尊きもの

先日、杉並公会堂大ホールにて、郡司博プロデュースによる公演で演奏してきました。

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こちらは今回共演の作曲家 郡司敦、尺八の田中黎山、筝の中島裕康の各氏。この他にもクラシックの演奏家達と一緒に演奏したのですが、皆さん本当に次世代を担ってゆく逸材だと思います。良い仕事ぶりでした。

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演目は、シェーンベルクの「月に憑かれたピエロ」、郡司敦の「火の光」、カールジェンキンスの「平和への道程」それぞれに重い大作が3曲並びました。
1曲目の「月に憑かれたピエロ」は、押しも押されぬ現代音楽の名曲。現代音楽はここから始まったと言ってもよい音楽史上最重要な作品です。日本ではほとんど上演されませんが、ヨーロッパではなかなかの人気曲で、毎年何度も上演されるようです。今回は歌詞を日本語に翻訳して挑んだ挑戦的な演奏でした。ちょうど作曲されてから100年。薩摩琵琶と正に同じ時代を生きた曲であり、私も大変影響された曲ですが、生演奏で聞くのは初めてでした。
私が演奏したのは2曲目の郡司敦君の作品。これまで毎年必ず彼の作品の初演に立ち会っているのですが、どんどんクオリティーが上がって来ています。邦楽器の扱いについてはまだまだ考察の余地がある、とは思いますが、この曲はきっと彼の代表作になって行くでしょう。今後に期待が持てますね。
3曲目のカールジェンキンス作曲の「平和への道程」これが凄かった。コソボ紛争を題材とした曲ですが、あの悲惨な戦争をぞっとするほどリアルに描きながら、平和への讃歌を高らかに歌い上げていく作品でした。途中にイスラム教で歌われるアザーンの歌唱も入り、大合唱によるシンプルなメロディーの反復と相まって、平和への希求とその尊さを聴き手にしっかりと届けました。いや~~聴いていて涙が出て来ましたね。

「平和への道程」は皆さんかなり感激された方が多く、多くの意見が寄せられたようです。
宗教や民族、国家等様々なカテゴリーを作り対立してしまう人間。その人間の創り出した社会は、善も悪も立場によって逆転し、もはや人間には判断がつかない。終わる事のない対立、繰り返される戦争がいかに悲惨で、人間にとって無益なのか・・・。26 杉公1色々な事を考えさせられました。

人間にとって尊きものが何なのか、社会の中で生きる我々は忘れがちです。一つの枠の中に入ると、どうしてもその枠の中での常識や哲学、イデオロギー等々に自分でも意識しない内に縛られて、見えるものも見えなくなってしまう。そしていつしか溢れる情報や物の中で、身を守るために、興味の無いものに価値を見ようとせず、他を卑下し、やがて自らの中に正義という幻想を生み出し、それを正当化するために排他的な民族主義・選民思想という偏狭な眼差しを作り出しているのではないでしょうか。

私は常々キャリアや肩書きを振りかざす音楽人の姿に対し色々と書いていますが、奥伝だの、名取だのを盾に自分は正当であると宣言し、他をこき下に見るような言葉を聞くと心底悲しくなります。精神や文化を担う者が、そんな偏狭な幻想に囚われているようでは、世の中に平和なんてありえない。我々こそがボーダーラインを超え、手を差し伸べて行かなくては!そう思いませんか。

3私は琵琶唄でも、斬った張ったという内容のものは唄いません。音楽の先の伝えるものが明確に表現できるのなら、戦いの場面も一つの表現として時には必要でしょう。しかし合戦物をエンタテイメントとして、冒険活劇のように名調子でやっていた結果がこの現状です。私は琵琶楽がそんな浅いものではないと思うし、もっと深い所を語る事が出来るはずだと思っています。いつも書いているように愛を語れない音楽を誰が聴くのでしょう?。リスナーは、声が出ているとか練れているとかそんな技を聴いている訳ではないのです。
何を語り、唄い、何処に向かって、何故唄うのか。想いを持って、その先の世界も見据えてはじめて伝わって行くと思っています。お得意技を披露している、お稽古事では何も伝わらないのです。

