先日、Met Live viewingのアンコール上映で、「アイーダ」を観てきました。
アイーダはグランドオペラの代表として有名ですが、結構な長さでもあるので、なかなかっゆっくりと見ている時間も取れず、昨年の上映時はパスしていたのです。しかしMet作品の番宣の中で、アイーダ役のリュドミラ・モナスティルスカを観て、その声にびっくりしてしまいました。これは絶対に観逃す訳にはいかない、という訳で何とかスケジュールを合わせて行ってまいりました。
こちらがそのモナスティルスカ。ウクライナ出身で、まだ英語のインタビューも通訳付きでないとこなせないほどの新人ですが、もう声がベテラン並に練りあがっている。そして技術が飛び抜けて素晴らしい。PPPからFFへと滑らかに変化するあの技術は半端ではない!。Metは新人だろうとなんだろうと実力さえあれば、どんどん主役に抜擢するのが良い所です。ベテランだってレベルが落ちればすぐに外されるという徹底した実力社会。
実力よりも、業界内の人脈やキャリア、コネクションで決まって行くような某国とは全くセンスが違うのです。その競争の中で主役を勝ち取ってきた新人も皆、大変素晴らしいのですが、当然ベテランだって負けてはいない。さすがの実力を魅せつけてくれます。だから新人はいくら飛び抜けて素晴らしい技術やセンスを持っていても、やはり新人だなと思う事が多々あるのです。しかしこのモナスティルスカはベテランを凌駕するような声質と技術をすでに持っている。これには驚きました。彼女の才能と実力を応援する良いマネージャーやプロデューサーが付いたら、世界に名のとどろくような存在になるかも知れません。
やはり世界が舞台、という事はこういう人材が出て来るという事なのですね。邦楽界でもいい感じの若手は少し居るのですが、残念ながらモナスティルスカのようなレベルの人は・・・・・?宮城道雄や永田錦心、沢井忠夫のようなずば抜けた才能はもう難しいのでしょうか・・・。
このアイーダでは、もう一人ちょっと惹かれた歌い手が居ました。
アイーダのお父さん役のジョージ・ギャグニッザというバリトンの方。初めて聞く方ですが、声が大変充実していて、姿にも存在感がある。ホヴォロストフスキーのような二枚目タイプではなく、ちょっとこわもてな感じが役にぴったりでした。こういう深い声にはしびれますね。
もう一人アイーダの恋敵を演じる怖い感じのアムネリス役にはオルガ・ボロディナ。勿論歌唱はベテランらしくゆるぎない素晴らしいものでしたが、インタビューで大変参考になることを言っていました。
ボロディナはこの役を30回ほどやっているそうで、オペラに於いて、自分の声に合った役を常に見極めて努めているとの事。つまりは自分が歌うべきものは何か。そういう事をいつも考えているという事です。これはとても大事なことだと思いました。私も常に自分が歌うべき曲を作曲し、唄っていますが、結局自分が唄うべきと思わないと唄えないのです。声質や音域は勿論の事、自分の感性に合うものでないと、とても舞台にかけられない。ボロディナの言葉は実によく納得できました。
一つのフレーズを弾くにも、その背景にある歴史や宗教観、そして心情等々自分なりにどんどんと勉強して、あらゆる角度からアプローチしてみる。そこが無いと、自分の音楽を創って行くことが出来ません。先生の模写ばかりしていても創造性は育まれない。師匠と弟子は違う人間なのですから、違う解釈をして当然なのです。
流派のやり方も継承すべきだと思いますが、流派とは、いわば匂いのようなもの。何を弾いても、ただ座っていても、その佇まいに流派特有の匂いが漂ってこそ、流派の心を会得したと言えるのではないでしょうか。少なくとも上っ面で流派のフレーズをなぞり弾くことではないでしょう。
音を出す前に曲について先ず考える、勉強する。それから音を出して、更にまた考えて勉強して、何度も何度も行きつ戻りつしながら練り直す。師匠はその時々でアドヴァイスを与え、見守り、時間をかけて弟子の持つ感性に基づいた音楽を創って行けるように導く。師匠はそういう勉強の仕方を教え、師匠の大きな目に包まれながら、弟子は創造性を持った一人前の音楽家になって行くのだと私は思っています。
