八重山民謡のベテラン大工哲弘さんから「揚~八重山百哥撰」のCD(昨年のリリース)が届きました。雑事に追われている日常、ふと休みたくなった時にこのCDを聴くと、「す~と楽~に」なります。

大工さんはデビューしてもう45年。その世界では、誰もが認める第一人者ですが、私はひょんなことからもう10年ほど前より、手紙やメールをやり取りさせて頂いて、CDを出すたびに聞いてもらっています。今までに色々と感想や意見を頂いているのですが、実はまだお会いした事が無いのです。不思議な御縁なのですが、いつも的確なお言葉を頂いています。
大工哲弘さん
私は奄美島唄の前山真吾君とシルクロードを回った位で、沖縄や奄美の南方の音楽家とはあまり交流が無く、一ファンとして聞いているだけなのですが、このCDはとにかく心地良い、それに尽きます。唄も曲も自然なのです。「一生懸命やってます」とか「これが最高」などという気負いが無い。薩摩琵琶のように、顔を真っ赤にして声を張り上げるような音楽とは対極にあります。
大工さんはこうした伝統の唄もしっかりと受け継いでいる一方で、異ジャンルセッションなども積極的にやってきた人です。「不易流行」が好きだと御自身で言っているのもうなづけます。だからこうした土台となる古典も深みも増しているのかもしれません。何事もそうですが、外の世界を知り、よその釜の飯を食べるという経験は大事です!。

世の中には色々な音楽があるのが健全です。琵琶だけでももっと色々なものがあって欲しい。ギターは世界中にあらゆる音楽を作り出しているでしょ?。シルクロードの琵琶属も
しかり、そう思えば、日本に於いて、これだけの長い歴史をつないできた琵琶に出来ないはずはないのです。ちっちゃなこだわりを捨てて、大きな世界に目を向ければ必ず出来る。三線はあれだけで実に様々なヴァリエーションを作っているではないですか。
つい数十年前までは、琵琶の世界では「他の流派の演奏を
聴くと耳が悪くなるから聞いてはいけない」等という先生がごろごろしていたというのですから、衰退して行った様子が手に取るように判ります。永田錦心が聞いたらさぞがっかりする事でしょうね。少なくとも私は琵琶に対して、大工さんのような眼差しの向け方をしたいな~~。