拳よりは抱擁を、武器よりは楽器を誰もが望んでいるはずです。殺し合うよりは愛し合う方が美しいでしょう。他に汚い言葉を浴びせかけるよりは、笑顔で握手する方が素晴らしいでしょう。誰もが判っていながらそれが出来ない。自分を優位に立たせたい、自分や仲間は選ばれし特別な存在だと思いたい。人間はいつの時代も弱い存在です。
共生という言葉はもう使い古されたような感がありますが、異質なもの同士がお互いを認め、共に生きて行く事をしなければ、また同じ歴史を繰り返すしかない。
「平和への道程」を聴きながら、何故皆が平和を願い、平和に喜びを感じているのに、争いは終わらないのか。今この時代だからこそ考えるべきであり、次の時代を生き抜く感性や哲学が今こそ必要だと思いました。そしてこの曲は今こそ演奏されるべき曲ではないかと思いました。

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終演後に、共演の仲間たちと打ち上げをしていて、こうして音楽を創り演奏して人生を全う出来ていることが、本当に喜びなんだと、じみじみと感じられました。皆本当に良い顔をしている、ジャンルも年齢も関係なく、喜びが溢れている。本当に尊き仲間達です。色々な音楽に接し、文化に接し、多くの人と出逢う事はとにかく素晴らしいのです。
私に出来る事は、つまらない冠の付いた音楽ではなく、H氏が残した言葉のように、愛や喜びのある音楽を創り演奏する事だと改めて思いました。

五線譜の風景Ⅱ

少し前になりますが、オペラシティーアートギャラリーで開催されていた「五線譜に書いた夢~日本近代音楽の150年」展に行ってきました。

明治時代が始まって150年。この150年は日本史の中でも日本音楽がこれほど変化激動した時代は、日本の歴史史上なかっただろうと思います。それが洋楽の導入によって始まったのはご存じの通り。その軌跡を観て辿りながら、大変感慨深いものを感じました。そしてまた今の私達の姿が良く見えてくるような想いがしました。

日本の音楽は、明治という新しい時代に洋楽と出逢う事で「芸術」という概念が芽生え、「表現」という意識も発展してきました。これは明治以前には見られなかった大変に大きな変化です。文学の分野も同じですね。
今はどんな分野に於いても表現するという事が当たり前ですが、日本の音楽には自己表現という意識が元々希薄なのです。雅楽や平曲などを実際演奏してみると、人それぞれ個性はありますが、自己表現とは程遠いと感じてなりません。「私」というものを音楽の中に持ち込まない。むしろ自分を無くすような方向を向いていると思います。この辺が元々の日本文化なのでしょう。だとしたら、この日本文化の根底にある感性を、現代社会に生きる我々がどういう風に捉えるか、そこが今後の日本音楽の大きなポイントとなると思います。

海神道少し前には尺八でも、古典本曲を大胆な独自の解釈で演奏するというのが流行っていました。海神道、横山先生などはその先端を行っていましたね。私はその活動を現代に於ける古典の在り方として高く評価していますが、そういうやり方自体が、明治以前には無い、新しい日本音楽の接し方だとも思っています。

明治からの日本の音楽事情については多くの意見がありますが、洋楽をいち早く取り入れたことが、邦楽に携わる人々の意識を変え、邦楽を単なる民族音楽の枠から飛び出させ、同時に日本社会も世界舞台へと向かって行った事は確かだと思います。あの政治的変革が無ければ、今の日本はありえません。
表現や芸術という概念に関して私なりに想う事は多々あります。しかし今、邦楽全体にこの辺りの事がとても曖昧で、古典に対する姿勢もかなりあやふやになっていると感じるのは私だけではないと思います。
今回の展示を見て、明治以降の日本の音楽状況を辿りながら、色々な想いが私の中に沸き起こりました。そして何時もながらのセリフですが、今琵琶楽の器が問われているように思えてなりません。

