マルチプレイヤー賛

相変わらず春の逍遥を楽しんでいる私ですが、先日友人と話をしていたら、「何故日本の伝統音楽の人は皆、複数の楽器を弾くマルチプレイヤーなのか」という問いかけがありました。考えてみれば確かにそうなんです。平安朝の雅楽以来、日本の伝統音楽の演奏家は二つ以上の楽器を皆さん演奏します。

楽部雅楽では唱歌を勉強した後、管と絃を必ず習得し、舞もやります。中世の能も、やはり謡を先ず勉強し、そこから専門の楽器を習うのですが、能全体を勉強して行くので、他の楽器や仕舞等にも精通して行きます。 近世の地唄筝曲では、御承知の通り筝・三味線・唄を習得しますが、当道座の名古屋系平曲の方も、琵琶の他、筝も三味線も演奏します。
平安時代の雅楽の文献「五重記」に「音楽を学ぶ者は大勢いるが、音楽の全てを知る者は少ない」とあります。複数の楽器を演奏するのは日本の伝統ともいえますね。
  
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日本の古典音楽は大概集団で舞台をやるものが多いので、舞台や音楽全体に通じるように一通り教育するのです。高橋竹山でも三味線の他、唄も尺八もやりました。手妻の藤山先生の所では、お弟子さんに手妻の他、日舞も三味線も鼓もやらせます。そういう総合的な素養が舞台を作っていく、という姿勢には個人的に大いに賛成ですね。

1現代の感覚で言えばいくつもの楽器をこなすのは、感覚的に解らないかもしれませんが、日本音楽のこうした習慣が、雅楽や能、歌舞伎等を作って行ったと思うと、その教育の仕方には、今後の日本音楽にとって何かのヒントがあるかもしれません。何よりも舞台全体が魅力的になることが一番です。 
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薩摩琵琶の演奏家はマルチではないですね。私が考えるに、薩摩琵琶は楽器としてのポテンシャルは大変高いと思いますので、マルチになる必要が無かったのではないでしょうか。音は伸びるし、声のように音程をコントロール出来、効果音も色々出るし、ビートも刻めるし、メロディーも弾ける。これだけ可能性があればマルチプレイヤーになる必要もないですね。しかし視野を広げ、よりレベルの高い舞台を作るには、他の楽器を触ってみて、その魅力を知るのも良いと思います。私自身、色々なタイプの琵琶を弾き、筝や尺八などに触れた事が多くの作品を生みました。それが無かったら、筝や尺八のアンサンブルなどはとても作曲できなかったと思います。

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現在の琵琶楽の衰退の一因には「ヴァリエーションの無さ」もあると思います。いくら美味しい料理でも味が一つでは何度も食べたいとは思いませんよね。琵琶楽にも合奏や、インスト、バラードもアップテンポも、古典もモダンも・・・どんどん色々な曲が出来て行ったら、魅力的に受け入れられて行くと思うのですが、如何でしょう。
私の日常は世間から見ると遊んでいるようにも見えるかもしれませんが、呑んだり食べたり、お散歩したり・・・そういう事もなんかの素養になっているといいですな???。

さて新曲を作ろう!!

The wonderful night

昨日、ジャズギタリスト水口昌昭さんのCD発売記念ライブに行ってきました。

ジョニーハートマンを想わせるような豊かな低音の倍音が特徴で、アドリブも自由自在。エンターティナーとは正にこういう事なのだな、と実感。ハービーさんが入ると、水口さんも俄然ノリノリになって、実に楽しいステージでした。

このmizuguti CDアルバムは実は昨年出たものなのですが、水口さんがなかなか忙しく、やっと今年発売記念ライブが実現したのです。録音はフランスでされていて、プロデュースは前出のヌジェさん。サイドのメンバーはCDでは全員フランスの方ですが、昨日は国内最強のメンバーが彼のサポートを務めました。
Ds:バイソン片山 P:田中裕士 B:大角一飛という布陣。皆さん大変こなれたベテランで、特にPの田中さんはツボを心得た素晴らしいサポートぶりでした。

