師走~新たなる年へ

もうまもなく師走に突入ですね。紅葉もそろそろ見納め。次の新たな年に向けてのラストスパートです。

             郡司北とぴあ

演奏会ももうひと踏ん張り。先ずは毎年恒例の「創心会」がもう目の前に迫っていますが、この他に北とぴあでの「郡司敦の世界」、恒例のグリーンテイル年末ライブ、そして琵琶樂人倶楽部のライブ忘年会等があります。是非お越しください。半ばを過ぎるともう琵琶はほとんど演奏の機会がなくなりますが、今年は来年に向けて色々とやるべき事が多く、この時間は貴重なものとなりそうです。

毎年そうですが、特に今年一年は色々な事を経験させてもらって、来年からはより自分らしい活動を展開して行けるような気がしています。去年と今年の2年間は正に自分にとっての転換期であり、次のステップへのイントロのような気がします。色々なことに区切りをつけ、自分にとってやるべき事が更にはっきりして来たので、これからは本当にやるべき事をどんどんと絞って、自分らしい道を歩みたい。色々なものが大きく変わろうとしている。それを感じるのです。

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「音楽は現実に生きる人々と共にある」というのが私の信条。大衆的なものにおもねるのではありません。敦盛や経正を演奏することで、現代に何を表現して行くか。古典を題にして出来た音楽だからこそ、古典を通し現代を語り、現代に生きる人々と共感出来るようでありたいのです。
聴いていて楽しくなるエンタテイメントも良いと思います。しかしそれだけで終わらない、もっとその奥を感じて、共感してもらえるような音楽を私はやりたい。そういうものを感動だと私は解釈して来たし、私自身が音楽にそんな感動を沢山感じながら生きてきたので、私も音楽家として、そういう音楽をやっていきたいと思っています。その場が志村ふくみ楽しい、面白いだけでは私自身が満足いかないのです。
志村ふくみさんの「我々の仕事は常に前衛であるべき」という言葉はいつも胸に抱いています。古典だろうがなんだろうが、今私が現代に生きている以上、私の演奏するものは過去の焼き直しではない。時代も私自身も変わって行く。だから音楽も時代と共に、常にその時の最先端でありたいと思います。受け継ぐものは形ではない。むしろ形は刻々と変化して行く。その変化の中で確実に替わらないものがある。そこに日本の感性や文化があるのだと考えています。

日の出2秋を過ぎてもう冬となってきました。幸い多くの仲間も出来、自分の道はおぼろげながらも見えています。今後も色々な事があるでしょう。出会いも別れもあると思いますが、枝葉のような脇道に迷い振り回される時代はもう自分の中で終ったと思います。そういう部分から得たものも大変多いですが、これからは行くべき道をしっかりと見据え、進んでゆきたいものです。

今後も是非是非御贔屓に。

撥の話

ぱっと見だと底辺が27センチ近くもあるような撥は使いにくそうなんですが、この大きさはかえって細かいフレーズを弾く時にとても便利なのです。特にトレモロ。トレモロは手首を細かく動かすのですが、手首から撥先までの距離がこれ位あると、小さな動きでも、その動きが撥先に於いて、大きな動きに変換されるからです。それでトレモロが安定します。これは物理の問題です。これが三味線の撥位の大きさですと、手首をもっと動かなさなくてはいけないので大変やりにくい。三味線の音楽にトレモロのフレーズがほとんど無いのもうなづけます。琵琶をやっている方は試しに、三味線の撥で、FFからPPまで強弱をつけてトレモロをやってみると、大きな撥の方がいかに手首の負担が軽いか実感できますよ。もっと小さいギターのピック等では安定したトレモロというのは、本当に難しいのです。有名な例ではエドワード・ヴァン・ヘイレンのハミングバードピッキングがありますが、長く弾くのが難しい上に、あのように弾くにはある程度修練が必要ですね。

それが琵琶撥の大きさですと、小さな力で、しかも安定する。演奏会9トレモロもとても弾きやすい。だから琵琶には崩れのような細かい撥さばきを必要とする奏法が発展したのでしょう。あの大きさは細かな撥さばきこそ似合っているのです。以前就いていたT先生にも、撥を小さくするとトレモロがやりにくくなると言われたことがあります。

琵琶の撥さばきがとても似ているので、習い始めの頃はびっくりしました。大きな撥を使えば、ちょっとした手首の動きだけで、フラメンコギターの指さばきのように、しなやかに全弦を舐めるように弾くことが出来ます。