私は教室の看板を挙げていないのですが、優れた音楽家を見ると、その師匠の事が気になります。モナスティルスカは、インタビューで師匠に対し、大変な尊敬と感謝を述べていましたが、さぞかし師匠は優れた指導をしたのでしょうね。上手に歌えるように指導するだけでは、ああは歌えない。多少の技術があっても何も表現は出来ない。表現してゆくことと上手に歌えることは、全く次元の違う話なのです。まだ若い彼女に対し、考え、勉強する道筋を示し、自分のスタイルを確立してゆく事の大切さを教えてあげたのだと思います。
何よりも音楽を創って行ける人材が育ってほしい。舞台に立った以上は芸術家として、自分の音楽を全うする。肩書きキャリア、そういったものは舞台には全く無用です。あくまで一芸術家として掛け値なく堂々と自分の音楽を響かせる。これは芸術の分野ではごく当たり前の事です。私も後進を教える限りは、生徒達が音楽家として、自身の音楽を響かすことが出来るように導いてあげたいと思います。
またまたオペラから色々な想いが広がって行きました。

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久しぶりに黛敏郎作曲の「Bugaku」を聴きました。
凄い。やっぱり凄い。今までにも黛作品は聴いていましたが、改めて聞くと、自分がいかに影響を受けてきたかびしびしと身に刺さるように判ります。武満徹も、黛の後姿を見て独自の世界を作って行ったことを思えば、武満作品を聴いてきた私が、黛作品に心酔しない訳が無いのです。
この曲はバレエ音楽であり、ニューヨーク・シティ・バレエの委嘱によるもの。題名の通り、雅楽の一種、舞楽を徹底的に研究して作られた作品で、ストラヴィンスキーの「春の祭典」を意識した作品ではないかとも言われていますが、その他にも色々な作曲家の要素や手法を感じます。しかしただの物まねやアイデアを借りただけではなく、完璧なまでに黛ワールドが出来上がっている事に、すっかりやられてしまうのです。
黛氏はヴァレーズの提唱した「トーンプレロム」に啓発されたとされます。プレロムとは「そそりたつもの、あるいは植物の柔組織の芯」の事。つまり強くしなやかな芯を持った響き、荘厳さと力に溢れた響き。このプレロマスな逞しい響きこそが黛敏郎の音楽であるといえるでしょう。
これはそのまま私が薩摩琵琶に求めた世界です。今まで黛作品は幾度となく聞いてきたのに、その共通項にはこれまで気付きませんでした。今頃になって、やっと聞こえてきた・・・。この「プレロマス」は私の性格や人間性が求めたということだけでなく、多分に黛作品はじめ、多感な時期に聴いてきたものに影響されて培われてきた感性だと思います。
圧倒的な一音。これを出すために私はギターから薩摩琵琶に持ち替えました。そして従来の薩摩琵琶では飽き足らず、自分の思う音を出すために自分専用のモデルを作ったのです。その理念を具現化したのが私の代表作「まろばし」です。もうあの曲を作ってから10数年が経ちました。確かに年齢と共に私の中も変わってきているし、「まろばし」の意味も深まってきました。けれどあの曲は私の「プレロマス」であり、基本なのです。
私が黛作品に惹かれるのもう一つの点は、その作品の中に色々な要素が入っているところ。彼は、師である橋本國彦氏同様、映画音楽からジャズ、ラテンに至るまで多様な音楽分野で仕事をしていて、学生時代には学費を稼ぐ為にジャズバンドでピアノも弾いていました。この辺が私にとってピンと来るところです。だから様々な表現のヴァリエーションがあるのです。そして更に私が惹かれる所は、彼の民族性への視線です。こういう部分も琵琶を選んだ私にぴったり来ます。
