私は毎月楽しみにしている某雑誌のエッセイあります。書いているのは、今年94歳になる画家 堀文子さん。文体はやわらかですが、毎回じわりと心に沁みるエッセイで、長い人生を自分なりの生き方で貫いてきた堀さんならではの言葉の数々とその軌跡に感動します。その中の一つに、こんな事が書かれていました。
堀さんが若き日、相容れぬ母親に反発し、結婚して自分の生き方を貫いていた頃、その若さの乱れを切り捨てたくて、「春の花が炎に焼かれた姿を描いた作品」を母親に見せに行ったそうです。その時母親に、「もっと怖ろしいものを現わしたかった筈だ。それが出ていない」と言われ、自分でも気が付いていた欠陥を指摘された悔しさで、母に言い返し逆らってしまった。それを聞いた母親は「慢心が始まった時、芸はおしまいになるのだ」と言い捨て去って行ったそうです。「愛の深さゆえに食い違う親子の争い。有難うございますと云えなかった未熟が今悔やまれてならない」と堀さんは書いています。
現代は慢心という言葉さえ忘れかけた世の中。そんな世の中に、自分は流されていないだろうか。しみじみと振り返ってしまいました。堀さんのエッセイからは実に様々な事を感じ取れますが、やはり中でも「慢心」という言葉は音楽を生業とする私には強く響きました。
「なにくそ!」という気概は是非持っていたいものですが、そこに「ありがとう御座います」と言える謙虚さと素直さのない人間は、所詮それまでの器。しかし現世に生きる人間は、なかなか真っ直ぐ生きる事が難しい。
前回書いたパルデン・ギャッツォさんやダライラマ14世は、憎しみを憎しみで返す事を一番良くない事だと言っています。注意でも批判でも、たとえ憎しみでもさえも、それに対し慈悲の心で答えることを説いています。それが私のような凡夫には出来ない。どうしても出来ない。一流という存在に成ってゆく人にはそれができるのでしょう。ここが大きな分かれ道なのだと思います。
他人の事は判るのに、自分の姿は一向に見えてこない。慢心している事すら全く自覚がない。欲望の消費で経済が成り立ち、それが豊かさだと思い込んでいる現代人は、心が麻痺していても仕方がないのかもしれません。
「人生が豊かになるかは、何を得たかではなく、何を与えたかによる」と何かで読んだことがありますが、何時しかそんな言葉も忘れ、何かを得る為に妄執の塊になってしまうのが、私のような凡夫です。

それでも時々本当に素直な姿をした人を見かけます。また逆に素直な振りをした人も多く見かけます。そんな様々な人達を見る度に自分を振り返り、自らの姿を見直しているのですが、やはり自分の姿は一番見えにくい。私はいくつになっても自分以上には成れないでしょう。しかし自分の生き方を自分で決め、実践して、自分の足で責任を持って生き抜く、堀文子さんの生き方に少しでも近づきたいと思うのです。
まだまだ私は勉強の途中のようです。
先日、三浦半島のヨットハーバーのある小さな入り江、小網代の海辺にてサロンコンサートをやってきました。