私は将来の不器用さでしょうか、ジャズは大好きなのですが、その大きな海で自由に泳5ぐことは出来なかった。ハービーさんの歌いっぷりなど観ていると、もう上手いとか何とかいう事でなく、その存在、ライフスタイルそのものがジャズなのです。私はそんなジャズの自由な大海に憧れ、かぶれて恰好を真似していただけで、多少のものは身に付けたものの、その岸辺で遊ぶことすらろくに出来なかった。
でもジャズを通り越したからこそ、その精神に触れたからこそ、私の琵琶は独特の個性を持って響いていられる。今の私があるのはジャズという音楽があったからこそと確信しています。間違いなく!。まあこんな琵琶弾きが居てもいいでしょう。
何事に於いても、一つの世界の中に居るだけでは見えない事が沢山あります。特に小さな村社会に居たのでは自分の姿はまるで見えない。私がどうにかこうにかこの道でやって行けるのは、外側からこの世界に来た事と、常に外側からの視点で琵琶や邦楽を捉えているからかもしれません。

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同世代で、世界を飛び回って活躍している仲間がいるというのは嬉しいし、痛快です。
それにしても水口さんいい顔してますな。

俺ものんびりしていられないぜ!!

ユダヤの風2013

桜井真樹子

桜井さんは音大作曲科出身。基本は作曲家です。その探究心からヨーロッパ、アメリカでの留学に飽き足らず、イスラエルへ留学し、ユダヤ、アラブの文化を研究。ヘブライ語、アラム語に通じ、更に雅楽、声明、白拍子の研究研鑽も重ね、合気道の指導者でもあるという幅広い魅力を持っている方です。
今回は桜井さんの龍笛と私の楽琵琶で、古典雅楽の曲も演奏しましたが、邦楽でも邦楽でもこんなに広く対応できる人は他に居ませんね。この素晴らしい知識を系統立ててまとめて、今後琵琶樂人倶楽部だけでなく、色々な所でやって頂こうと思っています。

琵琶樂人倶楽部の前日はお江戸日本橋亭にて古澤錦城作の「明治の炎」2013半月の会を初演してきました。桂小五郎(木戸考允)を軸に幕末の激動する社会を描いた作品です。まだ初演なので、細かい所が上手くいきませんでしたが、こうした創作琵琶唄が出来あがって行くのは面白いものです。

ユダヤも、幕末もただの歴史の一コマではないのです。全ては繋がっている。音楽がただ目の前を盛り上げるだけの賑やかしで終ってはつまらない。そこに大きな流れがあり、人間の営みがあり、ロマンがあり、時も場所も、時空を超えて響き合っているからこそ、魅力があるのです。
この大いなる流れを掴むには、幅広い視野と見識、そして大きくものを見渡せる知性が必要ですね。

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琵琶楽は千数百年続く日本の伝統です。その中で永田錦心から始まる近代琵琶唄はまだ100年ほどの歴史しかありません。特に私の弾いている錦琵琶は昭和になって出来上がった新しい楽器です。まだこれからという時に、流派の型や技、曲等に固執しているようでは後がありません。これから大きな琵琶楽の歴史の中に、その音を刻んで行くのです。そしてきっと何百年後かに古典となって行く事でしょう。これからやっと始まるのです!!
とにかく今は、何よりも創造力が必要です。それしかない!

ペルシャから現代へ、そして未来へと続くこの流れを、是非大きなうねりのある大河のようなものにして行きたいですね。先ずは素晴らしい曲を作らなければ!!

