanさんという方が作っている作品の収録がありました。日本とイスラエル国交50周年にちなんだ作品だそうで、既にイスラエルのミュージシャンを集めてコラージュした作品はyoutubeで公開されています。今回は日本のミュージシャンで作りたいという事で、声をかけて頂きました。公開されている映像はこちら

http://www.youtube.com/watch?v=mHglfyQOd2s

      

かん芸館収録5日本の方はどうなるのかまだ判りませんが楽しみです。左上の写真はkutimanさんと私。打ち合わせ中。右の写真はプロデュースの三上さんを加えてのカメラテスト中のもの。場所は地元のかん芸館の和室付きギャラリーで撮りました。朝一の収録だったので、あまり声は出なかったのですが、唄より琵琶の音色が欲しかったそうで、琵琶の音の方は満足いただけたようでなにより。

劉さんと葉さんと呑み歩き中
そして最近の嬉しい事は、昨年私が出したCD「風の軌跡」の中の「Sirocco」が台湾で演奏されること。このブログでも紹介している劉 芛華さんが笛の方とのジョイントリサイタルで9月18日に演奏してくれるそうです。楽器はピパと横笛でやります。今年の初めに劉さんが来日した時に私の家に来てくれて、少しアレンジを加えた楽譜と、簡単なレクチャーをしたのですが、思ったより早く実現する事になって嬉しい限り。録音も送ってくれるそうです。楽しみですね。

私は流派や協会等に属していないせいか、ここ何年かはどんどん海外の知り合いが増えています。先日は「ウズベキスタンのイルホム劇場であなたの演奏を聞いたよ」なんてメッセージがい来たり、ウクライナの日本人バンドゥーラ奏者を介し、ウクライナの方からのメッセージも多くなりました。特にイスラエルは、以前イスラエル人のアブシャローム君に琵琶を教えてから何かと縁が有って、イスラエル周辺の知り合いがどんどん増えています。

邦楽ジャーナル2003年4月号 このころから言いたい事を言ってます。
以前邦楽ジャーナル誌にも書きましたが、私は国内でも人との縁をつなぐことで活動をずっとしてきました。中には誤解をされてしまった事もありますが、音楽は人が演奏し、人が聞く事で成り立つものだから、縁をつなぐという事は音楽をする事とイコールなのです。
音楽は人と人をつなぐもの。そのつながりが有ってこそ、活動して行けるのです。私は本当にそういう部分で恵まれている。海を越えてもそんな縁が繋がるのは幸せな事です。

これからもどんどんいい仕事しますよ!!

いざなふ月

先日は見事な満月でした。きっと多くの芸術作品があの月から生まれたことでしょう。

その小望月の日、月3私は用事で出かけた後、かねてから気になっていた、ドビュッシー展を観てきました。この間書いたバーンジョーンズと同じ、19世紀末から20世紀初頭に活躍したドビュッシーですが、彼が居たパリでは、当時画家・音楽家・詩人等々の芸術家達が日々こぞってサロンに集い、そこからあの類い稀な芸術が生み出されてゆきました。

ドビュッシー2

勿論ドビュッシーの周辺にもマラルメ、ヴェルレーヌ、ボードレール、ドガ、ルドン、サティ、ショーソン…きりが無いですが、そんな人々が集い、熱い会話を交わしていました。素敵ですね。私もこういう所に行って芸術談義したいですな。当時はジャポニズムの時代でもあり、その頃の写真を見ると、サロンにお坊さんの彫像が有ったり、浮世絵をバックにドビュッシーとストラヴィンスキーがポーズ取っていたりして、なかなか面白いです。

ドビュッシー
ピアノを弾いているのがドビュッシー

19世紀後半から20世紀前半のパリは正に芸術の都だったのだと思います。人々が芸術を求め、芸術家の生み出す作品も社会と深く関わり、街全体が芸術だったように思えてなりません。映画「Midnight in Paris」の世界ですね。私は元々音楽に関しては、ヨーロッパ各国の古楽と共に、フランス近代ものがとにかく好きで、近代という時代は私の中でも大切にしたい興味深い時代なのです。

