先月末と先週、続けて和歌山に行ってきました。先月は和歌山が地元の尺八奏者 田中黎山君のリサイタル。田中君と若手の筝奏者 中島裕康君と私と合わせて三人で演奏してきました。
演奏会は、和歌浦という万葉集にも出て来る、古い歴史を持つ場所にあるアートキューブホールでの演奏でした。海がすぐ目の前で、東照宮、玉津島神社が隣という、奈良時代の文献にもみられる名勝の地域でしたが、場所の持つ雰囲気や力というものが、演奏会にいい感じで働いていたように思います。私も何だか、穏やか~な気分に浸ってしまいました。
演奏会では私の作品を何曲かやってもらいましたが、田中君、中島君共に熱演でした。特に田中君は地元での初の本格的な演奏会でもあり、地元の仲間の熱い応援もあって、気合の入った演奏を聞かせてくれました。筝の中島君には、曲についてのレクチャーを何度もやって、曲に描かれている内容を事細かく説明したのですが、彼なりにしっかりと考え、新鮮な感じで演奏してくれました。響きの良いホールであった事もあり、演奏は全体に流れといいクォリティーといい大変良かったと思います。またお客様の反応も素晴らしく、演奏していて、ひしひしと伝わってきました。
邦楽というと、老成した魅力ばかりに比重が置かれてしまいがちですが、若さが持つ新鮮な感性も素晴らしいのです。私の作品も、彼らの手にかかると実に新鮮に響きだし、発想がどんどんと飛び出してきます。この自由で品性の高い感覚は、限られたレベルの高い若者しか持ちえないものですね。邦楽は、若さを大事にする環境をおざなりにしてしまったから、勢いを失ったのかもしれません。若い才能を生かし、そして導く。邦楽の未来は、ポップスでエンタテイメントをやる事よりも、こういう若者への眼差しを持つ事の方が先決ではないでしょうか。田中君、中島君にはこれからに大いに期待したいですね。
実はこの公演の実現するずっと前に、先日亡くなったH氏を田中君を引き合わせたことがありました。その際H氏は「地元の和歌山を大事にした方が良い」と田中君にアドヴァイスをし、その一言がずっと田中君の心に響いていて、その一言がきっかけで、今回のリサイタルを企画・実現したとのこと。縁というものは素晴らしいですね。こうして縁がつながって行き、想いもまたつながって行くのですね。
そして先週は、ホール隣の玉津島神社での奉納演奏をやりました。実は日本書紀の中の和歌を研究している佐藤溯芳さんと数か月前よりやり取りをしていまして、その研究成果を私の唄でやって欲しいということで、今回の演奏が実現しました。
当時、和歌を声に出すという事がいかに大事な事であったのか。それこそが音魂・言霊という事だったのではないだろうか、という部分に想いを巡らせながら取り組んでみました。
奉納演奏の風景
玉津島神社は、藤原定家をはじめ、和歌の上達を願う人が平安時代より祈願に訪れる神社として大変有名な所です。ここは衣通姫を祭ってある所でもありますので、今回は衣通姫の和歌を唄ってきました。衣通姫は、衣を通してその美しさが透けて見えるとまで言われた方で、允恭天皇との和歌のやり取りが有名です。
曲の感じとしては朗詠や催馬楽なのですが、現在では使われていない母音をどのようにすれば良いのか、まだまだ私自身がしっかりつかんでおりません。鼻濁音をはじめ鼻にかけるような発音がカギのようです。今回の演奏は全然完成型ではないので、また機会がありましたら、チャレンジしてみたいと思います。
地方公演も色々とやっていますが、毎回思うのは、地方の自然の豊かさです。震災以降、便利な生活を見直そうという機運は全国的に高いようですが、こと都会に於いては、全く見直そうという人を見かけません。もう原発事故の事も喉元過ぎて、何も変わらず、日々に流されているような暮らしが、果たして正常なのでしょうか。私は豊かな自然に囲まれていると、都会生活の歪みが気になって仕方がないのです。
蒲公英工房からの風景
この他今回の和歌山ツアーでは、子どもの寺 童楽寺や、海南市の山の中にある蒲公英工房での集い等、まだまだいっぱい楽しい事がありました。
日本は素晴らしい国ですね。
