花の匂い

ちょっと御無沙汰しました。今年は花粉症が大分楽なせいか、例年より早く、先週よりもう今季の仕事が始まりました。ちょっとこの春は忙しくなりそうです。

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東京は花冷えというには寒すぎるこの頃ですが、春は何処に行っても独特の匂いを感じることが出来ますね。満開の花々は正に命の解放。その旺盛な生命力を目の当たりにすると、自然と喜びが満ちて来ます。春の匂いに誘われて多くの芸術作品が生まれるのも春ならではです。それだけに春はまた人間の小ささを感じる季節でもあります。

妙正寺1人は皆、美しい花を求める。美しい所だけを求める。ただただ己の命を全うしている花には迷惑な話です。言うまでもなく、花には上下も優劣も無いし、ましてや正統・亜流、肩書き・権威などというものも存在しない。人間だけがそんな自ら作りだした幻想に囚われているのです。残念ながら人間は弱い。どうしても幻想の鎧を着ていないと自身を保てない・・・。でも、そんな弱い存在である人間にも、不毛な幻想を超えて真摯に生きようとする人が少なからず居ます。

先日ピアニストの中島由紀さんからリサイタルのチラシが届きました。中島さんは時々音楽や芸術の話を、呑りながらおしゃべりする仲間なのですが、チラシに載っている彼女の言葉にぐっときました。音楽に対し、真摯に生き抜こうとしているその言葉をちょっとご紹介。

中島由紀リサイタルⅡここ数年の間、ソロを頑なに遠ざけていましたが、心からまた弾きたいと、思うようになりました。不安や恐怖、怒り、悲しみといった‘‘負”をも全身全霊で表現した天才作曲家達の音楽から、ある時(震災直後)圧倒的な勇気をもらい「これまでの私は気取っていた・・・」と愕然としたのです。怯まずに大いに泣き、笑い、怒り、怯え・・・生きることそのもの、丸ごとのエネルギーで問いかける私を、音楽はいつも支えてくれました。孤独ではありませんでした。改めてそう気付いた時、新しい光が見えたのです。

彼女らしい正直な内面の吐露であり、音楽家の生きた声を聞いた気がしました。幻想の鎧で着膨れしている人が多い中、こんなに素直に、ダイナミックに音楽と接している仲間がいる事が嬉しいです。また改めてご紹介しますが、5月15日東京文化会館での公演です。是非聴きに行ってみてください。

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音楽に対し素直さを常に持つことは、私が一番心にかけている事です。楽しい事も厳しい事も受け入れ、そこに小さなこだわりや、ゆがんだ村社会の常識を持ち込まない。音楽や舞台に対し、常に純粋な眼差しを向けている事は、音楽家の根本だと私は思っています。
しかしその純粋な眼差しも、自分に同調するものや人ばかりを相手にしていたら、いつしか曇ってしまう。異質のものに対しても、どこかにリンクするものがあればどんどんコミュニケーションを取って行く事はやはり大切。そこから世界が豊かに広がり繋がって行きます。20130429澱んでいたら、すぐに濁ってしまう。人間は前を向いて生きる存在なのです。

最近、手妻のような今まで私の中に無かった分野の仕事をやって想う事は、琵琶の器楽的な部分の可能性です。今までもやってきましたが、最近は特にこの部分を強く感じるようになりました。どんな楽器でも色々な形態があるように、琵琶も弾き語りだけにしかその方向性が無いというのでは、あまりに不健全。あれだけ魅力的な音色を持っている楽器なのだから、器楽が無い方が不自然というものです。
どんどん曲を作って行きたいですね。私がやらずに誰がやる!!

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人間は何事に於いてもなかなかフレキシブルな対応が出来ない。それは「私」を無くせないからなのでしょう。その「私」こそが人間たる部分なのだとも思いますが、与えられた場所でその命を謳歌する草木花々のように、ケレンなく生きていたいものです。喜びが、笑顔が、自由が溢れてこそ音楽!不毛な幻想を飛び越え、心が無限に広がってこそ音楽!!だと、年を重ねるごとに思うのです。

春の匂いが私を次の舞台へと導いてくれたようです。

When You’re Smiling

先日、私がやっているアンサンブルグループ「まろばし」の応援団長、井尻憲一先生の退官記念の最後の授業「宇宙メダカに夢を託して~動物学を楽しんで40年~」に行ってきました。先生は私の大きな演奏会には毎回のように奥様と来てくれて、一番に応援してくれている恩人です。

