先日、パリオペラ座バレエ「ラ・シルフィード」のLive viewingを観てきました。
創作もののバレエの舞台は随分観ているのに、実は本格的なクラシックをちゃんと観たことが無かったのです。ようやく本場のクラシックバレエを堪能することが出来ました。とにかく美しい。動きも姿もとにかくこの上なく美しい。フランスの美的感覚の原点を見たような想いです。
この方が主役のマチュー・ガニオさん。少女漫画からそのまま飛び出してきたかのようなマスク。手足は私の倍はあるのでないか、と思うような度を超えたパーフェクトな姿でした。妖精役の方はオーレリ・デュポンさん。言う事ないですね。これだけ美男美女が揃うと、もう夢の中の話のようです。
この「ラ・シルフィード」はストーリーも判りやすく、各エトワールの見せ場もたっぷりあって、私のような初心者でもしっかり楽しめる作品でした。これはロマンティックバレエの代表作で、パリオペラ座からこのスタイルが始まったそうです。大変充実した内容で、たっぷりと楽しんで来ました。
私はフランスの芸術作品が若い頃からとても好きでした。これまでこのブログでも色々書いてきましたが、10代の終わりにダダやシュールに興味を持ったことがきっかけで、近代フランスを中心にヨーロッパの芸術を、美術でも音楽でも文学でも、とにかくむさぼるように観て聴いて読んで、浸ってきました。
「ラ・シルフィード」を観て、ヨーロッパ人が思う美しさというものを大いに感じましたが、同時に現代の日本社会についても改めて想いが行き渡りました。ヨーロッパの人もジャポニズムの時代を経て、最近では日本の「美」に興味を持って好んでいる人も増えてきたようですが、それでもやはり日本人の感覚という事でなく、自分たちの感覚で捉えている事と思います。それで当たり前です。しかし私達現代の日本人は少し事情が違います。食事でも文化でも欧米のものを、普通に何の違和感もなく受け入れています。その知識と素養が普段の暮らしの中にすでに在る。それは国民性というよりも、明治以降、日本政府のこれまでの舵取りの為せる技ともいえますね。
古来日本は外のものに憧れ、積極的に取り入れてきました。舶来主義は、奈良平安の時代から
沁み込んでいるともいえます。それは別段悪い事ではないものの、自国の音楽もろくに知らない日本人が多く居るという現在の状態は決して良い事ではありません。異文化の美しさに魅せられ、自分たちの「美」を忘れつつある。これは一つの罠それとも洗脳?
一度ヨーロッパの「美」に触れてしまった以上、それを忘れるわけにはいきません。それだけ素晴らしいものがありますし、私の中にもその欧米の「美」の感性は溢れています。しかしこのまま西洋の「美」の中で生きてゆくことが、日本にとって良い事なのでしょうか?。私はそうは思えません。グローバルな社会になったからこそ、日本の「美」が大切だと思うのです。そこを失ったら、アイデンティティーは崩壊し、日本の社会も崩壊して行くでしょう。
明治以降、特に第二次大戦後、我々は派手で楽しい欧米文化(その中でもアメリカ文化)の中で育てられました。最近ではレディー・ガガの曲を邦楽器でやって話題の人もいるし、琵琶でポップな曲をやる人も居る。それも良いけれど・・・・。私はパリオペラ座のダンサー達のように、誇りを持って世界に向けて、自分たちの文化を発信しようとする意識と志を持ちたい。
今回のクラシックバレエから、前回書いたマーラーの音楽を使った新作のような最先端の創造的舞台まで、古典から前衛に至る現在進行形の文化の姿は本当に素晴らしいと思います。そしてその現在進行形の文化を我々も持っているはずです。私がパリオペラ座を観て感激したように、世界の人が魅力を感じる現在の日本の「美」を今、日本から発信したい。そう思いませんか?
