熱狂的声楽愛好のススメⅫ~パリオペラ座Live viewing「カルメン」

パリオペラ座Live viewing「カルメン」を観てきました。

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「カルメン」はMetでもついこの間エリーナ・ガランチャの主演で見てきたばかりですが、今回はまた一味違った演出でとても楽しめました。やっぱりエンタテイメントの国アメリカと、エスプリの国フランスではずいぶんと違います。先ず上の写真を見てください。真中が主役のカルメン。どう見てもマリリンモンローですよね。アメリカ人の発想では、こういうのは逆にあり得無いのではないかと思いました。

       
舞台セットもとてもシンプルでした。色々な演出で楽しませてくれるMetスタイルも素敵ですが、これはこれでいい感じです。根本的に魅せるという感覚が違うのでしょうね。
そして今回はオーケストラが素晴らしかった。出だしからちょっとテンポが遅めだったのですが、けっして重たくならないし、弦、管共に音がしっかりブレンドされていて、まとまりが良く、メロディーがしっかりと聞こえてくる。演者のセリフなんかにもきちっとと対応していて、フランス人によるフランスオペラのレベルの高さを見せつけられました。

指揮はフィリップ・ジョルダン、演出はイヴ・ボネーヌ
カルメン: アンア・カテリーナ・アントナッチ
ドン・ホセ: ニコライ・シューコフ
ミカエラ: ゲニア・キューマイヤー
エスカミーリョ: リュドヴィック・テジエ

後に残った印象では、キューマイヤーのミカエラがとてもいい感じでした。見終わった後にその存在感を残すというのは凄いことです。テジエのエスカミーリョも最初出てきた時は、その衣装にドン引きでしたが、実に深い声で存在感がありました。フランスではベテラン中のベテランだそうですが、ぴったりの役だったと思います。全体にアメリカ流の煌めくようなスターはいなかったですが、こういう演出は余計なものが無く、イメージがかえって自由になり、内容が良く見えてきますね。

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今回はカルメンやホセの描き方がとてもよかったと思います。カルメンがただの奔放な女性というのでなく、葛藤する姿ひとつとっても、リアルな女性像が出ていました。最後のホセに殺されるシーンは、ナイフで刺されるのが一般的ですが、ホセが持参したウエディングドレスのようなもので首を絞められるようになっていて、ホセの暗く深い狂気のような部分も感じられたし、カルメンもそれに抵抗せず、殺されることに身を任せるように、死に場所を求めていたかのような雰囲気がリアルで自然でした。

また二人のやり取りの場面など、フランスオペラ特有のコミカルな感じ(オペラ・コミークというそうです)も楽しめて、そういう部分のオケとのタイミングも見事に合っていました。オペラは歌がもちろんその中心ですが、演技もポイントの一つですね。

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カルメンのようにどこの劇場でもさんざんやりつくされているような演目でも、毎回何かしらのアイデアを盛り込み、創造性を漲らせて取り組んでいくから面白いのです。日本の邦楽はどうでしょうか。「今回の舞台はどんな趣向でやるんだろう」なんてわくわくしながら待つという事をほとんど経験したことがありません。CDでも「次はどんな形で期待を裏切ってくれるんだろう」なんて思わせてくれるアーティストは、邦楽ではなかなか居ないですね。

全体写真大いつも同じでは聞いている方はやはり飽きてしまいます。そういう人をアーティストとは呼べません。くめども尽きぬ魅力には、ただ練れた芸だけではだめなのです。同じ演目であっても常に豊かな創造力で、毎回新鮮な気持ちで取り組むような姿勢が必要です。お見事を目指しているようでは、聴衆はついてきません。そしてもちろんどんどん新作が出来ていかなければ、せっかくの古典作品も淀んでしまいます。
常に追求し、創造し、魅せることの出来る、そんな邦楽人がもっともっと出てきて欲しいものです。

さあ、次の舞台が待っています。

響きの森へ

先日「その先の世界へ」という記事を書いたら、色々な人から声をかけられて、楽しい話が弾みました。音楽系以外の方が多かったですが、みなさん「その先の世界」に関心が高いのですね。

イザベル・レナード&アレック・シュレイダー2テンペストより

私は邦楽家ではあまりいないタイプでして、やる度にイントロやエンディングを変えます。勿論途中のフレーズも唄の節も、その時々に合わせてどんどん変えます。舞台に立つまでどうやるかは全く決めていません。場の響きやお客さんの雰囲気が毎回違うので、私はそういうことにフレキシブルに反応して変化してゆきます。