IMGP0119安田講堂

という訳で行ってまいりました。我が人生の内で、よもや東大で授業を受けるという事は、全くもって想定していませんでしたが、そそうもなく無事受講してまいりました。
先生は宇宙生物学の専門で、スペールシャトルで向井千秋さんが宇宙に行った時に持って行った、宇宙メダカをコーディネートした人としても知られています。私は学問の事はさっぱり判らないのですが、井尻先生は常に笑顔で楽しい方なので、全然分野が違うものの、ちょうど以前書いた音楽学の石田先生と同じで、とにかく話が面白い。呑みっぷりも一流です。

IMGP0120夏目漱石で有名な三四郎池。
授業の方はこれまでの軌跡を紹介するような内容でしたので、私にもとりあえずなんとか理解できました。先生は退官後、名誉教授になるそうですが、同時に社会保険労務士としても事務所を構えるという、何ともびっくりな二足のわらじを履くそうです。天才肌の人の考える事はこちらの理解を超えてますね。気負いなく、粛々と自分の志した行くべき道を歩み、その道を全うし、大きな成果を残していくというのは素晴らしいし、さらに先を見て動き出そうという姿勢も、先生ならではです。
私のような凡人はとかく、変な枝葉が付いたり、余計な事を考えてしまいがち。ぶれずに淡々と自らの道を歩んでいる先輩の姿を見ると、身が引き締まります。
井尻先生のプロフィールはこちら 
http://cosmo.ric.u-tokyo.ac.jp/ijiri/ とhttp://researchmap.jp/read0170502/

井尻先生はじめ、自分の求める道をmarobashi2010-0s迷わず進んでいる方々は、皆さんとても良く笑う。そしてさわやかです。この世の中で、常に笑っているという事はなかなか難しい。今の日本では、大学を出たいい大人でも、唖然とするようなきたない言葉を平然と書き込んだり、発言したりしている。ただの身勝手が大手をふるい、古来より培われてきた美徳はほとんど感じる事も出来なくなっているこの現代で、「笑っている」という事は、実はとても大切で、また凄い事かもしれません。

私もともするとしかめっ面をしていることが多く、にこやかな顔を忘れがち。まだまだですな。何時か先生達のようにさわやかに、しなやかに笑顔で生きて行けるようになりたいものです。「常に笑顔」はこれからの私のキーワードです!!。

最後の授業は、新たなる展開の始まりでもありました。笑顔の先がまた楽しみです。

こいつぁ春から・・

春の日差しが続きますね。花粉も黄砂も暖かさも、まとめてやって来るのが春というものです。私は相変わらずにグシュグシュとやっているのですが、そんな春に吉報が届きました。よくこのブログに登場する音楽学の石田一志先生の著作「シェーンベルクの旅路」が春の芸術選奨・評論の部に選ばれました。石田先生は師匠という訳でもないし、年も離れているのですが、どういう訳か、いつ会っても(呑んでも)話が弾み、大いにシンパシーを感じる方なんです。また私自身もシェーンベルクには大変興味がありますので、何だか妙に嬉しいのです。

シェーンベルクの旅路 石田一志

私自身はアカデミックな所にはあまり縁が無い人なので、こういう受賞の価値はよく判らない部分もありますが、やはりこうして業績が評価されるというのは嬉しい事だと思います。それに身近な人が評価されるというのもまた気持ちの良いものです。

シェーンベルク2シェーンベルクは石田先生が若い頃からずっと追いかけてきた作曲家です。この本は、出版された時に先生のアトリエで直接頂いてから、一気に読みました。まだ全部は読めていないですが・・・。実に詳細に渡るデータが載っていて、これまでイメージでしかなかったシェーンベルクの実像が浮かび上がってきます。
またシェーンベルクは明治7年(1874年)の生まれで、ちょうど薩摩琵琶が全国に広まったのと時を同じくしております。思えば現代音楽という新しい分野がここから始まり、日本でも新しい琵琶楽が始まったというのは、色々と考えさせられるものがあります。新しい時代には天才が生まれるのですね。それとも時代が天才を生むのか・・。バルトークやドビュッシー、ラベル、そして永田錦心皆この時期の生まれです。

