熱狂的音楽愛好のススメⅦ「ロデリンダ」

少し前になりますが、Met Live Viewing「ロデリンダ」を観てきました。

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この作品はバロックオペラなので、ちょっといつも見ているものとは感じが違うのですが、私は元々バロック音楽が大好きなので、大満足でした。Metオケも18世紀ものの大家と呼ばれるハリー・ビケットの指揮によって素晴らしく響いていました。さすが!守備範囲が広い!!

そしてバロックオペラにはカウンターテナーが付きもの。今回もアンドレア・ショルとイェスティン・デイヴィーズという優れた歌い手が、見事なまでに歌い上げてくれました。

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私は元々男性の声楽はあまり好きではなかったのですが、作曲の石井紘美先生の所で、カウンターテナーのヨッヘン・コワルスキーを聞かせてもらってから、中毒になってしまいました?。

rad1_2079a[1]今回はルネ・フレミングという、女王の貫録を持つような方が主役だったのですが、その女王がかすむ位、カウンターテナーの二人が素晴らしかった。二人が居なかったら成立しないだろう、と思える程でした。またセットも工夫されていて、バロックオペラの特有の小劇場風では無く、水平移動する結構凝ったセットで、しっかりと作られていたので、長すぎると言われるこの作品も飽きることなく堪能しました。きっと演出のスティーヴン・ワズワースが良いんじゃないかな?。

バロックの歌というのは、短い歌詞を何度も繰り返して歌うのですが、繰り返しがそのままではなくて、即興的に変化が付きます。映画の中のインタビューのコーナーで、ショルさんがその辺りの事に次のように答えていたのが印象的でした。

           ショル&イスティン・デイヴィーズ
「A-B-Aというダ・カーポアリアはBにその秘密があります。Bの部分をいかに表現するかで、もう一度Aに戻った時の聴衆の感じ方がずっと深くなり、その時に付ける装飾いかんで、単なる繰り返しではなくなるのです」この言葉とおり、私には流れのある一つの曲のように聞こえました。「ハハハハハハハ」というあの装飾もなかなか面白いんですよ。

バロックといっても、ただ当時のものを再現してるだけでは、舞台として成立しません。バロックの魅力と、現代という時代の両輪をどう回すか。そこにMetの芸術性があり、また問われているのだと思うのです。Met流のバロックの在り方には、色々な意見があると思います。ルネフレミングやヴェルディ歌いとしても有名なエドゥイージェ役のステファニー・ブライスに違和感があるという方も居るでしょう。しかしこうして変わって行く姿こそ、現代に生きる我々が見るべきものだと思っています。

          
演奏会8邦楽は正に今、その両輪をどう動かすべきか問われています。私がいつも書いているように、現在の薩摩・筑前の琵琶は、その成立と同時代のシェーンベルクやバルトークが現代音楽の元祖と言われている位ですから、古典というにはあまりに若すぎる。では、琵琶楽の源流をどこに見て捉えるのか、器を試されています。日本が世界の様々な情勢の中で生きている以上、仲間内にしか通用しない常識を声高に主張していても、世の中の人は誰も聞いてくれません。痩せて行くだけです。

平安時代に成立した楽琵琶、鎌倉時代は平家琵琶、近代の薩摩琵琶、明治に永田錦心が作り上げた新しい琵琶楽。こういう千数百年に渡る深く長い歴史が残して行ったものは素晴らしい。だからこそ今、これらの軌跡を確実に捉え、しっかりとした史観と共に、現代という車輪都合わせて走り出さなければ、琵琶楽の輝きは失せてしまう。あれだけ人を惹きつけるオペラですら、ブーレーズに言わせれば「オペラは死に続けている」との事ですから・・・・。

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Metのバロックへの眼差し、そして志向する舞台は素晴らしいと思いました。同時に琵琶楽の在り方にも想いが広がりました。