etenrakuさて、譜面という部分に視線を向けてみましょう。先ず一番最初に判って欲しいのは、音楽はどんなジャンルの物でも紙の上には表せないという歴然たる事実です。譜面は伝えるための手段でしかない。
先ず、琵琶や尺八で今使われている譜面よりも五線譜の方が情報量が豊富なのは、一目瞭然です。だからといって五線譜でも琵琶の微妙なニュアンスは表せません。それでも琵琶譜のように、見た所でテンポも
リズムも音高も判らない単純なタブラチュア譜よりは、明確に音楽の姿を捉えることが出来ます。現行の琵琶譜は明治になって出来たもののようですが、稽古してない人には何が何だか判らないでは、譜面として機能していないという事です。演奏者のメモ書きのようなものでしかありませんね。私は琵琶譜を使う場合、リズム記号や音の強弱等を書き足したりして、五線譜の各記号をミックスして使う事が多いです。
五線譜や雅楽譜の優れているところは、調、リズム、メロディーの正確な音高等、演奏に必要な情報がちゃんと記されている点です。だから秘曲など1000年以上前の譜面でも音楽の姿が判る。これが凄い。勿論それをただ演奏しても音楽にはなりません。そこに命を吹き込むのはいつの時代も演奏家です。ここを忘れてはいけないのです。
薩摩琵琶に古典曲が残っていないのは、演奏するという事に重きを置いていて、「残す」という事に意識があまりなかったからでしょう。もし残したいのなら、筝曲のようにもう少し誰にでもわかるように譜面を工夫し、なるべく多くの情報を書き残そうとしたはずです。また筝曲などとは違い、作曲という概念自体も無かったのだと思います。

五線譜を嫌う邦楽人の一番の誤解は、五線譜に書かれていると  拙作siroccoの譜面
まるで無機質の打ち込みシロッコ五線譜4-s音楽のようになる、と思い込んでいるところでしょう。これは全くの誤解であり、勉強不足であり、大いなる勘違いです。クラシックでも五線譜に書かれていることを自分で読み取り、そこから自分の音楽を紡ぎ出して、初めて音楽となって鳴り響くのです。この「音楽を紡ぎだす」という大変重要で大切な行為を知らない演奏家には何を言っても判ってもらえません。特にちょっと五線譜が読めると思い込んでいる人に一番この誤解が多いですね。自分の感覚に頼り切って、自分の頭の中だけで完結している人と言っても良いかもしれません。まあ、世の中何事もちょっと知っているが為にものが見えないという事は往々にしてありますが・・・。

大雑把な言い方をすれば、邦楽で使われている五線譜という手法は、ブロークン英語のようなものです。クラシックとは捉え方が違います。ジャズでもそんな感じですが、私はそれでよいと思います。譜面はとにかく情報が伝わってなんぼです。五線譜を使ったからと言ってもクラシックをやる訳ではないのです。邦楽というジャンルに於いては共通言語としての役割があれば良い。より詳しく、判り易く記録し伝える為に、五線譜の方が情報が豊富で有効だという話です。音楽となって行く手助けになればよいのです。その為には豊富な情報をしっかり伝える方が良い。洋楽としての正確な音程を出す必要もないし、自由に間を感じて演奏すればよい。現代音楽に見られるように小節線の無い譜面などは今や普通にクラシックでも使っています。五線譜と言っても色々な記譜のやり方があるのです。譜面を元にして、音楽家各自がそれに命を与えて、音楽を作り上げてゆくのは、邦楽でも洋楽でも同じなのです。五線譜に書かれている情報を元に、邦楽は邦楽のやり方でそれを実現すればよい。五線譜を豊富な情報が詰まった共通言語としてどんどん活用すればよいと思います。

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第二次大戦後は新邦楽、現代邦楽と言われる運動が具体的になって来ましたが、元々明治に出来た錦心流琵琶や都山流尺八などは、最初からモダンスタイルをその大きなテーマとしてきました。以前にも書きましたが、永田錦心は琵琶新聞の中で、これからは洋楽を取り入れて新しい琵琶楽を創って行く、と宣言しています。その永田錦心から生まれた錦や鶴田流などは正に現代邦楽の申し子と言えるでしょう。私が錦心流や鶴田流に縁があったのも当然の成り行きだったことと思います。新しい形を作りだし、新たな琵琶楽を創造するのは、永田錦心以来の使命・宿命、そして伝統でもあると感じています。