     ドビュッシー2Maurice_Ravelバルトーク

御承知のように、上記の天才たちがクラシックの音楽概念を大きく変え、この新しい時代の息吹が更に受け継がれ、メシアン、ケージ、武満、黛が次の時代を担って行ったと思うと、近代から現代への時代の流れにわくわくしますね。鶴田4琵琶では、永田錦心の後、それらを受け継いで水藤錦穣や鶴田錦史が現代の琵琶楽を作って行く過程と重なります。

近代は良くも悪くも、それまでの世界とは一線を引く「新しき時代」。西洋も東洋ももう古典の時代ではないという意識があったのでしょう。そして私たちは(これもよくも悪くも)、その「新しき時代」を土台として生きている。少なくとも薩摩琵琶は曲の題材は古い話でも、音楽性は古典音楽を土台としていない。近現代の音楽です。

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シェーンベルクやバルトーク、ドビュッシーに強い興味を持っていた私が薩摩琵琶に関心を持ったのも何かの縁だし、作曲の石井紘美先生との出会いも、石田先生との繋がりも、皆何か見えない糸で繋がっているように思えます。この糸がこれからどんなふうに広がって、どんな音楽が生まれて行くのだろう。そう思うとやはりわくわくします。それには過去をしっかりと勉強分析研究する事がとても大事だと思います。しかし同時に過去に拘り、なぞっているだけでは時代の音楽は生まれない。そこにとどめなく旺盛なまでに溢れ出る創造性が無ければ・・・。

PS:春の芸術選奨ではダンスの森山開次さんも新人賞を取りました。この間ブログに書いたばかりなので、こちらもめでたし!

基本というもの

先日杉並のルーテル教会で、「3.11響き合う、詩と音楽の夕べ」をやってきました。

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この会は哲学者で、脚本家でもある和久内明先生が主催する会で、先生が作られた詩の朗読と音楽で3.11を語り伝えようというものです。世の出来事というのは、いつしか風化して行ってしまうものですが、そうさせてはならないものが、今私達にはあると思います。11-s震災や原発の問題でも、何事においてもとりあえずの形をこなすことで満足してしまう日本人は、その形に意味を求めず、いつしか中身が判らなくなってしまう。中身が無くては意味が無い。3.11以降、私たちがどう生きて行くのか、問われているようにも思います。 
      

邦楽についても同じような事が言えます。先生の言う事を真面目にやっていれば問題ないという、「優等生的惰性」が未だ抜けていない。その為にどれだけ創造性というものが失われ、そしてゆがめられたたのだろう・・。        
流派や組織の中に居て動いていれば、なんとなくそれで満足してしまう・・・。活況を呈していた時代はそれで楽しくやっていた人もいたでしょう。しかし今はどうでしょうか。

流派の音とは、何をやってもどうにも拭いきれないような、各人の故郷のようなものであるべきだと、私は思っています。だからこそ同じ流派であっても様々な個性が煌めいていなくては・・。その為にも流派が「基本」という名の単なる型やお作法、表面的な技の教習所で終っていてはいけないのです。創造の場でなくては!!

鶴田&武満師に学び、自分の境地を開いてゆく。師はそれを見守り、その人の行くべき所へと導く。本当にそんな場になるように、今、流派も教師自体も変わらなければならない時代に来ていると思います。教えるべきものは何か、伝えるべきものは何か、しっかり見つめないと、中身が無くなってしまう。
これが正当、あれは亜流だのまがい物だのと、すぐに何かの形にはめたがるのが日本人の特性ですが、自分のやっている事以外のものの価値を認めようとせず、乗り越えられないようでは、邦楽の未来に光明は無いですね・・・。

jackets私がかつて琵琶を習ったT先生は大変技術の高い先生で、最初は私も先生の技術を夢中になって追いかけたものです。ファーストアルバムでは、音を聞いた音楽評論家の方に、一聴しただけで「○○先生と同じ音をしているね」と即座に見破られる位、当時は自分でも気が付かないうちに先生の音を求めていました。しかし、私は次第に自分のやるべき音楽が明確になり、音楽に対する考え方も独自の形が出来あがって行ったので、今では楽器自体もセッティングもまるで違う仕様になっています。

鶴田錦史は「あたしの真似をしてもだめよ」と常に言っていたそうですが、自分の音を求め続けたからこそ、あれだけ個性的で圧倒的なスタイルが出来あがったのでしょう。そして弟子たちにも、自分で自分の音を求めよ、と言いたかったのだと思います。

