先日、杉並公会堂大ホールにて、郡司博プロデュースによる公演で演奏してきました。


私が演奏したのは2曲目の郡司敦君の作品。これまで毎年必ず彼の作品の初演に立ち会っているのですが、どんどんクオリティーが上がって来ています。邦楽器の扱いについてはまだまだ考察の余地がある、とは思いますが、この曲はきっと彼の代表作になって行くでしょう。今後に期待が持てますね。
3曲目のカールジェンキンス作曲の「平和への道程」これが凄かった。コソボ紛争を題材とした曲ですが、あの悲惨な戦争をぞっとするほどリアルに描きながら、平和への讃歌を高らかに歌い上げていく作品でした。途中にイスラム教で歌われるアザーンの歌唱も入り、大合唱によるシンプルなメロディーの反復と相まって、平和への希求とその尊さを聴き手にしっかりと届けました。いや~~聴いていて涙が出て来ましたね。
「平和への道程」は皆さんかなり感激された方が多く、多くの意見が寄せられたようです。
宗教や民族、国家等様々なカテゴリーを作り対立してしまう人間。その人間の創り出した社会は、善も悪も立場によって逆転し、もはや人間には判断がつかない。終わる事のない対立、繰り返される戦争がいかに悲惨で、人間にとって無益なのか・・・。
色々な事を考えさせられました。
人間にとって尊きものが何なのか、社会の中で生きる我々は忘れがちです。一つの枠の中に入ると、どうしてもその枠の中での常識や哲学、イデオロギー等々に自分でも意識しない内に縛られて、見えるものも見えなくなってしまう。そしていつしか溢れる情報や物の中で、身を守るために、興味の無いものに価値を見ようとせず、他を卑下し、やがて自らの中に正義という幻想を生み出し、それを正当化するために排他的な民族主義・選民思想という偏狭な眼差しを作り出しているのではないでしょうか。
私は常々キャリアや肩書きを振りかざす音楽人の姿に対し色々と書いていますが、奥伝だの、名取だのを盾に自分は正当であると宣言し、他をこき下に見るような言葉を聞くと心底悲しくなります。精神や文化を担う者が、そんな偏狭な幻想に囚われているようでは、世の中に平和なんてありえない。我々こそがボーダーラインを超え、手を差し伸べて行かなくては!そう思いませんか。
私は琵琶唄でも、斬った張ったという内容のものは唄いません。音楽の先の伝えるものが明確に表現できるのなら、戦いの場面も一つの表現として時には必要でしょう。しかし合戦物をエンタテイメントとして、冒険活劇のように名調子でやっていた結果がこの現状です。私は琵琶楽がそんな浅いものではないと思うし、もっと深い所を語る事が出来るはずだと思っています。いつも書いているように愛を語れない音楽を誰が聴くのでしょう?。リスナーは、声が出ているとか練れているとかそんな技を聴いている訳ではないのです。何を語り、唄い、何処に向かって、何故唄うのか。想いを持って、その先の世界も見据えてはじめて伝わって行くと思っています。お得意技を披露している、お稽古事では何も伝わらないのです。
拳よりは抱擁を、武器よりは楽器を誰もが望んでいるはずです。殺し合うよりは愛し合う方が美しいでしょう。他に汚い言葉を浴びせかけるよりは、笑顔で握手する方が素晴らしいでしょう。誰もが判っていながらそれが出来ない。自分を優位に立たせたい、自分や仲間は選ばれし特別な存在だと思いたい。人間はいつの時代も弱い存在です。
共生という言葉はもう使い古されたような感がありますが、異質なもの同士がお互いを認め、共に生きて行く事をしなければ、また同じ歴史を繰り返すしかない。
「平和への道程」を聴きながら、何故皆が平和を願い、平和に喜びを感じているのに、争いは終わらないのか。今この時代だからこそ考えるべきであり、次の時代を生き抜く感性や哲学が今こそ必要だと思いました。そしてこの曲は今こそ演奏されるべき曲ではないかと思いました。

終演後に、共演の仲間たちと打ち上げをしていて、こうして音楽を創り演奏して人生を全う出来ていることが、本当に喜びなんだと、じみじみと感じられました。皆本当に良い顔をしている、ジャンルも年齢も関係なく、喜びが溢れている。本当に尊き仲間達です。色々な音楽に接し、文化に接し、多くの人と出逢う事はとにかく素晴らしいのです。
私に出来る事は、つまらない冠の付いた音楽ではなく、H氏が残した言葉のように、愛や喜びのある音楽を創り演奏する事だと改めて思いました。





少し前には尺八でも、古典本曲を大胆な独自の解釈で演奏するというのが流行っていました。海神道、横山先生などはその先端を行っていましたね。私はその活動を現代に於ける古典の在り方として高く評価していますが、そういうやり方自体が、明治以前には無い、新しい日本音楽の接し方だとも思っています。
さて、譜面という部分に視線を向けてみましょう。先ず一番最初に判って欲しいのは、音楽はどんなジャンルの物でも紙の上には表せないという歴然たる事実です。譜面は伝えるための手段でしかない。
音楽のようになる、と思い込んでいるところでしょう。これは全くの誤解であり、勉強不足であり、大いなる勘違いです。クラシックでも五線譜に書かれていることを自分で読み取り、そこから自分の音楽を紡ぎ出して、初めて音楽となって鳴り響くのです。この「音楽を紡ぎだす」という大変重要で大切な行為を知らない演奏家には何を言っても判ってもらえません。特にちょっと五線譜が読めると思い込んでいる人に一番この誤解が多いですね。自分の感覚に頼り切って、自分の頭の中だけで完結している人と言っても良いかもしれません。まあ、世の中何事もちょっと知っているが為にものが見えないという事は往々にしてありますが・・・。


こちらは来年のチラシ表。


七変化
煌めく才能は、現代社会の中にもしっかりとあります。その才能が更に煌めくには、大きな視野が必要です。自分のやっている事だけに興味を持つようなオタク目線では、何事もレベルは上がりません。「那須与一」や「壇ノ浦」のような流派の曲も勿論良いのですが、おさらい会と変わらないのでは、せいぜい関心しかしてくれません。聴衆を虜にするような独創性、そして魅力がなければ!更に世界に通用するレベルが無ければ!

エルフラメンコは日本におけるフラメンコの中心基地。スペインの一流のダンサーが来日して公演をする唯一の本格的なフラメンコのお店です。ジャズで言えばブルーノート東京みたいな所。ここで樂琵琶を弾いたのは私が初めてかもしれませんね。
これは楽屋の風景。何しろ皆さん居るだけで楽しい。この自由さは邦楽には無いですね。左からPerの海沼さん、ギターの内藤さん、カンテ(歌)の石塚さん、ギターの柴田さん。私は海沼さん、柴田さんと一緒に演奏しましたが、とにかくご機嫌でした。
実はフラメンコギターと薩摩琵琶は共通点がとても多いのです。
薩摩琵琶を弾きだした頃すぐにそれを感じましたが、特に演奏技術の面で、右手首の使い方などが大変似ています。また音階も似ているし、崩れの部分の感情の出し方などにも、一つの通奏低音を思わずにはいられません。哀調を帯びた音楽という所でも、繋がりを感じます。それゆえ私には両方を行き来しても