邦楽が、単なる日本の民俗音楽という枠を出て、社会のグローバル化に伴って、色々な地域、色々な世代に広がっている状況では、琵琶も弾き語りだけというのはもはやあり得ない。色々な楽器との合奏もどんどん増えて行くだろうし、次世代の琵琶楽もどんどん作るべきだと思います。それに伴い共通言語としての五線譜はこれからどんどんと活用されるべきだと思います。明治以降、音楽を芸術や表現として捉える感性が日本人の中にも広がって行ったことにより、音楽を書き表し、録音し、より多くの人に伝えて行く手段として邦楽の中に於いても五線譜が発達していったのは当然の事であると思うのです。

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民族音楽は生活の中から出て来た音楽ですので、PCやスマホいじりながら音楽だけは昔の感じでやりたいというのでは、昔風のレトロ感を楽しんでいるに過ぎない。趣味でやっている分には結構なことだと思います。琵琶楽を民族音楽と捉えるならば、現代に生きる人々の生活の中から出て来る琵琶楽があって当然。明治大正の時代には確かにそうしたものがありました。だから現実生活を抜きにして過去のものを過去の形のまま楽しんでいるという事は、もはや民俗音楽としての資質を有していないとも言えるでしょう。

武満作品はじめ、エンタテイメントでない所で私のように自分で作曲し、演奏する人も居ますし、一方、グループでポップスをやるような方が活躍するのも結構なことだと思います。それは現代の姿なのですから・・・。色々なタイプの人がどんどん出て来るべきなのです。その時に色々な楽器やジャンルとをつなぐのには、五線譜が必要不可欠だと感じています。

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より良い音楽を創るために、受け継ぐべきものと、その必要のないものをしっかりと見極めなければなりません。明治に出来た記譜法を受け継ぐことが伝統を受け継ぐことではないのです。私は永田錦心
の志を受け継ぎたいし、何よりも琵琶楽を豊かに、高らかに現代社会の中に響かせたい。五線譜を使ってもっと多くの人、楽器、音楽とコミュニケーションを取って行きませんか。

全ては音楽の為に!!

劇団アドック公演「母」2013

先日、久しぶりに劇団アドックの公演を観てきました。

アドック母2013

原作は三浦綾子。小林多喜二の母セキの事を描いたものです。アドックにとってこの作品は、旗揚げの時に上演した作品でもあり、何度となく上演しているものですが、実は来年の1月26日、川崎能楽堂にて、「アドック」と私がやっているアンサンブルグループ「まろばし」の共同企画として、この「母」を琵琶をバックに、主演の三園ゆう子さんの一人語りでやってもらうという企画がありまして、今回はいつになく大変興味を持って観てきました。
アドックの舞台はもう何度も見ているし、以前にも「母」は観たことがあるのですが、今回は実によく洗練されていて、役者たちもこなれ、効果音など細かな部分が整理され、素晴らしい舞台となっていました。途中、何度も涙を抑えるのに大変でした・・・。三園さんがにこやかに語っているシーンでも、その言葉の裏側までもダイレクトにこちらに伝わって来るようで、そのレベルの高さを思い知りました。

2014kawasaki1こちらは来年のチラシ表。
来年の趣旨は、「語り合うという事の意味を今こそ問う」というテーマで、古典からは忠度と俊成、そして千手と重衡の物語を通して語り合う姿を聴いていただき、現代作品からは、「母」を取り上げ、セキが現代の人に語りかける姿を通して、「語り合う時代」を表して行こうと思っています。
アドック主宰の三園さんと演出脚本の伊藤豪さんは、舞台にかける姿勢が大変真摯で、私には共感する部分が沢山あります。このショウビジネス全盛の時代に、かたくななまでに社会派を貫き、鋭く人間の姿を描いてゆくアドックの姿勢に私は大変惹かれるのです。今はどんな分野でも売れるかどうかが最優先という時代。その路線を取るのは別に悪い事ではないし、それはそれで高いクオリティーを求められることと思いますが、邦楽の分野でここまで貫いている方は少ないですね。邦楽器の珍しさがどうしても売りになってしまいますし、結局有名作曲家の作品も、ステイタスとしてやっているだけなんだ、と思ってしまうものも少なくありません。