という訳で、大きな撥はとても使い勝手が良く、早いパッセージに向いていて、色々な表現が可能なのです。

慢心

堀文子私は毎月楽しみにしている某雑誌のエッセイあります。書いているのは、今年94歳になる画家 堀文子さん。文体はやわらかですが、毎回じわりと心に沁みるエッセイで、長い人生を自分なりの生き方で貫いてきた堀さんならではの言葉の数々とその軌跡に感動します。その中の一つに、こんな事が書かれていました。

堀さんが若き日、相容れぬ母親に反発し、結婚して自分の生き方を貫いていた頃、その若さの乱れを切り捨てたくて、「春の花が炎に焼かれた姿を描いた作品」を母親に見せに行ったそうです。その時母親に、「もっと怖ろしいものを現わしたかった筈だ。それが出ていない」と言われ、自分でも気が付いていた欠陥を指摘された悔しさで、母に言い返し逆らってしまった。それを聞いた母親は「慢心が始まった時、芸はおしまいになるのだ」と言い捨て去って行ったそうです。「愛の深さゆえに食い違う親子の争い。有難うございますと云えなかった未熟が今悔やまれてならない」と堀さんは書いています。

現代は慢心という言葉さえ忘れかけた世の中。そんな世の中に、自分は流されていないだろうか。しみじみと振り返ってしまいました。堀さんのエッセイからは実に様々な事を感じ取れますが、やはり中でも「慢心」という言葉は音楽を生業とする私には強く響きました。

「なにくそ!」という気概は是非持っていたいものですが、そこに「ありがとう御座います」と言える謙虚さと素直さのない人間は、所詮それまでの器。しかし現世に生きる人間は、なかなか真っ直ぐ生きる事が難しい。
nadayoga前回書いたパルデン・ギャッツォさんやダライラマ14世は、憎しみを憎しみで返す事を一番良くない事だと言っています。注意でも批判でも、たとえ憎しみでもさえも、それに対し慈悲の心で答えることを説いています。それが私のような凡夫には出来ない。どうしても出来ない。一流という存在に成ってゆく人にはそれができるのでしょう。ここが大きな分かれ道なのだと思います。
他人の事は判るのに、自分の姿は一向に見えてこない。慢心している事すら全く自覚がない。欲望の消費で経済が成り立ち、それが豊かさだと思い込んでいる現代人は、心が麻痺していても仕方がないのかもしれません。
「人生が豊かになるかは、何を得たかではなく、何を与えたかによる」と何かで読んだことがありますが、何時しかそんな言葉も忘れ、何かを得る為に妄執の塊になってしまうのが、私のような凡夫です。

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それでも時々本当に素直な姿をした人を見かけます。また逆に素直な振りをした人も多く見かけます。そんな様々な人達を見る度に自分を振り返り、自らの姿を見直しているのですが、やはり自分の姿は一番見えにくい。私はいくつになっても自分以上には成れないでしょう。しかし自分の生き方を自分で決め、実践して、自分の足で責任を持って生き抜く、堀文子さんの生き方に少しでも近づきたいと思うのです。

まだまだ私は勉強の途中のようです。

海辺にて

先日、三浦半島のヨットハーバーのある小さな入り江、小網代の海辺にてサロンコンサートをやってきました。

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今回演奏した場所のオーナーさんは大変芸術や文化に関心が高い方で、お仲間の方々の集まりに呼んで頂きました。絶好の天気に恵まれ、素晴らしい景色の中、波の音をバックに「大原御幸」「経正」など演奏してきました。琵琶の音楽というのは自然音が全然邪魔にならないのです。鎌倉で演奏する時もそうなのですが、虫の声、雨音、風音、そして波の音など全ての自然音と琵琶の音は、絶妙のアンサンブルをするのです。
今回は個性的なメンバーが揃いましたので、食事やお酒を楽しみながら、其々の専門分野の話も聞けて、大変に充実した時間となりました。

そんな幸せな仕事の後、日常に戻ってからチベット僧 パルデン・ギャッツォさん雪の下の炎のドキュメンタリー映画を見ました。NY在住の日本人監督 楽 真琴(ささ まこと)さんが作った「雪の下の炎」という作品です。私はここで政治的な事を書くつもりはありません。ただ震災の時もそうでしたが、メディアの示す事を無条件で鵜呑みにしてきた自分を恥じる想いでした。パルデンさんが33年に渡る不当投獄の体験に対し、冷静に向き合って、更に慈悲の心を持って、前を向いて歩く事をやめない、その姿に私は感動しました。
                                                                                                    
ジェツン・ペマ女史
ジェツン・ペマ私は8年程前に、チベットの教育者 ジェツン・ペマ氏の講演会に呼ばれ演奏した事があります。ペマさんはチベットから亡命してきた子供たちの教育に力を入れていて、いかに教育というものが大事か講演してくれて、滅多に出来ない素晴らしい体験をさせて頂きました。そんな事もあってチベットには何かと縁を感じていたのですが、あの頃まだ私は琵琶を弾く事で頭の中がいっぱいで、世の中の事等全く見ていなかった。
今でも私自身は変わらず無力ではありますが、一人一人が今、この地球で起きている事実を知り、想いを馳せる事は、音楽を、時代を作って行くと思います。