コツコツやっていればそれなりに成るなんていう、優等生的惰性は常に戒めなくてはいけません。薩摩琵琶は歴史も浅く、特に私の弾いている五弦の錦琵琶は、まだ何十年というという歴史しかないので、曲も古典と言えるものが無いし、型と言えるべき型も無い。だから自分の基本となる所は、流派の技などではなく、日本音楽全体の底辺に流れるものの中にあると思っています。

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自分なりのものを見つけない限り自分の人生も音楽も、その成就はあり得ない。創造性無き所には、人間も国家も成り立ちえない、と思うのです。

Beyond the horizon 2013

先日久しぶりにお会いした作曲の師 石井紘美先生の作品の上演がアサヒアートスクエアで行われました。実は先生の作品がちゃんとした形で日本で紹介されるはこれが初めてなんです。

電子音楽協会今回は日本電子音楽協会創立20周年の記念事業でした。先生は長い事海外に拠点がありますので、日本の協会とはつながりが無かったのですが、つい最近、北京での作品の上演の際にこの協会の方と知り合い、今回の作品発表となりました。
日本は何の分野に於いても、型や殻を破る事をとにかく嫌うので、電子音楽という新しい分野は、当然のごとくかなり出遅れているのが現状です。しかしこの所少しづつ各音大でも力を入れ始めてきました。一番早くから電子音楽に取り組んでいたのは愛知芸大で、日本で一番初めにムーグを導入したそうです。やはり中央の一番権威の高い所は、前例の無い事はやらないのでしょう。

        ムーグ期のムーグシンセサイザー

さて、この日は7人の作曲家の作品を聞きました。特に生楽器と電子音の組み合わせが多く、その意図のようなものは確かに聞こえてきました。しかし生演奏に中途半端な抒情性が見えてしまうと、とたんに電子音が安っぽく聞こえてくる。単に無機的なものと有機的なものの対比等という事ではとても成り立たない。何かもっと音以外の部分で考えるべきものを感じました。技術ではなく、哲学がまだ成熟していないと思いました。

石井先生の作品は「木を切り倒す」時の様々な音が素材となっていました。ミニムーグ木を切るという事は、古くは建材を得る為、今は更地を得る為であり、それは木の周りの鳥、虫、小動物の破壊も意味し、そういう伐採という行為には人間の姿そのものが現れています。それらをデジタル音分解、処理して出来た作品でした。全てが電子音だったせいか、音がとても生命感を持って感じられ、自然界の様と人間の営み、傲慢、業・・・色々なものが想起されました。デジタル音なのに、かなり有機的な音のアンサンブルに感じました。

ムーグ1Cムーグ2
他の作曲家の作品では、「BUNDLE IMPACTAR」という作品が印象に残りました。これも生演奏と電子音の組み合わせでしたが、生演奏の方が中心となり、音楽が広がって行く様には生命感とでも言ったらいいのか、大きな普遍的なものが見えるようで、魅力も可能性も感じました。私はこの分野の専門家ではないし、評論までは出来ませんが、全体を通して、日本の電子音楽のこれからに大きな課題を感じ、また可能性も感じました。10年先が楽しみです。

時代が求める音が現代に響いていて欲しい。それは人間界の小さな範囲のものでなく、この大地の持つ息吹、もっと言えば全てにあまねく注がれている「はからい」のような生命感に溢れるものであって欲しいですね。miyagi2宮城道雄とルネ・シュメーが当時、時代が求める音そのものであり、今でもその音色があせないように・・。

その為には、「邦楽はこうだ、琵琶はこうであるべき」というような旧来の殻を破れない縮こまった感性を取り払いたい。そんな感覚では何も生まれない。バッハやモーツァルトでも常に時代の感性で演奏され、楽器もハープシコードではなく現代のピアノで演奏される、オペラも永田錦心もしかり。それでも尚輝きを失わないから古典となって行くのです。先生の言う通りまじめにやっていればそこそこに成る、という優等生的な惰性。それを是非飛び越えて欲しいですね。

        台湾桜2012-3-2

新しいものはまだまだ成熟していないので確かに未熟でしょう。しかし人間でも老成した人ばかりでは種自体が滅んでしまう。若き命は種の伝承に必要必然なのです。そういうものを恐れ、立ち止まっているようでは明日はありません。

電子音楽という分野は時代の求める必然です。琵琶楽にも時代の求める必然の音が、どんどんと出て欲しいですね。

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