視点

国際情勢が緊迫している昨今ですが、昨日、琵琶樂人倶楽部Vol.57琵琶と文学シリーズⅦ「後白河法皇と梁塵秘抄について」をやってきました。  
     
       琵琶樂人倶楽部の看板絵
        biwa-no-e2鈴田郷 作

もう丸5年、毎月続けて来て、ずいぶんと琵琶に対する関わり方が変わって来ました。一番の変化は、この会の趣旨でもある「文化としての琵琶楽」という視点が深まった事です。特に平安時代の楽琵琶、鎌倉時代の平家琵琶という日本音楽の創世記についての考察は、古澤錦城さんと知識・理論を共有することで充実し、又集まって来てくれる方々との交流も相まって豊かになってきました。現代に於いて、日本琵琶楽の根幹に目を向け、レクチャー&演奏を重ねて行った事は大きい、と密かに自負しています。

heikebiwa1薩摩琵琶をやっていても雅楽や平曲をろくに知らない、gakubiwa1研究家ですら専門以外はよく判らない、などとという現在の琵琶を取り巻く状況には、情けないものすら感じていました。最近では昭和の戦後に出来たものも何でもかんでも「古典」と言い張る向きもあります。琵琶樂人倶楽部はこれらの現状に対する形で、私なりの活動を展開しようという想いで始めたものです。しっかりとした「史観」無くして琵琶楽の充実発展はありません。私たちの活動は大変地味ではありますが、こうした活動が何かしら琵琶楽の発展充実につながって行ったら嬉しいです。

          竹村健 作
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人間はどこを見ているかで、全く違う世界が目の前に現れます。どんな世界を目指そうと、それは人それぞれ。優劣ではない。色々な視点があってこそ社会が成り立っているのです。
視点が変われば、環境や、付き合う人、話す言葉、感じ方、見える世界…まるで変わって行きます。本人の目つきも、顔つきも、歩く姿すら変わって行くのです。だからどんなものであれ、しっかりとしたヴィジョンのもとに、明確でブレ無い自分の視点を持つことが大切だと、年を重ねるほどに思うのです。

皆さんはどんな世界が見えていますか。

熱狂的声楽愛好のススメⅥ 「ドン ジョヴァンニ」

Met Live Viewing「ドン ジョヴァンニ」を観てきました。

       マリウシュ・クヴィエチェン(ジョバンニ) (2)ドン ジョヴァンニに裏切られ、でもあきらめきれないエルヴィーラの役をイタリアの名花 バルバラ・フリットリがやりましたが、この人も前回の「カルメン」の時とはまた違い、今回の雰囲気に溶け込んでいました。このフレキシブルさ加減はさすが!歌はもう文句のつけようがなく、役柄をよく研究して、情感が見事に表現されていました。もーオペラ歌手は皆魅力的に見えてしまいますね。
脇役のラモンヴァルカスもなかなかに素晴らしく、pppまで歌いきるその技量には大満足。さすがに世界のトップレベルは聞いていて気持ちいいです。

       クヴィエチェン&モイツァエルドマン(ツェルニーナ)

ドン ジョヴァンニは人殺しで嘘つき、病的な女狂い、平気で人を裏切るとんでもないやつ。何故こんな卑劣な男の物語がずっと人々を魅了するのでしょうか・・・・。
これまで、このオペラには様々な考察がなされ、多くの意見があります。「モーツアルトが意図したキリスト教のドグマへの反逆」「キリスト教では認めない一夫多妻の表徴」等々色々な意見があり、様々な側面を見出すことが出来ます。「私にはこう生きるしかない」、というある意味追い詰められて行く人間の姿が見えました。

人間、田舎にいようが都会に居ようが、一定の社会の中で生きなければならない。そんな社会のルールの枠から、どうしてもはみ出してしまう部分を誰しも持っている事でしょう。そして皆其々のルールにも疑問を持っている。「カルメン」もそうでしたが、自分の居る社会のルールではなく、人間としての根本的な意味での「道徳」、「正義」、「愛」等々考えさせられる所が多いですね。このドン ジョヴァンニの物語はこれら実に多くの主題を内包しています。
モーツァルトの、あの豊饒なメロディーが、この物語の魅力を増し、人々は幾世代に渡っても惹かれてゆくのでしょう。芝居ではなく、オペラでなければ語れない世界があるのだな、と思いました。また彼を取り巻く3人の女達の姿もまた何かを表しているように思いますが、そちらの考察はまたいずれ・・・。

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ヴェルディやワーグナーのような壮大なものから、今回の芝居小屋のような演出まで、実にオペラの魅力は幅広いですね。琵琶楽ももっともっといろいろな形があったらいいな、と思います。弾き語りも良いですが、薩摩・筑前・平家・雅楽、そんな垣根をどんどん飛び越えて、ただ古風なだけでなく、またバンド仕立ての似非ポップスでもなく、芸術的に音楽的に琵琶楽が旺盛に発展して行って欲しいものです。

