年内の仕事は、先日のグリーンテイルライブと青山小学校での「子供邦楽体験隊」で終りました。


この小学校での催しは、時々御一緒する筝の高市雅風さんが主宰している団体「ここふた」がやっているのですが、子供は素直に反応するのが良いですね。下手に知識を持ってしまった大人より、よっぽど音に敏感です。琵琶のような特殊な楽器は、ちょっとばかし弾けたりすると、周りから専門家のように扱われ、本人もその気になりがちですが、こうして無垢な子供たちに触れると、我が身がよく見えて、引き締まります。
華厳経では、一滴の中に世界があり、世界はまた一滴であるといいます。後の禅につながる思想だそうですが、この一滴にも命の灯を感じるようでありたいですね。私の周りでも、パワフルに動き回る人もいれば、ゆっくりとかすかな灯を静かに保っている人もいます。小さなものでも、地味なものでも、命の灯がある限り、その中ではその人なりに燃え、輝いていると思います。
以前は派手に燃やす事が生きる証とばかりに走り続けていましたが、静かに穏やかに命の灯を保ち、生きる人々も沢山居るという事をこの年になって知りました。私などは、もう死に向かって生きているとも言える年齢になってきましたが、自らの灯を静かに保ち、はかなくなりつつある命を感じながら、残された時間をよりよく生きようとする事も、一つの生き方なのかもしれません。

以前このブログで書いた田端明先生は親鸞の歎異抄を読んで、
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先日met live viewingの「テンペスト」を観てきました。私が見てきたオペラの中でNo.1ともいえるほどの充実した作品でした。大満足!
シェークスピア原作の「テンペスト」は色々な人間の側面を内包しています。親と子、兄弟、自尊心 虚栄心 愛憎、宗教観 etc.「古典」と言われ語り継がれているものは源氏物語や平家物語でもそうですが、人間の様々な姿が描かれています。だからこそ汲めども尽きぬ魅力に溢れ、語り継がれるのでしょう。今回の舞台にも様々な人間の姿、そしてドラマが描かれていました。
原作は古典ですが、音楽・脚本・演出・舞台美術全てが現代の新作です。先ず音楽が素晴らしい。トーマス・アデスの音楽は確かに難しい現代音楽ですが、違和感がない。複雑な和音も神秘的に響かせ、印象的なメロディーが随所に溢れている。音楽家の目で見ると歌手は大変だったと思います。しかしそれでいて進行を止めてしまうような、歌手の為の見せ所的なアリアがあまり無いので、物語全体のまとまりがとても良い。特にアデス自身が指揮した事もあると思いますが、複雑な部分での演奏も良く整っている。さすがブリテンの再来と言われるだけの事はあります。32歳でこれを書いたとは、信じられないですね・・・。
また脚本の方もシェークスピアのエッセンスを詰め込むのではなく、原作にはない主人公プロスぺローの心情などを巧みに盛り込み、逆に切り捨てる所は思い切って切り捨てる。全ては舞台という空間で表現することを第一に、見事な仕上がりになっていたと思います。特に最後の舞台をスカラ座に仕立てたのは実に良かった。ミラノ大公だったプロスぺローにとって、スカラ座は正にその執念を表し、最後に硬く凍りついた心から解放される場としてふさわしい。見事な演出でした。


主人公プロスぺローには サイモン・キンリーサイド。アデスは彼に演じてもらう事を念頭に作品を書いたそうですが、さすがの存在感。その重厚さは他には考えられないほどの大きさがありました。
そして今回のもう一人のスターは、妖精アリエル役のオードリー・ルナでしょう。この役で彼女に注目した人も多いのではないでしょうか。
コロラトゥーラだと思うのですが、いきなり超高音で登場するあの技術は驚くべきものがあります。グルベローヴァを最初に聴いた時位の衝撃がありました。
また演技も秀逸で、体を軟体動物のように動かしながら演じ歌う様はこの世のものではありませんでした。正に妖精。是非他の作品でも聴いてみたくなりました。
そしてプロスぺローの心を動かすのはこの二人、
プロスぺローの娘ミランダ役のイザベル・レナードとフェルディナンド公のアレック・シュレイダー。キャラが合ってないなんて書いているブログも見受けられますが、どこが?!私にはぴったりのキャラだと思いましたよ。人の印象は様々ですね。この若き二人が歌い愛し合う姿が、プロスぺローの凍りついた心を溶かし、執念と魔力から解放します。そこにはまた子離れというテーマも描かれていました。
写真が無いのですが、ラストは怪物カリバン役のアラン・オークのアリアで終ります。全てが去り誰も居なくなった島に一人佇み、「誰かいたような・・全ては夢だったのか・・」と一人歌う場面は感動的でした。天上から妖精アリエルの声が響き、オケがその旋律を支え・・・・見事としか言えない。作曲・演出・脚本・美術そして歌手達。それぞれの一流が最高のレベルで集う舞台でした。