ウエス1「ジャズに名演奏あって、名曲なし」という言葉がありますが、「ジャズ」を「琵琶」に変えると、正に私の演奏家としての音楽的信条となります。私の作曲作品にはデュオが多いのですが、作品として形を成すより、パーフォーマンスとして舞台の上で成立するように、即興をする場面をあえて入れてある曲が多くあります。だから毎回違う。そこを狙っているのです。それはその時にしか起こりえない音楽を求めているからです。即興とはある意味とても危ういのですが、用意したもの、稽古してばっちり練習したものでない。自分でも気が付かない未知の自分が出てきたりするので、「その先の世界」に行く一つの手段でもあります。

邦楽の皆さんはもっときちっとしてますね。中には師匠の演奏を細部まで寸分違わず再現してゆく方もいます。しかしその演奏は師匠とはずいぶん感じが違うことが多いです。師匠は自分の表現を存分にやっているでしょうから、良い悪いという事でなく、追随する方は気持ちの部分がもう全く師匠とは違うし、形は似ていても、中身が別ものになるのは当たり前だと思います。
私は常に聴衆とのコミュニケーションで音楽が出来上がると思っているので、その場で自由に変えるのが一番自然に感じます。以前大分能楽堂で、笛の寶山左衛門先生と先生のお弟子さん二人+私という構成で寶先生の曲を演奏したことがあったのですが、本番の舞台でエンディングを変えてしまいました。寶先生は面白がっていましたが、お弟子さん二人は目を白黒させて引きつっていましたね。真面目なお弟子さん達でしたので、申し訳ないな、と思ったのですが、その時は音楽的にその方が良いと判断したので、そうさせていただきました。グールド
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クラシックでも、演奏活動を止め、一切の余計なものを排することの出来るレコーディングに特化していったグレン・グールドと、CDなどの雑音を排したスタジオ録音等は不自然であるとして、舞台演奏に特化して、録音をほとんど止めてしまったクリスチャン・ツィメルマンがいますが、どう考えても私はツィメルマン派ですね。

かつて鶴田錦史は、「古典というのはね、やっぱり時代に応じて変わるべきものだと思っている」と言いましたが、私もどんどん変わるべきだと思います。鶴田の演奏も、やる時々で変わっていたと聞きますが、永田錦心が明治という新しい時代に新しい琵琶樂を創造したこと考えると、鶴田は永田錦心の志をしっかり受け継いでいたのだと思います。時代も変われば、音楽も変わる、これはごくごく自然なことではないでしょうか。

         永田錦心2鶴田錦史2

ちょっと余談ですが、永田錦心が琵琶新聞紙上に面白い言葉を残しています。まだ30代の頃の発言です。
「多くの水号者(名取)がその地位にあぐらを掻いて、自分をその教祖に祭り上げている。自分はその肥大した組織の様を見て後悔していると共 に、それをいずれ破壊するつもりだ。そして西洋音楽を取り入れた新しい琵琶楽を創造する天才が現れるのを熱望する(意訳)」あ~~惚れ惚れするような言葉ですね。西洋音楽云々という所は時代性を感じますが、常に時代の音を求め、権威や肩書きに寄りかかることをけっして許さない、これぞ芸術家の矜持です。拍手!!

バッハでもバロックオペラでも、「現代の中での古典」として演奏され研究されます。そこが一番のキーポイ
ントだと思います。「現代社会に生きる古典」という所を見失ってしまうと、過去の資料の再現という事にしかならず、もはや音楽ではなく
なってしまいます。音楽は常に時代と共にあり、一期一会のものなのです。

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今この時に響き渡るのが音楽。場によっても、時代によっても音楽はその時々で息づいて、豊かな命を輝かせていることが、音楽としての本質です。古典でも新作でも、現代人が弾き、現代人が聴く。私は現代の人を、この豊饒なる琵琶の響きの森に誘いたいですね。

水無月の音色

今週は定例の琵琶樂人倶楽部、楽琵会に加え、光が丘美術館での演奏会をやってきました。

光が丘ここでは以前も一度演奏したことがあるのですが、本当に素晴らしい空間なのです。落ち着いた風情、適度な響きなどなど色々なものがしっとりと調和している。だからとても自然に気持ち良く表現することが出来るのです。
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今回も版画家の井上員男先生による平家物語の版画に囲まれて演奏してきたのですが、この作品は実に壮大でかつ繊細。素晴らしい!。皆様にも是非一度観て頂きたいと思います。