音色の誘惑Ⅱ

先日、ピアニスト白石光隆さんのリサイタルを聴きに行きました。場所は東京文化会館の小ホール。以前やはり女性ピアニストのソロリサイタルをここで聴きましたが、今回はまるで違う楽器を聴いていると思える位に軽やかな演奏でした。 

        白石リサイタル

細部に渡って神経が行き届いたタッチ、そこから紡ぎだされる美しい音色。端正、繊細という言葉がそのまま音楽になったような演奏でした。こういうタイプの演奏は、断然に男性に多いですね。琵琶でもN村先輩や、以前師事していたT先生等もこのタイプの演奏家です。豪快で、振り切ってしまうような感じの鶴田先生とは全く逆のタイプと言えば良いでしょうか。私も結構繊細な所もあるかな、なんて思っていましたが、こういう演奏に改めて触れると私なんぞは絵に描いたような「大雑把」ですな。少なくとも繊細さのある部分が全く違う。
                                         こちらが白石光隆さん      
白石リサイタル裏                                      
演目はバッハ、ベートーベン、ブラームス、全てピアノ独奏というかなり通好みの内容。これだけの曲をあの繊細さで細部に渡って弾ききるというのは、かなり大したものです。どんな細かい所までも音色が損なわれず、和音も濁らない。渋い演目ばかりでしたが、最後まで飽きることなく聞かせてもらいました。惜しむらくは、ちょっと優等生的で小じんまりしている所でしょうか。聴衆を惹き付けドライブするようなダイナミックさは全くありませんでした。きっと白石さんの人柄なのでしょう。舞台袖から歩いてくる姿にそれはもう現れていました。これが彼のスタイルであり、音楽なのだと思います。それが出来あがっているという事は良い事だと思います。

「音楽は叫びと祈りである(黛敏郎)」を掲げる私の単なる好みからすると、もっとドラマが欲しかったですね。勿論これは単なる私の好みの問題。ムターのような自信に満ち溢れ、圧倒的な存在感が決して良いという訳ではないですが、技術がしっかりしているだけに、もっと良い意味で自分の音楽を誇示する所があっても良いのではないかな?と思いました。とはいえ、かなり高く安定した技術は素晴らしく、品も良く、レベルの高い演奏でした。

アンソニー・ロス・コスタンゾ今まで聞いた中で、一番PPPが美しかったA・R・コスタンゾ(Met「エンチャンテッドアイランド」のフェルディナンド王子役)

演奏に於いては、一般に大きな音を出すことよりも、弱音を出すことの方が難しいと言われます。それは弱音を維持するにはしっかりとした支えがないと維持できないからで、それには息も筋力も感性もちゃんとコントロールできないと出ないからです。
一方、音というものは音源から拡散してゆく性質があるので、音源の時点でつぶれていては10m先でボヤけてしまいます。音量よりも芯のある響きを心掛けないと音楽になりません。力任せの音や、支えの無いただの弱い音では何も表現が出来ないのです。矛盾したように聞こえるかもしれませんが、フォルテこそ力を抜いて神経を使う位で良いのです。端正な演奏をする方々はその辺が良く判っている。

そして次はそれらのコントロールの技量を、どう表現として実現して行くか、ここが芸人と芸術家の分かれ道です。見事な技を聞かせ、喝さいを浴びるのは芸人。確固たる自己の哲学を持って表現をしてゆくのが芸術家。芸術志向の方は、表現の為ならそれまで培ってきた型や技を捨て、楽器さえ変え、新たな表現を求めて行きます。芸人にそれは出来ない。良い悪いではなく、芸人は技が命、芸術家は表現が命。その違いです。

           e-弁天2サラスバティー

先のブログでは音色の事を書きましたが、「琵琶奏者です」と看板出していて、琵琶の音が良くないのではお話になりません。楽器の調整は勿論、タッチ、音色に対する感性、音楽性が出来あがっている事が舞台人の条件です。そしてその音楽性を磨くために、ありとあらゆる勉強が必要なのです。歴史古典芸能、文学美術・・・etc. 残念ながらそこまで突き詰めてやっているプロの琵琶人は見たことがありません。
中には「琵琶の現代曲なんてある程度弾ける人ならだれでも弾けてしまう」、なんて情けない事を言う先輩も居ます。一音の音色を紡ぎだすためにどれだけの時間と努力が必要なのか・・・。プロの厳しい世界を知らないのは結構ですが、こんなレベルで発言をする人が、その世界では先生といわれているのかと思うと情けなくなります。またその程度の意識で琵琶を弾かれたんじゃ、琵琶の魅力は何時まで経っても伝わりませんね。