先日のH氏急逝はかなりショックな出来事ではありましたが、やっと少しづつ普段のペースに戻りつつあります。実はここ一週間で3回も本番があったのですが、H氏に背中を押されているようで、しっかり演奏が出来ました。それに私の周りには本当に素晴らしい仲間達が沢山居て、そんな仲間たちと会ったり話をしたりすることで随分と気分が軽くなりました。人生色々なことがあるんですね。今回は仲間のありがたみを身に沁みて感じました。人間はやっぱり触れ合い、語り合ってこそ生きて行けるのですね。H氏に「今頃判ったか!」と言われているようです。
氏からは色々な事を教わりましたが、一番受け継ぐべきはやはり心ですね。物でも地位でも知識でもないです。H氏の物事を深く見つめてゆく、その眼差しは私を常に導いてくれましたが、それは今一番大きな財産として私の中に受け継がせてもらってます。
H氏がよく弾いていた琵琶
とにかくやっと気持ちが落ち着いてみると、H氏が亡くなったことで、改めて気付かせられた事、もたらされた事が沢山ありました。また、それまで会った事はあっても、あまり交流のなかったH氏のお弟子さんやお仲間と、今回色々とやり取りをさせて頂きましたが、まるでH氏が自分の代わりとして、その方々に縁をつないでくれたかのようです。その中のお一人から素敵なメッセージを頂きました。
「誰かが亡くなるということは、
その人からのギフトがやってくる、ということでもあったりします。 それは、その方が持っていた素晴らしいエッセンスが自分に統合される時です。それを生かしていくことがその方への供養になると思いませんか?」
私は確かにH氏からギフトを受け取りました。それを今後どう受け継いでゆけるか、私の器にかかっていると思いますが、何しろ私なりに、そのギフトを生かしてゆきたいと思います。
昨日は定例の琵琶樂人倶楽部でした。永田錦心の特集をしたのですが、私はやはり永田錦心から、その精神を受け継がせてもらったと思っています。永田錦心は弾かれたレールの上には乗らなかったし、技で勝負しようとしたいわゆる「名人」とは全く次元が違う所で活動しました。あくまで独自のセンスで時代を切り開き、自分でレールを引き、その類まれなセンスで時代をリードしました。だから肩書きや権威を誇示し、組織や体制の中で虚勢を張っている音楽家を、永田錦心は徹底的に嫌いました。余計な衣は要らない。純粋に何処までも音楽で表現するもの、という永田錦心の潔癖な芸術的精神を、私はこれからも大事にしたいと思います。永田錦心の志と活動は永遠に語り継がれる事と思いますが、それこそが永田錦心からのギフトだと私は思っています。
H氏も「技はもういい、上手なのは判ってるよ。そんなことをひけらかしても意味はない」とよく言っていました。そして、ちょっと気恥ずかしい言葉ではありますが、逢う度に「愛を語り、届ける人であってほしい」と常に何度も何度も私に向かって言っていたのを想い出します。
私はH氏から確かにギフトを受け取りました。それを今後の人生で生かしてゆくことが使命だと思います。しかしそのギフトを次の世代に受け渡してゆくことも、また大きな使命として私に与えられたのだと思うのです。
私の良きアドヴァイザーだったH氏が亡くなりました。ちょっと突然でしたので、心の整理がつかぬまま、先週末お通夜に行ってきました。
この琵琶は、氏が我家に来ると必ずお気に入りで弾いていた琵琶です。私が普段弾いているものよりちょっと小ぶりで、小柄な氏にはちょうど良かったようです。これからは私が弾いてあげようと思っています。H氏は私の樂琵琶のCDを最初に、熱狂的に支持してくれた人でした。演奏会にも何度となく駆けつけてくれて、時に厳しい意見も頂いたりしました。最後に聴いてくれたのは、先月9.11のイベントの演奏だったと思います。
樂琵琶をもっと弾くように勧めてくれたのは、正にH氏であり、琵琶で何を伝えるべきなのかを考えさせられ、そして行くべき道を示してくれた人でもあります。今の私のスタイルはH氏とのご縁があればこそだと思えてならないのです。
プライベートなことはほとんど話をしなかったので、氏がどんな状況にあったのか、私には全く見当がつかないまま、あまりにも急に、今生に私だけが残されてしまいました。
H氏といつも話していたのは、精神世界の話でした。私の知らない事をよく知っていて、チベット仏教、密教などに詳しく、上座部仏教の事を教えてくれたのもH氏でした。知識は勿論ですが、何よりも自分を見つめるという事の大切さを、とくとくと教えてもらったことが今私の財産になっています。