今回演奏した場所のオーナーさんは大変芸術や文化に関心が高い方で、お仲間の方々の集まりに呼んで頂きました。絶好の天気に恵まれ、素晴らしい景色の中、波の音をバックに「大原御幸」「経正」など演奏してきました。琵琶の音楽というのは自然音が全然邪魔にならないのです。鎌倉で演奏する時もそうなのですが、虫の声、雨音、風音、そして波の音など全ての自然音と琵琶の音は、絶妙のアンサンブルをするのです。
今回は個性的なメンバーが揃いましたので、食事やお酒を楽しみながら、其々の専門分野の話も聞けて、大変に充実した時間となりました。
そんな幸せな仕事の後、日常に戻ってからチベット僧 パルデン・ギャッツォさん
のドキュメンタリー映画を見ました。NY在住の日本人監督 楽 真琴(ささ まこと)さんが作った「雪の下の炎」という作品です。私はここで政治的な事を書くつもりはありません。ただ震災の時もそうでしたが、メディアの示す事を無条件で鵜呑みにしてきた自分を恥じる想いでした。パルデンさんが33年に渡る不当投獄の体験に対し、冷静に向き合って、更に慈悲の心を持って、前を向いて歩く事をやめない、その姿に私は感動しました。
ジェツン・ペマ女史
私は8年程前に、チベットの教育者 ジェツン・ペマ氏の講演会に呼ばれ演奏した事があります。ペマさんはチベットから亡命してきた子供たちの教育に力を入れていて、いかに教育というものが大事か講演してくれて、滅多に出来ない素晴らしい体験をさせて頂きました。そんな事もあってチベットには何かと縁を感じていたのですが、あの頃まだ私は琵琶を弾く事で頭の中がいっぱいで、世の中の事等全く見ていなかった。
今でも私自身は変わらず無力ではありますが、一人一人が今、この地球で起きている事実を知り、想いを馳せる事は、音楽を、時代を作って行くと思います。
琵琶楽は仏教の教えと精神を基に成り立っています。同じ教えと精神を持った人が、今世界に向けて体を張って想いと祈りを発信しつづけている。その事に何かを感じずにはいられません。炉端の石も成仏し、波の音さえ仏のはからいであるとする仏教の教えは、時代も国境も超え人間を結び付けるものなのだと感じています。
今、私たちの置かれている状況がどれだけ尊い事か。視野を広げ良く考えるべき時に来ているのだと思いました。

静かで、さわやかな海辺に聞こえる波の音。その波音と共に響いた琵琶の音は、ささやかではありますが、この大地に響き「今」という時間の一部となります。パルデンさんの祈りも同じく「今」の一部となって私に届きました。「今」を生きる人にこの響きを届けたい。そんな気持ちが心の中に沸いてきました。
先日、日本橋高島屋で開催されている、草月流いけばな「花ときめき」展に行ってきました。

私は柄にもなく「いけばな」というものが好きでして、色々と観に行っています。一番好きな
花人は何と言っても川瀬敏郎さん。花を活ける人を華道家とも言いますが、私は花人と言うのが好きですね。川瀬さんの作品は余計なものを極限までそぎ落とし、そこから豊饒なまでの世界が立ち現れる日本の美の究極があります。私は心底、川瀬さんの世界が好きでして、彼の持っている日本の文化への視点には何よりも心酔しています。
そんな私ですが、今回行った草月はその真逆に位置するような流派です。川瀬さんがその感性を内面に秘めて行くのに対し、草月は外側に向かってパワフルに表現し、その哲学も手法も全く違います。しかし私は毎回草月の展示会に行くと、自分の姿をその作品の中に観てしまうのです。
誰しもそうだと思いますが、私の内面には、常に二つのものが同居しています。草月の作品を見ると、自分の中に二つの人格、二つの感性を感じずには居られません。



日本人が継承してきた美的感覚の中でも、特に「一音成仏」のような、内面に向かう究極の日本美の世界は薩摩琵琶には大変合っているし、私の求める所です。これは川瀬さんの世界に対応します。それとは別に楽琵琶のような、大陸的で外に向かって音が開かれている世界、つまり草月の作品のような世界もまた、私の中にあるのです。それも私の場合は、両方共に徹底したハイレベルでやらないと気が済まない。両面というよりは、どちらかだけではどうしても語りきれないものを自分の中に感じるのです。何時か統一された世界が現れて来るのか、それとも二つの世界を抱えたまま、表現活動をしてゆくのか。まだまだ私には答えが見えません。
草月家元作品