そしてまた、それぞれの国や地域という枠ではない、もっとその奥に通奏低音として流れる人間や地球全体に於ける「美」の存在が必ず在る筈だとも思えてならないのです。日本の「美」と共に、そうした人類の通奏低音としての「美」を私はどれだけ音楽に託してゆけるか判りません。しかしやらずにはいられないでしょう。これだけ素晴らしいものを観て、囲まれていたら・・・。
さあ、舞台を創ろう!!
先日、毎年恒例の琵琶樂人倶楽部SPレコードコンサートでした。琵琶樂人倶楽部もすでに68回目。いい感じです。今回のお題は「女流の時代」。琵琶だけでなく、同時代に活躍した色々なジャンルの女流名人も聞いていただきました。
第一部は水藤錦穣、豊田旭穣、田中旭嶺。実はこの3人、つながりがあるんです。大正時代、筑前琵琶のトップを張っていた豊田旭穣に憧れて、穣の字を自分の芸名に付けたのが水藤錦穣。そして豊田の弟子の田中旭嶺は、当時、足立区に住んでいた水藤錦穣宅に泊まり込んでお互いの技を教え合った間柄とのことです。第一部は縁の深いこの3人の演奏を堪能しました。
第二部は、娘義太夫の豊竹呂昇、小唄の市丸、オペラの喜波貞子、歌謡曲第一号の佐藤千夜子等をかけました。市丸さんの歌はいつ聞いてもいいですね~~。ふと一杯呑りたくなります。オペラの喜波貞子もさすがヨーロッパで活躍しただけあって、現代の一流が霞むような見事な歌唱でした。生の声を聴いてみたかったですね。今回は全て歌の曲でしたが、それはまた「艶」の競演でもありました。
それにしてもクレデンザから聞こえるSPレコードの音は身に迫ります。我々が普段追い求めている「良い音」とは何か?問いかけられます。SPからLPに変わったことで「何かを失い」、更にCDになったことでまた「何か」を失っている。確かに物理的な、数値的な面に於いてノイズは消え、綺麗なリヴァーブがかかり、一聴すると生音に近いような音になりましたが、そこには音楽の大事なものが失なわれているように思えてなりません。
やり直しの効かない一発取りのSPの時代と、やり直しも修正も、何度でもOKなデジタルの時代。カーネギーホールの10列目のエコーが欲しいと思えば、クリック一つでそんな音になってしまう現代は、やはり大事なものを失っていると言わざるを得ないです。如何でしょう?
音楽が時代と共に変化するのは良い事です。人間の暮らしが変化している以上、音楽が変化しないというのはおかしいです。もし雅楽のように変化をしないというのであれば、それは人の営みに沿っていない音楽だと言わざるを得ません。そういう音楽に人々は惹きつけられ魅力を感じてくれるでしょうか。現代の音楽家はもっと真摯に音楽に、そして時代に向き合うべきだと思います。私は100年経っても人を惹きつける、血沸き肉躍る音楽を演奏し、そして聴きたいのです。
SPレコードは昭和37年まで生産されていたそうですが、やり直しの効かないこの時代の演奏は、音楽そのものに立ち向かい、技術を磨き、研究し、自分の明確なスタイルを持って演奏しなければ、到底舞台にかけられるものには
ならなかっただろうし、「お上手」のレベルでは通用しなかったと思います。今のようにライブハウスも無いし、簡単に舞台に立てるなんてことはなかったことでしょう。ましてやレコードを出すなんてことは、ほんの一握りの許された人だけに与えられた機会だったと思います。だから生半可ではとても務まらなかったし、選ばれし者だけがSPレコードの音源として、今残っているのだと思います。今回聞いた面々の演奏はぜひ現代の琵琶人にも聞かせたいですね。水藤、田中の弾法の技術は驚くべきものがあります。現代ではあれだけのレベルの演奏を聴いたことがありません。びっくりしますよ。右上写真 水藤錦穣
市丸
私がSPレコードに惹かれるのは、その「艶」と言ってもいいでしょう。LPもCDも良いのですが、SPが一番「艶」を表現しているように思えます。
