The wonderful night

昨日、ジャズギタリスト水口昌昭さんのCD発売記念ライブに行ってきました。

ジョニーハートマンを想わせるような豊かな低音の倍音が特徴で、アドリブも自由自在。エンターティナーとは正にこういう事なのだな、と実感。ハービーさんが入ると、水口さんも俄然ノリノリになって、実に楽しいステージでした。

このmizuguti CDアルバムは実は昨年出たものなのですが、水口さんがなかなか忙しく、やっと今年発売記念ライブが実現したのです。録音はフランスでされていて、プロデュースは前出のヌジェさん。サイドのメンバーはCDでは全員フランスの方ですが、昨日は国内最強のメンバーが彼のサポートを務めました。
Ds:バイソン片山 P:田中裕士 B:大角一飛という布陣。皆さん大変こなれたベテランで、特にPの田中さんはツボを心得た素晴らしいサポートぶりでした。

私は将来の不器用さでしょうか、ジャズは大好きなのですが、その大きな海で自由に泳5ぐことは出来なかった。ハービーさんの歌いっぷりなど観ていると、もう上手いとか何とかいう事でなく、その存在、ライフスタイルそのものがジャズなのです。私はそんなジャズの自由な大海に憧れ、かぶれて恰好を真似していただけで、多少のものは身に付けたものの、その岸辺で遊ぶことすらろくに出来なかった。
でもジャズを通り越したからこそ、その精神に触れたからこそ、私の琵琶は独特の個性を持って響いていられる。今の私があるのはジャズという音楽があったからこそと確信しています。間違いなく!。まあこんな琵琶弾きが居てもいいでしょう。
何事に於いても、一つの世界の中に居るだけでは見えない事が沢山あります。特に小さな村社会に居たのでは自分の姿はまるで見えない。私がどうにかこうにかこの道でやって行けるのは、外側からこの世界に来た事と、常に外側からの視点で琵琶や邦楽を捉えているからかもしれません。

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同世代で、世界を飛び回って活躍している仲間がいるというのは嬉しいし、痛快です。
それにしても水口さんいい顔してますな。

俺ものんびりしていられないぜ!!

ユダヤの風2013

桜井真樹子

桜井さんは音大作曲科出身。基本は作曲家です。その探究心からヨーロッパ、アメリカでの留学に飽き足らず、イスラエルへ留学し、ユダヤ、アラブの文化を研究。ヘブライ語、アラム語に通じ、更に雅楽、声明、白拍子の研究研鑽も重ね、合気道の指導者でもあるという幅広い魅力を持っている方です。
今回は桜井さんの龍笛と私の楽琵琶で、古典雅楽の曲も演奏しましたが、邦楽でも邦楽でもこんなに広く対応できる人は他に居ませんね。この素晴らしい知識を系統立ててまとめて、今後琵琶樂人倶楽部だけでなく、色々な所でやって頂こうと思っています。

琵琶樂人倶楽部の前日はお江戸日本橋亭にて古澤錦城作の「明治の炎」2013半月の会を初演してきました。桂小五郎(木戸考允)を軸に幕末の激動する社会を描いた作品です。まだ初演なので、細かい所が上手くいきませんでしたが、こうした創作琵琶唄が出来あがって行くのは面白いものです。

ユダヤも、幕末もただの歴史の一コマではないのです。全ては繋がっている。音楽がただ目の前を盛り上げるだけの賑やかしで終ってはつまらない。そこに大きな流れがあり、人間の営みがあり、ロマンがあり、時も場所も、時空を超えて響き合っているからこそ、魅力があるのです。
この大いなる流れを掴むには、幅広い視野と見識、そして大きくものを見渡せる知性が必要ですね。

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琵琶楽は千数百年続く日本の伝統です。その中で永田錦心から始まる近代琵琶唄はまだ100年ほどの歴史しかありません。特に私の弾いている錦琵琶は昭和になって出来上がった新しい楽器です。まだこれからという時に、流派の型や技、曲等に固執しているようでは後がありません。これから大きな琵琶楽の歴史の中に、その音を刻んで行くのです。そしてきっと何百年後かに古典となって行く事でしょう。これからやっと始まるのです!!
とにかく今は、何よりも創造力が必要です。それしかない!