色々なヴァリエーションがあり、最先端の音楽が溢れているからこそ、古典というものが光り輝くのです。琵琶もそういう状況になったら、本当の古典が何か見えてくる!
新時代を作る奴出て来い!!一緒にやろうぜ!!
先日、ドイツから作曲の師匠 石井紘美先生が帰国したので、久しぶりに逢ってきました。思えば、先生の曲を演奏するためにロンドンに行き、右も左も判らず、ロンドンシティー大学で演奏会をやったのがもう10年前です。
このセカンドアルバムが、その時のライブ録音。演奏は石井先生の作品集にも収録され、なんとドイツの現代音楽のトップレーベルWergoから世界発売されたんですから、当時の私の舞い上がりようは凄いもんでした。
久しぶりに逢った石井先生は、昔と変わらずゆったり淡々として、且つ厳しい眼差しで色々と話をしてくれました。やっぱり一番に影響を受けた師匠と話すと、視野が開けて、楽しいですね。先生はいつも私を色々な所に導いてくれるのです。
石井紘美先生の作品集「Wind way」
先生と話をしていると、ヨーロッパの音楽情勢はもとより、世界から見た日本の置かれている状況や日本人の意識等、色々な事が見えてきます。私のようにどこにも所属せずに、村社会から遠ざかっていても、知らない内に余計なものに振り回されている事が多いですね。外側からの意見や視線に接する事は、やはりとても大切です。日本人は自分の興味の無いものに価値を見出そうとしない。それだけに煽動されやすい等とも言われますが、一にも二にも視野の持ち方が大切だと改めて思いました。
その日の夜にはN響の演奏会にも行ってきました。
若手のソリストを迎えての3つの協奏曲という演目でしたが、いずれも素晴らしいものでした。ちょうどサヴァリッシュやクライバーンという大物が相次いで亡くなったこの時期に、世界舞台に飛び出て行く若者の演奏を聴くというのも、色んな事を感じさせます。Viの人はまだ18歳、チェロやピアノの方も20代。彼らはその人生のほとんどを音楽に、芸術に捧げて生きている、だからこそあれだけの演奏になる。ああいう若者の姿に接すると、我が身も改めて見つめ直すことが出来ます。ヨーロッパ・アメリカ・日本。国籍も時代も超えて受け継がれて行く音楽・・・。素晴らしいと思うとともに、邦楽では、とても考えられないとも思ってしまいました。
薩摩琵琶では、永田錦心が次世代の琵琶楽を作り、それを鶴田錦史が世界舞台へと持って行った所で、残念ながら止まっている。思えば、かつて津軽三味線の高橋竹山と鶴田錦史はちょうど同時期に活躍しました。
鶴田錦史がノベンバーステップスを演奏したのが60年代後半。ちょうど同じ時期に竹山が出て、その後津軽三味線は一地方の民謡伴奏から、今や世界へ独奏楽器として広がりました。それを想うと琵琶の現状は悲しいばかりです・・・・。
視野を彼方へと向け、生き抜いた先人達の眼差しに、今私は強烈に惹かれます。それは激動する時代を見据える目とも言えます。けっして技やら型ではない。曲でもない。あの眼差しです。
その眼差しが無かったら、私は琵琶を弾いてないでしょう。だから私も先人のように、彼方へと眼差しを向けたいと思うのです。
今年も梅の季節がやってきました。私は毎年この時期がとても楽しみなんです。桜も勿論好きなんですが、寒い時期に花を咲かせて、見ている人の心をそっとほぐす、梅のひそやかさは何ともいいですね。
photo Mori osamu
今の世の中は、何でも派手で、目の前の面白さばかりが優先します。いつの時代にもこういうものがあるとはいえ、今は一発屋みたいなものばかりが闊歩している。これを時代の流れやセンスだ、と言ってしまう事も出来ますが、それではものも人も育たない。長い時を耐えて、この寒い時期に咲き、人を和ませ、春には桜にその座をひっそりと譲るような梅花の感性は何処に行ってしまったのか・・・。
photo Mori osamu
世の中を見渡してみると、本当に梅花のような人が少なくなってしまいました。舞台人なら売れる事も大切なのですが、キャラ優先で、派手派手しく物珍しさで売るばかりでは、衰退して行くだけです。また逆に自分の殻に閉じこもって、小さな世界で生きているだけの人も多くなりました。
梅花のようにひそやかで、且つ大地に根差し、繊細で可愛いほほ笑みを持った人は、今の世の中では押しつぶされてしまう。
photo Mori osamu
それはまるで、穏やかに生き、ゆったりと歩む生き方が現代では許されないかのようです。常に最先端を追いかけ、PCやネットに対応し、鼻息荒く発言し、活動する人でなければ、現代は注目も、受け入れもしてくれないのでしょうか。もし色々な生き方が許されないのであれば、それは専制主義国家と同じです。自由という幻想の中に放り込まれ、実は皆同じ方向に向かって、死ぬまで息を切らせて走らされているのが、現代日本の姿なのではないでしょうか。
能力や成果を常に他人と比べて、社会のレールの先端に
行くことを良しとするのは、あまりに狭い生き方だと、誰もが思う事でしょう。毎日がコンクールで争っているようなものです。世の中を自分の足でじっくりと時間をかけて歩き、学び、自然な笑顔で生きる事が、私には一番大事なような気がします。人間をステレオタイプでくくったら、もはや人で無くなってしまう。今、日本人は梅花のようにひそやかに、自然に逆らうことなく、自分のペースで生きる事の素晴らしさと幸せを忘れているのではないか、と思えて仕方が無いのです。
日本は物質の文化ではないと思います。精神こそが日本の誇るべき文化だと私は思います。豪華なもの、見事なものを誇るのではなく、気高く崇高な精神こそ日本の日本たる文化だと思うのです。そこから、あの魅力的な音楽も美術も生まれてきたのだと思います。

私は梅花のあのほほ笑みを忘れない。たとえ儚く散ってしまったとしても、また次に芽吹く時まで想いをじっと胸に秘めて過ごしたい。そして私の演奏するする琵琶の音には、どこかに梅花のほほ笑みを宿していたいものです。
あのほほ笑みを日本人が感じなくなった時、日本の文化は滅びてしまうのかもしれません。
さあ、梅花を見に行きましょう。今が見頃ですよ。
Met Live Viewing 「マリア ストゥアルダ」を観てきました。
この方がマリア・ストゥアルダ
ドニゼッティの作なので名前がイタリア語なのですが、物語は16世紀イギリス、チューダー朝のイングランドの女王エリザベス1世と、スコットランド女王メアリー・ステュアートの物語。恐ろしいまでのドラマが沢山あった頃です。有名なBloody Maryはエリザベスの姉に当り、その母も、父によって処刑されるという、何ともすさまじい時代でした。
さて、今回のマリア・ストゥアルダ役は、私の一押しジョイス・ディドナート。昨年の「エンチャンテッドアイランド」での魔女っぷりが大変気に入りまして、今回の作品は待ちに待って、期待を120パーセント膨らまして行ったのですが、その期待を大きく大きく上回る素晴らしい舞台でした。ディドナートは今、最高潮です!。
共演者には、素晴らしい声質のテノール マシュー・ポレンザーニ、エリザベス役には
Met初出演の、H・ヒーヴァー、言うまでも無いですが、皆世界のトップレベルで素晴らしかった。ヒーヴァーはいかにも意地悪そうなキャラを作って登場しましたが、インタビューでは可愛らしい笑顔と声で答えていて、そのギャップも面白かったです。
さて、我らがディドナートですが、これはもう彼女の代表作になるんじゃないかと思うほどの充実した舞台でした。歌、演技、存在感どれをとっても、今が旬、一番良い状態にあるのではないかと思います。文句の付けようがありません。特に第3幕は1時間以上ある長丁場を歌い切る、彼女の魅力全開の舞台でした。処刑される身でありながらも女王としての誇りをけっして失わない、そんな感情の機微を細やかに、そして大胆に表現する、渾身の演技と熱唱。それは圧倒的というよりも壮絶といった方がいい程、凄味のある迫力でした。
エリザベスとの対面シーンでの、激しい女王同士のプライドの応酬は観ているこっちが思わず一歩さがってしまう位、怖いほどの迫力でした。凄かった~~。また彼女の技量も今、最高に磨きがかかっていて、フォルテの上行くfffも強力に響かせるかと思うと、pppのロングトーンも揺るぎない。振り幅が半端ないのです。
そうした技術全てに必然性があるから、上手や見事なんていう言葉は出て来ない。技術を超えて存在そのものが浮かび上がってくるのです。
邦楽にも、舞台全体を魅せて行くような意識、器、視野を感じさせてくれる人が欲しいですね。上手が聞こえて来てしまうというのは、まだその技術が音楽として必然性を帯びていないという事。コルトレーンやジミヘン、ヴァンヘイレイン等、皆もの凄いテクニックですが、最初に聞いてそんな事は感じはしません。そんな事よりとにかく圧倒的なその音楽に打ちのめされるのです。