歌でも楽器でも「艶」の無い音には魅力を感じません。今回久しぶりに聞いた市丸さんの声はしっとりとした情感でこちらを包むように響いて来ました。
こうした「艶」は師匠に習っただけでは出てこないですね。強弱のつけ方や、弾き方をいくら習ったところで、先生と自分は違う人間。感性も肉体も、生きた時代も違うのですから、そっくりな音を出しているという事は、まだ自分の音楽をやれていないという事です。一人一人声が違うように。楽器の音色も違う事が自然であり、師匠と同じ音色を出しているようなものは、ただの「お上手「お稽古事」。まだ音楽として成立していないとも言えます。
SPレコードには選ばれし者の艶が溢れているのです。
自分の琵琶は、常に最高の状態であるように調整を怠りませんが、これは単に仕事の道具だからというよりも、毎日毎日自分を惹きつける「艶」を湛えた相棒でいて欲しいからです。良い音からは、素晴らしい音楽が流れ出て、曲が生まれて来ます。私のこれまでのCDは其々違う楽器で録音してきました。其々の楽器の持つ「艶」が、私にインスピレーションを与えて、そこから生まれた音楽をCDという形にしていったのです。どれも大切な「艶」っぽい相棒達。手入れも楽しい訳です。
「艶」のある音、魅力ある音楽がもっともっと世の中に溢れてゆくといいですね。
先日、新しくなった歌舞伎座に行ってきました。演目は「狐狸狐狸ばなし」と「棒しばり」。日本伝統の芸をたっぷりと堪能堪能堪能してきました。

歌舞伎は徹頭徹尾、大衆芸能に徹していて、その上芸のレベルがすこぶる高い!私は歌舞伎通でも何でもないですが、今回観た中では七之助さんの躍進ぶりがいいなと思いました。以前「籠釣瓶花街酔醒」を観た時には、玉三郎さんが主役という事もありましたが、まだ線が細いという感じでした。しかし今回は七ノ助さんが主役。「おきわ」の堂々たる姿は良かった。体つきもちょっと変わってきたようで、見事な女っぷりでした。

今後が楽しみですね。そして「棒しばり」では勘九郎さんと三津五郎さんの華やかな舞踊に大満足。どれだけ稽古しているんでしょうね。息がぴたりと合っている。見事としか言いようのない演舞でした。凄いな~~。
こうした芸が確実に江戸時代から途絶えることなく継承されて、しかもどんどん発展し、新作も作られている、その創造と継承がバランスよく保たれている状態が、とにかく素晴らしいですね。スターも数多くいるし、勿論連日お客さんは満杯。これだけお客様に支えられているという事は、幅広い魅力に溢れているという事です。歌舞伎はこれからもどんどんと発展してゆく事でしょう。本当に学ぶべきものが沢山ありました。
甘樫の丘
このところ「過去をしっかりと見つめないことは、未来も見ていないという事に等しい」という言葉がよく聞かれます。私も戦争云々という事だけでなく、長い歴史を持つ日本の軌跡をしっかりと見つめたいと思います。我々はともすると「嫌なことは忘れて、明日に向かって頑張ろう」という事になってしまいがちですが、未来を拓くには過去をしっかりと見つめないといけないと思っています。良い事も、悪いことも、嫌なことも見つめなくてはいけません。以前、チェリストの堤剛さんも「しっかりとした歴史認識が必要だ」と某邦楽雑誌に書いていましたが、これは現代人にとってとても大切なことであり、邦楽人には更に大切な事だと思います。歌舞伎はこの点がしっかりとなされているように見えました。
現在伝統芸能だと思われているものは、いつも書いている薩摩琵琶同様、明治以降に出来上がったものが多いのです。中には昭和、それも戦後から始まったものも少なくありません。新しいものは大歓迎ですが、少なくとも演者は、はっきりと何時作られたものか明示して舞台にかけるべきでしょう。個人の想いは別として、この辺りをあやふやにして、古典のようなふりをしていては、聴衆に対し申し訳ない。余計な衣を付けて誇大宣伝しても、内容が全てを語っています。聴衆をなめてはいけない。過去にも現在にも未来にも、しっかりと眼差しを向けていたいものです。