シェークスピア作品は名言の宝庫です。今回も色々な名言が沢山ありました。ラストシーンで「人は自尊心で死ぬのだ」とプロスぺローが弟に言い放つ場面等、実にぐさりと来ます。この物語は色々な人間模様を表していますが、この自尊心に固まり、凍りついた心からドラマは始まります。またその心が溶けて行く事で人間の在り方というものが表現されて行きます。自尊心も虚栄心も、愛という普遍の魂にはかなわない・・・・。ドラマをたっぷりと堪能しました。

Metの姿勢はいつも納得がいきます。アデスの音楽にしても、演出や脚本にしても、古典に寄りかからない。古典を充分に研究し、その上で現代という視点で取り組んで、創造という芸術の基本姿勢から一歩も引かない。その自らの足で歩む姿勢は、邦楽人が今一番見るべきものだと思うのです。
表現活動をしていれば、常に賛否両論に晒されます。このテンペストも称賛する人から酷評する人までいます。でも何を言われても絶対に怯まない。それが表現者です。いつの世にも物知り顔で知ったかぶりの似非評論家はいるものです。そんな声に惑わされていては表現活動は出来ません。
![IMG_3405[1]](https://biwa-shiotaka.com/wp-content/uploads/2012/12/9b3206ca.jpg)
私はMetの舞台も姿勢もとても好きです。そして自分でもそうありたいと思っています。琵琶はとても地味な音楽で
すが、コンプレックスに固まり、マイナーを気取っているような姿では居たくない。たとえお客様は少なくとも、Metには遠く及ばなくても、世界標準で、且つ同じ意気込みで作品を作り、舞台を務めたいのです。
益々Metから目が離せませんね!!

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先日、櫛部妙有さんの一人語りを聴いてきました。演目は私も大好きな芥川龍之介の「奉教人の死」でした。

櫛部さんとは、私が時々演奏している荻窪のかんげい館で偶然に出逢ったのですが、その時、その場で演奏を聞いて頂いたことに始まります。語りの持っている時間と、音楽が持っている時間の違い等、とても有意義で芸術的な話をさせて頂きました。
櫛部さんの語りを聴いていると、映像がありありと見えるのです。その語りは、けっして大げさに誇張したりするものでなく、かえって淡々としたもので、それはどこか琵琶唄にも通じるものがあると思いました。琵琶は言葉であまり説明せず、あえて言葉を絶って、その絶った部分を琵琶の音で補い世界を表現するのですが、櫛部さんのシンプルで余計な演出の無いスタイルは、とても近い感じがしました。
「言霊」という言葉もあります。最近ではちょっと安易に使われ過ぎのような気もしますが、「言葉は声になって初めて伝わる」というのが私の持論です。こうして書いているブログの言葉も、読む人によってかなり違った印象を与えるのだと思ってます。そこには誤解もあるでしょう。それはそれで良いと思うのですが、この文章も本来は私の口から出てこそ、一つの意味のある生き物になって行く。いつもそう思いながら書いています。
今回、芥川の「奉教人の死」も、櫛部さんの言葉で語られるからこそ、生きたものとなって、私の想像力を掻き立て、目の前に映像を感じたのだと思います。
一言を聴いただけでも、その背景や風景を感じる。それが生きた言葉だと思うのです。
音楽でも良く感じる事なのですが、テクニックはしっかりしているのに、音がとても白々しく聞こえてくる演奏に時々出くわします。そういうものを聴くと、こちらの想像力が全然働かない。音でも言葉でもそこに生命感があってこそ、言葉を、音を超えて次元の違う世界にこちらの感性が羽ばたくような気がします。
櫛部さんの語りをずっと聞いていると、もはや言葉を聴いているのに、言葉は聞えない、そこには映像が浮かび上がって、聴いている私がその世界に入り込んでその場に存在しているかのようでした。これは能を観ている時にもよく感じることです。
また今回は舞台上がとても印象に残りました。舞台となったのは、南阿佐ヶ谷の「かもめ座」。いわゆる小劇場という空間です。淡い感じの照明が当たっただけのその舞台に櫛部さんが一人。ではなく、傍らには物語の主人公「ろうれんぞ」の姿が・・・。これは人形作家 摩有さんの作品で、櫛部さんの語りを聴いていると、人形が本当に「ろうれんぞ」に見えてくるのです。
摩有さんのHP:http://www.mayudoll.com/
また櫛部さんの語りによってこちらの想像力がフル稼働しているせいか、物語の進行によって、「ろうれんぞ」の表情が変化しているようにも感じました。
何時か、一緒に舞台が出来たらいいな~~。こういう丁寧に作られた舞台は良いですね。
またぜひこの世界を体験したいですね。