私という存在が今ここに居るのは、この風土に於いて、命の連鎖が一度も途切れることなく綿々と続いて来たからです。そしてその歴史と時間が育んだものは人間だけでなく、音楽や文化も同様。今私が琵琶を手にしているのも、ずっと奈良平安の昔から、日本に於いて琵琶楽が途切れることなく継承されてきたからこそなのです。だからそうした歴史を見ずして私は音楽をやることが出来ない。
きっと黛氏もそうだったのではないかと思います。
どんな国の人でも、その人の生まれ育った風土、その文化と歴史の奥深さや偉大さを感じ、誇りを持っていることでしょう。偉大な風土と文化、そこから生み出された素晴らしい音楽の前にして、肩書きぶら下げ、看板掲げて、自分を誇示しても、それはただの勘違いでしかない。畏敬の眼差しを持っている人なら誰もが判っている事です。
私には黛氏のような右傾化には行きようが無いですが、ただ純粋にこの風土の育んだ音楽・文化に敬意と誇りを持っています。当然歴史にも純粋・冷静な目を持って見ています。そして黛氏の日本の風土と文化、歴史への眼差しから紡ぎだされる音楽は、私を惹きつけてやまないのです。
私は繊細な響きにも惹かれます。しかし私の求める繊細は、決して弱々しいものではなく、静寂・精緻な音の事。たとえ表面が淡い
かすかなものに見えても、その裏側には、存在そのものの、ゆるぎない姿と意思がある、つまりいつも私が言うところの「一音成仏」という事です。繊細というより、静寂という言い方の方が良いでしょうか・・・。
静寂さを持ちながら且つゆるぎない存在感を持って響く音楽、それが私の求める音楽=プレロマスだという事を、「BUGAKU」を聴いて改めて思い至ったのです。そして自分と共通するものも沢山感じました。勿論全てではないし、そのスケールの大きさは、私などとは及ぶべくもないですが、自分の方向を改めて示された感じがしました。
黛氏の音楽を「もう古い」「今の感性ではない」「右よりな思考が駄目」などという人も居ます。確かに今とは社会情勢も違うので、社会と共にあり続ける音楽としては相容れない部分もあるでしょう。しかし和楽器でポップスやって、場を賑やかしているのが「現代っぽい」で良いのでしょうか。日本文化の核として継承されるべき哲学、感性を、形を変えながら受け継いでゆくのが、現代に生きる私たちがやるべき事ではないのではないでしょうか。過去に三島由紀夫が叫んでいたように、「無機的な、からっぽな、ニュートラルな、中間色の、富裕な、抜け目がない、或る経済的大国」が、もう現実に目の前に出現しているのです。現代では経済すら危うい。私たちはこういう状態の中に居るのです。
様々な問題を抱えた現代の日本。この今だからこそ、黛作品にもう一度目を向けてみるのは大切な事ではないかと私は深く深く思うのです。
やっと秋らしくなってきましたね。もう演奏会ラッシュが続いています。色々なタイプの演奏会が目白押しですので、ぜひ聴きに来てください。さて今日は、常々聞かれる「サワリ」の話を書いてみます。
サワリの調整の仕方を教えて欲しいと、よく言われるのですが、なかなかこれを教えるのは難しいのです。
私は琵琶を手にすると、先ずはサワリの調整をしてから弾き始めます。だからのんびり遊び呆けていない限り、ほぼ毎日やっているという事になりますね。先ずはサワリの話の前に、糸口の部分を見てください。


左は私がいつも使っている錦琵琶。右はいわゆるオーソドックスな薩摩琵琶。右の方が糸口がすぼまっているのが判るかと思います。楽琵琶も平家琵琶もこのようにすぼまっています。こういう形だと、弦同士が糸口の象牙の所で触れ合って、より複雑で豊かな響きになるということが以前よりよく言われますが、糸口を広げることで響きが豊かになるという、逆な事を書いているサイトもあります。それぞれ論理的な根拠が書いていないので、どれが本当か判りませんが、そもそも「豊かで良い響きとは何か」それ自体がはっきり定義されていません。個人の好みは結構ですが、自分の思い入れを、理由無く書いているようなものが多すぎますね。論理を持って会話が出来ないと言われる日本人ならではとも言えます。