草月流はとにかく独創的。型に胡坐をかかない。その豊かな発想と感性は、観る度にいつも驚いてしまいます。そして創造するという精神がしっかりと受け継がれていて、流派として成り立っているという所に感心してしまいます。家元を筆頭に、どこまでも芸術的であり続ける姿は、素晴らしい!!
精神を教えて行くというのは、今の邦楽の一番の問題点です。草月流のこの自由闊達な作品、そして川瀬さんの究極の日本美を観て、是非音楽家も、その原点に立ち返り考えていきたいものです。
川瀬作品

花を活けるということは、花の命を一旦奪い取り(もっと言えば殺し)そして生かす。深遠な哲学があると思います。私には容易に論じることは出来ませんが、命とこれほどまでに対峙した哲学を持つ芸術は、世界中で日本にしかないのではないかと思います。
色々な作品を見ていると、語るべきものをしっかりと感じるものと、誰かの作品をなぞって作ったものとが見えてきます。型も技術も表現するには大切なものでしょう。しかし先ずは何よりも、自分の中に語るべきものがある事。作品を通して何を語りたいのか、そこがなければ作品はあり得ません。花の命を奪い取って、新たな命を表現しようとするのですから、生半可では何も生かせないのです。

音楽も同じです。曲を演奏することで、何を表現したいのか。自分の語るべきものは何なのか。そこがなければ音楽に命が宿りません。単に上手な演奏というのは、表面を綺麗に飾った花と同じ事で、とりあえずの形はあっても、命を失ったただの物体でしかないのです。音楽家も、聴衆を生命の原点に向かわせ、震えさせるようなレベルで演奏したいものです。
音楽家よ、対峙せよ!そして語るのだ!
ただいま演奏会シーズンの真っ最中。日々本番やリハーサルに追われていますが、この時期は色々な舞台のお誘いを受ける時期でもあります。どうしても行けないものもありましたが、ここ一週間で色々と行ってきました。
先ずは江戸手妻の藤山新太郎先生の「明治のマジックショー」日本橋公会堂
マジックや手品の本格的な舞台は初めて見たのですが、これはなかなかに面白い。且つかなり高度な芸ではないかと思いました。一つ一つの演目が驚くばかりの内容で、最後までびっくりしっぱなし。ただひたすら高度な芸を繰り広げて行く。これが芸というものなのか・・・。芸とは何か・・・。観ていて、とても考える所がありました。是非また観てみたいです。
次は花柳面先生の「月の会」 国立劇場
いつもお世話になっている面先生とお仲間三人による主催の会ですが、やはり圧巻は面先生の「羽衣」。存在感のある姿、動き。文句なく素晴らしかったです。技術は当然ですが、演目を通して、自分が語るべきものをしっかりと持っているのでしょう。だから世界観がしっかりと表現されていました。こういう舞台に触れると、またそこから自分の想像力が広がって行きます。元気も出ますね。
お囃子は、以前共演した事もある福原百之助さんでしたので、演奏の方も充分に楽しめました。
舞台を観ていて其々の技はもちろんですが、「声」の重要性を改めて思いました。藤山先生の手妻も声で観客を誘います。口上も堂に入っているし、ちょっとした会話にも無理が無く、良いテンポで舞台が進行して行く。ステージングがとてもこなれていました。面先生の公演は囃子方の中に歌い手が付いている訳ですが、それ以上に、面先生の影声が素晴らしく、あの声が無かったら舞台は成立しなかったと思います。
最後はこちら「ジェーンエア」 日生劇場
日本のミュージカルを観たのは実は初めてでして、どんなものなのか期待して行きました。照明使いがなかなかに素晴らしく、演出の良さを感じました。ストーリーが面白い事もあって、充分楽しめたのですが、元々英語の歌を日本語訳にしてあるので、日本語に無理のあるメロディーが多く、ちょっと残念に思いました。こちらも以前、御一緒したことのある、阿部よしつぐさんが出ていましたが、脇役、子役の役者さんが、其々いい感じでした。そして勿論この舞台でも「声」に興味が行きました。
日本人の声は薄い、とよく言われます。Jpop等を聞いていても思いますが、これは何故なのか?体格から来るものなのか、日本語の響きから来るものなのか、まだ私には判りません。以前役者をしている大先輩から、「声は訓練で作るものだ」と教えられましたが、なかなかその先輩のような響く声は簡単には作れませんね。