こうして日々演奏会に追われて過ごしていると、本当に多くの方に出逢い、話をする機会に恵まれます。先日も陶芸家の佐藤三津江さんの自由な発想の作品達を見ていて、行くべき道を歩むとはどんなことなのか、お話しを伺いながら頭を巡らせてきました。

悟りの窓2011-11-1もうずっと以前になりますが、某邦楽雑誌の編集長に「琵琶奏者で仕事受けている内はまだまだだよ。塩高本人を指名されて仕事するようになりなさい」とアドヴァイスを受け、その言葉を目標に自分の思う所を只管やって来ました。周りを見れば、邦楽でも一流の方は皆さん確固たる自分のスタイルを持って大舞台を張っています。刺激になりました。しかしまだまだこの世界には、真逆の姿も溢れているのも確か。演奏家はただ舞台で真摯に演奏すればよいものを、音を出す前に、○○流・○○門下・○伝etc.が先に口をついて出てしまうのは何とも…。

武満徹が独学なのはよく知られていますが、その音楽が伝統であれ革新であれ、社会に音楽を響かせるには、takemituどうしても過去を学ぶ必要があります。それは武満さんもジョンレノンも同じでしょう。私も自分なりに学んでいますが、何を学んでもあくまで自分の音楽を舞台で表現します。古典だろうがなんだろうが聴衆が共感する音楽であれば、おのずと受け継がれて行くだろうし、そうでなければ、明清楽のように途絶えてゆく。それはその音楽の持つ器と定めというものだと思います。
私が以前習ったT先生は、私が入った頃「これから家元制度を止め、名前の伝授もしない」と宣言したので、私はそこで勉強することにしたのです。音楽が、舞台が全てだという、T先生の言葉に共鳴したのです。まだ成立して間もない流派でしたが、ここなら一流を目指せると思いました。

自分の道を歩むという事は、多様な社会の中で生きて行く事と思っています。何かに寄りかかっていなければ存在し得ないのでは情けない。現実社会の中で、一個の自立した存在として生きていなければ、誰もその音楽を聴いてくれないと思うのですが、如何でしょうか。全ては今を生きる聴衆が支持するかどうかだと思います。

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結局人間には人其々生きることの出来る範囲というものがあります。器といってもよいでしょう。FBでイイネを押してもらって満足ならそれはそれ。ライブこそ自分の居場所という人も居れば、大舞台に打って出る人も居る。何を目指すかは本人の意識次第。それが実現するかは器次第。小さくても大きくても、本人なりに生きてゆくことが一番だと思います。

ヘラクレイトス今では尺八や筝でも、五線譜を使って、カラオケで演歌や歌謡曲を楽しむお稽古場がいくつもあるそうです。基本だと思っていたものも、どんどんと変化して行くのが世の中。自分が拒否しても、社会は次々に新しいものを受け入れてゆく。ヘラクレイトスのパンタレイ(万物流転)は昔も今も世の在り様です。物も形も、価値観も何も変わらぬものはないということだけが事実です。
私のこの音色もいつか消えてゆくことでしょう。50年後は、全く違う琵琶楽が主流になっているかもしれません。幕末の正派薩摩琵琶が、ノヴェンバーステップスなど考えられなかったように・・・。

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自分の出す音がはかなく消える音であっても、私は自分が奏でている以上、余計な鎧を着ることなく素直な気持ちでその音に向き合いたいと思います。後は良くも悪くも、私が今持っている器が、ふさわしいステージにその音を導いてくれることでしょう。

「我が為す事は、我のみぞ知る」坂本竜馬

その先の世界へ

梅雨に入りましたね。蒸し暑い中、八王子のギャラリー「ことのは」と、柏の三井ガーデンホテルでの手妻の会等、色々仕事をやってきました。写真を撮っている暇が無かったので、お見せできないのが残念です。

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日々舞台を重ねながら、いつも思うことではありますが、舞台から「上手」が聞こえてくるようでは、まだまだ感心されるのが関の山という事です。やる方は何とかミスなく上手くやりたいと思うものですが、観客はそんなことより、感動を求めて舞台に足を運ぶのです。だいたい自分が最高だ!完璧だ!と思う時は、ただ自分に酔っているだけで、何も見えていないですね。