歌舞伎を観ていると、過去を受け継ごうという古典への眼差しと共に、貪欲なまでに現代の色々なものを取り込み、新たな舞台を生み出そうという意欲、視野の広さ、器の大きさ、つまり現代と未来へのパワフルなまでの眼差しを感じます。「これでなくては」「これは違う」などという村社会じみた視野の狭さが無い。この辺が現代人にもしっかりと支持されている所以ではないでしょうか。
そして琵琶と歌舞伎の一番の違いは、食べて行けるかどうかという事かもしれません。素晴らしい芸を身につければ、ちゃんと食べてゆけるようなシステム作りを琵琶界・邦楽界は怠ってしまった。食べていけるのなら、人生をかけて芸を磨こうという人達も出て来るし、安心して打ち込める。関わっている人に誇りも生まれる。だからこそ確実な伝承がなされ、新しい創作も盛んになり、レベルも上がり、聴衆もついて来る。
実際に、歌舞伎や長唄には若手の男性がどんどん入ってきています。裏方だろうが、脇役だろうが、囃子だろうが、皆がそれなりにその道で生計を立てている。素晴らしい事ですね。琵琶とは全く状況が違うのです。
働く必要のない人が好きなようにやっているような音楽が衰退するのは、誰が見ても明らかでしょう。魅力に溢れ、命ある音楽・舞台を作るには、芸だけを見ているオタクの視点ではどうにもならないのです。舞台のスタートラインにすら立てない。技術は勿論、時代を見抜く感性、収入やそれを得るためのシステムも大事なのです。
歌舞伎の舞台からは多くの想いが広がりました。
この間書いた、「美と罠」の記事は色々と反応があり、とても良い話を聞けました。皆さん芸術に対する想いの深い方ばかりで嬉しいですね。いつでもみんなが集まって、語り合えるれるサロンみたいな場所がぜひ欲しいですね。
映画「ベニスに死す」ご存知でしょうか。老作曲家アッシェンバッハが美少年タッジオに想いを寄せ、最後は狂気の世界を彷徨い死に至る、凄まじくも美しい映画でした。トマスマンの原作では作家でしたが、監督のヴィスコンティは主人公をマーラーのような人物として置き換えて(風貌がそっくりで同性愛者でもあり、実際にベニスで客死したディアギレフという説もある)、マーラーと親交のあったシェーンベルクと思しき人物(アルフレッド)も登場させて、二人で美学論争する場面も出てきます。映画については色々な評論があると思いますが、徹底的に美というものについて描き、美の持っている側面とその狂気、そして罠をまざまざと表した作品でした。
アッシェンバッハの姿は、外側から見れば、気がふれた孤独な男のように見えるかもしれませんが、美を求め、美の虜になってしまった人間にとっては、恍惚の中を彷徨い、身を捧げ、醜い姿に変り果て死に向かいながらも、美の放つまばゆい光に包まれている至福の時なのでしょう。まさに美の罠であり、逃れられない魅力と言えましょう。
ちなみにあの映画でバックに流れていたのが、マーラーの作品。交響曲第5番のアダージェットは印象的でした。この曲を聴くと、確かに途端に全身が現世を離れて行きそうな感覚に襲われます。官能と熱情、劣情、越境、陶酔、破滅・・・。その先の世界の妖しい魅力に獲りつかれて、なかなか現世に戻ってこれません。全てを捨てて、美に身も心も捧げ、現世を超えて異界へと歩みを進めることは、私にとって一つの理想、究極の至福でもあります。
クリムトや、エゴンシーレ、ベックリンの絵などもそうですが、美の裏側には狂気があり、醜もあるものです。これがただ表面の美しいだけのものだったら、私たちに直接訴えかけてはきません。何故ならば、この世を生きる私たちは皆、美を望みながらも、醜の部分を抱え、憎しみを感じ、狂気をはらみ、死と共に生きているのですから・・。