虹

アドックの舞台はショウビジネスに色気を出したりしない。姿勢にブレが全く無いのです。どこまでも自分たちのスタイルを貫いている。だから毎回深く深く心に刺さってくるのだと思います。以前私も参加した芥川龍之介原作の「雛」や、三浦綾子原作の「壁」もそうでしたが、とにかく重過ぎる程に深くこちらの心に呼びかけるものがあります。またそこには多くの示唆があり、こちらの創造力と舞台とが一体となった記憶が、私の心の中に残っています。

今、邦楽に於いてこんな舞台はなかなかないですね。 古典であろうが新作であろうが、それを通して自分の音楽性や哲学を表すのが演奏家の在るべき姿だと思います。音楽は社会と共に生き、社会との関わりの中で成立して行くもの。舞台に立つ以上は、自分又は自分達の表現をしていかないと、誰も聴いてくれません。聴衆は流派の曲を聴きに来るのではなく、演奏者の音楽を聴きに来るのです。アドックも三浦作品をアドックのやり方で舞台にかけるからこそ、人々がその舞台に集うのです。邦楽人も自らの音楽を高らかに歌い上げなくては!!

2014kawasaki2来年のチラシ裏
「母」を観ていて、明治から大正、昭和へと日本がどんな道を辿り、そこにどんな人間の姿があったのか、見えてきました。私は平和な時代にたまたま生まれ生きてきましたが、そこに至るには壮絶なまでに生きる事への人間の戦いがあり、その上に現代のこの世の中が出来上がっている事を思い知りました。この歴史を忘れてはいけない。私はそう感じました。

たとえショウビジネスに乗らなくても、自分の行くべき道を行く。これは良寛の姿勢などとも相通じるものがあると思います。現代は何事においても利を求めすぎる。その利を求めるあまり、色々なひずみが出てきています。中身よりも外見を派手に奇抜にしたり、誇大な宣伝をかけたり、果ては偽装も平気でやってしまう。邦楽も、世の中全体も、本来求めるべきもののポイントがかなりずれているように思います。時代を見据え、時代と共に歩むのは結構。しかし時代に流されてはいけない。新しい時代を作る位でなくては!!

来年、どうやってこの「母」に関わろうか。今色々なアイデアが湧き上がっています。
来年の公演が楽しみです。

煌めく者たち

先日、江戸手妻の藤山大樹さんの出世披露公演を観てきました。

藤山大樹4出世披露の口上
大樹さんは高校生の頃より藤山新太郎先生の手伝いを始め、大学でもマジック研究会に所属。卒業後は内弟子に入り4年間の修業期間を経てこの程、藤山大樹の名前を頂いたのですが、新太郎師匠に就いてコツコツと練習をする真面目な人柄ゆえ、その技は驚くほどの完成度を持っています。まだ25歳。すでに新太郎師匠の所でもソロで演目を任されているし、個人としても色々な場所で仕事をしているので、知っている方も多いと思いますが、これから花開く、正に逸材!今回は素晴らしい門出となりました。


藤山大樹2七変化

これからは独立して旺盛な活動をして行くと思いますが、彼なら十二分な技量と芸に対する謙虚さを兼ね備えているので、今後に大きな期待を持てます。いつか一緒に仕事が出来るといいですね。
左の写真は大樹さんの十八番「七変化」。これは是非皆さんに観てもらいたい演目です。凄い技ですよ。そして舞台としての完成度が高い。ただ上手なだけでなく、舞台全体を務め上げるその力量は大したものです。新太郎師匠の所では、門下全員に日舞・長唄を習わせ、所作や日本の文化そのものを体現させています。今回も長唄囃子 杵家七三社中の演奏で、新太郎師匠も唄で参加して、大樹さんによる舞踊「雨の五朗」が披露されました。こういう素養が、舞台運びや演目の中での話し方、身のこなし方すべてにものを言うんです。舞台全体に日本文化としての世界観がある。これが素晴らしいのです。舞台そのものを張れるような、実力と日本文化の素養を身に付けた若手が琵琶の世界にぜひ出てきて欲しいものです。

