近江に続き、ツアー後半は大分県の臼杵で演奏してきました。
今回は語りの首藤順子さん(ひいらぎ会)の招きだったのですが、
10数年前に大分能楽堂で寶山左衛門先生と御一緒した時に、首藤さんも語りで参加されていて、そんな御縁で今回声をかけて頂きました。場所は多福寺という禅宗のお寺。お客様も120人を軽く超える方々にお越しいただきました。
演目は、首藤さんの語る平家物語に琵琶を入れたのですが、その他に独奏で「観音華」をぜひやって欲しいというリクエストでしたので、久しぶりに演奏してきました。熊野の補陀落渡海を描いたこの曲は十句観音経も入っていて、お寺での演奏会にはぴったりの選曲でした。最後は定番の「開経偈」を首藤さんの独吟に続いて唄わせて頂きました。


臼杵といえば石仏が有名ですが、この辺りは豊後の小京都とも言われ、近江と同じく古いものが数多く残っています。街並みも大変風情があり、私のような都会人には、色々と見て回るのが楽しかったです。
今回のツアーは割と時間に余裕があり、リハーサルの後などはたっぷり時間があったので
、石仏や周辺の里山をゆっくりと散歩してきました。10数年前にも来たのですが、以前は行けなかった満月寺や最上寺なども回り、途中で「一無彩」という良い感じの喫茶店でお茶したりして、ちょっとゆったりしてきました。こうしたふと気の休まる時間があるというのは、音楽家にとっては嬉しいことです。舞台は緊張状態にあるので、その集中力を保つにも、お散歩時間が大切です。
そして臼杵には、我が家で毎日頂いているお味噌、フンドーキンの工場があります。ここの麦味噌は最高です!!本当は工場見学までしたかったのですが、さすがにそこまで時間が取れなかった。今度行く時には是非行ってみたいです。
旅はいわば日常からの解放。知らない土地で、その地の人達と出逢い、
その前で演奏する。それはなかなかスリリングなのです。そしてワクワクとして楽しい。都会に居るだけだと、私のような人間は気が付かないうちに色々なものに囚われてしまう。のんびり生きているつもりでも、何時しか小さな世界の住人に収まっていることに、はっとすることもしばしばあるのです。
心が小さな世界に囚われていると、そのまま音楽に出ます。勿論音楽も様々なものに触れていないと、現代の中で訴えるものも出てきません。社会とかけ離れ、オタク状態に居たら、結して良い音楽は生まれないのです。
旅をして、多くの人と出逢い、日常とは違う空気を吸い、色々な文化や風俗に触れる。時々こんな体験が出来るというのはとても素敵な事です。色々な土地の風情を感じてこそ、琵琶は鳴ってくれるのです。琵琶はペルシャの彼方から、シルクロードを渡り日本に辿り着いた楽器。日本でも琵琶法師たちが琵琶を担いで色々な所を旅しました。琵琶は旅をする運命にある楽器なのかもしれません。
これからも私の旅は続くでしょう。それは琵琶に縁のある者の運命なのでしょうね。この運命をじっくりと楽しみたいと思います。
ご無沙汰していました。先々週から、近江~豊後とまわって演奏会をしてきました。今回も充実した演奏会をやらせて頂きました。感謝!
ツアーは先ず近江の常慶寺から。近江は古い歴史があり、京都とも近いこともあって、今でもしっとりとした風情のある街です。
昨年は同じ場所で楽琵琶と笛で演奏したのですが、是非薩摩琵琶も聞いて


さすが近江。良いもの、歴史あるものがたくさん残って、土地に根付いています。
こちらは有形文化財になっている、建築家ヴォリーズの設計した旧豊郷小学校。近江商人達は稼いだお金を、教育の現場に惜しみなく注いだのです。志が高いですね。この校舎はとても細かな所まで作り込まれていて、70年前の設計とはとても思えないばかりか、逆に憧れてしまうような建物です。最近はアニメ「けいおん」の舞台としても有名ですが、こうして古き良きものが、今のニーズに合わせて活用され、愛されているのが素晴らしいと思います。

近江の今の姿からは、多くのものを得、また多くの事を考えさせられました。自分が行くべき道は何か。自分が舞台でやるべき音楽は何か。更に更に考察を深めて行きたいと思います。
さてツアーの後半は九州・豊後の臼杵です。九州の小京都といわれる素敵な町では、またまた素晴らしい演奏会が待っていました。
先日静岡に行って来ました。私はてっちゃんではないのですが、のんびり電車に揺られるのが好きで、地方に行ったら時間のある限り、各駅停車に乗るのを密かな楽しみとしております。静岡と言えば最近の話題は富士山ですが、私は何といっても海。海こそが私の中の静岡です。駿河湾のあの凪の海は、私の少年時の風景そのものなのです。先日も雲ひとつない晴天の中、東海道線に乗って外を眺めていると、
ねぶかわ駅辺りから、目の前にあの穏やかな海が広がってきました。子供の頃、海辺でしょっちゅう日の出を見ていましたので、今でも海を見ると「帰って来たぞ!」という想いが湧きあがります。
今、私は残念なことにすっかり都会人になってしまいました。そのせいか親元に居た18歳までの自分と、それ以降海から離れた暮らしをして
いる今の自分は、別の人生を歩んでいるような気がしてなりません。海は私の過去と現在を仕切る扉だったのでしょうか・・・。
建礼門院ではないですが、「今は夢 昔は夢」という具合に、過去と現在のどちらが私にとって現実で、どちらが「異界」なのかは私自身にも判りません。ただ、今の私はその二つを行き来することで、一人の人間として成り立っているようです。
最近になって中学時代の友人達と会う事が出来、過去と現在がやっと少し自分の中で繋がるようになりましたが、現代という時代をちょっと斜から見つめると、どう考えても、今のこの社会の方が「異界」のような気がしてなりません。ネット、TV、政治、経済、流通、人心・・・社会全体、色々な事が人間のキャパを超え、まるで人間が大地から少し浮かんで流されるように振りまわされ、生きているつもりにさせられているのではないか、と感じる事もよくあります。こんな中に生息していたら、やはり時々海に帰る必要がありますね。