特に「牧神の午後への前奏曲」は近代の作品の中で一番好きな曲でして、この曲で本格的にクラシックに目覚めたといっても良い位です。最初に聞いた時、我が家のARCAMのスピーカーからは、様々な色彩が流れ出で、煌めくような、戯れるような生命を感じました。踊るように自在に伸縮するリズムはその息吹のようで、それらどれもが命を持った音として体の中に満ちて行った事を、今でも鮮明に覚えています。それ以来、ドビュッシーの音楽は、私の中では重要な位置を占めていて、何ものにも囚われないこの表現・音楽こそ自分が求めていたものだ、という想いを今でも持っています。

芸術でもエンタテイメントでも楽しいというのは大事なことです。マンレイ
かつてはエンタテイメントが熟成を経て深まって行く「時間」、または時代の「弾力」ともいえる大きな器が世の中に有りましたが、現代にはそれらが無くなってしまいました。だからどんどん刺激を増して目を引くしかなくなる。それらは何を生むのでしょうか・・・・?

武満徹さんは「行き過ぎた文明を止めるのは文化だ」と言っていましたが、芸術に触れ、感動を覚え、そこから人間の生きてきた歴史や社会に想いを馳せ、人間の存在に目を向けて、愛を、人生を想い心が充実して行く、そういう精神の成熟が今、必要なのではないでしょうか。

月5

月は詩情を掻き立てますね。かつてこの風情は日本人にとって最高の歌の源でありました。こうした感動は人を育て、人をつなげ、幾多の歌を育んで、日本という国を形作ってゆきました。形は変わっても、こういう感性は失いたくないですね。形式も流派の曲も良いですが、琵琶人なら大いに創作意欲を掻き立てて、せめて短歌の一つもさらりと詠みたいところですね。

見事な月に誘われて、素敵な時間を過ごす事が出来ました。


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井の中の蛙大海を想う

友人から借りていた、世界的バイオリニストの堀米ゆず子さんのエッセイを読んでみました。とにかく世界は広い。大きい。凄いのです!!

堀米ゆず子

内容はエリザベート王妃国際コンクールに挑戦する所から話が始まるのですが、どんな環境にも嬉々として立ち向かい、世界を舞台に一流の演奏家として生きて行く姿は、本当に素敵です。そして気負いなく、素直な人柄も見えてきます。

20代前半で世界の超一流の舞台に飛び出た堀米さんの姿を思うと、いかに自分が井の中の蛙であるか、ひしひしひしひしひしひしと感じました。器の違いとはこういう事なんでしょうね。邦楽特に琵琶は、己の世界に閉じこもりがちなので、私はそういう閉鎖空間を飛び越えようとあがいて来ましたが、そんな所に引っ掛かっている時点ですでに話になりません。一流は最初から見ている所が違うのです。そして一流の技術を磨き、一流の行動活動をするのです。

パガニーニハイフェッツ

世の中何でもそうですが、ギターでもバイオリンでも、凄い技術を持った人が出ると、次の世代はもうその凄さが当たり前になって、もっと凄くなっていくものです。音楽の豊かさは勿論技術だけの問題ではないのですが、どんな分野でも技術に関してはどんどん高まって行くものなのです。
「悪魔に魂を売り渡して、その技術を手に入れた」とまで評されたパガニーニや、ハイフェッツが最高レベルの技術を示したら、次の世代はそれがもうスタンダードになって更に先を行きます。

ギターでは、エドワードヴァンヘイレンが驚異的なリズム感とテクニックでデビューしたのが79年、それ以来彼のテクニックはスタンダードになってしまいました。

水藤錦穣5ところが琵琶は、水藤錦穣という脅威的な演奏技術を持っている人が現れたのにも関わらず、その演奏技術はどれだけ受け継がれたのだろうか?。はっきり言って誰も居なかった。唯一鶴田錦史が、独自の発展をさせたと言えるでしょう。
水藤錦穣という大きな目標となる、琵琶界のハイフェッツみたいな達人が居ながら・・・・。当時はきっとがんばっていた人達が居たのではないだろうかと思いますが、まことに残念で仕方がありません。少なくとも私は、音楽性は別として、水藤先生の演奏技術を追いかけたいし、超えたいと思っています。
琵琶唄に関しては、これから三味線音楽や他の洋楽器のように、語り手と琵琶の演奏を別にしていこうと思っています。両方やっていたら、アウェイで通用しない。はっきり言って、琵琶唄のうたは歌専門の歌手に比べてレベルが低いし、このままでは演奏技術も上がらない。
        