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先日、「日本舞踊×オーケストラ伝統の競演」という舞台を観てきました。花柳流宗家 花柳壽輔氏が中心になって、日舞の各流派宗家が東京フィルと共演をする企画でした。日舞とオーケストラという形は宝塚歌劇が最初との事ですが、最近では生オケを使った会は珍しいし、私は何かと舞踊とは縁がある方ですので、ちょっと期待して行きました。

曲は以下の通り
「レ・シルフィード」藤蔭静江:振付 吾妻徳彌:出演
「ロミオとジュリエット」坂東勝友:振付
花柳典幸・尾上紫:出演
「ペトリューシュカ」五條珠實:振付
若柳里次朗・花柳寿太一郎・花柳大日翠・花柳輔蔵:出演
「牧神の午後」花柳壽輔・井上八千代:振付及び主演
「ボレロ」野村萬斎:出演・振付 花柳壽輔・花柳輔太郎:振付
私は踊り関係とはよく仕事をするものの、日舞に詳しい訳ではないので評論は出来ませんが、思ったことを連ねてみますと、
①日舞の型や世界観を崩さずに、その中にクラシック音楽を取り入れたもの
②バレエの舞台を踏襲してそれを日舞で再現したもの
③日舞という枠を超え、曲と共に新たな世界の創造を目指したもの
と色々なヴァリエーションがありました。
これらを観て自分の音楽を振り返ってみると、③のやり方が一番自分の中に見えて来ました。「やりたいようにやってみると、そこには拭いきれない邦楽というものが見いだせた」というのが私の姿なのだと思います。薩摩琵琶は家元制度も無く、個人芸ですので、その誕生から一人一人個性に溢れていて、型よりも本人のアイデンティティーのようなものがより表に出るのでしょう。
「誤解の総体が本当の理解なんだ(村上春樹)」とも言う方も居るように、私の演奏に邦楽的なものを感じて頂いているとしたら、薩摩琵琶に対するイメージ(誤解でもあり、また理解でもある)を私の音楽と演奏に見て、聞いてくれているのだと思いますが、そのイメージは、あくまで現代人が思うイメージであると思います。薩摩琵琶が流行った明治~昭和初期の形は、現代社会にその影はもうほとんどなく、現代の聴衆の記憶の中にも無いという現実もあると思います。そんなこともあって、今現在に於いて、日本人として共感できる部分で、邦楽的な何かを私の演奏に感じて頂ければ嬉しいですね。



悟りの窓三態:これは理解ですか?誤解ですか?それとも幻想?
では流派の型や定番というものはどんな意味を持つのでしょうか。「
流派は文化である」、という方もいます。確かにそうだと思います。かつては芸を習得するにあたって、流派というものは必要だったし、流派というものがなければ芸は伝わらなかった。特に合奏するものはそうでしょう。流派の受け継いできたものには、膨大な情報と経験の蓄積があると思います。しかし流派というものが、現代社会とあまりにもかけ離れ、昔の価値観ではもう芸も流派も回らなくなってしまったのも確かな事。流派はもはや幻想になってしまったのでしょうか。
日本では「系統や肩書等を先に見て、中身が後に来る」という傾向が非常に顕著です。それは日本独特のものだと思います。また、「がんばっているという行為には関心があるものの、その結果や質は二の次」というものの見方も相変わらず強いと思います。こうした、結果より過程や形を重んじる姿勢は、今後の日本音楽の事を考えると思う所が沢山あります。私は質も結果こそ大いに注目して行きたいし、すべきだと思っています。
日本特有のものの見方、感じ方は、決して悪いものではないと思います。ただ世間からも世界からも遠く離れてしまっているとしたら、変えて行かないといけないのです。「日舞はこうでなくては」「これが薩摩琵琶だ」という考え方を最初に言うのではなく、「この豊富な情報と経験の蓄積を未来に伝える」事を何よりも第一にすれば如何でしょうか。肩書きがあっても、ダメなものはダメ。舞台にすべてが現れます。その為に体質や形を抜本的に変え、流派のシステムもそれに対応して行ったら、きっと煌めくような未来が期待できると思うのです。ちょっと政治家の答弁みたいですが・・・。
移り行く時代をしっかりと見つめ、どの部分を遺し、継承し、そしてどの部分を変えて行くか、伝統音楽の器が、今問われているのだと思います。