これらはエロス(生の本能)とタナトス(死へと向かう本能)と言っても良いかもしれませんが、人間はエロスとタナトスを切り離しては存在する事が出来ない以上、人間の究極を描く美の世界には不可欠なのです。だから皆人々に長く愛されるものには、源氏物語や平家物語のようにエロスとタナトスを色濃くはらんでいるものが多いのです。
どういうものがあっても良いし、その時代にあったという事は何かしら求められたからだと思いますが、一時期の琵琶唄のように、いくら武士道だの何だのと云っても、愛を語れない音楽はやはり弱い。イデオロギーを振りかざしても、大層な哲学を歌っても、愛の無い所に人間は存在しないし、愛を語れない音楽に魅力を感じろと言われても、それは難しい。明治以降に成立した薩摩や筑前が古典となって行くためには、エロスもタナトスも愛も内包し語ってゆけるかどうか、その辺が鍵ですね。

平家物語をお稽古した通り、きっちりと出来たからといって、魅力が出る訳でも何でもないのは皆様よくお判りかと思います。そこに描かれるドラマにどれだけの美を感じているか。死も憎しみも、狂気をも含む美を何処に見ているのか、その曲の何を持って美を描こうとしているのか、そういう視線や意識、感性が無ければ、いくら歌が旨くても、琵琶が上手に弾けても、肩書き並べて偉い偉いと飾りたてても、人の心には届かない。
死するからこそ、永遠の美少年として記憶される敦盛。一夜の契りを胸に秘め、孤独に生きようとする千手etc.・・・・。そして権力闘争をやめることのない人間の醜悪な姿。それらを描きながら、「波の下にも都の候ぞ」と言いつつ入水してゆく二位の尼と安徳天皇の姿は、ただの哀れでしょうか。それだけではなく、私には平家が築こうとした永遠の理想郷=美の世界へ、死と共に進んで行こうとする、狂気の姿の象徴のようにも思えます。
こういう美の世界は、仏教に於いては個人的なエゴであり、二乗といわれる声聞縁覚の徒でしかないと切り捨てられそうですが、この赤き血の通う身の内に、美とその狂気を持たずして何を語る事が出来るのか。美に身も心も捧げられぬ人間が、何を語るのか!美の罠にはまることを厭わない、肉体を超えた熱狂なくして、どうして音楽が流れ出るのか!「音楽は祈りと叫びである」のです。


「ベニスに死す」のラストシーン、海で太陽を指さすタッジオは、美しさや若さ、永遠という象徴の如くに見えますが、そのタッジオを見つめながら息絶えるアッシェンバッハには、老いと終末のイメージが見えます。その対比は惨い。しかし醜い姿となって息絶えた老作曲家の心は、どうだったのでしょうか。その心には美が満ち溢れ、至福の光に包まれていたのだと、私には思えてなりません。美こそは心の中で見るものなのですから・・・。
パリオペラ座Live viewingバレエ「マーラー第3番」を観てきました。振付はジョン・ノイマイヤー。かなり見ごたえのある充実した作品でした。
私は琵琶で活動を始めてから、毎年ダンスの舞台になぜか縁があり、お仕事させてもらっています。今月もバレエの雑賀淑子先生、日舞の花柳面先生と御一緒する公演を控えているのですが、海外の本格的なバレエ公演はあまり見たことが無かったので、今回は期待していきました。
見ていて、人間とはかくも美しいものか、という想いが湧きあがってきました。パリオペラ座のエトワール(プリマ・バレリーナ)が総出演ですから、勿論なのですが、出演者全員の体が、それはそれは見事な肉体で、その体が滑らかで、淀みなく線を描くように動くのです。男性女性ともその姿に美を感じずにはいられませんでしたね。今思い返しても本当に夢の中に居るようでした。
バレエは元々フランスが発祥だったそうで、それがロシアにクラシックスタイルのお株を取られて、今ではフランスはモダンに活路を見出しているという状況だそうですが、かえってそれが良い形になったのではないかと思いました。
