先日、琵琶樂人倶楽部の夏の恒例「SPレコードコンサート~往年の琵琶名人を聴く」をやってきました。
毎度の事ですがクレデンザから響くSPの音は、本当にリアルで、本人が目の前にいるかのようです。当時レコード出すという事は色々な面で大変なことだったと思いますが、それだけにどの演奏も気迫が凄く、当時の琵琶楽のレベルの高さと共に、時代の勢いのようなものが感じられます。
と、今では色々と想いを馳せて鑑賞することができるのですが、実は、私は薩摩琵琶を初めて手にした時は、従来の琵琶曲はどうもしっくりと来ませんでした。良く聞けば、永田錦心の「石童丸」等には、今私が琵琶楽に求めるドラマ性が既に十二分に備わっていて、その革新性も内容も大変魅力あるものだったのですが、最初はそれが全く判らず、またその演奏スタイルは、私が琵琶に対し想い描いた姿とはずいぶん違っていました。
私がいつも弾き語りをやる際に、最初の弾き語り作品「平経正」以来ずっと考えている事は
①時間軸の見極めと多様性
②登場人物とナレーションの語り分け
③目線の位置(カメラワーク)をかなりはっきりさせて、能やオペラのように仕上げて行く。
この3つをポイントにしてきました。これは何よりもドラマ性を曲に持たせる為なのです。森田亨先生の作詞によるところが大きいのですが、自分で歌詞を書いた合奏作品「静~緋色の舞」や「朝の雨」等の作品等もそのスタイルで書きました。(もちろん違う作風のものもありますが)
では、なぜ琵琶語りにこのようなドラマ性が必要か。それは、ドラマの持つ展開と醍醐味が聴き手を惹きつけ、その世界を共有できるからです。何を聞いても同じであったら聴衆は以前の私と同じように魅力を感じない。ダイナミックにすればよいというものではないですが、色々な時間軸を組み合わせて、聴き手の創造力を掻き立てることは、大きな世界に誘うことになり、その世界を味わうことで、同時にその世界が有する深い精神性も伝えることができると思います。やはり舞台は人を惹きつけるものが無くてはいけません。
met live viewing「椿姫」「オペラは死に続けている(ブーレーズ)」と言われる現代において、Metのオペラが何故今でも大人気なのか。それは素晴らしい演出・脚本と、歌手のレベルの三拍子がハイクオリティーでそろっているからです。だから観客はぐいぐいと惹きつけられ、どの作品も観てみたいと思うのです。
先日聞いた長唄などもとても素晴らしい構成を持っていましたが、それに比べると今迄の琵琶楽には、とにかく楽曲としての演出が無い。個人の語りの力量で勝負すれば、それでよかったのかもしれませんが、今後更に琵琶の魅力を知ってもらうために、明確なドラマ性は是非とも必要だと思います。「石童丸」にも確かにドラマ性はありました。錦心流以前の薩摩琵琶には無いドラマ性がしっかりとありました。だから聴衆は熱狂したのだと思います。しかしそのやり方は現代のスピード感にはもう合わない。つまりそのドラマを現代に於いて新たな形でやろうという訳です。
薩摩琵琶は深い精神性を語るものであると言われています。私もこの部分に憧れて始めたようなものです。しかし今聴いても一向に伝わってこない。それは当たり前のことで、幕末や明治の頃の忠義の心、天皇崇拝の内容、武士道の内容、それでは現代には合わないのは当たり前。
実はその精神性というものは、武士道だなんだという形ではなく、そのもっと奥に隠れた根源的な精神なのではないでしょうか。そういうものを現代という時代の中で語るのが、薩摩琵琶の本来の使命ではないでしょうか。それには表面の形に何時までも惑わされてはいけません。私達の生活も時代とともに変わるように、音楽も変わるべき。永田錦心の時代から琵琶はそうだったはずです。そして今その深い精神性を伝えるのには、聴き手の創造力を掻き立てるようなドラマ性が必要とされているのではないかと思うのです。
また今後は語り手と弾き手を分けることも必要と考えています。弾き語りという魅力はあるものの、歌と楽器を両方やっていては両方共にレベルが上がらない。器楽としての琵琶を他の楽器と同じように、高いレベルで弾きこなす人は現在誰も居ません。また歌い手として、他のジャンルでも通用するようなレベルを持っている人も誰も居ません。長唄は唄い手と弾き手を早い時期から分けて、研鑽したからこそ、あれだけのレベルに至ったのだと思います。琵琶の弾き語りという部分は、今後大いに考えるべき問題だと思っています。
もっと薩摩琵琶には語るべき世界が有るはず。そして魅力が有るはず。そしてもっともっと多くの人に聞いてもらいたい。それは決してエンタテイメントのような一過性
で売れるとかいうのもでなく、後世に受け継がれるような芸術音楽として届けたい。
これからどんどんやりますよ。