藤山大樹HP http://www.japanesemagic.jp/

田原糸遊び

次の日は私が敬愛する田原順子先生の会「糸遊び」を観てきました。さすが田原門下!自由自在な発想と演奏が縦横無尽に展開されていました。そしてこれだけの個性を束ねる田原先生の器の大きさにも感服。弟子達皆が田原先生の思考や哲学を自分なりに継承していて、観ていて大変可能性を感じました。
これだけ思いっきり個性を爆発させて、展開させているのは、現在琵琶の世界では田原門下が唯一です。他には観たことがありません。田原門下の中から、藤山大樹さんのような本当のプロが今後出て来るかどうかは、判りませんが、この自由な土壌はきっと何かを生み出してゆく事でしょう。

okumura photo6煌めく才能は、現代社会の中にもしっかりとあります。その才能が更に煌めくには、大きな視野が必要です。自分のやっている事だけに興味を持つようなオタク目線では、何事もレベルは上がりません。「那須与一」や「壇ノ浦」のような流派の曲も勿論良いのですが、おさらい会と変わらないのでは、せいぜい関心しかしてくれません。聴衆を虜にするような独創性、そして魅力がなければ!更に世界に通用するレベルが無ければ!

プロとして舞台で琵琶を弾くというのは、日本の文化を弾くという事でもあります。習ったものを得意になって弾いているのはアマチュアでしかないのです。独創性は勿論の事ですが、日本の文化をどう捉えているか、そこが問われます。邦楽の根底には先ず日本の風土があり、仏教があり、文学も歴史も深く関わって邦楽が出来上がっています。短歌を詠んだり、お茶を点てたり、歌舞伎や能を論じたり・・・。それらに関係なく琵琶だけ弾こうとしても、それは洋楽が席巻している現代に於いては、もはや日本の音楽ではないのです。フォーク、ロック、ブルーズが形を変えたに過ぎない。琵琶楽は千年以上の歴史があるのです。自分が興味のある所だけ、見えているところだけを見て、音楽や文化を断片的にしか見ていないようでは、とてもプロの舞台人には成れません。すぐ底が知れてしまう。

藤山大樹

是非大樹さんのような日本の文化を表現できる舞台人が琵琶の世界にも出てきて欲しいですね。煌めく才能を観て聴いて、すがすがしい気持ちで週末を過ごしました。

Soy yo V~川崎さとみフラメンコリサイタル

先日、新宿のエルフラメンコで催された、川崎さとみ芸歴30周年記念リサイタルにて演奏してきました。

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2エルフラメンコは日本におけるフラメンコの中心基地。スペインの一流のダンサーが来日して公演をする唯一の本格的なフラメンコのお店です。ジャズで言えばブルーノート東京みたいな所。ここで樂琵琶を弾いたのは私が初めてかもしれませんね。
いや~~楽しかったですよ。リハーサル時から、メンバーの皆さんとは話もはずみ、且つ色々と勉強になりました。
今回は現代日本のフラメンコ界を代表するトップレベルのメンバーが揃いました。男性のバイラオール(踊り手)が伊集院史朗、カンテ(歌)が川島桂子と石塚隆充、ギターは柴田亮太郎と内藤信、パーカッションに海沼正利、それに私と笛の大浦典子という布陣!私の作曲したSiroccoもダイナミックな展開にアレンジされ、新たな命が宿りました。