アルディメオラジャケ パコデルシア

            
 フラメンコギターのパコデルシアは、それまで閉鎖的だったフラメンコの世界を飛び出して、ジャズミュージシャン達と互角に(それ以上に)演奏し、フラメンコを一気に世界に広め、世界音楽のレベルにまで引き上げました。それもチックコリアや、アルディメオラ、ジョンマクラフリンという超のつくトップジャズメン達と挑戦的に共演したのです。77年発表のアルディメオラの2ndアルバムElegant Gypsyの中の「Mediterranean Sundance」をぜひ聞いてみてください。驚異的です。自分のフィールドでもないし、やり方も違う、全くのアウェイに於いて、今までフラメンコを聞いたことも無かった聴衆を魅了してしまう。こんな凄い事が世界では次々に起こっているのです。

どのように音楽を捉えてもいいし、琵琶をどう弾いても良いと思います。そして私ごときが何をやっても堀米さんの100分の一いや100000分の一の成果も出せないでしょう。でも目指さずにはいられないのです。たとえそれが井の中の蛙のあがきであっても・・・。

エッセイを読んでいて、一気にファンになってしまいました。是非生演奏を聴きたいですね。ガルネリも早く戻ってくるといいですね。

快楽主義の美学

先日、我が家の近くの音楽サロン「かんげい館」にて行われた、ViとPianoによる演奏会に行ってきました。タイトルは「Bell Epoque」、その名の通りプログラムは1曲を除いて全てフランスの作曲家の作品でした。なかなかレベルの高い演奏で、久しぶりにフランス音楽を堪能しました。

    中島かんげい館1中島かんげい館2

演奏は、上手というレベルをはるかに超えていて、時折りその音色に「官能」を感じるほどに充実したものでした。楽曲はどれも素晴らしいものだし、何よりも演奏から「どうだ!」みたいな気負いを感じなかったのが良かったです。演奏者の音楽に対する姿勢と、二人の人間性が素直なのでしょうね。聞いていて、自然と音楽の快楽に身を浸している自分に気が付きました。素敵な時間でしたね。

勿論その先の問いかけもあります。彼らはこれからもっと考えるべき事が出てくるでしょう。「何故フランス音楽をやるのか」「日本に生まれ育ち受け継いだものは何か」等々色々な事に立ち向かうことになると思います。またそういうことに立ち向かわないようではそれまで、とも言えます。しかし先ずはこのレベルを持っているという事は素晴らしい事です。ここから見えることもあるでしょう。10年後20年後の演奏を是非聞いてみたいと思いました。

Viの方は弱冠20歳の方でしたが、明治以降百数十年の洋楽教育は、20歳の日本人にこれだけの技術をもたらしたか、と感慨深く思いました。それに比べ琵琶は日本のものでありながら水藤錦穣以来、弦楽器奏者として世間の誰もが認めるような人はどれだけいるのだろう?

kawasaki2009-3s筝曲では「六段」「みだれ」「春の海」「千鳥の曲」等名曲があるものの、世界に向けて発信できる名曲が邦楽には少な過ぎる。日本の伝統も判るし、勿論しっかりと受け継ぎたいし、洋楽に迎合することも全く無いですが、これからは次の時代を見つめて、小さな意識を抜け出し、一民族音楽ではない、世界視野の琵琶楽を作るべきだと思います。演奏と共に作曲がこれから重要になって行くでしょう。とにかく今のレベルではどうしようもない。

演奏を聞いて、色々なことが想起されましたが、それにしても素晴らしい音楽に浸ると、心が豊かになりますね。音楽が深く心に届き、煌めきのようなものがずっと体内に漂っているのを感じます。芸術・音楽の「快楽」は、ネガティブな気持ちを消し、あらゆる所に想いを行き渡たらせ、創造力を刺激し、大きな心で生きて行く源となってゆきます。何物にも代えがたいものですな。

皆さんも芸術・音楽の豊饒なる「快楽」を味わってみませんか。

もっとドラマを!