以前にも書きましたが、邦楽には「高い声=凄い・上手い」というような妙な信仰があります。しかし高い声が出た所で音楽が良くなければ意味がありません。音楽は時代と共にあってこそ音楽。古い因習に囚われて、型をなぞり、時代からずれてしまっては、誰も聞いてくれません。やはり古典には、いや古典にこそ「創造」という感性がないと生き残ってはいけないと思います。
「声」はミュージカルだろうが邦楽だろうが、芸術全てにおける根幹です。私は歌い手ではないし、自分はどんどん歌わない方向に行っていますが、琵琶を生業とする以上、声は欠かせないもの。なるべく多くの優れた音楽を聴いて精進したいものです。少しでも精進しなければ!
舞台上で音楽を演奏するだけでなく、「声」を上手く使って行く事は、今後の自分の舞台でも重要な要素になってくるだろう、と思いました。
声が踊り、声が観える、そんな想いが巡った数日間でした。
先日、レッドツェッペリン再結成のライブムービー「Celebration day」を観てきました。その数日前にはあのジミーペイジが、今回の上映会場である六本木東宝シネマで、記者会見した事もあって、ファンとしてはヴォルテージ上がりっぱなしという訳です。しかも二日間だけの上映。これは行くしかないでしょう。
とにかく曲が素晴らしい。ポップスのような「売る」ことが最優先の音楽とは違い、内から湧き上がる世界最高レベルの楽曲ばかりなのです!!曲を聞けば判ります。この姿勢は邦楽人も是非見習って欲しいなとつくづく思いました。

メンバーの内、一人だけ亡くなったDrのジョン・ボーナムに代わって息子のジェイソンが叩きましたが、親父を超えるような素晴らしいドラミングでした。ツェッペリンは当時から楽曲の良さで知られていて、演奏も勿論飛びぬけていましたが、いわゆる名人芸を披露するようなバンドでなかったので、今聞いても衰えというものがありません。確かにロバートプラントのあの超高音は望めませんでしたが、声量は結構あるし、ステージパーフォーマンスもいかしている。ジミーペイジもしっかりジミーペイジでした。
「In my time of dying」「Black Dog」「Trampled Under Foot」「Kashmir」「Whole Lotta Love」もちろん「Stairway To Heaven」歴史に残る名曲がガンガン続きます。

皆60代ですが、60代でこんなに格好良い琵琶人は見たことないですね。私は間違っても、品行方正ぶってお茶なんぞ点てながら、ちんまりと己の世界に浸っているような親父にはなりたくないです。ステージの上に立って、全開で、格好良く演奏していたいです。
前回のブログでも書きましたが、ロックと邦楽を並べることは確かに無理があるでしょう。しかしどんな音楽に於いても、人が魅力を感じないようでは始まりません。静かに熱狂するのも、熱く熱狂するのも、ひとえにその音楽に魅力があるからです。

以前ブログにも書いた映画Get Loudでも同じ事を思いましたが、どんなに年をとっても、反骨精神無き者に魅力は無い。創造性無き音楽にも魅力は無い。肩書きや名誉にすり寄っているものに、どうして人生をかけられるでしょう。挑戦する姿勢無きものにどうして熱狂が生まれるでしょう。永田錦心はそんな骨抜きの音楽を決してやらなかった。だから人々は熱狂したのではないでしょうか。
ツェッペリンは40年経っても熱い!琵琶楽も負けてはいられないのです。土俵は違えどジミーペイジに「俺の曲を聞いてくれよ」と言える位でありたい。ちっちゃい世界で、あたふたして終わってたまるか!!
熱く燃えた一夜でした。

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