あなたにとって日本文化とは何ですか?

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北とぴあつつじホールでの郡司敦作品個展が終了しました。和洋楽器、ソプラノ・メゾソプラノ・テノールのソリストたち、そして合唱まで付くという大変華やかな会でした。

作曲家の郡司君とはもう7年ほどの付き合いで、彼の作品も色々と初演しました。今回は初の作品個展ということで、メゾソプラノの郡愛子さんをゲストに迎え、気合の入ったコンサートになりました。
今回の筝奏者は今年芸大を出たばかりの中島裕康君。
実に初々しい!尺八は何時もの田中黎山君。邦楽3人組でこんな感じでした。(←写真)
そして右側の写真は、やはり芸大を出たばかりで、来年院に行くテノールの松原陸君。彼は素晴らしい声質の持ち主で、かつナイスキャラ。昨年に続き2度目の共演という事もあり、オペラや声楽の話で大いに盛り上がりました。
郡司君の作品は、ノスタルジック&ロマンチック!そしてとても清涼感がある。それが彼の持ち味であり人柄でもあります。まだまだ勉強すべき事も多いかと思いますが、今回は初の作品個展ということで、郡司君を慕う「チーム郡司」の面々が集結しました。尺八の田中君はじめ、コントラバスの東保君、ピアノの西尾さん、チェロの木戸さん、ギターの西垣君など、彼は実に良い仲間たちに囲まれていますね。今回は彼の作品と共に、おまけで私の曲も2曲ほど挟んで頂きました。
これはリハーサルの写真ですが、Viのコンミス中島ゆみ子さん、チェロの木戸さんと「塔里木旋回舞曲」を演奏しました。いつも笛とやっている曲ですが、Viと実に良く合うのです。まるでジプシーヴァイオリンのようにスーパーテクニックでノリノリで弾く中島さんにはもう大拍手です。是非是非もう一度やりたいですね。
そして何と言っても、今回はあの郡愛子さんとの共演です。
日本を代表するメゾソプラノの郡さんと私如きが声で掛け合いをやるなど、普通ではありえないというより、あってはならない事です。
インテンポで歌う曲と、全くの唸り声で絡む曲がありましたが、本当に大丈夫だろうか、と正直最後まで気がかりで仕方がなかったです。良かったのかどうか未だに判りませんが、友人からのアドヴァイスも受け、いつもの通りにやってしまいました。
言うまでもないですが訓練された声というのは凄いもんですね。いつもは声楽オタクとして客席から聴いている訳ですが、一緒にやってみると本当に震えるほどに凄いです。こういう機会を与えてくれた郡司君に感謝ですね。

郡司君は40代を目前にして結婚もしたばかり。今正に飛び立とうとしています。音楽でやって行くのは大変だし、特に芸術音楽の作曲家となると一段と厳しい。商業音楽の分野で日銭を稼ぐのも確かにプロかもしれませんが、そこは踏ん張って今まで頑張ってきた芸術分野で自分の世界を確立して行って欲しい。彼だけでなく、筝の中島君やテノールの陸君も、若くしてあれだけの技術があれば、色々と声もかかるでしょう。技術がある人ほど何でも出来てしまうからかえって迷うものです。また活動していれば売れたいとも思うだろうし、色々な事がこれから湧き上がってくると思いますが、本当に自分が望むものは何なのか、しっかり見据えて自分の行くべき道に進んで欲しいものです。

私も若手なんて言われながら、いつの間にかこんな年になってしまいましたが、こうして若い有能な音楽家達と共演することは、実に楽しいです。自分の姿があらめて見えてくるし、音楽の喜びが湧き上がってきます。私自身もここからまた新たな時代を歩み始める事になるでしょう。
来年が楽しみになってきました。