         
琵琶楽は仏教の教えと精神を基に成り立っています。同じ教えと精神を持った人が、今世界に向けて体を張って想いと祈りを発信しつづけている。その事に何かを感じずにはいられません。炉端の石も成仏し、波の音さえ仏のはからいであるとする仏教の教えは、時代も国境も超え人間を結び付けるものなのだと感じています。
今、私たちの置かれている状況がどれだけ尊い事か。視野を広げ良く考えるべき時に来ているのだと思いました。

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静かで、さわやかな海辺に聞こえる波の音。その波音と共に響いた琵琶の音は、ささやかではありますが、この大地に響き「今」という時間の一部となります。パルデンさんの祈りも同じく「今」の一部となって私に届きました。「今」を生きる人にこの響きを届けたい。そんな気持ちが心の中に沸いてきました。

語るべきもの

先日、日本橋高島屋で開催されている、草月流いけばな「花ときめき」展に行ってきました。

   
         草月展「花ときめき」

私は柄にもなく「いけばな」というものが好きでして、色々と観に行っています。一番好きな川瀬敏郎花人は何と言っても川瀬敏郎さん。花を活ける人を華道家とも言いますが、私は花人と言うのが好きですね。川瀬さんの作品は余計なものを極限までそぎ落とし、そこから豊饒なまでの世界が立ち現れる日本の美の究極があります。私は心底、川瀬さんの世界が好きでして、彼の持っている日本の文化への視点には何よりも心酔しています。   

そんな私ですが、今回行った草月はその真逆に位置するような流派です。川瀬さんがその感性を内面に秘めて行くのに対し、草月は外側に向かってパワフルに表現し、その哲学も手法も全く違います。しかし私は毎回草月の展示会に行くと、自分の姿をその作品の中に観てしまうのです。
誰しもそうだと思いますが、私の内面には、常に二つのものが同居しています。草月の作品を見ると、自分の中に二つの人格、二つの感性を感じずには居られません。

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日本人が継承してきた美的感覚の中でも、特に「一音成仏」のような、内面に向かう究極の日本美の世界は薩摩琵琶には大変合っているし、私の求める所です。これは川瀬さんの世界に対応します。それとは別に楽琵琶のような、大陸的で外に向かって音が開かれている世界、つまり草月の作品のような世界もまた、私の中にあるのです。それも私の場合は、両方共に徹底したハイレベルでやらないと気が済まない。両面というよりは、どちらかだけではどうしても語りきれないものを自分の中に感じるのです。何時か統一された世界が現れて来るのか、それとも二つの世界を抱えたまま、表現活動をしてゆくのか。まだまだ私には答えが見えません。

       草月家元作品
          草月作品4
   
草月流はとにかく独創的。型に胡坐をかかない。その豊かな発想と感性は、観る度にいつも驚いてしまいます。そして創造するという精神がしっかりと受け継がれていて、流派として成り立っているという所に感心してしまいます。家元を筆頭に、どこまでも芸術的であり続ける姿は、素晴らしい!!
精神を教えて行くというのは、今の邦楽の一番の問題点です。草月流のこの自由闊達な作品、そして川瀬さんの究極の日本美を観て、是非音楽家も、その原点に立ち返り考えていきたいものです。

        瀬作品
         川瀬作品2

花を活けるということは、花の命を一旦奪い取り(もっと言えば殺し)そして生かす。深遠な哲学があると思います。私には容易に論じることは出来ませんが、命とこれほどまでに対峙した哲学を持つ芸術は、世界中で日本にしかないのではないかと思います。

色々な作品を見ていると、語るべきものをしっかりと感じるものと、誰かの作品をなぞって作ったものとが見えてきます。型も技術も表現するには大切なものでしょう。しかし先ずは何よりも、自分の中に語るべきものがある事。作品を通して何を語りたいのか、そこがなければ作品はあり得ません。花の命を奪い取って、新たな命を表現しようとするのですから、生半可では何も生かせないのです。

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音楽も同じです。曲を演奏することで、何を表現したいのか。自分の語るべきものは何なのか。そこがなければ音楽に命が宿りません。単に上手な演奏というのは、表面を綺麗に飾った花と同じ事で、とりあえずの形はあっても、命を失ったただの物体でしかないのです。音楽家も、聴衆を生命の原点に向かわせ、震えさせるようなレベルで演奏したいものです。

音楽家よ、対峙せよ!そして語るのだ!

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