ジョン・ノイマイヤーの振り付けは、従来のバレエを土台にしてはいるけれど、保守に陥らず、挑戦的。斬新さも随所にあり、群舞もとても新鮮で、そこに見える世界、感じる情景にこちらの頭の中が包まれて行きました。セットは何もなしで、演出はただ照明だけです。ハイレベルという所を突き抜けて、「感じさせる」「魅せる」「惹きつける」舞台でしたね。
マーラーの交響曲は色々なモチーフが次々に現れては消えてゆく、正に混沌がそのまま音になったような音楽で、人によっては夢の世界の具現化という人もいる位ですので、追っかけて聴いていると訳わからなくなってくるのですが、バレエと一緒だと違和感なく入ってくるのが不思議でした。作曲をやる者としては、音楽の複雑な構成や理論面に興味が行ってしまうものですが、もっと全体を風のように感じ、夢の中に身をゆだねるようにして聴けば、マーラーの音楽もこちらに響いてくるのかもしれません。バレエを見ながら、マーラーの音楽に対する認識も変わりました。
一流の舞台は本当に観ていて幸せになります。同時に、その美の世界に獲りつかれ、現実を超えようとしている自分に気づく瞬間でもあります。

私がダンスと一緒にやる時、いつも気を付けるのは「共演をしているか」という事です。単なる伴奏では舞台の魅力は出てきません。主従の関係になってしまうと生演奏をする意味が無くなってしまいます。私は手妻でもダンスでも、全て私自身が作曲しますので、作品としては確かに自分のものですが、自分の発想の範囲でしかその音楽が鳴らないのは完全な失敗です。私が作った曲が、私の発想を大きく上回り、新しい命となって鳴り響かなければ、共演する意味は無いでしょう。音楽と踊りが常に寄り添いあいながら、このコンビネーションでなければ立ち現れることが出来ない、その瞬間の美と姿が舞台に無くてはならないのです。そこに美しさがあるか。個という存在の時には見えなかった、触発された美がそこにあるのか。私にはそこが重要なのです。
日常や現実を「超えた」夢のような美の世界を実現させるためには、先ずは圧倒的な技量が必要です。技量の支えが無ければ具現化が出来ません。自分の発想を超えるような世界の具現化には、生半可な技量では太刀打ちできないのです。
テクニックは表現の為にある一つの要素ですので、表現する世界、それを支える感性、哲学があってはじめて音となります。それらが無ければテクニックや知識は感性を妨げ、逆にマイナスに働くことが多いです。だから芸術家は、自分の世界を明確に具体化するために、日々感性も技量も磨き、求め続け、共演する人とはお互いの世界をぶつけあって、それが粉々に砕け散っても尚、再構築して投げ込んでゆく程に切磋琢磨しているのです。決して小さな所に閉じこもっていない。そうやって舞台は作られてゆくのです。
そして舞台に美が生まれるのです。芸術家は美に獲りつかれている位でなければ、舞台で自分の描く世界の具現化は出来ません。ノイマイヤーの振り付けも、美に人生を捧げ、マーラーに相対したからこそ、あれだけのものが出来上がったと思います。もしマーラーの音楽に合わせて振付していたら、あの美は実現しなかったでしょう。美は、確かに夢の世界のようではありますが、その裏側には麻薬のようなあやうさ、妖しさもあるものです。良いか悪いか私には判りませんが、美に獲りつかれ、壁を越えて異界へと足を踏み入れて、現実社会から逸脱してしまった人々に、私は何か憧れのようなものを感じ、そして愛おしく思います。
ボーダーを超えた美の世界は、その妖しさと毒性ゆえに観ているものを魅了するのでしょう。これについてはまた書くことにしましょう。
「夢は狂気をはらむ。その毒もかくしてはならない。美しすぎるものへの憧れは、人生の罠でもある。美に傾く代償は少なくない」宮崎駿
皆さんも美の放つ罠にはまってみませんか。