私は経験的な見地から言って、弦が糸口の所で触れ合う事で、複雑な響きになるという点では同意します。しかし私が思う良い響きとは、倍音が共鳴しあった響きのことで、それを豊かな響きだと思いますので、弦の接触によって生じるいくつかの音の集合は、倍音が共鳴しているものの他に、単なるノイズも伴い、且つ自然な弦振動も妨げられるので、けっして良い響きとは言い切れないと思っています。
そんな訳で、私は薩摩琵琶も樂琵琶も弦同士が触らない幅広タイプにしています。ちょっと写真が小さくて見難いのですが、左の写真のノーマルタイプの樂琵琶(左から二番目)を除く全ての琵琶が幅広になっています。
そして本題の「サワリ」ですが、個人的に色々な人の演奏を聴いて、「サワリ」がしっかり調整されているな、と感じる人は正直少ないです。ちょっとした舞台の前の場合は、出演前に琵琶屋さんに調整してもらい、皆さんそれなりになっていますが、自分でやっていない方が多いように思えてなりません。それは声や唄い方とどうにもしっくり合ってないからです。名の知れた演奏家でも「サワリ」の調整があいまいな人も見かけますし、中には駒(フレット)の上に糸筋が幾重にもついたままで、黒ずんでろくに手入れしていないのが見え見えな方もいらっしゃいます。まあ人それぞれですな。
薩摩琵琶の場合は弾き語りが前提なので、声質や唄い方に合わせて、渋めの音色にしたり、音伸びを調節したりするのですが、せめて一番主となる一の糸(私の場合は三の糸)の調整が出来ていないと、唄とはしっくりきませんね。
サワリの調整には、色々な技術が必要になります。時には駒を一度取り外して、高さを調節したり、駒自体を自分で作らなければなりません。駒を削れば当然低くなってしまいますので、一つだけ調整しても、他の駒との高さのバランスが悪くなって、まともに音が出ません。各駒の高さのバランスは「サワリ」以上に大変重要で、この調整が出来ていないと、サワリの調整をしても意味が無いのです。
その人の撥捌きの具合と使っている弦によって、弦振動の幅が違います。例えば太い弦を張って、強めに弾く人は弦振動の幅が大きい。そういう人は駒と弦の間を最初から大きくとっていないと、弾いた時に弦が駒に当たって振動が邪魔され、音がベコベコとつぶれてしまいます。
サワリと共に駒の高さの調整が出来ていない演奏家も良く見かけますが、そんな状態で舞台で出る事は私には考えられないですね。
私は幸いに、そういう調整技術を一から教えてもらいました。ノミの研ぎ方、膠の溶き方、木材の目の見方、仕上げの仕方等々本当によく教わりました。これを教わらなかったら、今の私は無いでしょう。T師匠には大変感謝しています。
そして先ずサワリを調整するにも、自分がどういう音楽をやりたいか、どんな音が欲しいかがはっきりしないと調整は上手く行きません。私は器楽の楽器として琵琶を捉えているので、薩摩琵琶に関しては、サワリがギュンギュン伸びるように設定してあります。つまり弾き語りには向きません。逆に弾き語りを前提にしている人の琵琶では、私の曲はとても弾けません。
琵琶は一見シンプルな構造ですが、その調整の仕方は千差万別。元々琵琶の音域はその人の声の音域に合わせているので、自分の声と同じと思えば、一人一人違って当たり前なのです。自分の出すべき音を出している琵琶の音は、弾いている本人がしゃべっているように聞こえてきます。
音色を渋めにするには、駒の上面をほんの少し丸目にするし、派手な感じにするにはぴったり合わさるようにします。伸ばすには、ほんの少しブリッジ側を開けてやるといいのですが、この加減は言葉では表現できませんね。糸口の部分も同じなのですが、わずかに真中に削りを入れてやると、音に唸りが出て来ます。また太目の弦の場合は更にコツがあります。しかしこれらをいくら言葉で書いてもなかなか伝わりません。こればっかりは目の前で見せてやらないと判らないですね。
歌手が自分の声を練り上げるように、ギタリストが音色に拘るように、琵琶奏者も自分の音を日々追及しているのです。それこそが命なのですから。
先週末は、小金井の浴恩館公園で野外コンサートをやってきました。