鶴田錦史の「壇ノ浦」は、当時「この曲は鶴田しかいない」と思わせるほどに凄かったそうです。技術が技術で終っておらず、ちゃんと音楽として表現されていたという事だと思います。きっと今回のディドナートのようだったのでしょう。是非私もそんな演奏をしてみたいものです。それには上手にやろうなんていうこじんまりした意識ではもの足りない。舞台を、そして時代を引っ張って行く位の意識が必要なのかもしれません。

ディドナートにはとても及びませんが、「これが私だ」といえるほどの充実の舞台を目指したいですね。
この「マリア・ストゥアルダ」は正にブラボーと思わず口から出る舞台でした。ジョイスディドナートは、これからもずっと観続けていたいアーティストとなりました。
この所何かと忙しく、なかなか舞台を観に行けない日々が続いているのですが、先日ちょうど時間が取れたので、セルリアンタワー能楽堂で行われた「石橋~Shakkyou」を観に行きました。久しぶりにぐさりと来るものを観ました。
公演チラシ
前半の能の「石橋」を半能でやり、休憩後の後半は森山開次の作になる「Shakkyou」という組み合わせ。「Shakkyou」は「石橋」から触発されて作られた作品です。
能を観に行くのは久しぶりでしたが、あの凛とした空気感・静寂感はやっぱり良いですね。謡の言葉も今なら難なく聴き取れるので、実に面白いです。歌舞伎の賑々しいエンタテイメントも好きなのですが、やはり私には能の方がしっくりきます。
さて、後半の「Shakkyou」ですが、能からは津村禮次郎、笛の松田弘之。
そこに和太鼓の佐藤健作、そしてダンスの森山開次という布陣。津村・松田のお二人はさすがにすんなりと入ってきたのですが、森山、佐藤の二人が上半身裸で登場した時には、能楽堂という場所では、正直何とも違和感を感じました。 パンフレットより
二人の動きも最初は、余計な動きが多過ぎるように感じたのですが、それもラストのクライマックスに向けての序章だったのです。舞台が進行して行くと、次第にその存在感がふつふつと沸き立ってきて、最後には二人が圧倒的な迫力を持って舞台を席巻しました。
とにかくこの4人に共通している事は、とんでもなく高い技術を持っているという事です。そして揺るぎない明確な世界観を共有している事です。改めて舞台人としての存在感というものを魅させて頂きました。
私は音楽家として、ダンスや舞の舞台はそれなりに接してきましたが、これほどのレベルのものは初めてでした。特に森山のダンス
は危機迫るものがありました。ただ技があるというだけでなく、ほとばしるような熱さや意志に溢れている。ぎりぎりの所まで自分を追いこんでゆく時にこそ現れる表現、これは単に上手いとか、見事とかいうものとは違う次元の凄さがあったのです。見ていて、いつしか余裕を持ってやっている自分の姿を感じて来ました。私は30代の頃、かなり自分を追い込むようにしてやっていたのに、今はある意味余裕の中でやっている。これでいいのだろうか・・・。改めて立ち返りたいという気持ちが震い立ちました。
今回は強烈なパンチを食らいました。それはもう嫉妬する位に凄かった。勿論この舞台も更なる洗練は必要でしょう。彼もこのままではいられないでしょう。でもそんな所をはるかに超えていました。

私は舞台に立っている以上、一流と言われるものを目指したい。まだまだその夢は遠い。果てしなく遠い。しかし遠くても、夢であっても、ただひたすら己が考える最高のものでありたい。琵琶の従来の価値観等どうでもいい。最高の舞台を張って行きたいのです。