1これは楽屋の風景。何しろ皆さん居るだけで楽しい。この自由さは邦楽には無いですね。左からPerの海沼さん、ギターの内藤さん、カンテ(歌)の石塚さん、ギターの柴田さん。私は海沼さん、柴田さんと一緒に演奏しましたが、とにかくご機嫌でした。

kaswasakiプログラムより
そしてこちらが今回の主役、川崎さとみさん。エネルギッシュで頑張り屋の彼女らしい、気持ちの良い舞台でした。
しばらく私自身がフラメンコと離れていたので、川崎さんとはあまり連絡を取っていなかったのですが、今年に入って、バレエの雑賀淑子先生の夏の公演の事で連絡を取り合ったのがきっかけでまたやり取りを始め、今回のリサ
イタルに至りました。縁というものは面白いですね。何かに手繰り寄せられるかのように繋がって行きます。これを「はからい」というのでしょうか。
川崎さんと最初に知り合った頃、私はパコデルシアに憧れフラメンコギターをちょっとかじっていたのですが、それがもうかれこれ25年程前。月日の経つのは早いものですね。
それにしてもフラメンコの自由な雰囲気は楽しいのです。やっている人も聴いている人も、魂が高鳴ります。全体の雰囲気はいい感じでゆるいのですが、こと演奏、そして舞台にはとても厳しい。特にリズムに関しては、大変なこだわりと意識を皆さん持っていますね。
邦楽は全く逆。しきたりや序列にはやたらと厳しいけれど、音楽にはゆるい。実力よりも流派や団体内での力関係優先の人が多いのも邦楽の特徴です。
プロとアマがはっきりとしていて、タブラオと呼ばれる小さなスペースでも真剣勝負で命のほとばしりを舞台で聞かせるフラメンコと、大そうなホールを借りておさらい会と同じ事をやっている邦楽では、聴衆はどちらに魅力を感じでしょうか・・・・。

パコデルシア 4実はフラメンコギターと薩摩琵琶は共通点がとても多いのです。2薩摩琵琶を弾きだした頃すぐにそれを感じましたが、特に演奏技術の面で、右手首の使い方などが大変似ています。また音階も似ているし、崩れの部分の感情の出し方などにも、一つの通奏低音を思わずにはいられません。哀調を帯びた音楽という所でも、繋がりを感じます。それゆえ私には両方を行き来しても
ほとんど違和感が無いのです。今回は樂琵琶でしたので、薩摩琵琶よりも更に音階やリズムに全くストレスが無く、ギタリストの一人のような気持ちで演奏してきました。

フラメンコと邦楽それぞれに深い文化があることは、皆さんよくお判かりだと思います。音楽という具体的な形も勿論ですが、その根底に流れる文化こそ、大事にしていくべきだと思います。フラメンコの演奏家と一緒に居て思うのは、想いの情景がはっきりと見えて来る事です。

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目の前で売れる売れない、という価値観だけでは文化は失われてしまいます。残念なことに、最近の邦楽の演奏を聴いていると、売れるかどうかが最優先で、「秘める」というような日本独自の崇高な表現や文化をほとんど感じません。世の中を見渡しても、同じように想いを秘めて行くような感性がどんどんと無くなってきていると感じます。日本のジプシーよろしく、放浪の琵琶法師を気取って演奏しても、思い入れだけでは伝わりません。外見のはったりや単なるスキルの部分で演奏されるようになったら、もう音楽としてお終いなのです。
どんな演奏でも、その先に何を想い、何を語りたいのか・・。そこがが一番大切なのではないでしょうか。そこに日本の文化が無ければ、いくら琵琶を弾こうが、それは日本音楽ではないのです。逆に何を弾こうと、自分の中にしっかりとした想いと文化を持っていれば、おのずからその姿は新しい日本音楽となって行くでしょう。邦楽はよくよく考えなければいけない時期にあると思います。

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「敦盛」や「那須与一」をやるのは何故なのか、その先に何を語り伝えようとして、それらの曲を演奏するのか。ただお稽古の成果を披露するのなら身内のおさらい会でやれば良い事。お金を取る演奏会でやるのだったら、その先に想いがあり、それが確実に表現されていなければ人は聴いてくれません。お上手を披露しても感心されるだけです。
もう10年以上前、とある著名な音楽家の方に「もう薩摩や筑前の琵琶は、このままいくと歴史資料のようになって消えて行くと思うよ」と言われましたが、今になってみると、私も同じ事を感じます。

4うちあげにて

ほとばしるような想い、魂の煌めき、民族の心・・。今邦楽に一番求められていることをフラメンコから学びました。


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