私は世間的に見れば、のんびり生きているような部類の人間かもしれませんが、それでも日々葛藤があり、失敗があり、迷い悩み…程度はどうあれ色々と世間の人並みに俗世の荒波の中に居ます。氏と出会うまでは、そういった日々沸き起こる感情・事象に振り回されてしまう事が多かったのですが、何年かお付き合いを頂いてからは、
潜在意識の存在や、身の回りに起こる事の本質的な意味、日々の感情がどこから来て、どんな意味を持っているのか、そういう心の深層の部分を見つめる事を教えてもらいました。心の中を一つ一つ解きほぐしていくような会話に癒されましたね。私にとってはある意味導師のような方でした。氏とお付き合い頂いたここ数年は、私にとって精神面で大きな変化があり、与えられるべくして与えられたな時期でもあったと思っています。その時期に出逢い、縁を頂き、導かれたというのは、正に運命なのでしょうね。
自分らしく、自分なりに生きる。それは誰にも約束されている事です。しかしなかなかその道を見出すのは難しい。それには自分の人生を大きな視野で深く見つめて、行くべき道を、行くべき姿を自らの手でつかんで行かなくてはいけない。生きるとはそういう事なのだと、今、自分に語りかけられているようでなりません。
もう私のような年になれば、死に向かって生きていると言っても過言ではないでしょう。亡くなる時期というのも、その人に与えられた一つの運命なのかもしれません。氏にとっては今がその時期だったのでしょう。
氏の人生を私が判る筈もないですが、きっと自分の使命を全うし、運命を受け入れ、行くべき時に旅立って行ったのだと思っています。私はまだ今生で生きる縁があり、使命があるようです。それを果たすまではもう少し、自分の行くべき道を歩まねばなりません。
お通夜の日は朝から一日中霧雨のような雨が降り、止む気配はなく、そのまま氏を悼むように静かに、とても静かに音も無く真夜中迄降り続いていました。
「止まぬ雨はない」とはよく言われることですが、正直な所、悲しみは時間が癒しても、心の中に突然空いてしまったこの空虚な感覚は、未だ埋める事が出来ません。私の中では、まだしばらくは静かな雨が降り続く事でしょう。しかし私も私の人生をしっかりと歩んで行かなくてはいけません。氏の、からりと晴れた空のようなさわやかな眼差しと、共に語り合った想い出は、ずっとこれからの私の今生の人生を照らしてくれることと思います。短い間でしたが、本当に充実した時間を頂き、ただただ感謝の気持ちが募るばかりです。
来世ではどこかでまた出会う事もあるでしょう。やすらかに・・・・・。
先日、Met Live viewingのアンコール上映で、「アイーダ」を観てきました。
アイーダはグランドオペラの代表として有名ですが、結構な長さでもあるので、なかなかっゆっくりと見ている時間も取れず、昨年の上映時はパスしていたのです。しかしMet作品の番宣の中で、アイーダ役のリュドミラ・モナスティルスカを観て、その声にびっくりしてしまいました。これは絶対に観逃す訳にはいかない、という訳で何とかスケジュールを合わせて行ってまいりました。
こちらがそのモナスティルスカ。ウクライナ出身で、まだ英語のインタビューも通訳付きでないとこなせないほどの新人ですが、もう声がベテラン並に練りあがっている。そして技術が飛び抜けて素晴らしい。PPPからFFへと滑らかに変化するあの技術は半端ではない!。Metは新人だろうとなんだろうと実力さえあれば、どんどん主役に抜擢するのが良い所です。ベテランだってレベルが落ちればすぐに外されるという徹底した実力社会。
実力よりも、業界内の人脈やキャリア、コネクションで決まって行くような某国とは全くセンスが違うのです。その競争の中で主役を勝ち取ってきた新人も皆、大変素晴らしいのですが、当然ベテランだって負けてはいない。さすがの実力を魅せつけてくれます。だから新人はいくら飛び抜けて素晴らしい技術やセンスを持っていても、やはり新人だなと思う事が多々あるのです。しかしこのモナスティルスカはベテランを凌駕するような声質と技術をすでに持っている。これには驚きました。彼女の才能と実力を応援する良いマネージャーやプロデューサーが付いたら、世界に名のとどろくような存在になるかも知れません。
やはり世界が舞台、という事はこういう人材が出て来るという事なのですね。邦楽界でもいい感じの若手は少し居るのですが、残念ながらモナスティルスカのようなレベルの人は・・・・・?宮城道雄や永田錦心、沢井忠夫のようなずば抜けた才能はもう難しいのでしょうか・・・。