音楽の喜びⅢ

先日武蔵野ルーテル教会で、東京バッハアンサンブルによる「イースターコンサート」を聴いてきました。

        イースター

この武蔵野ルーテル教会は、先月3,11の時「響き合う、詩と音楽の夕べ」という催しで、演奏した所なのですが、地味ながらとてもいい感じの木造りの教会で、素敵な場所です。また大柴譲治牧師の人柄にも惹かれるものがあり、このコンサートには楽しみにしていました。11詩と音楽の夕べ
今回はソリストを加え、バッハ、ヴィヴァルディ、ロッシーニ等の弦楽合奏と、マスカーニのオペラアリア等充実のプログラム。聴衆への変な媚びも無く、音楽の喜びに溢れた内容で、教会でのコンサートにとてもふさわしい、楽しいひと時でした。

クラシックに比べると、同じく宗教性を根底に色濃く持っている邦楽は、どうも哲学的観念的なものに陥り易い。以前知人からも「邦楽はどうも堅苦しく、権威的で、偉そうで説教臭い」と言われましたが、邦楽は確かに強く・大きく・硬いという父権的パワー主義を引きずっている。私自身も以前は表面的な力強さに執心していた時期があるので、邦楽のそんな部分には少なからず違和感を感じています。

ジャケット画像JPG私の音楽に喜びはあるか?愛情は満ちているか?迷うとそんな事を自分に問いかけます。私のアドヴァイザーでもあるHさんは「愛を語り、届ける音楽家であって欲しい」と顔を見る度に言ってくれますが、私はその言葉を頂く度に、自らを振り返り、その時々の自分を見直すようにしています。

私はいつも演奏会の最後に「開経偈」というお経を唄います。これは仏の教えに演奏会2出逢って、大変ありがたい、嬉しい、そしてこの道で精進しますという仏教賛歌、まあキリスト教で言えば、短いクレド(信仰告白)みたいなものです。最後にここに至らないととても琵琶は弾いていられない。知識や技術・権威を振りかざし、大上段に構え「どうだ!」という態度では、音楽は響かない。びっくりさせる位が関の山です。

喜びを持つ事と同時に、社会と向き合う事もまた大事な事だと思っています。現実を生き、向き合う事無しに、闇に背を向けただニコニコしていても、音楽は生まれない。喜びが有るという事は、そこに至る厳しい現実も経ているという事。それでこそ喜びが伝わり、時を超えて力強く響く音楽となると思います。

コルトレーン2最近久しぶりにコルトレーンの「India」を聴きました。そこには60年代アメリカの混沌とした社会と真っ正直に向き合った音がありました。
人間は正も邪も、清も濁も併せ持つ存在。社会もまた同様です。だから、社会にも自分にも真っ直ぐに対峙していくことが大切なのです。肩書きやら正統やら権威やら、そういうものはその時々で180度変わってしまう幻想なのです。それらに振り回されることなく、地に足を付けて生き抜く力強さがないと、音楽に喜びが満ちて行かない。

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私の音楽も、聴いた人が人間の存在を愛おしく想い、人生が豊かになるようであって欲しい。

音楽には喜びが、力強く溢れていて欲しいのです。

あらしのよるの・・・

東京では、毎週末雨にたたられ、お花見には無常な天気となってしまいましたが、そんな春の嵐の合間を縫って秩父の長瀞にてお花見をしてきました。

長瀞桜2昨年の長瀞の風景
同じ仲間と、同じ所でお花見すると、

児童文学小説「あらしのよるに」に描かれる、嵐の夜のメイとガブのような、それまでにない、いわばタブーのような出逢いは、今琵琶に一番必要なのかもしれません。常識でも伝統でもなく、心で繋がって行けるのは芸術にこそ与えられた特権です。ここにこそ琵琶楽の今後があるのかもしれません。永田・鶴田其々が成し得た、垣根を越えた異質なものとの出逢いと、それによってもたらされた嵐のような新時代の音楽は、次世代へと響き渡りました。
時も人間も留まってはいられない。同じ事をして守っているだけでは、澱み、濁り、力を失なってしまうのです。

「あらしのよるに」この合言葉を交わしあえる仲間がどんどん増えて行くと良いですね。

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