そして音色の先に音楽があります。どんな音楽を演奏するのか、何故その音楽なのか、いっぱい考えて、勉強して行くうちに音色は更にその方向性に深まってゆきます。音色の良い人というのは、もうある程度自分の道が見えている人だと思うのです。でないと音色は良くなりません。

最後には音色に行きつくと思いますが、その時にはその人の音楽が出来あがり、世界が形作られている事でしょう。ただの「良い音」ではない、聴衆を惹きつける音色が出てくるまでは、長い長い道のりが必要なのでしょうね。
ピアノの演奏を聴きながら、もっともっと精進しようと思いました。

熱狂的声楽愛好のススメⅤ「カルメン」

夏の放蕩三昧は大分抜けてきたんですが、スケジュールの合間を縫って相変わらずの観劇三昧の毎日です。先日Met Live Viewingのアンコール上映「カルメン」を観てきました。やっぱり良いオペラは観ると何だかスカッとしていい気持ちです。今回は後半でカルメンが言った「私は自由に生きて、自由に死ぬの」これにビビッと来ました!!

      カルメン1エリーナ・ガランチャカルメン5エリーナ・ガランチャ

主演はラトビア出身のエリーナ・ガランチャ。もうカルメンはこの人以外に考えられない、という位にキャラから姿からぴったりでした。実に格好良い!!メゾソプラノは魅力ある人が多いな~。ジョイスディドナートと共にこれからもずっと聴いていきたい歌手です。

相手役のドン・ホセにはロベルト・アラーニャ。この人も正にホセにぴったり。今までの印象だと、ホセはただの情けない男という感じでしたが、彼の演じるホセはその姿に悲しみがありました。二人はもう「カルメン」ではコンビで何度もやっているそうで、実力はもちろんですが、いきがばっちり合っていましたね。

カルメン4テディ・タフ・ローズ毎度のことですが、Metはレベルが高い。今回も脇役が本当に素晴らしかったです。なんとバルバラフリットリ3時間前に電話で代役を言い渡されたというエスカミーリョ役のテディ・タフ・ローズ。ホセの許嫁役ミカエラにはバルバラ・フリットリ。どちらも魅力ある声で、役にぴったりとはまります。ミカエラのアリアなんか惚れ惚れして聞いてました。
今回はスパニッシュダンスを踊る演出がありましたが、ガランチャのダンスはなかなか堂にいったものでした。こうした演技の細かい部分でも手を抜かない。全ては最高の舞台を作る為に、惜しみない努力をしていますね。今回はカルメンやホセの姿を観ていて、自分の普段表に出てこない部分が見えるようでした。カルメンみたいな人が目の前に現れたら、私はどうなってしまうかな???

        DVD

日本の舞台もこれ位勢いが欲しいな、といつもオペラを観ると思います。
能は動きや感情表現を極限までそぎ落とすものの、描き出すものは仏教的な世界観で、観ている側を幽玄の世界に誘います。オペラは逆に表現がちょっと極端ですが、描き出すものがどこまでも現実に生きる人間ドラマに徹しているので、自分の人生が重なって、その世界に入り込んでしまう感じがします。其々に素晴らしい魅力があるのですから、是非我々の方からも、この日本の芸術舞台の素晴らしさを、魅力を世界に向けて発信して行きたいものです。

         能

日本はまだまだ「芸術やるならギャラは要らないだろう」という考え方が企画側にも演奏家側にも根強くあります。それではレベルの高い作品は生まれようも無く、人材も育たない。観客も納得しない。もう10年前から声を大にして言っていますが、アイドルの卒業ライブやじゃんけん大会を垂れ流しするようなエンタテイメントの仕掛け人はもういらない。経済面芸術面をしっかりとクリアしてレベルの高い芸術舞台を作る事が出来るプロデューサーが必要なのです。今、そんな人が出てこないと、日本は文化の面はもちろん、国自体も落ちて行くだけでしょう。文化無き所に国家はあり得ないのですから。

もっと日本に舞台を、音楽を満ち溢れさせたいですね。

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