このアイーダでは、もう一人ちょっと惹かれた歌い手が居ました。
アイーダのお父さん役のジョージ・ギャグニッザというバリトンの方。初めて聞く方ですが、声が大変充実していて、姿にも存在感がある。ホヴォロストフスキーのような二枚目タイプではなく、ちょっとこわもてな感じが役にぴったりでした。こういう深い声にはしびれますね。
もう一人アイーダの恋敵を演じる怖い感じのアムネリス役にはオルガ・ボロディナ。勿論歌唱はベテランらしくゆるぎない素晴らしいものでしたが、インタビューで大変参考になることを言っていました。
ボロディナはこの役を30回ほどやっているそうで、オペラに於いて、自分の声に合った役を常に見極めて努めているとの事。つまりは自分が歌うべきものは何か。そういう事をいつも考えているという事です。これはとても大事なことだと思いました。私も常に自分が歌うべき曲を作曲し、唄っていますが、結局自分が唄うべきと思わないと唄えないのです。声質や音域は勿論の事、自分の感性に合うものでないと、とても舞台にかけられない。ボロディナの言葉は実によく納得できました。
一つのフレーズを弾くにも、その背景にある歴史や宗教観、そして心情等々自分なりにどんどんと勉強して、あらゆる角度からアプローチしてみる。そこが無いと、自分の音楽を創って行くことが出来ません。先生の模写ばかりしていても創造性は育まれない。師匠と弟子は違う人間なのですから、違う解釈をして当然なのです。
流派のやり方も継承すべきだと思いますが、流派とは、いわば匂いのようなもの。何を弾いても、ただ座っていても、その佇まいに流派特有の匂いが漂ってこそ、流派の心を会得したと言えるのではないでしょうか。少なくとも上っ面で流派のフレーズをなぞり弾くことではないでしょう。
音を出す前に曲について先ず考える、勉強する。それから音を出して、更にまた考えて勉強して、何度も何度も行きつ戻りつしながら練り直す。師匠はその時々でアドヴァイスを与え、見守り、時間をかけて弟子の持つ感性に基づいた音楽を創って行けるように導く。師匠はそういう勉強の仕方を教え、師匠の大きな目に包まれながら、弟子は創造性を持った一人前の音楽家になって行くのだと私は思っています。
私は教室の看板を挙げていないのですが、優れた音楽家を見ると、その師匠の事が気になります。モナスティルスカは、インタビューで師匠に対し、大変な尊敬と感謝を述べていましたが、さぞかし師匠は優れた指導をしたのでしょうね。上手に歌えるように指導するだけでは、ああは歌えない。多少の技術があっても何も表現は出来ない。表現してゆくことと上手に歌えることは、全く次元の違う話なのです。まだ若い彼女に対し、考え、勉強する道筋を示し、自分のスタイルを確立してゆく事の大切さを教えてあげたのだと思います。
何よりも音楽を創って行ける人材が育ってほしい。舞台に立った以上は芸術家として、自分の音楽を全うする。肩書きキャリア、そういったものは舞台には全く無用です。あくまで一芸術家として掛け値なく堂々と自分の音楽を響かせる。これは芸術の分野ではごく当たり前の事です。私も後進を教える限りは、生徒達が音楽家として、自身の音楽を響かすことが出来るように導いてあげたいと思います。
またまたオペラから色々な想いが広がって行きました。

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久しぶりに黛敏郎作曲の「Bugaku」を聴きました。
凄い。やっぱり凄い。今までにも黛作品は聴いていましたが、改めて聞くと、自分がいかに影響を受けてきたかびしびしと身に刺さるように判ります。武満徹も、黛の後姿を見て独自の世界を作って行ったことを思えば、武満作品を聴いてきた私が、黛作品に心酔しない訳が無いのです。
この曲はバレエ音楽であり、ニューヨーク・シティ・バレエの委嘱によるもの。題名の通り、雅楽の一種、舞楽を徹底的に研究して作られた作品で、ストラヴィンスキーの「春の祭典」を意識した作品ではないかとも言われていますが、その他にも色々な作曲家の要素や手法を感じます。しかしただの物まねやアイデアを借りただけではなく、完璧なまでに黛ワールドが出来上がっている事に、すっかりやられてしまうのです。