ペルシャから現代へ、そして未来へと続くこの流れを、是非大きなうねりのある大河のようなものにして行きたいですね。先ずは素晴らしい曲を作らなければ!!

音楽の喜びⅢ

先日武蔵野ルーテル教会で、東京バッハアンサンブルによる「イースターコンサート」を聴いてきました。

        イースター

この武蔵野ルーテル教会は、先月3,11の時「響き合う、詩と音楽の夕べ」という催しで、演奏した所なのですが、地味ながらとてもいい感じの木造りの教会で、素敵な場所です。また大柴譲治牧師の人柄にも惹かれるものがあり、このコンサートには楽しみにしていました。11詩と音楽の夕べ
今回はソリストを加え、バッハ、ヴィヴァルディ、ロッシーニ等の弦楽合奏と、マスカーニのオペラアリア等充実のプログラム。聴衆への変な媚びも無く、音楽の喜びに溢れた内容で、教会でのコンサートにとてもふさわしい、楽しいひと時でした。

クラシックに比べると、同じく宗教性を根底に色濃く持っている邦楽は、どうも哲学的観念的なものに陥り易い。以前知人からも「邦楽はどうも堅苦しく、権威的で、偉そうで説教臭い」と言われましたが、邦楽は確かに強く・大きく・硬いという父権的パワー主義を引きずっている。私自身も以前は表面的な力強さに執心していた時期があるので、邦楽のそんな部分には少なからず違和感を感じています。

ジャケット画像JPG私の音楽に喜びはあるか?愛情は満ちているか?迷うとそんな事を自分に問いかけます。私のアドヴァイザーでもあるHさんは「愛を語り、届ける音楽家であって欲しい」と顔を見る度に言ってくれますが、私はその言葉を頂く度に、自らを振り返り、その時々の自分を見直すようにしています。

私はいつも演奏会の最後に「開経偈」というお経を唄います。これは仏の教えに演奏会2出逢って、大変ありがたい、嬉しい、そしてこの道で精進しますという仏教賛歌、まあキリスト教で言えば、短いクレド(信仰告白)みたいなものです。最後にここに至らないととても琵琶は弾いていられない。知識や技術・権威を振りかざし、大上段に構え「どうだ!」という態度では、音楽は響かない。びっくりさせる位が関の山です。

喜びを持つ事と同時に、社会と向き合う事もまた大事な事だと思っています。現実を生き、向き合う事無しに、闇に背を向けただニコニコしていても、音楽は生まれない。喜びが有るという事は、そこに至る厳しい現実も経ているという事。それでこそ喜びが伝わり、時を超えて力強く響く音楽となると思います。

コルトレーン2最近久しぶりにコルトレーンの「India」を聴きました。そこには60年代アメリカの混沌とした社会と真っ正直に向き合った音がありました。
人間は正も邪も、清も濁も併せ持つ存在。社会もまた同様です。だから、社会にも自分にも真っ直ぐに対峙していくことが大切なのです。肩書きやら正統やら権威やら、そういうものはその時々で180度変わってしまう幻想なのです。それらに振り回されることなく、地に足を付けて生き抜く力強さがないと、音楽に喜びが満ちて行かない。

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私の音楽も、聴いた人が人間の存在を愛おしく想い、人生が豊かになるようであって欲しい。

音楽には喜びが、力強く溢れていて欲しいのです。

あらしのよるの・・・

東京では、毎週末雨にたたられ、お花見には無常な天気となってしまいましたが、そんな春の嵐の合間を縫って秩父の長瀞にてお花見をしてきました。

長瀞桜2昨年の長瀞の風景
同じ仲間と、同じ所でお花見すると、

児童文学小説「あらしのよるに」に描かれる、嵐の夜のメイとガブのような、それまでにない、いわばタブーのような出逢いは、今琵琶に一番必要なのかもしれません。常識でも伝統でもなく、心で繋がって行けるのは芸術にこそ与えられた特権です。ここにこそ琵琶楽の今後があるのかもしれません。永田・鶴田其々が成し得た、垣根を越えた異質なものとの出逢いと、それによってもたらされた嵐のような新時代の音楽は、次世代へと響き渡りました。
時も人間も留まってはいられない。同じ事をして守っているだけでは、澱み、濁り、力を失なってしまうのです。