ここは木々に囲まれ、秋の風情ばっちりのシチュエーション。野外で、しかもノーマイクなのですが、声は四方に響き渡り、気持ち良く弾き語りの演奏が出来、ラストは平家物語の「月見」を題材とした「秋月賦」でしめてきました。
次の日は向島見番にて、江戸手妻の藤山先生の舞台を務めてきました。HP:http://mukoujima-kenban.com/syashinkan_0.html
都内の見番はどんどんと姿を消し、以前何度か長唄さんとの稽古で使った赤坂の見番も無くなり、今残っているのはこの向島と浅草、あと神楽坂に小さなものがある位でしょうか。幸い、ここは舞台も広く、お客様も100名位は楽に入るでしょうか。赤坂金龍の舞台をもっと大きくしたような感じでした。今回のお客様は海外の皆さんでしたので、英語の通訳付きで和文化を楽しんでもらいました。秋風を感じる一日、こういう企画も良いですね。
音楽を聴くにはシチュエーションというものが大きく作用します。私はいい場所で演奏をさせてもらう事が多く、大変ありがたいのですが、そんな場所の持つ魅力に自分がどう反応してゆくか、こういうパーフォーマーとしての力量がとても重要という事を最近は良く感じています。
先ずはクォリティーの高い作品を作ることが大事なのですが、良いものを作れば自然と売れる、なんてのはアマチュアの発想。そんな悠長なことでは音楽は聞いてもらえない。作品はとにかく何度も演奏されるべきだし、やる以上は、なるべく良いシチュエーションで発表しないと伝わらない。先日の市ヶ谷ルーテル教会ホールは、意外な組み合わせでパイプオルガンをバックに弾きましたが、とても素敵な空間が生まれました。
場所、季節、演目、メンバー、舞台演出etc.それらすべてが相まって聴衆に届くのです。だからステージングや所作という事にもこだわるし、衣装にもこだわる。
その場と音楽に合わせ、着物の色を変えたり、洋服にしたり、曲順から、MCに至るまで考えて、よりよく私の音楽が届くように演奏会をやるのです。それが演奏家の務めだと思っています。
音楽から、音だけが切り離されて行ったのは、レコードが開発されてからでしょう。確かにテープでもレコードでもCDでも、演奏会に行かずして音楽が聴けるというのは良い事だと思いますし、私もそう思ってCDを出しているのですが、音楽というのは本来、耳でなく、五感全てで味わっ
てもらうものです。以前も書きましたが、古楽の波多野睦美さんを初めて聞いた時、私はその声が耳でなく、皮膚が感じるような感覚に襲われました。波多野さんの声は確かに、私の体を包み込むように、会場全体に満ちていた。あの感じは、生演奏に直に触れなければ体験できないでしょう。勿論その時の聴く側の気持ちもあるでしょうし、響きの違う場所で聴けば、当然その音楽はまた別物となって聞こえてきますが、それだけ音楽を聴くという事は、場所の持つ力も含めて、五感全てが敏感に反応し、伝わってくるものだと思います。
私はCDやLive viewingを否定している訳ではありません。私を音楽に導いてくれたのはレコードだし、私の感性を育ててくれたのもレコードです。ジミヘンに感激して、ジェフべックに感動して、マイルスに心酔して、コルトレーンに熱狂した私の少年時代は、すべてレコードでした。でも音楽をやればやるほど、生演奏の一期一会の素晴らしさが身に沁みてきたのです。
なるべく自分の音楽が最適な環境で提供されるような場所で、これからも演奏していきたいと思っています。
皆さんに琵琶の妙なる音を耳で聴いて、目で姿を見て、肌で感じて、演奏会全てを味わってもらいたい。音楽をゆっくりと、たっぷりと聴いてもらえるように、これからもふさわしいシチュエーションでなるべくやれるようにしたいです。
良い季節に、素敵な場所で、魅力ある音楽をぜひ聞いてください。この秋は和歌山・新潟での公演の他、10月19日は北鎌倉古民家ミュージアムにて、毎年恒例のReflectionsの演奏会「おとずれる秋を聴く」もあります。こちらも素晴らしいシチュエーションですので、ぜひぜひご贔屓に!!