黛氏はヴァレーズの提唱した「トーンプレロム」に啓発されたとされます。プレロムとは「そそりたつもの、あるいは植物の柔組織の芯」の事。つまり強くしなやかな芯を持った響き、荘厳さと力に溢れた響き。このプレロマスな逞しい響きこそが黛敏郎の音楽であるといえるでしょう。
これはそのまま私が薩摩琵琶に求めた世界です。今まで黛作品は幾度となく聞いてきたのに、その共通項にはこれまで気付きませんでした。今頃になって、やっと聞こえてきた・・・。この「プレロマス」は私の性格や人間性が求めたということだけでなく、多分に黛作品はじめ、多感な時期に聴いてきたものに影響されて培われてきた感性だと思います。
圧倒的な一音。これを出すために私はギターから薩摩琵琶に持ち替えました。そして従来の薩摩琵琶では飽き足らず、自分の思う音を出すために自分専用のモデルを作ったのです。その理念を具現化したのが私の代表作「まろばし」です。もうあの曲を作ってから10数年が経ちました。確かに年齢と共に私の中も変わってきているし、「まろばし」の意味も深まってきました。けれどあの曲は私の「プレロマス」であり、基本なのです。
私が黛作品に惹かれるのもう一つの点は、その作品の中に色々な要素が入っているところ。彼は、師である橋本國彦氏同様、映画音楽からジャズ、ラテンに至るまで多様な音楽分野で仕事をしていて、学生時代には学費を稼ぐ為にジャズバンドでピアノも弾いていました。この辺が私にとってピンと来るところです。だから様々な表現のヴァリエーションがあるのです。そして更に私が惹かれる所は、彼の民族性への視線です。こういう部分も琵琶を選んだ私にぴったり来ます。
私という存在が今ここに居るのは、この風土に於いて、命の連鎖が一度も途切れることなく綿々と続いて来たからです。そしてその歴史と時間が育んだものは人間だけでなく、音楽や文化も同様。今私が琵琶を手にしているのも、ずっと奈良平安の昔から、日本に於いて琵琶楽が途切れることなく継承されてきたからこそなのです。だからそうした歴史を見ずして私は音楽をやることが出来ない。
きっと黛氏もそうだったのではないかと思います。
どんな国の人でも、その人の生まれ育った風土、その文化と歴史の奥深さや偉大さを感じ、誇りを持っていることでしょう。偉大な風土と文化、そこから生み出された素晴らしい音楽の前にして、肩書きぶら下げ、看板掲げて、自分を誇示しても、それはただの勘違いでしかない。畏敬の眼差しを持っている人なら誰もが判っている事です。
私には黛氏のような右傾化には行きようが無いですが、ただ純粋にこの風土の育んだ音楽・文化に敬意と誇りを持っています。当然歴史にも純粋・冷静な目を持って見ています。そして黛氏の日本の風土と文化、歴史への眼差しから紡ぎだされる音楽は、私を惹きつけてやまないのです。
私は繊細な響きにも惹かれます。しかし私の求める繊細は、決して弱々しいものではなく、静寂・精緻な音の事。たとえ表面が淡い
かすかなものに見えても、その裏側には、存在そのものの、ゆるぎない姿と意思がある、つまりいつも私が言うところの「一音成仏」という事です。繊細というより、静寂という言い方の方が良いでしょうか・・・。
静寂さを持ちながら且つゆるぎない存在感を持って響く音楽、それが私の求める音楽=プレロマスだという事を、「BUGAKU」を聴いて改めて思い至ったのです。そして自分と共通するものも沢山感じました。勿論全てではないし、そのスケールの大きさは、私などとは及ぶべくもないですが、自分の方向を改めて示された感じがしました。
黛氏の音楽を「もう古い」「今の感性ではない」「右よりな思考が駄目」などという人も居ます。確かに今とは社会情勢も違うので、社会と共にあり続ける音楽としては相容れない部分もあるでしょう。しかし和楽器でポップスやって、場を賑やかしているのが「現代っぽい」で良いのでしょうか。日本文化の核として継承されるべき哲学、感性を、形を変えながら受け継いでゆくのが、現代に生きる私たちがやるべき事ではないのではないでしょうか。過去に三島由紀夫が叫んでいたように、「無機的な、からっぽな、ニュートラルな、中間色の、富裕な、抜け目がない、或る経済的大国」が、もう現実に目の前に出現しているのです。現代では経済すら危うい。私たちはこういう状態の中に居るのです。
様々な問題を抱えた現代の日本。この今だからこそ、黛作品にもう一度目を向けてみるのは大切な事ではないかと私は深く深く思うのです。