ドッペルゲンガーのようなもう一人の自分や、自分の中の「異界」がある種闇の投影になってしまうと、かなり厳しい状況になるそうですが、今居る「現実」と思いこんでいるこの場所は、本当に自分の居るべき所なのでしょうか?気が付かない内に「異界」の中に放り込まれているとしたら、そしてここが闇の投影の場所であったら・・・。「欲望」を軸に成り立つ現代社会は果たして現実なのでしょうか、それとも・・・?
せめて音楽は「異界」や「幻想」ではない、血の通うリアルなものでありたいですね。
さて、今日はこれから両国縁処で定例の楽琵会。明日からは関西に向かい、滋賀、大分のお寺で演奏してきます。またゆっくりと各駅停車に乗って海を眺めて楽しんできますよ。
欲望の渦巻く「異界」?から、人間の住む大地へ、しばし身を浸して参ります。
私のCDのジャケット画は版画家の澤田惠子先生の作品なのですが、先日その澤田先生とお会いしてきました。もう10年程前になるでしょうか、大阪・堺のギャラリー「いろはに」に立ち寄った時に、偶然先生の作品が展示してあって、一目惚れして以来、もう三つの作品に使わせていただいてます。



先生は毎年国展に作品を出品していて、今回はその会場となっている国立新美術館で待ち合わせをして、作品を一緒に観てから、21_21 DESIGN SIGHTでやっている、デザイン「あ」展にも行き、久しぶりにゆっくり話をしてきました。脳内を常に柔らかくすべき事を実感。良い気付きを頂きました。先生は穏やかな雰囲気の中に、表現への熱い想いがまだまだほとばしっている感じで、これから計画しているCDにも是非使わせて頂くようお願いしてきました。
その後は護国寺でやっている「チベットフェスティバル」へ行ってきました。私は以前、宮島の大聖院でジェツン・ペマさんが講演した時に演奏した事がありまして、その時演奏が終わってから、ペマさんからカターというシルクの布を首にかけてもらった事があり、それ以来なんとなくチベット仏教には関心を寄せているのです。今回も楽しみにしていました。会場ではバター茶を飲み、チベット僧が砂曼荼羅を作っている所をじっくりと観て、本堂ではチベットの声明を聴き、ちょっとうとうとし、帰りにはチベット一の歌姫と言われるパッサン・ドルマさんの演奏も聞いてきました。
左から3人目の方がパッサンさん。民族楽器ダニェンを弾きながら歌うその声は、凄い声量と迫力。曲も哀愁を感じるような曲調で、大変馴染みやすいものでした。アップピッキングを基本にしている弾き方も興味深かったです。
誰にも日々色々な事が起こります。あまり良くない事が続く事もありますが、とにもかくにも関心のある事を追いかけていられるのは幸せですね。私は贅沢な日々を過ごしているな、と思っています。こうした喜びも、哲学的に突き詰めて行くとその根源は欲であるとも言われますが、素直に楽しむ姿勢は是非大切にしたいものです。
色々なものを観て、その世界を感じていると、本当に気持ち良いのです。美味しいものを食べている時に喧嘩する人が居ないのと同じで、常に良い舞台や作品に接していると、ちっちゃなプライド等消えてしまいます。
時には戦わねばならない事もありますが、戦うより、ときめいていた方が上質な音楽が響いてくるのは当たり前。日々良いものに触れ、感動し、喜びに満ちていたいものですね。
昨日、赤坂の料亭 金龍にて、藤山先生の舞台を務めてきました。赤阪では既に、芸者さんがお稽古する見番もなくなり、花街の姿も随分と変わりましたが、往時の趣を今も伝える金龍は、和の風情が溢れる素敵な場所でした。
最近私は標準サイズの琵琶を時々弾いています。昨年、私の琵琶を作ってくれている石田克佳さんのおじいちゃんが作った作品をたまたま手に入れまして、克佳さんに気合を入れて直してもらった所、これが実にレスポンスが良いのです。大正時代の作品との事ですが、良く鳴るのに、イイ感じの軽さがある。私の作品にはちょっと合わないのですが、藤山先生の芸にはこちらが合っているんです。先生の芸は蝶の舞を見せながら、そこに人生を語ろうというもの。洒脱・粋でありながらジワリと迫る芸なので、音楽の方も、質の良い「軽味」というものが求められます。私の音楽は緊張感漂うようなものが多いのですが、こいつのお陰で+αが出てきそうです。良きパートナーです。
「遊び」が無ければ、車輪だって廻らない。それは世の常というもの。時代も社会も個人も、弾力という「遊び」が無いと成り立ちません。硬いものは、もっと硬いものに壊される。強いものも、もっと強いものが必ず現れる。力でガードするようではまだまだです。時には「柳に風」で、他からの力もやんわり受け流し、揺らぎながらも決して倒れないような、しなやかな生命力が必要なのです。
何事も、過ぎたれば及ばざるが如し。孔子様も言っておられます。修行・精進・勉強だけでなく、人生も謳歌する、これも音楽の内かもしれません。
短い人生、イイ感じで遊びたいですね。