先日、琵琶樂人倶楽部の夏の恒例「SPレコードコンサート~往年の琵琶名人を聴く」をやってきました。

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毎度の事ですがクレデンザから響くSPの音は、本当にリアルで、本人が目の前にいるかのようです。当時レコード出すという事は色々な面で大変なことだったと思いますが、それだけにどの演奏も気迫が凄く、当時の琵琶楽のレベルの高さと共に、時代の勢いのようなものが感じられます。        
         
と、今では色々と想いを馳せて鑑賞することができるのですが、実は、私は薩摩琵琶を初めて手にした時は、従来の琵琶曲はどうもしっくりと来ませんでした。良く聞けば、永田錦心の「石童丸」等には、今私が琵琶楽に求めるドラマ性が既に十二分に備わっていて、その革新性も内容も大変魅力あるものだったのですが、最初はそれが全く判らず、またその演奏スタイルは、私が琵琶に対し想い描いた姿とはずいぶん違っていました。

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私がいつも弾き語りをやる際に、最初の弾き語り作品「平経正」以来ずっと考えている事は
①時間軸の見極めと多様性
②登場人物とナレーションの語り分け
③目線の位置(カメラワーク)をかなりはっきりさせて、能やオペラのように仕上げて行く。
この3つをポイントにしてきました。これは何よりもドラマ性を曲に持たせる為なのです。森田亨先生の作詞によるところが大きいのですが、自分で歌詞を書いた合奏作品「静~緋色の舞」や「朝の雨」等の作品等もそのスタイルで書きました。(もちろん違う作風のものもありますが)

では、なぜ琵琶語りにこのようなドラマ性が必要か。それは、ドラマの持つ展開と醍醐味が聴き手を惹きつけ、その世界を共有できるからです。何を聞いても同じであったら聴衆は以前の私と同じように魅力を感じない。ダイナミックにすればよいというものではないですが、色々な時間軸を組み合わせて、聴き手の創造力を掻き立てることは、大きな世界に誘うことになり、その世界を味わうことで、同時にその世界が有する深い精神性も伝えることができると思います。やはり舞台は人を惹きつけるものが無くてはいけません。

met live viewing「椿姫」
ナタリー&ポレンザーニ「オペラは死に続けている(ブーレーズ)」と言われる現代において、Metのオペラが何故今でも大人気なのか。それは素晴らしい演出・脚本と、歌手のレベルの三拍子がハイクオリティーでそろっているからです。だから観客はぐいぐいと惹きつけられ、どの作品も観てみたいと思うのです。

先日聞いた長唄などもとても素晴らしい構成を持っていましたが、それに比べると今迄の琵琶楽には、とにかく楽曲としての演出が無い。個人の語りの力量で勝負すれば、それでよかったのかもしれませんが、今後更に琵琶の魅力を知ってもらうために、明確なドラマ性は是非とも必要だと思います。「石童丸」にも確かにドラマ性はありました。錦心流以前の薩摩琵琶には無いドラマ性がしっかりとありました。だから聴衆は熱狂したのだと思います。しかしそのやり方は現代のスピード感にはもう合わない。つまりそのドラマを現代に於いて新たな形でやろうという訳です。

薩摩琵琶は深い精神性を語るものであると言われています。私もこの部分に憧れて始めたようなものです。しかし今聴いても一向に伝わってこない。それは当たり前のことで、幕末や明治の頃の忠義の心、天皇崇拝の内容、武士道の内容、それでは現代には合わないのは当たり前。

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実はその精神性というものは、武士道だなんだという形ではなく、そのもっと奥に隠れた根源的な精神なのではないでしょうか。そういうものを現代という時代の中で語るのが、薩摩琵琶の本来の使命ではないでしょうか。それには表面の形に何時までも惑わされてはいけません。私達の生活も時代とともに変わるように、音楽も変わるべき。永田錦心の時代から琵琶はそうだったはずです。そして今その深い精神性を伝えるのには、聴き手の創造力を掻き立てるようなドラマ性が必要とされているのではないかと思うのです。

          史水回2012-5

また今後は語り手と弾き手を分けることも必要と考えています。弾き語りという魅力はあるものの、歌と楽器を両方やっていては両方共にレベルが上がらない。器楽としての琵琶を他の楽器と同じように、高いレベルで弾きこなす人は現在誰も居ません。また歌い手として、他のジャンルでも通用するようなレベルを持っている人も誰も居ません。長唄は唄い手と弾き手を早い時期から分けて、研鑽したからこそ、あれだけのレベルに至ったのだと思います。琵琶の弾き語りという部分は、今後大いに考えるべき問題だと思っています。

もっと薩摩琵琶には語るべき世界が有るはず。そして魅力が有るはず。そしてもっともっと多くの人に聞いてもらいたい。それは決してエンタテイメントのような一過性
で売れるとかいうのもでなく、後世に受け継がれるような芸術音楽として届けたい。

これからどんどんやりますよ。


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