ナタリーデセイ1技術や形式、ジャンルそういう目に見える形を忘れてしまう程に、音楽の「その先の世界」を表現するのが我々の仕事ではないか、と最近よく思います。少なくとも私が感動した音楽家は皆そうでした。音楽を超える世界を見せてくれたからこそ、この年になっても、音楽に心惹かれるのだと思います。
先日「その先の世界」を感じさせてくれたソプラノ歌手ナタリー・デセイは、10年ほど前、声の不調から2年の間舞台を去り、声帯の手術を受け復帰し、また不調になり再手術を受けたそうです。結果、それまでのレパートリーを捨てざるを得なくなったそうですが、新たな役に挑戦し、現在世界の第一線に復帰、見事なまでの活躍しています。インタビューでも底抜けに明るい彼女に、これほどの壮絶な戦いがあったとは最近になって知ったのですが、この壮絶があったからこそ、「その先の世界」が現れてきたのでしょう。歌手として一番声の出る最高の時期に、歌手の命でもある声帯の手術を経て、さらに次なる舞台に挑む。まさに不屈の精神です。私のような凡人は、自分が築き上げたもの(技術もレパートリーも)をなかなか手放せないものですが、やはり「その先の世界」を見据えている人は、そんな表面的なことに囚われないのですね。
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私は自分の本当に求める音楽をどんどんやろうと思います。もう余計なことに囚われている時間はない。ナタリー・デセイのように不屈の精神で邁進することは、私に出来るとは思いませんが、私が感動を持って聴いてきた音楽家達と同じように、自分にしか実現出来ない独自の世界を創りたいと思います。それは先人達の足元にも及ばないでしょうし、また何の評価もされないかもしれません。しかし私が「上手」なんてものを目指した時に、私の音楽のキャリアはそこで終わるのだと思います。私が憧れた音楽家達が目指した「その先の世界」を私も目指したいですね。

さて今週は、5日が定例の琵琶樂人倶楽部、6日は光が丘美術館での演奏会、7日は両国縁処と続きます。少しでも求めるべきところを求めて、琵琶を弾きたいものです。

熱狂的声楽愛好のススメⅪ「ジュリアスシーザー」

久しぶりにMet Live viewingに行ってきました。作品はヘンデル作曲の「ジュリアスシーザー」。いつにも増して素晴らしい作品でした。4時間半にも及ぶものでしたが、全く飽きることはありませんでした。

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とにかく満足!観終わった後のこの充実感は気持ち良いです。
今回は全ての出演者のレベルが一様にハイレベルでした。誰か一人が舞台を引っ張るとナタリーデセイいうのではなく、其々が魅力的に輝いている。その中でもクレオパトラ役のナタリーデセイは、やはりオペラ界を代表するスターですね。もう技術ではなく、その先を歌う事の出来る数少ない歌手と言えるでしょう。彼女の歌声は、音楽という枠を乗り越えて、そのままこちらの心に飛び込んでくるようでした。その他セスト役のアリス・クートと、コルネリア役のパトリシア・バードンの二重唱にも震えるほどの感動を覚えました。

加えて今回は演出が半端ない!!派手という事でなく、頭が柔らかいというべきでしょうか。とにかくMetならではの斬新なものでした。ナタリーデセイは振付をしながら歌うシーンが多くあり、そのブロードウェイばりの演出にびっくり。その他ラストシーンでは、死んだはずの登場人物も出て来て、全員が並ぶという大変面白い演出でした。

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どんなものでも支持されて行くものは、常に世の中と共に進化して行きます。ヘンデルというバロックを代表する古典作品でも、新しい演出で現代に甦り、現代の人を魅了するのです。形が変わり続ける事は世の常でありますが、時代に合わせ形が変わるからこそ、その精神と魅力が受け継がれて行くのではないでしょうか。
ダーウィンの進化論でも、強いものが生き残るのではなく、環境に対応できるものだけが生き残る、と書かれていますが、今日本の中で伝統と言われ、しっかりと伝承されている歌舞伎などを観ると、古典を継承しながらも、時代の変化にフレキシブルに対応しているのが葉はっきりと判ります。だから現代に受け入れられ、現代の人々に支持されて行くのです。琵琶楽はどうでしょう??。

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世界の一流を見聞きすることは、私にとって一番の刺激であり勉強です。一流に触れると自分自身が良く見えてきます。自分の良い所やウィークポイントは勿論の事、自分の中の意外な視点や感性、嗜好、志向etc.自分という存在が、優れた芸術作品によってあぶり出されていくようです。

私はこれからの10年で自分の音楽を確立し、充実させていきたいと思っています。その為にも自分の中の「こうでなければ」「こうしなければ」という小さなこだわりを徹底的に排除して、ありのままの自分でありたい。正に正念場です。

Metはいつも私に感動と導きを与えてくれる。何時か私も、聴衆にそんな感動を持って迎えられる舞台をやってみたいな~~。

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