「あらしのよるに」この合言葉を交わしあえる仲間がどんどん増えて行くと良いですね。

花の匂い

ちょっと御無沙汰しました。今年は花粉症が大分楽なせいか、例年より早く、先週よりもう今季の仕事が始まりました。ちょっとこの春は忙しくなりそうです。

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東京は花冷えというには寒すぎるこの頃ですが、春は何処に行っても独特の匂いを感じることが出来ますね。満開の花々は正に命の解放。その旺盛な生命力を目の当たりにすると、自然と喜びが満ちて来ます。春の匂いに誘われて多くの芸術作品が生まれるのも春ならではです。それだけに春はまた人間の小ささを感じる季節でもあります。

妙正寺1人は皆、美しい花を求める。美しい所だけを求める。ただただ己の命を全うしている花には迷惑な話です。言うまでもなく、花には上下も優劣も無いし、ましてや正統・亜流、肩書き・権威などというものも存在しない。人間だけがそんな自ら作りだした幻想に囚われているのです。残念ながら人間は弱い。どうしても幻想の鎧を着ていないと自身を保てない・・・。でも、そんな弱い存在である人間にも、不毛な幻想を超えて真摯に生きようとする人が少なからず居ます。

先日ピアニストの中島由紀さんからリサイタルのチラシが届きました。中島さんは時々音楽や芸術の話を、呑りながらおしゃべりする仲間なのですが、チラシに載っている彼女の言葉にぐっときました。音楽に対し、真摯に生き抜こうとしているその言葉をちょっとご紹介。

中島由紀リサイタルⅡここ数年の間、ソロを頑なに遠ざけていましたが、心からまた弾きたいと、思うようになりました。不安や恐怖、怒り、悲しみといった‘‘負”をも全身全霊で表現した天才作曲家達の音楽から、ある時(震災直後)圧倒的な勇気をもらい「これまでの私は気取っていた・・・」と愕然としたのです。怯まずに大いに泣き、笑い、怒り、怯え・・・生きることそのもの、丸ごとのエネルギーで問いかける私を、音楽はいつも支えてくれました。孤独ではありませんでした。改めてそう気付いた時、新しい光が見えたのです。

彼女らしい正直な内面の吐露であり、音楽家の生きた声を聞いた気がしました。幻想の鎧で着膨れしている人が多い中、こんなに素直に、ダイナミックに音楽と接している仲間がいる事が嬉しいです。また改めてご紹介しますが、5月15日東京文化会館での公演です。是非聴きに行ってみてください。

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音楽に対し素直さを常に持つことは、私が一番心にかけている事です。楽しい事も厳しい事も受け入れ、そこに小さなこだわりや、ゆがんだ村社会の常識を持ち込まない。音楽や舞台に対し、常に純粋な眼差しを向けている事は、音楽家の根本だと私は思っています。
しかしその純粋な眼差しも、自分に同調するものや人ばかりを相手にしていたら、いつしか曇ってしまう。異質のものに対しても、どこかにリンクするものがあればどんどんコミュニケーションを取って行く事はやはり大切。そこから世界が豊かに広がり繋がって行きます。20130429澱んでいたら、すぐに濁ってしまう。人間は前を向いて生きる存在なのです。

最近、手妻のような今まで私の中に無かった分野の仕事をやって想う事は、琵琶の器楽的な部分の可能性です。今までもやってきましたが、最近は特にこの部分を強く感じるようになりました。どんな楽器でも色々な形態があるように、琵琶も弾き語りだけにしかその方向性が無いというのでは、あまりに不健全。あれだけ魅力的な音色を持っている楽器なのだから、器楽が無い方が不自然というものです。
どんどん曲を作って行きたいですね。私がやらずに誰がやる!!

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人間は何事に於いてもなかなかフレキシブルな対応が出来ない。それは「私」を無くせないからなのでしょう。その「私」こそが人間たる部分なのだとも思いますが、与えられた場所でその命を謳歌する草木花々のように、ケレンなく生きていたいものです。喜びが、笑顔が、自由が溢れてこそ音楽!不毛な幻想を飛び越え、心が無限に広がってこそ音楽!!だと、年を重ねるごとに思うのです。

春の匂いが私を次の舞台へと導いてくれたようです。

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