少し前になりますが、Met Live viewing「仮面舞踏会」を観てきました。
たっぷりと堪能しましたよ。私の大好きなバリトン ディミトリ・
ホロフトフスキーが何といっても格好良かったです。独特の発声法による図太い声、ゆるぎない凛とした姿。実にすばらしい!!

そして今回は、圧倒的なメゾソプラノ ステファニーブライス(写真右)が凄い。凄い!。声量・太さ・歌唱力がずば抜けているのは勿論なんですが、出てきただけで場をかっさらってしまう存在感は、観ていて気持ち良いです。ぜひホロフトフスキーと共に生の声を聴きたいです。
ホロフトフスキーのアリア
ストーリーは実際にスウェーデンで起きた事件を元にしているのですが、ヴェルディらしい、人間心理を巧みに描いた作品です。前回見た「ジョコンダ」と違うのは、場面のヴァリエーションが豊富な所でしょうか。さすがに人気の高い演目だということが判ります。また各出演者がソロで歌うアリアも素晴らしいのですが、重唱になる部分もいくつもあり、そのアンサンブルの見事さにも感激でした。さすがに世界の一流。選ばれし者達です!そしていつもながらMetは観せ方、魅せ方が上手い!心得てますな。
他の出演者では、王グスタヴ役のテノール マルセロ・アルヴァレスも良い声をしているし、三角関係で悩む
人妻アメーリア役のソンドラ・ラドヴァノフスキーもヴェルディ作品では有名なだけに、大変レベルが高く、聴きごたえがありました。また今回はグスタヴの従者オスカル役をやったキャスリーン・キム(写真左)がナイスキャラでいい感じでした。いわゆるズボン役なのですが、男か女か判らないキャラ設定が小柄な彼女にぴったり。映像ではこんな感じでした。勿論歌唱の方も素晴らしい技術で、演技の方も秀逸でした。
やっぱりオペラは華やかです。邦楽でもぜひこの華やかさが欲しいですね。お祭り的なただその場を盛り上げるだけのものではなく、その魅力に日本人のみならず、世界の人々が惹きつけられるような、華やかで且つクォリティーの高い舞台がもっと沢山生まれて欲しい。邦楽には今変化が求められていることは確実だと思います。
残念ながら邦楽全体には、素晴らしい曲をどう聞かせ・観せるかという「プロデュース」という意識が低過ぎる。未だに上手とか、正当とか、そんなお稽古事レベルの競争をして、小さな村に閉じこもっている。
世の中は常に変化しているのですから、今や世間の誰からも理解されないような慣習・やり方はもう変えましょう。世の中と共にあるのが音楽の使命ではないですか!。古典(似非古典ではなく)を勉強し、その土台を持って、現代の日本音楽の舞台を創造しよう!!
それにしても、こういう素敵な舞台を観終わった後は、気持ち良いですね。私もこういう仕事をしてみたい。私が出来ることは限られていますが、広い視野と大きな
器を持ったプロデューサーとぜひ一緒に組みたいですね。オペラの真似をするのではなく、あくまで我々独自のやり方で、世界に発信できるよう
な音楽・舞台に関わって行きたいものです。